前回、および前々回のブログでは、認知症高齢者の「本人の意思」について、「意思能力」を判断する具体的な方法、および介護に必要な様々な行為(直接行為)などを実施する際の対応について提示してきました。そして、認知症高齢者の「本人の意思」は気分や状況などに応じて「その場、その時で変わりやすい」ことや「合理性や蓋然性に乏しい」こと、また「本人の意思」を尊重する際には「個々の意思能力の程度に応じて尊重する」ことが適切であることを解説しました。
認知症高齢者であるかどうかにかかわらず、介護に必要な様々な行為(直接行為)を実施する際に「その場、その時」で「本人の同意」が得られるならば適切な介護を円滑に提供できることは述べるまでもありません。したがって、今回のブログ「説明と同意」では「本人の同意を得るための説明」あるいは「本人の同意が得られやすい説明」について考えてみたいと思います。
施設への入所を含め、介護に必要な様々な行為(直接行為)は本人の健全な日常生活を維持するために実施される介入行為(保護行為)ですが、特に認知症高齢者の介護においては「意思能力」が不十分であることが原因となり、様々な場面で介護への抵抗や拒否がみられる場合が少なくありません。「本人の意思を尊重しながら」あるいは「本人の同意を得ながら」適切な介護を展開するためには、認知症高齢者の「意思能力」や「性格」「生活歴」などに配慮した「説明と同意」を行うための知識や技術、経験などが求められます。
しかしながら、認知症高齢者の介護の現場においては、介護に必要な様々な行為(直接行為)が「説明」を省略して何気なく行われている場面を目にすることがあります。時には「上から目線」の「指示」や「指図」「命令」とも思える言動に遭遇することもあります。さらに「本人には何の断りもなく」機械的な直接行為が日常的に行われている悲しい実態も見受けられます。このような場合、認知症高齢者の「本人の意思」を尊重する意識が全く欠けていると指摘されても仕方がないと思います。その背景には「認知が進んでいるから」あるいは「認知がひどいから」「何度説明しても理解してもらえないから」「説明しても無駄だから」「忙しいから」などのような何らかの「言い分」があるのかも知れませんが、とにかく大変残念なことです。「説明と同意」は、認知症高齢者に限らず、「一言声を掛ける」あるいは「笑顔や会釈など、何らかの挨拶をする」ことから始めていただければ十分だと思うのですが。
今回のブログのテーマである「説明と同意」については、「意思能力の程度に応じた説明と同意」つまり「知的機能の障害の程度に応じた説明と同意」に言及したいと思っていますが、まずは「同意を得るための説明」あるいは「同意が得られやすい説明」について考えるために様々な見解を検索することにしました。
その結果、「説明」という言葉の類義語の「説得」という言葉に関して「説明とは説いて明白にすること。説得とは説いて得を諭すこと。説明の先には理解がある、説得の先には納得がある。説明は自分中心でも一方通行でもできる。説得は相手のことを知ったうえで相手の立場にならないとできない。説教とは理由づけを明確にして相手に教え諭す説明である。」という記述を目にすることができました。
また、「説明とは相手の理解を求めること、意思を伝えることであり、説得とは相手の行動を求めること、意思が伝わること」という記述や、「説得で大切なことは、相手の感情に配慮しつつ、論理だけではなく感情面が占めるウエイトを意識しながら、相手の気持ち(意思)に共感しつつ自分の気持ち(意思)を伝えること」「説明は論理が100%、感情が0%であるのに対して、説得は論理が40%、感情が60%であるとイメージすれば良い」「説得の本質とは『わからせる』ことであり、納得のそれは『わかる』こと。納得は自分の意思で結論づけたものなので、強い満足感が得られる」という記述が目に留まりました。
このような記述から、脳のはたらき(知的機能)からみた「同意を得るための説明」あるいは「同意を得やすい説明」とは、左脳が担う「知」(理性)に働きかける説明ではなく、右脳が担う「知」(感性)に働きかける説得であること、さらに大脳辺縁系が担う「情」(情動)に働きかける納得である、という結論に辿り着きました。
つまり、『認知症高齢者の大多数においては前頭葉が担う「意」の障害や左脳(理性)が担う「知」の障害が認められる一方、右脳が担う「知」(感性)や大脳辺縁系が担う「情」(情動)の機能は認知症の終末期まで保持されている』という知見を念頭に置いて、このブログ「誰も知らない認知症」で解説してきた「受容と共感」(受容的共感的対応)や「なじみの場づくり」を意識することが「同意を得るための説明」あるいは「同意が得られやすい説明」を行うための重要なポイントであると考えられます。(次回のブログに続く)


