五常
「五倫存於心曰道,五常行於事曰」。五倫說盡人與了人的關係,這是道,是性。行事遵守性,就叫。的條目列了五條──五常。「常」是永恆不變,超越時間,超越空間,不能違背,一違背就亂了,現在人稱之為真理。
「五倫存於心曰道,五常行於事曰徳」(五倫が心に存することを道と言い、五常を事において実践することを徳と言う)。五倫は人と人との関係を説き尽くしています。これは道であり、性徳(しょうとく:生まれながらに具えている能力)です。事を行うのに性徳を遵守すること、これを徳と言います。徳の項目は五ヶ条あり、それが五常です。「常」は永久不変です。時間を超越し、空間を超越します。背くことはできません。一たび背けば乱れます。今の人はこれを真理と称しています。
五常就是中國人做人的道標準:「仁、義、禮、智、信」。在佛法裡講就是五戒,不殺生是仁,不偷盜是義,不邪行(不邪淫)是禮,不飲酒是智慧,不妄語是信。五戒、五常,這是做人基本的行。
五常は正に中国人の人としての道徳的基準です。「仁、義、礼、智、信」。仏法の中で説かれている五戒です。不殺生は仁、不偸盗は義、不邪淫は礼、不飲酒は智慧、不妄語は信。五戒、五常、これは人としての基本的な徳行です。
仁
「仁」,是會意字,仁者愛人,推己及人,己所不欲勿施於人,孔子一生教學教什麼?就教這個。如果說用一個字來代表,就是「仁」。仁,就是推己及人,想到自己就要想到別人,自己不願意做的就不可以叫別人做,愛人如愛己,仁慈博愛,這叫仁。
「仁」は会意文字【注1】です。「仁者は人を愛す」。「己を推して人に及ぼす」(自分を顧みて人のことを推し量る)。「己の欲せざる所人に施す勿れ」(自分がされたくない事は人にしてはならない)。孔子一生の教学は何を教えたのでしょうか?正にこれを教えたのです。もし一字を用いて代表とするなら、それは「仁」です。仁とは自分を顧みて他者を推し量ることです。自分の事を考えて、他者の事を考えます。自分がしたいと思わないことは、人にさせてはなりません。自分を愛するように人を愛すること、仁慈博愛、これを仁と言います。
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【注1】 会意文字(かいいもじ)・・・・二つ以上の漢字を組み合わせ、意味を合成して作られた文字のこと。「仁」は「二」+「人」。人と人との間に通う親しみの意味を表す。(『新漢語林』を参照した)
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仁,不可以不愛人,愛人就不會怨恨人,愛人就能夠原諒人,愛人就能夠饒恕人。像阿彌陀佛一樣,造作五逆十惡、毀謗大乘的人都不捨棄,還是那樣的愛他。他為什麼會造這麼重的罪業?無知迷惑,所謂一時糊塗,做錯了事情,只要他回頭改過,好好的教,他還是善人。
仁。人を愛さなければなりません。人を愛せば人を恨みません。人を愛せば人を許すことができます。人を愛せば人を許すことができます。阿弥陀仏のように、五逆十悪を犯し、大乗を誹謗した人も見捨てることなく、やはりそのように人を愛します。その人はなぜそれほど重い罪業を犯すのでしょうか?無知迷妄です。いわゆる一時の迷いです。間違った事をしても、その人が善に立ち帰り、しっかりと教えれば、その人はやはり善人なのです。
現在人可憐,不知道愛自己,更不會愛人!不知道守住自己的本善,這是不自愛。人不自愛,就不會愛人,自愛才會愛人,人懂得愛人就不會害人。愛人從愛父母、妻子、兒女、家親眷屬開始,慢慢再擴大,擴大到最後「凡是人,皆須愛」。
