キリスト教歳時記293 10月20日
B今日の福音
マタ26:26-29【主の晩餐(マコ14:22ー26、ルカ22:15ー20、Iコリ11:23ー25)】一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
C今日の暦
1949年 戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』刊行
1985年 成田空港、開港後7年して、成田市で極左集団と警視庁機動隊が衝突。機動隊59名が負傷、デモ隊241名が逮捕される。
W今日の言葉
※感謝をささげ(エウカリスティオ)。動詞。 ここから名詞エウカリスティアがつくられ、「聖体」を意味するようになった。
実際この個所で聖体が制定され、またそれを行う者の任命、つまり叙階の秘跡が制定された。
※契約の血 旧約ではいけにえとなる動物の血によって調印された(出エジ24:5-8)。新約ではイエスの血によって調印される。
Pワンポイント 聖体
「(Iコリ11:23-26)わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。
「(日本カトリック教会ミサ第二奉献文)主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)』。食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを受けて飲みなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの血の杯、あなたがたを多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)。これをわたしの記念として行いなさい』」。
聖体はイエスの制定の言葉どおり、イエスの体そのものと理解される(実体変化)。けっしてイエスの体のようなものではない。しかしプロテスタントの理解は分かれる。
ルター派: パンとぶどう酒としての実体は保たれたまま(パンはパンに過ぎない、それらの内に、共に、下に主の体と血が実在する。
ツィングリ:パンとぶどう酒の外観のもと、イエスが単に形見として現存する。記念としての存在のみである。ただのシンボルであり、霊的なもので、単なる宗教儀式。
カルヴィン:パンとぶどう酒はイエスが自ら人間に体と血を授けるための手段。キリストの現存は客観的で現実的な存在
B今日の福音
マタ26:26-29【主の晩餐(マコ14:22ー26、ルカ22:15ー20、Iコリ11:23ー25)】一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
C今日の暦
1949年 戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』刊行
1985年 成田空港、開港後7年して、成田市で極左集団と警視庁機動隊が衝突。機動隊59名が負傷、デモ隊241名が逮捕される。
W今日の言葉
※感謝をささげ(エウカリスティオ)。動詞。 ここから名詞エウカリスティアがつくられ、「聖体」を意味するようになった。
実際この個所で聖体が制定され、またそれを行う者の任命、つまり叙階の秘跡が制定された。
※契約の血 旧約ではいけにえとなる動物の血によって調印された(出エジ24:5-8)。新約ではイエスの血によって調印される。
Pワンポイント 聖体
「(Iコリ11:23-26)わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。
「(日本カトリック教会ミサ第二奉献文)主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)』。食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました。『皆、これを受けて飲みなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしの血の杯、あなたがたを多くの人のために流されて、罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)。これをわたしの記念として行いなさい』」。
聖体はイエスの制定の言葉どおり、イエスの体そのものと理解される(実体変化)。けっしてイエスの体のようなものではない。しかしプロテスタントの理解は分かれる。
ルター派: パンとぶどう酒としての実体は保たれたまま(パンはパンに過ぎない、それらの内に、共に、下に主の体と血が実在する。
ツィングリ:パンとぶどう酒の外観のもと、イエスが単に形見として現存する。記念としての存在のみである。ただのシンボルであり、霊的なもので、単なる宗教儀式。
カルヴィン:パンとぶどう酒はイエスが自ら人間に体と血を授けるための手段。キリストの現存は客観的で現実的な存在