goo blog サービス終了のお知らせ 

誰も知らない認知症;脳のはたらき(知的機能)からみた老人性認知症の予防と介護

老人性認知症の確実な予防方法と認知症高齢者の適切な介護方法をシリーズで解説します。

85 説明と同意(1)

2020-06-10 19:02:03 | 日記
 前回、および前々回のブログでは、認知症高齢者の「本人の意思」について、「意思能力」を判断する具体的な方法、および介護に必要な様々な行為(直接行為)などを実施する際の対応について提示してきました。そして、認知症高齢者の「本人の意思」は気分や状況などに応じて「その場、その時で変わりやすい」ことや「合理性や蓋然性に乏しい」こと、また「本人の意思」を尊重する際には「個々の意思能力の程度に応じて尊重する」ことが適切であることを解説しました。
 認知症高齢者であるかどうかにかかわらず、介護に必要な様々な行為(直接行為)を実施する際に「その場、その時」で「本人の同意」が得られるならば適切な介護を円滑に提供できることは述べるまでもありません。したがって、今回のブログ「説明と同意」では「本人の同意を得るための説明」あるいは「本人の同意が得られやすい説明」について考えてみたいと思います。

 施設への入所を含め、介護に必要な様々な行為(直接行為)は本人の健全な日常生活を維持するために実施される介入行為(保護行為)ですが、特に認知症高齢者の介護においては「意思能力」が不十分であることが原因となり、様々な場面で介護への抵抗や拒否がみられる場合が少なくありません。「本人の意思を尊重しながら」あるいは「本人の同意を得ながら」適切な介護を展開するためには、認知症高齢者の「意思能力」や「性格」「生活歴」などに配慮した「説明と同意」を行うための知識や技術、経験などが求められます。
 しかしながら、認知症高齢者の介護の現場においては、介護に必要な様々な行為(直接行為)が「説明」を省略して何気なく行われている場面を目にすることがあります。時には「上から目線」の「指示」や「指図」「命令」とも思える言動に遭遇することもあります。さらに「本人には何の断りもなく」機械的な直接行為が日常的に行われている悲しい実態も見受けられます。このような場合、認知症高齢者の「本人の意思」を尊重する意識が全く欠けていると指摘されても仕方がないと思います。その背景には「認知が進んでいるから」あるいは「認知がひどいから」「何度説明しても理解してもらえないから」「説明しても無駄だから」「忙しいから」などのような何らかの「言い分」があるのかも知れませんが、とにかく大変残念なことです。「説明と同意」は、認知症高齢者に限らず、「一言声を掛ける」あるいは「笑顔や会釈など、何らかの挨拶をする」ことから始めていただければ十分だと思うのですが。

 今回のブログのテーマである「説明と同意」については、「意思能力の程度に応じた説明と同意」つまり「知的機能の障害の程度に応じた説明と同意」に言及したいと思っていますが、まずは「同意を得るための説明」あるいは「同意が得られやすい説明」について考えるために様々な見解を検索することにしました。
 その結果、「説明」という言葉の類義語の「説得」という言葉に関して「説明とは説いて明白にすること。説得とは説いて得を諭すこと。説明の先には理解がある、説得の先には納得がある。説明は自分中心でも一方通行でもできる。説得は相手のことを知ったうえで相手の立場にならないとできない。説教とは理由づけを明確にして相手に教え諭す説明である。」という記述を目にすることができました。
 また、「説明とは相手の理解を求めること、意思を伝えることであり、説得とは相手の行動を求めること、意思が伝わること」という記述や、「説得で大切なことは、相手の感情に配慮しつつ、論理だけではなく感情面が占めるウエイトを意識しながら、相手の気持ち(意思)に共感しつつ自分の気持ち(意思)を伝えること」「説明は論理が100%、感情が0%であるのに対して、説得は論理が40%、感情が60%であるとイメージすれば良い」「説得の本質とは『わからせる』ことであり、納得のそれは『わかる』こと。納得は自分の意思で結論づけたものなので、強い満足感が得られる」という記述が目に留まりました。

 このような記述から、脳のはたらき(知的機能)からみた「同意を得るための説明」あるいは「同意を得やすい説明」とは、左脳が担う「知」(理性)に働きかける説明ではなく、右脳が担う「知」(感性)に働きかける説得であること、さらに大脳辺縁系が担う「情」(情動)に働きかける納得である、という結論に辿り着きました。
 つまり、『認知症高齢者の大多数においては前頭葉が担う「意」の障害や左脳(理性)が担う「知」の障害が認められる一方、右脳が担う「知」(感性)や大脳辺縁系が担う「情」(情動)の機能は認知症の終末期まで保持されている』という知見を念頭に置いて、このブログ「誰も知らない認知症」で解説してきた「受容と共感」(受容的共感的対応)や「なじみの場づくり」を意識することが「同意を得るための説明」あるいは「同意が得られやすい説明」を行うための重要なポイントであると考えられます。(次回のブログに続く)






