25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

かぐや姫

2018年12月15日 | 社会・経済・政治
 尾鷲市に九鬼という浦村がある。九鬼湾に入り込んだ海の色は山に囲まれているのと狭いのとで色が暗い。平地が1本の道沿いにしかなく、他はいりくんだ路地沿いに家が密集して建っている。昔はブリ敷で豊かな村だった。今もブリは獲れていうが昔ほどではない。若者は外へ移住し、現在では400人ほどの集落になっている。限界集落である。
 そこに週末の金曜、土曜、日曜だけ開く古本屋を都会からやってきた若い女性が開いた。典型的貴種流離譚である。いわば「かぐや姫」であり、「桃太郎」である。よそから高貴そうな人がやってくる。村人は素性のしれない旅人のような人だとらえ、なにかと親切にする。
 人口が一人だった須野村にも若い夫婦がやって来て家を借り、雑貨屋を開いた。一時、地方紙や地方テレビ局が話題として紹介する。この雑貨屋は今は存在しない。

 人口が減り、高齢者が多い町になってくると、町の中心地に近いところに老人が集まってくるのがよいと思う。例えば尾鷲駅前なら津波の心配もなく、そこに市営の高層ビルでも建てて、貸しマンションか売りマンションでもいいから、とにかく集まった法学よいと思う。
 浦村の人口具合によれば水道を維持するのも、社会インフラを維持するのもたいへんなことになる。
 昔、人口が34.000人だったのが今17.000人である。なおも月20~30人減っている。尾鷲市民の税収だけでやっていけるはずもなく、多くの市町村は夕張市のようになりたくないだろう。夕張市は水道代も日本一である。
 衰退していく町を元気づけようと、都会のものが田舎暮らしがしたいとそのとき思ってやってみても、限界集落となれば維持がマイナスに働いていくのである。人がいる限りは道の舗装も、村の夜間灯も、水道も供給しなければならないのだ。だから、今コンパクトシティが言われるのだ。九鬼、早田は漁業だけの産業村。人は住まない。人は尾鷲の中心地あたりに住む。

 九鬼の古本屋さんはなぜに九鬼で古本屋開業なのかテレビの紹介では「風景がいいから」くらいしか紹介しなかったが、九鬼がそれほど風景がよいとも思わず、そんなセンスかよ、と思ってもしまった。この方も「かぐや姫」なのだろうか。いい思いは一年。それからが本番だよ、とイジりたい。
 本当言うと、ぼくには「古本屋を開くのがわからない」のだ。

 
 


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