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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

抗日「光復軍」というウリナラファンタジー

2020-07-14 22:45:53 | 韓国・北朝鮮
「当時は中共八路軍とは戦ったが、独立軍など見たこともない」と白善燁(ペク・ソニョプ)将軍は生前に語っていたのだそうだ。


朝鮮戦争の英雄で韓国陸軍初の大将白善燁(ペク・ソニョプ)という人物が99歳で先日(7月10日)亡くなったというニュースがあった。 


米国ホワイトハウスの国家安全保障会議(NSC)は12日(現地時間)、声明を通して「韓国は1950年代に共産主義の侵略を撃退するため全てを投げうった白善燁と英雄たちのおかげで、今日を繁栄する民主共和国になった」と表明。


バーウェル・ベル元在韓米軍司令官も「白将軍は米国独立戦争を勝利に導いたジョージ・ワシントンのような、韓国軍の父」と称賛したそうだ。 


朝鮮日報は「NSC名義で、現職でもない外国の退役将官の死に対し特別な声明を出すというのは極めてまれ。同日の時点で青瓦台(韓国大統領府)がペク将軍に関して何ら見解を表明していないのとは対照的だ。

「青瓦台が言うべきことをホワイトハウスが言った」などと指摘。


ここまで米国が称賛している人物がどのような人物で、その白将軍を左派勢力の韓国政府がどのように扱っていたか、というところからみてみました。


■白将軍の来歴
白将軍は満州国軍官学校出身(9期生)、陸軍少尉、最終的には満州国軍中尉として終戦を迎えた旧日本軍の軍人だった人物で、朝鮮戦争では2万人の兵力の北朝鮮軍の攻撃を8000人の兵力の釜山橋頭堡の守備で阻止し、劣勢であった米韓軍の形成逆転したとされる「仁川上陸作戦」では北進して平壌への一番乗りを果たしたとされ、「仁川上陸作戦」の後は韓国陸軍参謀総長となり、朝鮮戦争の休戦後には合同参謀会議議長などを歴任。


軍退役後は、外交官としてフランス、カナダ大使などを歴任し、交通相も務めた他、1970年のよど号ハイジャック事件の解決にも尽力。



休戦交渉国連軍代表団。1951年7月10日撮影。左から三人目が韓国陸軍初の大将に32歳で昇進した白善燁大将。見ての通り、体格は米軍の軍人らに比べて小柄な人物で、勇猛果敢でさながら「リヴァイ兵長」のような人物だったようです。


■朝鮮戦争の英雄を悪しざまに非難し罵倒する韓国の左派=北の傀儡である現実
韓国政府は白将軍を12万人の「6・25戦友(朝鮮戦争の功労者のこと)」が眠るソウル顕忠院に埋葬するよう求める各界の求めを「場所がない」という「あり得ない」理由で却下して、「大田顕忠院」に埋葬すると発表。これにはまともな韓国の一般人もあきれ返っているようです。


韓国という国がおぞましいのは、現在与党「共に民主党」の一部議員らが「親日派破墓法」という極めて未開な「反日法」の成立を推進しているなど。これは要するに、「親日派」とされた人物の墓など壊してもよいという法律らしい。「朝鮮日報」が記事でその点を指摘し、「親日派」でっもあった白将軍の墓も後になって何が起こるか分からないと危惧。


韓国の左派団体からは「白将軍が行くべきところは顕忠院ではなく靖国神社」という言葉まで出ているのだそうだ



米国から「韓国軍の父」とまで称賛された白善燁(ペク・ソニョプ)将軍
あと4か月で百歳が目の前だったようだ。

同紙の記事では「国と民族のために命をささげた英雄の安息の地である顕忠院に白将軍が入れないのなら、一体誰が入るのか」と現在の韓国政府の非道で亡国知言える状況をを嘆いている。


「女性秘書に対する長年に渡るセクハラ」で刑事告発されて突然自殺して亡くなったソウル市長については「過は過、功は功」として 「ソウル特別葬」を行うとお茶を濁し、朝鮮戦争の英雄である白善燁将軍に対しては記帳台などを設けることもせず、焼香を望む市民の声があふれたそうだ。


白将軍が亡くなった翌日の7月11日には、ソウル峨山(アサン)病院に設けられた葬儀場に米国のハリー・ハリス駐韓大使が弔問に訪れ、ハリス氏は芳名録に「米国を代表して白将軍の死に深い哀悼の意を表します。韓国の初の四つ星将軍であり、指導者、愛国者、闘士(fighter)、尊敬を受ける政治家だった。彼は現代の韓米同盟の構築に貢献した」と書いたそうだ。



