鬼井江の世界(gooブログ)

中山道歩き旅 最難関「和田峠越え」を達成できました。

 念願だった「和田峠越え」。 旅行会社のツアーに参加して達成することができました。2023年11月25日名古屋駅前発、2泊3日の中山道歩き旅【下諏訪宿→(和田峠・標高約1600m)→和田宿→長久保宿】を無事に終えることができました。

 下諏訪宿~和田峠の標高差約800mを登っていく難コースでした。まるで「登山」のような街道歩きでした。登山やマラソンなど、若い時から苦手だった私。たぶん団体(参加者40人で、男女はほぼ半々でした。)行動だったので、皆に遅れないように【登る】ことができました。年齢はわからないのですが、私よりの高齢らしき女性が頑張っておられましたので、励みになりました。女性の多くはストック(トレッキングポール)を利用しておられました。私は普通の運動靴で参加しましたが、女性の多くは「登山靴」でした。中山道歩きの峠道では登山靴の方が歩きやすそうでした。

 今回は3日間良い天気に恵まれ、普通の運動靴でも歩けましたが、(雨だったら、ズルっといくかも・・・)と思えるところが何か所もありました。晴天の3日間で、ラッキーでした。

 和田峠に設置の掲示板に「熊出没注意」が書かれていました。しかし、40人参加の団体行動では、まったく心配することはなかったです。しかし、単独行動だと…やはり不安になったことでしょう。中山道最難関箇所において、熊に出会うことなく、足をくじくこともなく無事に乗り越えることができました。

 歩き旅をJR名古屋駅前で解散になった時刻は27日午後8時20分ごろでした。解散後、すぐに新幹線利用で新大阪駅に向かい、地下鉄で北花田駅に。北花田駅からタクシーで自宅まで。帰宅時刻は午後11時でした。何とか、その日のうちに到着できました。

* 本日(11月28日)、午前中に畑へ行き、幼い野菜たちの世話をして帰宅しました。夜になり、ブログを書いていますが、足や腰が遅れて痛みだしたように感じています。明日はさらに痛むかも? 75歳になると、足腰の痛みは遅れてやってくるようです。やっぱり、歳ですかね? 

 深夜にまでブログを書くと、明日がたいへんでしょうから、そろそろ寝ることにします。(また、明日も畑へ行く予定です。)タマネギに追肥する作業がありますので。

 

 ここから続きです。(12月1日記述)

 11月25日(土)午前7時30分名古屋駅前広場に集合するために、前日(24日)は名古屋駅前のビジネスホテルに宿泊しました。今回の「中山道歩き旅ツアー」は、名古屋駅前集合・解散でした。大阪発のツアーが(以前は)あったようですが、コロナの影響なのか(?)ありませんでした。名古屋発の中山道歩き旅ツアーは、コロナの影響で休止していたようですが、1年ほど前に再開されたとのことでした。

 ツアー1日目 集合時刻に間に合った人は41人でした。バスがスタートした直後、「ちょっと、すみません! 忘れ物をしました。おろしてください!」と一人の女性が声を出した。ツアーバスは適当な場所を見つけ、ストップ。女性は荷物を持ったまま、バスから降りていった。15分以上待たされた結果、「貴重品を入れたバッグ」を探したが、見つからなかったとのことだった。すぐに警察に届けたいので、その女性の参加はキャンセルすることになった。(たぶん、置き引きにあったのだろう)と想像できた。参加者40人になった中山道歩き旅ツアー。スタートが少し遅れたが、諏訪湖近くの「下諏訪宿」を目指して走り出した。諏訪湖が近づいたところで、ツアー客予約の昼食をいただいた。

 昼食後、下諏訪宿でバスを降り、いよいよ「中山道歩き旅」がスタートした。下諏訪宿・諏訪大社下社秋宮参拝後、本陣の前を通り、諏訪大社下社春宮も参拝。春宮の近くにある【万治の石仏・まんじのせきぶつ】を見学後、歩き旅を再開。下諏訪宿本陣より6kmあまり歩いた地点=標高約1000m【樋橋茶屋本陣跡】に到達。この地点でバスが待っていた。やや疲れた体をバスに乗り込ませ、1日目の歩き旅終了。いつもの「中山道一人歩き旅」とは違って、歩きが終了する地点でバスが待ってくれていたので、「楽だなあ」と思った。