今の人は気の毒なことに、自分を愛することを知りません。尚更人を愛することはできません!自分本来の善を守ることを知らなければ、自分を愛していません。人は自分を愛せなければ、人を愛することはできません。自分を愛せてこそ人を愛することができるのです。人を愛することを知る人は、人を害することはできません。人を愛することは父母、妻、子ども、家族親戚を愛することから始まり、少しずつ広げて、最後には「凡是人,皆須愛」(およそ人たる者は、皆須らく愛し合わなければならない)まで広げます。
在佛法講,不但愛人,還要愛樹木花草、愛山河大地,對待萬物,用真誠心、清淨心、平等心、正覺心、慈悲心。像天、地一樣沒有一絲毫私心,沒有一絲毫分別、執著,平等地照顧一切眾生。在佛法裡面稱作慈悲,大慈大悲對待一切眾生。社會才會祥和安定,問題、衝突才能化解。
仏法で言えば、人を愛するだけでなく、更に樹木や草花、山河や大地を愛す、万物に対して真誠心(しんせいしん:真心、至誠の心)、清浄心(しょうじょうしん:清らかな心)、平等心、正覚心、慈悲心を用います。天地のように僅かな私心も無く、僅かな分別・執着も無く、平等に一切衆生を助けます。仏法の中では慈悲と言います。大慈大悲で一切衆生に接します。社会はそうして順調に安定し、問題や衝突は解消していきます。
義
什麼是義?義是循理,遵循道理,今天講起心動念、言語造作合情、合理、合法。處世,生活、工作、待人接物,除了「仁」,還要用「義」去輔佐,才能做到圓滿。中國自古以來,法定得很嚴,為什麼?希望你不要犯法,目的在此地。執法的時候要恕。這裡就有情、有義。法不能不嚴,不嚴人不怕;執法的時候,不能用殘忍的心,不能用殘酷的手段,還是用愛心來處理。所以,盡量從,讓他生起感恩心、慚愧心,讓他回頭。這是義。
義とは何でしょうか?義は道理に従うことです。今日で言えば、心の働きや言葉や行為が、情に適い、理に適い、法に適うことです。処世、生活、仕事、人間関係は、「仁」の他に「義」を用いて補います。それでこそ円満にすることができるのです。中国では昔から、法律は厳しいものでした。なぜでしょうか?法を犯して欲しくないからです。目的はここにあります。法を執行する時は寛大に許します。この中には情があり、義があります。法は厳しくなければなりません。厳しくなければ人は恐れません。法を執行する時は、残忍な心を用いてはなりません。残酷な手段を用いることなく、愛の心をもって処理します。ですからできるだけ寛容にして、人に感謝の心、慚愧の心を起こさせ、人を改心させます。これが義です。
「義」是盡義務,為一切眾生服務,不求果報,不求回報,不講權利。無論在什麼地位、什麼身分,應當做哪些事情,都要把事情盡心盡力做好;處事待人接物循規蹈矩,利益眾生,不傷害眾生,這就叫義。有義走遍全世界,沒義就走不通。
「義」はなすべき務めを果たすことです。一切衆生の為に奉仕して、果報を求めず、見返りを求めず、権利を重んじません。どのような地位・身分であろうと、すべきことを全力を尽くして行うことです。人間関係はよく規律を守り、衆生を利益して害さないこと。これを義と言います。義があれば全世界を歩き回れます。義がなければ歩けません。
中國自古以來教學是義務,束脩是學生對老師的供養,老師決定不會訂標準,有訂價那是生意買賣。教學是義務,這是師道。若訂價碼,貧窮人受教育的機會就沒有了。所以中國的師道是多麼值得尊敬。