左派執権勢力(現在の韓国政府)は白将軍が嘗て満州軍(旧日本軍)の軍人だったことを強調し、「独立軍を討伐した親日派」と呼んで機会があるたびに「悪しざまに非難し罵倒してきた」のだそうだ。


■「光復軍」=「独立軍」というウリナラファンタジー
韓国の左派勢力の言うところの「独立軍」とは彼らの言う「光復軍」なる人々のことらしく、中国の共産党軍と共に抗日ゲリラ活動を行っていた一部の朝鮮人運動家らを指しているらしい。


しかしながら、白将軍は「当時は中共八路軍とは戦ったが、独立軍など見たこともない」と語っていたそうだ。


要するに、白将軍は「独立軍」である「光復軍」なるものは「見たことがない」という歴史の生き証人でもあり、光復軍なるものが「抗日独立運動の末に独立を勝ち取った」などの史実と異なる「ウリナラファンタジー」を繰り広げている左派勢力(現韓国政府)にとって、不都合な存在であり、アマチュアばかりで訓練を受けていない韓国軍の兵士が多い中で、満州軍出身者(旧日本軍)が唯一米軍と共に戦い、赤化統一から国を守った人々であった、という不都合な史実の象徴の様な人物であるが故に白将軍を韓国左派は疎んじていたということなのではないだろうか。



■独立派は339人、日本軍志願者は80万3000人
度々例に出されることだが、韓国の「独立運動」を行っていた「光復軍」なる組織は僅か339人の組織だったそうで、その実態は中国共産党軍とともに抗日ゲリラ活動などを行っていた「民兵」のようなものなのではないだろうか。


韓国の歴史教科書には「『韓国光復軍』は、英国軍と連合して1944年のインパール戦闘(作戦)をはじめ、1945年7月までミャンマー(ビルマ)各地で対日作戦を遂行した。」などの記述があるのだそうだ。これが史実であるという記録は殆ど目にしないし、かなり誇張した内容のように思える。


韓国政府によると、「光復」とは主権回復を意味し、「韓国光復軍」は1940年9月17日、中華民国(国民党政権)の臨時首都・重慶で立ち上げられた朝鮮独立を目指す亡命政府=「韓国臨時政府の武装組織」であったとも説明。


2013年の「光復節」記念式典で朗読された創軍宣言文は「韓国と中国の独立を回復すべく共通の敵・日本帝国主義を打倒し、聯合国の一員として抗戦する」などと表現していたそうだ。


初代大統領の李承晩は「日本は李朝を亡ぼし、朝鮮を植民地化して残虐な支配を行った。上海に亡命した独立運動家が『大韓民国臨時政府(臨政)』を立ち上げ、『光復軍』を組織して朝鮮解放に貢献した。その臨時政府を引き継いだのが李承晩政権である」 と国民に説いて自己政権を正当化していた」のだそうだ。


「政府」の定義として、広義には、立法・司法・行政の各機関すべてを含む国家の統治機構全体を指し、狭義には、行政をつかさどる内閣と内閣の統轄する行政機関から成る行政府を意味し、最狭義には、内閣と同義とされる、などとある


つまり実際のところ、「光復軍」なる組織は「臨時政府」というよりも、少数の「政治結社」のようのものでしかない。


「(日本からの)朝鮮解放に貢献したはずの「光復軍」の実態も、僅か339人という規模でしかなく、「米CIA(中央情報局)の前身で、レジスタンス運動を支援するOSS(戦略諜報局)が協力し、朝鮮半島内の拠点で潜入工作員(2000人という説も)による破壊活動を実施する「作戦を立てた」が、日本の降伏が先になった」などと表現してみたとことで、、これをもって「臨時政府」と主張するのは明らかに無理がある。


そもそも第二次世界大戦後に「光復軍」がどこに行ってしまったのかと思いきや、「結局終戦直後、朝鮮半島に君臨した米軍の軍政政府により武装解除された」などと説明している。。


どうやら「光復軍」は「朝鮮建国準備委員会(建準)」→「人民委員会」ことのようなのだが、この「建準」は朝鮮総督府が敗戦後に朝鮮がソ連に侵攻されないように親心で準備を促してつくらせたもののようなのだが・・


一方で、「武装組織」と説明をしているように、中国の共産党軍と共に行動していたのであれば、ようするに「共産主義者」を意味しており、共産主義抗日ゲリラ活動をしていた人々であったととらえるならば、これらの人々は朝鮮戦争の前後に「政治犯」として「保導連盟事件」などの際に李承晩によって(無関係の民間人も含めて)大量虐殺されているわけで、果たして「光復軍」なる組織は建国後はどうなったのかという素朴な疑問が湧いてくるのであるが・・


