2020/5/28
「コシの国への好奇心①→真脇遺跡(まわきいせき)」 古代への好奇心
私が育ったのは堺市だが、戸籍上の生まれは石川県である。出生地が石川県と言えども、生まれたところの記憶や思い出は何もない。生まれてすぐに堺市で住むようになったからであろう。
子どもの頃の思い出はすべて堺市での生活である。高校は私の希望で香川県の学校(国立詫間電波高等学校・現香川高専詫間キャンパス)で3年間過ごした。高校卒業後はまた堺市に住み、現在に至っている。
石川県(古代・コシの国の一部)への関心は、ほとんどなかったが、古代への関心を持つようになってから、出生地への関心が出てくるようになった。
ちなみに、コシヒカリの語源は「コシ」の国と関係あり。弥生時代は高志(こし)と書かれ、奈良時代になると、越(こし)と字が変化している。そして、江戸時代ごろには、コシの国は越前・越中・越後・能登・加賀などと細分化されていった。コシヒカリは「コシの国」が語源となっている。さらに、コシという地は、「古志」「高志」「越」と字が変化してきたようだ。字の変化は、日本各地でもままあることで、時代やその他の理由で字に変化が起こるようだ。
私の出生地は石川県能登半島の鵜川村というところである。その村は富山湾に面した漁村である。昭和の時代には(国鉄の)鵜川駅があったが、現在は廃線になっている。
石川県鵜川村は母が育ったところであり、縁あって(どういう縁であったかは詳しく知らないが・・・)堺市の父と結ばれている。
戦後、食糧難の時代が続いたようで、私を身ごもってから栄養不足にならないようにと、石川県の実家(漁業中心の家だったらしい)で過ごしたようだ。
母の実家のある鵜川村は小さな漁村だが、(少し離れてはいるが)近くに「真脇遺跡」なるものがある。縄文時代の遺跡である。
参考(以下、『真脇遺跡』の紹介=ネットによる資料のコピーです)
【 真脇遺跡は石川県能登町字真脇にある、北陸最大級の縄文時代遺跡です。富山湾に臨み、三方を丘陵に囲まれた小さな入り江の奥の沖積平野に位置しています。
以前より土師遺跡が存在し、平安時代末期の古文書にもその名が見られることから、古い歴史をもつ土地として知られていましたが、1980年に圃場整備の計画が持ち上がり、遺跡の分布調査が行われたところ、中・近世の地層の下から縄文時代の地層が発見され、縄文時代の遺跡であることがわかりました。 】
(へぇー、私は縄文時代の遺跡があったところの近くで、生まれているんだ!)と、好奇心をくすぐられた次第。
堺観光ボランティアガイドをするまでは、古代への関心はまったくなかったのに、仲間の影響が大きく、「好奇心の方向」が変化していっているようだ。
最近の関心は「邪馬台国は丹後または越前地方にあったかも?」という考え方に向き始めている。「邪馬台国は丹後にあった」という考えから、少し修正し始めたしだいです。
*このつづきは「コシの国への好奇心②」へ
子どもの頃の思い出はすべて堺市での生活である。高校は私の希望で香川県の学校(国立詫間電波高等学校・現香川高専詫間キャンパス)で3年間過ごした。高校卒業後はまた堺市に住み、現在に至っている。
石川県(古代・コシの国の一部)への関心は、ほとんどなかったが、古代への関心を持つようになってから、出生地への関心が出てくるようになった。
ちなみに、コシヒカリの語源は「コシ」の国と関係あり。弥生時代は高志(こし)と書かれ、奈良時代になると、越(こし)と字が変化している。そして、江戸時代ごろには、コシの国は越前・越中・越後・能登・加賀などと細分化されていった。コシヒカリは「コシの国」が語源となっている。さらに、コシという地は、「古志」「高志」「越」と字が変化してきたようだ。字の変化は、日本各地でもままあることで、時代やその他の理由で字に変化が起こるようだ。
私の出生地は石川県能登半島の鵜川村というところである。その村は富山湾に面した漁村である。昭和の時代には(国鉄の)鵜川駅があったが、現在は廃線になっている。
石川県鵜川村は母が育ったところであり、縁あって(どういう縁であったかは詳しく知らないが・・・)堺市の父と結ばれている。
