接骨院閑話 Ver.2024_01

「しれは迷ひしらねは迷ふ法の道
 なにかほとけの實になるらん」
至道無難禅師の句は健康にも通じるのです。

体調が悪くなる経過③~2024年追記~①

2024年06月19日 | 私見

元々健康(病気を含む)に無頓着だった私が、
生活習慣(「メシ」「フロ」「ネル」)をホンの少し見直しただけで、
(自覚していなかった)弱っていた身体の立て直しができた事を契機に、
健康(病気を含む)に関心を持つようになりました。

その時に私の周囲の身近な人達や、
私の接骨院に来るお客サンを観て謎だった事は、

ナゼこの人達の体調不良(ケガや病気を含む)は治らないのだろうか?

マタ体調不良(ケガや病気を含む)が全然治らないのに、
良好な体調(絶好調)になった私の経験を否定したばかりか、
逆に自分の体調不良(ケガや病気を含む)が治らないのは棚に上げて、
私に善意の助言をしてくれた人ばかりいた事で、

ナゼ絶好調になった人の経験に興味を持たないのか?

でした。

この謎を解く為に、
私は健康(病気を含む)に関してイロイロ調べるようになり、
その手始めとして健康(病気を含む)問題の現状を調べたのが、

「国民総不健康時代」(2024/03/04)
「曖昧な健康と病気」(2024/03/11)
「病気基準の健康」(2024/03/18)
「家畜の健康管理」(2024/03/25)

だったのです。

健康(病気を含む)問題の現状を調べて分かった事は、

多くの人の健康観(健康や病気の考え方=基準)は偏っている。

事でした。

「国民総不健康時代~家畜の健康管理」(2024/03/04~2024/03/25)は、
平成18年(2006年)に最初のブログを始めた時の記事ですが、
この記事が私の空想妄想話しでなかった事は、
当時の健康(病気を含む)問題は、
十数年経った今でも一つとして変わっていない・・・どころか、
今では無視できない程の大きな問題になっている事でも分かると思います。

これだけでも従来型の健康観(健康や病気の考え方)が、
通用しなくなっている事は明らかだと思うのですが・・・。

それでは私達の健康観(健康や病気の考え方)は、
何時から偏ってしまったのでしょうか?

それを調べたのが、

「歴史から健康を考えた①」(2024/04/01)
「歴史から健康を考えた②」(2024/04/08)

です。

この記事で分かる事は、
私達の健康観(健康や病気の考え方)は、
両親や祖父母だけではなく、
人によっては祖々父母や祖々々父母の代からの、
伝統(躾けとか刷り込み等)の部分が大いに影響していて、
その段階で偏っていったと考えられるのです。

例えば私の場合でいえば、
幼少期に父母やお爺チャンお婆チャンから、
「出されたモノは好き嫌いを言わずに食べなさい。」とか、
「お茶で流し込まずによく噛んで食べなさい。」とか、
「肘をついて食べてはいけない。」とか、
「背中を丸めて歩いてはいけない。」とか、
「男だったら泣くな。」みたいな事を、
口うるさく(厳しく=時として手が飛んできました)言われていたのですが、
今思えば父母やお爺チャンやお婆チャンは、
健康(病気予防)を意識して言ったのではないと思いますが、
実は健康(病気予防)の知恵も多き含まれていたのです。

そこで今の状況を観てみますと、
昔、私が口うるさく(厳しく)言われていた事(躾け?)は、
今では当時のような事(躾け)は言われなくなり、
当時とは違う事が言われるようになっていたのです。
(幼少期の躾けと健康の関係に関しては後述します。)

つまり私達が今、
体調不良(ケガや病気を含む)がナカナカ治らないのは、
決してその人だけの問題ではない・・・という事になるのですが、
然し誰が悪かったとしても、
体調不良(ケガや病気を含む)が治らなかった時の不快な症状や不安の気持ち、
その状態から逃れるための費用は、
全て自分持ちなのは確かなのです。

そこで私が思った事は、

偏った健康観(健康や病気の考え方)の儘で過ごしたらどうなるのか?

