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日本人として日々の暮らしの中で思うこと、知りたかったこと

フォークランド紛争(英)と竹島問題(日本)の比較②

2019-03-06 18:10:58 | ヨーロッパ
2018年2月15日ヤフーブログに投稿した記事より

イギリスにとってフォークランド諸島とはどんな意味があったのか歴史的背景についてみてみると、(以下WIKIより抜粋)

(島の発見)
最初に発見したのはフエゴ島の先住民ヤーガン族ともいわれ、ヨーロッパ人による発見は1520年のポルトガルのマザラン船団とされる。つまり英より先にポルトガル船が発見していたが、関心なく、命名なし。1592年に英の探検家ジョン・デイヴィスが島を記録。これがイギリスの領有権の根拠。1690年には英船長ジョン・ストロンが英海軍のアンソニー・フォークランド子爵の名にちなんでフォークランド諸島と命名。


(英仏の対立)
18世紀に英仏は七年戦争などで対立。植民地獲得競争を行った。仏は1764年に東フォークランドの港に入港しサン・ルイ港と命名(現バークレー港)他方イギリスは翌1765年にジョン・バイロン艦長が西フォークランドにあるソーンダース島の港にエグモント港と命名。

(仏のスペインへの売却)
1767年仏はスペインにフォークランド諸島を売却。スペイン海軍はブエノスアイレスからエグモントに侵攻、現地の英軍は降伏。当時アメリカ独立戦争に備えていた本国の英は全面戦争を避け、1774年には西フォークランド島の居住を認められる代償として、スペインの領有権を認めエグモントの英軍は1776年に解散。

(アルゼンチンの独立)
同1776年にはペルー副王領からリオ・デ・ラ・プラタ副王領が創設。ブエノスアイレスが首府となった。1806年と1807年に英軍はブエノスアイレスに侵攻するもぺ副王領軍は撃退。1810年ブエノスアイレスは自治を求め五月革命をおこし内戦勃発(アルゼンチン独立戦争)

アルゼンチンの、後の領有宣言の根拠は、スペインの領有を自分たちが引き継いだものであるという根拠なのだろうか。地理的に近いという以外に根拠が乏しいように思える。

(スペイン系住民の撤退)
翌1811年には南米での内戦と英の圧力を受け、スペイン系住民はフォークランド諸島から撤退。その後は英米の軍艦や捕鯨船が避難地として利用。


(ここまでのまとめ)
・16世紀末~19世紀前半のフォークランド諸島の歴史
まず、ポルトガル人が発見、英国人により記録、命名。
英仏の植民地争奪戦で仏は東に(サン・ルイ港)英が西に(エグモント港)開港
仏、スペインに売却、スペイン海軍侵攻、英は全面戦争をさけて、西フォークランド島の居住を、スペインは領有権を得る。エグモントの英軍解散。
アルゼンチンの独立戦争勃発。南米の内戦と英の圧力を受け、スペイン系住民撤退。その後は米英の捕鯨船の避難地となる。

(アメリカvsアルゼンチン紛争)
1820年にアルゼンチンがソレダード港の領有を宣言、米英のアシカ漁に警告するも無視。アルゼンチン漁業権を主張し捕鯨船に課税しようとする。米の捕鯨船が支払い拒否し拿捕される。米大統領ジャクソンは島の領有権は英にあると主張し海兵隊をフォークランド島に派遣、島の中立を宣言。1833年英が艦を派遣し無血占領。アルゼンチンはこれに抗議するも諸島奪還できず。