戦後、食糧難の時代が続いたようで、私を身ごもってから栄養不足にならないようにと、石川県の実家(漁業中心の家だったらしい)で過ごしたようだ。
母の実家のある鵜川村は小さな漁村だが、(少し離れてはいるが)近くに「真脇遺跡」なるものがある。縄文時代の遺跡である。
参考(以下、『真脇遺跡』の紹介=ネットによる資料のコピーです)
【 真脇遺跡は石川県能登町字真脇にある、北陸最大級の縄文時代遺跡です。富山湾に臨み、三方を丘陵に囲まれた小さな入り江の奥の沖積平野に位置しています。
以前より土師遺跡が存在し、平安時代末期の古文書にもその名が見られることから、古い歴史をもつ土地として知られていましたが、1980年に圃場整備の計画が持ち上がり、遺跡の分布調査が行われたところ、中・近世の地層の下から縄文時代の地層が発見され、縄文時代の遺跡であることがわかりました。 】
(へぇー、私は縄文時代の遺跡があったところの近くで、生まれているんだ!)と、好奇心をくすぐられた次第。
堺観光ボランティアガイドをするまでは、古代への関心はまったくなかったのに、仲間の影響が大きく、「好奇心の方向」が変化していっているようだ。
最近の関心は「邪馬台国は丹後または越前地方にあったかも?」という考え方に向き始めている。「邪馬台国は丹後にあった」という考えから、少し修正し始めたしだいです。
*このつづきは「コシの国への好奇心②」へ
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2019/11/14
「豊中市の古墳見学」 古代への好奇心
豊中市にも古墳があることを初めて知った。
豊中市内にある桜塚古墳群見学の前に、曽根駅前のホール「豊中市立文化芸術センター」の展示物を見学した。古墳から出土したものがしっかり展示されていた。
鉄製甲冑(かっちゅう)や鉄刀剣などの展示物が見事であった。5世紀の鉄製なので、錆ついている。しかし、しっかりした形であり、細かい作りまでわかる形が残っていた。数こそ少ない展示だったが、見事な出土品であった。
それらの展示物とは別に、豊中市周辺(大阪湾から京都方面まで含めた地域)の100万年前の地形図を見た時、「あっ」と驚いた。
豊中市周辺は海だつたのだ。淀川流域も海だつた。淀川上流の北部地域にも、海があったのだ。その海の名称は「古京都湾」と書かれていた。京都は古代においては海だったのだ!
京都が海だった時代があり、後に隆起後、潟(水深の低い海)時代を経て、湖の時代へ。さらに隆起していき、現代の「盆地」になったと考えられる。
「京都の地下には水ガメがある。だから京都の冬はすごく寒いのですよ。地下に水が溜まっている。」というセリフをどこかで聞いたことがあった。今回、古代の地形図を目にして納得したのだった。
繰り返しになるが・・・「京都盆地は海だったのだ!」 古地形図が物語っていた。
南天平塚(みなみてんぴんづか)古墳 登っていくことができた。墳頂に石柱があった。
御獅子塚(おししづか)古墳 入口に鍵がかかっていて、登ることはできなかった。
小石塚(こいしづか)古墳
大石塚(おおいしづか)古墳
大石塚古墳に隣接している施設の展示物
円筒埴輪の透穴の形が「L字型」のもの(写真右側)があった。こんな形を見たのは初めてであった。「こんな形のものもあるのだなあ!」と見とれてしまった。
豊中市内にある桜塚古墳群見学の前に、曽根駅前のホール「豊中市立文化芸術センター」の展示物を見学した。古墳から出土したものがしっかり展示されていた。
鉄製甲冑(かっちゅう)や鉄刀剣などの展示物が見事であった。5世紀の鉄製なので、錆ついている。しかし、しっかりした形であり、細かい作りまでわかる形が残っていた。数こそ少ない展示だったが、見事な出土品であった。
それらの展示物とは別に、豊中市周辺(大阪湾から京都方面まで含めた地域)の100万年前の地形図を見た時、「あっ」と驚いた。
豊中市周辺は海だつたのだ。淀川流域も海だつた。淀川上流の北部地域にも、海があったのだ。その海の名称は「古京都湾」と書かれていた。京都は古代においては海だったのだ!