それを私が身体の立て直しをした経験を基に、
私の周囲の身近な人の経過を聞いて出した答えが、

「体調が悪くなる経過①」(2024/05/13)
「体調が悪くなる経過②」(2024/05/20)
「体調が悪くなる経過③」(2024/05/27)

だったのです。

この記事を書いた時は、
「こんな人もいるのかなア・・・」と、
ウスラボンヤリと思う程度だったのですが、
然しこの記事に書いた事を意識して、
接骨院に来るお客サンを観ていきますと、
「こんな人ばかりだった。」のでした。

今では「こんな人ばかりだ」と確信したのは、
私の接骨院に来ているお客サンで、
地道に生活習慣(「メシ」「フロ」「ネル」)の見直しを続けている人の、
身体の変化(立て直し)をリアルに観られた事が大きかったのです。

この人達は弱った身体の働きが回復していく途中で、
様々な症状を出して(再発)は消す(治す)事を繰り返していくのです。
この時の症状(再発)が治ると、
症状がでる前よりも身体の状態は良くなっているのです。
これを私はツケ払い(清算)と言っています。
(「ツケ払い(清算)」に関しては後述します。)

原因が明らかな急性の体調不良(ケガや感染症等)は除きますが、
原因が明確ではなかったり(原因に妥当性がなかったり)、
思い当たる原因もなく、
体調が悪くなった(病気を含む)場合(慢性)は、
原因がないのではなく、
業者(医療福祉従事者)サンも含めて私達が、
思ってもみない時期(過去)に、
思ってもみない事(ケガや病気等)が原因で、
体調が悪くなっている(症状がでる)からなのです。
(これに関しては後述します。)

私の接骨院に来るお客サンで、
地道に生活習慣(「メシ」「フロ」「ネル」)の見直しを続けた人は、
弱った身体の立て直しが進んでいくのですが、
その途中で過去のケガや病気で治し損ねたモノや、
過去に受けた(最近も含む)●●●●や、
過去に使っていた(今も使っている)●●●●●●●●していた部分が、
次々と騒ぎ出してくるのです。

「騒ぎ出してくる」というのは症状がでてくるという事で、
私はこれも「再発」と考えていて、
これは症状が軽減消失したからといって、
体調不良(ケガや病気を含む)が回復した(治った)とは、
必ずしもいえない・・・という事なのです。

ここで「再発」についてホンの少し説明しますと、
今回、私がいう「再発」は、
一般的に考えられている「再発」とは少し違っているかもしれません。
ネットで「再発」を調べてみますと、

「さいはつ【再発】」の解説
1 おさまっていた病気がもう一度起こること。さいほつ。
 「—のおそれのある病気」「がんが—する」
2 同じような事態がまた発生すること。さいほつ。
 「事故の—を防止する」「事件が—するのを恐れる」
「goo辞書:さいはつ【再発】」より
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%86%8D%E7%99%BA_%28%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%AF%E3%81%A4%29/

と説明されていて、
確かにこれが一般的な「再発」の解釈なのですが、
ここでいう「再発」とは、
「おさまっていた病気がもう一度起こる」以外にも、
過去に治し損ねた部分を起点として、
全身に影響を及ぼしている部分が、
間違った生活習慣で弱めたのが回復できない儘の部分が、
身体的・精神的に次々を症状をだしてくる事なのです。

生活習慣(「メシ」「フロ」「ネル」)の見直しを続けて、
身体の立て直しが進むに従って、
より古いモノ(古い時期に治し損ねたモノ)が、
次々と騒ぎ出してくる(再発)のです。
(これに関しては後述します。)

この騒ぎ出すモノが、
本来は良好である筈の体調を悪くするモノであり、
体調不良(ケガや病気を含む)の回復を邪魔するモノなのです。
(特に慢性の体調不良(病気を含む)の場合です。)
そんな身体にとって悪いヤツを野放しにしていれば、
何れ身体的・精神的に関係なく、
様々な不調(症状)をだしてくるのは当然なのです。

ところがこの状況(再発のもう一つの解釈)を、
適切に言い表した医療(医学)の言葉(用語)は、
マダマダ知名度が低い(一般的ではない)ようで、
私はテレビやラジオでは聞いた事がありませんから、
そこで私達のような医療福祉の素人でも、
この状況を少しでも分かり易い言葉として探したのが、
仏(ブツ)用語の「因果応報」だったのです。

「いんがおうほう【因果応報】」の解説
人はよい行いをすればよい報いがあり、悪い行いをすれば悪い報いがあるということ。もと仏教語。行為の善悪に応じて、その報いがあること。現在では悪いほうに用いられることが多い。「因」は因縁の意で、原因のこと。「果」は果報の意で、原因によって生じた結果や報いのこと。
「goo辞書:いんがおうほう【因果応報】」より
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E5%BF%9C%E5%A0%B1/

