25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

桑田佳祐3

2017年08月26日 | 音楽

 この際、ということで、桑田佳祐のソロアルバムを全部レンタルしてきた。ついでに、「がらくた」があったので、これは購入した。思えば、サザンオールスターズのアルバムは全部大事にもっているが、ソロアルバムの第1号があんまりピンと来なかったので、ソロアルバムは敬遠していた。最初の頃は桑田佳祐個人の出しすぎで、フォークギターの音色もイヤだった。

 ところが今回時系列で聞いていると、2012年の「I love  you」あたりから遊び心が全面出てきた。前川清に提供したら喜びそうな「現代東京奇譚集」は「サウダーデ」の外国ブラジル旅風が東京の夜の街風になっていてよく似た兄弟のような曲である。*村上春樹の「東京奇譚集」を意識したのかどうかはわからない。

  さらに見事なのは、「声にだして歌いたい日本の文学」という18分40秒の曲がある。中原中也の「汚れちまった悲しみは」、高村光太郎の「智恵子抄」、太宰治の「人間失格」、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」、与謝野晶子も「乱れ髪」、小林多喜二の「蟹工船」、夏目漱石の「我輩は猫である」、最後に宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」。まあ、よくもこれだけの歌詞を覚えたものだと感心もするが、作者ごとに曲調変え、それぞれが独立して聞いてもいいくらいであり、楽しい。

 桑田佳祐の妙齢さを感じ始めるアルバムが「I love you.」deである。この頃はメッセージ性のある歌詞作りもする。

 この前、尾藤イサオの歌声を聞いた。73歳だそうな。昔のマンマ。顔はむくれてないし、髪は地毛でしっかりあるし、腹回りも少年そのもの。桑田佳祐も73歳ではバリバリに歌っていることだろう。

 彼のルックスと歌は年齢差というものを超越している。脱帽ってやつだ。


桑田佳祐2

2017年08月24日 | 音楽

  桑田佳祐のことにちょっと触れただけで、アクセス数がグンと増える。だからというえわけでもないが、もう少し桑田佳祐について書きたい。彼が作る歌にはちょっとエロナな歌詞もある。普通に歌詞内容がわかるような歌い方で歌えば、エロだとわかるが、歌詞がわからず、桑田が歌っていると、これはスペイン語なのかな、と聞き流してしまう。彼はちょっとしたお笑いを歌詞に入れたり、なんとか風、例えばクールファイブ風や、ザ。ピーナツ風だとか、弘田三枝子へのメッセージ風だとかの歌があり、彼のアルバムの楽しみのひとつでもある。

 高田みずえに作った「蒼いパリッシュ」という歌は素敵だ。中村雅俊に提供した「恋人も濡れる街角」も大ヒットした。ぼくは「蒼いパリッシュ」が好きで、以前はカラオケにもあったのだが、いつの間にかなくなってしまった。残念なことである。「若い広場」も朝ドラが始まって五ヶ月になろうとしているのに、まだ登場しない。「悪戯されて」はすでにカラオケにもあるし、「オアシスと果樹園」もあるというのに、どういうことなのだろう。

 ときどき暗い歌もある。「東京」は暗い悲しみと叫びでいっぱいである。

 昭和の一番よいときに生まれて育ち、大学でサークルを作りま、そのまま音楽の世界を駆け抜けている。成長、バブル、停滞、政権交代、極右政権誕生でアベノミクスまで、死の欠片に驚かされて、前へ、前へと進んでいる。

 月刊誌「PEN」は今月桑田佳祐をまるごと特集している。

 

 


桑田佳祐

2017年08月23日 | 音楽

 朝はいつものように、文を書き、昼からはこの夏3回目の草刈りをした。草刈り機のエンジンをかけるだけでゼイゼイと息が喘ぐ。2時からは高校野球を見て、若い世代は後術力も昔の者より優れているものだ、と思い、ついでに、顔もハンサムな少年が多い。

 よく目がトロンとしたアイドルグループ女子やモデルの女性をみることがある。体は動いているが目に力がないのである。聡明な人には目に輝きがある。今日の決勝戦では球児たちの目は集中力と真剣さで溢れていた。こういうのを見ていると気持ちがよい。メンバーは口ほどに物を言う、いうが、脳ともっとも直結で結び付いているのではないか。