京都が海だった時代があり、後に隆起後、潟(水深の低い海)時代を経て、湖の時代へ。さらに隆起していき、現代の「盆地」になったと考えられる。
「京都の地下には水ガメがある。だから京都の冬はすごく寒いのですよ。地下に水が溜まっている。」というセリフをどこかで聞いたことがあった。今回、古代の地形図を目にして納得したのだった。
繰り返しになるが・・・「京都盆地は海だったのだ!」 古地形図が物語っていた。
南天平塚(みなみてんぴんづか)古墳 登っていくことができた。墳頂に石柱があった。
御獅子塚(おししづか)古墳 入口に鍵がかかっていて、登ることはできなかった。
小石塚(こいしづか)古墳
大石塚(おおいしづか)古墳
大石塚古墳に隣接している施設の展示物
円筒埴輪の透穴の形が「L字型」のもの(写真右側)があった。こんな形を見たのは初めてであった。「こんな形のものもあるのだなあ!」と見とれてしまった。
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タグ: 古墳
2019/11/6
「藤原京跡見学」 古代への好奇心
11月になり、橿原市の「藤原京跡」などを見学する機会があった。
藤原京は飛鳥京(この時代、王宮の変遷は多かった)の後の都である。694年から710年までの16年間、唐の都の長安をモデルに造られた都だったとのことである。飛鳥京(同時代のその他の都)よりも道路などが碁盤の目のように整備され、本格的な都だとされている。しかし、たったの16年間の都であった。藤原京の後、平城京へ遷都。いよいよ時代区分としては、奈良時代の始まりとなる。
藤原京跡を散策して思ったこと。まずは、大和三山(畝傍山・耳成山・香久山)を見渡せる素晴らしい位置にあるということだった。そして、古代においては、浅い湖(古代奈良湖)だったようで、平面盆地に都が建設されている姿がはっきりとわかる。古代においては、大和三山は、島であったであろう。
藤原京(=690年、41代天皇・持統天皇の時代に着工。5.5km四方の面積約25㎢の広大な都)の建物群は何も残っていなかった。門や大極殿などの跡が円柱形の赤い標示物や盛り上がった土などで、推定できるだけであった。
藤原京時代の歴史を想像しにくい遺跡だった。
しかし、「何もない」ことが、かえって良いのかもしれない。なぜなら、想像する自由が与えられているから。
藤原京の朱雀大路跡の近くに元薬師寺(もとやくしじ)跡があった。かなり大きな寺だったようで、(現在)境内跡にはホテイアオイが植えられていた。ここも平面的で(古代においては)湖だった場所であろう。
元薬師寺は現薬師寺の前身の寺。天智天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒祈願のために建立したとのことである。現在、金堂の礎石などが残っていた。門跡も礎石が一部残っており、寺の敷地の大きさが予測できた。
奈良盆地のほとんどの箇所は古代奈良湖だったことが、予想できる地形である。浅くて広い湖が、隆起して現在の地形になったのだろう。奈良盆地には結構川が多いのも、湖だったところだからである。それらの川は(古代の)大和川に合流し、淀川方面に流れ、大阪湾に流れていたようだ。逆に考えると、大阪湾から船で古代奈良湖(奈良盆地)とはつながっていたことになる。川をさかのぼるときは舟を綱で曳いた箇所があったであろう。
仏教伝来地(桜井市)も大和川の上流にあり、川で大阪湾とつながっている地である。船の利用で、朝鮮半島から伝来したのかもしれない。陸路で伝わったのかもしれないが…。
とにかく、海、湖や川の存在が外来文化の伝来に大いに関係しているのだろう。
写真右手前の山が畝傍山
手前の形が少し悪い山が香久山
正面 美しい円錐形の山が耳成山 藤原京の北部方面
