2017/6/9
「東海道五十三次(旧東海道)歩き旅の概略・その一【1回~7回】」 東海道53次歩き旅
鬼井江・東海道五十三次(旧東海道)歩き旅の概略・その一【1回~7回】
15回に分けての旅であった。(スタートは約3年前だった)
●1回目(前半) 2014年3月1日・日帰り(旅行業者の団体ツアーに参加)
歩行コース・約8㎞ 京三条大橋(歩き旅のスタート地点)→日ノ岡峠→山科→追分(京都府・この日はここで解散)
●1回目(後半) 2014年3月30日・日帰り(旅行業者の団体ツアーに参加)
歩行コース・約10km 追分(京都府)→逢坂山関所跡(天下の三関所=逢坂山・鈴鹿・不破)→【53】大津宿→瀬田唐橋(滋賀県・この日はここで解散)

蝉丸の歌(百人一首)「これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」
【ある資料による意味=これはまぁまぁ、京の都からはるか東国へ行く人も、東国から都へ帰ってくる人も、ここで別れては出会い、知り合いの人も、まったくお互いを知らない人も、会っては別れていることだ。その名前のとおり「あふさか」(会う坂=逢坂)の関だなぁ。】
と歌われている「逢坂山関所」址。
私は(歩いて)初めての訪問だったので、感激した。
(おお! ここが逢坂(おうさか)の関なんだ!)と周りの人に聞こえないように叫んでいた。

背後の水面は琵琶湖。膳所城跡(公園)の桜は5分咲きで、小雨の曇天にもかかわらず、美しかった。

到着地=2014年3月30日の解散地 琵琶湖南端部近くの「瀬田唐橋(西詰)」
●2回目 2014年5月10日・日帰り(旅行業者の団体ツアーに参加)
歩行コース・約8㎞ 瀬田唐橋→【52】草津宿(滋賀県)

本陣にもいろいろあるが、草津宿の本陣は立派だった!

見事な追分の道標である。
右=東海道いせ(伊勢)みち 左=中仙道みの(美濃)みち
●3回目(以後、江戸まで一人旅) 2014年12月12日・日帰り
歩行コース・約21㎞ 【52】草津宿→【51】石部宿→【50】水口宿手前地点(滋賀県)
※一日20㎞以上の歩行は人生初体験だった。

道中薬『和中散』本舗の建物(国指定重要文化財)



「横田渡し」の常夜灯。すごく立派な常夜灯だったので、感動しました。
●4回目(一人旅) 2014年12月19日・日帰り
歩行コース・約15㎞ 【50】水口宿手前地点→【49】土山宿(滋賀県)

水口宿本陣跡

旧東海道(水口~土山) 雪がしっかり木の枝に積もっていた。

土山宿本陣跡 本陣らしき建物が再建されており、立派な建物が多かった。江戸から来た人は、鈴鹿山脈を越えたところの宿になり、江戸時代はものすごくにぎわったようである。大火により、宿の建物はほとんど焼失した。しかし、復活した建物群の雰囲気は昔の賑わいを感じさせてくれている。現在、人の気配はほとんどないが、すばらしい宿場町だと思った。
●5回目(一人旅) 2014年12月25日・日帰り
歩行コース・約18㎞ 【49】土山宿(滋賀県)→鈴鹿峠(県境)→【48】坂下宿(三重県)→【47】関宿

鈴鹿峠の「万人講常夜燈」 東海道の難所に立つ常夜燈
重さ38トン、高さ5・44mの巨大常夜燈。
江戸から来た旅人にとって、近江の国(滋賀県)に入ったという目印となった。逆に京から来た旅人にとっては伊勢の国(三重県)がもうすぐであるという目印であった。

鈴鹿峠から150メートル入ったところにある「鏡石」
鏡石の上に登って、眼下を見た。国道1号線がカーブして走っていた。歩いての峠越えは、やはり苦労しましたよ。江戸時代は鈴鹿越え、箱根越えどちらも難儀したのでしょうね。

鈴鹿峠の標識(滋賀県と三重県の国境) 林の中にあり、薄暗いところであった。

坂下宿 本陣跡など、「跡」の碑ばかりだった。 土山宿付近同様に、茶畑が見うけられた。茶の栽培に適した気候らしい。

「これより東 東海道関宿(せきじゅく)」の標柱 いよいよ関宿に入ったのだ。

すばらしい町並みに感動!
写真中心部の山は鈴鹿山脈 小雨だったが、鈴鹿山脈が見えていた。

関宿の町並み 保存状態がよく、延々と連なっていた。少しカーブした道だが、昔の街道はどこもややカーブしている。昔のままの道らしくて、その曲がり具合も味わいがある。すばらしい!
●6回目(一人旅) 2015年3月2日・日帰り〔青春18切符利用〕
歩行コース・約23㎞ 【47】関宿(三重県)→【46】亀山宿→【45】庄野宿→【44】石薬師宿(三重県)

