My Painting Life

絵付けに係る日々の出来事を徒然なるままに、、、。

ミシガン春紀行

2012-05-06 09:48:43 | 日記
4月半ばから2週間程、米国ミシガン州を訪れました。今回はアメリカンスタイルのアーティスト、M先生の家へホームステイし風景画を習い、その後クラークストンという町で開かれる絵付けスクール『ミシガンスクール』に滞在し、かねてから受講してみたかったSH先生の印象派風の作品を習うという計画でした。
成田から直行便でデトロイトまで11時間ほど、そこで乗り換えて定員50人程度の小さな飛行機でM先生の最寄りのサギナウ空港まで30分。辿り着いた先にM先生とご主人のR氏の笑顔を見つけた時には心からホッとしました。
空港からは牧草地と畑、その向こうに広がる森、以前訪れたアーミッシュカントリー同様のどかで平和な田舎道をドライブしました。芽吹いたばかりの木々の優しい色合いに心なごみながら40分ほどでM先生の住むカーロという街に到着しました。M先生の家と自慢の庭は以前写真で見せてもらい、いつか訪れることを夢見ていましたがここで一つ、夢が現実のものになりました。
M先生の家は今まで訪れたことのあるひたすら広い米国人の家とは少し趣を異にする、伝統的な様式を踏まえたヴィクトリアンの家です。裏口から出入りするところは他の米国の家と同様です。入ると右にはスタジオにもなっている地下室に通じる階段。左には明るい日差しが差し込むブルーと白で統一されたキッチン。その向こうに食堂とリビングルームが続きます。リビングルームの表にはサンルームがあり、表玄関はそこに付いています。毎朝の朝食はこのサンルームで取るのが習わしでした。どの部屋もKPMやマイセンのアンティークポーセリンやM先生手描き作品で飾られ美術館のようでありながら、その全ての装飾が落ち着いたインテリアに溶け込んでしっとりと居心地の良い空間を作り上げていました。
私が泊めてもらった部屋は2階にあり、年甲斐もなく「キャー」と叫びそうな夢のようなお部屋でした。薄紫で統一された部屋の窓の外には満開のライラック、本棚には春日部の自宅にあるのと同じターシャ・チューダーの庭の本の英語版が置いてあるのを発見した時には感動は頂点に達しました。絨毯を敷き詰めたバスルームは広々とした5畳くらいの明るい部屋で、壁には古い家族写真が飾られており、ここの床に布団を敷いて寝るのでも充分幸せと、バスルームに入るたびに思いました。
M先生の家には米国の平均的な家同様、草花で彩られた芝生の前庭と100人ぐらいでバーべキューできそうな広い裏庭が付いています。ある朝、裏庭の向こうに鹿が遊びに来ているのを発見しましたが、珍しいことではなく、M先生のお嬢さんは母鹿を亡くした小鹿を家で飼っていたことが有るとのことでした。M先生はさらに通りの向こうに500坪くらいの庭も持っています。この庭は以前有名な庭だったのですが持ち主が亡くなり荒れ果てていたのをM先生が買い取り、みごとに復活させて、再び新聞で紹介されるような有名な庭になったとのことです。満開のクラブアップルとライラックの木が数本、大枝に取り付けられた白いブランコ、その足元を埋め尽くすスミレ。花壇には水仙、バラ、芍薬、M先生が好んで描く花々がたくさん植えられています。ウサギ除けの柵の中にはアスパラガスやブロッコリーなど季節の野菜も着々と育っていました。全ての花の満開の時期には少し早かったのですが、私にとっては充分すぎるほど感動的な庭でした。数年前に結婚したお嬢さんの結婚式はここで執り行われたとのことでした。ある朝、私がこの庭を一人で散策していると、オレンジ色の小鳥やリスが訪れ、どこかのおじさんが庭の前で車を止めて「Your garden is beautiful!」と叫んで通り過ぎて行きました。私はもちろん「Thank you!」と叫び返しました。
