接骨院閑話 Ver.2024_01

「しれは迷ひしらねは迷ふ法の道
 なにかほとけの實になるらん」
至道無難禅師の句は健康にも通じるのです。

歴史から健康を考えた②

2024年04月08日 | 現状

またベルツ先生は「ベルツの日記」(岩波文庫)で、
こんな事も書いています。

・・・とくに日本人が文明開化の叫びのなかで、日本の古いものはなんでも悪いと恥かしがり、西洋のものをなんでも良いとする風潮を憂いた。・・・ベルツは古くから日本に伝わるものの価値を見出し、それを積極的に採り上げて宣伝した。その一つに温泉がある。日本の温泉の歴史は古く、江戸時代にも後藤艮山がその治療価値を賞揚したが、ベルツは、温泉が日本人の間に長く伝承されてきたのは、そこに必ず医学的効用があるからに違いないという確信を持って調べ始めた。
「ベルツの日記(上)」P14~P15より

当時、医療先進国であったドイツの医師であるベルツ先生が、
医学的な価値を認めたモノ(生活や習慣等)を、
当時の日本人が捨てていく事を憂いるのです。

これだけの事から考えても、
当時は厳しい生活環境で短い寿命だったかもしれませんが、
それでも当時の人は生活習慣や信条によって、
優れた精神と強靭な肉体を保っていられたのです。
(当然全ての人ではありませんが・・・)

然しベルツ先生の憂いた事は、
様々な事情(国の近代化?)から明治政府は無視して、
国の欧米化政策(富国強兵と殖産興業)に伴って、
日本人の生活も大きく変わっていったのです。
その中でも当時の人の身体に大きな影響を及ぼしたのが、
食の変化だったのです。

それは片山一道先生の「骨が語る日本人の歴史」の中の、
「表10  日本人の身長の時代変化」(前回の投稿記事を参照)
を見れば分かりますが、
この時期から日本人の身長は伸び始めているのです。
これは当時の日本人の食環境が状態が良くなった事を意味しているのですが、
(「栄養状態が良くなった=肉食が始まった」です。)
然しその反面で困った事も起こり始めたのです。

それは昭和12年に刊行された、
「食ひ改めよ-無病健康法-」(久留弘三著)には、
次のように書いてあります。

・・・徴兵検査に就いて見るに、丙丁種該當の壯丁(不合格者)は大正十一年から十五年までは千人につき二百五十人内外であつたものが、昭和二年から七年に至る間は三百五十人に增し、更に昭和十年には四百人に激增している。(或る府縣では四百五十人を超過とてゐる!)殊に大都會に存在せる壯丁に至っては、甲種二十人に對し、丙丁種四十人といふ駭ろくべき数字を示している。いふまでもなく壯丁検査の成績は、國民の健康狀態を反映してゐるものであるから、若しこのままで行けば國民の大半は數十年ならずして、丙丁種の劣弱國にならうといふ、極めて寒心すべき趨勢に在る。
「食ひ、改めよ -無病健康法-」P8より

僅か60年間で日本人の体力は明らかに低下していて、
久留弘三先生はその原因を、
食の欧米化だと断言しているのです。

つまり食が欧米化して(肉食が始まり)日本人の栄養状態は良くなり、
体格は見栄えが良いものになっていくのですが、
中身はそれについていけず逆に身体の働き(体力)は低下し始めて、
様々な体調不良(病気を含む)がでてきたのです。
これは、
体格(外見)と健康(中身)は必ずしも一致しない。
という事になるのです。
(「栄養状態が良くなった=肉食が始まった=健康」とは、
 一概にいえないという事です。)

然し一労働組合運動家の発言が国に届く筈もなく、
(国は体力低下は分かっていたかもしれませんが・・・)
徴兵検査で甲種合格者が減っている事実に、
何等対策を講じる事なく、
尚一層の国の欧米化を推し進めて、
軈て太平洋戦争に突入していったのです。

明治時代から始まった戦争の時代は、
今から約70年前の太平洋戦争敗戦で一旦終わります。
終戦で日本は米国(GHQ)主導で復興を始めるのですが、
この時にも日本人の健康に影響を及ぼしたと思われる事がありました。