 ツアーバスに乗り、ホテルに到着した午後5時20分、すでに真っ暗になっていた。ホテルでの夕食後、風呂に入り、早い目に眠りについた。

 2日目(11月26日)午前7時30分、バスはホテルを出発。昨日の歩き旅終了地点へ。いよいよ【和田峠・標高約1600m】を目指して、上り坂に挑戦。

 600mほど歩いた地点に【浪人塚=(水戸藩浪士の墓)】があり、やや広々とした平地でした。そこで、登山に向けての準備体操を時間をかけて実施後、やや上り坂になっている道を歩き始めた。

 【浪人塚】から中山道歩きは坂道に。崖道もあり、国道142号の一部区間が中山道であったり・・・。崖道の坂は一人が歩ける幅になっていた。枯葉が積もっている箇所も多く、ズルっと滑られないかと気にしながら慎重に歩いた。坂道を2.8km登って行った地点に【西餅屋茶屋跡】があった。江戸時代は建物があり、4軒の茶屋(休憩場所)があったようで、茅葺の家の写真をガイドが見せてくれた。しかし、現在は草が生えているだけで、建物は何も残っていなかった。トイレすらなかった。さらに、坂道を上り、和田峠まで1.2kmに地点(峠沢橋)に到着。その地点にバスが待っていてくれた。バスは国道142号線を利用し、到着できていた。中山道に近くの国道として、142号線があった。トイレが少ない旧街道筋ですが、バスが昼食場所(トイレもできる)へ連れて行ってくれる。(女性も安心して街道歩きができることになる。) 

 今回、この和田峠まで残り1.2km地点で、昼食場所(およびトイレ休憩)へのバス移動になった。江戸時代は街道に茶屋があったが、今は茶屋がないので、中山道歩きにおけるトイレさがしは大変です。旧街道歩き旅をする場合、「バス利用」にならざるを得ない人(特に女性)が多い。女性で一人歩き旅の人は、東海道や中山道では出会わなかったですね。団体または少人数のグループで歩いていました。男の一人歩き旅には、時々出会いましたが・・・。

 昼食とトイレを終えて、バスでまた元の場所にもどった。そして、街道歩きの再スタート。和田峠まであと1.2km。いよいよ急坂を登り始めた。しばらく行くと、ジグザグと曲がりくねった道が始まった。【賽の河原七曲り】と呼ばれているガレ場の急坂だった。きちんと数えたわけではないが、七曲り以上あったように思われた。【七曲り】個所を過ぎると、峠に到着できた。参加者全員40人が到着して、ガイドの音頭で「バンザイ、バンザイ!」。そして、写真撮影。女性群もがんばって登っていた。(参加している女性は、足腰が強いなあ!)と再認識。

 和田峠で休憩後、(江戸方面にある)和田宿を目指して下って行った。約1600mの峠を越えた後、ほとんど下り道が続いた。足取りは軽やかで、歩き旅は楽だった。どんどん下り道を進んで行けた。

 ビーナスライン(スカイライン)を4か所横切っていく街道歩き。この季節、雪が積もる可能性があるらしく、ビーナスラインは閉鎖されていた。ビーナスラインを走る車はなかったが、歩くことはできた。

 しばらく下って行った地点に、バスが待っていた。2日目の街道歩きは終了。

 バスで1泊目と同じホテルまで。夕食、風呂の後、就寝。一人参加の私はシングルの部屋へ。昨夜同様にぐっすりと眠ることができた。

 

 3日目(最終日)(11月27日)午前7時45分、バスはホテルを出発。昨日の歩き旅終了地点(和田峠を越えた、標高約1250m)地点へ。バスは国道142号線利用で、新和田トンネルを通過して、昨日の歩き旅終了地点に到着。トンネル利用だと、時間短縮できるなあ・・・と感じた。バスをチャーターしてあるために、中山道歩きが楽にできるのだなあ…とも思った。こういうバス利用だったから、岐阜県・美濃路の難関中山道コース(=琵琶峠や十三峠越え)も、ツアーだから(多くの女性が)歩けたのだろうと想像できた。私は美濃路歩きでは苦戦の連続でした。(美濃路の峠越えの苦労については、以前のブログで触れています。)

