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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

「三・一独立運動」の宣言文はまさに「用日宣言」

2019-04-02 19:38:00 | 韓国・北朝鮮
2019/2/24(日) 午前 10:49

韓国のいう「三・一独立運動」の宣言文(注)は要約すると「朝鮮独立は(中略)日本をして邪路より出(い)でて東洋支持者たるの重責を全うせしめんとするもの」一言で言うと、「独立」といいながら相反する「他力本願」そのものの「用日宣言」で、「日本をして=用日して」、「邪路より出でて=ふがいない未開な大韓帝国から脱皮して」、「東洋支持者の重責を全うせしめんとする」=「日本に東洋(主に韓国のこと)を支えるという重責を負わせる」という意味なのだ。


ここでいう「東洋支持者」になれるのは、アジアで唯一近代化を遂げ、西洋列強と並ぶ地位の日本に期待しての言葉であるとしか考えられないし、当時、農業・工業その他の産業などなく世界の最貧国というほどに貧しく、外交的に諸外国から相手にされない大韓帝国は国内の近代法整備、国際法を熟知した上での外交、国民の教育水準、インフラなど全ての点で近代化以前であったのだから自国の近代化以前に「東洋支持者たる重責」を担えようはずがないからだ。


ついでに言えば、「三・一独立宣言」本文の中身は、実は旧宗主国である中国の威を借りながら、日本の併合の実態や差別感への不満を述べ、これを「改善匡正」してとくれというのが主旨らしい。反面、「日本を責めているわけではない」と言い訳もそえている。面白いことに、中国からの強奪支配の恐怖が夢にも忘れられない「不安恐怖」と、過去を振り返りながら、(それよりずっと日本の支配がましなので)『和風暖陽の気脈』に振舒(しゅうじぇん=まったりと身をまかすと言った意味でしょうか)するも、一時のことで躊躇なく、なんら忌憚することもない」と開き直っているのが内容。(下に本文を載せています)


歴史的な背景としては、パリ講和会議にさきがけて発表された米のウィルソン大統領の「十四か条平和原則」(1918年1月)に刺激を受け、1919年2月8日に、日本に留学中の朝鮮人学生達が東京神田のYMCAで「独立宣言書」を採択したことを受け、1919年3月1日に仁寺洞のテファグァンに集まった朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の指導者立33名が「行動計画」を採択したことを記念して宣言文を読み上げたことに始まる20世紀初頭に始まる韓国人特有の行動様式である「ロウソクデモ」のことだと思えばイメージしやすい。


但し、当然のことながら、韓国は当時日本の植民地支配で「簒奪」を受けていたのではなく、むしろ日本から莫大な費用=日本国民の血税からの国家予算をつぎ込まれてソフト面ハード面の整備という「恩恵」を受けていたので「十四か条平和原則」には韓国の「か」の字もなく他の本当の植民地の名前がならんでいたにすぎない。


しかし韓国内のデモ参加者である民衆の多くは韓国人官憲によるデモの取り締まりが強くなればなるほど反発も強まるわけで、ここは例によって、「植民市支配を受けていた被害者という虚構のコスプレ」が次第に始まっていることが想像できる。


発端となった民族代表33人は逮捕されたものの、本来独立宣言を読み上げるはずであった平城(現ソウル)パゴダ公園に数千人規模の学生が集まり、その後市内をデモ行進。道々「独立万歳」と叫ぶデモには次々に市民が参加し、数万人規模となったそうだ。ここからがいわば「ロウソクデモ」がスタートとなる。


以降、運動は始め朝鮮北部に波及し、その後南部に及んだ。結果、朝鮮半島全体に広がり、数ヶ月に渡って示威行動が展開。これに対し朝鮮総督府は、警察に加え軍隊も投入して治安維持に当たったそうで、3月から5月にかけて集計すると、デモ回数は1542回、延べ参加人数は205万人。そしてデモの回数・参加人数が多かったのは京畿道や慶尚南道、黄海道、平安北道などの地域。地方都市でデモを行う場合、人が集まる「市日」(定期市が立つ日)が選ばれ、通常より多くの動員ができるよう工夫。