それは米国(GHQ)が日本の再軍国化を防止する為に、
軍国化の可能性のある図書(?)を焚書にした事と四大教育指令です。

「ふんしょ【焚書】」の解説
学問・思想を権力によって弾圧するための手段として、書物を焼き捨てること。
「goo辞書:ふんしょ【焚書】」より
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%84%9A%E6%9B%B8/

四大教育指令
第一指令 文部省はGHQの指令に従って政策を実施する
第二指令 GHQの政策に反対する教職員や官僚を解雇する
第三指令 神道指令(国家神道や神社神道に対する政府の保証や支援、保全などを廃止)
第四指令 修身・日本歴史・地理の授業の停止
「日本人を狂わせた洗脳教育 いまなお続く占領軍の心理作戦」P66より

焚書(発刊禁止)や四大教育指令に関しては、
これ以上の説明はしませんが、
ここで大切な事は、
今迄の日本人は生活全般で健康が維持できていたのが、
焚書(発刊禁止)や四大教育指令で禁止されたモノの中には、
直接的・間接的を問わず、
日本人が健康(身体的・精神的を問わず)を維持する為に、
必要不可欠なモノも多く含まれていて、
それが禁止された事で、
糸綴じの本の糸を抜いたようにバラバラになってしまったのです。
そしてページだけでを読んでも全体の話しが分からないように、
健康も一つ一つの部分だけで考えるようになった事で、
本来の意味(全体)が分からなくなってしまった・・・と考えられる事なのです。

そのうえ従来の日本人の健康は、
先人の経験が継承されたもので、
科学的な根拠はありませんから、
日本人の健康観(健康や病気の考え方)が、
科学的な理屈で解釈するようになってきた事で、
科学的な根拠の無い先人の知恵はドンドン忘れられ(捨てられ)て、
僅かに残ったものも形骸化していったのです。

マタこの時にも食に関する事で、
身体に影響を及ぼす事がありました。
それが脱脂粉乳(乳製品)を使い始めた事です。
戦後間もない頃の日本は食べるモノが満足になかったようで、

昭和22年、全国都市の児童約300万人に対し学校給食がはじまりました。アメリカから無償で与えられた脱脂粉乳が使われ始めました。
昭和24年、ユニセフから脱脂粉乳の寄贈を受けました。
昭和25年(1950年)、アメリカ合衆国からの小麦粉を使い、8大都市の小学生児童対象の完全給食がおこなわれルようになりました。
「学校給食:給食の歴史[9月13日(金)]」より

と書いてあるように、
国民(ここでは子供)の栄養失調対策に学校給食が始まり、
この時に脱脂粉乳(乳製品)が使われるようになりました。
(私も保育園の頃に飲んで(飲まされて)クソ不味かった記憶があります。)
然し脱脂粉乳(乳製品)に関しては、
「正食医学 講義録第一集」に次の表が掲載されています。

「正食医学 講義録第一集:動物性食品の「安全な」食べ方「危険な」食べ方」P45より

この表から分かると思いますが、
乳製品はアメリカ人(特に白人)には全く問題がない食品でも、
日本人の身体には負担の大きな食品だという事です。

(負担の大きな食品とは、
 ケッシテ毒という意味ではありません。
 私の幼少期の話しになりますが、
 私のお爺チャンやお婆チャンは、
 「牛乳を飲むとお腹がゴロゴロする。」と言って、
 牛乳を飲まなかった事や、
 私の父は「牛乳も噛んで飲め。」と私に言っていたのも、
 当時の人は経験から、
 牛乳がお腹に負担が大きい事を知っていたのでしょう。)

ですから戦後の食糧難のような状況であれば、
身体に負担の大きなモノ(今回は脱脂粉乳(乳製品))を使ってでも、
栄養を確保して飢餓(餓死)を回避するのは当然ですが、
現在のように飽食の時代(最近では食品ロス)といわれている状況で、
健康の維持増進(ケガや病気の回復も含む)を目的とした人が、
身体に負担の大きな食品(この場合は乳製品)を、
敢えて使う意味が何かあるのでしょうか?

