kirikouと一緒に眠ってしまっていたらしく、目が覚めると夜中の2時過ぎ。
ベランダに出て観ると、下弦のお月さまが優しい光を放ちながら
東の空に、ひそやかに浮かんでおりますね…
(蛇足ですが…その時刻の見た目は、上弦でしたけれど。)
歳のせいでしょうか?
よっぽど疲れていれば、別でしょうけれど
一定時間眠ると、目が覚めるようになってきたようで
どこかしらに気がかりがあるから…というわけではないのかもしれません。
時には、お月様を道連れにして真夜中のブログに向かってみましょうか?
「お話の枕をどのあたりにしようかしらん」
「何を言って、何を言わないか…」などなどと思いつつ
そういえば「その言葉」をどなたかがお話していらした調子のそのままに
耳の中(というよりアタマの中?)に再生するように思い起こして
ついつい苦笑してしまう私です。
サテ…お月さまで思い出したのが、
まずは、月曜日から再放送をしている「知るを楽しむ」の
「こだわり人物伝~永井荷風の「お一人さま」の天才」のことでした。
一回目は坪内祐三さん、2回目は半藤一利さんのお話で
42年間、一日も欠かさずに綴ったという「断腸亭日乗」を紹介しています。
(先ほどまで「34年間」って書いてありましたが、訂正いたしました。
お亡くなりになったのが昭和34年とのこと。脳への入力ミスで、失礼いたしました。)
私自身は有名なお名前を知る程度で、作品を読んだことがありませんでしたけれど
戦争中の日記から浮かび上がる「作家の視線」に驚きました。
東京大空襲の夜、タイヘンな最中に月を観ている…
その人の心に浮かぶものとは…一体どんな景色だったのでしょう?
(もうひとつ、宮城谷昌光さんの語る「孟嘗君と戦国時代」もオモシロく拝見しています。
そういえば「カンゴロンゴ」にも出ていらっしゃる加藤先生の
「日中二千年 漢字のつきあい」も、ぜひ観てみたいです。)
日本だけでなく、世界の歴史もどこかで全部つながっていて
その大切さや面白さは、ほんとうにキリがありません。
人が人としての営みを始めたころまで、ついつい意識が遡っていってしまいます。
そして…
『子供の頃、庭続きの隣に住んでいた祖父がよく、
「きれいなお月様が出ているから、外に出て見なさい」と誘いに来た。』
という言葉で始まるご本は、小川洋子著「科学の扉をノックする」です。
様々な分野の科学者やスポーツトレーナーの方を訪ねて
その専門分野のお話について、好奇心豊かな目線とあたたかな語り口で
お書きになっていらっしゃいます。
あとがきより引用いたしますと
『 子供の頃から、新聞で一番好きなのは科学の記事でした。新しい星が発見されたり、チンパンジーが字を覚えたり、難病を引き起こす遺伝子が解読されたりといった記事に出会うとつい興奮してしまいます。自分は何もしていないのに、世界にある無数の謎の一つが人間によって解き明かされたのだと、なぜか誇らしい気持ちになるのです。同時にまた、この世はなんと複雑で奥深いのだろう、自分が思うよりずっと遠い向こうまで世界は続いているという感慨も覚えます。
そして記事の脇に研究者のお写真が載っていれば、当然私の目はそこに釘付けとなります。この先生の脳みそには人間はどんな姿で映っているのだろうか、一体どういういきさつでこの研究をするようになったのだろう、きっと研究室には私など想像もつかない魅惑的な道具が隠されているに違いない……。私の妄想はどんどん膨らんでゆきます。』(引用ここまで)
お書きになっていることと、同じようなことを私自身も常日頃感じておりましたし
何より「そのお気持」を、こんなに素直に上手に表現できるなんて~!!
モチロン、作家さんだからこその洗練された表現であるとしても
小川洋子さんという方ご自身が、きっと素敵なんだろうなぁ…と想いました。
そういえば…茂木先生の対談が集められた「科学のクオリア」でも
科学者の方に混じって、小川洋子さんとの対談も載っていましたね。
「博士の愛した数式」を巡っての、おふたりのお話もとても楽しかったです。
ということで…私もいろいろな科学者の方々やそのご研究について
ほとんど素人目線で申し訳ありませんが、とっても注目している一人です。
それぞれの方のきっかけやスタートは、おそらく子どものような好奇心の向かうところに
飽くなき興味関心のエネルギーを注ぎ込んでいくことができる…そんな方々なのでしょう。
さて、なんと今度の「朗読の課題」が「博士の愛した数学」なんですよ!!