84 本人の意思(2)

2020-05-20 18:44:09 | 日記
 今回のブログでは、認知症高齢者の「意思能力の程度」を判断した場合に「本人の意思」にどのように対応すれば良いのか、「意思能力の程度に応じた対応」について考えてみたいと思います。また、介護の現場において認知症高齢者の「意思能力の程度」を簡便かつ的確に判断する「超簡易判定」を提示したいと思います。

 成年後見制度における後見人等(成年後見人、保佐人、補助人)の選定は、その判断の根拠はともかく、認知症高齢者の「判断能力の程度」によって決定されます。また、成年後見制度は主に財産管理などに関する法律行為を定めたもので、介護に関連する行為としては「身上監護」(入退所に関する手続きなど、生活や療養に関する事務行為)が明記されているものの、介護に必要な様々な行為(直接行為)、入退所そのものに関する行為、身体拘束に関する行為、選挙(不在者投票)に関する行為などについては定められていません。
 しかしながら、今回のブログのテーマである認知症高齢者の「意思能力の程度に応じた対応」については、成年後見制度における後見人等に与えられている代理権や同意権、取消権などの権限やその権限に応じた職務を参考にしながら考えてみたいと思います。このブログでは、これらの権限や職務の一部である代理権と同意権に着目したいと思いますが、成年後見人には代理権が与えられ、本人の意思(同意)はともかく、成年後見人の意思が認められます。一方、保佐人には同意権が与えられ、本人の意思に加えて保佐人の意思が認められます。そして、補助人には、特定の行為に限定した範囲で、本人の意思に加えて補助人の意思も認められます。ただし、これらの代理権や同意権は「重要な財産行為に限られた権利」についての同意であり「日常生活における様々な行為」についての同意ではありません。また、後見人等の権限や職務に関しては、全ての法律行為ではなく、意思表示の対象ごとに判断しなければならないと定められています。このような背景を念頭に置きながら、介護に必要な様々な行為(直接行為)などについては「成年後見制度に定められている権限や職務に準じて「本人の意思」を尊重しながら実施することが適切ではないかと思われます。

 前回のブログにおいて、このブログでは認知症高齢者(老化廃用型認知症)における知的機能の障害の進行度を「正常;年齢相応」を含めて「初発期;小ボケ」「境界期;中ボケ」「進行期;大ボケ」の4段階に分類し、成年後見人の選定の指標を提示するとともに「生活年齢」や「生活実態」などから「意思能力の程度」を判断しても支障がないと解説してきました。
 したがって、「進行期」(成年後見人の選定に相当するレベル)の認知症高齢者の本人の意思については「尊重しすぎずに」、「境界期」(保佐人の選定に相当するレベル)の認知症高齢者の本人の意思については「ある程度は尊重して」、「初発期」(補助人の選定に相当するレベル)の認知症高齢者の本人の意思については「基本的には尊重して」、それぞれに応じた「一定の説明と同意」を前提として、介護に必要な様々な行為(直接行為)などを実施することが適切ではないかと考えています。

 「尊重しすぎずに」「ある程度は尊重して」「基本的には尊重して」という表現が具体性に欠けていることは十分承知していますが、乳幼児を託児所や保育園に預ける場合や日常の育児において、乳幼児の「本人の意思」をどの程度まで尊重するのか、ということを想定してみればイメージしやすいのではないかと思います。ちなみに、一般的には10歳未満の幼児には「意思能力」がないとされているようです。当然のことながら、認知症高齢者と乳幼児の「意思能力」が同じレベルであるとしても、認知症高齢者には知識や経験、プライドなどが残されていることを忘れてはいけません。しかし、残された知識や経験、プライドなどが「意思能力」を補う場合もあれば、「意思能力」を損なう場合も決して少なくないという、悩ましい現実を知っておくべきです。また「一定の説明と同意」という表現も具体性に欠けていると思いますが、「意思能力の程度に応じた説明と同意」、つまり「知的機能の障害の程度に応じた説明と同意」については別の機会に書き述べたいと思います。

