浄空法師説法研究

浄空法師の説法に学びながら、日本語に翻訳して紹介しています。

子どもはなぜ教育しにくいのか

2011-12-30 | 【伝統文化の復興】


孩子為什麼不好教 / 子どもはなぜ教育しにくいのか
文摘恭錄—淨土大經解演義(第一四五集)2010/9/16 

小孩從一出生就開始教。一出生,你別瞧不起他,他睜開眼睛會看,豎起耳朵他會聽,他已經在模仿、在學習。所以從出生到三歲這一千天,在中國古人說這是紮根教育,完全是母親教的。這個根紮下去之後,他接受的是五倫五常、四維八,都是做給他看的,不是講給他聽,他不會聽。父母做出好榜樣給他看,他統統看到了,統統學會了。
子どもは生まれてから教え始めます。生まれたばかりでも、見下してはいけません。子どもは目を見開いて見ることができ、耳をそばだてて聴くことができ、すでに真似をしながら学習しているのです。ですから生まれてから三歳までの一千日のことを、中国の古人は根を張る教育と言って、すべて母親が教えていました。この根を張った後で、子どもが受け入れるのは五倫五常、四維八徳ですが、すべて親がやって見せるものです。子どもに言い聞かせるものではありません。子どもは聴きません。両親は良い模範を子供に見せてあげてれば、子どもはすべて見ていて、身につけることができます。

六、七歲再上學,上學之後,老師做榜樣,所以老師的恩跟父母一樣。孩童是學會了,但是還不成熟,總得十二、三歲才成熟,在這段期間就是要靠好老師。所以家教、家學,家教是父母,家學這就是老師,從前的私塾。私塾多半都用祠堂做學校,因為祠堂只有春秋祭祀,平常都用不上,場地也很大,所以就辦學。這是非常之好,因為你辦學,你天天拜祖宗,在祠堂裡頭,這都是提倡孝道。
六、七歳で学校に通い、学校に通うようになった後は、先生が模範となります。ですから先生の恩徳は両親と同じです。子どもは学ぶことができますが、まだ未成熟です。総じて十二、三歳でようやく成熟しますが、この時期には良い先生に頼ります。ですから家庭教育は両親が、家伝の学問は先生が教えます。昔の私塾です。私塾の大半は祀堂(しどう/神仏を祭るおやしろ)で学校を開いていました。祀堂は春と秋のお祭りだけで普段は使っておらず、場所も広いので、学校にしていたのです。これはとても良いことです。なぜなら学校を開けば、祀堂の中で毎日祖先を拝むので、孝道を提唱することができます。

所以古諺語有所謂「三歲看八十」,你這個根,三歲這個根紮下去,八十歲不會變,不會學壞!是「七歲看終身」。現在這兩句話用不上了,為什麼?三歲他什麼都不懂,他現在從哪裡學?他現在從網路、從電視上學。小孩睜開眼睛看電視,電視裡教他什麼?教他暴力、色情、殺盜淫妄。所以現在很多做父母的來告訴我,小孩不好教;老師告訴我,學生不好教。當然,為什麼?沒紮根,他怎麼會好?
ですから古い諺のいわゆる「三歳看八十」(三歳で八十歳の様子が想像できる)、この根は、三歳でこの根を張っておけば、八十歳になっても変わることがなく、(悪い影響を受けて)悪くなることもありません。「七歳看終身」(七歳で一生の様子が想像できる)(脚注1)。今ではこの二つの諺は使えません。なぜでしょう?三歳の子どもは何も分からないうちに、どこから学ぶのでしょうか?子どもは今インターネットで学び、テレビで学んでいます。子どもは目を見開いてテレビを見ていますが、テレビが教えるのは何でしょうか?子どもに暴力を教え、色情、殺人、窃盗、淫乱、虚妄を教えているのです。ですから今、多くの親御さんが私ところに来て「子どもは教育しにくい」と言い、先生は「学生は教育しにくい」と言います。当然のことです。なぜでしょう?根を張っていないからです。それで子どもはどうして良くなるでしょう?

<脚注>
.「三歳看八十」(三歳で八十歳の様子が想像できる)、「七歳看終身」(七歳で一生の様子が想像できる)。
  ともに日本でいう「三つ子の魂百まで」(幼い頃の性格は終生変わらない)とほぼ同義。(筆者)


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