 さて桑田佳祐の「がらくた」が今日発売である。買おうと思っている。明日は朝ドラの「ひよっこ」メンバーと「songs」で歌うらしい。クールファイブを真似たり、落語をやったり、歌声喫茶のような歌を作ったりとオマージュと昭和歌謡への親近感を思う存分出している。彼はすでに61歳である。男性ボーカリストでは一位と評価されている。いまの若い世代にも人気がある。一過性の歌手ではないのだ。ファン層の幅が大きく、そして長い。

 40年前の曲を口ずさんでも古く感じない。こんな風に音楽作りを徹底してやれるのはうらやましい。

 

 


ミュージックステーション

2017年04月28日 | 音楽

 今日の「ミュージックステーション」は、見て得をした。矢野顕子と上原ゆかりが矢野の「ラーメン食べたい」を即興演奏した。見事だった。次には椎名林檎とトータス松本のコラボがあり、ギンザ6のオープニングソングを披露した。歌詞が面白いだけでなく、ダンスも音もゴージャスで洗練されていた。彼女のグループだったら、東京オリンピックの演出も可能ではないかと思えた。

 音楽番組はこのミュージックステーションが最新のものを伝えている。どういうわけかNHKは懐メロか演歌ばかりである。ときどき「Songs」でだれかに焦点をあててるだけだ。BSは懐メロと昭和の歌謡曲ばっかりだ。

 なんだかテレビで流行というものがわからないようになった。朝のドラマも平成にはいってからのものがない。情報番組は、小池、豊洲、石原、都議会、森友学園、トランプ、北朝鮮と続いている。

 というわけで、今日の矢野顕子と椎名林檎は良かった。

 


船村徹

2017年02月22日 | 音楽

 船村徹という作曲家の作品に「哀愁波止場」「みだれ髪」などがある。なくなる直前には伍代夏子に「肱川あらし」を提供していた。

 作曲家みずから演歌といっているのだから、曲は演歌なのだが、他の演歌作曲家とちがう、と前々から思っていた。ポルトガルのリスボンのファドの心髄は「サウダーデ」という一種の望郷、故郷を思う、あるいは遠くに仕事に行ってしまった夫を想うような心情をいう。船村徹の曲はファドではないが、こころにしみいるような曲が多い。「ひばりの佐渡情話」にしても春日八郎の「別れの一本杉」、北島三郎の「風雪ながれ旅」、大月みやこの「女の港」などは名曲だろう。曲にふしぎな覚えやすさと深みがあって、心に沁みるのである。

 生涯で5000曲ほどを作ったという。曲が公開されたあとも、こうすればよかったかな、とかの思いにかられるらしい。創作するというのはそんなものなのだろう。

 美空ひばりが船村に依頼した新曲「みだれ髪」にまつわるエピソードがある。一発録音OKだったというひばりのすごさがわかる。また船村があるところの音をラにするかファにするか悩んだらしい。ソと決めて楽譜を作り、ひばりに渡したら、ひばりはすんなりとファで歌ったので、あわてて楽譜をファにしたというエピソードを新に知った。「みだれ髪」は名曲中の名曲である。ひばりは昭和とともに逝ってしまった。船村徹は84歳まで生きた。お酒が好きだったというから、長く生きられた方だろう。5000曲ときくと、作りまくっているという感じを受けるが、酒でも飲んでゆっくりと充電をし、そこはかとなくイメージも蓄えたのだろう。

  また偉大な人がいなくなってしまった。この人は「日本の誇り」のように思う。

 


舟木一夫歌手生活55周年

2017年02月18日 | 音楽

 舟木一夫が72歳になった今も1ヶ月続く時代劇と歌謡ショー公演をやっている。BSTBSでは2時間にわたって、記念番組を作っていた。一度尾鷲のホテル望月で偶然連れションをしたことがある。その時のショーにも九州の方から追っかけがきていた。

  舟木一夫の全盛期は昭和38年から昭和46年ほどくらいだったと思う。この当時ファンは団塊の世代で今も人口が多い。

  一時期どうにもならなくなった時期があった。ところがその舟木がどうにもならないときはかつてのファンも子育てでどうにもならなかった。ファンたちの子育てが終わると、舟木は活動を再開した。1ヶ月間の新橋演舞場や新歌舞伎座に客を呼び込めるのは並大抵のことではんしだろう。