一番驚いたことはM先生はこの広いすべての庭と家の管理を原則一人でこなしていると言うことです。年間あちこちのスクールや個人宅に教えに行って、自分も毎年9月に開催されるアリゾナのスクールPPPを経営し、家のスタジオにも生徒さんが居て、コンベンションで売る作品もたくさん描いていてそれだけで十分忙しいはずなのに、家にいるときは食事も3食手造り。私の滞在中、朝は早起きして庭の手入れ、その後朝食作り、シャワーを浴びて掃除洗濯、朝食を取って、生徒さんを迎えます。どんなに忙しくても食事をおざなりにするようなことはまったくなく、3食栄養バランスを考えて、献立、食器にも気を使い、伝統的価値観に基ずいた基本的な生活に美意識を加味して全てが素晴らしくまさに憧れと尊敬を掻き立てられる生活をしていました。私より一回りも年齢が上なのに、一体どこにこのエネルギーが有るのでしょうか。いままで米国の主婦に抱いていたステレオタイプなイメージがひっくり返るような新鮮な驚きでした。そして忙しさを言い訳に家事をさぼりがちな自分を振り返り、しみじみ恥ずかしくなるのでした。
スタジオでは3日間、M先生の地元の生徒さん達と同じテーブルでそれぞれの絵を習って過ごしました。私はアルプスの村の風景。焼成の関係で時間が余った時にはスタディーから気に入った作品を選んで描かせてもらいました。
夕方少し早めに終了した時にはカーロの街をドライブで案内してもらいました。M先生は親兄弟を含め親戚の殆どがこの街で暮らしているとのことで、通りに並ぶ家の半分は親戚で占められているという地区が有りました。数年前に亡くなったアメリカンスタイルの大御所グラディス・ギャロウェイさんもこの街の住人だったそうで、彼女の家も教えてもらいました。M先生が昔住んでいたと言う森の中の家や、お嬢さんが住んでいる牧場の様な家、そして一族のお墓まで案内してくれました。お墓にはあちこちに星条旗が刺してあったので、どうしてか尋ねると「あれはすべて軍人のお墓」と聞きました。世界各地でなかなか戦争と縁が切れない米国の別の一面を認識する思いでした。
こうして4日間はあっという間に過ぎてしましました。5日目にはM先生に送られてスクールの開かれる街まで2時間のドライブを楽しみました。行けども行けどものどかな森と畑、池、その合間に点在する美しい家々。アメリカンスタイルの作家たちが描くのはまさにこうして身近にある自然からの恵みである花々や木々、動物なのであると体感するのでした。水彩画で有名なNancyFisherさんはM先生の友達であり、以前この森の奥に住んでいた、と聞き彼女の作風を思い出すにつけ、良い作品がふさわしい環境から生まれるものであることをしみじみ納得するのでした。
スクールの開かれるクークストンの街には予定より早く着いたので、近くのナーサリー(草花専門のショッピングセンター)で新たに庭に植えるホスタ(ギボシ)をたくさん買うM先生に付き合い、アンティークショップでアクセサリーを見つけたりして楽しみました。早めのランチをレストランで済ませてスクール会場となる青少年センターの様な建物へ到着し、ここでM先生とR氏に別れを告げました。M先生には近く日本に来てもらいセミナーをしてもらう予定が有るので「またすぐに会いましょうね。」と言って、笑顔で別れました。

会場にはまだスクール関係者は誰も到着していなかったので少し心細く思いながら、チェックインした部屋でここ数日の出来事を書きとめたり本を読んで過ごしました。部屋は噂に聞いた通りジャパニーズサイズの6畳ほどの部屋にベットが二つと小さなクローゼットと洗面が付いた簡素な造りでした。部屋にバスルームは付いていないのでトイレとシャワーは共同の設備を使うことになっていました。これがこのスクールが他のスクールよりも安い理由の一つらしいです。この部屋をシングルで借りたのですが一つのベットにスーツケースを置けばそれでいっぱいいっぱいでとても二人で泊まる余裕は無いと再認識しました。その後、部屋にいるのも飽きたので運動不足を解消すべく建物の外へ出て、遊歩道を散歩して過ごしました。このあたりはM先生の家よりは少し南に下って暖かいせいか春が一気に進んだような柔らかな空気で満たされていました。