大極殿跡は、耳成山の手前の林の部分で、赤い標柱は、門の跡である。大極殿跡(平らな林部分)までは、歩いて少し距離があった。(自転車利用の観光客がいた。遠い。)
藤原京大極殿跡=こんもりした林部分
赤い標柱は門の跡を示しているだけで、この標柱が大極殿そのものではない。去年の台風21号で、掲示物が被害にあったため、説明がなくなっていて、わかりにくかった。
元薬師寺跡
境内域はほとんどホテイアオイの栽培地になっていた。草が生えていなかったので、美しかった。
金堂の礎石が残されていた。
ホテイアオイの花が咲いていた。
藤原京は飛鳥京(この時代、王宮の変遷は多かった)の後の都である。694年から710年までの16年間、唐の都の長安をモデルに造られた都だったとのことである。飛鳥京(同時代のその他の都)よりも道路などが碁盤の目のように整備され、本格的な都だとされている。しかし、たったの16年間の都であった。藤原京の後、平城京へ遷都。いよいよ時代区分としては、奈良時代の始まりとなる。
藤原京跡を散策して思ったこと。まずは、大和三山(畝傍山・耳成山・香久山)を見渡せる素晴らしい位置にあるということだった。そして、古代においては、浅い湖(古代奈良湖)だったようで、平面盆地に都が建設されている姿がはっきりとわかる。古代においては、大和三山は、島であったであろう。
藤原京(=690年、41代天皇・持統天皇の時代に着工。5.5km四方の面積約25㎢の広大な都)の建物群は何も残っていなかった。門や大極殿などの跡が円柱形の赤い標示物や盛り上がった土などで、推定できるだけであった。
藤原京時代の歴史を想像しにくい遺跡だった。
しかし、「何もない」ことが、かえって良いのかもしれない。なぜなら、想像する自由が与えられているから。
藤原京の朱雀大路跡の近くに元薬師寺(もとやくしじ)跡があった。かなり大きな寺だったようで、(現在)境内跡にはホテイアオイが植えられていた。ここも平面的で(古代においては)湖だった場所であろう。
元薬師寺は現薬師寺の前身の寺。天智天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒祈願のために建立したとのことである。現在、金堂の礎石などが残っていた。門跡も礎石が一部残っており、寺の敷地の大きさが予測できた。
奈良盆地のほとんどの箇所は古代奈良湖だったことが、予想できる地形である。浅くて広い湖が、隆起して現在の地形になったのだろう。奈良盆地には結構川が多いのも、湖だったところだからである。それらの川は(古代の)大和川に合流し、淀川方面に流れ、大阪湾に流れていたようだ。逆に考えると、大阪湾から船で古代奈良湖(奈良盆地)とはつながっていたことになる。川をさかのぼるときは舟を綱で曳いた箇所があったであろう。
仏教伝来地(桜井市)も大和川の上流にあり、川で大阪湾とつながっている地である。船の利用で、朝鮮半島から伝来したのかもしれない。陸路で伝わったのかもしれないが…。
とにかく、海、湖や川の存在が外来文化の伝来に大いに関係しているのだろう。
写真右手前の山が畝傍山
手前の形が少し悪い山が香久山
正面 美しい円錐形の山が耳成山 藤原京の北部方面
大極殿跡は、耳成山の手前の林の部分で、赤い標柱は、門の跡である。大極殿跡(平らな林部分)までは、歩いて少し距離があった。(自転車利用の観光客がいた。遠い。)
藤原京大極殿跡=こんもりした林部分
赤い標柱は門の跡を示しているだけで、この標柱が大極殿そのものではない。去年の台風21号で、掲示物が被害にあったため、説明がなくなっていて、わかりにくかった。
元薬師寺跡
境内域はほとんどホテイアオイの栽培地になっていた。草が生えていなかったので、美しかった。
金堂の礎石が残されていた。
ホテイアオイの花が咲いていた。
