昨日(12月7日)、西国街道の一部区間(大阪府島本町→京都府向日町)を歩いてきました。約12kmの行程でしたが、街道歩きを実施してきました。西国街道歩き、残り約6kmを残していますが、今年中には起点(終点)の京都・東寺まで歩くつもりをしています。西国街道歩きは、日帰りですので、思いついたらすぐ実行できます。島本町の西国街道を歩きだしたのは、ちょうど正午でした。
阪急電鉄今津線の小林駅で用事を済ませた後、阪急電鉄京都線・水無瀬駅に到着できたのは、正午前でした。駅前のベンチで休憩を取り、歩き旅をスタートさせました。西国街道筋にある「島本町立第一小学校」に到着したのは、12時20分頃でした。小学校前を通り、しばらく西国街道を京都方面を目指して歩いていくと、「サントリー山崎蒸留所」の大きな建物が目につきました。(おっ、サントリー山崎の工場のすぐ近くを西国街道は通っていたのだ! 線路のすぐ向こうに建物があるのだ!)と感激しましたね。JR新快速の窓越しに見ることがほとんどだったので、歩きながら「サントリーの工場」を見たのは初めてでした。大きなビルの建物だったので、その大きさに圧倒されました。貨物列車が通過するタイミングで写真を撮りました。
サントリー工場の建物を見てから、300mほど行った地点が国境(摂津国と山城国の境)でした。国境の標柱(従是東山城国=これより東 山城国)が残されていた。現在の京都府と大阪府との府境に当たる。ここが境なんだなあ・・・と感激しながら、パチリ、パチリ。
阪急京都線・大山崎駅前の上を東海道新幹線が、すぐ近くを国道171号線が通っていた。西国街道筋がそれらに圧倒されて、目立たない感じだった。実はこの地点の府道67号線=西国街道でした。天王山と桂川(淀川の上流)との間地域に【東黒門跡】の碑があった。この碑が設置されている地で、高山右近は陣地を構えたらしい。少しゆるやかな峠のような場所であった。戦国時代、この地は重要地点だったらしい。東黒門跡で休憩後、西国街道歩きを続けた。時刻は午後1時10分になっていた。
午後1時40分ごろに、【調子八角(ちょうしはっかく)】という地点に着いた。高速道路の下の交差点の歩道に碑が建てられていた。新しい碑だった。説明板もあり、西国街道の歴史なども理解しやすかった。
調子八角の交差点から北へ向かう道が2本あった。交通量が多くて広い道(新西国街道)とは別に、やや細くて交通量の少ない道が西国街道だった。家並みに一部とはいえ歴史を感じさせる建物もあった。雰囲気のいい道だった。立命館高校の近くを通り、北へ北へと歩いて行った。
JR長岡京駅の近くを通過して「卒台寺」の前を通り過ぎると、左手に「三菱製紙」という会社が見えてきた。阪急京都線の近くのやや細い道の西国街道をどんどん北へ北へと歩いて行った。京都西山高校の横を通り過ぎて、しばらく歩くと、阪急京都線の東向日駅が見えていた。時刻を見たら、午後3時40分になっていた。
万歩計の歩数を見たら、27000歩ほどだった。(歩数から推測すると)約16kmほど歩いていたことになる。本日の実質(西国街道以外の道を除くと)「西国街道歩き距離」としては、12kmぐらいでした。残り、約6kmで、目標の「京都・東寺」に達せそうでした。
残りの6kmは、東寺がにぎやかに露店なども出店し、多くの人がお参りする日(12月21日)に歩いてたどり着こうと思ったしだいです。
そういう計画もあり、今回は阪急京都線・東向日駅までとしました。
早めに帰宅できたので、足の疲れもなく楽でした。
島本町に設置されていた 西国街道の標柱(左下に島本町の字)
西国街道筋から サントリー山崎工場のビル(1923年)が読めた。ちょうど今年は100年目になるのだなあ、と思った。
「従是東 山城国」の標柱 (天下分け目の山崎合戦のまち=大山崎町)
背後の寺の建物も立派だった。
大阪府の西国街道はここまで 西国街道はここで(写真左手へ)曲がっていた(この地点から京都府・大山崎町の西国街道筋に入って行く。)
東黒門跡の説明板
沖縄や南九州などでよく見かける【石敢當】が東黒門跡の地にもありました。珍しかったので、写真に収めました。「石敢當」=魔よけの石 近畿地方にあるのはここぐらいかも?
高速道路の下の歩道 新しく大きな西国街道の標柱【調子八角】地点に
西国街道の行程がよくわかった説明板でした。