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25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

脳が変

2018年09月02日 | 日記
 昨日「ブラタモリ」を見ていて、眠ってしまったような気がする。次の萩原健一主演の老人ドラマについては何もおぼえていない。ところが細君は起きていたという。この日、4時半からビジネスの話をコメダでした、したような気がするがそれは遠い昔のような気がする。
 細君が言うには、ぼくが「今日は何日だ?」と十回ほど訊いたという。
 時計を見ると11時半すぎになっている。「ブラタモリ」は7時半からだから途中でうたた寝し始めたのは7時45分くらいだと思うのに、細君は僕が起きていて、見ていた、次のドラマもみていて、わけがわからんと言ったそうだが、その会話もドラマもまったくおぼえていない。
 特に気にかかったのは4時半からの会話内容がまったく思いだせない。ちなみに夕食時缶ビール2本(350ml)と芋焼酎をロックで一杯のアルコールをとっていた。
 客との仕事話が思い出せないのには愕然とした。細君はぼくが今日も奇妙な言動をするなら病院に連れて行こうと思ったらしい。
 ぼくは本を少し読んで早々に寝た。翌日、起きると、いつもより遅く起きた。そして徐々に、昨日の仕事話がうっすらと遠い昔のように断片を思いだした。最後の結論やとちゅうで自分は何をいったか、相手はどんな反応をしたかも思いだ出せない。
 これは「ヤバイ」。脳の中で何かが起こったのだろう。ショーケンのドラマは今も思いだせず、仕事話もほぼ思い出せない。コメダに三人で行ったのだった。だれが勘定を払ったのかもわからない。遠い旅行したような感じであり、時間が遠くへ過ぎた感じがする。
 いまはしきりに順を追って思いだそうとしている。一過性の虚血? 脳梗塞? 不思議なのだ。


待っていた

2018年08月21日 | 日記
「エノモトさんじゃないですか。まあ久しぶりですね」と突然偶然にコメリで出くわした男性が言った。ぼくは思い出せない、誰だったけ、と思いながら、思い出そうとしておぼえている振りをして、会話をした。
「尾鷲におるん?」
「いますよ。3年前に戻ってきましてね。シンガポールに12年いたんですよ」
「シンガポールに?」
「中古船の買い付けをやってたんですよ」
 まだ思いだせないにで、
中古船のことには突っ込まないで、若い人とも話もしたいち思い、
「おれ今人が待っとるんで、電話番号教えて」と訊き、スマホに登録をしたら、彼の名前が出てきた。前に電話暗号の交換をしたのだ。
「便利なドラムのセットを簡単に組み立てられるのを作って、売ろうと思ってるんですよ」
「へえ」というとそのセットの話を始めた。最後に「何か手伝うことありませんか」という。
  前の犬歯が抜けていて、身なりもだらしないように見えたが、神経質そうでなく、何か一発当てたいような山っけがありそうだった。
 3日経って、また彼と今度はスーパーで会った。
「よく会いますね」
「ぼくらは最初どこで会ったんやろか」
「どこで? ぼくは野地町でTシャツ屋」やってたんですよ」
 それでも思い出せない,中国でやりたい仕事があるので、その話をしてみた。
「おれ、中国語と英語、ペラペラですよ。プロログラミングもできますかから」
内心、ペラペラ話せるなどと言うなよ、その言葉だけで信用なくなるぞ、と思ったが、一度酒でも一緒に飲んでみようと思ったのだった。しっかり彼を知りたい。

 昨日、福岡の女性がどうしても相談したいことがあって、名古屋までいくので、会ってくれないかという話があり、ぼくは名古屋に出かけた。そこでも人脈をたどることをした。
 今日は友人に中国人の実業家を紹介してもらい、早速連絡を取った。相手も何を警戒することもなく、ぼくのプレゼンテーションを聴くと言ってくれた。なにかが動き出しそうな気がしている。ぼくも、チャンスがくるのを虎視眈々と待っていた、あわてず、あせらず。80歳までにチャンスがくればいいやと呑気に待っていたのだった。ドラムの彼に手伝ってもらうかもしれない。
 砂漠を農地化する。ぼくにとっては四年前内モンゴルに行ってからの捲土重来である。
 


 

