25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

14億人の国家

2018年10月18日 | 社会・経済・政治
 14億の民を統率して一国家として前に進んでいくのに一党独裁がよいとか、共和制がよいとかと答を出せる人がいるとは思えない。中国のことだ。
 14億人を束ねることは容易ではないはずだ。タガが緩めばすぐに内乱になりそうなほどに人は多く大地は大きい。
 
 中国を馬鹿にしたような口ぶりでときどきマスコミは報じるが、この国の文化を真似て日本は律国家を作ったのだった。公文書は徳川幕府が終わるまで漢文だった。
 この国とは仲良くして交流をすればよいと思う。

 3億人がすでに中流層だという。アメリカの人口を越える数である。じきに世界一位も経済大国になるのは政治事変でもにない限り確実だろう。
 この国の民は国家の力を得て、EV車の開発を急ぎ、超高速鉄道開発を行っている。14億人が飢えずに暮らしていける社会を達成したらもうすこし余裕がある社会をめざすことだろう。独裁国家はその政策についてはスピーディーだろう。

 独裁国家は腐敗するのも歴史が示している。反対勢力を排除することさえする。トラも叩けばハエも叩く、贈収賄を懲らしめるのは緩み、腐敗しかねない独裁国家の指導層はある意味では緊張でありストレスが大きいだろう。
 一般社団法人である「緑化クラブ」 のホームページでその活動を見ていたら、砂漠の緑化活動で地道な交流を行っている。

 仲の悪かったフランスとドイツは、根気よく若者の交流を行いその数が700万人にもなった。その交流がEUを生み出したとも言われている。
 内モンゴルを訪問sじたとき、おおくの記念樹や日本人への感謝碑が建っていた。多くの日本人グループが砂漠の緑化活動に参加して協力している。
 中国の政権が嫌いだから中国人は嫌いという短絡的な思考ではいけないだろうが、政権というのは国民のイメージを作ってしまうから、それゆえに政権同士は仲良くありたい。


ユヴァル・ノア・ハラリ

2018年10月17日 | 
書いた小説を自分で校正しているとキリがないようになる。もう間違いはないだろうと最後にまた読んでみると、表現そのものを変えたいという気分になることがある。校正の専門家は書く人の気持ちを収め、客観的に文の誤りや辻褄の合わなさ、データの誤りなどを正していくのである。
 午前中、パソコンの前に座っているときは前に書いたものの校正ばかりやっている。この一年で短編と中編ほどの小説を6つ書いたので、3つづつに分けて、本にしておこうかと思っている。それほどに印刷や製本代が安くなった。ISBNやバーコードまでも取れる。
 書いた人が本を作って、それを売るネット会社が現れる。つまり出版社が不要になる。すべての出版社がなくなるとは思わないが、激減することは確かなように思える。
 読む物がすべてタブレットやスマホに変わるとは思えない。なぜなら本の方が便利だからである。電池を気にしなくてもよいし、メモも書ける。落す確率も増える。
 ぼくは「青空文庫」のアプリを入れているので、著作権切れの小説は「青空文庫」で読んでいる。便利であるが、文庫本の方がやはり便利だ。本はペラペラとページを探るのが早い。スマホは遅い。どこにあの言葉があったかな、と探すときだ。

ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史上巻・下巻」は面白い。出版社が気合いを入れて出版権を獲得した作品である。2017年ビジネス書大賞を受賞している。(なぜビジネスジャンルなのかは不明だが)ぼくの一連の6月からの読書の旅はテーマとしてはこの本で終わることになる。そのなかで幾つか目からウロコが落ちた見識があった。
  近代科学は、私たちがすべてを知っているわけではないという前提に立つ。それに輪をかけて重要なのだが、私たちが知っていると思っている事柄も、さらに知識を獲得するうちに、誤りであると判明する場合がありうることも、受け入れている。いかなる概念も、考えも、説も、神聖不可侵ではなく、異議を差し挟む余地がある。(サピエンス全史 下巻)

 無知であることを認めた。すべては神だけがわかっていると思っていた時代の終わりの始まりは西ヨーロッパにおいてであった。無知を認めたから新しい知識の獲得を目指す。
 アマゾンの奥地にいたピダハンたちの仲間はこの科学革命の波が細菌やウィルスという形をとって、あるいは銃弾という形で滅亡に追いやられるとは思ってもみなかっただろう。
 歴史はホモ・サピエンスが優位になるように進んでいるのではない。歴史とは何か、といえば、偶然の選択性の足跡である。一神教が多神教よりすぐれたものであるという証拠はない。ある文化が別の文化に勝るという証拠もない。サピエンスがあと一千年生き延びるという証拠もない。
 科学はそこから出発している。納得がいった。