こんな事は国が言う事はありませんから、
(実際に管理栄養士は乳製品の摂取を強く指導しています。)
だから身体に良いとか悪いと言われている事は、
実際に自分の身体で試して、
自分の身体には良い事なのか悪い事なのかを、
感じ取っていかなければならないのです。
(自分で判断していかなければならないという意味です。)

このように日本人は戦後の厳しい環境から、
新しい価値観(健康観(健康や病気の考え方)も含む)で復興が進み、
昭和31年(1956年)には、
「もはや戦後ではない」と経済白書に書かれる程の、
経済発展(高度経済成長期)を始めたのです。

この時に当時の人の身体に影響を及ぼした事は、
西丸震哉先生が1990年(平成2年)に出した、
「41歳寿命説 死神が快楽社会を抱きしめ出した」に、
次の事が書かれてあります。

昭和三十四年(一九五九年)を記憶せよ
いまの日本人の平均寿命について考えるとき、昭和三十四年(一九五九年)という年を忘れることはできない。この年、日本全体が先進工業国の仲間入りをしようとし決心し、GNP増大という目標に向かって暴走をはじめた。
「41歳寿命説 死神が快楽社会を抱きしめ出した」P16より

これは農業が主要産業だった日本が、
昭和34年(1959年)から先進工業国を目指すようになり、
それで日本人の生活は物質面では豊かになり始めて、
社会も清潔で便利で快適な環境になり始めたのですが、
然しその反面で自然は破壊されていき、
環境汚染も始まり、
嘗てのどの時代よりも環境面では、
身体に厳しい時代になったと書いてあるのです。

マタこの時期は国民皆保険制度に関する問題もあるのですが、
これに関しては機会があれば後述します。

このようにして日本人は、

一度目は明治時代に国策による生活の欧米化。
二度目は太平洋戦争敗戦で米国(GHQ)主導の復興による伝統の破壊。
三度目は高度経済成長期に先進工業国になる事で環境の破壊。

といった三度の転換期を、
数世代に亘って経てきた事で、
私達の健康観(健康や病気の考え方)ひはユックリと着実に偏っていき、
それに併せて身体の働きを弱めてきたと考えられるのです。

人の時間で150年はあまりにも長いものです。
この150年間に、
日本人の体格は向上して、
小中学生の運動能力は向上して、
平均寿命は延びて、
死産率は低下して、
感染症の発生も激減して、
救急医療(応急処置)も発達する等、
数字の上では常に良い結果が出ていましたから、
誰もが日本人は健康になっていると思った(勘違いした)のでしょうが、
それはある一面では正しかったのですが、
然しその反面で日本人の身体の働きは弱化が進み、
最初は数値化ができない(難しい)身体の働きから、
徐々に低下が始まっていたのです。

(身体の働きで誰でもが知っているものとしては、
 「免疫」「恒常性」「自然治癒力」があります。)

恒常性(こうじょうせい)ないしはホメオスターシスとは、生物において、その内部環境を一定の状態に保ちつづけようとする傾向のことである。
「Wikipedia(ウィキペディア):恒常性」より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E5%B8%B8%E6%80%A7

私達の健康(病気を含む)は、
生活する環境に大きく左右されますから、
それを(ホボ)無視した業者(医療福祉従事者)サンの指示指導は、
幾ら身体に良い(と指導された)事をヤッたとしても、
逆に身体に悪い(と指導された)事をヤメたとしても、
それだけでは解決する話しではないのです。

それが何となくですが分かる例として、
明治時代から昭和の中頃迄はゴク一部の人が罹っていた病気が、
当時は病人の数が少なかったから、
あまり大きな問題にならなかったのですが、
日本が豊かになるに従って徐々に増え始めて、
今では誰もが罹る病気として大きな問題になってしまった事です。
それが生活習慣病とか認知症と言われている慢性病で、
「ガンも5年生存率が向上して治る時代になった(?)」と、
言われるようになった今でも慢性病に関しては、
現在の医療(医学)は結果をだせていないのです。

そして平成になり。
今、ネットニュース等を観ていますと、
一時期は激減していた感染症がマタ増え始めたり、
自分勝手な動機の犯罪(動機がない犯罪)が増えたり、
その他にもマダマダありますが、
増えた理由が分からない不穏な流れなのです。