「光復軍」なる組織が僅か339人だったのに対して、朝鮮半島出身者で1938年から1943年の日本軍志願者はなんと80万3000人、最終合格者は1万6830人というほど、朝鮮人の若者はこぞって日本兵になりたがったというのが皮肉な史実。



朝鮮人陸軍特別志願兵の行進(1943年1月) 



日本の厚労省(1990年、1993年返還名簿・当時厚生省)の統計によれば、朝鮮人の軍人軍属は24万2341人であり、そのうち2万2182人が第二次世界大戦で死亡または不明となり帰国していない、とある。


上の写真は、当時の漢字とハングル文字の新聞で「栄誉の志願兵として、国民としての忠誠を尽くそうと人々は殺到し、その数は日増しに増えていった。第3次朝鮮人陸軍特別志願者募集まで、応募した人の数は、全朝鮮を通じて、7万9600人を突破した。」と書いてあるそうだ。


朝鮮人陸軍特別志願者
2月20日現在の血書中学


それから、「光復軍」が韓国の独立建国に関わった人々であったと主張しているわりに、実際は、独立の2年後に起こった朝鮮戦争の時に活躍した韓国陸軍創成期の陸軍参謀総長(第1~10代)は全て帝国陸軍士官学校か、その教育方法を受け継ぐ滿洲國陸軍軍官学校出身者だった。つまり、旧日本軍の軍人ばかり。


先日亡くなった韓国陸軍初の大将、朝鮮戦争の英雄であった白善燁(ペク・ソニョプ)という人物も、もとは満州国軍官学校出身(9期生)で、陸軍少尉、最終的には満州国軍中尉として終戦を迎えた旧日本軍の軍人で、そのため、親日派として晩年は韓国国民から白眼視されていたようだ。


白善燁氏は陸軍少尉に任官した際に、宝清の満州国軍歩兵第二八団に勤務し、続いて佳木斯の新兵訓練部隊に配属し小隊長を務め、1943年2月、間島特設隊に転勤し、白頭山の鴨緑江、豆満江上流部一帯で、中国共産党が主導する中国人、満州人、朝鮮人により構成された抗日ゲリラ(=光復軍?)の討伐に従事した、などとあり、現韓国政府などから、その功績をたたえられることなく葬儀も白眼視されていたのは、こうした経歴のためだったのかもしれない。


■戦朝鮮半島の分断の背景
第二次世界大戦が終盤にさしかかった1945年2月、ヤルタ会談で米・英・ソ連首脳はソ連対日参戦に関する極東密約(ヤルタ協定)を締結し、戦後朝鮮を当面の間連合国四ヶ国(米・英・華・ソ)による信託統治下に置くことを取り決めていたといわれる。

1945年8月9日、「ヤルタ協定」に基づいてソ連は対日参戦し、満洲国及び朝鮮・咸鏡北道へ侵攻を開始。


8月14日に日本政府からポツダム宣言受諾の通告を受けた時点で、既にソ連は満州と朝鮮北部に進駐を開始。


朝鮮半島をうやむやの内にソ連に占領されるのを防ぐため、国務・陸軍・海軍調整委員会のディーン・ラスクとチャールズ・H・ボーンスティール3世は「北緯38度線で米ソの占領地域を分割する」という案を策定。


「38度線分割統治案」は8月14日にトルーマン大統領の承認を受け、この案はソ連に提示され、8月16日に米ソの両者は同意に至っていた。


8月17日に一般命令第一号によって『38度線以北の日本軍(朝鮮軍)は赤軍(ソ連軍)に、以南は米軍に降伏する』ことが正式決定。


日本政府は降伏を認めポツダム宣言を受諾する旨を8月14日に連合国側に通告。(ポツダム宣言の受諾は8月15日ではなく8月14日)翌8月15日は「玉音放送」で国民に敗戦を知らせ日で、そのため8月15日が終戦記念日となった。


ソ連の侵攻は9月2日に東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われて日本が正式に降伏するまで続き、満州(現中国東北部)・南樺太・千島列島及び、朝鮮半島の北緯38度線以北(北朝鮮)を占領。


9月2日に日本が降伏文書に調印したことで、日本の朝鮮統治は正式に終了。


一般命令第一号『38度線以北の日本軍(朝鮮軍)は赤軍(ソ連軍)に、以南は米軍に降伏する』という命令はポツダム宣言を受諾した日本に伝達されており、9月2日の降伏文書調印後に大本営によってこの方針が総督府に指令された。