税金のこと

2018年10月16日 | 社会・経済・政治
 ふるさと納税に疑問を感じる。最初の主旨に戻った方がよく、育ててもらった故郷に税金を一部を使ってもらうのがよいと思う。その際、自治体はこんなことがしたいと幾つかの計画を挙げ、納税者はその計画のうちどれに税金を使ってもらいたいか示すことができればよい。
 このままいくと地場産品業者は自治体から注文をもらえる権益業者となり、自己努力を忘れてしまいそうだし、地場産品業者だけを特別に扱うのははなはだ不公平である。日本全国、地場産業ということばに市長も議員もマスコミも弱いのはどうしようもない。地場産業振興が地域の振興だと思っていて、それがまかり通っているのは時代錯誤も甚だしい。
 外国から物を仕入れてきて売ってもいいし、いくつかのところから物を仕入れて組み合わせてもいいし、商売のあり方は多様である。アップルは組み立て工場はもたず、企画と設計図だけの会社であり、製造は多数の部品会社とまとめ上げる会社に委託している。つまり二次産業をすっとばし、三次産業の発展形である四次産業なのである。

 ところで尾鷲には山林が多く、桧や杉が植林されている。これらが花粉をまき散らすので損害賠償要求をしたいところだが、今日はそれを脇において、近頃は間伐材にも値がついてきて、バイオマスとか繊維として注目されている。
 例えば水素発電所を建設する場合、水素発電所の電力源としてバイオマス発電所の存在があり得る。
 間伐材をチップにして効率のよい木質ストーブに使うこともできる。このストーブを開発した男性は確か三重県の人だった。

 また尾鷲には魅力的な海岸線がある。この海岸線に工夫をして漁礁を設置したり、桟橋を出したり、トイレを設置したりして釣が楽しめるようにすることが可能である。漁礁用材として多孔質の透水性のコンクリートがすでにできている。藻場を作り、魚のマンションをつくればよい。

 このような大きな企画、これも地場産業であるが、地場産業の高次化企画である。ふるさと納税者はこのような企画を提案し、納税するのもよいと思うし、提案がなくても選べればいいと思う。

 税金について、今消費税のことが話題になっているので、言いたい。
 水、塩、生鮮野菜、魚(切り身なし)、包丁、加工の入っていないものは消費税はゼロ。一度でも包丁が入ったものには消費税をかけるというのが一番すっきりする。
 したがって日々家で自分で料理して食べる人は消費税はかからないようにするのだ。

分断か統一か

2018年10月15日 | 文学 思想
そこに石があって、あっちに川があって、道があってと実際に目に見えて存在し、だれでもそれに触って確かめることができる。そういう確かな世界がある一方で人間の想像の世界にはいろいろな霊や神とか目に見えないややこしいものがある。

 まだ一神教の歴史はたかだか2000年ほどのものであるからじんるい700万年の歴史からすれば一瞬のことではある。遠い未来に「一神教の時代があり、それは同じ神から生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教であった。宗教の最後の姿は国民国家であり、そのなかには民主主義も、個人主義も、共生を謳うイデオロギーも含まれるのかもしれない。

 アメリカの25%の人がキリスト教プロテスタントの福音派であり、この熱心な共和党支持者たちはブッシュの戦争にも熱心で、トランプ大統領の支持基盤である。

 キリスト教をカトリック教会から取り戻した歴史をもっているし、プロテスタンティズムが自由主義と資本主義発展の大きな精神的基盤だったから、彼らの近代への自負心はぼくなんかの意識とか無意識など比べ物にならないほどの闘争心で満ち溢れているのではないか。

 しかし俯瞰して歴史の流れをみると、人類は統一の方向にちょっとずつ歩んでいるようだ。その前に大きな宗教戦争が起こるのではないかなどと心配する。
 昨日、テレビでロボットの歩き具合が走るように速くなり、大きな段差もスイスイと跳び上がりるのを見た。重心移動もまさにパーフェクトな人間の動きのようであったのに驚いた。こういうロボットは危険なところで働いたり、災害救援にも、戦争のためにも使用されることだろう。