 一方、介護施設の職員は、認知症高齢者の保護者ではなく成年後見人や保佐人、補助人でもありません。一定の契約関係の下で介護を中心とした保護業務を委託されているに過ぎません。したがって、認知症高齢者に介護に関する様々な行為(直接行為)などを提供する施設の職員は、予め個々の認知症高齢者の「意思能力の程度」を的確に把握して全ての職員が共有するとともに、認知症高齢者の保護者として位置付けられる家族等に対して「本人の意思をどの程度尊重すべきなのか」あるいは「本人の意思にどのように対応すれば良いのか」ということについて、例えば帰宅行為時の対応や入浴拒否時の対応など、できるだけ具体的な場面を想定して事前に話し合っておく必要があると思われます。

 今回のブログでは、認知症高齢者の介護に必要な様々な行為(直接行為)などを実施する際の「意思能力の程度に応じた対応」について解説してきましたが、最後に、介護の現場において認知症高齢者の「意思能力の程度」を簡便かつ的確に判断する「超簡易判定」を、下記のとおり、提示しておきたいと思います(認知症高齢者の日常生活自立度分類も参考にしてください)。

 ① 日付(日・年・月)の全てが正しく答えられる場合
   (認知症高齢者の日常生活自立度「Ⅱa以上」に相応する場合)
   → 本人の意思を「基本的には尊重して」対応する
 ② 日付(日・年・月)のうち、「月」だけは正しく答えられる場合
   (認知症高齢者の日常生活自立度「Ⅱb」に相応する場合)
   → 本人の意思を「ある程度は尊重して」対応する
 ③ 日付(日・年・月)のうち、「月」も正しく答えられない場合
   (認知症高齢者の日常生活自立度「Ⅲa」以下)に相応する場合)
   → 本人の意思を「尊重しすぎずに」対応する



 このブログの読者の皆様には、日々の介護の現場で上記の「超簡易判定」を実践していただき、その有用性についてのご感想やご意見、ご批判をいただければ幸いです。
 また、認知症高齢者の「本人の意思」に興味や関心を持っていただいた読者の皆様には、厚生労働省の「認知症の人の日常生活・社会生活における意思決定支援ガイドライン」(平成30年6月)を紹介させていただきたいと思います。ただし、あまり熟読しないほうが良いと思っていますが ・・・ 。



83 本人の意思(1)

2020-05-13 19:02:27 | 日記
 昨年8月のブログ「71 和田行男氏のブログ〔2018/08/25〕」において、読者の方々に「是非とも立ち寄っていただきたいブログ」として「和田行男氏のブログ/和田行男の婆さんとともに」〔 https://www.caresapo.jp/senmon/blog-wada 〕をご紹介しました。
 今回、4月24日のブログ「むずかしいなぁ」を閲覧した時から気になっている、認知症高齢者の「本人の意思」について考えてみたいと思います。

 認知症高齢者の施設入所に際しては、おそらくほとんどの介護老人保健施設の入所判定会議において「施設に入所してもいい」という「本人の意思」を確認されていると思います。そして、何らかの理由で「施設に入所してもいい」という「本人の意思」が確認できない場合には、「入所させたい」という「家族等(家族などのキーパーソン)の意思」に基づいて入所を決定しておられることと思います。また、その際には、家族等を「自分で判断することが出来ない人の保護者」であると位置付けることが介護関係者の常識であり、社会一般の常識になっていると思われます。今回のブログでは、この介護関係者の常識や社会一般の常識の問題点には敢えて触れずに、「施設に入所してもいい」という「本人の意思」をどのように判断すればよいのか、ということについて書き述べていきたいと思います。

 「施設に入所してもいい」という「本人の意思」が確認された場合、認知症高齢者であるかどうかはともかく、「施設に入所していただく(入所させる)ことにどんな問題があるのだ」と疑問を持つ方もおられると思います。しかし、MMS得点(左脳が担う認知機能/言語性知能)が10点~20点レベルの認知症高齢者の一部において、家族や関係者が「施設に入所してもいい」という「本人の意思」を何度も確認したのに、実際に入所されてから「そんなことを言った覚えはない」「今すぐ家に帰らせて欲しい(施設に入所したくない)」という「本人の意思」を強く主張される方が決して珍しくありません。このような場合、「今すぐ家に帰らせて欲しい」という「本人の意思」を尊重して速やかに退所していただくべきかどうか、皆さんならどうされますか? どう思われますか?