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タグ: 遺跡見学
2019/9/28
「邪馬台国はどこにあったのか?「その2」」 古代への好奇心
日本海側で発掘・発見されている古墳や遺跡に注目している。特に古墳時代以前の遺跡について。
弥生時代後期の古墳や遺跡は、興味深い。たとえば、出雲地方に四隅突出型古墳群(西谷古墳群他)があることや、大量の銅鐸と剣が出土した荒神谷(こうじんだに)遺跡が見つかったことなど。どちらも、今年見学してきたのだが、歴史的価値は高い。
日本海沿いに弥生時代の遺跡など発見されてきている。大規模な鉄器遺跡の妻木晩田(むきばんだ)遺跡(鳥取県・大山町)の発掘は今も進行中である。私はこの遺跡を2度訪れているが、大規模「鉄製品製造所」だったことが、わかってきている。大山に近い位置にあり、小高い丘の上に巨大遺跡が発見されたわけである。青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県)についても、弥生時代の歴史的証拠物件が無茶苦茶多く発掘されている。
とにかく、山口県から京都府・福井県にかけての日本海沿いに、日本を代表する遺跡や古墳が、間断なく続いて存在している。
卑弥呼の時代(3世紀)に関係する古墳や遺跡群は、丹後半島周辺に多く発見されているようにおもわれる。まだ発見されずに眠ったままの遺跡があるに違いない。。
また、豊岡市出石の遺跡から発見された「線刻画」には、日本海を走行する16艘もの大船団が描かれていた。この船団は外洋船であることが分かり、日本海で交易がおこなわれていたことを示しているようだ。
卑弥呼の時代よりも前に、すでに日本海では国際交易(朝鮮半島や中国との交易)がおこなわれていた証拠を示しているようだ。
弥生時代後期の外洋船団による国際交易ルートは「日本海ルート」だった。
遺跡群から発見されたものがそのことを物語ってくれている。
しかし、日本海沿岸部の遺跡群の発見は比較的歴史が浅い。出雲の歴史にしても、「神話」扱いで重要視されてきていなかった。北九州と大和地方の遺跡群にばかり注目されて、日本海沿岸部遺跡については、無視されてきたようだ。
*ここから続きです。
8世紀に書かれた古事記や日本書紀などの記述より歴史を信じる学者たちがいる。一方、根拠の無い記述内容はまったく信じない学者たちがいる。
私は記紀に書かれている内容は、ほとんど疑っている。時の権力者に都合のいい観点から「歴史」は作られていくものだから。
歴史の真実は難しい。「正しい歴史」は1000年後、いや2000年後になって把握されるものもある。
中国の歴史にしても、「曹操の墓」なるものが発掘されたのは近年になってからである。石に彫られた文字が決め手になるケースがある。曹操の墓についても、石に彫られた文字から推定されているようだ。
一方、日本の遺跡の場合、文字が見つかるケースは少ない。天皇の墓についても、はっきりと断定できる古墳は一つもないようだ。「○○天皇の墓」だと宮内庁が決めている墓にしても、証拠となるものは見つからない。すべて推定に。とにかく、天皇の名前が書かれたものが発掘されていないのだから、認定は難しいことになる。
宮内庁による認定は、江戸時代の学者による資料を基にしての「認定」のようだ。
木に書かれた文字が消えてしまうことは多い。石は消えないので、石に書かれた文字は重要な根拠になる。そういうものは、日本の古墳や遺跡ではほとんど発見されない。
だから、誰が葬られているかについては、名前を断定することが難しいことになる。
日本の古墳は謎だらけということになる。だから、「おもしろい」(いろいろ推測できるから)のかもしれない。
いつの日か、どこかの遺跡から「卑弥呼」なるものを証明できる証拠物件が発掘される日が来るかもしれない。だが、難しいだろう。