野村一里塚(関宿と亀山宿との間)
樹齢400年の大木。東海道の一里塚設置当時の木々は枯れてしまって、新たに植えられた木が多いのだが、これは江戸時代当時のまま。(国史跡)

亀山宿 東海道などの街道に面した家の造りの特徴は「格子造り」と「二重の廂(ひさし)」。 その狭い間隔のところに、虫籠窓(むしこまど)がある。この家の窓は菱形だった。

亀山宿には写真のような木のプレートがどの家にもかけられていた。
庄野宿の町並みには古い家はあまりなかった。

東海道とはいえ、辺鄙な道だった。家は見当たらない。田畑が広大だった。

京都三条大橋からの歩き旅、石薬師宿に至り、10宿通過したことになる。もうすぐ四日市宿だ。残り、43宿通過達成に向けて、がんばろう!
●7回目(一人旅) 2015年3月13日・14日 1泊2日(名古屋市内にて宿泊)〔青春18切符利用〕
歩行コース(2日間合計)約52㎞
1日目 【44】石薬師宿(三重県)→日永の追分→【43】四日市宿→【42】桑名宿(七里の渡し場跡)(三重県)
*観光用の渡し船の運航は特定日以外はなされておらず、電車利用にて移動。(名古屋市内にて宿泊)
2日目 七里の渡し場跡(愛知県)【41】宮宿→【40】鳴海宿→間の宿・有松→【39】知立〈池鯉鮒〉宿手前地点(愛知県)

石薬師宿・本陣跡 風格のある建物が再建されていた。
現在の国道1号線が目の前 遥かかなたには四日市コンビナートの煙が見えている。「あそこまで15kmか・・・ウーン」とうなっていた。四日市宿から、さらに先の桑名宿まで・
・。今日の夕方には到着したい! と、決意してがんばって歩いていきました。

日永の追分(ひながのおいわけ)四日市市 追分=道が分かれているところ。
追分は日本全国いたるところにある。江戸から来た人にとっては、「日永の追分」は重要な分岐点になる。向かって左の道が「伊勢街道」で、伊勢神宮遥拝鳥居が建てられている。鳥居をくぐっていく道が伊勢への道。鳥居をくぐらずに行く、右側の道が「東海道・京への道」である。写真=江戸から来た人からの追分周辺の眺め。

四日市市内の商店街が東海道の一部だった。

桑名宿 「七里の渡し」乗船場(三重県)

宮宿近くの「七里の渡し場」(愛知県)

鳴海宿を過ぎ、間(あい)の宿・有松に至った。「有松絞り」で栄えた町。立派な家並みが保存されていた。

桶狭間古戦場跡(史跡公園) 今川義元の墓があった。
この続きは、その二【8回~10回】へ
15回に分けての旅であった。(スタートは約3年前だった)
●1回目(前半) 2014年3月1日・日帰り(旅行業者の団体ツアーに参加)
歩行コース・約8㎞ 京三条大橋(歩き旅のスタート地点)→日ノ岡峠→山科→追分(京都府・この日はここで解散)
●1回目(後半) 2014年3月30日・日帰り(旅行業者の団体ツアーに参加)
歩行コース・約10km 追分(京都府)→逢坂山関所跡(天下の三関所=逢坂山・鈴鹿・不破)→【53】大津宿→瀬田唐橋(滋賀県・この日はここで解散)

蝉丸の歌(百人一首)「これやこのゆくもかえるもわかれては知るも知らぬも逢坂の関」
【ある資料による意味=これはまぁまぁ、京の都からはるか東国へ行く人も、東国から都へ帰ってくる人も、ここで別れては出会い、知り合いの人も、まったくお互いを知らない人も、会っては別れていることだ。その名前のとおり「あふさか」(会う坂=逢坂)の関だなぁ。】
と歌われている「逢坂山関所」址。
私は(歩いて)初めての訪問だったので、感激した。
(おお! ここが逢坂(おうさか)の関なんだ!)と周りの人に聞こえないように叫んでいた。

背後の水面は琵琶湖。膳所城跡(公園)の桜は5分咲きで、小雨の曇天にもかかわらず、美しかった。

到着地=2014年3月30日の解散地 琵琶湖南端部近くの「瀬田唐橋(西詰)」
●2回目 2014年5月10日・日帰り(旅行業者の団体ツアーに参加)
歩行コース・約8㎞ 瀬田唐橋→【52】草津宿(滋賀県)

本陣にもいろいろあるが、草津宿の本陣は立派だった!