 歌うには恥かしい気がするが、高校三年生や修学旅行などは、聞くと、当時の高校生活の記憶がドーンと甦る人が多いのだろう。多くのヒット曲にも恵まれた。それに、新しいヒット曲などと欲をださず、徹底して、当時のファンだけに歌い続けた。橋幸夫のように、本を書いたり、講演したり、新曲披露するという風でなく、追っかけてくれるファンを大事にする戦略をとったのだろう。

 戦後すぐに生まれた人たちにとって、流行歌は三橋美智也や春日八郎、フランク永井などで、青春ソングを歌う若者はいなかった。すでに日本の経済は安定期に入っていた。

 高校三年生はこのファンが生きる限り歌いつづけられる価値をもつのだろう。それにしても、びっくりの観客動員力である。1ヶ月続けられる芸能人はどれほどいるだろう。パンチもなく、ど演歌でもなく、押しも弱そうな舟木一夫。あれもしたい、これもしたいということもなく、ひたすら開き直って自分の歌を歌っている。そして若い。「そのひとは昔」というLPをよく聴いたものだ。ぼくは「高原のお嬢さん」が一番好きで、よく今で口ずさむ。切なさを歌った歌だ。

 


宇多田ヒカルのこと

2017年01月31日 | 音楽

 宇多田ヒカルの「ともだち」という歌がよくて、なんども聞いている。聞きながら思う。どうやって曲を作っていくのだろうか。リズムを先に決めるのか、それともリズムをともなったメロディーがふと湧き出てくるのか。歌詞はどうするのだ、と考える。いつも天才的な音楽家に対して思うことである、

 宇多田ヒカルの最新のアルバムはよく売れて、彼女はさっさとイギリスに帰ってしまった。僕らは彼女のあとを追うだけである。

 編曲はどうしてるのだろう。あのパーカッションはみんなやりながら、こんな風に、とか言って出てくるものなのだろうか。

 自分が乳児だったころの記憶はない。だが自分が母となって、記憶のない無意識の世界を自分の子を育てていると、自分の乳児期のことがわかるような気がする、と彼女はNHKの「Songs」で言っていた。母への想い、自分と関係するものたちへの想いがアルバムに込められている。

 このシンガーソングライターの作品は追いかけていくとおもしろいと感じる。淋しい声質をもった女性。が、女を捨て、芸術家になってしまったような気配もある。

 ぼくはじとりのアーティストとして見、聞き、している、それほどそそり立っている。たぶんこれは好き嫌いの問題ではないと思う。


歌わずにはいられない エリーダ・アルメイダ

2016年10月11日 | 音楽

  ポルトガル、リスボンのアルファーマという路地のエリアに入る手前に小さなミュージックショップがあり、僕はそこで「セザリア・エヴォラ」のCDを見つけた。勘で買ったのだが、大成功だった。セザリアは瞬く間に世界を席巻した。彼女は西アフリカの島 カーボヴェルデの出身で、その島で「裸足のセザリア」と呼ばれていた。

 セザリアが世を去ったのは2011年。もう彼女の新しい歌は聴けないと思っていた。今日、名古屋に入ったついでにタワーレコードに寄った。すると、ワールドミュージックのコーナーに「こころに響く歌声!アフリカ、カーボヴェルデから、世界に羽ばたく注目の歌姫! エリーダ・アルメイダ」『歌わずにはいられない』とポップに書いてあるのが目に入った。おお、ついにセザリアを継ぐものが出てきたか、と僕はそのCDを買った。セザリアを知ったときは彼女はすでに40代だったと思う。エリーダ・エルメイダはまだ23歳である。生まれ持った声が切ない。そしてセザリアよりも高音部が透き通っている。中音部はチェロのような声である。時にバスのような声も出る。

 出てきたか。そういうものなのかもしれない。ファドの女王アマリア・ロドリゲスが亡くなったあともやはり出てきた。

 帰りの車の中でエリーダ・エルミダの曲を聴きながら、この踊りと歌の島には一度行ってみたいものだとはるばる思う。

 たまたま出かけた店でセザリアを継ぐ若い歌手のCDと出会うのも珍しく、不思議な思いもする。

 ポルトガルの植民地であったカーボヴェルデ。アフリカ、ブラジル、西洋の音が入り混じっている。喜ぶべきこの運。今日はこれで十分である。


自己表出 宇多田ヒカル&渥美清

2016年10月06日 | 音楽

 宇多田ヒカルのニューアルバムのうち3曲をNHKのソングズで聴き、これはちょっと違うわい、JーPOPなどは越えてしまったわい、と思い、CDを買ってしまった。クラシックジャズ以外で、サザンの「葡萄」を買って以来だから1年以上前ぶりである。全部で11曲。