(大戦争とアルゼンチンの近代化)
1828年アルゼンチン・ブラジル戦争で英仏の調停によりウルグアイ東方国が成立。ウルグアイではコロラド党とブランコ党(白党)とが対立。更にウルグアイ再併合を求めるブラジル帝国と英仏がコロラド党を支援、他方ロサスらアルゼンチン連合は白党を支援して1839年に大戦争(Guerra Gande)勃発。その間1843年に英は島にスタンリー港を開設し1845年行政所在地となる。1845年に英仏海軍はブエノスアイレス港を封鎖、ジョゼッペ・ガリバルディらのゲリラ軍の抵抗で英仏軍撤退。1851年ロサス失脚し英へ亡命。
その後アルゼンチンは近代化政策のため英から借款を得るなど友好関係を築き、フォークランド諸島領有権も発生せず。

この辺りは日韓併合(1910年~1945年)により日本から国家予算(当時毎年1割ほどとも)が投入され韓国の近代化(教育、医療、港湾、鉄道その他)を行った日韓関係と似ていなくもない。

(ここまでのまとめ)
・19世紀~
1820年アルゼンチンは、ソレダード港の領有権を宣言し、一方的に漁業権も主張し米英の捕鯨船に課税しようとしたり、島の州知事を任命し、アザラシ狩猟権を付与するなど、形の上での実行支配を固めようとしていた。これに対し、米は海兵隊を派遣するなどの行動をおこし、同時に英も艦派遣して無血占領。(近代化前のアルゼンチンは米英の前では所詮、口先と形式だけの領有権主張しかでかなく、戦って勝てる相手でないことをわかっていたので、戦わなかったのだ)
その後、英はスタンリー港を開き、行政府をおくという手堅い実行支配を継続。アルゼンチンは英資本や借款で自国の近代化を進めた。

(英の実行支配)
以降英による実効支配が続き、1860年代にはスコットランド人入植者により牧畜のための羊と牛が島に持ち込まれ、やがて羊毛産業が主産業になった。1880年代から20世紀にかけ、英資本がアルゼンチンに流入、アルゼンチンは大英帝国の非公式帝国として経済的な従属国となるが繁栄、ブエノスアイレスは大都市になる。

(英軍の補給基地としての歴史)
蒸気艦船が英海軍に普及するとスタンリー港は重要な給炭(補給基地)となった。第一次世界大戦ではドイツ帝国海軍がフォークランド諸島の襲撃を試みた(フォークランド沖海戦)その間アルゼンチンは中立国であった。

(第二次大戦時)
第二次世界大戦のときにはナチスドイツの装甲艦が南大西洋に進出し、英海軍は巡洋艦をフォークランド諸島からラプラタ川河口に急行させた(ラプラタ沖海戦)

(戦後)
第二次世界大戦に英は戦勝国であったが、米にヘゲモニーを奪われ、戦後あいついだ植民地の独立により、殆んどの植民地や海外領土を失い、英連邦がその役割を引き継いだもの「太陽の沈まぬ国」といわれた大英帝国の威信は衰えた。フォークランド諸島はドイツとの2度の大戦を通じ、英軍の補給基地としての戦略的な重要性が確認されていたのみならず、イギリスにとって、ある意味象徴的な存在だったといえる。

日本の第二次大戦の敗戦後の韓半島への共産主義ソ連、中共の侵攻による南北分断と朝鮮戦争(1950年~1953年)などで荒廃した韓国にとって日本による併合はその後の韓国の発展に役立ったことは否定できないものの、民族的アイデンティティからの「恨」や反日教育、漢字教育の廃止による韓国自身の歴史的な断続性などから、逆に「竹島」を日本から奪った(他の島との錯誤で彼らは元々帰属が韓国にあったと思っている人も多いので)「奪い返した」ものと思い込んでいるむきもあるために、彼らの方が竹島を象徴的な存在ととらえているともいえる。

但し1965年から1989年までの間の日韓関係は現在のあからさまな国際社会向けの「反日」状況とは異なり、また、竹島領有権の問題も顕在化していなかった。
韓国の経済発展と94年以降の実行支配開始後はサッカー選手の国際試合におけるナショナリズム的パフォーマンスや大統領の支持率回復パフォーマンスの材料などとなってしまい、「竹島」は彼らにとり反日の象徴になっているようなのだ。

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