勝新太郎が、今から、かれこれ、そう45~46年前に主役を張ったテレビドラマのタイトルである。
座頭・市同様、目の見えない按摩が将軍の腰を揉む検校にまで出世するという話で、その過程で、何人もの人を殺めるのである。
で、ばれない。
これも今は亡き伊丹十三が、勝の演じる徳之市を慕う痴呆の男役(名前は忘れた)で出演していた。
騙しと殺しの中で嵯峨三千代も犠牲者の一人になるが、たしかこれにまつわる失言と伊丹十三が徳之市の命取りになるのだった。
原作は、『不知火検校』(吉行淳之介)だったと思う。
この番組が初めてのノワール体験だったかもしれない。
しかし、失言してしまったという表情を浮かべる大写しの勝新太郎の顔を見て、
「なんだ、こいつ悪いと思ってたんだ。気が咎めてたんだ。ちぇ、たいしたことねえや」
と、幼心に感じたのを記憶している。
この国では、悪事はついには露見して、あるいは露見しなくとも、悪党は心安らかには過せないことになっているのである。
そりゃ、この国に限らない。
どこの国でも気の弱い奴は、悪いことをすれば、気が咎めて夢見が悪いのかもしれない。
かく言う私などは、上記の発言にもかかわらず、いたって気の弱い方で、悪事に手を染めることなど一生かなわぬであろうと諦め
ている。
だから、悪事を悪事とも思わぬ度外れた悪党の物語に心惹かれるのかもしれない。
海外ミステリーのなかには、ちょっぴりそれに近いようなのが登場することもあるが、しまいにはどうしても、なんだかだと理屈
をつけて、悪事を正当化しようとするか、精神が破綻した人物としてしか描ききれないようである。
正気で人を殺して平気でいられる人物像というのは、案外、想像も創造もできないのかもしれない。
まあ、売れないだろうな、そういう本は。
なにせ、あまりにずばりと実在する現代人の多数の姿を描いたのではしゃれにも何もならないからな。
どこかのありそうにもない人たちの話を読みたがるものなのである。
わたしら(複数形にするなだって?!)というのは。
まあ、こういう書き方の衝撃的な点は、「人を」という目的語を入れたところにしかないのであって、この目的語を「インフルエ
ンザにかかった鶏」とでもすれば、
「なぜもっと早く、全部始末しないのだ」
こう叫ぶ人道主義者の方々は、まったくもってあきれるほどに仰山実在するのである。
悪党というのは、実は、己の悪事を知悉した者のことであって、それを知らない者を「善人」というのであろう。
悪人が善人より往生できそうなのは当たり前の話で、どこにも事柄の逆転も逆説もないのだ。
「私は何も悪いことはしていない。」
「私のしていることは正しいと信じている」
そう言い切れる人は、確かに、善人なのだろう。
<補足・修正>
あるページにこういう記述があった。
『勝がこだわったのが、悪行が露見して取り
押さえられた不知火検校の
「てめえら、肝っ玉がちいせえから、おれがやってるようなこと、やり
たくても出来ねえだけのことだろ。たまに楽しむといったら祭りぐ
れえが関の山で、挙句の果てはジジイになりババァになり、糞小便の
世話されて死ぬだけだ。この大馬鹿やろおォっ!」
という最後のセリフで、ちゃんと撮影もされ、クライマックスとして
最初の完成版には存在した。が、
なんと会社側が独断でそれをカットしてしまった。残っているのは、
最後の「大馬鹿やろおォっ!」の部分のみ。これには、だいぶ揉めたら
しいが、結局そのままになってしまった。森監督も残念だったろうが、
一番悔しい思いをしたのが勝新本人ではないだろうか。
それが言いたくて、この映画をやったようなモンだからである。
事実、勝プロを立ち上げてから、「座頭市」以前にこの「不知火検校」を
TVでリメイクしている。「悪一代」というタイトルで、13回放送。
例のセリフもちゃんと登場して、映画の仇をTVでとった。
晩年に池袋の文芸座で勝新特集が組まれたとき、この「不知火検校」
は立ち見がでるほど大盛況だった。同じ日には、これまた大傑作の
「まらそん侍」(ビデオ化して!)も上映され、もう一本、89年の「座
頭市」がちょっと可哀想なラインナップであった。勝新が仲間の盗賊
に言う
「悪事を止めようなんて、悪い了見起こしちゃいけませんよ。」
なんてセリフのときには、場内爆笑の渦。』
現実の勝も「パンツ大麻事件」ですっとぼけているあたりは、芝居より面白いと思ったが、芝居の中でもちゃんと言うべきことは言
っていたようだ。
う~ん、記憶違いだったか・・・