 パソコン取り込み、CDや各SDに書き込みむと、日本語タイトルと英語タイトルがあまりにも違うことに驚いた。11曲の中で気を抜いた曲はなく、ポップスの深化、あるいはポップスの未来をすごく感じることができて、今の歳まで無事生きてきて、そういう音楽が聴けてよかったとも感じた。モーツアルトがいたら、彼はどんな反応をするのだろうか、などと空想したりもする。

 宇多田ヒカルの切ない声は長調の歌でも切ないし、ユーモアであっても切ない。自己表出の激しい歌である。自分のために歌っているようである。作詞の能力も優れている。言葉とメロディーの切り方も、独特である。

 こういう人が世界に再び登場したのかと思うと応援したい。村上春樹の小説が世界の人々に読まれるように、彼女の歌をじっくり部屋で聴く人が毎日増えていると思うとうれしい。

 昨晩は渥美清、俳号 風天が残した200首ばかりのうちテレビで紹介された50ばかりをノートに写しとった。そして、自己表出と指示表出についていくらか考えた。風天の句の一句に風天でしか表現できない箇所がある。

  蟹悪さしたように生き(風天)


宇多田ヒカルのこと

2016年10月04日 | 音楽

  僕らは普通3歳くらいの頃に胎児の頃からの記憶が一度リセットされるように無意識の闇に沈みん込んでいく。その無意識の記憶がどのような色合で、どんな音で、どんな模様をしているか、闇はどんな闇なのか。それが一度成長過程でこれも無意識に出てくる時期がある。思春期だと思える。このころに彼女はデビューした。普通の人が味わう青春を味わうことができず、電車の切符一枚買うこともできなかった、という。そして27歳で「アイーティスト生活」から「人間活動」へと休止宣言をした。

  宇多田ヒカルは33歳になった。子供がいる。育児をすることで、乳児の頃、どんな風な子はどんなふるまいをし、どんな時に泣き、と自分の憶えていない3歳くらいまでのことを子育てをしながらいくらか確認できたそうだ。母親である藤圭子が死んでからいろいろなことを考えたのだろう。

 彼女は音楽活動を再稼働した。新しいアルバムは日本や海外でも大人気だそうである。北欧の国のどこだったかヒットチャート一位であり、今のところアメリカでは六位である。出たばかりだからまだ上がっていくのかもしれない。

 哀しげなトーンの宇多田ヒカルの声とその音楽は進化し、深化していることに我々は気がつくはずだ。おそらくアルバムの内面のテーマは「自分と母」である。語り尽くせない言葉よりも一束の花。孤独な道を歩いていても一人じゃない、あなたがいる・・・。切ないが音のとりあわせがよく、何度も聴いてしまう。「ともだち」という歌もよかった。「道」はやっと母を客観的に見えた彼女の越え方がわかるような気がした。

 心理学を学んだというよりも自分で考えたのだと思う。それは糸井重里が聞き手になってくれて語った言葉からもわかる。

 なんだか、ほとんどミュージシャンがぶっ飛ばされたような気がする。音の新しさ、コーラスの斬新さ、楽器の選び方、これまで誰もできなかったことをやってしまったと僕は思いながら、Songs の録画を何度も見ている。

 もうひとつ、桑田佳祐。健在である。彼の魅力のひとつにオマージュがある。わかっている人なら笑ってしまうが、わからない人には、なんだこの歌はとなる、そんな歌も多い。ところが前川清風のオマージュでもやっぱり桑田佳祐である。桑田の才能は青春時代であった昭和の懐かしみをほどよく持っているが、宇多田ヒカルの場合は、昭和のカケラもない。そしてクラッシクでもないポップスがここまできたか、と驚いてしまうのである。詩も練りに練られている。こういうアーティストが出てきたことにびっくりだ。こういうとき世界はすごい、と思う。

 


キャロル・キング

2016年09月20日 | 音楽

 僕がキャロル・キングを知ったのは1971年だった。1969年に自身による「タペストリー」がでるまでは、アメリカンポップスの作曲家で次々と歌手に楽曲を提供してはヒット曲を連発していた。15歳の頃から作曲していたのだから、宇多田ヒカルのようなものだったのだろう。