 人類の分断のために使われるか、統一のために使われるか、わからない。先端技術は最終的にはすべて権力が所有するものである。
 アメリカの白人の危機感は大きいようだ。彼らの動きがどうなるのかが、アメリカの行方を示すものだ。プッツンしそうでなんだか不気味ではある。
 

この面倒なものー宗教

2018年10月14日 | 文学 思想
 煙草を止めてから2週間になる。煙草が身体に悪いから、という理由で止めたのではない。税金を払うのがやっぱり馬鹿馬鹿しく、この経費を節約すれば他の消費にも、節約にも回せると、料金値上げのときに思ってしまったからだった。
 ときどき吸いたくなる間がある。この時にお茶を飲むのに立ち上がり、お茶を作り、それを飲むという一連の動作で逃れたり、飴玉を食べてみたりする。もう喫煙者もいる場所がますますなくなっていくから、この辺が止め時かと、税金に降参することにした。
 思えば、ライターを持ち忘れたとか、ライターが点かないとか、タバコの本数があと何本しかないとか、細君に煙を吸わせるのは申し訳ない、とか幾つかの無駄と思えることがなくなった。

 ウィスキーを呑みながら葉巻を吸うのも終わりだ。これはちょっと寂しい。

 そんなことがあって、聖書を読んだことから始まった読書の旅は、さまざまな関連本をよみながら「人類700万年歴史」にわたり、「ヤノマミ」「ピダハン」「ノモレ」の再読へと進み、これもまた再読であるが、「ホモ・サピエンス全史」に至っている。6月からのことだったと思う。「ホモ・サピエンス全史」も下巻に入って、まさに宗教の誕生から多神教、一神教の誕生へと進むホモ・サピエンスが描かれている。旧約、新約の謎、その後の人類。
 因みにローマ帝国がキリスト教徒を迫害して殺したのは500人ほどだったが、キリスト教がローマの国教となってから他教徒、同じキリスト教徒を殺した数は数千万人である。特に十字軍と、カトリックとプロテスタントの殺し合いはひどかった。愛の宗教などと、どの面下げて言うかね、といいたいものだ。集団というものの、出口機能がなかった、集団は閉塞化するものである。他を排除してしまうものである。愛の集団が殺しの集団にならないための集団論が必要であった。読めばわかるように、新約聖書もパウロの文になってくると、宣教に伴う教会運営のノウハウになっている。
 今日の朝日新聞ではアメリカの福音派が「神の国」復興をトランプ大統領に託す、とあった。700万年の歴史で宗教集団が力を持ったのはなだ2000年ー3000年ほどのものだ。急速に衰退し、個人の救済装置となっていくのは目に見えているのだが。
 

三浦友和

2018年10月13日 | 映画
 wowow のドラマは重厚で、時に重苦しいほどのものがある。いくつもwowow物をみたが、中でも 「特捜」がリアルで重かった。特捜とは政界、経済界などの巨悪を捜査する検事集団である。副部長が鬼塚。三浦友和。吉岡秀隆は平の織田検事を演じている。主人公だ。豪腕で自分が作り上げたストーリーどおりに捜査をしていく鬼塚のやり方に疑問を感じる織田検事。この東京地検には司法記者のクラブもある。
 大日本建設からの贈収賄事件。収賄側は、県知事であるが、たどっていけば民自党の幹事長にまでいけると鬼塚は描いている。
 彼はバラまき公共工事にはよく思っていない。織田検事の父親は代議士の秘書で、鬼塚らに逮捕され、のち自殺していた。
 鬼塚が描くストーリーで捜査は進んでいくが、犠牲者が出始める。
 ストーリーを紹介してもしかたがないのだが、検事集団、司法記者クラブ、警察、政界の描写が妙にリアルだった。突っ込みどころもいっぱいあったが、小沢一郎もやられかかった特捜部の内部が覗けたような気がした。wowowは中学生や高校生では好まれないような大人のドラマを作るのである。
 で、三浦友和はよい役者になった。山口百恵の相手役で、吉永小百合の浜田光夫のようなものだった。いろいろな役をした。吉永小百合を犯す悪役もした。「アウトレージ」ではヤクザもした。
 この検事役もはまっていた。厳しい、真剣な上司である。もう30年以上も三浦友和の推移を見ているように思う。りっぱな俳優になったと思う。