 午前9時半ごろにバスから降りて、(最終日の)中山道歩きがスタート。約7kmほど緩やかな下り坂を下りて行った地点(標高約820m)に和田宿があった。和田宿到着は11時40分ごろになっていた。少し早いめの昼食休憩及び和田宿見学になった。

 【和田宿】について。中山道69次(江戸日本橋から)28番目の宿場町。最大の難所といわれた和田峠を控え、隣の宿場である【下諏訪宿】まで約22kmもあるため、多くの旅人が宿泊した。逗留する諸大名らの行列など公用旅人も多かった。幕末期の皇女和宮の行列(約5000人)が最大の行列だったと考えられる。信濃26宿の中では隣の【長久保宿】同様に規模が大きい宿場町であった。 文久元年(1861年)の大火で宿の3分の2が焼失したが、同年11月に皇女和宮の宿泊が決まっていたため、急遽再建された。幕府からの借り入れや援助があり、突貫工事により再建された。現在も再建された建物が残っている宿場の街並みだった。なかなか味わいのある宿場町でした。

 和田宿には本陣や脇本陣、旧旅籠の建物(現在は資料館として)も残されていた。本陣の屋根の上に数多く石が載せてあり、信濃(江戸時代の建物)の特徴らしい屋根だった。

 和田宿散策後、脇本陣前休憩広場に集合後、午後1時に再出発した。目指すは、江戸から27番目の【長久保宿】。約7km先の宿場でした。緩やかな下りの坂道を歩き続け、途中休憩も入れながら歩いて行った。歩きやすかったので、疲れることはなかった。歩く方向の先、遠くに浅間山が見えているときもあった。かすかだったが、うっすらと雪が積もっているような白さが見えていた。

 【長久保宿】到着は午後4時前になっていた。L字型に曲がった宿場町の見学は「次回のツアー」予定とのことで、今日は見学時間はなかった。旅館として営業中の建物(L字に曲がった角の旅籠)を写真に収めることはできた。

 長久保宿でバスに乗り込み、JR名古屋駅前へ。高速道路2か所で休憩後、午後8時20分に到着、解散となった。

 私はツアーで親しくなれた方々とお別れの挨拶をして、駅の切符売り場を目指した。午後8時41分発の新大阪行きの新幹線に乗ることができた。新大阪駅到着後、地下鉄、タクシー利用で帰宅。午後11時になっていた。ツアーは2泊3日だったが、私は3泊4日になった。「和田峠越え・中山道歩き旅」を無事に終えることができた。

 歩き旅の多くは「青春18切符」を利用してきたが、今回はツアー代金・前泊ホテル代・名古屋駅までの往復交通費など合計で、9万円ほどかかった。ちょっと贅沢な歩き旅になったが、残り(6宿場)の中山道歩きは、また青春18切符利用で節約旅に戻るつもり。

(今回のブログは、ここまでです。長くなりましたが、読んでいただきありがとうございました。)

 

 *このブログ(Gooブログに変更してから)になって、訪問者数がトータルで10000名に達しました。ブログ内容に深みのない拙いブログですが、訪問していただきありがとうございました。一日の訪問者はふだんは25人ぐらいですが、50人を超える日がたまにあるので、びっくりしています。今後はもうちょっとマシな内容になるように頑張っていくつもりです。今後とも「ブログ訪問」よろしくお願いいたします。  鬼井江より 感謝😊

 

下諏訪宿(長野県)  万治(まんじ)の石仏 

下諏訪宿は 中山道と甲州街道の合流地点

【浪人塚】で休憩と(登山に向けて)準備運動

幕末期、水戸藩の一部の武士たちが尊皇攘夷を掲げ水戸藩を脱藩した浪士軍が「天狗党」を結成し、京に向かおうとした。中山道の和田峠を越えた。幕府の命により、「天狗党」を反乱軍とみなし、諏訪・高島両藩合同で「天狗党の動きを阻止すべし」となり、この地で戦いが起こった。この地の戦いで亡くなった「天狗党の浪士、十数人」が、この地に葬られた。「浪人塚(水戸浪士の墓)」の位置(標高約1060m)は、下諏訪宿と和田峠とのほぼ中間地点。この地における戦いは天狗党の勝利だった。