これは生活環境が厳しくても精神的・肉体的に健全な人が多かった昔も、
生活環境が豊かになっても精神的・肉体的に不健全な人が多い今も、
どちらも解決しなければならない課題があるという事です。

これは私達の身体には極(端)はどちらも間違いであり(負担が大きく)、
極(端)になった時の困った問題(健康では症状)は、
どちらの極(端)も特に初期では、
同じ現象(健康では症状=炎症反応)という事なのです(後述)。
ですから常にプラス志向で積極的でいる事が正しいと思っている人が、
体調不良(病気を含む)になった時の症状と、
常にマイナス志向で消極的な人が、
体調不良(病気を含む)になった時の症状は、
特に初期に於いてはどちらも同じで、
それがどちらの極(端)によって体調不良(ケガや病気を含む)になったのかを、
判断するには原因の特定しかないのです。

嘗てベルツ先生が憂いた
「日本人が文明開化の叫びのなかで、日本の古いものはなんでも悪いと恥かし
 がり、西洋のものをなんでも良いとする風潮を憂いた。」で思う事は、
一度捨てたモノをもう一度拾う事は難しい事です。
(ハッキリといってマズ無理です。)
ですから医療福祉の専門家(現在は代替療法の施術者も含む)は、
自分達の考え方が旧態化してしまったとは思わないし、
思わないから見直す事もなく、
相変わらず旧態依然の健康観(健康や病気の考え方)で、
体調不良(ケガや病気を含む)の回復や、
病気予防や健康増進を考えているのですが、
これは仕方がない事ですから、
その分、私達には自力が必要なのです。

【参考資料】
「ベルツの日記」(上)
トク・ベルツ 編/菅沼竜太郎 訳  株式会社 岩波書店 刊
「食ひ、改めよ ─無病健康法─」
久留弘三 著  阪神食養研究會 發行
「Wikipedia(ウィキペディア):徴兵検査」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B4%E5%85%B5%E6%A4%9C%E6%9F%BB
「日本人を狂わせた洗脳教育 いまなお続く占領軍の心理作戦」
関野通夫 著  株式会社 自由社 刊
「学校給食:給食の歴史[9月13日(金)]」
http://www.juk2.sakura.ne.jp/rekisi.html
「正食医学 講義録第一集」
大森英桜 著  日本CI協会 刊
「41歳寿命説 死神が快楽社会を抱きしめ出した」
西丸震哉 著  株式会社情報センター出版局 刊

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歴史から健康を考えた①

2024年04月01日 | 現状

「国民総不健康時代(2024/03/04)
「曖昧な健康と病気」(2024/03/11)
「病気基準の健康」(2024/03/18)
「家畜の健康管理」(2024/03/25)

で説明した事は、
そんなに見当外れな内容ではないと思います。

それはこの記事に書いた事は全て、
私の接骨院に来るお客サンの身体を観察して話しを聞いて、
誰でも確認できる(入手できる)資料で調べて、
私が考え至った事で、
「これも一つの考え」なのです。
然し健康(病気を含む)をよく勉強している人程、
私とはホボ真逆の考え方をしていますから、
私が提案する生活習慣(「メシ」「フロ」「ネル」)の見直しが、
逆に身体を悪くする事だと受け取られても仕方がないのでしょう・・・。

次に私は生活習慣(「メシ」「フロ」「ネル」)の見直し程度の簡単な事でも、
頑なに拒む人ばかりの理由を、
歴史から調べてみました。
それで分かった事を今回から書いていきます。

私は自分が体調不良(肉魚酒アレルギー)を回復させた方法は、
最初は私が独自に考えた完全オリジナルだと思っていました。
然し後になってイロイロと調べてみますと、
私のオリジナルは一つもなく、
全て既に先人が言っていた事ばかりだったのです。

そこで以前の私の疑問ですが、

私のような医療(医学)の素人でもできた事が、
それも全て先人が答えを出している事を、
医療福祉の専門家は無視したり禁忌にして、
体調不良(ケガや病気を含む)の回復で参考にしないのか?

