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海軍滋賀航空隊の予備学生の特攻隊要員から生還した安倍晋太郎という人物の謎

2022-07-27 17:25:17 | トピックス




安倍元首相の父である「安倍晋太郎」という人物について焦点をあててみることに。


安倍晋三元首相の父の安部晋太郎元外務大臣は1924年(大正13年)4月29日に東京市四谷区にて誕生。昭和天皇とお誕生日が同じです。


政界では「プリンス」と呼ばれ、竹下登元首相、宮沢喜一元首相らと並び、安竹宮のニューリーダーとされ、首相候補の一人と目されておられました。


ところで、「プリンス」と呼ばれていたのは、昭和の妖怪とよばれた大物政治家岸信介元首相の娘婿であったからなのでしょうか?


安倍晋太郎氏の父は山口県出身で帝国議会の商工省委員や外務省委員などを務めた安倍寛、母は陸軍軍医監本堂恒次郎の長女の静子。


■実父
安倍寛(1894年~1946年)
4歳の時に両親を亡くし、伯母のヨシに育てられ 、山口県立萩中学校、金沢の旧制第四高等学校を経て、1921年(大正10年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業。

帝大卒業後は東京で自転車製造会社 三平商会を経営していたが、1923年(大正12年)の関東大震災で工場が壊滅し、会社は倒産。本堂静子と結婚し長男晋太郎を儲けるが、直後に離婚し以降は独身で暮らした。


その後山口県に戻り「金権腐敗打破」を叫んで第1回普通選挙とされる1928年(昭和3年)第16回衆議院議員総選挙に立憲政友会公認で山口県一区から立候補するも落選。

その後学生時代に罹患していた結核が再発し、それにより脊椎カリエスを併発し療養。1933年(昭和8年)に地元住民に請われる形で日置村長に就任。

1935年(昭和10年)からは山口県会議員兼務などを経て、1937年(昭和12年)の第20回総選挙にて「厳正中立」を唱え山口県一区から無所属で立候補し衆議院議員に初当選。

昭和15年戦争がはじまっても非戦・平和主義の立場を貫き、1938年(昭和13年)の第一次近衛声明に反対し、1942年(昭和17年)の第21回総選挙(翼賛選挙)に際しても東條英機らの軍閥主義を鋭く批判


大政翼賛会の推薦を受けずに立候補するという不利な立場であったが、最下位ながらも2期連続となる当選を果たした。

議員在職中は三木武夫と共同で国政研究会を創設し、塩野季彦を囲む木曜会に参加して東条内閣退陣要求、戦争反対、戦争終結などを主張した。帝国議会では商工省委員や外務省委員などを務めた。戦後は日本進歩党に加入し1946年(昭和21年)4月の第22回総選挙に向けて準備していたが、直前に心臓麻痺で急死。





■実母
母の静子(旧姓本堂静子)は、南部藩藩士の上田重温の次男で陸軍軍医監本堂恒次郎(1865年~1915年)の長女。

母方の祖父は長州藩出身の陸軍大将の大島義昌子爵(1850年~1920年)。

安倍寛と結婚し、長男である晋太郎を出産後に離婚。

離婚の原因は家同志の折り合い、静子の父で陸軍軍医監本堂恒次郎と戦争を嫌う寛との関係が原因だったなどとされているが、実際は別のところに原因があったとも推測されています。


関東大震災が起こったのは1923年9月1日で、第一子の晋太郎が生まれたのは翌1924年4月29日。寛と静子が離婚したのがその80日後ということは1924年の7月中旬。 
静子は、震災より前には、婚姻関係を継続する意思があって晋太郎を懐妊したものの、震災の結果(少なくとも一時的には)安倍家が金銭的に著しく逼迫するに至り、それに嫌気がさして離婚したと見るのが自然ではないか。

などのように推測されています。

引用元:


母静子は、父安倍寛との離婚後、横浜正銀の西村謙三という人物と再婚。晋太郎氏は母が再婚したとの報せを聞き、上京し実母に会いに行くも、再開することがかなわなかったとされる。


■異父弟
静子には西村謙三との間に次男で晋太郎の異父弟の西村正雄(1932年~2006年)がおり、この方は日本興業銀行やみずほホールディングス会長を歴任。

西村正雄氏は所謂典型的な「グローバリスト」で、戦後の自虐史観で育った人物のようです。

彼は「安倍晋三元首相が植民地支配や侵略行為に深い反省の念を表明した『戦後50年の国会決議』に欠席し、村山談話に曖昧な態度をとっていることに(血縁上の叔父に当たる立場から)懸念を示した」「安倍元首相のタカ派路線の危うさを『偏狭なナショナリズムを抑えるのが政治家なのに、晋三は逆に煽っている』『靖国参拝の正当化は国内では通っても、国際的には通用しない』と痛烈に批判」


この8歳下の異父弟西村正雄氏と安倍晋太郎氏が初体面したのは1979年になってからだそうで、そのときには晋太郎氏は55歳、西村氏47歳。それまでは安倍家は西村家と親族としての付き合いなども恐らくはなかったでしょうし、親族という感覚はあまりなかったのではないでしょうか。