思い出すこと 2

2018年08月18日 | 日記

 小学の4年生の頃に野球が流行りだした。ぼくらもクラスの者で野球を練習し、チームを結成した。チームを結成すると、帽子のロゴマークもほしいし、ユニフォームもほしい。他のクラスのチームと試合もした。しかしながら5クラスあった学級の全部に野球チームがあるわけではない。6年生になると、他の学校と試合をしたかった。噂では宮ノ上小学校が強い、九鬼にはちゃんとした監督がいて指導を受けている、という噂も聞こえてきた 
 ぼくは試合の交渉に出掛けた。どのような伝で試合の日時などを決めたのかもうおぼえていない。
 不思議なことだが、ピッチャーをやっていると、バッターボックスで構える者にたいして、「こいつはできる」「こいつたいしたことがない」と判断ができる。何となく迫力があるのだ。今風に言えば「オーラ」を発しているのだろう。そしてその判断はほぼ正確に当たった。その子が持っているなにかがわかるのだ。

 なんども日曜日に試合をした。宮ノ上チームは強く、負けたことだけおぼえている。一度も勝てなかったのではないか。勝ったという記憶がない。
 九鬼小学校チームは整然と行儀のよいチームだった。ぼくらは指導者もおらず、好き勝手に練習しているだけで、頭を使って、練習方法を考えることはなかった。九鬼のチームにもさんざんに負けた。
 学校の休み時間はよく相撲を取った。放課後は野球をした。
 小学も卒業を迎え、卒業写真をとるとき、男子学生は僕一人を除いて、みな黒い学生服を着ていた。坊主頭している生徒もいた。これにはびっくりした。ぼくだけがいつものセーターだった。今もその卒業写真かがある。
 中学に入ると、野球部に入るか相撲部に入るか迷ったが、集団プレイが性に合わないような気がして、一対一で勝負ができる方が気楽でいいやと思ったのと、相撲が好きだったこともあって相撲部を選んだ。筋肉がつきにくく、細い相撲部選手だった。体力では負けるから技で勝負するしかなかった。相撲部の一年先輩は誰も優秀で、勉強も教えてくれたり、喧嘩の助っ人に来てくれたりした。一年上の者二人がぼと同じクラスのものを廊下で殴っていた。ぼくが助っ人に入ると、二対一の殴り合いになった。しばらくすると先輩達が駆けつけてくれた。
 小学生や中学生の頃は、子供の世界があって、それは決して両親には言わないものだった。
 ぼくはやせっぽちだったので、先輩の一人ガッシャンが銭湯に行こうと誘ってくれた時、彼は、自分の筋肉姿を鏡に映してうっとりしていたのをよくおぼえている。「ほら、ここ触ってみよ」といわれて羨ましいと思ったものだ。
 敬愛する一年先輩のうち、警察官になったMさんは早くに死んだ。Hさんは定年退職と同時に脳卒中を起こし、寝たきりとなった。東京でスナックをしていて結婚とともに尾鷲に帰ってきた勉強のよくできたKさんは65歳にもならない内に死んだ。ガッシャンは今も健在である。父の葬儀のときにも駆けつけてきてくれた。彼は独身を通した。Yさんは官僚となり、日露漁業交渉に当たった。今も健在である。
 忘れがたい、親近感のある先輩たちである。先輩、後輩の関係は死ぬまで続く。 
 一年年上の彼らは三重県大会で優秀を果たし、続いて翌年僕らも優勝した。
 夏の県大会にいく途中、白山付近の踏切で、列車からウンコが飛び散って来て、白いシャツにペチャッとついたのをおぼえている。当時の国鉄列車はそんなのだった。
 優勝をしてその次の日に柔道の助っ人で県大会に出た。ぼくは一回戦で松坂の男の子に5秒くらいで放り投げられた。これでクラブ活動が終わったのだった。
 秋になってぼくは文学少年に変わっていた。


思い出すこと 1

2018年08月16日 | 日記
 尾鷲小学校に入っての一学期、掃除の時間にぼくは担任の男先生にひどく叱られたことがある。温厚なその先生がひどく怒ったにだった。ぼくは同級生の吉沢くんと悪ふざけしていたのだろう。なぜ叱れたのかその理由が思いだせず、叱れた、本気で先生が怒ったということだえが強く印象に残りもう、何百回も思いだしている。ぼくはしてはいえないことをしたのか、悪ふざけも度が過ぎたんか。きっとぼくの行為の何かが先生の勘に触ったのだろう。
 他人に叱られるということが初めてだったと思う。これまでも母や父に叱れたのだろうが記憶にないから、他人に叱れるというのはよほどショックだったのだろう。