中国では昔から教学は奉仕でした。束脩(そくしゅう:束にした干し肉)は学生の老師に対する供養(謝礼)でした。老師は絶対に基準を定めません。価格を定めれば、それは商売です。教学は奉仕です。これが師道(しどう)です。もし価格を定めれば、貧しい人は教育を受ける機会がなくなります。中国の師道はこれほど尊敬する価値のあるものです。
孔子教學,有教無類,對學生決定沒有分別,學生對老師的供養是隨意的,富有的多供養一點,貧窮的少供養一點,沒有也行。所以老師都很清貧,但是他在社會上有崇高的地位,受到大眾普遍的尊敬。
孔子の教学は、どのような人にも等しく教育しました。学生に対して分別することは絶対にありません。学生の老師に対する供養は自由です。裕福な人は多く供養し、貧しい人は少なく供養します。しなくても良いのです。ですから老師は清貧でした。しかし社会的に崇高な地位があり、大衆から広く尊敬を受けていました。
所以要講求義務,人人都能夠對社會、對大眾願意盡義務,不講求報酬,這個社會才真正有進步。報酬裡有偷工減料的,有偷懶、欺騙的,義務裡頭沒有。
ですから奉仕を重んじること、人々が皆社会に対して、大衆に対して奉仕することを願い、報酬を求めなければ、その社会は本当に進歩します。報酬を受ける者の中には手を抜いたり、ずるをしたり、騙したりする者がいますが、奉仕する者のなかにはいません。
我們要給眾生做個講義、行義的好榜樣。幫助眾生的項目眾多,那要看我們是在什麼樣的地位,什麼樣的身分。或者是用財力,或者是用勞力,或者是用智慧,或者三個都用,盡心盡力,全心全力,為一切苦難眾生工作;幫助他解除苦難,離苦得樂。不要計較報酬,也不要計較工作環境。心裡存義,做出道義、仁義、情義、恩義的形象來幫助社會,廣度眾生,讓眾生回歸道義。
私たちは衆生に義を説き、義を行う良い手本にならなければなりません。衆生を助ける項目はたくさんあります。それは私たちがどのような地位なのか、どのような身分なのかによります。財力を用い、労働力を用い、智慧を用い、或いはその三つを用いて、力の及ぶ限り全力で、一切の苦難の衆生の為に仕事をします。人の苦難を取り除き、苦しみを離れ、安らぎを得るのを助けます。報酬にこだわってはなりません。また仕事の環境にこだわってはなりません。心に義を留めて、道義、仁義、情義、恩義の姿を見せて社会を助けます。衆生を広く済度し、衆生を道義に回帰させます。
礼
禮是生活規範,是社會秩序,禮是有節度的,不能夠超過也不能不及,也不能不到。儒家講的禮,是古聖先賢、祖宗傳下來的教誨。禮的本質(內在精神)就是恭敬、謙卑,表現在外的身口意(三業),自然就現出尊重恭敬別人的相,這就是禮。所以禮是以心為根本。古人講「誠於中而形於外」,內心有誠敬,外在身體自然表現出禮。禮之本——恭敬心,恭敬心是我們本性,是自性中的性,本有的。學禮的目的就是恢復恭敬心,「禮者,敬而已矣」。
礼は生活規範であり、社会秩序です。礼には節度があり、度を越しても、及ばなくても、至らなくてもいけません。儒家の説く礼は、古の先賢、ご先祖様が伝えた教誨です。礼の本質(内在する精神)は恭敬(きょうけい)、謙卑(けんひ:謙遜)であり、外においては身口意(しんくい)に現れ、自然に他人を尊敬し、恭敬する相が現れます。これが礼です。ですから礼は「心を以て根本と為す」のです。古人は「誠於中而形於外」(中(うち)に誠あらば外に形(あらわ)る)と説かれています。心に誠敬(せいけい:真心から敬うこと)があれば、外の身体には自然に礼が現れます。礼の根本は、恭敬心です。恭敬心は私たちの本性であり、自性(じしょう)【注2】の中の性徳です。もともとあるものです。礼を学ぶ目的は恭敬心を取り戻すことです。「礼者,敬而已矣」(礼は、敬のみ)。