まだ「黙読」と「素読み」程度しかできておりませんが
実は、2年ほど前でしたか?映画を観てからだったと記憶しておりますけれど
ご本の方も読ませていただいておりました。
映画のほうも、過去と現在を上手に繋ぎながら…
「博士とルートと私」の姿が、生き生きと描かれていたように想いました。
そして…文章を読んでいて、改めて気づいたことがありました。
冒頭の博士のお義姉さんのセリフのあとに
『彼女の口から発せられる言葉には、冷たく、どこかためらうような響きがあった。』と書かれていました。
さらに博士の『576の1455だって?…」に続くセリフの後には
『いかにも感心したふうに、博士はうなずいた。』とあります。
なるほど~!そういうことだったんですね!
この半年ほどの間に、朗読の講座で「内容を伝えること」「話すように読む」
「セリフは、その登場人物になりきって演ずるように、情感を込めて」などを
教えていただいておりました。
普段の面と向かっての会話だったら、もう少し自然にできるようになったとは想いますけれど
自分ではない作中の人物に「なりきって、情感をこめる」のが
実は、私にはなかなか難しいハードルに思えておりました。
さらに、ブログに書いている言葉だけの文章の中で
何がしかのことを伝えるには…
なるほど、ほんとうに「いろいろな工夫がいる」のでしょうね。
とはいえ、その都度全てのことを意識していることができるのかどうか?
思わず浮かんでくる「無意識にも近い言葉たち」の中に
そのこころの奥深くに幾重にも折りたたまれて潜んでいる「その人の気持や想い」が
映し出されているのかもしれません。
それらを、さえぎることなく受け止めること…
そのためには、こんな小さな自分にしがみついていてもしょうがないし…
少々のお化粧はエチケットとしても、鎧や仮面…で身を固めることの意味を想うと
少しずつでも自分自身を解放していくことで
その分だけ、いろいろな人を受け入れる許容量も増えていくのでしょうか?
正直にモノを言うことの難しさを感じるとともに
素直に発せられる言葉の重みを感じずにはいられない私です。
4時を過ぎて…
どうやら、お月さまもお空の真上辺りまでのぼっていらっしゃいました。
静かな朝の気配を待ちつつ
そろそろ、さやかなおしゃべりを終えましょう…
ベランダに出て観ると、下弦のお月さまが優しい光を放ちながら
東の空に、ひそやかに浮かんでおりますね…
(蛇足ですが…その時刻の見た目は、上弦でしたけれど。)
歳のせいでしょうか?
よっぽど疲れていれば、別でしょうけれど
一定時間眠ると、目が覚めるようになってきたようで
どこかしらに気がかりがあるから…というわけではないのかもしれません。
時には、お月様を道連れにして真夜中のブログに向かってみましょうか?
「お話の枕をどのあたりにしようかしらん」
「何を言って、何を言わないか…」などなどと思いつつ
そういえば「その言葉」をどなたかがお話していらした調子のそのままに
耳の中(というよりアタマの中?)に再生するように思い起こして
ついつい苦笑してしまう私です。
サテ…お月さまで思い出したのが、
まずは、月曜日から再放送をしている「知るを楽しむ」の
「こだわり人物伝~永井荷風の「お一人さま」の天才」のことでした。
一回目は坪内祐三さん、2回目は半藤一利さんのお話で
42年間、一日も欠かさずに綴ったという「断腸亭日乗」を紹介しています。
(先ほどまで「34年間」って書いてありましたが、訂正いたしました。
お亡くなりになったのが昭和34年とのこと。脳への入力ミスで、失礼いたしました。)
私自身は有名なお名前を知る程度で、作品を読んだことがありませんでしたけれど
戦争中の日記から浮かび上がる「作家の視線」に驚きました。
東京大空襲の夜、タイヘンな最中に月を観ている…
その人の心に浮かぶものとは…一体どんな景色だったのでしょう?
