・頂きます
食事の前には、「頂きます」といってから、ご飯を食べる習慣があります。なぜ、「頂きます」というのでしょうか。両手を合わせ、今日も満足に食事をすることができることに感謝する気持ちを込めているといいます。
ご飯粒ひとつをとっても、それは、多くのひとの手が加えられています。長い月日を掛けて育てられたものです。そして、ご飯粒の元の稲という植物の種、子孫を残すための命の源です。人は、食物連鎖の最後の頂点にいます。猛獣でさえも銃で殺傷してしまい、食糧としているのです。
感謝する気持ちとは裏腹に、なぜか、日本人は、食事の存在を軽視する傾向もあったことは、「 武士は食わねど高楊枝」ということわざがあります。 武士は貧しくて食事ができなくても、あたかも食べたかのように楊枝を使って見せることの意味としています。
食事に感謝しつつも、我慢することも必要ということなのでしょうか。
遠い昔は、単にお腹を満たせばいいとの考えであったように思われますが、現代では、健康維持には栄養バランスの大切さを痛感し、食事の大切さが説(と)かれています。
お米が、私たちの食事となるまでを、振り返ってみましょう。
おおよそ4月下旬から5月上旬にかけて発芽力の強い種子(もみ)である比重の重いものを選んで消毒、水に浸し苗代にまきます。
5月下旬から6月中旬までの梅雨の時期に本田に移植、田植えが行われるのです。
8月に穂が出始め開花、結実し稲穂の垂れる高さ1mに達し受精し子房が肥大した頃の籾米(籾殻20%、玄米80%:糠8%〈胚芽3%〉、精白米92%)の収穫期は、二毛作もありますが一般に9月下旬から11月上旬刈り取りが行われその後1ヶ月ほど乾燥させ貯蔵には籾殻をつけたまま、または脱穀し玄米とし保存しています。
早いところでは8月より11月初旬には新米を出荷しています。玄米より糠の部分を取り除く割合によって歩留まりと称し玄米を100として7分づき米(糠を75%とって歩留まりは、94%)、5分づき米(半つき米、糠を50%とって歩留まりは、96%)、白米(糠を100%とって歩留まりは、92%)が得られます。
白米として、店頭に並んで、消費者の手元に届きます。料理人の手によって、洗米、炊飯、盛り付け、配膳と単純な作業ではありません。それを、省略したがる傾向にあり、他人の手を煩わしたがっいる人が、自分を支えてくれる人、物を他に求めようとしています。
調理・配膳してくれた人に感謝する、しかしながら、自分の健康は、自分から積極的にしていかないと守れませんね。嫌がることの無理強いは難しいものです。それがご飯だけでなく、汁物、漬物、主菜、副菜と、日常的には、この程度ですが、お祝い、宴会などの時には、おかずが、十数種と並べられ、料理しているのです。
料理をするということは、火加減、味加減、料理の提供の手順と複雑に交差しています。家庭料理は健康、食品の衛生を考え食中毒を起こさない様にし調理されている場合が殆んどと思われます。
スーパーの出来合いのものを仕方なく購入するのですが、おにぎりのほぐれは悪く、まるで糊づけして形を整えているみたいです。野菜のテンプラはといえば、一口では、口に入らず、包丁の入らない大きいままです。家庭料理の「頂きます」に比べると気持ちの程度差が大きく感じられ、ちょっと違いますね。
幼少期からの人格形成においても食事の果たす役割は大きく、特に調理に携わったことの無い大事に育てられた子の野菜嫌いなど偏食の問題があり、食に対する大切な思いが無く、栄養バランスを無視、短命として現れている結果ではないでしょうか。
結果的には好き放題のことをして育てられた野菜嫌いの子が、更年期を迎える頃になって、体調の不調に気づき、やっと健康維持には、バランスの取れた食事の大切さを知ることになるのでは、遅すぎるといえるでしょう。
「命をいただく」は、「頂きます」の気持ちは、健康の維持に貢献している食事を提供していただいていることに感謝する気持ちが込められているのです。投げやりの食事では「頂きます」の感謝の気持ちは沸いてきません。食中毒になっては、感謝されません。
食材、食事を作ったり取ってきてくれた人々、その動植物の命に感謝する「いただきます」で始まり、食事が終わったら「ごちそうさま」で終わります。ユネスコ無形文化遺産への登録が、本当のおもてなしの心で実践されることを願うのです。
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