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【注2】 自性(じしょう)・・・・各人に内在する真如(しんにょ=宇宙の根源的な存在、永久不変の真理)、真心のこと。本来具えている性質。
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在佛教到中國來之前,中國古聖先賢把禮敬擺在第一條,謙卑是基礎,沒有謙卑什麼都不能建立。所以從謙卑開始奠定基礎,然後學敬愛別人,從內心真正敬愛、尊重、關懷、照顧、幫助眾生。
仏教が中国に伝わる前、中国の古の先賢は礼敬を第一条に置いていました。謙卑(けんひ:謙遜)が基礎です。謙卑がなければ何も建てられません。謙卑から基礎を建て始め、その後で人を敬愛することを学びます。心の中から本当に衆生を敬愛し、尊重し、思いやり、配慮し、助けます。
《曲禮》第一句就講「毋不敬」;在佛法講整個宇宙跟自己是一體,所以禮敬要遍法界虛空界,就如普賢菩薩「禮敬諸佛」一樣地謙卑恭敬。對一切人、事、物都不能夠失禮、失敬,這是成佛成聖賢的大根大本。中國聖人跟佛菩薩的觀點一樣,真正有學問、有行的人沒有驕傲,沒有別人不如我的想法,只要有人請教,無論是什麼身分的人,上自國王大臣,下至販夫走卒,他們都親切教導。可見聖賢們平等的恭敬心。
『礼記』「曲礼」の第一句は「毋不敬」(敬わざることなかれ)です。仏法では全宇宙は自分と一体であると説かれています。ですから礼敬は法界虚空界(全宇宙)に遍く広がり、正に普賢菩薩の「礼敬諸仏」(らいきょうしょぶつ:諸仏を礼敬す)と同じように謙卑(けんひ:謙遜)し、恭敬します。一切の人、事、物、すべてに礼と敬いを失してはなりません。これは仏に成り、聖賢に成る大根本です。中国の聖人と仏菩薩の観点は同じです。本当に学問があり、徳行がある人に傲慢さはありません。人は自分に及ばないという考えはありません。ただ教えを請う人がいれば、どのような身分の人であろうと、上は国王大臣から下は物売りや使い走りまで、彼らは親切に教え導きました。聖賢たちの平等な恭敬心が分かります。
「禮」,是有節度的,不超過也不能不及;它給的水準,是剛剛好的,可以欣賞,可以享受,不至於氾濫。佛法講「十善業道、三皈五戒」,其中有淺有深,最淺的人天法就是節制,不至於造成災難!中品十善就保人身,上品十善生欲界天。
「礼」は節度があることです。度を越しても及ばなくてもいけません。その基準は、ちょうど良いということです。楽しんだり、享受したりしても、行き過ぎてはなりません。仏法では「十善業道、三帰依、五戒」を重んじます。その中には浅いものも深いものもあり、最も浅いものは人天(人道、天道)の法、つまり節度です。災難をもたらすには至りません!中品(ちゅうぼん)の十善は人身を保ち、上品(じょうぼん)の十善は欲界天に生まれます。
往大處、往深處講,它是無上菩提的基礎,所以有這些基礎,能深明因果,雖有習氣,煩惱沒斷,但能控制,能止得住,不會太過分,這就是合禮,是名符其實的賢人君子。沒有節度,基礎不能向上提升,人都做不好,怎麼能作佛、作菩薩?
大きなところ、深いところから言えば、それは無上菩提の基礎です。ですからこの基礎があれば、因果を深く理解して、たとえ煩悩の習気(じっけ)を断てなくても、制御することができ、とどめることができ、度を越すことはありません。これが礼に適うことです。名実相伴う聖人君子です。節度がなければ、基礎を高めることはできません。人として良い行いができなくて、どうして仏や菩薩に成れるでしょうか?