運動の初期には、その発生は大都市に集中し、担い手は学生や教師といった人々が主導で、運動が広がりを見せ、地方都市や農村に舞台が移るようになると参加する人も多様となり、農民や労働者、商工業者、官僚、両班などが参加するようになったそうだ。


運動の形態はデモ行進、烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店などがあった。独立宣言にあったように当初は平和的な手段によって運動を行っていたが、次第に警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われ、暴徒化していった。


これに関して、「暴徒化した理由は日本側の弾圧が激しくなったための抵抗である」という意見や、逆に「暴徒を鎮圧するために多少の武力を使うことは、どの国でも行われる当然のことである」とする意見などがあるようだ。


そもそも、何故これほどまで韓国に日本が関わってしまったかといえば、日清戦争の日本の勝利後の「下関条約」で清からようやく独立し李氏朝鮮から「大韓民国」と名乗り日本の保護国となった韓国が相変わらず独自で発展することが出来ず、近代化以前の祖国を憂えた安重根が朝鮮総督府初代総監の伊藤博文を暗殺してしまった(1909年10月26日)事件がその後の「日韓併合」という一連の流れをつくるきっかけとなったことは事実だと思う。


日韓併合を旧宗主国である中国が面白く思うはずもないし、朝鮮半島を足掛かりにしてわざわざ中国にまで満州鉄道(注)をつくって大陸進出を図った大日本帝国の日中戦争のスローガン「大東亜共栄圏」という誇大妄想的発想が間違いの元であった。


伊藤暗殺のすぐ後に「一進会」という韓国最大の政治団体が併合を日韓双方の議会に「合邦請願」(1909年12月4日)を提出して併合を願い出て、結果双方の議会で「韓国併合に関する条約」(1910年8月22日:韓国皇帝が大韓帝国(韓国)の一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝(天皇)に譲与する」ことなどを規定した条約)が交わされたのであった。


一進会の主張は「日韓対等合併」だったそうだが、例えばオーストリア=ハンガリー帝国のオーストリアとハンガリーがやはり対等でなかったように、日清・日露戦争に勝利し、第一次世界大戦(朝鮮半島からの徴兵はゼロ)でも戦勝国側にいた日本と、産業がなく近代化以前で近代法やそのそも法律用語や哲学、科学などの概念用語も概念すらなかった韓国と日本が20世紀という西洋列強によるアジアやアフリカを植民地支配した時代背景からすれば対等な二国間の関係であると考える方が無理で、「植民地」(あくまでも他国)ではなく「併合」という形で自国に組み入れてしまったのは日本側にとってむしろ不利益でしかなったともいえるのではないだろうか。


ところで、安重根は日本の初代内閣総理大臣でかつ朝鮮総督府初代総監暗殺を図ったテロリストであるのだが、韓国ではご存知の通り切手になっている英雄である。


しかし1907年7月に京城(ソウル)で新聞記者達の前で、「日本は韓国を合併する必要なし。韓国は自治を要す」と演説していた総督府初代総監伊藤博文が仮に1909年10月26日に暗殺されず健在であったならば、伊藤の反対を押し切ってまで日本は1910年8月29日に「日韓併合」を行っていただろうか。


歴史には「もし」という仮定法での推論を述べたところで無意味ではあるのだが、恐らく日本政府は大韓帝国を「保護国」という名目で「監督」するにとどめていたのではないだろうか。何故なら当時、日本政府も韓国を併合することでかかる莫大な費用を懸念して反対の空気が強かったのであるから。


よく言われているように、韓国の「英雄」安重根が行ったこととは、結果論的にはむしろ「大韓帝国を日本に併合させ、1910年から約35年間、隣国である韓国に日本の国家予算の毎年1年分の予算を韓国につぎ込ませて近代化させること」であったし、日本は韓国を併合して中国への進出の足掛かりをつくってしまったことで、満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと進んでしまい破滅に近付いていったともいえる。


