キリスト教歳時記220 8月8日
B今日の福音
ルカ15:11-24【「放蕩息子」のたとえ】また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで餓え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
C今日の暦
○聖ドミニコ司祭(1170-1221年)。スペインの司祭。小さな城の城主の息子。アルビ派の異端に対し、説教と模範的生活(粗末な服で裸足で歩くなどの清貧)によって対抗し、成果を上げた。司祭の教育レベルが低く、教え導くことができなかったため、神学を学ばせ模範的生活を送らせるため説教者修道会(ドミニコ会)を創立した(そこからはアルベルトやトマス・アクィナスが出ている)。フランシスコと共に活躍した。
1945年 ソ連、対日宣戦布告。戦争終結のため日本は特使を送ろうとしたが、ポツダム宣言を拒否したと、宣戦布告。
1968年 和田寿郎教授による日本初、世界で30例目の心臓移植手術。10月に死亡。移植される側は本当に死んでいたのか、移植された側はそれほどの病気だったのかが疑問として残され、ただ和田の功名心のためとの疑惑が残った。このため日本で再開されたのは31年後となった。
1973年 金大中事件。後に韓国大統領となる金大中が東京都内のホテルから拉致され、8月13日ソウルの自宅で発見される。
1974年 ウォーターゲート事件でニクソン大統領が辞任とフォード副大統領の大統領昇格を公表。
1990年 湾岸戦争: イラクがクウェートの併合を宣言。
W今日の言葉 憐れに思う スプランクラゾマイ σπλαγχνιζομαι(ギリシア語)
「はらわた痛む」ほど深い共感を示す言葉。聖書で12回しか出てこない特別な言葉。イエスか、神の心情をあらわす文脈の中でのみ使われる。(マタ9:36、マタ14:14、マタ15:32、マタ18:27、マタ20:34。マコ1:41、マコ6:34、マコ8:2、マコ9:22。ルカ7:13、ルカ10:33、ルカ15:20)
Pワンポイント
「放蕩息子のたとえ」で有名だが、「二人の息子を持つ父の話」のほうがよく意味を表している。父は神、弟は徴税人や罪人、兄はファリサイ派や律法学者である(ルカ15:1-2)。
生きているうちに財産を分けてもらうことは、それだけで罪深いこと。父の死を願うようなことだった。
豚はユダヤ人は飼わない(→4月13日P)。豚を飼うとなれば、ユダヤ外の異邦人の地に逃れていたことになる。しかも豚の食べるいなご豆さえ彼は食べることができなかった。
我に返るとは「自分自身の中に戻る」こと。これができたことが救いの始まりだった。息子は一所懸命言い訳を考える。しかし父の方が先に息子を見つけ出し、かけよって、抱き、接吻した。息子の言い訳を何も聞かないうちに。父の行動は非常識的でもある。ここで神の愛が際立つ。
ここで指輪とは権威であり相続人の証し。履物は自由人であることを象徴する。服といいどれもサイズがあるのだから、弟息子のためのものを残しておいたことが分かる。
B今日の福音
ルカ15:11-24【「放蕩息子」のたとえ】また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで餓え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
C今日の暦
○聖ドミニコ司祭(1170-1221年)。スペインの司祭。小さな城の城主の息子。アルビ派の異端に対し、説教と模範的生活(粗末な服で裸足で歩くなどの清貧)によって対抗し、成果を上げた。司祭の教育レベルが低く、教え導くことができなかったため、神学を学ばせ模範的生活を送らせるため説教者修道会(ドミニコ会)を創立した(そこからはアルベルトやトマス・アクィナスが出ている)。フランシスコと共に活躍した。
1945年 ソ連、対日宣戦布告。戦争終結のため日本は特使を送ろうとしたが、ポツダム宣言を拒否したと、宣戦布告。
1968年 和田寿郎教授による日本初、世界で30例目の心臓移植手術。10月に死亡。移植される側は本当に死んでいたのか、移植された側はそれほどの病気だったのかが疑問として残され、ただ和田の功名心のためとの疑惑が残った。このため日本で再開されたのは31年後となった。
1973年 金大中事件。後に韓国大統領となる金大中が東京都内のホテルから拉致され、8月13日ソウルの自宅で発見される。
1974年 ウォーターゲート事件でニクソン大統領が辞任とフォード副大統領の大統領昇格を公表。
1990年 湾岸戦争: イラクがクウェートの併合を宣言。
W今日の言葉 憐れに思う スプランクラゾマイ σπλαγχνιζομαι(ギリシア語)
「はらわた痛む」ほど深い共感を示す言葉。聖書で12回しか出てこない特別な言葉。イエスか、神の心情をあらわす文脈の中でのみ使われる。(マタ9:36、マタ14:14、マタ15:32、マタ18:27、マタ20:34。マコ1:41、マコ6:34、マコ8:2、マコ9:22。ルカ7:13、ルカ10:33、ルカ15:20)
Pワンポイント
「放蕩息子のたとえ」で有名だが、「二人の息子を持つ父の話」のほうがよく意味を表している。父は神、弟は徴税人や罪人、兄はファリサイ派や律法学者である(ルカ15:1-2)。
生きているうちに財産を分けてもらうことは、それだけで罪深いこと。父の死を願うようなことだった。
豚はユダヤ人は飼わない(→4月13日P)。豚を飼うとなれば、ユダヤ外の異邦人の地に逃れていたことになる。しかも豚の食べるいなご豆さえ彼は食べることができなかった。
我に返るとは「自分自身の中に戻る」こと。これができたことが救いの始まりだった。息子は一所懸命言い訳を考える。しかし父の方が先に息子を見つけ出し、かけよって、抱き、接吻した。息子の言い訳を何も聞かないうちに。父の行動は非常識的でもある。ここで神の愛が際立つ。
ここで指輪とは権威であり相続人の証し。履物は自由人であることを象徴する。服といいどれもサイズがあるのだから、弟息子のためのものを残しておいたことが分かる。