作為弟子,想成就學問,無論是世間法、出世間法,先學規矩。所謂「不依規矩,不成方圓」!規矩在佛就是戒律,在儒就是禮;禮是社會大眾生活的規範,人人都要遵守。禮的條文是隨著時代而修訂的,適合時代。
弟子として、学問を成就させようとするなら、世間の法(処世の法)、出世間の法(仏菩薩の法)に関わらず、まず規則を学ばなければなりません。いわゆる「規則に依らねば基準を成さず」です!規則は仏法では戒律です。儒学では礼です。礼は社会大衆の規範です。誰もが遵守しなければなりません。礼の条文は時代に合わせて改正されるものです。時代に合わせます。
古禮,每個朝代,日常生活的禮節,祭祀祖先的禮節,賓主相見的禮節,婚喪喜慶的禮節,都訂得很清楚,一定要照著做才不失禮,不照做就不懂禮。譬如人跟人相見面,在古禮行最敬禮,就是三跪九叩首,這是最恭敬的禮節;現在最恭敬的禮節是三鞠躬,不一樣了。
古礼はどの王朝時代においても、日常生活の礼節、先祖祭祀の礼節、主客面会の礼節、冠婚葬祭の礼節、すべて明確に定められていました。礼に照らして行えば礼を失することはありません。礼に照らさずに行えば礼儀知らずになります。人と人が面会する時、古礼における最敬礼を行うなら、それは三跪九叩首(さんききゅうこうしゅ)【注3】です。これは最も恭敬を尽くした礼節です。現在の最も恭敬を尽くした礼節は、三度の鞠躬(きっきゅう:立ったままのお辞儀)です。同じではありません。
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【注3】 三跪九叩首(さんききゅうこうしゅ)・・・・跪いて三拝して立ち上がる動作を三度繰り返す最敬礼。三跪九叩、三跪九叩の礼、三跪九叩頭とも言われる。「叩首」と「叩頭」は同義で、いずれも地に頭をつけること。日本では土下座というと非を認めて謝罪するものとしての意味ばかりが強調されるが、本来は相手に敬意を表す、礼節の作法であった。
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從滿清亡國之後,一直到現在,將近一百年沒有禮樂。比如父母過去了,喪禮怎麼辦?披麻帶孝,那是滿清的禮。國家沒有制禮作樂,怎麼做都對。這在將來史學講這叫亂世,沒有規矩。從前朝代,歷史上有他的史,那什麼原因?他制禮作樂,就是說他的政治上軌道。沒有禮樂,就是始終還沒有上軌道,還在摸索。
清朝が滅んだ後、今に至るまでずっと、百年近く礼楽(れいがく)【注4】はありません。例えば両親が亡くなったら、葬礼はどうするのでしょうか?「披麻帯孝」(白の麻布をかぶって喪に服すこと)です。それが清朝の礼です。国家が礼楽を定めなければ、どのようでも良くなってしまいます。それは将来の史学で乱世と呼ばれます。規則がありません。昔の王朝時代、歴史上その「史」(歴史書)がありました。その原因は何でしょうか?礼楽を定めていたからです。つまり政治に軌道がありました。礼楽がなければ、始終軌道に乗ることはなく、模索し続けることになります。
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【注4】 礼楽(れいがく)・・・・社会秩序を定める「礼」と、人心を感化する「楽」。秩序ある社会を作るための礼節と音楽。
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中國這一次的亂,在歷史上來講時間是最長的。我們讀中國歷史,知道中國這兩千多年當中,任何一個朝代建立,帝王都要重新制禮作樂來教化人民,一般頂多是五年,國家一定就公佈禮樂,全國必須要推行,人人都知道守規矩,所以中國古時候是禮治,不是法治;法治是強迫性的,禮治是從內心裡的服。