日中戦争のスローガンだった「大東亜共栄圏(全アジアを日本が保護する)」と似た言葉がちょうど、安重根のいうところの「東洋平和」という汎アジア主義(注)だと思うのだが、彼ら言う東洋は主に北東アジアで、日中韓のことをさしているらしい。これはまさに共産主義イデオロギーであったのだ。

「大東亜共栄圏」というスローガンは第2次近衛内閣(1940年)から敗戦(1945年)まで唱えられたもので、日本の対アジア政策構想や日本が共産主義化に傾いていった時代ともいえる。近衛文麿は「ゾルゲ事件」のスパイであった尾崎秀実の影響を受けていた共産主義者だったともいわれており、敗戦後、巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明に、荻外荘で青酸カリを服毒して自殺している。


そこに至るまで、日本国内に入り込んでいる外国人工作勢力による赤化工作(ロシアのコミンテルン組織のスパイによる共産主義化工作)が行われていたことは「ゾルゲ事件」をその明白な例として挙げることが出来るのだが、国を挙げて誇大妄想的「大東亜共栄圏」などという共産主義思想へと突き進んでしまったことで日本は破滅に近付いしまったのだった。


奇妙なことに安重根が伊藤博文暗殺を図った直後に叫んだ言葉とは、朝鮮語でもなく、日本語でもなく、ロシア語で「コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー! コレヤ! ウラー!(Корея! Ура! / 韓国万歳)」という三唱だったそうだ。日本にとって大きな分岐点となったこの事件のとき、彼が叫んだ言葉こそロシアと彼の繋がりを意味しているのではないだろうか。


彼が後に供述したところによると、朝鮮語ではなくロシア語を用いたのは「世界の人々に最もわかる言葉を選んだ」ためであったと述べているが、「世界の人々に最もわかる言葉」は、当時の世界情勢でも現在の世界情勢でもロシア語であろうはずはなく英語であろうとつっこみたくなるところだ。


彼が伊藤暗殺事件のときに所持していたブローニング拳銃7連式の銃は製造元はベルギーのFN社、販売先はクンフト社でロシア陸軍のものだったそうだ。そして実際に伊藤博文を絶命させたのは安重根の撃った5発ではなく、右肩から左下に体内に残った弾が致命傷であったようで、そのような角度になるには、二階などの高い場所からの狙撃でなければ出来ないし、安重根本人は伊藤の顔を知らず、それ故に伊藤の後ろにいた人物も念のために撃っており、伊藤の随行者達は計10発もの流れ弾を受けている。


つまり、安重根の拳銃以外の銃からもほぼ同時に弾が発射されたと考えられること、そもそもその日に伊藤をハルピンに呼び出したのは「満州鉄道」に関する話し合いを望んだロシアであったし、伊藤をハルピン構内でロシアの閲兵式を受けるよう再三促してわざわざ列車の外におびき出して狙撃しやすい位置に立たせたのもロシアだったのだ。


少し飛躍したことを言えば、日本の国力の弱体化(共産主義化)を工作していたロシアに通じていた安重根を囮に仕立てて伊藤暗殺でカモフラージュにした伊藤暗殺事件(1909年10月26日)をきっかけとして、その後一進会による「合邦請願」(1909年12月4日)→日韓併合(1910年8月29日~1945年9月9日)→日中戦争「大東亜共栄圏」→太平洋戦争という日本破滅への道に進んでまったといえるのではないだろうか。


ここでやはり考えるべきこととして、「用日で日本に韓国の近代化をさせるも、あくまでも日韓は対等な合邦関係となる」ことを望んだ韓国と「いつまでたっても未開でロシアと日本の間を蝙蝠外交し、初代総理大臣を暗殺するような無法な国だからとても韓国独自の近代化は不可能」とみなす日本の思惑の違いこそがボタンの掛け違いの始まりであったこと。


ロシアの工作がどのくらい影響を及ぼしていたのかは、当時の日本政府の考えていたことをつぶさに検証してみなければわからないが、日本の「大東亜共栄圏」という発想はまちがいなく、ロシアによる日本弱体化工作だったのだ。