見事な追分の道標である。
右=東海道いせ(伊勢)みち 左=中仙道みの(美濃)みち
●3回目(以後、江戸まで一人旅) 2014年12月12日・日帰り
歩行コース・約21㎞ 【52】草津宿→【51】石部宿→【50】水口宿手前地点(滋賀県)
※一日20㎞以上の歩行は人生初体験だった。

道中薬『和中散』本舗の建物(国指定重要文化財)



「横田渡し」の常夜灯。すごく立派な常夜灯だったので、感動しました。
●4回目(一人旅) 2014年12月19日・日帰り
歩行コース・約15㎞ 【50】水口宿手前地点→【49】土山宿(滋賀県)

水口宿本陣跡

旧東海道(水口~土山) 雪がしっかり木の枝に積もっていた。

土山宿本陣跡 本陣らしき建物が再建されており、立派な建物が多かった。江戸から来た人は、鈴鹿山脈を越えたところの宿になり、江戸時代はものすごくにぎわったようである。大火により、宿の建物はほとんど焼失した。しかし、復活した建物群の雰囲気は昔の賑わいを感じさせてくれている。現在、人の気配はほとんどないが、すばらしい宿場町だと思った。
●5回目(一人旅) 2014年12月25日・日帰り
歩行コース・約18㎞ 【49】土山宿(滋賀県)→鈴鹿峠(県境)→【48】坂下宿(三重県)→【47】関宿

鈴鹿峠の「万人講常夜燈」 東海道の難所に立つ常夜燈
重さ38トン、高さ5・44mの巨大常夜燈。
江戸から来た旅人にとって、近江の国(滋賀県)に入ったという目印となった。逆に京から来た旅人にとっては伊勢の国(三重県)がもうすぐであるという目印であった。

鈴鹿峠から150メートル入ったところにある「鏡石」
鏡石の上に登って、眼下を見た。国道1号線がカーブして走っていた。歩いての峠越えは、やはり苦労しましたよ。江戸時代は鈴鹿越え、箱根越えどちらも難儀したのでしょうね。

鈴鹿峠の標識(滋賀県と三重県の国境) 林の中にあり、薄暗いところであった。

坂下宿 本陣跡など、「跡」の碑ばかりだった。 土山宿付近同様に、茶畑が見うけられた。茶の栽培に適した気候らしい。

「これより東 東海道関宿(せきじゅく)」の標柱 いよいよ関宿に入ったのだ。

すばらしい町並みに感動!
写真中心部の山は鈴鹿山脈 小雨だったが、鈴鹿山脈が見えていた。

関宿の町並み 保存状態がよく、延々と連なっていた。少しカーブした道だが、昔の街道はどこもややカーブしている。昔のままの道らしくて、その曲がり具合も味わいがある。すばらしい!
●6回目(一人旅) 2015年3月2日・日帰り〔青春18切符利用〕
歩行コース・約23㎞ 【47】関宿(三重県)→【46】亀山宿→【45】庄野宿→【44】石薬師宿(三重県)

野村一里塚(関宿と亀山宿との間)
樹齢400年の大木。東海道の一里塚設置当時の木々は枯れてしまって、新たに植えられた木が多いのだが、これは江戸時代当時のまま。(国史跡)

亀山宿 東海道などの街道に面した家の造りの特徴は「格子造り」と「二重の廂(ひさし)」。 その狭い間隔のところに、虫籠窓(むしこまど)がある。この家の窓は菱形だった。

亀山宿には写真のような木のプレートがどの家にもかけられていた。

庄野宿の町並みには古い家はあまりなかった。

東海道とはいえ、辺鄙な道だった。家は見当たらない。田畑が広大だった。

京都三条大橋からの歩き旅、石薬師宿に至り、10宿通過したことになる。もうすぐ四日市宿だ。残り、43宿通過達成に向けて、がんばろう!
●7回目(一人旅) 2015年3月13日・14日 1泊2日(名古屋市内にて宿泊)〔青春18切符利用〕
歩行コース(2日間合計)約52㎞
1日目 【44】石薬師宿(三重県)→日永の追分→【43】四日市宿→【42】桑名宿(七里の渡し場跡)(三重県)
*観光用の渡し船の運航は特定日以外はなされておらず、電車利用にて移動。(名古屋市内にて宿泊)
2日目 七里の渡し場跡(愛知県)【41】宮宿→【40】鳴海宿→間の宿・有松→【39】知立〈池鯉鮒〉宿手前地点(愛知県)