 小学生の頃は授業に集中しなくても、姉がいたせいで三年は得をしていた。姉が習うことを弟のぼくもきっと家で見ていたにちがいない。
 とにかく外で遊ぶことが好きだった。遊びにも流行があって、ビー玉が流行ると、やがて潮を引くようにやらなくなり、今度は角パンが流行るという風だった。仲間を集めては中村山あたりで薪を刀にみたて、切り合いをしたり、相撲を取ったりした。
 一年、二年と進んでいくと、ますます授業中に別のことを思うようになり、機があれば多動児となった。三年生で女性の先生になり、男の先生の恐ろしさとはうってちがうので、その先生をなめきっていた。机の前でじっとしておれず、調子こいていた。その女性教師が出産で休み、臨時できた男の先生は怖くもなく、あまり怒ることなく、ぼくはいよいよギャング時代に突入したのだった。姉の勉強をわき目に見ていたぼくの貯金もかなり使ったように思う。昭和31年から33年kyらいのことである。今のように多くの物はなかったが、食い物は十分だった。そして天真爛漫でもあった。父が遠洋漁業船に乗っていたので、父がいないときが多く、ぼくは増長してヤンチャだったように思う。

LED懐中電灯

2018年08月15日 | 日記
 とっさの地震で、電気が止まり、いよいよ津波がくるというとき、肝心のドアが開かなかったらといつも思っていた。「ナカミチ」で、衝撃の大セールのチラシに、LEDの懐中電灯があって、しれにはガラスを破る金槌とカッターナイフ、幾種類ものドライバーがついている。灯りは前も照らし、後ろ照らす。これはいいもんだ、と買い、毎日のテーブルに常備してある。
 人というのはなんとなく死んでしまう場合がある。ぼくの近親でも、叔父が漁に出て行方不明となった。叔母は扇風機に感電してお腹の中にいた子と一緒に死んだ。その叔母の娘の子は列車に轢かれて死んだ。
 妻の両親は東北大震災の津波で家ともさらわれ死んだ。
 人間の生き死にはちょっとしたことがつらなった運命的な事故と運命ともわからないような病気とで成る。津川雅彦が亡くなって、歳をみると78歳だった。78歳と言えば、ぼくはあと十年であるが、津川雅彦にとっては十分だったのか、ぼくにはまだ早すぎるような気がする。ぼくの父もそのくらいの歳で臥せたのだった。
 現在の医学ではあと5年。あと5年で多くの病が解決される。未来の予測はそうなっていて、あとの注意は「不注意」と「まさか」の想定である。妙な切っ掛けで、LED電灯を買った。命に関する物をそばにおいておくには安心感をつくる。Google のニュースでは8月20日が南海トラフの大地震などという噂話が予想者の名を借りて配信する。

川魚の稚魚を採る

2018年08月14日 | 日記
 孫たちにつきあって、川魚(たぶんハヤの稚魚だと思う)を採りに賀田の大川に行った。六歳の孫娘ひたすら小さな金魚すくいくらいの網で稚魚を掬っていた。娘とぼくは竿をだしてハゼ釣りをした。ハゼ入るが食いが悪く、数引しか釣れなかった。脚だけを水に浸けているだけで涼しい。3歳の孫息子は両肩に浮き袋をつけて目標地点を定めて、そこを何度も往復していた。
 今日の大川はさすがにお盆休みおせいか人も多かった。特に外国人が多いのは三木里海水浴場と同じだ。よくこういう場所を見つけるものだと思う。
 この頃外国人をよく見かける。白人系の人もよく見かける。テレビでフランスの女性が行方不明だというニュースで写真をみると、その女性とそっくり女性をマクドナルド店で見た。sれ、あの女性ではないか、と思ったが、行方不明にnなったのは日光だったということから、人違いかなあと思っているこの頃、映画をみて外国人に顔の見分けは難しくなっている。
 その女性には二人の子供ぎて、夫もいたようだった。テレビのニュースでは独り身のようだった。それにしても顔がそっくりである。