だから、むしろ「推測の楽しみ」こそが、この分野の楽しみ・魅力なのであろう。
まったくの素人の私でさえ、あれこれと楽しんでいる。世界遺産に決まってから、大仙古墳(伝仁徳天皇陵古墳)に来られる人が増えた。その中に、古墳談義を好む人も来られる。
観光客が少なくて、ゆっくりガイドできる時は、「古墳談義」をすることがある。楽しいひと時です。
「邪馬台国は丹後半島にあったという説を、私は信じているんですよ!」
「えっ、そんな説があるんですか?」
云々
こういう話が好きな人、観光客の中には、たまにいるんですよ。私も楽しいひと時になります。
今回の話題は、まったくまとまっていませんが・・・ここまでに。 完
弥生時代後期の古墳や遺跡は、興味深い。たとえば、出雲地方に四隅突出型古墳群(西谷古墳群他)があることや、大量の銅鐸と剣が出土した荒神谷(こうじんだに)遺跡が見つかったことなど。どちらも、今年見学してきたのだが、歴史的価値は高い。
日本海沿いに弥生時代の遺跡など発見されてきている。大規模な鉄器遺跡の妻木晩田(むきばんだ)遺跡(鳥取県・大山町)の発掘は今も進行中である。私はこの遺跡を2度訪れているが、大規模「鉄製品製造所」だったことが、わかってきている。大山に近い位置にあり、小高い丘の上に巨大遺跡が発見されたわけである。青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡(鳥取県)についても、弥生時代の歴史的証拠物件が無茶苦茶多く発掘されている。
とにかく、山口県から京都府・福井県にかけての日本海沿いに、日本を代表する遺跡や古墳が、間断なく続いて存在している。
卑弥呼の時代(3世紀)に関係する古墳や遺跡群は、丹後半島周辺に多く発見されているようにおもわれる。まだ発見されずに眠ったままの遺跡があるに違いない。。
また、豊岡市出石の遺跡から発見された「線刻画」には、日本海を走行する16艘もの大船団が描かれていた。この船団は外洋船であることが分かり、日本海で交易がおこなわれていたことを示しているようだ。
卑弥呼の時代よりも前に、すでに日本海では国際交易(朝鮮半島や中国との交易)がおこなわれていた証拠を示しているようだ。
弥生時代後期の外洋船団による国際交易ルートは「日本海ルート」だった。
遺跡群から発見されたものがそのことを物語ってくれている。
しかし、日本海沿岸部の遺跡群の発見は比較的歴史が浅い。出雲の歴史にしても、「神話」扱いで重要視されてきていなかった。北九州と大和地方の遺跡群にばかり注目されて、日本海沿岸部遺跡については、無視されてきたようだ。
*ここから続きです。
8世紀に書かれた古事記や日本書紀などの記述より歴史を信じる学者たちがいる。一方、根拠の無い記述内容はまったく信じない学者たちがいる。
私は記紀に書かれている内容は、ほとんど疑っている。時の権力者に都合のいい観点から「歴史」は作られていくものだから。
歴史の真実は難しい。「正しい歴史」は1000年後、いや2000年後になって把握されるものもある。
中国の歴史にしても、「曹操の墓」なるものが発掘されたのは近年になってからである。石に彫られた文字が決め手になるケースがある。曹操の墓についても、石に彫られた文字から推定されているようだ。
一方、日本の遺跡の場合、文字が見つかるケースは少ない。天皇の墓についても、はっきりと断定できる古墳は一つもないようだ。「○○天皇の墓」だと宮内庁が決めている墓にしても、証拠となるものは見つからない。すべて推定に。とにかく、天皇の名前が書かれたものが発掘されていないのだから、認定は難しいことになる。
宮内庁による認定は、江戸時代の学者による資料を基にしての「認定」のようだ。
木に書かれた文字が消えてしまうことは多い。石は消えないので、石に書かれた文字は重要な根拠になる。そういうものは、日本の古墳や遺跡ではほとんど発見されない。