に対して私が考えた答えは、

貝原益軒先生の「養生訓」や、
道元禅師の「赴粥飯法」や、
旧約聖書のモーゼ五書である「レビ記」等(マダマダアリマスが)は、

①宗教・哲学・歴史の分野であり、
 医学(医療)の分野ではない(医療とは関連付けない)事。
②先人の智慧には科学的(医学的)なエビデンス(根拠)がない事。

だったのです。
これは医療(医学)の専門家には当然の事なのでしょうが、
私達にはケッコウ大切な問題で、
それは体調不良(ケガや病気を含む)になった時は、
医療(医学)の分野で結果がでなければ、
どんな分野の考えを利用してでも、
体調不良(ケガや病気を含む)を治す事が大切だからです。

つまり体調不良(ケガや病気を含む)がナカナカ治らない理由を、
「年(加齢)だから治らないのは仕方がない」とか、
「これからは病気と上手に付き合っていきます」とか、
「薬を飲んでいるから検査を受けてもどこも悪くはない」等と、
最初から治す事を妥協したり諦めるのは、
今後の事を考えると得策ではないからです。

ところが非常に多くの人が、
健康(病気を含む)問題を、
医療(医学)の分野だけに限定して考えていて、
この考え方や方法で良い結果が出なければ(治らなければ)、
次の一手(打開策)がないのです。
そんな事から私は健康(病気を含む)を考えるようになり、
今回は歴史から人の健康(病気を含む)を調べてみたのです。

人の歴史を考えてみますと、
嘗て一度として無病無怪我だった時代は、
何処の国にもありませんでした。
何時の時代も、
その国の環境や情勢によって流行ったケガや病気があったのです。
この事から人の歴史は、
ケガや病気との闘いの歴史だと言っても過言ではなく、
だから医療(医学)・公衆衛生・福祉等の考え方が発達したのかもしれません。

何処の国にも、
現在の科学的な医療(医学)が入ってくる迄は、
その国独自の医療がありました。
その一部を現在は伝統医学・代替療法・補完療法・民間療法等といっていて、
中にはWHO(世界保健機関)も認める正式(?)な医療もあります。

その国独自に発展した伝統医療(民間療法)は、
その国の環境・風俗・宗教に密接に関係していました。

風俗(ふうぞく、ふぞく)は、ある時代や社会、ある地域や階層に特徴的にみられる、衣食住など日常生活のしきたりや習わし、風習のことである。広く、世相や生活文化の特色をいう場合もある。類似語に世俗や習俗(習慣と風俗)がある。用例としては「明治時代の風俗」「下町の風俗」などがある。
「Wikipedia(ウィキペディア):風俗」より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E4%BF%97

日本の場合も同様で、
現在の科学的な医療(医学)が一般的でなかった時代は、
庶民は伝統医療(民間療法)を、
普通に医療(治療手段)として利用していたのです。

当時、庶民が頼っていた伝統医療(民間療法)は、
主に漢方・鍼灸・按摩・接骨(ほねつぎ)・産婆等があり、
それ以外にも宗教家(お坊サン・神主サン・祈祷師等)にも頼っていました。

「さんば【産婆】」の解説
助産師の旧称。
「goo辞書:産婆」より
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%94%A3%E5%A9%86/

それでは当時(主に江戸時代後半です)流行っていた病気には、
どのようなモノがあったのでしょうか?

「あっぱれ!江戸の医術 医は仁なり」によりますと、

疱瘡(天然痘)・麻疹(はしか)・水疱(水ぼうそう)・コレラ・赤痢・結核・インフルエンザ・癪(腹痛)・疝気(フィラリア)・瘧(おこり=マラリア)・痞(つかえ=鬱)・梅毒・湿瘡(しっそう=疥癬)等の感染性皮膚病
「あっぱれ!江戸の医術 医は仁なり」P96~より

と書いてありましたし、

「骨が語る日本の歴史(片山一道著)には、
江戸時代に流行っていた病気として、

「虫歯が多い。」
「梅毒が猖獗をきわめていた。」
「老人性の加齢変化が目立つ。」
「鉛汚染の問題が潜在していた。」
「骨が語る日本人の歴史」P150より

「しょうけつ【猖獗】」の解説
悪い物事がはびこり、勢いを増すこと。猛威をふるうこと。
「コレラが—を極める」
「goo辞書:しょうけつ【猖獗】」より
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E7%8C%96%E7%8D%97/