ボタンの掛け違いを残した併合から9年目の1919年3月1日に始まる「三・一独立運動」という「20世紀初頭のロウソクデモ」の始まりであったのかもしれず、そして現在の反日、嫌韓の始まりだったのかもしれない。


ついでにいえば、現在でも平和条約締結に至っていない日ロ間の歴史背景や溝も簡単には埋まりそうにない。



(注)「東洋平和」
安の書いた「東洋平和論」はこの汎アジア主義に極めて近い思想であり、日本の右翼にも共感できる部分が少なからずあった。安は韓国皇室と同様に日本皇室にも敬意を払った君主主義者であり、韓国支配の象徴的存在の外臣・伊藤の暗殺は、自民族の独立を願う志士の純粋な行動としては、幕末の勤皇志士につながるところがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事が「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声をあげたほどだったという評価もあるそうだ。

一方で、右翼活動家志賀直方の禅の師匠である三浦了覚は、安重根や李在明をもって志士仁人と見なすのは容易ならざる誤謬であると言い、彼らのような「道理の是非を誤認し天下の大勢に通ぜず偏頗なる識見を盲信して其の相手の敵を狙撃するもの」は「是れ正義人道の上より論断せば悪しむべき危険物にして少しも同情を与えるべき余地を発見せず」と書き、キリスト教徒の信者である安重根・李在明が天国を信じて「正義人道を根本より破壊したる凶悪を逞したる」だけであって、これを日本の武士道や志士のように見なすことはできないと批判。

安の評価は右翼においても毀誉褒貶分かれており、その後、テロに奔った朝鮮独立運動が日本国内での評判を悪くし、汎アジア主義が日本のアジア支配を根幹とした東亜新秩序を目指す立場に変質すると、志士との肯定的な評価は難しくなった、とある。



(注)「三・一独立宣言(乙巳独立宣言)」本文全文(日本語訳)

我らはここに我朝鮮が独立国であることと朝鮮人が自主民であることを宣言する。これをもって世界万国に告げ人類平等の大義を克明にし、これをもって子孫万代に教え民族自存の正当な権利を永久に保有させる。半万年歴史の権威によってこれを宣言し、二千万民衆の誠忠を合わせてこれを布明し、民族の恒久一の如き自由発展のためにこれを主張し、人類的良心の発露に基因する世界改造の大機運に順応併進するためにこれを提起するものである。これは天の明命、時代の大勢、全人類共存同生権の正当な発動であり、天下何者といえどもこれを阻止抑制することはできない。

旧時代の遺物としての侵略主義、強権主義の犠牲となり有史以来数千年で初めて異民族に束縛される痛苦を嘗めてからここに十年が過ぎた。我が生存権が剥喪されたのはどれほどか、心霊上発展が障礙されたのはどれほどか、民族的尊栄が毀損されたのはどれほどか。新鋭と独創によって世界文化の大潮流に寄与、補裨できる機縁をわれらはどれほど遺失したであろうか。


噫旧来の抑欝を宣暢しようとすれば、時下の苦痛を擺脱しようとすれば、将来の脅威を芟除しようとすれば、民族的良心と国家的廉義の圧縮銷残を興奮伸張しようとすれば、各個人格の正当な発達を遂げようとすれば、可憐なる子弟に苦恥的財産を遺与しないようにするならば、子々孫々の永久完全なる慶福を導迎しようとすれば、最大急務は民族的独立を確実にすることである。二千万各個人が方寸の刃を懐にし、人類の通性と時代の良心が正義の軍と人道の干戈とで護援する今日、我が進んで勝ち取るのにどんな強さが挫かせられるだろうか、退いて作すのに何の志が展するだろうか。