 孫娘が採った稚魚は合計で二十匹ほどになtらので、ぼくが水槽を用意して飼うことになった。
来年の正月休みには大きくなっていることだろう。上手く育成できればのことだが。 
今日の尾鷲はおそらく人口が三倍、四倍に膨れ上がっている。スーパーやナカミチは大忙しだ。
40年ほど前は常時こんなのだったのだろうか。40年で人口が半分になった尾鷲市。16日には普通の日々が戻ってくる。
 
 

尾鷲はよいところだ

2018年08月13日 | 日記
 ぼくらが貸別荘の掃除をしている間、娘に釣竿とミミズとバケツを渡し、ハゼでも釣ったらどうかち言った。二時間が経って、娘と孫たちをピックアップするとバケツの中にハゼやハヤがいる。大きな川エビもいた。6歳のまご娘は小さな入れ物にちっちゃいハゼの赤ちゃんを掬ったらしかった。こんな時、夏はいいなあ、と思う。遠くで雷が鳴ったので、夕立があるのかもしれない。
 家に帰り、孫は川エビを絵に描き、続いてハゼを絵にした。生き生きとした絵だった。
 ハゼの赤ちゃんをどうするかということになって、メダカと一緒に住まわせることにした。
 ぼくはよく知らないので、ハゼ用の住みかを用意して大きな容器に入れた。このまま育ったら、ハゼは簡単にメダカを食べるほどの口になる。まあ、しばらく様子を見るか。
 3時になって銀次さんと会った頃には雷みももっと遠くへ行き、銀次さんに魚飛の様子を詳しく説明した。特に、車の駐車と淵へ入り方である。
 相変わらず7月のような気温が続いている。それでもなんだか熱気も弱くなっているように思える。
 尾鷲はいいところだ。川があり、砂浜有り、磯がある。山があり海がある。湖もある。これは宝だ。

大騒動日々

2018年08月07日 | 日記
 息子たち家族が帰って、やや喧騒減。海水浴、川遊びと堪能したことだろう。
 魚飛渓に行った。ぼくは送っただけで川にいくのは用心した。絶対に川のそばにいると、鮎がいるかどうか確かめたくなるし、ちょうど棒網を石と石の間に置き、鮎を追い込めば必ず通り道になるはずだ、と想像するのだった。
 異常な暑さのために、冷たい物を飲むせいか、胃腸がくたびれているような気がする。
 今日は京都から大学生たちが12人も来て、いろいろ説明していると、やはり魚がよく釣れる言うと興奮する。「カブトムシはいますか」「庭にいくらでもおるで」と平然としていうと、「ぅオー」と歓声を上げる。こういうやりとりは楽しいことである。昨晩の客はきっちりと後片付けをしてくれ、整頓してくれていた。おかげで次の客へ準備が早く進む。 
 台風が過ぎていったら、娘家族を連れてまた魚飛にいき、鮎を網で取ろうと目論んでいる。「サキ、そこで石を投げろ」「追い込むように次々投げろ」と言うことだろう。孫娘は訳がわからなうが、やがてわかるだろう。体験知となる。

 スーパーで「線香花火」を買おうということになった。日本産が750円。中国産が320円。どれほの違いがあるのか興味があってどちらも買ってみた。夜試すつもりである。
 どうしてこうも価格が違うのだろう。
 年に2回の大騒動が16日まで続く。

 
 

台風がくる

2018年08月03日 | 日記
 今日から息子たち家族、3日後には娘家族が重なって来る。台風のようだ。日常のルーティンが崩れる。孫たちと会うのは楽しみでもあるが、くたびれるのも事実だ。
 夏休みは途切れなく客がくる。草は一週間もあれば目につくほど伸びている。バリ島のホテルでガーデンを担当する男が黙々と手入れをしていたのを思い出した。本当は毎日必要なのだ。毎日庭にいるなあと当時は思っているだけだった。
 毎日、掃除、整頓、準備に曽根にいく。前の浜客が本ゴチ、大型のキスを釣ったと喜んでいた。
 九月になったらぼくもやってみようと思っている。