僕は You've got a friend.やWill you love me tomorrow? など彼女のLP盤を擦りきれるほどなんども聴いた。先日 ドキュメンタリーで、キャロル・キング出てきてインタビューにも応え、彼女のガーシュイン賞受賞に至るまでの人生を紹介していた。コンサートをほとんどしないシンガーソングライターだったから、僕はこの歳になってはじめて彼女の歌う映像を見た。

 トラウマや貧困などとは無縁な教師の家庭で両親に十分に愛されて育った。母親にピアノを教えてもらった。曲が湧き出てきたらしい。彼女が音楽界にデビューした頃は僕は寺町の路地で、まだテレビもなく、遊んでいた。

 これは想像だが、竹内まりやや山下達郎などは相当影響を受けたのではないか。

 僕はLPを買い続け、ロンドンでも聴き続けた。LPの時代が終わるとCD盤を買い集めた。彼女の歌はシンプルであるが心を歌う深みのようなものがあり、これからも人々よって歌い継がれていくことだろうと思う。ビートルズが真っ先に彼女の歌をカバーした。

 人生に影響を与えてくれた人は何人もいる。歌の世界ではこの人だ。僕は You've got a friend. を耳にすると、元住吉四畳半アパートで、自分の感情を言葉にできないもどかしさや、世界を把握する方法がわからず、悶えていたころを思い出す。

 インタビューキャロルは少女のように見えたのは不思議だった。

 


波の盆 武満徹

2016年08月10日 | 音楽

 昨日久しぶりに渋谷に行った。日帰りだった。仕事を済ませて、ドトールコーヒーの本店でコーヒーを飲み、タワレコードに行き、武満徹の「波の盆」と「夢の引用」というCD2枚を買った。目当ての「三つの映画音楽」を求めていたのだが、それはなかった。

 「波の盆」は彼がNHKのドラマ「夢千代日記」で作曲したのとほぼ同じような雰囲気のものを17分のものにまとめたもので、裏日本の抒情が溢れている。吉永小百合の作品の中で一番だと僕が思っている「夢千代日記」の舞台は兵庫県美方郡温泉町(現:新温泉町)。同町の湯村温泉はこのドラマ放送後、「夢千代の里」として脚光を浴びたという。現在、温泉街の中心部である荒湯のそばに吉永小百合をモデルにした「夢千代の像」が建てられている。また平成16年11月に資料館「夢千代館」がオープンし、館内には湯里銀座や煙草屋旅館内部などが再現されているらしい。物語中で芸者たちが度々舞う「貝殻節」は山陰地方でのみ知られる民謡だったが、このドラマで一躍全国的な知名度を得たということだ。山陰暗さが樹木希林の明るさや秋吉久美子の子を思う気持ちなどで、安心感もあり、裏日本の抒情に武満徹という作曲家と早坂暁という脚本家が絶望感にまで陥らせないで、ギリギリのところで物語を保っている。この地方の方言もよかったし、あり得ない風景の組み合わせだけれど、このドラマ世界を成り立たせている。短歌が時に出てくる。

 「花へんろ」はやはり早坂暁の脚本であるが、愛媛の風早町の方言である 「 ~なもし」と沢村貞子たちが喋るのが楽しかった。こちらは俳句が毎回出てくる。「昭和とは どんな眺めぞ 花へんろ」とは早坂作の俳句である。この作品は、1986年(昭和61年)、第4回向田邦子賞芸術選奨文部大臣賞、放送批評家懇談会優秀賞、放送文化基金賞個人賞受賞。1988年、第25回ギャラクシー賞・大賞受賞している。

 渥美清は寅さんになってしまったが、早坂暁の脚本で「尾崎放哉」をやりたかっただろうな、とこれらの作品を見ればきつく思ったことだろう。

 

 

 


