いつまでも「歩き旅」が続けられるかわからないので、夏休みまで、待たずに「行けるときは行っておこう!」と思い立った。最難関だった「和田峠越え」は、去年の11月に旅行社利用で実行することができた。熊の出没がニュースになっていたので、一人歩き旅は不安だった。それで、旅行社を利用したのだった。中山道最大の難コースだったが、意外に楽に歩くことができたのだった。(去年の11月下旬のブログに記録あり。)
中山道歩きは、残り6宿(新町・本庄・上尾・浦和・蕨・板橋)を残したまま、中断していた。中山道69次の完歩は(コロナと高齢化の影響があり)実現難しく、年月が過ぎて行った。まだ、完歩は実現していない。
5月28日~30日。何とか久しぶりに中山道歩きに挑戦してきました。2泊3日の一人歩き旅。熊の心配が全くないコースでしたので、安心して歩くことができました。ほとんど県道または国道歩きでした。今回の歩き旅は、群馬県(ほんの一部)・埼玉県の中山道歩きになりました。
今回は上州路・武州路において、まだ歩いていない区間(ばらばらの区間)を埋めるためのコースになりました。
5月28日(1日目) 大阪より早朝発の高速バス利用(大阪駅→東京駅)さらにJR東京駅→JR北上尾駅(電車利用) 北上尾駅近くの中山道地点(2020年1月に歩き終えた地点)から、大宮宿方面を目指した歩きました。歩き始めた時刻は、午後4時20分でした。この日は朝から雨模様でしたが、傘を差さずに歩き始めました。JR大宮駅近辺のホテルに着くころは、じゃじゃぶりの雨になっていました。ホテル到着は(途中、道に迷ったので)午後7時過ぎに。雨で暗くなっていたので、迷ってしまったようでした。人が多く、にぎやかなところだったので、ホテルがわかりにくかったですね。でも、ホテルがわかったとき、ほっとしました。夕方には、(武蔵国 一ノ宮)氷川神社に行きたかったのですが・・・明日の朝に行くことにしました。今日は、午前5時に目が覚めて、午前7時30分(大阪梅田発)の高速バス利用+(東京駅から)電車利用の移動でした。
この日(1日目)の万歩計は、28374歩でした。中山道そのものを歩いた距離は約11Kmでしたが・・・、麻早く起きたので、疲れました。
5月29日(2日目)
朝早く目が覚めたので、(昨日見学できなかった)武蔵国の一ノ宮(=氷川神社)へ行くことにした。寝るところが変わると、朝早く目が覚めることがある。今朝は、5時ごろに目が覚めてしまった。昨夜からの雨もあがっていたので、氷川神社を見学しに行った。ホテルから歩いて、20分ほどで参道に到着。長い長い一直線の参道だった。参道の長さが約2kmとのことだったので、約半分の1kmほど歩いてみた。古い時代の中山道は、氷川神社の参道だったとのことである。
そもそも大宮宿は、氷川神社(=日本武尊が東征の折に戦勝祈願をした古社で、(1180年)源頼朝が社殿を再興し、徳川家康は寺領3百石寄進しているとのこと。)の門前町として発達した。記録によると、大宮宿には本陣が1軒だったが、(なんと、まあ!)脇本陣は9軒もあったとのこと。脇本陣は1または2軒の宿場がほとんどだった。 大宮宿に脇本陣が9軒もあったとは! 驚き、驚き!! それぐらい身分の高い・高貴な方々の利用者が多かったのだろう。
氷川神社見学後、大宮宿中心部へ行き、本陣跡・脇本陣跡と説明されているところを目指し、探しまくったが、現在はまったくそれらしき建物は何も残っていなかった。跡、跡・・・跡らしき場所には、ビルばかり(跡の碑すらも見つからなかった)。大宮高島屋の場所に、本陣があったとの記録あり。脇本陣などもほとんどがビル群になっていた。大宮の建物群は、江戸時代を感じさせる宿場町ではなくなっていた。(現在、埼玉県さいたま市大宮区。さいたま市=人口132万人の政令指定都市。堺市(84万人の政令指定都市)よりも大きな市になっていた。)
この日(歩き旅2日目)の歩き旅のメインコース。倉賀野宿→新町宿→本庄宿→深谷宿 このコースのスタート地点への移動のために、JR高崎線に乗り、倉賀野駅へ。倉賀野駅到着時刻は午前8時50分になっていた。
倉賀野宿を2022年10月14日に訪れてから、年月が流れていた。今回、久しぶりに中山道歩きを実施できたのだった。今回のメインコースのスタート。倉賀野宿中心部の「須賀喜太郎脇本陣」の建物を確認し、カメラに収め、新町宿方面へ歩き出した。500mほど歩いた地点に、(2022年宿訪問時は時間の関係で、確認できなかった)「日光例幣使道追分」の碑を見ることができた。「そうか・・・この地点が、日光例幣使道と中山道との追分だったのだ!」と感激できた。日光例幣使街道=徳川家康が祀られている日光東照宮へ朝廷から派遣される勅使(=例幣使・れいへいし)がお参りに行く道。ちなみに、朝廷にとっては、甚だ屈辱的だったため、例幣使の一行は横暴な振る舞いが多く、特に中山道から日光例幣使街道に入ると、一層顕著のなったという、話が残されているらしい。幕府と朝廷との関係は、江戸時代に至っても平穏ではなかったようですね。歴史は面白い!
