学生時代にも、社会人になってからも、同じ本を読んだはずなのに、実感的に理解することなく、わかってないまま読書してしまうということがある。
例えば「喩」ということ。喩には「雪のように白い肌」というように、「~のように、~のようだ」という「明喩」と「君の肌は雪だ」と異なる言葉で印象を強化する「暗喩」という言語表現がある
「八雲立つ」という古事記ででてくる歌は「なにか不穏なことが起こりそうな」という暗喩になっている、と考えればよいと思う。
言語の歴史は思いもよらぬものだ。「暗喩」が先に登場している。「明喩」が後に登場する。聖書の言葉を言語の側面から解釈すると、主人公の数々の奇蹟は、異なる言葉がつながることによって意味を強化するその極限の表現方法であることがわかる。つまり異なる言葉が極限まで引っ張らた暗喩が「奇蹟」にまで至っている。
処女懐胎の奇蹟も、海を静かにさせるのも、病気を治すのも「奇蹟」であるが、言葉の面から言えば、暗喩の極限であると言える。
若い頃、新約聖書をかじったとき、文字そのものを読み、よくこういうことを信じるものだと思っていたのだった。
信仰の中にいる人は信じる、とにかく信じるということが至上命題であったろう。
ところが、聖書の主人公がゲッセマネで祈るときに、死を予感し、怯える場面がある。
また磔刑での死の間際に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、神を信じきれていないような言葉を吐く。人々には確信をもったことを言い、律法学者を攻め立て、ののしるほどの自信のある主人公だった。それは「人間とはそんなものだ。ある場面では強くて、ある場面では裏切り、ある場面では善を成し、ある場面では悪もする」という暗喩であるかのように見える。
ぼくの読書、旧約聖書は遅々とすすまず、くどい上に、殺し合いの話ばかりである。新約聖書の主人公は言葉の面から言えば、この旧約聖書にも縛られている。旧約でも預言が新約で成就されることを新約の作者が思っているからだ。ユダヤ教からの正統性を得たかったという時代の背景があったのだろう。まだ天が動くと考えられていた時代の話である。
例えば「喩」ということ。喩には「雪のように白い肌」というように、「~のように、~のようだ」という「明喩」と「君の肌は雪だ」と異なる言葉で印象を強化する「暗喩」という言語表現がある
「八雲立つ」という古事記ででてくる歌は「なにか不穏なことが起こりそうな」という暗喩になっている、と考えればよいと思う。
言語の歴史は思いもよらぬものだ。「暗喩」が先に登場している。「明喩」が後に登場する。聖書の言葉を言語の側面から解釈すると、主人公の数々の奇蹟は、異なる言葉がつながることによって意味を強化するその極限の表現方法であることがわかる。つまり異なる言葉が極限まで引っ張らた暗喩が「奇蹟」にまで至っている。
処女懐胎の奇蹟も、海を静かにさせるのも、病気を治すのも「奇蹟」であるが、言葉の面から言えば、暗喩の極限であると言える。
若い頃、新約聖書をかじったとき、文字そのものを読み、よくこういうことを信じるものだと思っていたのだった。
信仰の中にいる人は信じる、とにかく信じるということが至上命題であったろう。
ところが、聖書の主人公がゲッセマネで祈るときに、死を予感し、怯える場面がある。
また磔刑での死の間際に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、神を信じきれていないような言葉を吐く。人々には確信をもったことを言い、律法学者を攻め立て、ののしるほどの自信のある主人公だった。それは「人間とはそんなものだ。ある場面では強くて、ある場面では裏切り、ある場面では善を成し、ある場面では悪もする」という暗喩であるかのように見える。
ぼくの読書、旧約聖書は遅々とすすまず、くどい上に、殺し合いの話ばかりである。新約聖書の主人公は言葉の面から言えば、この旧約聖書にも縛られている。旧約でも預言が新約で成就されることを新約の作者が思っているからだ。ユダヤ教からの正統性を得たかったという時代の背景があったのだろう。まだ天が動くと考えられていた時代の話である。
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