と書かれてあり、
マタ当時の健康問題に関しては、

①乳幼児の死亡率が十四%ほど高かったこと、
②八〇歳以上の高齢まで生き、長寿を全うする者も少なかったこと。
③女性では、四〇~五〇歳代から四〇歳を越えるあたりの年頃で死亡率が高
 かったこと。
④男性では、四〇~五〇歳代で死亡率が高かったこと、
⑤男性のほうが女性よりも長生きの傾向にあったこと、
⑥平均寿命は四〇歳ほど、まだ「人生わずか四〇年」の時代であったこと。
「骨が語る日本人の歴史」P154より

と書いてあり、
当時に流行った病気の原因としては、
非衛生的に環境と慢性的な栄養不良を挙げていているのです。

特に慢性的な栄養不良が、
当時の人に及ぼした影響としては、

成人の平均身長は、男性で一五八センチほど、女性で一四四センチと推定できた。・・・・・今の中学生高学年ほどの身長。・・・・・日本人の歴史において、江戸時代人の背丈の低さは記録的であった。
「骨が語る日本人の歴史」P145より

「骨が語る日本人の歴史」P197より

と江戸時代を日本の歴史上最悪な栄養状態だと書いてあるのです。

因みに栄養と体格の関係については、
千島喜久男先生は「医学革命 血液と健康の知恵」の中で、
次のように書いています。

・・・それはヨーロッパやアジアから移住してきた若者たちのグループと、ヨーロッパやアジアに止まっている親族たちと比べて見るとその差は驚くべきものである。殊にアメリカで生まれたそれらの移住者の子供ははるかに身長が内地のものに比べて高いことが解った。・・・最も大きな原因は栄養にある。
「医学革命の書 血液と健康の知恵」P154~P155より

栄養状態によって体格(この場合は身長)は左右されると書いてあり、
これは体格(この場合は身長)が大きくなった(伸びた)事と、
健康状態が向上した事とはあまり関係ない・・・と考えられるのです。

ここ迄の説明で分かる事は、
江戸時代に流行った病気としては、

・寄生虫や細菌による感染症。
・栄養不良が起因する病気。
・生活習慣病
・事故によるケガ。

といえるのです。

因みに私の接骨院に来る一部の自然派サンは、
(自然派サンとは現在の科学的な医療や薬を否定して、
 分かり易いところでは有機無農薬栽培のコメや野菜を食べたりして、
 独自の考え方や方法で健康管理をしている人です。)
然も江戸時代が理想的であるかのように考えている人が多いのですが、
それは、
電磁波や合成洗剤等の人工のモノが少ない。
環境汚染が少ない。
食品も地産地消で有機無農薬野菜と天然物(養殖はない)。
等の理由からなのでしょうが、
然しソノ反面では身体(健康)には非常に厳しく、
現在以上に様々な病気が蔓延していて、
医療福祉に関するモロモロも発達整備しておらず、
弱い人から淘汰されていく弱肉強食の時代ともいえる状況である事は、
あまり考えていないようです。

私はそんな時代に比べれば、
現在の方が健康(病気を含む)に関しては余程マシだと、
私は思うのですが・・・。

このように健康に非常に厳しい江戸時代でも、
私達にとって参考になる事は、
身体には厳しくて平均寿命も今の半分程度しかなかった時代でも、
それでも生きている間は、
医療に頼らなくても(必要最小限度の代替療法だけに頼っただけで)、
元気に一生を送れた人も多くいた事です。
(いなければ日本人はトックに滅亡しています。)

そして健康に厳しい時代を、
医療(医学)に頼らなくても生き抜いてこれたのは、
当時の人にとっては本意不本意に係わらず、
生活全般で体調を崩さない最低限度の生活ができていた事と、
(その一部は今でも諺・食べ合わせ・風習として名残りがあります)
必要最小限で伝統医療(民間療法)に頼っていたからだと思います。