中国の今回の乱れは、歴史的にも最も長いものです。私たちは中国の歴史を読みますと、中国のこの二千年の中で、如何なる王朝が築かれても、帝王は皆新たに礼楽を定めて人民を教化しました。一般には多くて五年です。国家は必ず礼楽を公布して、全国に普及させなければなりません。誰もが規則を守ることを知っていました。ですから中国は昔は「礼治」でした。「法治」ではありません。法治は強迫的です。礼治は心の中から敬服させるものです。
中國自古以來的標準:道、、仁、義、禮,禮是底線。有禮社會就有秩序,大家心理都安,都能委曲求全。「全」是圓滿,是社會安定、世界和平、人民幸福。自己受一點委屈,得到圓滿,值得!不肯委屈,圓滿就得不到了。所以一定要有禮,禮能安心。如果沒有禮,就沒有規矩,社會不會安定,人民不知道怎樣做對,怎樣做不對。就像車行走有軌道,有軌道很舒暢。軌道沒有了,車輛衝直撞,局面就亂了。
中国の古くからの基準は、道、徳、仁、義、礼です。礼は最低ラインです。礼のある社会には秩序があり、人々の心は安心し、不満があってもまるく収めようとします。まるは円満であり、社会の安定、世界の平和、人民の幸福です。自分に少々不満があっても、円満になるならその価値はあります!不満を受け入れられなければ、円満は得られません。ですから必ず礼がなければなりません。礼は心を安んじます。もし礼がなければ規則がなくなります。社会は安定しません。人民はどうすれば正しく、どうすれば間違いなのか分かりません。ちょうど車の通行に車道があるようなものです。車道があれば快適に走れます。車道がなければ車両は縦横に衝突して、場が乱れてしまいます。
禮是人類區別於禽獸的標誌,禮是文明的象徵。古人曰:「凡人之所以為人者,禮義也」。如今,人和動物的區別,就在於人有禮,禮是我們做人最低的標準。禮是起到預防、防禦的作用,是治未病,法律是手術開刀,是治已病;禮是讓我們自覺的維護道,到了法律,是已經完全違背了道、道義,所受到的制裁。
礼は人類と鳥獣とを区別する目印です。礼は文明の象徴です。古人曰く、「凡人之所以為人者,礼義也」(凡そ人の人たる所以(ゆえん)は、礼義なり)。今でも人と動物の区別は、人に礼があることです。礼は人としての最低ラインの基準です。礼には予防、防御の作用があり、未病を治します。法律はメスを入れる手術です。患った病気を治します。礼は私たちに道徳を守ることを自覚させるものです。法律とは、完全に道徳・道義に背いてから受ける制裁です。
所以學禮,不是約束、要求我們,而是在成就我們做人的美,成就我們的行和學問。禮沒有了,完全是爭利。現在這個社會沒有禮,都在爭利,天下大亂了,防線都沒有了。內三毒,外誘惑,人失去了人的軌道,那跟餓鬼、地獄、畜生就沒有兩樣。
ですから礼を学ぶことは、束縛を要求するものではありません。私たちに人としての美徳を成就させ、徳行と学問を成就させるものです。礼がなくなれば、完全に利を争うばかりになります。今のこの社会には礼はありません。すべて利を争い、天下は乱れています。予防線さえなくなっています。内の三毒(貪瞋痴)、外の誘惑、人は人としての軌道を失っています。それでは餓鬼、地獄、畜生と何も変わりがありません。
沒有禮,儒就沒有了,學儒就變成儒學。秩序沒有了,規範沒有了,所以現在學禮很難,只有找古禮,《弟子規》、《感應篇》、《十善業》是最淺顯的禮節,是基礎。禮治的基礎是教學,人人能夠懂得忠孝節義,從這裡下手,能自度度他,禮治就可以落實,這樣,才能夠幫助社會安定,幫助世界走向和平。