 それにしても、人間は服従してしまうものなんだなあ、とつくづく呆れて思う。一人の男に取り巻きができて、権力となる。おかしいな、と思いながらも声に出せない。ようやく地方幹部たちが立ち上がった。遅いと思う。
 日大も理事会に反省の雰囲気はない。
 LGBT は生産性がないと公言し、謝罪もしない女性議員。子供のいない人は生産性がないと言ってるのと同じだ。二世、三世議員の多さ、権力の集中。良いことは何もない。

 日銀は喘いでいるように見える。政府は日銀との一体化論だから呑気にしているように思える。結局、異次元金融緩和は失敗した。それでどうなっているか。格差の広がりと実質賃金の低下である。ことによると貯金を政府にもっていかれるかもしれない。スーパーインフレになればそうなる。 政治も国民の抵抗力も、日本はまだまだである。

夏休みの日課

2018年07月31日 | 日記
 小学生の頃、夏休みになると蝉とりは毎日の日課であった。行くルートも決まっていた。寺町の路地から袋をつけた竹竿をガラガラと音をたてて、まずは念仏寺の庭、そこで一匹、二匹と熊蝉や油蝉をとると、中村山の方面に桜町を上がる。中村山までの道脇にも大きな木があって、樹皮をくまなく見る。木に登ることも厭わず、竹竿が届く限りにまで登って、一匹を蝉を逃すと悔しかった。中村山にはにいにい蝉もいる。
 藪の中に入り込んで、ハゼの葉に触ってしまいかぶれたことが二度あった。あの激しい痒さには参ったものだ。たっぷりち樹木があるこの山もまわるコースは決まっていた。
 蝉取りも晩年の小学五年生の頃、円柱型になった布の袋よりも、川魚を採る網を竹竿の先端につけたほうがよいことがわかった。逃がす率は少なくなり、あっけなく蝉が取れる。すでにもう蝉取りに飽いていた頃だった。野球をやっている方が楽しかった。

 午後からは黒淵まで泳ぎに行った。飛び込んでは泳ぎ、また岩場に上がって飛び込むのを繰り返すうちに寒さで唇が紫色になって歯をガチガチ鳴らしていた。あの頃は1時間泳いでいても2時間や3時間のように思えたのだった。 盆を過ぎると親たちは泳ぎにいかないよう言った黒淵でも足をじっぱられるとか、なんとか恐ろしいようなことを大人達が言い、それが本当のようにだれも盆を過ぎて泳ぎに行かないので、ぼくは今も盆を過ぎて泳ぐものではない、という思いに囚われる。

 ぼくの黄金期の時期である。二学期が久留のがいやでいつまでも縛られることなく遊んでいたかった。親も、こんなことするな、あんなことをするなと言うのではなかった。
 戦争が終わってもう15年も経ち、ぼくなどは世の中の暗さを知らず、経済成長の恩恵を受けてたぶんすくすくと育ったもだと思う。
 一億総中流社会に突入していた。日本の歴史の中でも一番よかった時代だったろうと思う。団塊の世代にはまだ貧しさや、昔風の男女倫理もあった。鬱陶しく反応権力と叫んでいたものが、あっさりと大企業に入ったり、公務員になっていた。ちょっと馴染めなかった。その転向には潔さのかけらないように思えた。がしかし彼らは高度経済成長牽引したのだった。
 
 

あるカラオケスナックのマスター

2018年07月24日 | 日記
 「60歳で定年退職して、14年。家でテレビばっかり見てて、人と会うこともせず、これではあかんわ、と思て、このカラオケスナックをしたんさ」
 マスターがこの店がを開いてから3年になる。76歳、もうす77歳。昼の1時から始めて、4時とか5時で、一度家にいき、ご飯を食べて7時には夜の店を開ける。
「今日は昼は十人くらい客が来てくれて、6時までやっとんたんさ。儲からんのやけどな。それでも楽しいんさ」
 一人で家にいるよりサービスを提供できることと、見知らぬ人に出会い、話をするのもやはり楽しいことなのだろう。
 「自分の年金を全部つぎ込むわけにはいかんけど、少々の赤字やったらかまんのさ。自分の遊び代行やと思えばな」
 お腹も出ていない。ジーンズである。髪の毛はほぼない。店を開いた頃はカラオケを歌うとひどいオンチだった。それが一年も経つと、オンチではなくなった。歌える歌の数も増えた。カラオケ点数90点をだす。すごいもんだ。体は快調らしい。ただ耳が遠い。呼び掛けても気づかないことが多い。若干それを気にしている。
 一人の男が入ってきた。馴染みの客なのだろう。酔っている。
「おっちゃん、わしゃ500円しか持ってへんのや」
 大きな声で五百円玉をカウンターにパンと置く。畳み掛けるように、
「な、ええやろ。それに歌は2曲歌わしてーな」
マスターは戸惑っている。ボトルキープもあるようだ。
「ええよ」
ここは歌が1曲80円。あとは氷と水くらいのものだ。
「ないものはないでなあ、しゃあないわ。な、オッチャン」
 干からびたカマスのような体型。大きな声。歌ったには細川たかしの「北酒場」
言葉が尾鷲訛りではんしから、地の人ではない。