尾鷲の魚

2018年10月12日 | 日記
全国の放送でだろうが、昨日は「豊洲、豊洲」でテレビ局が騒いだ。東京の一地方の食の台所を日本の台所と言い、ぼくらは関係ねえよ、と横向いていた。
 それよりも「鬼エビ」だの「チャンポコ」だの、「クモエビ」、二月の時期の「エタレイワシ」など豊洲に持っていかれたらたまらんで、と言っていたら「地元ですぐ消えていくわよ。量が少ないもん」と細君に宥められた。ということは希少価値があるものは豊洲では商売にならないということなのかな、と思い、「カレイの短冊」も豊洲にはないのかもしれない。

 例えば、「鬼エビ」を他所の業者が尾鷲の市場にやってきて卸し屋に頼んで買ってもらうとする。それが尾鷲では他所に行くとする。同じことが「チャンポコ」においても「エタレイワシ」や「クモエビ」についても起こるとする。すると尾鷲はずいぶんと味気のない地方の町になってしまう。ここは仲買業者に頑張ってもらわないとと思う。

 量が取れるブリやカツオ、マグロは尾鷲だけでさばけないから他所へ出て行くだろう。今やイオンのような大きなスーパーマーケットは一船買いしているから、北海道のサンマはドンドン尾鷲にも入ってくる。カツオも入ってくる。もちろんマグロも一船買いだろう。

 尾鷲でひとつの魚に的をしぼって、それが釣れれば、直接に店に送るという漁師を知っている。魚の名前は明かせないが、このやり方を広げると、漁師は直接に釣った魚を動画に撮って、全国の興味ある客に直接売ってしまう、またはセリにかけることもできることだろう。すでにそのような購入形態はあるのかもしれない。
 料理人泣かせの尾びれの近くにコブが点いた真鯛を仕入れてくる料理屋がある。以前、カウンター越しの店主に「数寄屋橋の次郎鮨は鯛は握らないらしいですよ。鯛は明石の鯛に負けるからって。それで白身はヒラメにしたって、言ってましたよ。なんでも明石の鯛はコブがついてるらしいです」
 と言うと、もう亡くなったその店主が、「オレとこの鯛は荒磯の鯛やで、明石の鯛より旨いで」と言って、「どうだい!」といわんばかりに尾びれの近くにあるコブを見せてくれた。このような真鯛もどうやら豊洲には行かないようだ。数寄屋橋次郎が明石の鯛が築地では手に入らないからねえ、と言っていたからだ。あるいは時に入るかもしれないが、不定期なのかもしれない。

 ぼくは白身の魚は薄造りにしてもらってポン酢と紅葉卸で食べるのが好きだ。わさびで食べることに抵抗がある。
 薄造りにして食べた経験と記憶の中で、ぼくなりの順位をつけてみた。
  1位 クエ
  2位 トラフグ
  3位 荒磯の真鯛(こぶ月)
  4位 シマアジ
  5位 メイチ鯛

 となる。そろそろ「土瓶蒸し」が出て来て、フグも出始める。メイチの季節は終わる。
 曽根ではアオリイカが釣れはじめた。
 
 
  


 

  

天皇、靖国、第四次産業革命

2018年10月11日 | 社会・経済・政治
  靖国神社は明治維新がなったときに官軍側で戦争で死んだ兵士を奉る神社である。西郷隆盛は維新の功労者であるが、西南戦争でオカミに逆らったために靖国神社には奉られていない。

 この靖国神社に肝心の官軍側の総大将である天皇が親拝しない。昭和天皇が戦争犯罪人を合祀されていると知り、怒って、それ以後靖国には行かないのである。
 今上天皇も昭和天皇と同じ行動をとった。今上天皇は全国津々浦々に出かけ、人々に寄り添い、激励をし、慰めた。それが象徴天皇としてのありかただと世に示したのだと思う。
 靖国神社の小堀邦夫宮司が「陛下が一生懸命、慰霊の旅をすればするほど靖国神社は遠ざかっていくんだよ。そう思わん? どこを慰霊の旅で訪れようが、そこには御霊はないだろう?」
「はっきり言えば、今上陛下は靖国神社を潰そうとしてるんだよ。わかるか?」とぼやいた。極右の威勢のよい櫻井良子とか八木秀夫とか百地章などはどう言うのだろう。彼らは天皇に靖国神社を参拝してもらいたいはずだ。また彼らは天皇にひっそりと祭儀のみをやり、奥に隠ってほしい。また彼らは天皇を国の元首としたい。
 小堀宮司は辞任した。宮内庁に出向き陳謝したらしい。
 次の天皇も靖国には行かないだろうと想像する。今上天皇が成してきたことを引き継ぐことだろう。
 農業神の代表である天皇家も、農業従事者の減少、三次産業が60%以上を占める日本社会にんsって変わっていかざるをえないだろう。まして2035年は第四次産業革命の特異点だと言われている。