丙子修好條規以来時々種々の金石盟約を食んだとして、日本の信の無さを罪しようとするものではない。学者は講壇で、政治家は実際で我が祖宗世業を植民地視し、我が文化民族を土昧人遇し、ただ征服者の快を貪るだけで、我が久遠の社会基礎と卓越する民族心理を無視するものとして、日本の義の少なさを責めようとするものではない。自己を策励することに急ぐ我は他を怨尤する暇はない。現在を綢繆することに急ぐ我は宿昔を懲弁する暇はない。今日我の所任はただ自己の建設にあるだけで、決して他を破壊することにあるのではない。厳粛な良心の命令によって自家の新運命を開拓しようとするものであり、決して旧怨や一時的感情によって他を嫉逐排斥するものではない。旧思想、旧勢力に覇靡されている日本為政者の功名的犠牲である不自然で不合理な錯誤状態を改善匡正して、自然で合理な政経の大原に帰還させようとするものである。当初民族的要求に出されない両国併合の結果が、畢竟姑息的威圧と差別的不平と統計数字上虚飾の下で利害相反する両民族間に永遠に和同することのできない怨溝を去益深造させた今来実積をみよ。勇明果敢をもって旧誤を廓正し真正な理解と同情とを基本とする友好的新局面を打開することが、彼と我が間の遠禍召福の近道であることを明知すべきではないだろうか。二千万含憤蓄怨の民を威力で拘束することは東洋の永久の平和を保障する理由にならないだけでなく、これによって東洋安危の主軸としての四億万中国人の日本に対する危懼と猜疑を濃厚にし、その結果として東洋全局の共倒同亡の悲運を招致することは明らかである。

今日我の朝鮮独立は朝鮮人に正当な生栄を遂げさせると同時に、日本を邪路から出て東洋支持者としての重責を全うさせ、中国に夢にも逃れられない不安恐怖から脱出させ、東洋平和に重要なる一部をなす世界平和、人類幸福に必要な階段とさせるものである。これがどうして区々たる感情上の問題なのであろうか。

ああ新天地は眼前に展開された。威力の時代は去って道義の時代が来た。過去全世紀に錬磨長養させられた人道的精神は、今や新文明の曙光を人類の歴史に投射し始めた。新春は世界に来て万物の回蘇を催促しつつある。凍氷寒雪に呼吸を閉蟄したのも一時の勢いとすれば和風暖陽の気脈を振舒するのも一時の勢いであり、天地の復運に際し世界の変潮に乗じた我はなんらの躊躇なく、なんら忌憚することもない。我に固有の自由権を護全し生旺の楽を飽享し、我に自足の独創力を発揮し春満てる大界に民族的精華を結紐すべきである。

我らはここに奪起した。良心は我と同存し、真理は我と併進する。老若男女は陰欝な古巣から活発に起来して、万彙群象とともに欣快な復活を成し遂げる。千百世祖霊は我らを陰佑し、全世界気運は我らを外護する。着手はすなわち成功であり、前頭の光明に驀進するのみである。


公 約 三 章

一、今日我らのこの行動は正義、人道、生存、尊栄のための民族的要求であり、自由的精神を発揮するものであり、決して排他的感情に逸走してはならない
一、最後の一人まで、最後の一時まで民族の正当な意思を快く発表せよ
一、一切の行動は秩序を最も尊重し、我の主張と態度をあくまで光明正大とすること
朝鮮建国四千二百五十二年三月一日 朝鮮民族代表

      孫秉熙   吉善宙   李弼柱   白龍城   金完圭

      金秉祚   金昌俊   權東鎭   權秉悳   羅龍煥

      羅仁協   梁甸伯   梁滿默   劉如大   李甲成

      李明龍   李昇薫   李鍾勳   李鍾一   林禮煥

      朴準承   朴熙道   朴東完   申洪植   申錫九

      呉世昌   呉華英   鄭春洙   崔聖模   崔 麟

      韓龍雲   洪秉箕   洪基兆

(朝鮮建国4252年ということ自体が妄想です。李氏朝鮮は1392年~1897年、大韓帝国は1897~19010年、大韓民国は1948年建国ですから)