(医療福祉の素人である私達が健康(病気を含む)を考える時には、
 業者(医療福祉従事者)サンの言っている事(説明)が、
 私達の生活の中でどんな時のソレが起こったいるのかが、
 具体的に考えられる事が大切です。
 私はコレを「理(屈)と実(際)の一致」と考えています。
 業者(医療福祉従事者)サン用語だけを勉強して、
 業者(医療福祉従事者)サンの説明を丸暗記して、
 分かったつもりになっている人はタダの雑学博士であり、
 私はこのような人を「知ったか振り」サンを言っています。)

更に言いますと、
特に健康(病気を含む)では「善因善果・悪因悪果」の方が、
分かり易いのです。

ごう/業
心身による行為。・・・・・・業には思業・思已業、表業・無表業、身・口・意の三業など種々の種類がある。業とは、思業・思已業に大別されるように、意志の発動と、その意志によってなされる行為とのことであり、身体(身)・言語(口)・心理(意)の三種によって形成される。業はただの行為ではなく、それが善業あるいは悪業であれば、必ず楽あるいは苦の結果が伴う。一般に「自業自得」といえば、特に悪い行いによってその報いを受けることをさすが、業の理論においては、善い業もまた報いを残すとされる。業の報いについては、俗に「善因善果・悪因悪果」というが、これは「善因楽果・悪因苦果」というのが正しく、善や悪の業によって受ける報いは楽や苦という感受であり、報いそのものは善でも悪でもない。ただし、強力な善業や悪業は、その余力を身体に残し、その後の行為を規制する。例えば、受戒などがこれにあたり、このような業を無表業という。業は、インド思想に広くみられるが、仏教の業の理論の特徴は意業に重きを置く点にある。これは実際の行動よりも、その行動を起こすに至った動機に重きを置くということである。そして、そのような心を制御することが、仏道実践の目的である。また業は、しばしば現世の境遇を過去世の行いによって説明するために用いられるが、これは業の理論の一面にすぎない。業の理論において最も重要なことは、『スッタニパータ』一三六偈に説かれるように、人間の価値がその行いによって定められることにある。生まれではなく、行いによって人の価値は決まるものであり、その行いが自らの意志によって善いものにできる、ということが仏教における業の理論の重要な点である。
【資料】『俱舎論』業品
【参考】木村泰賢『小乗仏教思想論』(『木村泰賢全集』五、大法輪閣、一九六八)
【参照項目】→三業、正定業・助業、因果応報
【執筆者:石田一裕】
「WEB版新纂浄土宗大辞典:業」より
http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E6%A5%AD

何時迄も元気に生活できるのも、
体調不良(ケガや病気を含む)が治らずに辛い(不安な)思いをするのも、
全てが(急性以外では)過去にアッた何か原因で、
その結果が現在の状態・・・だという事です。

つまり、
幾ら頭(理(屈))では正しい事をしていたとしても、
身体(実(際))に正しいとは限らない。
その時のその人の身体(実(際))に、
余分な負担がかからない(負担の少ない)生活をしてきた、
マタはその負担が解消できた結果が、
元気(健やか)な生活が送られて、
身体に負担のかかる(負担の大きい)生活を続けて、
改められなかった結果が体調不良(病気を含む)で辛い生活が始まる。
だけの事で、
これが基本的な考えになるのです。

何れにしても現在は昭和時代のように、
「身体に良い(と言われている)事をヤリ、
 身体に悪い(と言われている)事をヤメる。」だけでは、
健康状態を向上する(その人の元の状態に戻す)事が、
難しいのが明らかになりました。
それは多くの人は健康(病気を含む)に関心を持ち、
身体に良い事や悪い事を知ったからです。
ですから令和の現在は、
健康(病気を含む)を考える人は、
「実際の行動よりも、その行動を起こすに至った動機に重きを置く」
と書いてあるように、
今迄の考え方から一歩進んで、
(慢性であったとしても)体調不良になった原因を考えて、
その原因に対して必要な事(良い事)や不必要な事(悪い事)が、
義理人情にとらわれず、
適切に取捨選択できるようになる事が必要なのです。

その手始め(入口)が私の接骨院では、
生活習慣(「メシ」「フロ」「ネル」)を見直す事なのです。

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