 こんな風な客がくるのもまた一興なのだろう。気楽なスナックである。 
「勘定して」というと、計算をして、2100円という。
 二人でだ。「あ、そう」と言ってそれを払った。勘定の仕方がわからないので、言われるままに払ったのだった。ドアを開いて外に出た。すると、相方が、「言わなんだやけど、勘定間違っとる。3000円を越えるはずやで」
「あらま。まあええわ、今度行ったときに言うわ」
こういう計算違いもするのだろう。
「もしかして、おまけしてくれたんかな」

 店を開くには思い切ったのだろう。このマスターの行動を見て、60を過ぎてからスナックを開いた人を知っている。影響を与えたのだ。
 いうまでも元気にやってほしいものだ。








鰻食べて精をつけて

2018年07月16日 | 日記
暑いので精をつけようと鰻を食べて、待ち遠しかった「人類誕生3」を見て、いざジョコビッチとアンダーソンのウィンブルドンテニス決勝戦を見た。あれ、決勝戦らしくない。5セットすることもなく3セットであっさりとジョコビッチが勝った。錦織はジョコビッチから1セットは取ったのだからたいしたものだ。

 バドミントンも日本が強い。桃田のプレイには感心しまくる。
卓球、バドミントンは世界最高水準だと思う。テニスも選手生命が伸びている。男女とも優勝が30歳を越えている。スポーツ科学の進展も影響しているのだろう。

 大相撲では安美錦が昨日で6勝2敗。39歳である。豪風も元気に取っている。
 さて、わが体と言えば、草刈りをするだけでヘトヘトである。家の裏側の壁におそろしいほどの蔦が生えていたので、それを取り除いた。息子の部屋を見るのも久しぶりだった。去年エアコンが故障していたのを思い出し、早めに買い換えしておかないと思い、彼の部屋をチェックしたのである。すると窓も、網戸も室外機も蔦で被われている。これを取った。引っ張り、チョキチョキ切り、むしりとる。
 次の日は金魚の水槽の掃除、水の入れ替えをした。2槽あるので、約2時間かかった。外で飼っていつので水こけがよくつく。
 この前庭の草刈りをしたばかりなのにもう草は伸びている。
 百合が今回はいっぱい咲いた。これを地植えにしてしまおう、桔梗も、と思いながらやっていない。これをして、藤棚ができるように藤の蔓に糸で誘導したいと思っているが、それもまだしていない。
 暑さは長くなりそうだから、涼しくなるのはいつになるかわからない。東京オリンピックなどできるのだろうか。
 実家の庭木や草が茂っている。母親が元気なころは自分で草刈りや剪定をしていたのだろう。これもやらねばな、と思い、母に鰻重を届けたのだった。
 

くじのようなもの

2018年07月08日 | 日記
 日本列島はなんと定期的ではあるが突然の天災が多いところだろう。それはいつ我が身に起こるかわからないけれど、必ず来るように思われるところが日本列島に本質である。
 日本列島にたどり着いた原始の人々はそこから東に進んだけれどやがて太平洋と津軽海峡に阻まれた。もう行くところはなかった。自然災害にさえあたらなかったら四季に応じた物があり、四季に合わせるように物作ることも、考えることもできた。人々は日本列島から出ることなく、何万年を過ごした。

 記録的な大雨が、くじで当たるようにして、幾つかの場所を襲った。これだけ土木工事技術も、防災の意識があったとしても免れ得ないというのは、神も仏もあるものか、と思うより、虚脱感や無常感になるのかも知れない。