 ちなみに、天狗党の水戸藩浪士およそ800人以上は、京へは行きつかず、敦賀新保宿までは行けたが、加賀藩に投降している。翌年、取り調べの結果、処刑353人・遠島137人・追放187人・水戸藩渡し130人・寺預かり11人という結果になっている。天狗党の行程は、中山道の歴史を考える上で、和宮降嫁大行列(=約5000人の行列)とは別の観点から興味を持ちました。

 「赤穂浪士」は目的達成ゆえに評価され、有名になりましたが、天狗党(水戸藩浪士800人以上)一派は、悲しき結末になり、評価もされず、有名にもなっていないですね。中山道の歴史という観点では、有名なことですが…。

 今回、「浪人塚」へ行ってみて、歴史を知り、考えさせられました。「天狗」の名の由来は、「自分たちの考え方が正しいのだ! と、天狗のように威張っていたようで・・・。「天狗党一派」と水戸藩の中でも(武闘派、威張り集団の行動はよくない、控えよ!)と批判されていたようです。

 天狗のように威張っていたことを批判されても、かまわずに開き直って「天狗党」と自らも団体名称にしたとのことです。武力に任せて、主張を通した結果は、歴史の多くは悲劇を招いているものです。

 現在においても、「武闘派」の動きには注意したいものです。

和田峠からの眺め(逆光のため、光が…太陽ではありません)  鉄塔右の(遠くの)山が木曽御嶽山で、正面の山が木曽駒ケ岳です。遠くですが、よく見えましたね。いい天気でした。

和田峠に到着して、楽しい気分になっているツアー客たち。

中山道 古峠(和田峠)の説明板 道標(江戸方 和田宿へ)(京方 下諏訪宿へ)

この和田峠(=古峠・ふるとうげ)は中央分水嶺の一か所でもあり、峠の北は千曲川を経て信濃川水系となり日本海に注いでいる。南は諏訪湖を経て、天竜川水系となり太平洋に注いでいる。ちなみに、日本一標高の高い中央分水嶺は乗鞍山にあり、日本一低い中央分水嶺は兵庫県・丹波市「水別れ公園」にあります。(この9月に行ってきました。このブログでも書かせていただきました。)

和田峠から下っていく様子  途中一里塚の跡(左右のこんもりと盛り上がった場所)が残されていた。

 

和田宿本陣 屋根には多くの石が載せられている建物でした。皇女和宮も宿泊した本陣。りっぱな建物でしたね。

本陣入り口 (中山道和田宿 本陣御入門)と読める古い門柱 立派な門でした。

和田宿 旧旅籠などの建物が残っている和田宿街並み

長久保宿への途中 珍しい道祖神の碑があった。なんとまあ、蚯蚓(みみず)道祖神でした。雄と雌の双体道祖神で、ミミズを祀っている地域で、道祖神を設置したようです。なぜ、蚯蚓をありがたく祀るかは、「蚯蚓は土壌動物の代表で、枯れた落ち葉や木の枝をよく食べ、糞をします。その糞が土となり、生まれたばかりの土にはよく植物が育つのです。」とのことで、蚯蚓に感謝し、祀っているとのことでした。なるほど! 蚯蚓(みみず)に感謝して、野菜を作るぞ! こんな道祖神も(信濃の)中山道にはあったのだ!

長久保宿 「旅館 濱田屋」 ここで中山道は90度曲がっている。写真右手の山が見える方向が「和田宿」方面。左手、江戸へ向かう方向の中山道。長久保宿本陣は左手、50mほど歩いた地点にある。中山道がL字型に曲がっている宿場町=長久保宿。 (ちなみに、私は長久保宿 → 江戸方面の高崎宿・倉賀野宿までは、すでに中山道一人歩き旅を終えています。) 春休み期間には「中山道歩き旅(残り6宿)」を完了させるつもりです。

*写真説明も以上です。

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