 マルクス恐るべし。世は資本主義=民主主義から資本主義を脱し、社会主義化してやがて共産社会になると論じた。この第四次産業革命をリードできるのは中国のような社会主義国なのかもしれない。思えば日本はすでに株式市場では社会主義化している様相である。だったら日本は有利ではないか、と皮肉も言いたくなる。

砂を土にする、保水力のある層を作る

2018年10月10日 | 社会・経済・政治
木瓜酒を飲んでみた。完全に梅酒のようでなく、なんと言ったらいいのか初めての味だった。「苦味」と「酸味」があり「フルーティーさ」はなかった。というわけでは格段に美味しい物でもなかったので、庭の大きな木瓜の実はそのまましてある。そしたらその木瓜をくれた女性から、「あんな実らあ、はよ取ったらな。来年、花の咲きが悪なるで」
「えっ、ほんとう?」「当たり前やないかな、実のほうに栄養が吸いとられるがな」
 ほんまかいな、と思ったが、この筋では大先輩であり、大経験者である。

 先日、透水性のコンクリートをつくり、ついでに保水性のコンクリート、それにセルベトンという「砂を土に変えた物」を作る実験をしてみた。透水性コンクリートは見事に透水した。さらに保水性のコンクリートを作るのに、セメントと保水力の高い乾燥苔をコメリで見つけたので、それを使って作り、それをガラス容器に入れた。そしてその上に砂とこれまた乾燥苔と混和剤で混ぜ、土のようなものにし、上に入れた。ひとつの瓶にはサボテン。もうひとつには名前は知らないが100円ショップで売っていた植物を入れて様子を見ることにした。水の投入は最初の一回きりである。今一ケ月経っている。晴れの日は外に置く。曇りと雨の日は室内に移動する。今のところ枯れないでいる。

 内モンゴルの黄土高原も一年でいくらかの雨が降る。雨が降る日、そのチャンスを狙って、苗植えをすれば保水性コンクリートとセルベトンの中で植物は根付くかもしれない。そんな想像があり、今度は「乾燥した空間で別の苗か種を実験してみようか」と思っている。木を植えることができたら防砂林になる。防砂ができると道路が作れる。農地が作れる。雑草が生えてくれれば羊を飼うことができる。

 日本で保水性のコンクリートは必要はないが砂漠の国は必要大である。これは日本では見向きもされないが実は最先端技術なのである。

 

相撲の衰退

2018年10月09日 | 文学 思想
 貴乃花について憶測をひけらかしている面々の中心はマスコミである。かれらは貴乃花をテーマとすることで、広告主からお金をもらう。大至など、テレビに出て憶測を語るだけでギャラをもらう。名前も売る。しかし肝心の主人公貴乃花には一切のお金も入ってこない。

 これほどマスコミが騒ぐ有名人も珍しいものだ。貴乃花は常にマスコミの餌食になってきた。この点については腐っていると言ってよい。貴乃花には積極的で、一連の安倍政権の疑惑には及び腰である。日本はアメリカに対しても及び腰で、日米地位協定でさえ、交渉に入らない。

 九州場所のチケットが完売しないらしい。15日分が1時間15分で完売していた。その勢いがない。協会は面子もあって満員御礼にするだろうが、相撲の終わりの始まりがきたのだと思う。
 だれが考えてもやられた側が番付けを落とし、やった側が国技館で晴れて断髪式ができる、というのはあまりにも奇妙だ。日馬富士も「恥」を知らなければならない。

 こういう常識があって、ここに協会があり、そこで仕事をする人たちがいくらテレビに出て来ようが説得力がない。協会を悪く言えば、朝日テレビのように取材させてもらえなくなるのだ。だから彼らのコメントはつまらない。

