2016年3月26日
北海道新幹線開業もですが!
名松線の運行再開です。
北海道新幹線が開業した2016年3月26日(土)、三重県では名松線というローカル線が廃止の危機を乗り越え、全線で運行を再開しました。2009(平成21)年10月の台風18号で被災して以来、およそ6年半ぶりのことです。
名松線は、松阪駅(三重県松阪市)と伊勢奥津駅(同・津市)のあいだ43.5kmを結ぶJR東海の路線。そのうち家城~伊勢奥津間の17.7kmが2009年10月8日の被災以降、バスによる代行運転になっていました。
「名松線は『奇跡の名松線』といわれています。自然災害から6年半かかっての運行再開は日本記録です。11万6000人分もの署名が集まるなど、強い熱意がそれを実現しました」(津市・前葉泰幸市長)
鉄道路線が台風などで被災し、そのまま廃線になる例はJR東日本の岩泉線(岩手県、2014年廃止)、高千穂鉄道(宮崎県、2008年廃止)など少なくありません。このたび運転を再開した名松線の被災区間も一時、その可能性が高まっていました。
JR東海は2009年10月29日、被災した名松線について松阪~家城間は引き続き鉄道で運行するものの、家城~伊勢奥津間はバス輸送に変更する方針を示します。地形が急峻で自然災害を受けやすい区間であること、仮に復旧しても再び被災し、列車運行に大きな影響が出る可能性がその理由です。また運賃などについては、鉄道とバスで分けず通算するなど、従来の考え方を維持していくとしました。
名松線の一部廃止が具体化するなか、沿線住民と自治体は、「鉄道」は生活に欠かせない交通機関であり、また観光などによって地域を活性化させる重要な基盤であるとして、復旧・存続を求める運動を展開。そして2011年5月、三重県と津市が治山工事と水路の整備、その維持管理を行い、JR東海が鉄道施設を復旧するという協定が結ばれ、このたびの運行再開にいたっています。
協定が結ばれたのは、東日本大震災の2ヶ月後です。鈴木英敬三重県知事は、震災による閉塞感が日本全体に漂っていたなか、ひとつの希望としてその三者協定を結んだと話します。
ただ名松線には、大きな課題があります。
運行が再開された家城~伊勢奥津間は山あいを行く人口減少が進んでいる地域で、1987(昭和62)年に約430人だった1日における同区間の利用者は、2008(平成20)年には約90人とおよそ8割も減少。そして被災後、家城~伊勢奥津間で運行されていた列車代行バスは、被災前の鉄道時代よりさらに少ない1日およそ30人、1便あたりでは3人程度の利用になっていました。
また被災前の2008年、名松線は全体で年間およそ7億6000万円の赤字。同線は昭和40年代から「赤字83線」「特定地方交通線」として廃止の対象になってきましたが、並行道路が未整備だったことから存続した経緯があります。しかし現在では代行バスが問題なく運行されていたように、道路の改良が進展しました。
今回の復旧に要した費用は、三重県と津市が合計で約12億円、JR東海が約4億6000万円です。
災害から復旧したものの、わずか10年程度で廃止になった例があります。長崎県を走る島原鉄道の島原外港~加津佐間は1990年代、雲仙普賢岳の噴火で被災。復旧するも、利用の低迷などから2008年に廃止されました。
福島・新潟県を走るJR東日本の只見線など、自然災害で被災したまま利用者の少なさ、費用から具体的な復旧のメドが立っていない鉄道路線も複数あります。
また、2016年度の廃止が予定されている留萌本線(JR北海道)の留萌~増毛間は、1列車あたりの乗客が約3人です。
「復活した名松線を、生活路線としてのみならず、沿線の観光資源を活かしてひとりでも多くの方に利用していただきたいです。そうして人が増えてきて初めて、『復旧して良かった』といえると思います」(JR東海・柘植康英社長)