 


■安倍晋太郎(1924年~1991年)
東京で生まれ山口で育ち
東京市四谷区にて1924年(大正13年)4月29日生まれ。両親は晋太郎の生後80日後に離婚。生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。

旧制山口中学校(現・山口県立山口高等学校)に進学後、一年間浪人した後、1943年(昭和18年)に第六高等学校(岡山市)に入学。

1944年(昭和19年)9月、1年半で繰り上げ卒業。東京帝国大学法学部に(推薦入学で)進学するが、同年10月海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊。


海軍滋賀航空隊は多くの特攻隊員を出しており、
「昭和19年9月30日、飛行専修15期予備学生約400名入隊」
「昭和19年10月1日、甲飛15期生約3000名入隊」
「昭和19年10月3日、飛行専修2期予備生徒約200名入隊」 などとあります。

集められた航空隊の予備学生らは特攻隊要員だったようです。

■滋賀海軍航空隊
日本海軍航空隊の中で航空専科に特化し既に下士官教育を受けた唯一の航空隊であり将来の海軍省、予科練生の教育官になるエリートを輩出する為の教養実務訓練を身に付ける目的であったが、マリアナ沖海戦の大敗北における戦局の悪化により海軍士官及びパイロット養成機関が短縮、 目的変更により最先端兵器を扱う特別攻撃隊に変わった。 

先端兵器の使用で戦地に赴いた戦死者が約8割に昇った。

戦死者が際立って多いのは昭和20年6月である。隊員達の多くは「滋賀海軍航空隊」を愛称で「滋賀空(しがくう)」と称した。


特攻隊員を多く出した滋賀空の予備学生として招集された安倍晋太郎氏は、からくもそこから生還したことになります。

■戦後
太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学、1949年(昭和24年)に卒業して毎日新聞社に入社。その間1946年(昭和21年)1月29日父寛が心臓麻痺で倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母ヨシが死去。


■岸信介の長女・洋子(1928年6月14日~)との結婚
1951年(昭和26年)5月、岸信介の長女・洋子と結婚。

1956年(昭和31年)12月23日、石橋湛山内閣が成立。

岸が外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣秘書官となった。岸内閣が成立すると、内閣総理大臣秘書官に就任。外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸や岸の実弟の佐藤栄作から時期尚早と反対された。

1958年の衆院選で初当選
1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙に、郷里の旧山口1区(定数4から自民党公認を得て立候補。

安倍が出馬したことにより、地元の旧日置村では、父の安倍寛の地盤を継いだ周東英雄を推す主流派と、安倍派に分裂したが、2位で初当選(この時の総選挙では竹下登、金丸信が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)

1963年(昭和38年)の第30回衆議院議員総選挙では落選。

支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、2回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相及び叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、吉田茂直系の周東英雄の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮、藤本万次郎を後援会長に迎えた。

1967年(昭和42年)の第31回衆議院議員総選挙で衆議院議員に返り咲く。これが周東が政界引退する遠因となった。
以降、安倍は死去するまで連続当選を続け、地盤は次男の安倍晋三へと引き継がれた。



少し手前に戻って、晋太郎氏の学徒動員での滋賀空時代について調べてみると・・


西村晃は1923年(大正12年)1月25日生まれで、1924年(大正13年)4月29日生まれの晋太郎よりも一歳年上だが、学年は2年上である。西村晃は1943年に学徒動員で兵役にとられ、第二次大戦中は海軍飛行予備学生末期には徳島航空隊の特攻隊員だったが、出撃機不良で基地に引き返し、その後終戦を迎えた。

この特攻隊員時代からの友人に、裏千家15代家元の千玄室がいる。この時の戦友は千と二人しか生き残ってい無い。

晋太郎と晃は同じ年の海軍入隊であり、此の前二人が互いに面識が無かったとしても、もしかしたら此の時会話を交わして居たかもしれない。

1946年(昭和21年)1月29日父寛が心臓麻痺で倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母ヨシが死去。

晋太郎氏は、太平洋戦争終結後、改称された東京大学法学部に復学、1949年(昭和24年)に卒業し毎日新聞社に入社。


1947年時点で安倍晋太郎という人物は事実上、天涯孤独の身となっており、彼を幼少期から知っている身内とは死別しているわけです。


戦後は東京大学に復学し、郷里の山口から離れ、東京で暮らしていたこと、恐らく当時の文系の大学生というのは晋太郎の例からもわかるように、学徒動員などで学業から離れ、戦死者なども出し、混乱の中にあったことが想像されます。


生後80日で生き別れた実母とは、「山口中学校に進学して、母親の再婚を知り、上京して居所を探すも、再会は叶わ無かった。」わけで、母方の親族とも殆ど晩年になるまで交流はなかった。
 

「多くの特攻隊員を出した滋賀海軍航空隊予備隊に入隊し、奇跡的に生き残った数少ない学生であった」ということ、生き残った戦友であるはずの千や西村晃との交流があったのかどうかは不明。


長いので一旦きります。


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