追分を通り過ぎ、中山道歩き続行。(8km先の)新町宿を目指した。「烏川・からすがわ」という大きな川を右手に感じながら、しばらく歩いた。そして、烏川の土手を上って長い橋(柳瀬橋)を渡った。烏川土手(堤防)に沿った道が中山道だった。烏川土手からやや離れていたが、中山道に面した立派な屋敷が目に留まった。国登録有形文化財の川端家の屋敷だった。(すごい屋敷が残っているものだ!)と、中山道から左の道を曲がって玄関の表札を見に行った。ちらっと、玄関の門が開いていたので、庭を見ることができた。(建物も庭もすごい家だなあ!)
豪農の川端家屋敷に感動してから、1km足らず歩いた地点が、新町宿中心部だった。本陣跡、脇本陣跡、行在所跡など・・・すべて「跡」だけで、実際の建物はなかった。小林本陣跡に標柱と説明板だけがあった。中山道の宿場だったところにしては、愛想のない町に思われた。
新町宿中心部を通過した時刻は、午前11時20分ごろになっていた。概ね、JR高崎線に沿った中山道。国道は17号線に近い道だった。部分的には、国道17号線が、中山道と重なる部分もあったが、ほとんどは(埼玉)県道392号線であった。県道392号線は車も少なく、歩きやすかった。午後1時前に中山道に近い場所にレストランがあったので、ランチタイム。レストランで、30分ほど休憩してから、本庄宿を目指した。本庄宿本陣(田村本陣)跡に到着した時刻は、午後2時50分になっていた。(新町宿から9km地点が、本庄宿だった。)
本庄宿本陣も建物そのもはなかったが、田村本陣の門が、移設されて残されていた。本陣の門だけが残されていたり、復元されていたりするケースは時々あった。本庄宿では「街道歩き旅の喜び」を味わうことができた。明治の建物だったが、旧「本庄警察署」の建物も保存されていた。洋風デザインのしっかりした建物でした。警察署に利用したり、裁判所として利用された時期もあったようで、保存しておく価値は十分にある建物でした。さらに、近くに赤レンガ造りの建物も保存されていました。旧「本庄商業銀行」だった建物とのこと。本庄宿の歴史を想像させる建物の一つでした。
天保14年(1843年)の中山道宿村大慨帳によれば、本庄宿の宿内家数は、1212軒で、うち本陣2、脇本陣2、旅籠70軒と記録されている。宿内人口は4554人で、この人口は中山道の宿村では最大だったと記録されている。つまり、江戸時代の「中山道最大の宿場」だったとのことである。レンガ造りの立派な建物・本陣門の保存・旧本庄警察署の洋風建築物など、印象に残りました。
午後3時過ぎに本庄宿を通過後、約12kmほど先の深谷宿を目指して歩きだした。早朝からの歩きで、疲れだしていた。足にまめができていた。久しぶりの長歩きだったせいで、両足にまめができていた。まめがつぶれないようにゆっくりゆっくり歩くことにした。まめがつぶれると痛みが増すので、慎重に歩いて行った。しかし、12kmは遠かった。国道17号や国道に沿った県道だった中山道。平坦で舗装されている道ばかりだったので、歩きやすかったが、時間がかかった。
途中取り立てて紹介するところはなかった。ひたすらゆっくりと足裏をかばいながら、深谷駅に近いホテルまで歩き続けた次第です。ホテル到着は午後6時30分頃になっていた。ホテルの部屋で荷物を下ろし、靴下を脱いでみた。(水ぶくれした)豆はつぶれていなかった。つぶれていなくて良かった・・・と、一安心。
万歩計の(本日の)歩数を見たら、61705歩。一日で、こんなに歩いたのは、「記憶がないなあ…」と、独り言。本日の歩き、やっぱり、まめができたはずでした。
以上で、【その1】が長くなりましたので、ここでを終了します。この続きは、次のブログ【その2】へ。
5月28日午後4時20分 JR北上尾駅到着後 「上尾宿」目指して歩き旅スタート
本陣・脇本陣などの建物はなくなっており、上尾宿の説明板のみ、街道に設置されていた。
5月29日早朝(午前6時前)に訪れた。 氷川神社参道(約2kmの参道 直線的で両側に欅の並木) 流石、「武蔵国の一ノ宮」ですね。この参道は中山道ではないのですが、古い時代は中山道(古中仙道)でした。(早朝、6時ごろの様子で、人は少なかったです。それでも、丁寧にお参りしている人がいましたね。私はお参りはしないで、見学のみしました。)
この門をくぐると立派な氷川神社本殿がありました。
倉賀野宿 脇本陣の建物が保存されていました。(本陣は跡の碑あり)
倉賀野宿 中山道(写真右の街道)と日光例幣使街道(写真左の街道)の追分=分かれ道
(灯篭や碑と説明板があった。現在も交通量が多い地点らしい。)
豪農・川端家屋敷(国登録有形文化財)手前が中山道に面していた。玄関は写真右手の中ほどにあった。中山道に面した建物(写真に入りきらなかった)も立派な建物でした。大きな屋敷を今まで何軒か見ていましたが、ここは別格でしたね。すごい屋敷でした。
新町宿 小林本陣跡(標柱と説明板)
本庄宿中心部 赤レンガ造りの建物 旧・本庄商業銀行の倉庫だったとのこと。
田村本陣の門 移築されて保存されていた。本庄宿・田村本陣にて皇女和宮様が宿泊された。
本陣門のすぐ近くに旧・本庄警察署の建物があった。
本庄市立歴史民俗資料館は閉館になっていた。残念。たぶん入館者が少なくなって、最近閉館したらしい。
本庄宿にも江戸時代の建物そのものは、ほとんど残っていなかったが、本陣の門や明治時代の立派な建物が残っていました。歩き旅をする者にとって、この宿場は満足しました。
*以上 【その1】の写真説明はここまでです。引き続き、【その2】もよろしくお願いいたします。