俺の琴線

心に響いたもの、それがどんなものであっても...

それができなければ社会の奴隷になるだけ

2019-12-08 10:48:42 | Weblog

前回に続き,仕事に何を求めるか,という話.

フローとは,物事に集中して,他のことなど頭の隅にも浮ばず,時間の流れが遅く感じるような,それほど集中した極限状態のことだ.その概念は「ゾーンに入る」などと,自己啓発書で別のネーミングをされたりしている.

このフローに入った状態が,人間が幸福な状態なのである.

良い会社に入社した,高い給料を獲得した,出世した,人に賞賛された,自分の動画の視聴者数が10万人になった,有名になった,人に感謝された,これらはいずれも幸福には結びつかない,単なる外的な刺激である.このような刺激は一時的には人に高揚感をもたらすが,それだけだ.
次の瞬間にはもっと収入を,もっと賞賛を,さらなる視聴者数を,と,より強い刺激を求めるようにだけであって,チクセントミハイいうところの「社会のトレッドミル」で走り続けさせられることになる.

給料を高くもらうなと言っているわけではない.賞賛されてはいけないというわけではない.自分が楽しんで仕事をしてたら,たまたま昇給した,なぜか人から賞賛を受けた,出世した,感謝されたのなら「ああ,それはよかった」という程度に受けとめておけば良い.自分は好きに仕事をしていただけで,外からどう評価されようが,自分には関係ないという態度が大切なのだ.これは,上っ面の態度ではなく,心底からそう思わなければ意味はない.
これは,以外に思うかもしれないが,例えば医師が治療によって患者から感謝される,ということを糧(報酬)に仕事をしてもいけないのだ.人が助かったということは,一般的に言えばそれを非常に良いことであろう.しかし,人助けを報酬にしては仕事からフローは得られない.外科医なら手術自体の手技,オペのコントロール,そんなところに楽しみを見出す.内科医なら,自らの知識を総動員しての診断と処方,そんなところに楽しみを見出す.その結果として患者が助かった,またある場合は助からなかった,それは付随する結果にすぎない.もちろん医師は患者が助からなければ,落ち込むけれども,それを目的にしてはいけないということだ.崇高な精神に反するようなことを言うようではあるけれど.
もっとわかりやすいのはスポーツだ.プレイヤーも楽しいのは試合の最中にプレイに集中している時である.その結果勝負に勝ったのか,負けたのか,それはどうでも良いのだ.もちろん勝ったほうがモチベーション上がるだろ?と思われるだろうけれど,それは勝ち負けにこだわっているからで,勝ったほうが嬉しいけれど,それと試合中の楽しさは別物ということなのだ.
少しわかりにくいだろうか.

イチローが引退会見を行った折の発言を引用したい.

「いろいろな記録に立ち向かってきたが、そういうものはたいしたことではないというか……(省略)……たとえばわかりやすい10年間200本(安打)を続けてきたこととか、MVP(最優秀選手)をとったとか、オールスターでどうたらということは本当に小さなことに過ぎないと思う……(省略)……今まで残してきた記録はいずれ誰かが抜いていくと思うが、去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら、誰にもできないことかもしれない。」

わかりにくいかもしれない.記録を獲得することを否定しているわけではないし,眼前に記録という目標があると,それをクリアしたいという欲求,それもフローを生む一つのパーツとなるだろう.が,大切なのは記録を獲得すること(世間からの評価)ではないということを,心の底から理解しているということだ.

野球をプレーするのは,それ自体に楽しみを見出しているからであって,周りが評価してくれるから,それに答えるからプレーすべきではない.イチローがプレイした折に得た,名声,記録,巨額の年俸,これらは全て外的報酬であって,それを支えにしてしまうと,報酬が無くなったとたんに崩れてしまうことになる.
野球で言えば,外的報酬を支えにしていると,声援を受けて,マスコミからも応援を受けて,チームからも評価されてノっているときは良い.しかし,スタメンから外された,マスコミに否定的な記事を書かれた,球場でブーイングを浴びた,というような報酬が受けられない状態になると,メンタルが崩れてしまうだろう.
プレイヤーは声援を受ければ気持ち良い.しかし,それは自分が野球をプレイすることとは切り離して,プレイ自体を楽しめなければならない.メジャーでプレイを楽しむためには,超絶な苦しい努力が必要だ.しかし,その苦しい努力さえも,そのこと自体を楽しめれば苦ではないのであって,逆にそれが楽しめない人間は,たとえ選手としてイチローと同レベルになって,同じようにメジャーで活躍したとしても,良い人生とは言えない.
つまり,「年俸何億円もあってうらやましい」と思う感覚が,この資本主義社会においては一般的なのかもしれないが,それは社会から強制された,子供の頃から親や知人,学校,テレビなどを含む社会そのものからインプリンティングされて染み込んでしまった価値観なのであって,何億円持っていようが不幸な人はたくさんいるのである。

昨今は外的報酬を目的にしてしまうことが本当に多い.SNS含めたネット利用が広がり,他者からの承認欲求を満たそうとする行為が心の奥底にこびりついてしまっているのだ.

子供の頃は,他者の承認を得るための行動としては,親の承認を得ようとすることが多かっただろう.自分の進路を決める際に「このコースに進めば親は満足する」というのを暗に汲み取って進路を決定しなかったろうか?今時は就職さえ,結婚相手さえ親の意向を汲んでしまうこともあるかもしれない.
それは,親が「お前はこうしたほうが良い」「あなたはこうしなさい」と言葉にしなくても,子供が親の顔色を伺って,どうすれば親が喜ぶかを汲みとって選択してしまえば同じことだ.

この文章を中高生が読むことは稀かもしれない.しかし,もし目にしたら以下のことを考えてみてほしい.

子供の頃の人生は,親の庇護下にあるけれども,どう生きるかを決めるのは子供自身だ.それは好き勝手に生きろということとは違う.親は自分の人生経験から,子供に最適だと思う進路を勧める.もしくは自分が果せなかった夢を子供に被せてしまう.進路を選ぶときに大事なのは,そういったアドバイスも含めて,本当にそれが好きかどうかだ.親が喜ぶから,という理由で選択をすると,後々上手くいかなくなったときに,すごく後悔するし,親を憎むようになってしまう.いずれ,喜ばせていた親は先にいなくなってしまう.そのとき,だれの承認を得るために生きてきたのか,途方に暮れることになる.

最後にイチローのインタビューで締めようと思う.

子どもたちにメッセージを。
「……自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので、そういうものを早く見つけてほしいと思う。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かっていける、向かうことができると思う。それが見つけられないと、壁が出てくると諦めてしまう。いろいろなことにトライして、自分が向くか向かないかよりも、自分が好きなものを見つけてほしいと思う。」


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