(注)満州鉄道:
中国大陸における列強の利権分割は、満州では主に鉄道利権の奪い合いという形で現れた。この結果、日露戦争終結後の1907年以降、満州の鉄道利権は東清鉄道を運営するロシアと南満州鉄道(以下「満鉄」)を運営する日本に二分されてしまう。一方中国資本の入った鉄道路線は満州の西隅を走っている北京-山海関-奉天間の京奉鉄路の他、満州中部にもいくつか存在はしていたものの、前者はイギリス系の香港上海銀行の借款によって建設されていて純粋な中国資本の路線ではなく、後者に至っては1913年に日中間で結ばれた「満蒙五鉄道覚書」、のち1918年に路線を組み直して改めて締結された「満蒙四鉄道覚書」により日本が借款契約を行って敷設したもので、実質的には日本の利権路線であった。


引用:
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2019/02/22/2019022280090_2.html


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%BB%E4%B8%80%E9%81%8B%E5%8B%95

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD%E5%9B%BD%E6%9C%89%E9%89%84%E9%81%93

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%87%8D%E6%A0%B9




コメント

我田引水。
2019/2/24(日) 午後 8:40 [ hin*uc*idok*ro ]

排他独善
2019/2/24(日) 午後 8:44 [ hin*uc*idok*ro ]

1909年、ロシアは共産主義国?
2019/2/24(日) 午後 8:59 [ hin*uc*idok*ro ]


> hin*uc*idok*roさん
こんばんは。感想を頂きありがとうございます。確かに「我田引水」「排他独善」だと受け止められる方々もをあろうことも承知しております。


ではhin*uc*idok*roさんご自身は「三・一独立運動」の宣言文章をどう解釈なさるのでしょうか。これを読めば「用日」という韓国自身がいっている特殊な単語が真っ先に頭に浮かんでくるのが今の日本人の感覚なのですよ。

「排他」に傾いた原因は「吉田茂からマッカサ―に宛てた書簡」に書かれているような歴史的背景があること、自国の負の歴史である、「保導連盟事件」「済州虐殺事件」「光州事件」などの自国政府による虐殺の歴史には目をつぶって、もっといえば清の支配を受け、教育を受ける機会すらない平民の暮らしは返りみず、教育をうけている階層である両班はまともに国家運営をしていなかった李氏朝鮮時代という時代から近代化するためにどうして彼らが併合まで願い出たのかということを、むしろよく省察してみるべきなのに、韓国という国が一向に自国の歴史と正しく直視しないことへの日本人としての怒りでしょうか。
2019/2/24(日) 午後 9:12 kamakuraboy


> hin*uc*idok*roさん

いい質問をして下さってありがとうございます。ロシアでは1905年1月5日の「血の日曜日事件」をきっかけとした「ロシア第一革命」が起こり、絶対君主制から立憲君主制に移行しています。この頃、帝政ロシアは日本と日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)を戦っていました。

ロシア第一革命が起こった背景にあったのは、19世紀末のアレクサンドル2世による「農奴解放」から芽生えた人民による「土地と自由」つまり「労働者の権利」という意識でした。

「血の日曜日事件」以後、ペトログラードをはじめとする様々な都市で労働者の間での不満はストライキなどの抵抗運動にから暴動に発展するようになり、5月イワノボ=ボズネセンスクのゼネストでは最初の労働者代表ソビエトが組織され,6月には黒海艦隊の戦艦『ポチョムキン』号の反乱も起っている。
2019/2/24(日) 午後 9:24 kamakuraboy

> hin*uc*idok*roさん
他方政府は日本との講和を急ぐ一方,8月ブルイギン国会設置令を発布して国会の招集を約したが,国民の不満は収まらず,10月には全国的規模のゼネストが起るにいたった。ここにいたって政府はより大幅な譲歩を決意し,10月 30日「十月宣言」(これによって立憲君主制への移行がなされている)を発布しています。

つまり、ロシア第一革命によって事実上の帝政ロシアは終わっている、ただ、ロマノフ王朝はその後のロシア第二革命で皇帝一家が全員殺されるまで生かされていました。
2019/2/24(日) 午後 9:27 kamakuraboy


