25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

国家観

2018年03月27日 | 文学 思想
散々と証人喚問にはあきれて、今日の朝日新聞を読むと、八木秀次などのグループ(最も日本会議のコアなグループで、天皇が膝まづいて国民と目線を合わしたり、慰問の旅行をしたりせずに、男系による万世一系を守り抜くのがよいとする考え方のグループ)が道徳教科書を作り審査に合格した。「愛国心」や「家族の大切さ」が強調された教科書になるものと推測するが、まだその実体を目にすることはできない。我が孫が彼らの主張する教科書が採用される学校に行くことになればなんとしようかと考える。
「愛国心」というのは閉じた考え方である。生まれて育ったところを愛する心は自然に人間はもつもので、それは郷土愛で十分であり、国民国家を愛せよ、国土を愛せよ、となると、へえ、そんな風に考える人がいるのか、とびっくりする。ぼくは国は開いていったほうがよいと思っている。悪い政治をしてくれる政府より、たとえ外国からやってきたとしてもよい政治をやってくれるのであれば、一般社会の人はすんなりとそっちに乗っていくだろうと思える。進駐軍がきたときはそうだった。政府は機能せず、国民の貯金を台無しにして、自らの改革は進駐軍に言われないとできないというお粗末さであった。
 ヨーロッパでは普通、国家=政府ととらえる向きが多く、日本は国家とは日本列島という国土に住む共通の言語、文化を基盤にした民族が暮らす人々の総体であり、そこに政府がくっついてくるという感じだ。EUのように国家の縛りを緩和して国家間が連合するようになるまですさまじい戦争があった。その上で形成されたEUである。そのEUが難民が押し寄せることで、旧国家主義が台頭しているが、大きな流れではEUは存続を続けていくだろうと思う。
 
 ぼくは八木秀夫のような国粋主義ではない。人間の多様性は認めているので、どのような思想があっていいと思っている。これはぼくの意見であるが、日本の文化、伝統に現在どれほどの価値をおいているかといえば、いいところもあれば、いやらしいところもある、と思っている。絶対ではない。仏教のあり方などはおかしいと思うし、様々な迷妄めいたことも、そして伝統の名のもと、それらを強いることもイヤである。外国の音楽も映画も好きなものがある。日本の四季もよいが、熱帯の年中夏であるのもよい。
 国家という幻想のために、「私」を捨てるということも真っ平である。ぼくには不自由極まりない日本語で考え、話す人間という宿命を背負っている。日本語すらきつい関係性に厳格な、おおらかさのない言語であると考えている。英語のYouに相当する言葉さえいくつあることだろう。
 
 

 
 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