それでは普段の生活習慣と、
必要最小限の伝統医療(民間療法)だけで、
体調を維持していた(普通に生活していた)当時の人は、
一体どれ程の健康状態だったのでしょうか。
これに関しては、
当時来日した外国人が残した記録から知る事ができます。

最初に紹介するのは、
トロイアの遺跡を発見したシュリーマンの日記です。

・・・荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて「ニッポンムスコ」[日本男児?]と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。・・・
「シュリーマン旅行記 清国・日本」P78~P79より

日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなにん貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。しかも気候が素晴らしい。いつも春の陽気で、暑さにうだることも、寒さを嘆くこともない。しかし、にもかかわらず日本には他のどの国よりも皮膚病が多い。疥癬を病んでいない下僕を見つけるのに苦労するほどだ。この病気の原因を探るには実に苦労した。いろいろ見聞きしたことから推量するに、唯一の原因は、日本人が米と同様に主食にしている生魚(刺身)にあると断言できると思う。
「シュリーマン旅行記 清国・日本」P87~P87より

シュリーマンは当時の日本人が、
他のアジアの国の人と比べても、
そればかりか先進国であるヨーロッパの人と比べても、
精神的に優れていたと書いているのです。

次は日本に西洋式(ドイツ式)医学を伝える為に、
明治政府がドイツから招聘した医師のベルツ先生が行った実験で、
車夫を使ったものです。

車夫に実験せる肉食と菜食
菜食者の気力の方が肉食者の気力より優っている。菜食者の歩行に耐え得る力は肉食者のそれより遙かにつよいと云うことについて玆で是非とも紹介したい例がある。
 それは曾て東京帝国大学の教授であったベルツ博士が日本在留中に自分が抱えていた二人の車夫について、この肉食と菜食の優劣を試してみて、やはり菜食が勝利を得たという実験、博士の下にいた車夫は二人とも筋骨逞しく一人は二十二歳で一人は二十五歳、両人とも体重八十キログラム(約二十一貫)の博士を乗せて、三週間の間、毎日四十キロメートル(約十里)を走らせて、二人は八月の暑さに閉口たれずよくこれに耐え得た。この間は米に馬鈴薯、大麦、栗、百合その他日本人の通常食、勿論各食物とも厳重に量ってその成分を定めておいた。それから今度は彼等に肉食をさした。初めの中には二人は非常に喜んだ。ところが三日目になると二人とも肉食はよして呉れと博士に嘆願した。その訳は身体が非常に疲れて、とても以前のように十里の道は走れないという。そこで再び初めの菜食に返した。すると初めと同様の成績であったという。
 更にベルツ博士は日光東京間百十キロメートル(約二十八里)を今度は馬と人間とについて実験してみた処、博士の乗った馬は六度取換えて十四時間で日光へ着いた。もう一人の日本人を乗せた人力車夫はそれより僅か三十分おくれて十四時間と三十分で着いた。菜食している人間の気力、忍耐力の強さはこれでも分る筈だ。日露、青島戦、済南事変等に際して歩行、気力、その他で日本兵の強かったことは「兵食」の項で記す通りである。
「食物大觀」P107より

この実験は「ベルツの日記」(岩波文庫)には掲載されていません。
(少なくとも私には見つけられませんでした。)
またインターネットで調べても信憑性が疑われているモノでしたが、
昭和10年に刊行された「食物大觀」には、
この実験が紹介されている事から、
一概に作り話しとも言い切れないので引用しました。

【参考資料】
「長生きしたければ朝食は抜きなさい」
甲田光雄監修/東茂由著  河出書房新社刊
「あっぱれ!江戸の医術 医は仁なり」
徳間書店 刊
「骨が語る日本人の歴史」
片山一道 著  株式会社 筑摩書房 刊
「医学革命の書 血液と健康の知恵」
千島喜久男 著  地湧社 刊
「シュリーマン旅行記 清国・日本」
ハインリッヒ・シュリーマン 著/石井和子 訳  株式会社 講談社 刊
「ベルツの日記」(上)
トク・ベルツ 編/菅沼竜太郎 訳  株式会社 岩波書店 刊
「食物大觀」
雨森兼次郞 著  正しき生活研究會 刊

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