 認知症高齢者に限らず、他害行為や自傷行為については「本人の意思」は尊重されることはなく、どのような事情があったとしても何らかの社会的制約を受けることになります。一般的にも、また法的にも「他者を害する場合」や「生命や財産など、本人にとって見過ごすことのできない重大な影響(不利益)が生ずる場合」には「本人の意思」は必ずしも尊重されないのです。また、そのような場合には、尊重したことによる責任を問われる場合もあるのです。「本人の意思」を尊重すべきかどうかについては一般的に本人の判断能力や責任能力などに応じて判断されているのですが、認知症高齢者の介護の現場ではどのように判断すれば良いのでしょうか?

 認知症高齢者であるかどうかにかかわらず、「本人の意思」は最大限に尊重されるべきものであることは言うまでもありませんが、「本人の意思」とは「その場、その時の意思」であることを知っておくことが必要です。このブログの賢明な読者の方々には、「自分の意思」とは実は「その場、その時の意思」であることに容易に気付いていただけると思います。つまり、「本人の意思」や「自分の意思」は「その場、その時に応じて変わるもの」なのです。そして、「どの場、どの時でも変わらない意思」とは「合理性や蓋然性のある(辻褄が合う)意思」であると言い表すことができると思います。

 脳のはたらき(知的機能)からみた「意思」とは「意」(前頭葉)によって決定される心的機能です。そして、知的機能のネットワーク(脳は1つの脳)の視点からみると、「意思」は「知」(左脳/右脳)と「情」(大脳辺縁系)によって決定される心的機能であると考えられ、特に「情」が中心的な役割を担っていると思われます。つまり、多くの場合、「快/不快」の情動によって「意思」は変わるのです。一方、「どの場、どの時でも変わらない、合理性や蓋然性のある意思」は、「情」よりも「知」特に「左脳が担う知」(理性)が中心的な役割を担っていると思われます。「むずかしいなぁ」と言わないで下さい。敢えて極端な言い方をすれば、動物の意思はコロコロ変わるけれど、人間の意思はコロコロ変わらないということなのです(良くも悪くも)。特に「理性的な人」や「本音より建前を優先する人」「頭の固い人」の意思は余程のことがない限り変わりません。
 脳のはたらき(知的機能)からみた「認知症高齢者」とは、「意」に加えて「知」特に左脳が担う「知」に障害が認められ、日常生活や人間関係(自己を含めた)に何らかの支障が認められる高齢者です。したがって、認知症高齢者の「本人の意思」は「どの場、どの時でも変わらない、合理性や蓋然性のある意思」であることは少なく、「快/不快」の情動を受けやすい意思であり、合理性や蓋然性に乏しい意思」であることが多いのです。また、当然のことながら、脳のはたらき(知的機能)の障害の程度だけではなく、性格や生活歴などが「本人の意思」に与える影響も考慮する必要があります。

 知的機能の障害を有する認知症高齢者の「本人の意思」を尊重する場合に大切なことは、認知症高齢者の意思は気分や状況などに応じて変わりやすいことを認識しておくこと、そして個々の認知症高齢者の「意思能力」(意思決定能力)の程度を的確に判断することです。
 このブログでは「意思能力」を「判断能力や責任能力、日常生活能力、日常生活自立度などを総合的に反映する能力」であると言い表したいと思います。そして「意思能力の程度」については「浜松2段階方式を用いて評価する老化廃用型認知症の進行度分類」に基づいて評価することが最も簡便かつ的確であると考えています。また、介護に必要な様々な行為(直接行為)や施設の入退所、身体拘束、選挙(不在者投票)、成年後見制度における後見人等(成年後見人、保佐人、補助人)の選定などに際して「本人の意思」を確認する場合には、「一定の説明と同意」を前提として、知的機能の障害の進行度に相応する「生活年齢」や「生活実態」などから「意思能力の程度」を判断しても支障がないと考えています(下図参照)。







 今回のブログでは、認知症高齢者の「本人の意思」を確認する場合には、本人の「意思能力の有無」という単純な視点ではなく「意思能力の程度」に目を向け、それを具体的に判断しておくことが必要である、ということを強調しておきたいと思います。次回のブログでは、認知症高齢者の「意思能力の程度」を判断した場合、「本人の意思」にどのように対応すれば良いのか、「意思能力の程度に応じた対応」について考えてみたいと思います。


82 徒然なるままに

2020-04-12 10:55:33 | 日記

 今回のブログのテーマは「徒然なるままに」です。本業(介護老人保健施設の施設長)はそれなりに多忙な毎日が続き、決して手持ち無沙汰で退屈な毎日を過ごしているわけではありません。しかし、「脳のはたらきからみた認知症」については、言いたいことは言い尽くし、書きたいことは書き尽くしたのではないかと感じています。つまり、手持ち無沙汰で退屈な状態に陥っている今日この頃です。