表参道 スパイラルのこと

2015年07月29日 | 音楽
今から20年程前に、東京の表参道に「スパイラル」というとても異空間のカフェがあった。カフェを中心にして、入り口側にスパイラルのオリジナルレーベルのCDショップや香りや雑貨のショップがあり、カフェゾーンの向こう側には2階へと進む螺旋(スパイラル)があり、その螺旋の階段を女性が歩いていくのをみると、なんだかショーのように見え、人というのは見られていると、ちゃんとした姿勢にもなり、女優や人気歌手のようなオーラめいたものを感じとったのだった。
スパイラルの紹介するCDはどこから見つけてくるのか、新しい試みの音楽ばかりで、ふつうのCDショップではどういうジャンルになるのかわからないものばかりだった。「ナチュラルソニック」という打楽器だけで作った音楽CDは、今も僕のスマートフォンにもパソコンにも入っていて、旅をするといつもそれがある。水をたたく音、木々をたたく音などが音楽として正当に確立していた。その音に入っていくと、からだもこころも安らぐようだった。あるいは、ソニア・ロビンソンのジャズバイオリンを初めて聞いて感動もし、びっくりもした。圧巻だったのは、アフリカンパーカッションとサックスをメインとするジャズバンド、グレッチェンハンドの音楽だった。熱く、からだが揺れるようで、音にのめり込み、我を忘れさせるほどにエネルギッシュであった。
東京というところはさすがになんでもあるところだ、と思い、東京にいく度に、スパイラルでCD探しをするのが楽しみだった。ところが、3年もしないうちにその店はなくなってしまったいた。
どうやってきいたこともない、新しい作品を探せばよいのかわからず、あれ以降、実験的な音楽や全く知らない音楽を安心して買える店がなくなった。何万枚もあるCDの中には幾つか視聴できるものもあるが、それだけでは不十分すぎて、音楽を買うというのに、タイトルとカバーデザインだけで買わそうというのは無理がある。すべての音楽の出だしの1分でもきける装置はないものか、と当時思うのは当然だった。CDーROMを使い、一枚のCDに20時間の音楽が入り、それをインデックスでわけたらよいだけのことである。
当時、語学の分野でその技術を使い、そして音楽界に攻めていこうと思っていたが、肝心の装置を作るソニーが失敗した。ぼくらはオーサリングソフト作りに成功したが、ソニーの装置が15時間目ぐらいで止まってしまう事態となって、ソニーは途方に暮れた。ぼくらももう資金は続かなかった。つまり途中で挫折したのである。いまは圧縮技術力も進み、コピー装置も廉価となったが、CD販売業界は20年前と同じことをしている。
僕はこれにはあきれている。パソコンやスマートフォンでダウンロードができる時代となったが、アルバムを選ぶということにおいては、CDショップとなんら変わりはない。
このごろ、知らない音楽を発掘したいと思うようになって、試みるが、探し出すのは難しい。いっそのことCDは全部視聴できるようにすればいいのに、と思う。まあ、それができないのだから旧態依然としているのだろうが。

原田知世の歌の世界

2015年07月07日 | 音楽
 角川春樹が発掘したというか、起用した薬師丸ひろ子と原田知世はどことなく、女優の艶やかさとは違う、なにか、普通の人みたいな、汚れていないというか、垢がついていないというか、そんな雰囲気を両者とももっている。二人の歌も独特なワールドをもっている。
 昨日、BSプレミアムで、原田知世が他のシンガーのカバー曲を歌っていた。ビートルズの「夢の人」まで歌っていたが、なんといっても
原田知世が自分の歌にしてしまっていたのは原田真二の「キャンディ」だった。原田真二という男性が歌うと高いキーでやはり少年ぽい男の声で歌うし、内容も男の子の歌である。これを原田知世が歌うと、透明で澄み切った別世界になってしますのである。この女性は独自の世界を披露している。おそらく、現在もシンガーを続けているのはどこかの時点で自分の歌声というものがわかったのだろう。
 NHKの連続ドラマで「紙の月」の主役、銀行員で巧妙に偽定期貯金を作って、使い込んでしまい、若い男にみついでしまう犯罪者の役を演じた。これもとってもよく、次に見たのは「songs」での歌だった。

