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のらりくらりSEVEN ART☆

40歳からのぼちぼち人生

選手権決勝組み合わせフットサルスクールOB編☆

2016-11-14 17:47:10 | 日記
ルーテルvs国府











エスペランサ熊本フットサルスクール生OB情報



ルーテル
せいじゅろう
写真
右後ろ




国府
シュン
後列右から4番め

アキホ
ブラジルユニ








フットサルスクール生OB達の活躍を
応援してます!



決勝でも
サッカー楽しんで下さい!







改めまして
わざわざフットサルスクールに来てくれてありがとうございました。

1人1人を大切にしろよー黒木!

突破、ゲームメイク、キープのドリブル抜粋☆

2016-11-14 17:36:20 | 日記
本当にドリブルが上手い選手はパスも上手い!
テーマ:ブログ
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「得意なプレーはドリブル。」「ドリブルにこだわっている。」
そう答える選手はたくさんいます。
ただ、本当にこだわれているのかと言えばそうではない選手がたくさんいます。

本当に上手い選手なのか、ただの独りよがりの選手なのかは、そのドリブルを観れば分かります。

ドリブルという言葉をひとくくりにして考えてはいけません。
ドリブル(ボールを1人で持つプレー)の目的には様々な種類があります。
①突破(抜く事)
②運ぶ事〔前進する、味方にスペースと時間をつくる(パスをする)ために相手を引き付ける事〕
③キープ(守る事)

大きく以上の3つに分類されます。

そして、これらは、プレーエリア(自陣なのか、サイドなのか、相手ゴール前か等のフィールドの位置)や戦術的シチュエーション(2対1という数的優位の状況、1対1の状況、1対2などの数的不利の状況)によって①〜③のどのプレーを選択するかを判断する必要があります。

これが出来て初めて、サッカーに置けるドリブルが上手いと言えます。
これに加え、備えていれば魅力的なドリブルがあります。
④巧みさ(ジンガ、フリースタイル、タッチの滑らかさ等)です。

間違ってはいけないのは、①〜③をなおざりにして④に取り組んでしまう事です。
コーンドリブルやフリースタイルの練習をして、ボールタッチが滑らかになったりしても、①〜③が出来なければサッカーにおける効果的なドリブルが出来る選手とは言えません。

イニエスタやメッシは、ジンガやフリースタイルなどのドリブルをしませんが、ドリブルが上手です。
①〜③が上手いからです。
ただ、①〜③に加え④があれば選手としてさらに魅力的だと言えます。
ネイマールは①〜④が出来るから魅力的なんです。

①〜③を指導するためには、①〜③のそれぞれに存在するキーファクターが何なのかを指導者が理解する必要があります。
相手、味方が存在した中でのプレーを選手にイメージさせるような練習、指導が必要です。



僕の今までの経験上ですが、①〜③を備えている選手はパスも上手いです!!
②〜③のプレーが理解出来る選手はパスが重要なのを理解しています。決して独りよがりな選手はいません。
①〜③が出来て初めて本物だと言えるのです。

あと、ドリブルだけ、パスだけではなく、ボールを受けるレシーブ能力、味方に選択肢を持たせるポジショニング、モビリティなども突き詰めていかないといけないとサルヴァの選手から学びました。

ポリバレント抜粋☆

2016-11-14 17:36:03 | 日記
ポリバレントが少年サッカーに与える影響

2007/6/20
2014/10/12
少年サッカー
指導で気を付けなければならないことは、自分の目で見て足りないことばかりに手を出さないことです。そのような方法では抜けた個性は出てきませんし、永遠に何かが足りないままです2005年8月 スポーツナビ 風間八宏氏インタビュー

