2週間おきに開催していたオンライン開催「宇宙賢者の学校」の全4回のシリーズが、昨夜終了しました。
この宇宙賢者の学校は、「賢治の学校」にヒントを得て、宇宙スケールでの賢者というものを意識して、賢者について探求する講座でした。
「賢さ+宇宙スケールの視座」というコンセプトで展開した「宇宙賢者の学校」では、第1回目に、「賢さの本質」について探求しました。「賢さ」は、単に頭の回転が速いとか知識豊富ということのみならず、謙虚さやリーダーシップ、レジリアンス&芯の強さなども兼ね備えているという本質を伴うものだと私は認識しています。
第2回は、賢さを応用した現実的な政策としての南極条約やボリビア・エクアドルの地球生態系を視野にいれた憲法の話など、地球スケールでの応用例についてみてきました。
第3回は、過去の哲学者・思想家の活躍・著者などから、賢さを拾って概観してみるという試みをしました。自分にとっては、この回に向けて、西洋と東洋の思想哲学を復習する良い機会となりました。
第4回(最終回)では、賢さがこの地球でバージョンアップされたとした未来世界について、参加者の皆さんとの対話の中から想像してみました。
賢さを軸に対話する中で、「正しさ」の主張と違って、「やはりその方向性になりますよね」と合意(共通了解)できる部分が多くあり、また、”「正しさ」を主張するときは常に、外部基準がどこかにあり、それを参照して人間は判断している。それに対して、「賢さ」は個々人の内部にそれぞれ宿っているもの。”という仮説が出されました。これは重要な発見ではなかなったかと思います。
確かに、正しさを主張するとき、人はその根拠として心の中になんとなくあるからというより、外部のエビデンス(証拠)をもとに主張することになりますし、逆にそうした参照する外部エビデンスがなければその正しさは万人が納得するものにはなりえません。これは科学の主張などを例にとるとわかりやすいと思います。
一方で賢さは、各個人の内部で直感的に認識されているものに近い。その証拠として、何か嘘や悪いことに関しては、誰もが関わった時にどこかうしろめたい感じを受ける。これこそ、人間の中に賢さが内包されている根拠と言えるものかもしれません。
人同士が言葉をつかって会話できるのは、双方に、「〇〇とはこういうもの」という認識が共通してあるからに他なりません。例えば「昨日、電車に乗った」と話せば、それは電車の概念がわかっているひとにはほぼ通じる話になるわけです。これはそれぞれの個人に電車とはこういうものだという共通了解があるからです。それと同様で、自己の内部にある賢さを互いに確認していくことにより、人間のこれからの生き方について、何が理想となりうるかを探求できるはずだという確信を今回の講座で得ることができました。
賢さの探求は、はじまったばかり。
さらに、「賢さ」をテーマにした言語化を磨いていきたいと思います。