昨日のNHKプロフェッショナルは樹木医塚本こなみさんの「藤の老木に命を教わる」でした。
録画していた番組を、一回目に見た時は
難しい老木の移植や養生に、細やかな心配り、目配りをなさっていること
とにかく植物を「見つめて」「小さな変化や様子を見逃さない」こと
植物を育てることは、物言わぬけれどきっと何かを発信しているということに気づき
その見えない「根っこ」や樹の生きる力を最大限に引き出すということ
年に一度の開花の時期を楽しみにやって来る人々の笑顔を見つめるまなざし
塚本さんが、フツウの主婦から、勉強をして樹木医の資格をとって活躍していること
仕事に打ち込む中で、家庭の主婦としての迷いや葛藤があったこと
それを、どちらも捨てることなく両方を選んで、大変ながらも奮闘していること
自然を相手にすることは、予測のできないことばかりで
その時その時に、ぶつかった問題に、悩みながらも
いろいろなことを考えたり、見つけていくしかないということ・・・など
『悩みの先にしか、答はない』という言葉が印象に残りました。
そして、プロフェッショナルとは?という問いにたいして
『一生この道を究めてみたいと思い続ける人。
ここまで行っても・・・きわめきれない道だけど、でもきわめてみたい。』
と、さわやかに答えていらっしゃいました。
植物を相手にするまなざしや想いは、あたたかく、厳しく
それは、きっと子どもや人にたいしても同様なものだと確信し
さらに、塚本さんの意志の強さを感じて、私もそうありたいと思いました。
人として、自分もそうありたい、目指す目標にしたいと感じました。
さて、実はもう一度VTRを見直した時に
私にはチョッと違った印象が立ち上がってきました。
植物の気持ちになることができたとしたら・・・何が見えてくるんだろう?
もし、自然のままの、人が何も手を加えていない
まったくの自然のままの環境にあったとしたら・・・どうなっていくんだろうか?
これはあくまでも仮定のお話であって、そんなことは意味のないことかもしれません。
けれど、そこから見えてくるものが、何かあるような気がしてなりません。
『できるだけ、樹には長く生きていてほしい』『人々を楽しませてほしい』というのは
人間から見た植物への思いでしょう。
自然は、かけがえのないもので
それを人間は、壊すことなく、守っていくことが大切でしょう。
けれど、人間が生活していくうえで
否応もなく自然は壊されて、植物の生きる場所は狭められ、土は固められています。
人間が呼吸して生きていくために、なくてはならない酸素を提供している植物に対して
あまりに当たり前すぎるからなのか、人はずいぶん無頓着にしているような気がします。
ほんとうの意味で、自然な森では
老木は、朽ちてその身体を細菌やバクテリアによって分解され
いづれ栄養たっぷりの土となり、
また新たな新芽を育む豊かな土壌となって、生きとし生けるものの中で
その身体を構成する要素になっていくのでしょう。
私自身も、生物の一つの種に過ぎない“ヒト”として生きていくうえで
私たちを取り巻く自然と、どんな風に折り合っていくことができるのかを
もう一度、考え直してみようと思いました。
そして、レーチェル・カーソンが最後に遺した
『センス・オブ・ワンダー』を開いてみました。
あとがきにある訳された上遠恵子さんの言葉が目に留まりました。
「レイチェル・カーソンは、地球の素晴らしさは生命の輝きにあると信じていた。
地球はあらゆる生命が織りなすネットで覆われている。
その地球の美しさを感ずるのも、探求するのも、守るのも、
そして破壊するのも人間なのである。」
「彼女は、破壊と荒廃へつき進む現代社会のあり方にブレーキをかけ
自然との共存という別の道を見いだす希望を
幼いものたちの感性に期待している。」
それは、すぐに答の見つかるような簡単なことではないのかもしれません。
もしかして、その答が見つかったとして
人間は、それを選択することができるのでしょうか?
そんな子どもたちの感性に響くような自然とのふれあいや
自然そのものへの気づきを、私たちは子どもたちに見せているのだろうか?
そんなことを、長い年月を美しく咲き続けてきた藤の花を
感慨深く眺める人々の姿を見ながら、ふと想いました・・・
録画していた番組を、一回目に見た時は
難しい老木の移植や養生に、細やかな心配り、目配りをなさっていること
とにかく植物を「見つめて」「小さな変化や様子を見逃さない」こと
植物を育てることは、物言わぬけれどきっと何かを発信しているということに気づき
その見えない「根っこ」や樹の生きる力を最大限に引き出すということ
年に一度の開花の時期を楽しみにやって来る人々の笑顔を見つめるまなざし
塚本さんが、フツウの主婦から、勉強をして樹木医の資格をとって活躍していること
仕事に打ち込む中で、家庭の主婦としての迷いや葛藤があったこと
それを、どちらも捨てることなく両方を選んで、大変ながらも奮闘していること
自然を相手にすることは、予測のできないことばかりで
その時その時に、ぶつかった問題に、悩みながらも
いろいろなことを考えたり、見つけていくしかないということ・・・など
『悩みの先にしか、答はない』という言葉が印象に残りました。
そして、プロフェッショナルとは?という問いにたいして
『一生この道を究めてみたいと思い続ける人。
ここまで行っても・・・きわめきれない道だけど、でもきわめてみたい。』
と、さわやかに答えていらっしゃいました。
植物を相手にするまなざしや想いは、あたたかく、厳しく
それは、きっと子どもや人にたいしても同様なものだと確信し
さらに、塚本さんの意志の強さを感じて、私もそうありたいと思いました。
人として、自分もそうありたい、目指す目標にしたいと感じました。
さて、実はもう一度VTRを見直した時に
私にはチョッと違った印象が立ち上がってきました。
植物の気持ちになることができたとしたら・・・何が見えてくるんだろう?