米軍は8月25日から朝鮮半島の北緯38度線以南(南朝鮮)への進駐を開始。


■日本(総督府)は韓国を分断させないために朝鮮総督府に太極旗を掲げた
ソ連の侵攻懸念や無政府状態を憂えた朝鮮総督府の政務総監の遠藤柳作は治安維持のため、朝鮮人指導者が冷静かつ公平に対処するよう、朝鮮独立運動家の呂運亨らに接触を図り、呂運亨は安在鴻と共に「朝鮮建国準備委員会(建準)」を設置し組織的な独立準備を始めさせた。


「建準」は独立の方針を巡って右派(民主主義)と左派(共産主義)が対立し混乱。当時中国で活動をしていた「大韓民国臨時政府」関係者も「朝鮮の正統な政府」としての自負から「建準」への協力を拒否。


■独立政府として承認されなかった「建準」
日本から行政を引き継ぐために設立された朝鮮建国準備委員会(建準)が、9月6日に呂運亨は李承晩を大統領に、自身を副大統領として、「朝鮮人民共和国」の建国を宣言。中央本部を「中央人民委員会」、地方の支部を「人民委員会」とした。


朝鮮総督府の阿部信行陸軍大将や朝鮮軍管区司令官の上月良夫陸軍中将らは、総督府をはじめ主要な建物から日章旗を降ろして太極旗を掲揚させた。


しかし、進駐した米軍は太極旗を降ろさせ、日章旗を再び掲揚させている。

「朝鮮人民共和国」は米ソ両国から政府承認を拒否され、米軍占領地域では人民委員会も解散させられてしまう。

朝鮮人らによる独立運動は一部の少数の活動家らの運動に過ぎず、そもそも彼らには政府機能、当事者能力がないと連合軍はみなしたのだ。

朝鮮総督府には米軍によって一端日本国国旗日章旗が掲揚され(左)
そのあとで米国国旗である星条旗に変えられた。(右)


この一連の儀式が意味していることは、大東亜戦争は朝鮮総督府も含めた大日本帝国軍と連合軍との戦争であって、当時朝鮮人は「日本人」として連合国軍と戦ったなどからも、連合国軍側の見解として、9月2日の降伏文書調印まで朝鮮半島は日本の一部だったという見解。


朝鮮がドイツに侵略されたポーランドのように日本とは別国家であったならば、連合軍が朝鮮半島を日本から解放したことになるはずだが、連合軍である米国及びソ連は朝鮮人が自主的に樹立した政府に対し、一切の政府承認を行わず、9月7日には米軍司令部が朝鮮における軍政を宣言


朝鮮の即時独立は明確に否認し、米軍の軍政開始とともに朝鮮総督府の章旗は星条旗へと付け替えられたのだ。


GHQは9月9日に京城府で朝鮮総督府から降伏文書に署名を受けた。


■北朝鮮は「人民委員会」を存続させた
米ソ両国から政府承認を拒否され、米軍占領地域では人民委員会も解散させられたが、北緯38度以北のソ連軍は占領地域では人民委員会を存続させ、ソビエト民政庁に人民委員会を協力させる形式で占領行政を担った



9月9日の朝鮮総督府の降伏後、こうして朝鮮半島は、北緯38度線以南を米国に、38度線以北をソビエト連邦に占領され、両国軍の軍政統治を受けることになり、分断状態はこのようにして始まったのである。


■GHQによる軍政
こうして朝鮮半島の南側はGHQ指揮命令下の第6軍司令部(京都)の指揮下となり、沖縄駐留の第14軍下、ジョン・リード・ホッジ中将の部隊によって朝鮮半島38度線以南の占領と軍政が行なわれた。

目的は朝鮮半島の南半分を対共産主義圏の最前線におくことにあったとされる。


■ソ連による軍政
各地の人民委員会を中央集権化させる形で1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会を創設。「ソ連から帰国した抗日パルチザンの金日成を初代委員長に就任させた」とある。


朝鮮半島北部では、北朝鮮人民委員会の執政下で社会主義化が進み、1946年8月には朝鮮半島北部の共産主義勢力を糾合した北朝鮮労働党が結成され、1947年2月20日には立法機関として北朝鮮人民会議が創設。


その後、北朝鮮人民委員会は独立のために最高人民会議を招集し、1948年9月8日に朝鮮民主主義人民共和国憲法を制定、翌9月9日に人民共和国の樹立を宣言して独立。1948年12月にソ連軍は朝鮮半島から撤収したが、その後も強い影響力を残した。