 鳥取でのあの夜、実際にはなにがあったのか。そこにいて一部始終を見た校長も、高校相撲部監督もいたのだ。教育者としてかれらが貴ノ岩の前で証言すればよい。石浦もありのままを喋るのがよい。
 でも彼らはしない。できない無言の圧力がかかっているのだ。このモヤモヤ感は加計学園問題も同じである。
 人間には矜持というものがあるだろう。その欠片も見られない2018年(平成三十年)の十月九日である。
 相撲の世界に入るものがますます減るのは間違いがない。デブの少年をとっているだけだ。運動神経のいいものはが選ぶ競技は今やいくらもある。

 

 
 

釣り

2018年10月09日 | 日記
曽根の貸別荘の前の海岸で、台風21号前の客はクエを釣った。ぼくは驚いた。また昨日帰った客はアオリイカ2ハイとなんと30cmシマアジと25cmグレを釣った。シマアジが釣れたということで、これまた驚いた。後片づけをしたあと、海岸まで様子を見にいくと奈良から来たという男性が一人浮き釣りをしている。グレを狙っているのだろうか。訊くと、「ヘダイなんですよ。女房が黒ダイは持ってくるな、ヘダイは旨いって、言うんですよ」
 その男性はコマセを網籠に入れながら餌を付ける動作をやりながら話を続ける。
「ぼくは魚があんまり好きなほうじゃないんですよ」
「好きでもないのに魚釣りは好きなんですか」
「まあね、趣味がなかったもんだから、女房が喜ぶものでも趣味にすればいいのかなって」
「へえー」
「今日は一人で来てのんびりですよ。女房が来たら、忙しいですよ。餌をつける、釣った魚から針をはずす。たいへんですよ」 と自嘲気味に笑って言う。
 すると浮子が沈み、魚を掛けた。小さなグレだった。
「エサ取りもしかたないですよ。去年来たとき、友達がそこでヒラメを釣りましてね。ここは魚種豊富でいいですね」

 釣場が広く、釣り公園っぽくなっている。熊野古道の「太郎坂次郎坂」の入り口付近なので、公衆トイレもある。ここでの釣りを愛好する人達が作ったのか、「釣り人諸氏へ  ゴミを捨てないように、釣禁止となる前に」と3本ばかり小さな看板を立てている。確かここは国の所有地で曽根町は町の活性化のために何かをしたのだが、国の許可がないとできない。雑草でぼうぼうとなるので、曽根の区会がボランティアで草刈りをしている。海岸にゴミなどを捨ててあるとマナーが悪いと国に苦情でも言い立てれば、立ち入り禁止となってしまうかもしれない。そうなるとせっかくの釣場で人々が楽しめなくなる。

 岸壁下は八月まではホンダワラなどの藻が茂っていた。それが台風21号から25号までの間ですっかり藻が消えてしまった。海の底も荒れたのだろう。アイナメやハタの子らが岸壁下の藻の中にたくさんいた。どこへ行ったのだろう。岸壁下に工夫された漁礁でも投入すればいいのに、と思う。

 逆に白石湖の牡蠣養殖を思い起こした。「台風で海の底がかきまわされんと牡蠣はあかんのさ」と不機嫌に言っていた。台風が来なかった去年、業者は嘆いていたのを思い出した。今年は嬉しいことだろう。

 これからはアオリイカのシーズンとなる。思わぬ魚が釣れる賀田湾である。
「真鯛でもくるかもしれませんね」
「女房は真鯛よりもヘダイが旨いっていうんですよ」
「・・・・・・」

 イガミを釣るみたいに太公望の釣りができないものかなあ。コマ釣りは忙しい。ルアーも忙しい。
 のんびり待つ釣りがいいなあ、と思いながらやはりそれだったらキスやマゴチ、ヒラメ狙いかと思うのだった。運よく真鯛が掛かってくれれば言うことはない。もちろんこれは妄想。

 