だから、誰が葬られているかについては、名前を断定することが難しいことになる。
日本の古墳は謎だらけということになる。だから、「おもしろい」(いろいろ推測できるから)のかもしれない。
いつの日か、どこかの遺跡から「卑弥呼」なるものを証明できる証拠物件が発掘される日が来るかもしれない。だが、難しいだろう。
だから、むしろ「推測の楽しみ」こそが、この分野の楽しみ・魅力なのであろう。
まったくの素人の私でさえ、あれこれと楽しんでいる。世界遺産に決まってから、大仙古墳(伝仁徳天皇陵古墳)に来られる人が増えた。その中に、古墳談義を好む人も来られる。
観光客が少なくて、ゆっくりガイドできる時は、「古墳談義」をすることがある。楽しいひと時です。
「邪馬台国は丹後半島にあったという説を、私は信じているんですよ!」
「えっ、そんな説があるんですか?」
云々
こういう話が好きな人、観光客の中には、たまにいるんですよ。私も楽しいひと時になります。
今回の話題は、まったくまとまっていませんが・・・ここまでに。 完
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2019/9/21
「邪馬台国はどこにあったのか?「その1」」 古代への好奇心
邪馬台国はどこにあったのか?
この問題に対して大きく二つの説がある。昔からの論争である。
「畿内説」と「九州説」である。もちろん、この二つの説以外にいろいろな説がある。
こっそりとだが、私が推している説は、「邪馬台国は丹後半島にあった」という説。
邪馬台国が丹後半島になかったとしても、少なくとも「日本海沿いにあった」と私は考えている。
だから、畿内説(奈良県の南にあった)を唱える学者たち(=主に京都大学の学者たち)の考え方には、まったく魅力を感じない。中国大陸や朝鮮半島へ渡る船の一番の問題は、「安全に航海する」ことである。卑弥呼は「安全航海に関する」占い師として、海流・潮流を予測し、天候や風などの気象を予報し、外洋船に関する知識などにおいてもエキスパートであったに違いない。
奈良県南部の内陸部にあっては、川船の安全に関する予測はできたとしても、日本海を航海する「外洋船」に関する予測力を磨くことはできるはずがない。占い師とは「予測する力がずば抜けている人」がなれたのであって、予知力が科学的にも鍛えられた存在だったにちがいない。奈良県という地理的位置においては、邪馬台国(女王・卑弥呼)は「無茶苦茶、無理だ!」と考えるわけです。
だから「外洋船の港があった」周辺に、邪馬台国はあったにちがいないと考えるわけです。
そこで、下関港周辺から丹後半島の間人(たいざ=聖徳太子の母の出身地)までの間の「日本海側港湾地域」(例えば、長門・出雲・温泉津・豊岡・その他)に邪馬台国があったという説を推したい。
(以下、一年ほど前のブログ内容より、コピーした内容。参考にしてください。)
【 丹後地方が日本で一番栄えていた時代があった。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての頃であろう。
私は(学問的には素人だが)「邪馬台国は丹後にあった」という説を支持している。
2018年7月13日に、丹後地方へ連れてもらえる機会があった。丹後王国時代の遺跡群を実際に訪れるのは初めての経験であった。堺観光ボランティアガイド活動で出会った人たち(歴史が好きな方がほとんど)が案内してくれ、いろいろ教えていただいた。おかげで、だんだん古い時代に興味を持つようになってきた。
ボランティアガイドをするまでは、まったく興味がなかった分野だったが・・・。
今では、好奇心旺盛で「考古学関係の話題」に興味津々。教え子にその方面の研究者がいるので、機会があれば会って話が聞けたら…と思うようになった。人間は変わるものである。
