俺の琴線

心に響いたもの、それがどんなものであっても...

今だから考える,働き方改革

2019-11-24 21:55:14 | Weblog

過去の日付を確認すると,更新は4年ぶりくらいになるのだろう.個人的には,職場が変わったりで,以前にBlogを綴っていた頃とは少し周囲の環境も異なる.ゲームやアニメの話ばかり書いていたが,今は仕事が忙しいこともあり,ゲームはあまりプレイしなくなった.
こうやって文章を打ち込む環境も,2015年頃は,Macに夢中だったと思うが,今はWindows10にVScode(+Emacs Friendly Keymap)でIMEはcorvusSKKだ.

そのあたりの話は,また機会があれば書くが,今日は今現在進行中の「働き方改革」という思想について,思うところを書いてみたい.

この4年間で色々な書籍や思想に触れた.その中でも私に最も影響を与えたのはチクセントミハイのフロー理論だ.ネットで検索すると,その節々の情報は拾えるが,本質を自分が納得いく形で吸収するには,是非書籍を手に取って欲しい.私がここで書くことが,とっかかり程度になってくれれば良いのだけれど.

今回,大きく伝えたいのは,仕事と遊びの区分けについてだ.多くの人は仕事は嫌な時間,食っていくために仕方なく行う社会参加,という印象を持っている.だから,毎朝仕事に行くのがおっくうになるし,休みが終わりかけると,嫌な気分になる.
嫌な時間なので,なるべく少なくしたほうが良くて,自分が本当に楽しめる自由時間を多くとるのが,働き方改革の根本思想,いわゆるワークライフバラスをとってというやつだ.

たしかに,産業革命直後の英国などでは労働者の環境は劣悪で,今のブラック企業が聞いてあきれるくらいのレベル,低賃金で毎日10時間以上過酷な肉体労働をさせられたようだ.
なんの向上心も得られず,単純なキツイ作業を延々とさせられるのは,ほんとうに厳しい.このような産業革命以降に「労働=キツイ,仕方なく行う嫌なイメージ」が定着していったのだ.

それまでの農業中心の世界では,労働と余暇の概念すらなかった.日本を振り返っても日が登ったら田畑に出て,暗くなったら家に帰って寝るというパターンの繰り返しで,その中に祭などのイベントごとはあったにせよ,1日何時間までが労働とか,そんなレベルの話ではなく,そもそも労働という概念があったかも怪しい.厳しい年貢の取り立てや飢饉など,とても満ち足りた生活を送っていたわけではないけれども,少なくともどこまでが自由時間でどこからが仕事,という区分けはかなりあいまいで,ワークライフバランスという思想からは,ほど遠いところにあったと思われる.
(侍など役職をもっていた者は,サラリーマン的な時間を送っていたようだが)

さて,話を現在に戻して,週休2日で労働時間は1日7時間45分残業なし,という職場で,自由になった時間を得たあなたは,幸せになるのだろうか?

そもそも,幸せとは何なのだろう?給料が保証されていて,自由時間が十分とれたら幸せだろうか?仕事自体が全く興味をもてない内容で,ストレスが多くても,7時間45分我慢してれば,給料がもらえるのだから,自分の自由時間にそのうっぷんを晴らすかのように遊びまくれば,それは充実した人生となるのだろうか?

そこで,チクセントミハイである.彼の収集した数千人もの米国人のデータから導き出された結論は驚くべきもので,ようは「人は自由時間にはあまり幸福感を感じていない」ということなのである.では,どこで幸福感を感じているのか?
それは,なんと「仕事中」なのである.

米国含め,西欧では長期休暇を取得できる会社も多い.そういったシステムを日本のマスコミは褒めたたえ,日本人は働きすぎだとか,欧米のようなワークライフバランスの取れた社会生活を,などと報道しまくり,それに影響を受けた行政も動きだしているのが現状だ.

しかし,膨大な自由時間を取得した欧米人が,その休暇中に幸福を感じているわけではないというこの現状.リゾート地のビーチでのんびりカクテルを傾けて,なんていうのは欧米人の描くステレオタイプな夢の休暇の過しかただが,実際にはビーチチェアに寝転びながら幸福感は感じていないのである.

それは,私自身も実感したことである.転職する合間に,1ヵ月ほど時間を取って以前から行きたかった東南アジアの秘島ビーチリゾートに連泊したのだ.オフシーズンなので,観光客は少なく,メジャーな観光地でもない島では,本当にのんびりとした時間が流れていた.静かな波音を聞きながら,冷えたビール瓶,肌に痛いほどの眩しい太陽……,はたしてその瞬間,私は幸せを噛みしめていただろうか.