礼がなければ儒はありません。儒に学ぶのではなく、儒の学術に変わってしまいます。秩序がなくなっています。規範がなくなっています。ですから今は礼を学ぶのは難しく、古礼に求める他はありません。『弟子規』、『太上感応篇』、『十善業道経』は最も簡明で分かりやすい礼節であり、基礎です。礼治の基礎は教学です。誰もが忠孝の礼節を理解すること。ここから着手します。自分を救い、人を救うことができます。それで礼治は実行できます。そうなれば社会の安定を助け、世界が平和に向かうのを助けることができます。
智
「智」是理智,處事待人接物要理智,不能感情用事,就不會犯過失。「智」跟佛法所主張的完全相同,這是屬於性。現在人多半感情衝動,頭腦不夠冷靜。頭腦冷靜就有理智,才能真正判斷正邪、是非、真妄。感情衝動的人不辨是非,不曉得好歹,一切都順著情欲。佛是順理智,理智是覺,感情是迷。
「智」は理智です。物事の対処や人間関係には理智が要ります。感情で事に対処しなければ、過失を犯すことはありません。「智」は仏法の主張するところと完全に同じです。これは性徳(しょうとく:生まれながらに具えている能力)に属します。今の人は多くの人が感情の衝動に駆られて、頭脳の冷静さが足りません。頭脳が冷静であれば理智があり、本当に正邪、是非、真妄を判断することができます。感情の衝動に駆られている人に是非の区別はつきません。良し悪しは分かりません。すべて情欲に従っています。仏は理智に従います。理智は悟りであり、感情は迷いです。
信
「信」是言而有信,講信用。中國人講相信自己,相信自己本來是聖賢,相信自己本性本善,相信自己本來是佛,相信自己只要努力,能恢復到自己的本位。學佛要相信自己本來是佛菩薩,能成佛菩薩,不相信自己是佛菩薩,永遠不會成佛菩薩。不相信自己的心是本善,永遠做不到善人。我們就是因為無始劫以來不相信自己本來有圓常的覺性,所以一直在迷。
「信」は約束を守ること、信用を重んじることです。中国人は自分を信じることを重んじます。自分は本来聖賢であると信じ、自分の本性は善であると信じ、自分は本来仏であると信じ、自分は努力しさえすれば自己の能力を取り戻せると信じることです。仏法を学ぶには、自分は本来仏菩薩(ほとけぼさつ)であり、仏菩薩に成れると信じなければなりません。自分が仏菩薩であると信じられなければ、永遠に仏菩薩には成れません。自分の心は本来善であると信じられなければ、永遠に善人にはなれません。私たちは正に無始劫(むしごう:果てしなく長い時間)以来、自分には本来円常の覚性があることを信じられないために、迷い続けているのです。
「信」是基本的道,稱為信。這是做人最基本的道理;是做事情負責任,說到做到,絕不欺騙別人。孔子講「人無信不立」,老祖宗把信放在道的最底限,五常:仁義禮智信,信是最後一個行,如果信沒有了,前面四個全部都是假的。
「信」は基本の道徳で、信徳と言います。これは人としての最も基本的な道理です。事に当たっては責任を持ち、言うこと為すこと、絶対に人を騙してはなりません。孔子は「人無信不立」(人信無くば立たず:人は信頼がなければ成り立たない)と説いています。ご先祖様は「信」を道徳の一番下に置きました。五常は、仁義礼智信です。信は最後の徳行です。もし信がないなら、前の四つはすべて偽りです。
信好比是第一層樓,理智是第二層,禮是第三層,義是第四層,仁是第五層,第一層沒有,前面四個全都沒有,信是道的根基,人要不講信用,所有道都毀掉了。中國自古以來把信擺在做人第一個條件,人無信則不能立足於社會。信是傳統文化的最後的一個底限,如果信心失掉,中國傳統文化就滅了。