 もしも自分の家が水に浸かったらと思うと、投げ出したくなるだろうが、コツコツとまた片付けて、修理をしてと時は流れていくのだろう。逆に張り切ってやっていくかもしれない。

 毎日のように地震速報がテレビ画面の上に流れる。すると南海トラフが軋む断面図を想像する。日向沖で地震は南海トラフ大地震の予兆だとする紹介があったので、この前の日向沖地震は不気味さを与えた。津波は「逃げるが勝ち」を肝にいれて、とにかくすぐに逃げることだとはわかっている。

アブラのない魚

2018年07月07日 | 日記
 各地で大雨による被害が出ている。気候変動のせいなのか。それにしても、過去には大雨のあった尾鷲はここ十年をみても大雨地域から外れている。台風もよくきたものだが、これも外れている。
 気候変動のことで言えば、尾鷲の海の水温が上がっていると思う。実際に測ったことはないが、
2月、3月の片口イワシには脂がうっすらあったものだが、これがまったくなくなってから久しい。
 先日新鮮な大きな鯖をもらった。塩焼きにして食べた。美味しかったがこれも脂がなかった。ちょっとでも脂があればなお美味しいと思う。処方箋をもって母の薬をもらいにいくとき、若い薬剤師と時に話をする。鯖をもらったのはその薬局の隣のぼくら夫婦の友人で、それがおすそ分けとしてぼくの家にもまわってきたのである。
 たぶん彼が釣ったのだろう。翌日の夜11時頃、偶然にその若い薬剤師が仲間とワイワイと路上を歩いていくのに、気づき「○○先生」と呼びかけた。彼は客一人だと気づいたらしかった。「最近サバ釣った?」と訊くと、「はい、釣りました。彼と」と言って仲間のうち一人を指差した。「やっぱり釣れたてのサバは旨いな。それにしても大きかったなあ。どこで釣ったん?」と言うと、「古里付近です。船で行ったんです」「もうちょっと脂があったらなあ」と言うと、「そうですね」とこれは相槌かもしれない。
それだけの会話で、すれ違った縁での会話だった。「失礼します」と青年たちは深い礼を二度ほどした。これには戸惑ったが、悪い気がしなかった。仕事から離れた青年が楽しそうに仲間と戯れるように歩いて行った。アルコールが入っているのだろう。

 三日に一回、カレイの干物を買いに行っていた店が閉じた。交通事故で、仕事ができなくなったのである。斜め向かいにあったからぼくには便利だったのである。カレイのつなぎがもう食えなくなるのか思うと、残念である。片口イワシとカレイのつなぎはよい酒の友だった。それで、駅前の干物店まで車でいく。ヤナギカレイがある。高価である。福島の妻の実家から毎年ヤナギカレイとウニを送ってもらっていた。このヤナギカレイ上品な旨さはやはり薄い脂があるかどうかである。残念ながら尾鷲産のヤナギカレイは全く脂がなかった。

 若い頃ぼくが東京に移り住むことをためらわせたもののひとつにほどよい脂のあるイワシ、アジ、カレイのような魚であった。

2018年07月04日 | 日記
 去年の倍の紫色桔梗が咲き、その後ろに黄色のカラーが咲いている。その近くにはダリアが一輪咲き始め、幾つかの種類の百合がも咲きそうである。カラー以外は鉢植えだった。今年は地植えにしてしまおうか、と思っている。鉢植えは移動できるのがよい。地植えは株を(というのだろうか)増やせるのがいいし、ダイナミックに生け花のように色との兼ね合いも固定してしまうから、ややセンスも問われるというものだ。
 桔梗のあるところから右方向の木蓮の下には黄色と赤のハイビスカスが大輪を付けている。
 紫陽花が過ぎた時期に花がなかったから、草花手を出した。今年で二年目なので、芍薬も石楠花っも、藤やレンギョウもどうなっていくのかわかる。自信がつきつつある。花を見ると目が和む。ぼくは相変わらず、旧約聖書の執拗さと格闘している。そしてそれは多くのことを考えさせる。新約聖書の4つの福音書も同様である。2000年も経った作家たちの思想の経緯と深みを探るのは面白い。
 毎日が刺激的であるが、外目にはのんびりとしている。至宝の時間空間とも言える。
 ギリシャ、ローマ、ヨーロッパの中世にも興味の範囲が広がってきた。