 このブログ「誰も知らない認知症」を始めたのは2018年4月20日、近々3年目を迎えることになります。また、拙著「脳のはたらきからみた認知症-予防と介護の新しい視点-」(真興交易㈱医書出版部)が出版されたのは2015年11月30日、今年の11月には出版5周年を迎えることになります。さあて、これからどうしましょうか ・・・ 。

 「 つれづれなるままに、ひぐらし硯にむかひて、心にうつりゆく よしなしごとを そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ 」

 そのような心境で、このブログ「誰も知らない認知症」や拙著「脳のはたらきからみた認知症」を読み返しながら、その時に浮かんでは消えるとりとめもないことを、これといったつもりもなく、徒然なるままに書き述べていきたいと思っています。


 今回のブログでは「脳のかたちからみた認知症」と「脳のはたらきからみた認知症」を対比した図表を再掲しておきたいと思います。






81 長谷川先生が認知症

2020-03-14 16:21:37 | 日記
 お久しぶりです。春眠暁を覚えず ・・・ 十勝ではしばらく体感できそうもありませんが、目覚めの季節が近付いてきたようです。

 さて、今回のブログのタイトルは「長谷川先生が認知症」としましたが、このブログ「46 長谷川先生が認知症?」(2018/11/28)のタイトルとは微妙に異なることに気付かれた読者の方々も少なくないと思います。今回は「長谷川先生が認知症?」ではなく「長谷川先生が認知症」であり、「?」を消してしまう必要があったのです。今回のブログのサブテーマは「医学的論理」と「社会的論理」「政治的論理」です。

 今年の春の「新型コロナウイルスの感染拡大による全世界的なパニック」は誰も予想できなかったと思います。クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス号」が「培養船」となってしまった背景に目を向けると、「医学的論理」では「絶対に避けるべき対応」ではあるものの「社会的論理」「政治的論理」では「止むを得ない必要悪としての対応」であったようにも思われます。

 2020年1月11日(土曜日)のNHKスペシャルで「認知症の第一人者が認知症になった」が放映されました。長谷川先生の映像や音声などから、約1年半前の長谷川先生の状態は老化廃用型認知症の早期(「小ボケ」から「中ボケ」の始まり)の段階ではないかと推察していましたが、最近では「中ボケ~大ボケ」の段階に進行しているように思われました。しかし、娘さんや奥様をはじめとする周囲の多くの人々によって在宅介護が可能となっている長谷川先生は「恵まれた認知症高齢者」の一人であると感じています。



 長谷川先生の功績の一つとして「痴呆(症)」から「認知症」への改称の立役者であることが挙げられているようです。しかし、「認知症」という「名称」は「社会的論理」や「政治的論理」からみれば「妥当な名称」あるいは「仕方がない名称」であるかもしれませんが、「医学的論理」からみれば「意味不明な必要悪としての名称」であると思っています。
 「認知症」という「病名」の「医学的弊害」はさておき、認知症医療の権威でもあった長谷川先生が「前頭葉機能」を正しく認識しておられれば、そして「医学的論理」を「社会的論理」「政治的論理」より優先しておられれば、「痴呆(症)」から「認知症」ではなく、「統合機能低下症」あるいは「前頭葉機能低下症」などのような病名への改称に尽力されたのではないかと、残念に思っています。いずれにせよ、長谷川先生が「知的機能」を正しく認識しておられれば、特に「前頭葉機能」を正しく認識しておられれば、現在のそして近い将来の認知症の医療、予防、介護には多少とも明るい未来が待っていたと思わざるを得ません。

 また、長谷川先生の功績として「長谷川式簡易知能判定スケール」が挙げられています。この「長谷川式」についても、「医学的論理」からみると「普及定着してしまった必要悪としての簡易知能検査法」であると感じています。その理由は、このブログ「37 MMSとMMSE」(2018/10/10)で述べたように、「老人性認知症の簡易知能検査法は、知的機能(脳のはたらき)全体を十分理解した上で実施し、その結果を正しく解釈し、そして医療や介護、予防に活用しなければならない」からです。

 今回のブログでも、「厚生労働省の社会的論理や政治的論理に基づいた対応」や「長谷川和夫先生の優れた医学的功績」を決して批判しているのではありません。どこにでもいる医師の「医学的論理に基づいた洞察」「臨床医としての常識(良識)に基づいた洞察」を思いつくままに述べたまでのことですので、特にこのブログの賢明な読者の方々には誤解や曲解のないことを切に願っています。そして「老人性認知症の本質的な病態が、認知障害ではなく、前頭葉機能の障害である」ことを再確認していただければ幸いです。