25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

思想の限界

2018年06月30日 | 文学 思想
 人間の観念の位相には3つのものがある、と論考したのは吉本隆明である。夜自分も部屋でひとり思うこと。これは個人幻想である。夫婦や恋人との一対一の関係で生ずる観念の位相を対幻想と呼んだ。さらに三人以上のつくられたグループ、集団がもつ決まりごとの観念の位相を共同幻想と呼んだ。そして個人幻と想共同幻想は逆立すると言った。極端にいえば「国家という共同幻想のためにきみは死ねるか」という問題である。
 人間はいまだこの問題を解決しておらず、戦争はむなしく起こり、逃げ惑う人々がいて、わが集団こどが正しいという党派性を自覚、自省のないままである。自分たちが正しいと思うとき、それが絶対的に正しいと思ったとしても、それが理解されるとは限らず、理解しないものは愚かだと思うことはあってはならない。

  迫害を受けるイエスのグループは次第に過激化した。パリサイ人や憎悪のごとく律法学者をののしった。自分に付き従え、といい放った。パリサイ人に言わせれば、どうしてお前の言うこときかなければならないのか、神の子の証拠でもあるのか、おまえは人を煽って暴動を超させようとする男ではないか、と言いたくもなるだろう。
 姦淫してはならない、と言われればパリサイ人も律法学者も「そのとおりです」というだろう。どれは社会の倫理だからと認められるからで、モーセの十戒にもあるからである。ところが聖書の主人公は「色情をもつ、思うだけでもダメだ」といい放つ。社会倫理がさらに矢の先を研いで、個人の内面にまで放つのである。このとき、マタイやマルコ、ルカの福音書の作者は共同幻想の危なかしさや党派性の思想であることがわかっていないのだろうと思う。
 思っただけでもダメ、目玉がえぐられるぞ、という。人を殺すな、は理解できる、だが兄弟とは争うな、父母とも争うなとつきつける。頬をうたれたら、もうひとつの頬をだせ、下着をぬすまれたら上着をあげなさい、ともうムチャクチャである。とても人間にできるものではない。これを平気で言う。個人幻想の世界に足を踏み込み、共同幻想にまでもっていこうとする。これを普通、洗脳というが、未だにこの問題も解決していない。
 連合赤軍とて、口紅を塗っているとかでリンチを受けて殺された。追い詰められていたのは聖書の主人公や弟子たちも同じだったろう。
 絶対的帰依が聖書思想の限界であった、とぼくは今のところ考えている。
 旧約はサムエル記事下、ダビデ王の全盛期である。もうすぐソロモンの登場である。新約は二度め読み返している。その間「不思議のキリスト教」と「マチュウ書試論」を聖書理解の参考にと思って読んだ。まだ道半ばである。










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