 完璧に、歌っても、独特の世界がなければならない。石原詢子が都はるみになれないのは、石原詢子のワールドがないからだ。ただうまいだけでは、歌というのはこころに響いてこないのである。
 矢沢永吉の最初の「キャロル」は全くドアーズのコピーだったのかな、と最近思った。しかし矢沢永吉は強烈な矢沢節をもっていたため今日まで歌い続けるのである。
 原田知世の清潔感は不思議な魅力がある。歳をとるたびに磨かれているという気がする。スタイルがよい。歩き方も素晴らしい。そして声は全くの癒しの声である。
 唸るところも、気張るところもない。どんな歌を歌っても波のない水面、ときに輝く水面という感じだ。
バンドをもっているということだから、ライブやコンサートなどはやっているのだろう。今度洋楽カバーを出したというからプロデュースする人も、原田知世ワールドを認めているのだろうと思う。
 チャンスがあれば、行きたいと思うのだが、ワインでも飲みつつだったら、もっといいだろうに。
 日本のコンサートは礼儀正しく聴かなければならないので、鬱陶しい。やっぱりライブだな。
 

ビーチボーイズ

2015年06月27日 | 音楽
「The Beach boys」という1961年に結成されたバンドの歌と曲を初めて興味をもって聴いた。サーフィンロックと言えばいいのか、まあ、ロックンロールなのだろうけど、ハーモニーをつけて歌うグループサウンドである。「The Beatles」が1960年の発足だから1年後ということになる。ビーチボーイズはカリフォルニアを拠点として活動した。これまで売れに売れていたビーチボーイズの作曲・作詞はほぼブライアン・ウィルソンが行っていた。そのビーチボーイズが「 Pet Sounds」というアルバムを発表したのが1966年。ビートルズを刺戟したらしい。逆にブラインもビートルズを意識したのかもしれない。

 ビーチボーイズのハーモニーは独特で、以後、世界では彼らに影響を受けたグループが続々とでてきた。ファルセットが美しく、張り上げて歌うようなロックではない。軽いノリのものが初期の頃の歌だった。ところが「Pet Sounds」で大きく変わった。深く複雑になった。当初アメリカではそれほどヒットしなかったが、ヨーロッパで大ヒットし、ポールマッカートニーがブラインを訪ねたことがあったらしい。ブライアンは統合失調症だったらしく、ポールがわざわざブライアンの自宅に来たときもロッカーの中に隠れていたというエピソードがある。ブライアンはコンサート、作曲とやたら忙しく、やがて、コンサートにはでず、スタジオでプロヂュースと作曲だけを手がけるようになるが、スタジオミュージシャンのテクニックによって、自分ではできないベースラインができるようになり、曲の深みと幅も増していったが、精神にも異常をきたしていた。
 その後、20年ほどは精神的な病と格闘し、また復活を遂げる。2009年には米ビルボード誌のジャズ・アルバム・チャートで1位を獲得した。まだ新曲を作っている。今はソロ活動をやっているらしいが、年齢は73歳である。

 戦後、音楽はイギリス、アメリカを中心として大きく変わった。ビートルズやビーチボーイズ、ローリングストーンズなどが音楽を変えていった。ジャズにも影響を受けながら、全く違うジャンルとして確立されていった。
 ジャズはスウィング、ビーポップ、モダン、フリーとこれもまた変遷していった。
 1961年と言えば、僕はまだ11歳だった。1960年登場のビートルズも知らなかった。ヒットパレードでは外国の歌が翻訳されて流行していたが、まだ日本でのグループサウンズは登場していなかった。中学生の2年生か3年生ぐらいの頃、同級生のA君がいつも平凡パンチももって廊下を歩いていた。ビートルズが日本に来たのは1966年だから、僕はもう高校生になったいたが、すでにもう馴染めなかった。この頃は日本の下手な、どうしようもないグループサンズが真っ盛りであった。1972には矢沢永吉の「キャロル」がでてきて、1973年には山下達郎がでてきた。そしていよいよ我がサザンオールスターズが出てきたのは1978年である。竹内まりあも1978年である。この歌手が最もビーチボーイズっぽい。

 日本でロックが醸成されるまで10年以上かかったことになる。ジャズは戦前から入ってきていたが、地方の果てほうにいる僕なんかは、「ロッテ歌のアルバム」や「ヒットパレード」で聞くぐらいのものだった。
 高校3年生の時にはビートルズを真似するバンドも同級生たちが始めていた。やはりどこにでもこういうことに敏感に反応する人というのはいるのだ。

 この前「ベンチャーズ」コピーをやって楽しんでいるHさんとあったが、楽器演奏に歌をのせるという発想はなかったようだ。それだけ難しいのかもしれないが、その頃から50年以上が経った今、ハーモニーが流行っている。
 なにかが変わるというのはその先駆けの時代から長い、長い時間を要するものだと思う。