農業革命から

2018年10月08日 | 文学 思想
 人間の脳には限りがある。六法全書を丸ごと記憶している記憶力が抜群の人がいるだろうが、その人は昔のハムラビ法典もアメリカ合衆国の法律も記憶しているかと言えばそうではないだろう。
 またこの脳というのは死んでしまう。映画ではあるかもしれないが、脳の中にある全部を他人に移せない。つまり脳は一世紀もたないのである。さらに脳は得手のいいもの、好きなものには積極的に働くが嫌なものには消極的であり、拒否さえし、働くこともしないことさえする。
 狩猟採集で必要なものをとり、その日暮しで呑気にやっていた狩猟採集民の一番の弱点は歩き続けなければならない移動の生活だった。彼らの中に生きるエネルギーの主となる穀物を栽培する集団が現れた。この穀物さえ栽培できれば定住が可能となる。歩き続ける生活も終わりとなる。何を思ったのだろう。強い決意をしたのか、たまたまそうなりもう引き返せなくなったのか。
 雑草は生えてくる。害虫が発生する。病気が発生する。水不足、洪水、台風などの天災がくる。栽培したものがだめになる。腰が曲がる。それでも定住の方が、農業の方がよい、と多くの人間集団は思ったのだろう。
 農業を始めてから彼らは未来を考えるようになった。考えるというよりも、未来の心配、不安だった。未来が心配なため、より多くの余剰できる穀物を作りたいと思い、技術は進化した。働きづめに働いた。呑気ではなくなった。腰をかがめ、笑うことも少なくなった。
 小さな土地から持続して食料が得られる。何十キロ、何百キロという縄張りは必要なくなった。 そのうち、貯えが盗まれるという事件が起きた。集団どうしが争うことも起きた。地頭のようなものをリーダーとして、守護のような人を警察官とし、守ることで、農民ではないものが誕生した。守ってもらうためには農地を測り、収穫量を測り、税を納める。そういうことを計算する公務員も誕生した。非農民は農民が作った余剰の食料で彼らの生活が賄えるものだったはずだった。
 次第に脳は複雑化していった。専門的な脳が誕生してきた。計算に強い脳。交渉事に強い脳。図や絵が描ける脳・・・。

 世界のどこを見てもこのような人類の移り変わりは同じことだろう。アフリカ的段階からアジア的段階、半アジア的段階、そして西洋的段階へと歩を進めている。一万年に渡り、文明と接触せず狩猟採集で生きてきたアマゾンのヤノマミにもNHKのディレクターたちが入ったときにはヤノマミの若者がポルトガル語を学び、留学し、やがてヤノマミの村にコンピュータを持ち込み、映画を見せていた。彼らには一挙に近代化、西洋化が押し寄せることだろう。そして人間の脳においては一万年くらいの遅れは瞬時のように追い越せるのだ。

 生きるためには食糧がいる。しかしぼくの回りを見渡してみても食糧を作っている人はいない。い。都会で暮らす、例えば女性や男性で、自分が一枚のコピーをしたこと、電話を受けたこと、だれかと会議をしたことが食糧とどう繋がっているのか考えることがあるだろう。それは自分がどれほどの役割をもち、どれほどの価値を持つか悩むことだろう。
 毎日同じことの繰り返しを行う仕事にどんな喜びがあり、それが食糧とどう関係しているのだろうかとふと思う。この不可解さは精神の奥深いところに何か影響を及ぼしていることだろう。

 ホテルでAIロボットが応対してくれることと食糧はどう関係しているのだろう。
 70億人が生きていける食糧を作り出す能力を今の人類世界は持っているにちがいない。ホモ・サピエンスは農業という苛酷な道を選んだときに、今日の世界を予測していたわけではない。
 たいへんな遠回りをしてやっとアマゾン支流奥地のピダハンのように暴力を嫌い、子供も大人も対等で、よく笑い、明日のことを心配しない社会を結局は得ようとする理念を描いている。ピダハンはすで一万年前から実現していると思うと、人間が生きる環境は宿命的である。


小さな発見

2018年10月07日 | 文学 思想
 小型のヤナギカレイが一パックで7匹ほど入って140円。これを2パック買った。その日は他にクモエビが同じく一パック10匹入って140円。これも2パック買った。地元でしか手に入。しかもこさ。ヤナギカレイは一夜干しにして、クモエビは茹でて酒の肴に。クモエビはミソも旨く、小さな身だが、プリッとして、味は主張せずにお上品である。

