
朝のドラマ「花子とアン」を観ながら・・・
本というかたちで、「物語」が、ヒトからヒトへと伝わってゆくことの
おもしろさを感じました。
L・M・モンゴメリというカナダの女性が
「赤毛のアン」という物語を生み出し
その「物語」を、愛読していた人から
日本に暮らしている村岡花子さんに、「本」として手渡され
そのヒトとヒトとのあいだに、きっとつよく響き合うものがあったからこそ
日本語に訳され、日本の子どもたちに届けられる・・・
「物語」というものも
まるで旅をして、色々な場所で、色々な人に出会うものなんですね・・・
お返事ありがとうございます♪
ニュースでは、観ましたが…
お写真、迫力ありますね~
ありがとうございます~☆
#だんじり
#カーネーション
RT @yuckeyn:
はい!
13日の朝6:00 曳き出しといって一斉だんじりが動きはじめます
中村元は、原始仏典の現代語訳…常用漢字のみ使用…に取り組むなかで、……今では普通に使われているけれども……「仏陀」を「ブッダ」とカタカナで表記したら「厳かでない」とフルボッコされたという。いかに「権威」が「自分で考える」ことを否定する日本社会なのかということをその消息は物語る。
真理を追究する上で大切な事は何か。「誰がいったか」ではなくて「何をいったか」。アカデミズムの本義を毀損するのは権威主義。「誰がいったか」宜しく「お上」(この言葉自体にその生-権力が潜在するように)に連動されて事実性を歪曲して何ら恥じることがないこと自体、「人間」を破壊する行為だ。
M.Volf は「和解のプロセス」として①悔い改め(Repentance)、②癒し(Forgiveness)、③自己に他者の場を設けること(Making space in oneself for the other)、④記憶の癒し(Healing of memory)を説く。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」(ヴァイツゼッカー)といいますが、M.Volfはクロアチア出身の神学者(勿論、その時代背景を考えよ)ですが、この4つの和解のプロセスを、戦後日本は全くスルーしてきたよね。安易な「なんだ、てめえ」みたいなのには乗りたくない。
「みんなの広場:真に女性が輝く社会とは」『毎日新聞』2014年9月13日付。「首相を飾る『花』と女性を見立てる意識が垣間見えないか。そうであればそれは昔からある男社会の願望としての『女性の輝き』だろう」。これもそう。 pic.twitter.com/byVjX5tJ1K
今朝の #花子とアン で、8時13分頃、爆弾が落ちてガラスが割れ、花子と美里が防空ずきんをかぶって避けている場面、ちょうど、ぼくがスタジオで収録を拝見したシーンでした。現場のスタッフの方が、テストを繰り返し、いろいろ工夫を重ねて撮られていたのを、思い出しました。