建物に戻り部屋の方へ向かうと、見覚えのある姿を見つけました。昨年のアリゾナのPPPスクールで出会って、そもそもこのミシガンスクールに誘ってくれた日本人のKさんです。駆け寄って再会を祝しましたが、彼女はつい先ほど到着したと言うことで長旅の疲れが見て取れました。一緒に到着したスクールの経営者のGさんや補佐のEさんとも既にアリゾナで既知の間柄でしたので、再会を祝しつついっしょに簡単な夕食を頂きました。翌日からスクールが始まるのだと思っていた私はここで1日間違えたことを初めて知りました。スクールは明後日からで明日は準備の日ということでした。翌日、朝から準備を手伝いながらも、私達は事務室で絵付けをしていて良いと言うので、Kさんと二人でそれぞれ絵付けをしながら過ごしました。午後になると生徒さん達が各地から続々と集まり始めやっとスクールが始まる雰囲気が高まってきました。私が取ったSH先生のクラスはフリースタイルなので前の晩からの準備は要らなかったのですが、Kさんが取ったIP先生のクラスは早速、明日からの準備が必要で生徒さん達は教室で作業に取り掛かっていました。
翌日、いよいよスクールがはじまりました。南部なまりのSH先生の英語はとても聞きとりにくく初日は言っていることが半分もわからず大変苦労しましたが、ユーモアがあって明るい先生が一日中喋りまくっていてくれたおかげで翌日から何とか聞き取りのポイントがわかってきました。使う色とその大胆な入れ方に特徴が有るSH先生のクラスは全てがアーティスティックで細かい職人の様な作業が無いので、クラスの生徒は皆リラックスしてあっという間に前半の3日間が過ぎてしまいました。後半は前半終了日翌日から休みなしで始まりました。後半からはKさんの友達でミシガン在住の日本人Uさんも加わり、久々に食堂で日本語でおしゃべりしてリラックスしました。Uさんは今は地元のBJ先生のスタジオに通っていますが間もなくご主人の転勤でドイツに行かれるとのことでした。こうして日本から遠く離れた場所で日本人と出会うとつい嬉しくて日本語で話してしまうのですが、これはマナーとしてはあまり良いことではなく、英語が多少でもできる以上は公共の場であからさまに日本語をしゃべると他のアメリカ人に対して「ゴシップ」なとネガティブなことを日本語でしゃべっているという誤解を与えがちであるようです。今回もついつい日本人だけのテーブルで日本語で盛りあがり過ぎた後に、感じの良いレディーに「Speak English!」とさりげなく注意されてしまいました。スクールはコンベンションと異なり、全員が英語を話せる前提が有って集う場所なので、同じテーブルに米国人が同席している時には日本人同士でも必ず英語でしゃべるのが鉄則のマナーであると改めて思いました。日本人でも海外に長くいる人は、相手が日本人とわかっていても英語でしか話さない人が居ますがこれは、このような場所での日本語会話がマナー違反であることを認識しているからであって、けして意地悪しているわけではないのです。日本でも、スクールなどで数人が固まって意味が分からない言葉でけたたましく盛り上がっているグループが居たらあまり感じ良く思わないのではないでしょうか。
ミシガンスクールに集まる生徒さん達は地元ミシガン州の人が3分の1くらい、残りは米国の他の州やカナダから友達同士や姉妹で長時間車を運転して集まった人たちです。ミシガンスクールはアリゾナのPPPスクールのように空港からのアクセスが良いわけではないので、飛行機で来た人は私の知る限りでは誰もいませんでした。様々な特徴的スタイルの先生のクラスが自分の好みで選べるわけですので、SH先生のクラスで隣に座った方と話をしてみると、好みの先生や絵付けスタイルがみごとに一致し、話も大いに盛り上がりました。
私は後半も同じ手法を極めたいと思いSH先生のクラスに残りましたが、それが正解でした。後半は3日間丸々あるのかと思っていたら二日半で終わってしまいました。3日目の午後には生徒も先生もそそくさと荷物をまとめて帰り始めてしまったので先生を変えて新たな作品制作を始めても少し中途半端だったかもしれません。アリゾナのPPPスクールでは前半後半、丸々4日間ずつ学ぶことができたので、これもミシガンスクールの値段の安さの理由の一つのようでした。
