鬼井江の世界(gooブログ)

西国街道(京都~西宮)のほんの一部を歩いてみました。

 2月15日、西国街道のほんの一部の区間を歩いてみました。

 阪急今津線の小林(おばやし)駅すぐ近く東側に、「良元(りょうげん)街道」という南北を結ぶ道がある。その良元街道を南下して、仁川(にがわ)駅方面へ歩いた。仁川駅は宝塚市で、仁川という川(武庫川の支流)があり、仁川より北部が宝塚市で、南部が西宮市である。仁川が両市の境になっている。ちなみに、(私立)仁川学院は西宮市で、公立の仁川小学校は宝塚市である。高校野球で有名な報徳学園は仁川が武庫川に合流する地点にある。

 仁川駅近くの良元街道歩きを終え、仁川の川沿いの道を報徳学園まで行った場所に、武庫川河川敷があった。武庫川河川敷におりて、西国街道の武庫川の渡し場を探してみた。江戸時代は橋がかかっていかなったので、渡し船で向こう岸(現在の伊丹市)へ渡らなければならなかった。その渡し場だった地点の碑を見つけたかった。うろうろ武庫川河川敷を探し回っていたら、ささやかな説明板があった。「髭の渡し」と書かれていたので、この地点だろうと確認できた。報徳学園の校舎が「髭の渡し」説明板から見えていた。

 「髭の渡し場」は西国街道の地点であり、(今回の西国街道歩きの)スタート地点とした。

 西国街道は「京都~下関」間の道であり、西宮からは山陽道ともいわれる道と重なる。西国街道=山陽道とみなされる場合もある。ちなみに山陽道は「大阪~下関」間の道だとみなされているので、時代によって(または地域によって)呼び方が異なる。地図や時代によって、呼び方はややこしくなっている。

 「京都~西宮」間は、西国街道に違いない。その通行者の多い街道に(武庫川を渡る際に)江戸時代までは橋が架かっていなかった。その一か所が武庫川の「髭の渡し」だった。明治になり、橋が架かり、「渡し」は終了したとのこと。(説明板の説明による。)

 報徳学園の校舎に沿って(西宮駅方面へ)歩いていくと、すぐに『旧西国街道』の標示板が電柱に掲げられていた。(この道でよかったらしい!)と確認でき、間違って歩いていなかったのでほっとしました。

 報徳学園の校舎より南西方向に旧西国街道は続いていた。阪急今津線の甲東園駅から東に約800mの地点(西宮市上大市町)を山陽新幹線が東西に走っていた。その新幹線の高架下をくぐって、しばらく新幹線の近くの街道を歩き、南西方向に進んでいった。下大市東町まで来た地点に古い道標があり、旧西国街道を間違いなく歩いていることを実感できた。古い道標のある地点から5分ほど歩くと、阪急今津線の門戸厄神駅に到達できた。時刻は午後1時10分になっていた。

 小林駅から(午前11時20分ごろに)歩き始めて、2時間足らず経過していたことになる。武庫川河川敷で20分ほど休憩したので、実質1時間30分ほど歩いたことになる。

 門戸厄神駅からJR西宮駅方面へ、旧西国街道をたどりながら歩いて行った。ほぼ南西方向の道で、国道2号線に到達した地点で、(今回の)街道歩きを終えた。午後2時過ぎだった。

 JR西宮駅前で遅めの昼食をとり、帰宅した。早い帰宅だった。最近、左足の踵が痛んでいるので、無理をしない程度に歩くことにしました。

 左足の踵の痛みが悪くなっていかないように用心しているこの頃です。75歳が近づくと「どこかが痛むものだなあ・・・」と感じることが多くなり、「そろそろ後期高齢者か・・・」とも認識するようになりました。

 今回、(旧)西国街道はほんの少しの区間でしたが、古い道標や渡し場の碑(説明板)もあることが確認できました。機会を見て、武庫川対岸(伊丹市)にある「髭の渡し場」跡も訪れて、京都方向へも歩いてみようと思いました。 (以上です)

 

武庫川河川敷(西宮市) 仁川が合流している近辺の写真

「髭(ひげ)の渡し」地点の説明板 写真右手の水面らしきものが武庫川(水量は少ない時期だった)。支流の仁川には水の流れはなかった。

報徳学園の近くの電柱に街道表示矢印が掲げられていました。(生徒の何人かが下校したようで、旧西国街道を歩いていました。)

昔の道標が残っていました。「門戸厄神」への道標らしい。

 

 

門戸厄神駅に近い西国街道の道標 神戸女学院への道標もありました。「門戸厄神」への(古い)道標が数か所残っているようでした。神戸女学院への矢印(赤色)が薄くなっていました。

(ちなみに、阪急今津線の駅の近くには複数の有名校があるようです。六甲山系教育過熱地帯の一角でもありますから。西国街道は通行者が多く、歴史ある道です。古い道標もあっちこっちで残っていました。)

コメント一覧

鬼井江
柏獅子さん
そういえば独身寮でマージャンをした記憶がありますよ。私はマージャンを覚えたての頃でした。あの頃が懐かしいですね。もう50年ぐらい前のことになりました。夙川駅や苦楽園駅などは「関西で住んでみたい所」として、今も人気がありますね。大きな高級な住宅もたくさん残っているようです。西国街道は旧街道ゆえに、道が狭かったです。
柏獅子
鬼井江さん
元気に歩いていますね。懐かしい場所なので、思い出をたどりながら読んでいます。
独身寮が夙川の西国街道を見下ろすあたりの丘の上にあり、8年間居ました。他に、仁川寮・宝塚寮などがあり、その界隈をウロウロしていた、20代でした。通勤ルートは、歩いて“苦楽園駅”に行き、そこから“夙川駅”で阪急神戸線に乗り換え、“西宮北口駅”で急行か特急に乗り換えて、通ったものです。思えば経済成長の時代でした。半世紀前のことです。
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