> hin*uc*idok*roさん
1909年にロシアが共産主義とは書いたつもりはありませんが、朝鮮半島の権益を狙っていたことは事実なのです。


ロシアは李王朝の閔妃と結びついて、1895年7月にはロシア軍が閔妃のクーデターに協力もしています。韓国の関税権そのものが閔妃によって売られロシアのものになっていたそうですし、治外法権どころか鉱山の採掘権、鉄道の施設権、森林の伐採権などを欧米に奪われ「ロシアによる植民地化」が進んでいたそうです。

その年に閔妃は暗殺されていますが、これに関わった容疑で三浦梧楼以下48名、広島地方裁判所にて予審開始、1896年1月20日 三浦梧楼以下48名、証拠不十分で免訴。

1896年2月にはロシア軍が王宮(景福宮)に突入して高宗と世子はロシア公館に移されています。

その後日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)が起こり、1905年にロシアと日本との取り決めで、大韓帝国をロシアに奪われないように、日本は韓国を外交権のない「保護国」にして、近代化させようとしたのだといわれています。
2019/2/24(日) 午後 9:58 kamakuraboy


> kamakuraboyさん
近代における韓国の歴史をみると、韓国(李氏朝鮮)は、満州族が建てた清国を宗主国として、その属国でしたが、日清戦争(1894-95)で日本が清国を滅ぼした結果、韓国は清から独立できたわけですね。
その後日本の保護下に置かれたものの、日露戦争(1904-05)が勃発し日本がロシアに勝利しましたが、要人暗殺による共産化を進めるロシアにそそのかされて暗殺者に仕立てられた安重根は、まんまとロシアのエスケープゴートにされたわけです。
1909年、一番の韓国(大韓帝国)の理解者である伊藤博文が殺され,結果として韓国は日本に併合されました。「日韓併合」(1910)です。韓国は日本の保護国であるといっても事実上の属国です。第2次世界大戦で共産主義と自由主義に分断されたのですね。
2019/2/26(火) 午前 1:49 泉城


> kamakuraboyさん
現在は、北朝鮮にそそのかされた文在寅が「南北統一」に躍起です。その結果は、たぶん韓国は事実上北朝鮮の属国になるというわけです。
指導者のおかげで韓国民はつらいことになるので、北朝鮮に吸収される前に就職難を理由に若い人の国外逃亡が増えると思いますよ。
韓国はどこかの属国になる運命にあるのでしょうが、南北統一に至ってはもっと悲惨なことになりそうです。
2019/2/26(火) 午前 1:50 泉城


> 泉城さん
こんばんは。コメントをありがとうございます。「韓国はどこかの属国になる運命にある」というご指摘は朝鮮半島の歴史をみてみるとどうもそのようですね。

百済だの新羅だのが滅んだ後に半島を支配した高麗王は満州族の直接支配を受け、軍の駐留を許し、満州族のハーンの娘(公主)の降嫁を国王が願い出ており、つまりモンゴル帝国に組み込まれていました。

モンゴル帝国滅亡後に回復した高麗は明の初代皇帝朱元璋から権知朝鮮国事に封ぜられていた李成桂が初代の李氏朝鮮王で、つまり明の属国。

その後も清が李氏朝鮮に侵入制圧(丙子の乱)「三田渡の盟約」(1637年1月30日首都漢城の郊外三田渡で締結)をもって、明の属国から清の属国、冊封国となっています。

つまり、下関条約まで満州族→明→清の属国だったのというのは事実ですね。
2019/2/26(火) 午前 2:11 kamakuraboy


> 泉城さん
どの時代でも最後に大きなものにのみこまれる前の緩衝材のような人物がいて、親北の文在寅は韓国最後の大統領になるべくして大統領になったような人物ですね。

韓国の存在意義は日米にとって38度線を死守することだったのに、ニッコリと北の3代目の将軍様と二人で手をつないでまたいで往復してみせて、その後も軍事境界線をなし崩しにしている現状ですし、韓国は自由主義陣営にとって安保上の役割を(これ以上は果たせないので)終えたということだと思います。
2019/2/26(火) 午前 2:20 kamakuraboy

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