もし、自然のままの、人が何も手を加えていない
まったくの自然のままの環境にあったとしたら・・・どうなっていくんだろうか?
これはあくまでも仮定のお話であって、そんなことは意味のないことかもしれません。
けれど、そこから見えてくるものが、何かあるような気がしてなりません。
『できるだけ、樹には長く生きていてほしい』『人々を楽しませてほしい』というのは
人間から見た植物への思いでしょう。
自然は、かけがえのないもので
それを人間は、壊すことなく、守っていくことが大切でしょう。
けれど、人間が生活していくうえで
否応もなく自然は壊されて、植物の生きる場所は狭められ、土は固められています。
人間が呼吸して生きていくために、なくてはならない酸素を提供している植物に対して
あまりに当たり前すぎるからなのか、人はずいぶん無頓着にしているような気がします。
ほんとうの意味で、自然な森では
老木は、朽ちてその身体を細菌やバクテリアによって分解され
いづれ栄養たっぷりの土となり、
また新たな新芽を育む豊かな土壌となって、生きとし生けるものの中で
その身体を構成する要素になっていくのでしょう。
私自身も、生物の一つの種に過ぎない“ヒト”として生きていくうえで
私たちを取り巻く自然と、どんな風に折り合っていくことができるのかを
もう一度、考え直してみようと思いました。
そして、レーチェル・カーソンが最後に遺した
『センス・オブ・ワンダー』を開いてみました。
あとがきにある訳された上遠恵子さんの言葉が目に留まりました。
「レイチェル・カーソンは、地球の素晴らしさは生命の輝きにあると信じていた。
地球はあらゆる生命が織りなすネットで覆われている。
その地球の美しさを感ずるのも、探求するのも、守るのも、
そして破壊するのも人間なのである。」
「彼女は、破壊と荒廃へつき進む現代社会のあり方にブレーキをかけ
自然との共存という別の道を見いだす希望を
幼いものたちの感性に期待している。」
それは、すぐに答の見つかるような簡単なことではないのかもしれません。
もしかして、その答が見つかったとして
人間は、それを選択することができるのでしょうか?
そんな子どもたちの感性に響くような自然とのふれあいや
自然そのものへの気づきを、私たちは子どもたちに見せているのだろうか?
そんなことを、長い年月を美しく咲き続けてきた藤の花を
感慨深く眺める人々の姿を見ながら、ふと想いました・・・
一方では私の友人が会員なのですが、「どんぐり会」と称するボランティアグループがあって、ザックに団栗を詰めて山登りをします。そして所々に団栗を播くそうです。団栗はやがて芽を出しいずれ大木に育ち、そして実をつけることを願った行動です。一地域のささやかな行為ですが、人間にこうした本当の善意と叡智がある限り、いずれまた自然は少しずつではあっても復活するのではないかと思います。破壊と復活。人間はこの愚行の繰り返しなのかもしれません。
京都は平等院の藤が見事です。もう少し密やかであれば、大原の寂光院の藤でしょう。ご覧になったことがあるかもしれませんが。
「藤」 石原吉郎
幽明のそのほとりを 装束となって花は降った もろすぎる物の過酷な充実が 死へ向けて垂らすかにみえた そのひと房を。
おしなべて音響はひかりへ変貌し さらに重大なものが忘却をしいられるなかを すでにためらいを終え りょうらんと花はくだった。
ほんとうに人間のすることは、光と影のようにも見えて
その両面を、どうしていけばいいのか
まだ私には、よくわからないところです。
藤の咲く時期の京都に行ったことがありませんでした。
その季節ごとに、違う表情が見られるのでしょうね・・・
宮沢賢治の風を5月から方城渉さんから引き継いだカスタードです
いつかちゃんとご挨拶しなくちゃと思ってたら
こういう機会がきました
(*^▽^*)
方城渉さんほどむずかしいことは書けませんけど
(脱力系が多いです、正直)
仲良くしてくださいね
(勝手にリンク張らせてもらっちゃってます。許してくださいね)
ようこそ、いらしてくださってありがとうございます。
自分の記事を書くことで手一杯のところがあり
“宮沢賢治の風”まで、なかなかうかがえずにおりました。
ぜひ、こちらまでさわやかなやわらかい風を届けてください!
風も、ひとりではなく
みなさまの、いろいろな色があるほうが楽しいですものね!