■南北朝鮮の独立
米国の軍政によって1948年8月15日に李承晩を首班とする大韓民国が朝鮮半島南部単独で樹立。これに対抗して朝鮮半島北部でも独立準備が加速し、同年9月9日に金日成首相の下で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国。


以上が南北朝鮮の第二次大戦後の独立史であって、韓国の文政権などが宣伝している「日韓併合時代、日本と戦って独立運動を行っていた「光復軍」なる組織が「残虐な侵略者」である日本からの「光復」を勝ち取り、国を取り戻したというのは虚構の歴史でしかない。


そもそも朝鮮人が日本とまともに戦ったのは豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、朝鮮水軍を率いて戦った李舜臣の「文禄の役→釜山陥落、朝鮮水軍敗退」(1592年)と「慶長の役→数で優位だった明・朝鮮軍の敗北」(1597年)が最後。


李舜臣も「敗軍の将」でしかないし、李舜臣とテロリストの安重根が韓国の抗日英雄の代表格とされているのは、むしろ他に日本と戦った人物など実在しないという事情を浮き彫りにしている。


抗日独立運動「光復軍」なるものも、実態といえば、「パリ講和会議」での米のウィルソン大統領の「十四か条平和原則」(1918年1月)に刺激を受け、1919年2月8日に、日本に留学中の朝鮮人学生達が東京神田のYMCAで「独立宣言書」を採択したことを受け、1919年3月1日に仁寺洞のテファグァンに集まった朝鮮のキリスト教、仏教、天道教の指導者立33名が「行動計画」を採択したことを記念して宣言文を読み上げたことに始まる20世紀初頭の韓国人特有の行動様式である「ロウソクデモ」 と安重根に象徴される、ロシアにそそのかされていた少数の「共産主義的」運動家らを指しているにすぎないようなのだ。


悲劇的なことに、韓国では独立建国の前後からは初代大統領李承晩によって、「共産主義者」「政治犯」や「(北のスパイ)敵性分子」とみなされた民間人を徹底的に弾圧し、「保導連盟事件」などの事件で大量虐殺している。


そうした自国の過去史の実態を解明しようという運動が「真実・和解委員会」なるもので、解明すればするほど「HELL KOREA」の「恨」の種は尽きないようだ。


FIFA主催のサッカー東アジアカップの際にでかでかと掲げられた安重根と李舜臣
これのどこがかっこいいのやら。




引用元:








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4 コメント

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こんばんは (kamakuraboy)
2020-07-18 00:27:30
コメントをありがとうございます。産業情報センターの「端島元島民」のインタビュー映像の動画を「韓国の嘘と虚構」という記事の中にはっておきましたが、正しい史実を世界に知らせるために、英語やその他の多くの言語の字幕付きでこれも外務省が情報発信すべきですね。
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ウリナラファンタジーの打破 (cotton85)
2020-07-17 19:54:19
2020年6月15日に公開された産業遺産情報センターでは、韓国側の嘘に対して正しい情報を展示しているようです。軍艦島の被害者と言われる人物自身が島には不在で発言もまったくの嘘・デマが明確です。
軍艦島の韓国人はデマだと、このセンターからもっと世界に強力に発信するとウリナラファンタジーの強力な突破口になります。
加藤センター長や取材した大高未貴に期待したいところです。
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おはようございます (kamakuraboy)
2020-07-15 08:02:13
コメントありがとうございます。世界中の様々な国や地域で民族同士の争いや国境をめぐる紛争などは絶えませんが、南北朝鮮をみていると、分断国家となってから70年以上が経過しGDPなどの差も圧倒的で文化も違ってきているのに、最近の韓国政府の民度や言動などが驚くほど北朝鮮に似てきましたね。「親日派破墓法」などというものを思いつく辺り「どこの土人なんですか」ってくらいに酷いですね。日本に対する怨念の凄まじさを感じます。
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おはようございます (泉城)
2020-07-15 07:33:17
かわいそうなことに米ソ冷戦に巻き込まれ、東西ドイツや南北ベトナムと同じように国が裂かれた中で、他は元の一つの国に戻ったものの南北朝鮮だけは分裂したままで、しかも南は熱烈に統一をラブコールするのに対し北は敵対心むき出しです。
屈折した気持ちは米中ソの大国には何も言えず日本を蔑むしかできません。
たぶん、国の外からはずっとChinaの属国で押さえつけられ国の中では両班制度で虐げられてきた鬱憤のはけ口を日本に向けるしかないのでしょうね。
時の政権はその間違いを利用するので、いつまでも口汚い言葉を発するばかりです。
長い目で見ればやはりChinaの属国へ戻る運命なのでしょう。
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