(もうひとつ、宮城谷昌光さんの語る「孟嘗君と戦国時代」もオモシロく拝見しています。
そういえば「カンゴロンゴ」にも出ていらっしゃる加藤先生の
「日中二千年 漢字のつきあい」も、ぜひ観てみたいです。)
日本だけでなく、世界の歴史もどこかで全部つながっていて
その大切さや面白さは、ほんとうにキリがありません。
人が人としての営みを始めたころまで、ついつい意識が遡っていってしまいます。
そして…
『子供の頃、庭続きの隣に住んでいた祖父がよく、
「きれいなお月様が出ているから、外に出て見なさい」と誘いに来た。』
という言葉で始まるご本は、小川洋子著「科学の扉をノックする」です。
様々な分野の科学者やスポーツトレーナーの方を訪ねて
その専門分野のお話について、好奇心豊かな目線とあたたかな語り口で
お書きになっていらっしゃいます。
あとがきより引用いたしますと
『 子供の頃から、新聞で一番好きなのは科学の記事でした。新しい星が発見されたり、チンパンジーが字を覚えたり、難病を引き起こす遺伝子が解読されたりといった記事に出会うとつい興奮してしまいます。自分は何もしていないのに、世界にある無数の謎の一つが人間によって解き明かされたのだと、なぜか誇らしい気持ちになるのです。同時にまた、この世はなんと複雑で奥深いのだろう、自分が思うよりずっと遠い向こうまで世界は続いているという感慨も覚えます。
そして記事の脇に研究者のお写真が載っていれば、当然私の目はそこに釘付けとなります。この先生の脳みそには人間はどんな姿で映っているのだろうか、一体どういういきさつでこの研究をするようになったのだろう、きっと研究室には私など想像もつかない魅惑的な道具が隠されているに違いない……。私の妄想はどんどん膨らんでゆきます。』(引用ここまで)
お書きになっていることと、同じようなことを私自身も常日頃感じておりましたし
何より「そのお気持」を、こんなに素直に上手に表現できるなんて~!!
モチロン、作家さんだからこその洗練された表現であるとしても
小川洋子さんという方ご自身が、きっと素敵なんだろうなぁ…と想いました。
そういえば…茂木先生の対談が集められた「科学のクオリア」でも
科学者の方に混じって、小川洋子さんとの対談も載っていましたね。
「博士の愛した数式」を巡っての、おふたりのお話もとても楽しかったです。
ということで…私もいろいろな科学者の方々やそのご研究について
ほとんど素人目線で申し訳ありませんが、とっても注目している一人です。
それぞれの方のきっかけやスタートは、おそらく子どものような好奇心の向かうところに
飽くなき興味関心のエネルギーを注ぎ込んでいくことができる…そんな方々なのでしょう。
さて、なんと今度の「朗読の課題」が「博士の愛した数学」なんですよ!!
まだ「黙読」と「素読み」程度しかできておりませんが
実は、2年ほど前でしたか?映画を観てからだったと記憶しておりますけれど
ご本の方も読ませていただいておりました。
映画のほうも、過去と現在を上手に繋ぎながら…
「博士とルートと私」の姿が、生き生きと描かれていたように想いました。
そして…文章を読んでいて、改めて気づいたことがありました。
冒頭の博士のお義姉さんのセリフのあとに
『彼女の口から発せられる言葉には、冷たく、どこかためらうような響きがあった。』と書かれていました。
さらに博士の『576の1455だって?…」に続くセリフの後には
『いかにも感心したふうに、博士はうなずいた。』とあります。
なるほど~!そういうことだったんですね!
この半年ほどの間に、朗読の講座で「内容を伝えること」「話すように読む」
「セリフは、その登場人物になりきって演ずるように、情感を込めて」などを
教えていただいておりました。
普段の面と向かっての会話だったら、もう少し自然にできるようになったとは想いますけれど
自分ではない作中の人物に「なりきって、情感をこめる」のが
実は、私にはなかなか難しいハードルに思えておりました。
さらに、ブログに書いている言葉だけの文章の中で
何がしかのことを伝えるには…
なるほど、ほんとうに「いろいろな工夫がいる」のでしょうね。
とはいえ、その都度全てのことを意識していることができるのかどうか?
思わず浮かんでくる「無意識にも近い言葉たち」の中に
そのこころの奥深くに幾重にも折りたたまれて潜んでいる「その人の気持や想い」が
映し出されているのかもしれません。
それらを、さえぎることなく受け止めること…
そのためには、こんな小さな自分にしがみついていてもしょうがないし…
少々のお化粧はエチケットとしても、鎧や仮面…で身を固めることの意味を想うと
少しずつでも自分自身を解放していくことで
その分だけ、いろいろな人を受け入れる許容量も増えていくのでしょうか?
正直にモノを言うことの難しさを感じるとともに
素直に発せられる言葉の重みを感じずにはいられない私です。
4時を過ぎて…
どうやら、お月さまもお空の真上辺りまでのぼっていらっしゃいました。
静かな朝の気配を待ちつつ
そろそろ、さやかなおしゃべりを終えましょう…