ミシガンスクールの先生方はアリゾナやIPAT大会で出会ったことのあるお馴染みの先生方でしたので食事時には皆、順番に私達のテーブルに来てご飯を食べてくれたりとても気を使ってくれて親切にしてくれました。生徒さん達も皆、一様に暖かくフレンドリーでした。食事もおいしく、楽しかった6日間はあっという間に過ぎてしまいました。最終日、ロビーの前を通ると「Etsuko?」と呼びとめる女性が居ました。「あれ、」っと思い振り返ってよく見ると何とBJ先生が立っていました。以前日本でセミナーをしてもらい、その後もコンベンションなどで何度か再会していますが、思いがけないここでの再会でした。Uさんの話ではBJ先生はいろいろと忙しいことが重なって当初参加予定だった今回のスクールにも来れなかったとの話でしたが、今日は友人を迎えに来たとのことでした。BJ先生は以前よりさらに痩せて若々しく見えました。最近お孫さんが生まれておばあちゃんになったと嬉しそうに話していました。

最終日はGさんの家にお泊まりさせて頂き、翌日2週間ぶりに帰国の途に就きました。日本人のKさんはスクール終了後残ってGさん達とカナダのOttawaで開かれる大会に参加するとのことでした。
初参加のミシガンスクールで楽しく過ごせたのは、GさんEさん達のさりげない心遣いのたまものであり、自分自身が日本で遠来の客を迎える場合に取るべき態度として学んだ事は大であるとしみじみ感謝の思いでいっぱいになりました。

帰りはフリント空港からデトロイトへ30分。デトロイトで成田への乗換便を待っていると、何と機体の整備に問題が生じ出発時間が遅れるとのこと。ひたすら待つこと数時間。何とか2時間遅れで出発し、やれやれとホッとしたのですが3時間くらい飛んでも一向に飲物も食事も出てきません。「ずいぶん夕飯遅いな、、、。」と思っていると機長のアナウンスが始まりました。何と、燃料系統の機器に問題が生じこれからデトロイトに引き返すということなのでした。結局、その後、飲み物だけそそくさと提供され、夕飯お預けのままデトロイトに戻り、乗客全員、手荷物だけで機外に出され、食事券が配られ、振り分けられたホテルにそれぞれ向かいそこで一泊することになりました。飛行機は成田経由バンコク行きだったのですが座席周りを見回しても見える範囲に日本人らしき人は誰もいません。唯一、日本人のフライトアテンダントさんが乗りあわせていましたので最低限のことを日本語で確認できたのは少しホッとしました。日本はもう暖かいことを前提にコートもスーツケースにしまっていたので、Detroitの冷たい夜気を恐れて機内から毛布をマフラー代わりに持ちだして肩に掛けました。携帯電話のバッテリーは切れて、コードはスーツケースにしまってあるので充電することもできず、ホテルの電話から国際電話がなかなかつながらず、日本の家族と連絡を取るのに2時間近くもかかってしまいました。頻繁に外国に行けば、いつかこんな目に合うこともあるかもしれないと心の隅で危惧していましたが、ついにこんな目に合った、という気分でした。翌朝は午前中に再出発する便に乗り遅れないよう5時起きして空港に集合しましたがその後も出発ターミナルが変更になったりドタバタ続きで、機中の人となった時には疲れがどっとでる思いでした。しかし再出発した便は何事も無く、無事に1日遅れで日本に到着しました。4月中に帰れる予定が、到着した日本はもう5月になっていました。同じ便に乗り合わせた殆どの乗客は成田で乗り換えて東南アジアに向かう外国人でしたので、彼らは乗り継ぎ便を見つけてもらうために成田でまた長蛇の列を作っていましたので成田が最終目的地の私はまだましであったと思いました。デトロイトからは4月から直行の羽田便ができたとのことで、多くの日本人はそちらの便に乗っていたのがこの便に日本人がほとんどいなかった理由のようでした。
家に着くとその日はウィークデ―でしたので夫は仕事、猫のタマとチビが私の無事の帰宅を迎えてくれました。終わりよければすべて良し、でしょうか。