名松線の利用者を増やすため、沿線自治体や市民団体が現在、クルマで来て列車に乗ってもらう「パークアンドライド」やレンタサイクルの整備、懐かしいボンネットバスの運行といった取り組みを実施中です。また終点の伊勢奥津駅付近は伊勢本街道の宿場町で、いまもその風情が残ります。
今後どれだけ利用者を回復できるか、復活して良かったと心から喜べるか、ローカル線の未来は関係者の「知恵と工夫」(JR東海・柘植社長)にかかっています。
伊勢志摩サミット開催までちょうど60日前になる3月27日、竹の明かりで志摩を明るく彩ろうと「竹あかりワークショップ」が磯部町生涯学習センター(志摩市磯部町、TEL 0599-55-0142)で行われる。主催は「竹あかりYOKOSOプロジェクト」。
同プロジェクトは、竹を使ったイベントや竹を有効活用し循環型社会を作ろうと熊本県で活動するグループ「CHIKAKEN(ちかけん)」(熊本市)と「伊勢志摩女子サミット」や「LGBTブライダルショー」などを展開する伊勢志摩まちづくり団体「楽笑(Raku-Sho)」(志摩市磯部町)が中心となって志摩市の有志らが「伊勢志摩サミットで訪れる人たちに『おもてなしの心』を届けよう」と企画。
同プロジェクト開催は、今年1月に内閣総理大臣公邸で行われた「第3回SUPER VISIONSフォーラム」に参加した楽笑の岩城裕子さんとCHIKAKEN の三城賢士(みしろけんし)さんらがその場で出会って「何かしたいね」と会話したのがきっかけ。同フォーラムは、「田舎から日本を変えよう!」と、日本各地で地方創生にチャレンジしている人たちを集め、その活動報告や勉強会、参加者同士の交流を目的に、安倍昭恵総理夫人らの協力で開催されている。
ワークショップでは、三城さんが「竹あかり」の作り方を手ほどきする。岩城さんは「作業は30分から1時間。約100人分ぐらい竹を切って準備した。完成した『竹あかり』は持ち帰っていただき、お家でも明かりを灯していただければ。子どもや友だちを連れて気軽に参加してほしい」と参加を呼び掛ける。
受付12時30分~16時、作業開始13時~。参加費無料。
北海道・函館と東京を直結する北海道新幹線が26日、道民らの熱い期待を乗せて走り出した。新函館北斗駅(北海道北斗市)を出発した上り一番列車「はやぶさ10号」では、車掌がアナウンスで青函トンネルの歴史を解説するなどした。
午前5時、新函館北斗駅の温度計はマイナス2・3度。吐く息が白い。午前6時35分、発車ベルが鳴り、新型車両H5系がゆっくり滑り出すように出発した。
まぶしい朝日を浴びた函館山が左手に見え始め、窓の外にはどこまでも続く大地が広がる。「函館山を眺めながら北の大地を駆け抜けております」とアナウンスが入る。道民の期待を示すように、沿線では多くの人が手を振っていた。畑の真ん中で農作業の手を止めて手を振る人もいた。
13分後、木古内駅(木古内町)を出発し、列車はいよいよ青函トンネルへ。そこで車掌が青函トンネルの歴史を語り始めた。「昭和63年の開通までに多くの苦労がありました。海面下という特殊な環境の中で世界に誇る技術を生み出し、困難に打ち勝ってきました」
トンネル開通時にも一番列車に乗った経験があるという北斗市の会社員、山本博幸さん(45)はアナウンスを聞き、「あれから30年。まさかこの日が来るとは」と話し、真っ暗な車窓を見つめた。解説は開通工事で34人が亡くなったことにも及んだ。岡山市の公務員、森寄幸さん(56)は「きっと亡くなった方も新幹線を見て喜んでいるはず」とそっと手を合わせた。
トンネル内で新青森発新函館北斗行き下り一番列車「はやて91号」とすれ違ったが、気付かない乗客がいたほど車内は静か。北海道名寄市の公務員、村田貴久さん(38)は「在来線の特急列車と違ってゴーという音がしない」と乗り心地に満足していた。
午前7時21分、本州へ上陸。新青森駅から先はJR東日本が管轄する東北新幹線区間のため、乗務員は交代する。1時間6分の初任務を終え、新青森駅のホームに降りたJR北海道の運転士を、にぎやかな祭(まつり)囃子(ばやし)が出迎えた。(