石薬師宿・本陣跡 風格のある建物が再建されていた。

現在の国道1号線が目の前 遥かかなたには四日市コンビナートの煙が見えている。「あそこまで15kmか・・・ウーン」とうなっていた。四日市宿から、さらに先の桑名宿まで・
・。今日の夕方には到着したい! と、決意してがんばって歩いていきました。

日永の追分(ひながのおいわけ)四日市市 追分=道が分かれているところ。
追分は日本全国いたるところにある。江戸から来た人にとっては、「日永の追分」は重要な分岐点になる。向かって左の道が「伊勢街道」で、伊勢神宮遥拝鳥居が建てられている。鳥居をくぐっていく道が伊勢への道。鳥居をくぐらずに行く、右側の道が「東海道・京への道」である。写真=江戸から来た人からの追分周辺の眺め。

四日市市内の商店街が東海道の一部だった。

桑名宿 「七里の渡し」乗船場(三重県)

宮宿近くの「七里の渡し場」(愛知県)

鳴海宿を過ぎ、間(あい)の宿・有松に至った。「有松絞り」で栄えた町。立派な家並みが保存されていた。

桶狭間古戦場跡(史跡公園) 今川義元の墓があった。
この続きは、その二【8回~10回】へ
<form action="https://gold.ap.teacup.com/applet/keke7761/989/clap" method="POST"><input type="submit" value="拍手" /></form>
1

タグ: 歩き旅
2017/4/17
「東海道53次歩き旅終了に寄せて 温かいコメントをいただきました。」 東海道53次歩き旅
柏獅子さんからのコメントを(感謝の気持ちを込めて)転載させていただきます。
過去11年間、いろいろな方々からのコメントは、私を元気にしてくれ、私の心を温めてくれました。現役時代、完全退職後ともにコメントや拍手コメント(非公開=私のみ読める)をいただき、感謝しております。
ブログを11年以上も継続できているのは、やはり「読んでくださる方」がおられるからでしょう。そして、コメントを書いてくださったり、「拍手」マークをクリックしていただけると、より元気づけられます。
「鬼井江の世界(リニューアル)」への総アクセス数がもうすぐ30000になります。一日約十数人の方が訪問していただいているブログです。ささやかな存在ですが、今後とも頑張って継続していきたいと思っております。
「食べることは生きること」・「書くことは生きること」を今後とも実践していきます。応援、よろしくお願いいたします。
以下、柏獅子さんからのブログです。そのままコピーになりますが、紹介します。
花のお江戸の日本橋
四月三日。九年ぶりに友との対面を、日本橋のど真ん中で果たした。なんと三年かけて、東海道五十三次を歩いて来た。もちろん十五回に分けて、青春十八切符の利用だが、本人は、御年、古希の青春だ。関西在住の彼は、地元の旅行社のイベントがきっかけであるが、百何人かの京都三条出発だったそうだ。そのうち、団体ではトイレタイムなど無駄が多すぎることがわかり、単独旅に替えたそうだが、何人が達成したのであろうか。彼は、歩くだけにとどめず、克明な道中記をブログに掲載してくれた。
私は居ながらにして、東海道の旅を楽しんだ。どんな旅本にもまさる秀作だ。
奇しくも共にした高校時代から五十年だ。道が違い、会うことも少なかったが、まさに団塊の世代。彼はその後、教職を進み、私は、平凡なサラリーマン。音信は年賀状だけの時期も長かった。そんな時、あの福島原発の被害を千葉県も受けた。突然彼が、水を送ってくれた。関西でも水が手に入りにくくなっていたそうで、銘柄の違うボトルが詰まっていた。そんな彼に日本橋の上でお礼が言えた。残りの人生のことを少し語って別れた。共にいい歳をとろうと・・・。
以上が、柏獅子さんからのコメントでした。
過去11年間、いろいろな方々からのコメントは、私を元気にしてくれ、私の心を温めてくれました。現役時代、完全退職後ともにコメントや拍手コメント(非公開=私のみ読める)をいただき、感謝しております。
ブログを11年以上も継続できているのは、やはり「読んでくださる方」がおられるからでしょう。そして、コメントを書いてくださったり、「拍手」マークをクリックしていただけると、より元気づけられます。
「鬼井江の世界(リニューアル)」への総アクセス数がもうすぐ30000になります。一日約十数人の方が訪問していただいているブログです。ささやかな存在ですが、今後とも頑張って継続していきたいと思っております。
「食べることは生きること」・「書くことは生きること」を今後とも実践していきます。応援、よろしくお願いいたします。
以下、柏獅子さんからのブログです。そのままコピーになりますが、紹介します。
花のお江戸の日本橋
四月三日。九年ぶりに友との対面を、日本橋のど真ん中で果たした。なんと三年かけて、東海道五十三次を歩いて来た。もちろん十五回に分けて、青春十八切符の利用だが、本人は、御年、古希の青春だ。関西在住の彼は、地元の旅行社のイベントがきっかけであるが、百何人かの京都三条出発だったそうだ。そのうち、団体ではトイレタイムなど無駄が多すぎることがわかり、単独旅に替えたそうだが、何人が達成したのであろうか。彼は、歩くだけにとどめず、克明な道中記をブログに掲載してくれた。
私は居ながらにして、東海道の旅を楽しんだ。どんな旅本にもまさる秀作だ。
奇しくも共にした高校時代から五十年だ。道が違い、会うことも少なかったが、まさに団塊の世代。彼はその後、教職を進み、私は、平凡なサラリーマン。音信は年賀状だけの時期も長かった。そんな時、あの福島原発の被害を千葉県も受けた。突然彼が、水を送ってくれた。関西でも水が手に入りにくくなっていたそうで、銘柄の違うボトルが詰まっていた。そんな彼に日本橋の上でお礼が言えた。残りの人生のことを少し語って別れた。共にいい歳をとろうと・・・。
以上が、柏獅子さんからのコメントでした。
<form action="https://gold.ap.teacup.com/applet/keke7761/974/clap" method="POST"><input type="submit" value="拍手" /></form>
4