子供たちのサッカーを見にふらっと試合会場に行って、サッカーコーチと話をする。試合を見ながら、ぼそぼそと話を交わす。
ちょっとうまかった子が、その後どうなったかを聞くと「伸び悩んでますね」と浮かない表情をしている。
目の前では、うまかった子が、ボールコントロールに失敗して、相手に奪われる、という場面が何回か続いている。ボールを持った後、次のアクションに迷っているように見える。確かに、昔はもっとのびのびとボールを扱っていた印象があった。
その子は、サッカーがうまくなりたくて、親も結構熱心なようだ。高学年になり複数のチームに参加した。ちょっと名の知れたクラブチームにも通いはじめたようだ。
「いろんなコーチにいろんなこと言われて、かえって迷っちゃってるんじゃないかな」
子供のサッカーの育成は本当に難しい。
親と子供とコーチ、この三者の思惑がまったく違っている。
ここ何年かそういう風景に接して、気がついたことは、実はその三者の中で、もっとも視野が狭く、すぐに結果を求めたがるのが「親」だ、という点も事情を複雑にしている。
親が自分の子供のために、いろいろなことをしたり、口を出したりするのだが、必ずしもうまく行くとは限らない。
今回、アメリカに行く機会があって、ちょっと熱心なサッカーパパと話をした。
アメリカでは、試合の間、全員が平等にプレイできるように気を使い、技術の差、体力の差は、そのまま受け入れながら試合を進めていく感じだ、という。低学年では、勝敗を言わない試合も多いという。
アメリカでも、親の熱心さは変わらない。試合中は結構親がうるさい。かけている言葉は激しいが、でも、さっぱりして、後を引く感じが無い。一見してその対応はおおらかに見える。
まあ、映画館でも、どうしてこんなつまらない場面で大笑いするんだ、というぐらい激しくリアクションをする彼らだから、その辺はもう根本的な違いなんだろう。
アメリカの子供たちは、複数のスポーツを経験する、という話はよく知られた話だ。地域によって違いはあるが、季節によってプレイするスポーツが変わっていく。
もちろん、個々のスポーツだけに視点をあてれば、技術面ではマイナスの影響が大きいのだろう。それでも子供たちがリフレッシュして、視野の広さや人間性を高めていく、という面ではプラス面が大きいように見える。
サッカーがこれだけアメリカの子供たちに普及しても、「プロ選手」という道筋は彼らにとって、あまり現実的でない。
それよりも、子供たちが楽しんで、スポーツを通してよい経験を積んでくれればよい、という。まあ、言われてみれば、親としてひどくまっとうな場所に身を置いている。彼がアメリカの代表では無いにしても、その立ち位置はちょっと考えさせるものがある。
一方、日本に目を向けると、お父さんたちは、選抜やトレセンと言う言葉に強く反応する。どうやったら受かるか、という情報が彼らの間を行きかう。
そういったトレセンを通り抜けて、少し上の学年、ジュニアユースや、ユースでトップを目指す子供たちに目を向けると、なにしろすべての時間がサッカーでうまっている。そんなに練習や試合ばかりで、つぶれてしまわないか、と心配になるぐらいにハードワークが続く。
そんな彼らの日常を見ていると、技術は向上しても、かえって人間の思考能力、対応能力は落ちていくんじゃないか、と心配になる。
コーチとの話は、やがてオシムサッカーの影響という話になる。オシムが悪いわけではもちろんないが、「あんまりいい感じじゃないですね」という。
たとえば、ボールタッチを少なく展開しようとする。子供の段階では、むしろ少しでもボールを自分の力で運ぶことの方が重要かもしれない。
たとえば、広いフィールドを常に走ることが重要視される。走ることが必ずしも得意じゃない子供もいる。
たとえば、ポリバレントという言葉から、何でもできるようにならないといけない、と思い込んでしまう。得意分野を伸ばすよりも、不得意分野に力を注いで、調子を狂わせてしまう。
コーチは言葉を濁したが、「子供たちはまあいいんですけどね」という言葉尻に、「親」がそう考えがちだ、という様子が窺えた。
日本でサッカーの育成段階を進んでいくと、親にもコーチにも「ここが駄目だからがんばって直す」という指導が、主流を占めているように思う。子供たちも、そちらの方が受け止めやすい印象を受ける。
僕ら日本の親の考え方は、ちょっと受験色が強く、すべての科目でよい点数を取るように子供たちに要求してしまう。考える力よりも、解答欄をすばやく埋めるテクニックに偏りがちだ。
「技術の不得意分野を直して、何でもできるようになる。そしてトレセンや選抜に合格する」
親の視野はそんなふうに狭くなり、かえって子供たちの対応能力が狭くなってしまわないだろうか?
オシムの「ポリバレント」という言葉がちょっと心配だ。この国では、代表監督の言葉は、想像以上に少年サッカーの現場に影響を与える。
「ポリバレント」という言葉で、オシムが求めているのは、オールラウンドな技術力よりも、高い対応能力、判断力の方じゃないだろうか?
そして、それは欧米に軸足を置いた言葉にも見える。もともと自分の得意分野、自分の領域を重視する「スペシャル」を重視する人間性があって、その上で「ポリバレント」を求める。
この国の選手は、むしろ逆だ。何をやっても器用にこなす。やがてオシムも、日本に必要なのはむしろ「スペシャル」の方だ、と思う日が来るかもしれない。
少し足りないぐらいのほうがいい。
そう考えるのは、この国では難しいことなのだろうか?