座頭・市同様、目の見えない按摩が将軍の腰を揉む検校にまで出世するという話で、その過程で、何人もの人を殺めるのである。
で、ばれない。
これも今は亡き伊丹十三が、勝の演じる徳之市を慕う痴呆の男役(名前は忘れた)で出演していた。
騙しと殺しの中で嵯峨三千代も犠牲者の一人になるが、たしかこれにまつわる失言と伊丹十三が徳之市の命取りになるのだった。
原作は、『不知火検校』(吉行淳之介)だったと思う。
この番組が初めてのノワール体験だったかもしれない。
しかし、失言してしまったという表情を浮かべる大写しの勝新太郎の顔を見て、
「なんだ、こいつ悪いと思ってたんだ。気が咎めてたんだ。ちぇ、たいしたことねえや」
と、幼心に感じたのを記憶している。
この国では、悪事はついには露見して、あるいは露見しなくとも、悪党は心安らかには過せないことになっているのである。
そりゃ、この国に限らない。
どこの国でも気の弱い奴は、悪いことをすれば、気が咎めて夢見が悪いのかもしれない。
かく言う私などは、上記の発言にもかかわらず、いたって気の弱い方で、悪事に手を染めることなど一生かなわぬであろうと諦め
ている。
だから、悪事を悪事とも思わぬ度外れた悪党の物語に心惹かれるのかもしれない。
海外ミステリーのなかには、ちょっぴりそれに近いようなのが登場することもあるが、しまいにはどうしても、なんだかだと理屈
をつけて、悪事を正当化しようとするか、精神が破綻した人物としてしか描ききれないようである。
正気で人を殺して平気でいられる人物像というのは、案外、想像も創造もできないのかもしれない。
まあ、売れないだろうな、そういう本は。
なにせ、あまりにずばりと実在する現代人の多数の姿を描いたのではしゃれにも何もならないからな。
どこかのありそうにもない人たちの話を読みたがるものなのである。
わたしら(複数形にするなだって?!)というのは。
まあ、こういう書き方の衝撃的な点は、「人を」という目的語を入れたところにしかないのであって、この目的語を「インフルエ
ンザにかかった鶏」とでもすれば、
「なぜもっと早く、全部始末しないのだ」
こう叫ぶ人道主義者の方々は、まったくもってあきれるほどに仰山実在するのである。
悪党というのは、実は、己の悪事を知悉した者のことであって、それを知らない者を「善人」というのであろう。
悪人が善人より往生できそうなのは当たり前の話で、どこにも事柄の逆転も逆説もないのだ。
「私は何も悪いことはしていない。」
「私のしていることは正しいと信じている」
そう言い切れる人は、確かに、善人なのだろう。
<補足・修正>
あるページにこういう記述があった。
『勝がこだわったのが、悪行が露見して取り
押さえられた不知火検校の
「てめえら、肝っ玉がちいせえから、おれがやってるようなこと、やり
たくても出来ねえだけのことだろ。たまに楽しむといったら祭りぐ
れえが関の山で、挙句の果てはジジイになりババァになり、糞小便の
世話されて死ぬだけだ。この大馬鹿やろおォっ!」
という最後のセリフで、ちゃんと撮影もされ、クライマックスとして
最初の完成版には存在した。が、
なんと会社側が独断でそれをカットしてしまった。残っているのは、
最後の「大馬鹿やろおォっ!」の部分のみ。これには、だいぶ揉めたら
しいが、結局そのままになってしまった。森監督も残念だったろうが、
一番悔しい思いをしたのが勝新本人ではないだろうか。
それが言いたくて、この映画をやったようなモンだからである。
事実、勝プロを立ち上げてから、「座頭市」以前にこの「不知火検校」を
TVでリメイクしている。「悪一代」というタイトルで、13回放送。
例のセリフもちゃんと登場して、映画の仇をTVでとった。
晩年に池袋の文芸座で勝新特集が組まれたとき、この「不知火検校」
は立ち見がでるほど大盛況だった。同じ日には、これまた大傑作の
「まらそん侍」(ビデオ化して!)も上映され、もう一本、89年の「座
頭市」がちょっと可哀想なラインナップであった。勝新が仲間の盗賊
に言う
「悪事を止めようなんて、悪い了見起こしちゃいけませんよ。」
なんてセリフのときには、場内爆笑の渦。』
現実の勝も「パンツ大麻事件」ですっとぼけているあたりは、芝居より面白いと思ったが、芝居の中でもちゃんと言うべきことは言
っていたようだ。
う~ん、記憶違いだったか・・・
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