Little Tree

日々のいとなみのなかで感じた子どものこと、季節の移ろいやこころに映る風景

夏みかん、色づく・・・

2008-10-25 08:18:16 | お気に入り
雨上がりの朝。

目の前に、夏みかんの黄色が鮮やかに浮かんでいます。

まだ西の空の遠くのほうまで、雲が広がっていますけれど
これから少しずつ、お天気が良くなっていくのでしょうか?


テレビのタイマーで目覚めたkirikouは、おフトンにくるまったまま
何やらテレビを観ています。


昨日は、このところ何度も貸し出しの延長をして手元に置いている

「須賀敦子さんの全集の別巻」をパラパラめくりながら
気の向いたところをノンビリと読んでおりました。

夜になって、ブログを確認するとご紹介していた雑誌「芸術新潮」のトップページが
10月号から11月号の手塚治虫さんの特集に変わってしまっていました!

そのあとで、メールを確認すると…(木曜日に来ていた)

「考える人」のメルマガで、須賀敦子さんの特集についてのお話が載っています。

雑誌の編集長の方が、お書きになっていらっしゃるのでしょうか?

その方がご紹介なさっている本など、いつも楽しみにしております。

今回は須賀敦子さんの詳細な年譜についてのお話ですが
私は、文庫本にせよ、まだ全集をもっておりませんので
今度図書館に行った際には、ぜひ覗いてこようと思っています。


サテ・・・須賀敦子さんのことを、最初に私に教えてくださったのも
この雑誌「考える人」でしたけれど

その時から、ずっと消えずに抱いていた疑問のようなものがあって

それは、その方の笑っていらっしゃるお写真から受ける印象と「文章から受ける印象」が
どこか微妙に…いえ、かなり大きくズレている様に感じられてなりませんでした。


2年近く、(まだ、その著作の半分も読んではいないと思いますけれど)
折にふれて、その方のご本を読んできた中で、ようやく全集にたどり着いて

実際に須賀さんと親交のあった方々のお話から

「とってもおしゃべりのお好きな、人懐っこい方でいらした。」らしいことを知りました。

さらに、ある一面とても厳しいものも内に秘めていらしたことや
大学の先生として学生さんに対していらしたご様子などを伺って

ようやく、私にとっての「須賀敦子さんの姿」が
おぼろげながらも一つのカタチとなって、像を結びつつあるように感じました。


そうして、須賀敦子さんの言葉に耳を傾け、その声を聴きながら
私にとっての本を読む際の手引きをして頂いているように感じられてなりません。


先ほど申し上げました、別巻の対談・鼎談集では
ほんとうにたくさんのご本について、いろいろな方とお話になっていて

ほとんどが読んだことのない本ばかりですけれど
須賀さんの訳されたギンズブルグやタブッキの作品はいくつか読んでみました。

丸谷才一さんと三浦雅士さんとの「読書歓談・私が選ぶベスト3」の中では
長編といったら、「『源氏物語』は、やっぱりすごいですね」と須賀さんがおっしゃっていらして

やはり「そこまでおっしゃる何かがあるのだろう?」という興味が、さらに湧いてきます。


ということで、須賀さんに出会った最初の頃に読んだのが
「コルシア書店の仲間たち」や「本に読まれて」だったこともあって

いろいろなことをしながら、いろいろなところへ行きながらも

その底流には、須賀さんの持っていらした視線のようなものを
どこか自分の中に携えて、時おり出してきては
照らし合わせているような気がしています。


それでは…私の自己流の解釈による…

対談の中で、特に気になったお言葉をご紹介させていただきましょう。


津野海太郎著『歩くひとりもの』についての対談より、以下に引用いたします。


須賀「とっても楽しそうに書いていらして、私もひとりものだものですから、なんかとても面白くて、どんどん、どんどん読めちゃったという感じで。ひとりものというのはこういうものだなという楽しさが隅々にあふれていて、なかなかいい本ですね、これは。」(中略)

川本三郎「本当にこれは男が読むとうらやましくなるような本です。」

須賀「いや、女でもみんなうらやましいんじゃないでしょうか。やっぱり私、ことに女の人は、夫婦になっても独身の自由というものを持ち続けなければいけないと思うんですね。そういう意味で、大事な本ではないかと思います。

川本「そうですね」(引用ここまで)


そして、その意味するところが、もっともっと厳しい深さをもって表されているのが…

「コルシア書店の仲間たち」の最後の一文で

『 コルシア・デイ・セルヴィ書店をめぐって、私たちはともするとそれが自分たちが求めている世界そのものであるかのようにあれこれと理想を思い描いた。そのことについては書店をはじめたダヴィデも、彼をとりまいていた仲間たちもほぼ同じだったと思う。それぞれの心の中にある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、いちずに前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きなければいけない孤独と隣りあわせで、人それぞれ自分自身の孤独を確立しない限り、人生は始まらないということを、少なくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
 若い日に思い描いたコルシア・デイ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちは少しずつ孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。』(引用ここまで)


私の手元にある文庫本の、須賀さんの文章に続いてい置かれているのは

松山巌さんによる解説で、その最後には

『 三十年という長い時間が必要だった。記憶という無数の破片が、時間の波に洗われて取捨され、研磨され、輝きを得るには三十年という時間を要したのだ。私たちは大切な家族や友人と離れて、自分の孤独に気づく。が、その孤独を噛みしめなければ、じつはかけがえのない人たちの存在には気づかない。まして自分自身が何を求めていたのか、そんなことにさえ気づかない。私は仲間たちと離れても、長らくそのことを悟ることができなかった。孤独とは他人を全身で認め、恋うること、それが私には判らなかった。
 哀しい物語には違いない。が、須賀敦子は背後から懐かしい仲間たちを一身に抱きしめることで、生きて行くことの喜びを噛みしめ味わっている。私は文書の端々、行間から、繰り返し、人間は決して独りぼっちじゃないぞという声を聴いていた。ページをめくり終え、目頭を押さえた後に気づいたのは、そのことだった。』(引用ここまで)


そして、その表紙にそこはかとない優しい眼差しを添えているのは…

(先日偶然に、東京都庭園美術館で作品展を観てきた)

船越桂さんの「言葉が降りてくる」という作品です。


どこかで偶然に皆様のお目に留まって、お手にとってお読みいただけたら
私もささやかなお話をいたしました甲斐があるというものです。



たとえ結婚をして、子どもがいたとしても…

人は一人で生まれて、いつか一人になっていくものでしょう。


そんな当たり前のように思えることを、ついつい忘れてしまうのか?

観ないでいるほうが、楽なのか?それとも、観ないように目を閉じているのか?


けれど…いったん、そうと想ってみたならば

「独りであること」からスタートして、いろんな「人に出会える」ということは

これほど愉しくって、どんなにかワクワクすることでしょう!!

だからこそ…たとえ一回きりの「一期一会」のご縁でも
でき得る限り、大切にしていきたいなぁと、身に沁みて想いました。



窓の外も、少しずつ明るさを増してきたようです。

鳥たちの声が、こころなし賑やかになってきましたね…


皆様も、10月最後の週末、秋の贈り物でも探しながら…


お心もさわやかな、お健やかな佳き一日をお迎えくださいネ!!



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