2017/4/13
「東海道53次歩き旅(15回目・最終回)保土ヶ谷宿~江戸日本橋・ゴール地点(2泊3日)三日目・最終日」 東海道53次歩き旅
2017年4月3日、東海道53次歩き旅の最終日を迎えた。3年がかりの「京都三条大橋→お江戸日本橋・東海道53次歩き旅」。そのラストウォークの日になった。
スタートは「品川宿」。もう、次の宿場はない。お江戸日本橋・ゴールを目指して歩いていくのみである。
昨夜(4月2日)、関東にお住いの友人「柏獅子」さんに、午前10時ごろに日本橋(日本国道路元標のある地点)に到着できることをお知らせすることができた。
朝、歩き旅のスタートは7時30分だった。品川宿から日本橋までの距離は約2里(8km)ある。あまりにもゆっくりだと、10時に到着できないので、それなりに急ぎ足で歩きだした。
道(旧東海道)はわかりやすかった。「銀座・日本橋」への標示は大きな交差点では必ず目についた。
(そうか・・・銀座通りも旧東海道の一部だったのだ!)と、認識した。
東京のことを詳しく知らないので、興味津々だった。
まず興味深かったのは、「高輪大木戸跡」の石垣だった。立派な石垣が残されていた。人の背丈の倍以上の高さがあった木戸(宿場などの出入り口)。さすが、「江戸へ入る」または「江戸から出る」場所としての「木戸」=「大木戸」だ。
木戸は治安維持のため、夜は閉められた。
伊能忠敬はこの「大木戸」を全国測量の起点としたとのことである。起点は日本橋ではなかったのだ。この大木戸には「伊能忠敬地図の歴史」が関係していたのだ。
この大木戸跡に感動して、カメラに収めているのは私一人。道行く人はみなさん出勤で忙しい。サラリーマンたちは誰一人この石垣に関心を持つ者はいない。みんな、さっさ、さっさと、早足。
人が途切れるのを待って、カメラでパチリ。
しばらく行くと、またまた興味ある所に…。
住友不動産三田ツインビル西館の敷地奥に「元和キリシタン遺跡」があった。それは、小高い丘の中腹にあった。
住友不動産ビルの中にものすごい数の社員たちが列をなして入っていく。それに対して、私一人だけが、丘の中腹を目指して階段を昇っていく・・・。まるで、社長がゆっくりと会社の敷地を散歩するがごとく・・・。(皆さん、ご苦労さん!)
「元和キリシタン遺跡」について。
3代将軍、徳川家光は元和(げんな)9年=1623年、この丘の中腹で50名のキリスト教徒を処刑した。東海道から処刑場所がよく見えることになる。まさに「見せしめのための処刑地」だったのだ。
宣教師や日本人キリスト教徒たちが、元和の時代以後もここで処刑されている。
東京都には、旧東海道に面した処刑地として、「鈴ヶ森刑場跡」と「元和キリシタン遺跡」がある。あえて、東海道に面した場所を選んだのであろう。
さらに歩を進めると、歴史を感じさせる地があった。
三菱自動車のビルの前に「西郷・勝会見の碑」があった。江戸時代、薩摩藩蔵屋敷があった場所で、江戸無血開城の話し合いが行われている。歴史ある地である。
この碑の写真を撮るのに苦労した。人通りが多くて途切れる時間がほとんどなかったからだ。午前8時15分になんとか人が途切れた。そこで、パチリ。
「芝4丁目」の交差点を過ぎると浜松町」に入った。そして、JR新橋駅の下をくぐって進むと、銀座8丁目に至った。(銀座は8丁目まであるのだ)と、感心した。(さて、「金座」はどこだろう?)
銀座8丁目の信号機近くに、「銀座柳の碑」が設置されていた。一昔前まで、銀座には柳の木が植えられていた。それが、今ではほとんどなくなり、見つけるのに苦労した。「銀座柳の碑」の横にしっかりとした柳(二世)が育っていた。
銀座2丁目に「銀座発祥の地」という碑があるのだが、ほんとうに東京の銀座が「銀座発祥の地」だと言えるのだろうか?
堺市民である私から、「異議あり!」と声を上げる。