日本海側にある主な港(津)周辺地への歴史的興味が高まってきている。
温泉津・出雲・米子近辺・鳥取近辺・豊岡・丹後・若狭湾・敦賀・小松・羽咋~七尾をむすぶ地溝帯・姫川など。
日本海側の古代の歴史がおもしろい! 好奇心は心を元気にしてくれますね。
今回、離湖古墳・遠所遺跡・網野銚子山古墳などを見学してきたのだが、網野銚子山古墳はちょうど発掘調査中であった。発掘調査中の古墳(墳丘約200mの大きな古墳)を目の当たりにしたのは初めてだったので、心が震えた。 】
以上(「その1」はここまで)。
この続きは「その2」へ
この問題に対して大きく二つの説がある。昔からの論争である。
「畿内説」と「九州説」である。もちろん、この二つの説以外にいろいろな説がある。
こっそりとだが、私が推している説は、「邪馬台国は丹後半島にあった」という説。
邪馬台国が丹後半島になかったとしても、少なくとも「日本海沿いにあった」と私は考えている。
だから、畿内説(奈良県の南にあった)を唱える学者たち(=主に京都大学の学者たち)の考え方には、まったく魅力を感じない。中国大陸や朝鮮半島へ渡る船の一番の問題は、「安全に航海する」ことである。卑弥呼は「安全航海に関する」占い師として、海流・潮流を予測し、天候や風などの気象を予報し、外洋船に関する知識などにおいてもエキスパートであったに違いない。
奈良県南部の内陸部にあっては、川船の安全に関する予測はできたとしても、日本海を航海する「外洋船」に関する予測力を磨くことはできるはずがない。占い師とは「予測する力がずば抜けている人」がなれたのであって、予知力が科学的にも鍛えられた存在だったにちがいない。奈良県という地理的位置においては、邪馬台国(女王・卑弥呼)は「無茶苦茶、無理だ!」と考えるわけです。
だから「外洋船の港があった」周辺に、邪馬台国はあったにちがいないと考えるわけです。
そこで、下関港周辺から丹後半島の間人(たいざ=聖徳太子の母の出身地)までの間の「日本海側港湾地域」(例えば、長門・出雲・温泉津・豊岡・その他)に邪馬台国があったという説を推したい。
(以下、一年ほど前のブログ内容より、コピーした内容。参考にしてください。)
【 丹後地方が日本で一番栄えていた時代があった。弥生時代後期から古墳時代前期にかけての頃であろう。
私は(学問的には素人だが)「邪馬台国は丹後にあった」という説を支持している。
2018年7月13日に、丹後地方へ連れてもらえる機会があった。丹後王国時代の遺跡群を実際に訪れるのは初めての経験であった。堺観光ボランティアガイド活動で出会った人たち(歴史が好きな方がほとんど)が案内してくれ、いろいろ教えていただいた。おかげで、だんだん古い時代に興味を持つようになってきた。
ボランティアガイドをするまでは、まったく興味がなかった分野だったが・・・。
今では、好奇心旺盛で「考古学関係の話題」に興味津々。教え子にその方面の研究者がいるので、機会があれば会って話が聞けたら…と思うようになった。人間は変わるものである。
日本海側にある主な港(津)周辺地への歴史的興味が高まってきている。
温泉津・出雲・米子近辺・鳥取近辺・豊岡・丹後・若狭湾・敦賀・小松・羽咋~七尾をむすぶ地溝帯・姫川など。
日本海側の古代の歴史がおもしろい! 好奇心は心を元気にしてくれますね。
今回、離湖古墳・遠所遺跡・網野銚子山古墳などを見学してきたのだが、網野銚子山古墳はちょうど発掘調査中であった。発掘調査中の古墳(墳丘約200mの大きな古墳)を目の当たりにしたのは初めてだったので、心が震えた。 】
以上(「その1」はここまで)。
この続きは「その2」へ
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