やはり,そうでもないのである.その瞬間瞬間は「楽しい」という思い,興奮はある.とうとう焦がれていた場所に来たか!という思い,開放的な感覚,これからの楽しいであろう時間を想像して感じる楽しさ…….

しかし,実際にビーチでぼうっとし始めて数十分もすると,そういった楽しさも影を潜めて,私の脳内には色々な思惑が入り始めた.この島での今後のこと,退職した職場のこと,就職先でやっていけるのかという不安,別れた知人はいまどうしてるのだろうか,私の人生はどうなっていくのだろう,そんな漠然とした
不安のような思考が次々と脳内に発生してしまったのだ.この瞬間に,私がチクセントミハイの実験に参加していたら,やはり「幸福度レベル10中3」くらいを付けていただろう.あこがれていた南国のビーチリゾートにいながらにして,これなのだ.

これはチクセントミハイ言うところの「カオスの侵入」である.人は何もすることがないと,不安感やとまどいのような思考に陥いりやすいのだ.
せっかく自由時間を取得しても,カオスが脳内に発生して不安になるようではとても幸福とは言えない.

そこで,それを簡単にごまかせるものがある.テレビやYoutube含めたネット動画等を見ることである.なにも考えずに視聴だけしていれば,その間は頭が余計な思考をするのを防げる.テレビで好みのものを見続けるのは難しいが,ネットでは簡単だ.ずっと好みの動画だけを垂れ流しておける.そうしておけば,余計な不安感に襲われるのを防げるのだ,なんとすばらしい.

さて,「働き方改革」で獲得した自由時間だが,不安感に襲われないためには,ぼーっとして1日過すのはダメだ.カオスの犠牲にならないためにも,何か目的をもって行動しなくては休日が余計に精神に負担をかけることになってしまう.
明確な趣味ややることがあって行動する人は良い.しかし,特になにもない人は,ずっとテレビやネットをしている1日になるのだ.それは幸せな時間なのではなく,「不安にならないために受動的メディアでごまかす時間」なのである.
1週間の大半を使って,全く興味のない嫌な仕事をして,ようやく稼ぎだした休日には不安をごまかすために受動メデイアを消費する.これがワークライフバランスとれていると言えるのだろうか?

じゃあどうすればいいんだよ,という話になるのだが,これは個人個人が判断するしかない.
ただひとつ言えるのは,社会のシステムとマスコミや政府の言うことが自分自身の考えと合致するわけではないし,正解がそこに落ちているわけではないということ.そもそも曜日の概念や日曜日は休むという感覚も,ユダヤ教の休息日から来ているもので,ユダヤ教徒やキリスト教徒でもない私には関係ない.

今日が日曜日だから休まなければならないのだろうか?(2000年くらい前に誰かが適当に決めた曜日という概念,今の社会がその暦で動いてても,それにコントロールされる必要ある?)

周りの人が休みだから,自分も休まないと損じゃん?

そもそも休むのって得なの?仕事したら損なの?

根本的な面から,自分がどうするのが良いのか,考え直してみるとよい.
特に,仕事をどうするか,についてはまた機会があれば述べたいが,今回記載した内容からも,「つまらない興味ない嫌な仕事」を給料と安定などの理由で続けるのは非常にリスキーなのがわかるだろう.ブラック企業ではなくとも,このような仕事はどこにも満足感を得るポイントがないので,仕事で嫌な事が貯まったりすると鬱やその先にまで行ってしまう危険があるのだ.
嫌々仕事してストレスを貯め,自由時間はテレビやネットやゲームで浪費して精神の安定を保つ.これでは幸福感など得られるはずもない.

大事なことはワークライフバランスではない.それをギチギチにやると仕事がますます嫌になる.
「1時間超勤したから自分の自由時間が1時間減った」などとは考えないことだ.
世間の流れとは逆に仕事と遊び,自由時間の区別を曖昧にすることが大切なのだ.仕事は遊びの一部であり,楽しめる行為であるべきなのだ.それは医師であってもライン工であっても関係ない.

一億総ワーカーホリック化をすすめるわけではない.仕事をしながら家族との時間を取るのを優先することも大事なことだし,個人のプライオリテイをどこにもとめるかは,本人にしか決められない.

覚えておいて欲しいのは,我々の頭にある「仕事=嫌なもの」というイメージをつくりあげたのは,世界中のマスコミや教育機関含めた社会そのものである.ハラリ言うところの妄想の産物でしかない社会システム,その虚構がさらに作り出したミームでしかない仕事という概念のイメージを,咀嚼することもなくそのまま飲み込むのは,かしこい選択ではないだろう.



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