「金貨鋳造所=金座」・「銀貨鋳造所=銀座」・「銅貨鋳造所=銅座」 であるならば、「銀貨鋳造所」が日本で初めてできた場所は「堺」なのである。堺にある「銀座」こそ、まさに「銀座発祥の地」なのだ。
江戸時代以前から堺に銀貨鋳造所=銀座があった。その地は、現在「堺東銀座通り」として、にぎわっている。銀貨鋳造所は、その当時「灰吹銀(はいふきぎん)」を扱う技能集団たちによる【南鐐座=なんりょうざ】であった。この南鐐座のあった地こそ、「銀座発祥地」だという観点から、「異議あり」なのである。
江戸時代になり、堺の銀職人たちは強制的に江戸に移住させられ、銀貨鋳造所職人として働いた。職人たちは、堺が恋しくなったことであろう。堺に帰りたい思いもあったであろう。しかし、幕府は希望を叶えなかった。
その代わり、江戸時代に「堺銀座=南鐐座」あたりに植えられていた柳の木(現在、堺市の市木)を見れば心が和むことであろう、と江戸の銀座に「柳」を植えたのである。
東京の銀座の柳には、その歴史が絡んでいる。都民の多く方々は、おそらく歴史的背景をご存知ではないだろうが・・・。
「銀座の柳の木々」は堺から移住させられた「銀職人たちの心を慰める木々」として植えられたのであった。今回、そういう思いで、二世の柳をしげしげと見たのだった。
「銀座柳の碑」や「銀座発祥地碑」が、銀座通りに設置されている点について、(私にとって)いろいろ考えさせられるきっかけになった。
ちなみに江戸時代の「金座」があった場所は、現在(金座1丁目などと)町名にはならず、「日本銀行本店」設置場所になっている。(ということを、何かの本で読んだ。) たぶん、事実であろう。
「金座」(がつく場所)は全国にごくごくわずか。しかし、「銀座」がつくところは全国に約600あるそうだ。
東京の銀座の影響力のすごさであろう。そういう観点からすると、東京が「銀座発祥の地」かもしれない。堺の「銀座」は力不足である。
銀座を過ぎたところに「京橋」があり、京橋を過ぎた地点にゴールの日本橋が見えていた。
いよいよゴールであった。やったー! 到着だ!
以下、【4月4日のブログ】をコピーしてまとめとしました。
2017年4月3日午前10時、『東海道53次歩き旅』、ついに「お江戸日本橋」に到着できました。
ラストウォークは4月1日出発し、2泊3日で「保土ヶ谷宿~お江戸日本橋」の行程を歩きました。
日本橋においては、関東在住友人の「柏獅子」さんが迎えてくださいました。柏獅子さんは、日本を代表する商事会社・三菱商事に勤務されていた方で、日本の高度成長を支えて活躍された方です。私の高校時代(国立詫間電波高等学校=現・香川高専詫間キャンパス)からの友人で、現在千葉県柏市にお住まいです。
その柏獅子さんが、わざわざ日本橋まで迎えに来てくださり、感謝感激した次第です。
そして、認定証「東海道五十三次完歩」を授与していただきました。認定証の文脈を読ませていただき、目頭が熱くなりました。
私のことを「こんなふうに思っていてくださったのだなあ」と、感謝の気持ちでいっぱいになりました。昼食をごちそうしていただき、さらに「完歩記念」にと、お祝いまでくださいました。
70歳以前に完歩できたことを、「人生の記念・区切り」の一つに加えました。
自分一人だけで達成できたのではなく、妻の応援や友人たちからの声援あってのおかげだと感謝しております。この場で、改めてお礼申し上げます。
「完歩できて、良かったね!」
と、帰宅したとき、妻が喜んでくれました。柏獅子さんからの認定証を見せると、大変喜んでくれました。ほんとうに、喜びは一人よりも二人、三人と・・・「ともに喜ぶこと」で、喜びは大きくなるものですね。
客観的には、ささやかな行動、もうすぐ69歳になる前期高齢者の「500㎞歩き旅完歩」達成ですが、うれしいものです。
皆さんに感謝。
完