エリート抜粋☆

2016-11-14 17:35:49 | 日記
日本サッカー協会がエリート教育を進めるということなんだけど、負けたときの態度とかサッカーへの姿勢とかに優れた選手を育てようということならいいと思う。いい意味での影響力があるエリートをね。でも、彼らがトッププレーヤーを育てようとしているなら、無理。だって、見る目ないでしょ(笑)。「遊び」と「環境」だけ与えれば、子供は伸びていくんだよ。そこに勘違いした人間が降りてって、ああだよこうだよと言っても、「個」を摘み取るだけだと思うよ。金田 喜稔 インタビュー エルゴラッソ 2005年1月17日

エリートという言葉を最近、サッカー協会が使っている。
この言葉に僕たちは弱い。それが、あまり意味のないことだと学んできはずなのに・・・
エリートという言葉には罪がないにしろ、この言葉が引き起こす波紋の形は、あまり形のよいものとはいえない。
「エリート君」という言葉の主がいるわけではないから、気を使うこともないのだけれど、エリートと呼ばれたとき、その人の才能がより輝いて伸びる方向には作用せず、かえって、まわりのやっかみやら嫉妬やらを生む。そういう種類の言葉だろう。
僕だって、この言葉が実質的には意味がないとわかっていても、ふと、そこに嫉妬心を感じてしまう。取り扱いに困るレベルの低い感情が、自分の中でわきあがってくるのを止めることは、結構難しい。
メディアで、エリートと使われるとき、それはどのように使われるのだろう?
統計を取ったわけではないが、「かつてエリートと目されていた・・・しかし」 みたいな形で、落ちた人間を揶揄するときに使われることが、結構多いのではないだろうか?
わかりやすく言えば、「ざまあみろ」という感情と裏表になっている。
金田さんが言うように、結果は明らかで、10年後は、エリートとして選ばれたうちの一人か二人が日本代表に残っている程度だ。ゼロである確率も高いだろう。
むしろ・・・・
エリートと呼ばれて、その後、そのグループからはずれた人間の心の傷のほうが気にかかる。
少年は、評判の 「上げ下げ」 に慣れていないから、一度持ち上げられてしまうと、落ちたときに復活を難しくしてしまう。
選ばれた思い出よりも、落とされた傷のほうが深く残ることになるだろう。
サッカー協会が取り組む、トレセン制度の参加選手に悪い兆しが見えいて、技術が高く、小粒で、個性が感じられない、という印象が、僕の地域の少年指導者からも、もれ聞こえてくる。
結局、制度の力が増すことで、少年たちの個を摘み取ってしまっているのではないだろうか? という大きなクエスチョンマークが僕の中ではずっとある。
おそらく、日本のサッカーを救う長期的な鍵のひとつは「選手の多様性」だ。
いろいろな個性を持った選手を生み出す土壌こそが、サッカーの列強に名を連ねる下地になる。
そのための目を、少年指導者たちが持ってくれると、うれしいのに、と思う。
選ばれることや勝利することは大事でも、それ以上に、子供たちの能力を伸ばすことの方が、ずっとずっと価値がある。
そのためには、エリート という言葉は、邪魔になるだけで、むしろ、無いほうがよい。
この金田さんのインタビューは、ずいぶん前のもので、インターネットで、別の探し物をしていたら、行き当たった。
つまり、ぜんぜんその発言内容が古びていない、ということなのかな。
多分、5年たって読み返しても、きっと同じように、僕をうなづかせると思うな。