認知症高齢者であるかどうかにかかわらず、介護に必要な様々な行為(直接行為)を実施する際に「その場、その時」で「本人の同意」が得られるならば適切な介護を円滑に提供できることは述べるまでもありません。したがって、今回のブログ「説明と同意」では「本人の同意を得るための説明」あるいは「本人の同意が得られやすい説明」について考えてみたいと思います。
施設への入所を含め、介護に必要な様々な行為(直接行為)は本人の健全な日常生活を維持するために実施される介入行為(保護行為)ですが、特に認知症高齢者の介護においては「意思能力」が不十分であることが原因となり、様々な場面で介護への抵抗や拒否がみられる場合が少なくありません。「本人の意思を尊重しながら」あるいは「本人の同意を得ながら」適切な介護を展開するためには、認知症高齢者の「意思能力」や「性格」「生活歴」などに配慮した「説明と同意」を行うための知識や技術、経験などが求められます。
しかしながら、認知症高齢者の介護の現場においては、介護に必要な様々な行為(直接行為)が「説明」を省略して何気なく行われている場面を目にすることがあります。時には「上から目線」の「指示」や「指図」「命令」とも思える言動に遭遇することもあります。さらに「本人には何の断りもなく」機械的な直接行為が日常的に行われている悲しい実態も見受けられます。このような場合、認知症高齢者の「本人の意思」を尊重する意識が全く欠けていると指摘されても仕方がないと思います。その背景には「認知が進んでいるから」あるいは「認知がひどいから」「何度説明しても理解してもらえないから」「説明しても無駄だから」「忙しいから」などのような何らかの「言い分」があるのかも知れませんが、とにかく大変残念なことです。「説明と同意」は、認知症高齢者に限らず、「一言声を掛ける」あるいは「笑顔や会釈など、何らかの挨拶をする」ことから始めていただければ十分だと思うのですが。
今回のブログのテーマである「説明と同意」については、「意思能力の程度に応じた説明と同意」つまり「知的機能の障害の程度に応じた説明と同意」に言及したいと思っていますが、まずは「同意を得るための説明」あるいは「同意が得られやすい説明」について考えるために様々な見解を検索することにしました。
その結果、「説明」という言葉の類義語の「説得」という言葉に関して「説明とは説いて明白にすること。説得とは説いて得を諭すこと。説明の先には理解がある、説得の先には納得がある。説明は自分中心でも一方通行でもできる。説得は相手のことを知ったうえで相手の立場にならないとできない。説教とは理由づけを明確にして相手に教え諭す説明である。」という記述を目にすることができました。
また、「説明とは相手の理解を求めること、意思を伝えることであり、説得とは相手の行動を求めること、意思が伝わること」という記述や、「説得で大切なことは、相手の感情に配慮しつつ、論理だけではなく感情面が占めるウエイトを意識しながら、相手の気持ち(意思)に共感しつつ自分の気持ち(意思)を伝えること」「説明は論理が100%、感情が0%であるのに対して、説得は論理が40%、感情が60%であるとイメージすれば良い」「説得の本質とは『わからせる』ことであり、納得のそれは『わかる』こと。納得は自分の意思で結論づけたものなので、強い満足感が得られる」という記述が目に留まりました。
このような記述から、脳のはたらき(知的機能)からみた「同意を得るための説明」あるいは「同意を得やすい説明」とは、左脳が担う「知」(理性)に働きかける説明ではなく、右脳が担う「知」(感性)に働きかける説得であること、さらに大脳辺縁系が担う「情」(情動)に働きかける納得である、という結論に辿り着きました。
つまり、『認知症高齢者の大多数においては前頭葉が担う「意」の障害や左脳(理性)が担う「知」の障害が認められる一方、右脳が担う「知」(感性)や大脳辺縁系が担う「情」(情動)の機能は認知症の終末期まで保持されている』という知見を念頭に置いて、このブログ「誰も知らない認知症」で解説してきた「受容と共感」(受容的共感的対応)や「なじみの場づくり」を意識することが「同意を得るための説明」あるいは「同意が得られやすい説明」を行うための重要なポイントであると考えられます。(次回のブログに続く)