高輪大木戸跡(石垣がしっかり残っていた。)
スタートは「品川宿」。もう、次の宿場はない。お江戸日本橋・ゴールを目指して歩いていくのみである。
昨夜(4月2日)、関東にお住いの友人「柏獅子」さんに、午前10時ごろに日本橋(日本国道路元標のある地点)に到着できることをお知らせすることができた。
朝、歩き旅のスタートは7時30分だった。品川宿から日本橋までの距離は約2里(8km)ある。あまりにもゆっくりだと、10時に到着できないので、それなりに急ぎ足で歩きだした。
道(旧東海道)はわかりやすかった。「銀座・日本橋」への標示は大きな交差点では必ず目についた。
(そうか・・・銀座通りも旧東海道の一部だったのだ!)と、認識した。
東京のことを詳しく知らないので、興味津々だった。
まず興味深かったのは、「高輪大木戸跡」の石垣だった。立派な石垣が残されていた。人の背丈の倍以上の高さがあった木戸(宿場などの出入り口)。さすが、「江戸へ入る」または「江戸から出る」場所としての「木戸」=「大木戸」だ。
木戸は治安維持のため、夜は閉められた。
伊能忠敬はこの「大木戸」を全国測量の起点としたとのことである。起点は日本橋ではなかったのだ。この大木戸には「伊能忠敬地図の歴史」が関係していたのだ。
この大木戸跡に感動して、カメラに収めているのは私一人。道行く人はみなさん出勤で忙しい。サラリーマンたちは誰一人この石垣に関心を持つ者はいない。みんな、さっさ、さっさと、早足。
人が途切れるのを待って、カメラでパチリ。
しばらく行くと、またまた興味ある所に…。
住友不動産三田ツインビル西館の敷地奥に「元和キリシタン遺跡」があった。それは、小高い丘の中腹にあった。
住友不動産ビルの中にものすごい数の社員たちが列をなして入っていく。それに対して、私一人だけが、丘の中腹を目指して階段を昇っていく・・・。まるで、社長がゆっくりと会社の敷地を散歩するがごとく・・・。(皆さん、ご苦労さん!)
「元和キリシタン遺跡」について。
3代将軍、徳川家光は元和(げんな)9年=1623年、この丘の中腹で50名のキリスト教徒を処刑した。東海道から処刑場所がよく見えることになる。まさに「見せしめのための処刑地」だったのだ。
宣教師や日本人キリスト教徒たちが、元和の時代以後もここで処刑されている。
東京都には、旧東海道に面した処刑地として、「鈴ヶ森刑場跡」と「元和キリシタン遺跡」がある。あえて、東海道に面した場所を選んだのであろう。
さらに歩を進めると、歴史を感じさせる地があった。
三菱自動車のビルの前に「西郷・勝会見の碑」があった。江戸時代、薩摩藩蔵屋敷があった場所で、江戸無血開城の話し合いが行われている。歴史ある地である。
この碑の写真を撮るのに苦労した。人通りが多くて途切れる時間がほとんどなかったからだ。午前8時15分になんとか人が途切れた。そこで、パチリ。
「芝4丁目」の交差点を過ぎると浜松町」に入った。そして、JR新橋駅の下をくぐって進むと、銀座8丁目に至った。(銀座は8丁目まであるのだ)と、感心した。(さて、「金座」はどこだろう?)
銀座8丁目の信号機近くに、「銀座柳の碑」が設置されていた。一昔前まで、銀座には柳の木が植えられていた。それが、今ではほとんどなくなり、見つけるのに苦労した。「銀座柳の碑」の横にしっかりとした柳(二世)が育っていた。
銀座2丁目に「銀座発祥の地」という碑があるのだが、ほんとうに東京の銀座が「銀座発祥の地」だと言えるのだろうか?
堺市民である私から、「異議あり!」と声を上げる。
「金貨鋳造所=金座」・「銀貨鋳造所=銀座」・「銅貨鋳造所=銅座」 であるならば、「銀貨鋳造所」が日本で初めてできた場所は「堺」なのである。堺にある「銀座」こそ、まさに「銀座発祥の地」なのだ。