 近所のおばさんが、「ほれ、これやろ」と時々食べ物をくれる。この前は「片口イワシ」を干したものをくれた。「これ旨いんさ。これあったらよいんさ」とつぶやいた。ぼくは片口イワシとじぇば、カツオ漁のときの餌となる2月、3月の時期のものしかしらないし、それ以外の季節のものは食えるもんかと思っていた。なので、しばらくその干物は冷蔵庫のなかにあった。
 一週間ほどして、もらったイワシをどうする、と細君に言ってみると、「私、食べる」と言って、ビールのおつまみのごとく焼き始めた。初春の頃の肌と初秋の頃の肌はこんなに違うのか。まず、ウロコがついていない。肌の色は濃い青である。初春のものは海中で煌めくのであろうと想像がつく。銀色の鱗が煌めき、カツオが踊るように飛びつくのだ。
 秋の片口イワシ。一切脂がない。それはわかっていた。ところが意外にも美味しい。ふと、考えた。おれが焼いたらきっとおいしく、硬くなったはずだ。
 「どうやって焼いた?」「強火で、焦がすことなく。尻尾がちょっと焦げたらそれでいいかな」
 この程度の焼き加減だと身に水分が残るのか柔らかい。上等に美味しい。今年の発見である。思い込みはあかん、と反省する。
 そろそろ「鬼エビ」も出てくる時期だ。ハゼも釣り行かなければならない。ハゼの天ぷらは旨い。
 木瓜に大きな実がつき、どうしたものかと考えている。木瓜酒を試飲用にもらったがまだ飲むチャンスがないのと、積極的に興味津々というわけではない。が飲んでみることだろう。たぶんもうすぐだ。木瓜の実が落ちる前にだ。
 久しぶりの晴れの日なので、金魚の水槽の水換えと掃除をした。防水にしてあったはずのモーターの部分が水に浸かり故障したらしい。コンセント部分も含め、絶対水が入らないようにと幼稚な頭でなんとか格闘していたらカッターナイフが指にあたり血がでた。慣れないことをすると必ずとうっていいほど怪我とか、なんとか が起こる。
 
 今日の曽根の客は前の浜での釣りが目的である。釣れているだろうか。台風21号前の客は40センチはあるクエを釣った。


 

安藤サクラ

2018年10月06日 | 映画
 今日は尾鷲の林町を舞台とした「それでも恋する」というCBCドラマがあるということで、録画しておいた。昼の2時からという変な枠で、夜にでもじっくりみようと思っている。なにせ、「ひよっこ」の岡田惠和の脚本である。泣かせるセリフが続くのだろう。
 ドラマはこの頃は断然 Wowow のドラマが面白い。ぼくはwowowに入っていないのでDVDでしることになるのだが、これまで借り損をしたことがない。

 朝ドラの「まんぷく」が始まって、現在はまだ安藤サクラのキャラに違和感ありすぎで、なれるまで時間がかかりそうである。「愛のむきだし」ではえげつなさ全開であったし、題は忘れたが、別のドラマではバリバリ仕事のできる女で、欲望もむき出しであった。
 それが18歳からスタートしたせいか、きつい違和であり、逆にどうこなしていくのか強い期待がある。こういう女優は裏切らないように思う。
 
 雨、雨の毎日であきれ果てている。北陸、東北の果樹園は大変なことだろう。台風から梨や林檎を防ぐ手だてはないものだろうか。
 日本列島ドーム化なんてどうだろう。

バカバカしい

2018年10月05日 | 文学 思想
 なんとバカバカしいことが壮大に舞台の上で二人の人物によって語られていた。ソフトバンクとトヨタの社長の二人である。彼らは自動運転によるカーシェアリング、次世代の車の使い方を語っていた。
 カーシェアリングなど規制さえなくせば、すぐにでもできることだ。タクシーは相乗りさせればよい。ミニバスも解禁し、町中を走らせばよい。バリ島ではとっくの昔に開始していた。日本がいつまでも既得権益者を守ろうとしているだけだ。
 荷物を運ぶ?すでに荷物は運んでいる。幾つかの場所にまとめることの方が先だ。客側がとりに行くのもいいではないか。
 カーショッピング? そんなもの要らない。すでに限界集落では移動販売車がやってくる。これの規制を撤廃すればなおよい。
 カーオフィス? これも要らない。AI。何に使うのだ。それが善いことに使われるのか。善いことというのは悪いことをも意味するし、善いことと悪いことの間ににはグレーの部分が多い。つまり「善悪はわからない」ということだ。

 紹介するものは次々とバカバカしいもので、あっと驚くものはなかった。
 それよりもJRの二本の鉄道線をうまく使える技術くらいないのか、と言いたくなる。紀勢本線などは
 一時間に一本も走らないのだ。

 最近のバカバカしいことに「宇宙旅行」があった。1000億円とか言っていた。その真偽はともかく、そんなお金があったら基礎研究に寄付でもしてあげてよ、と言いたくもなるし、何か役立つことに使ってよ、とも言いたくなる。