25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

「千年の愉楽」がテーマ

2018年12月11日 | 文学 思想
「よもやま話」の読書会では次回はぼくの担当であり、ぼくは中上健次の「千年の愉楽」をテーマとすることに決めた。それで三度め、この本を取り出して読んだ。一回めは1982年、この本が発行されたときに読んだ。ぼくは32歳だった。次に読んだのは中上の「熊野集」を読んだあとで、それに触発されてまた読んだのだった。それが確かではないが50歳くらいのときである。
 今度は自分だけで楽しむものではなく、この小説について意見も言わなければならず、よかった、面白くなかっただけでは話にならないので、じっくりと「よもやま話」を意識して読んだのだった。

 まずこの小説を読むにはエネルギーが要る。なぜエネルギーがいるかと言えば、面白くもない荒くれた色情狂のような若ものたちの死の話で、彼らを取り上げたオリュウノオバが語るのと作者がオリュウのオバが人伝えに聞いたり、実際に見ていないところは作者の想像性が入って語るという二重構造になっている文体である。また語り言葉というのは実際に文字にしてみればわかりにくくかったり語法を間違えていたりとするものであるが、その語りを意識しているせいか、、(点)が少なく、。(マル)までが長くて読みづらい。こちらの体力的な問題もあるのかもしれない。
 六篇からなる連作であるが、それぞれの主人公は意味不明の「中本の一統」若衆である。半蔵、三好、文彦、オリンエトの康、新一郎朗、達也の短い生と死をオリュウノオバの話を聞いて作者がオリュウノオバを借りて想像をたくましくして「どうでもよいような荒くれの若者」を物語化しているのである。物語は各篇の最後に現れる。

例えば、第二篇の「六道の辻」では、

 オリュウノオバはため息をついて、三好の背に彫ってあった龍がいま手足を動かしてゆっくりと這い上がって三好の背から頭をつき出して抜け出るのを思い描いた。これが背の中に収まっていた龍かというほど大きくふくれ上り梢にぶらさがった三好の体を二重に胴で巻きつけて、人が近寄ってくる気配がないかとうかがうような眼をむけてからそろりそろりと時間をかけいぶした銀の固まりのようなうろこが付いた太い蛇腹を見せて抜け出しつづけ、すっかり現れた時は三好の体は頭から足の先まで十重にも巻きついた龍の蛇腹におおわれてかくれていた。(中略)龍が急に顔を空に上げ、空にむかって次々と巻いた縄をほどくようにとぐろを解きながら上り一瞬に夫空に舞い上がって地と天を裂くように一直線に飛ぶと、稲妻が起り、雲の上に来て一回ぐるりと周囲を廻ってみて吠えると、音は雲にはね返って雷になる。

 このように何か昔の奇譚のようである。
 また各主人公の心理描写が少なく、主人公たちに行動、行為を描写することで、知性のない男には言葉もないように、乾いたセックス描写と、知性がないゆえの感覚、心情をオリュウノオバの思想を介して作者は描いている。

 小説の作り方としては優れた芸術的な手法を発見したのだと思う。ところがやはり読みづらい。100年後の人は読むのかどうかと言えば、ほんの少人数のマニアックなファンがいるのかもしれない。

 この小説は皮肉って言えば、各篇の最後の2ページほどを読むだけでもいいのではないかと思える。
 路地の物語に弱いインテリがいる。都市で生きる人間ではなく紀州の路地、まるで異界のようなところで芳香な汗をかいて、男振りのよい、肌理の細かい色白の若衆に弱いインテリがいるものだと、中上健次に一筆を寄せるインテリ多くいた。
 ぼくはちょっとそういうインテリを馬鹿にしている。

 もうひとつ。この小説によって文学的には「被差別問題」は終わった。これだけ美しく若者を昇華させたのだから、もう言うことはあるまい。 


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