江戸時代以前から堺に銀貨鋳造所=銀座があった。その地は、現在「堺東銀座通り」として、にぎわっている。銀貨鋳造所は、その当時「灰吹銀(はいふきぎん)」を扱う技能集団たちによる【南鐐座=なんりょうざ】であった。この南鐐座のあった地こそ、「銀座発祥地」だという観点から、「異議あり」なのである。
江戸時代になり、堺の銀職人たちは強制的に江戸に移住させられ、銀貨鋳造所職人として働いた。職人たちは、堺が恋しくなったことであろう。堺に帰りたい思いもあったであろう。しかし、幕府は希望を叶えなかった。
その代わり、江戸時代に「堺銀座=南鐐座」あたりに植えられていた柳の木(現在、堺市の市木)を見れば心が和むことであろう、と江戸の銀座に「柳」を植えたのである。
東京の銀座の柳には、その歴史が絡んでいる。都民の多く方々は、おそらく歴史的背景をご存知ではないだろうが・・・。
「銀座の柳の木々」は堺から移住させられた「銀職人たちの心を慰める木々」として植えられたのであった。今回、そういう思いで、二世の柳をしげしげと見たのだった。
「銀座柳の碑」や「銀座発祥地碑」が、銀座通りに設置されている点について、(私にとって)いろいろ考えさせられるきっかけになった。
ちなみに江戸時代の「金座」があった場所は、現在(金座1丁目などと)町名にはならず、「日本銀行本店」設置場所になっている。(ということを、何かの本で読んだ。) たぶん、事実であろう。
「金座」(がつく場所)は全国にごくごくわずか。しかし、「銀座」がつくところは全国に約600あるそうだ。
東京の銀座の影響力のすごさであろう。そういう観点からすると、東京が「銀座発祥の地」かもしれない。堺の「銀座」は力不足である。
銀座を過ぎたところに「京橋」があり、京橋を過ぎた地点にゴールの日本橋が見えていた。
いよいよゴールであった。やったー! 到着だ!
以下、【4月4日のブログ】をコピーしてまとめとしました。
2017年4月3日午前10時、『東海道53次歩き旅』、ついに「お江戸日本橋」に到着できました。
ラストウォークは4月1日出発し、2泊3日で「保土ヶ谷宿~お江戸日本橋」の行程を歩きました。
日本橋においては、関東在住友人の「柏獅子」さんが迎えてくださいました。柏獅子さんは、日本を代表する商事会社・三菱商事に勤務されていた方で、日本の高度成長を支えて活躍された方です。私の高校時代(国立詫間電波高等学校=現・香川高専詫間キャンパス)からの友人で、現在千葉県柏市にお住まいです。
その柏獅子さんが、わざわざ日本橋まで迎えに来てくださり、感謝感激した次第です。
そして、認定証「東海道五十三次完歩」を授与していただきました。認定証の文脈を読ませていただき、目頭が熱くなりました。
私のことを「こんなふうに思っていてくださったのだなあ」と、感謝の気持ちでいっぱいになりました。昼食をごちそうしていただき、さらに「完歩記念」にと、お祝いまでくださいました。
70歳以前に完歩できたことを、「人生の記念・区切り」の一つに加えました。
自分一人だけで達成できたのではなく、妻の応援や友人たちからの声援あってのおかげだと感謝しております。この場で、改めてお礼申し上げます。
「完歩できて、良かったね!」
と、帰宅したとき、妻が喜んでくれました。柏獅子さんからの認定証を見せると、大変喜んでくれました。ほんとうに、喜びは一人よりも二人、三人と・・・「ともに喜ぶこと」で、喜びは大きくなるものですね。
客観的には、ささやかな行動、もうすぐ69歳になる前期高齢者の「500㎞歩き旅完歩」達成ですが、うれしいものです。
皆さんに感謝。
完

高輪大木戸跡(石垣がしっかり残っていた。)