信はちょうど建物の一階のようなものです。理智は二階、礼は三階、義は四階、仁は五階です。一階がなければ上の四つは全部ありません。信は道徳の基盤です。人が信用を重んじなくなれば、あらゆる道徳は崩壊します。中国は昔から「信」を人としての第一条件に置いていました。人は信用がなければ社会に立つことはできません。信は伝統文化の最後の一線です。自信を失えば中国の伝統文化は滅びます。
方東美先生曾經跟我說過,古時候中國人有信心,現在沒有了。你去調查一下,你能相信自己嗎?你能相信父母嗎?你能相信老師嗎?你能相信家親眷屬嗎?能相信你的朋友嗎?答案全是否定的,這個日子怎麼過!這真正叫信心危機。
方東美先生はかつて私に言いました。昔の中国人には信じる心がありました。今はなくなりました。調査してみて下さい。あなたは自分を信じられますか?両親を信じられますか?家族親戚を信じられますか?あなたの友人を信じられますか?答えはすべて否定的なものです。どのように暮らしていくのでしょうか!これは本当に信じる心の危機というものです。
今天社會為什麼這麼亂?地球災難為什麼這麼多?第一個因素就是我們把信心失掉了,造成社會動亂,災難頻繁。如何拯救社會?如何化解地球上的災難?那就是建立信心。信心怎麼建立?讀聖賢書。英國歷史哲學家湯恩比博士教人,「解決二十一世紀世界的社會問題,只有中國孔孟學說跟大乘佛法」。從孔孟學說、大乘佛法建立信心。
今の社会はなぜこれほど乱れているのでしょうか?地球の災難はなぜこれほど多いのでしょうか?第一の要素は私たちが信じる心を失ったことです。そのために社会の動乱を招き、災難が頻繁に起きているのです。どうすれば社会を救えるのでしょうか?どうすれば地球上の災難を解消できるのでしょうか?それは信じる心を打ち立てることです。信じる心はどのように打ち立てるのでしょうか?聖賢の書を読むことです。イギリスの歴史哲学者・トインビー博士は、「二十一世紀の社会問題を解決するのは、中国の孔孟学説と大乗仏法しかない」と言っています。孔孟学説、大乗仏法から信じる心を打ち立てることです。
仁義禮智信,五種基本的道,這是做人的基礎,起心動念、言語造作都不能違背。《左傳》上有句話說,「人棄常則妖興」,意思是說人要把五常仁義禮智信丟掉,就不是人了,是妖魔鬼怪,因為妖魔鬼怪不講仁義禮智信。
仁義礼智信は、五つの基本の道徳です。これは人としての基礎であり、心の働きや、言葉や行為において背いてはなりません。『春秋左氏伝』には、「人棄常則妖興」(人常を棄つれば則ち妖興る:人が常識を失えば妖怪が栄える)と説かれています。その意味は、もし人が仁義礼智信の五常を失えば、人ではないということです。妖怪です。妖怪は仁義礼智信を重んじません。
我們現在講人格,人格就是做人的資格,就是這五條。要想來世還得人身,那得好好把這個人格保持住,一生當中起心動念、言語造作都能守住這五,來生才能得人身。要生天,這五個條件要加強,要修十善業道才能生天,天的資格比人要高。可見五常太重要了。古今中外永遠不能變更的,人人需要遵守的,決定不能夠失掉。
私たちは今人格を重んじます。人格は人としての資格であり、正にこの五ヶ条です。来世でも人身を得たいと思うなら、しっかりと人格を保持して、一生涯心の働きや、言葉や行為、すべてこの五徳を守ることです。来世は人身を得られます。天に生まれたければ、この五ヶ条をより強化しなければなりません。十善業道を修めてこそ天に生まれます。天の資格は人よりも高いのです。五常はどれほど重要なことでしょうか。古今東西永遠に変更することはできません。誰もが遵守しなければなりません。絶対に失ってはなりません。
要拯救災難,要端正社會風氣,傳統倫理道必須提倡,仁義禮智信這五個字是總綱領。
災難を救おうと思うなら、社会の気風を正さなければなりません。伝統の倫理道徳を必ず提唱しなければなりません。仁義礼智信、この五字はすべての綱領です。