「ちりとてちん」の第6週35回、
バラバラになっていた草若師匠の弟子が、喜代美の奔走で復帰するくだりで、
キーワードとして使われたのが、百人一首で有名な
瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われてもすえにあわむとぞ思ふ
を題材にした落語『崇徳院』でした。
「草々くんを助けてやり」
愛妻ミドリさんのひと言で、草原兄さんが落語家に復帰する決心をしたこの回は、
ある人などは”ティッシュボックスでは足りない”、
”タオルを顔に当てずには見れなかった”というくらいの感動的な回です。
決心がついて晴れ晴れとして繰り返す、草原の「・・とぞ思う」・・・
”よかったなあ”・・喜代美の努力が報われて、
見ている我々も、先に光明が射した思いに救われたものです。
ところで何度も出てくる「瀬をはやみ・・」
この和歌(うた)の方は知らぬ人がいないほど有名ですが、
調べると、その作者である当の崇徳院およびその周辺相関図が、滅法面白いのです。
平安の貴族から武士に主権が移った、重要な事件で保元の乱というのがあります。
崇徳院はその内乱のキッカケとなった片方の当事者なんですが、
要は天皇の帝位をめぐる兄弟争いと藤原氏の内部闘争がからんだ骨肉の争いで、
これに新興の平、源の武士団を巻き込んでの、陰湿な駆け引きがあったのち、
狡猾さに勝る後白河天皇派があっさり勝って、崇徳院は讃岐へ島流しになる。
この乱を期に清盛らが台頭してくるのですが・・・
平安末期の朝廷貴族の乱脈ぶりといったら、まさに「背徳のサロン」の様相を呈していて、
女色・男色みさかい無く、まさに乱脈の極みといった感じ。
崇徳院の出自がまづ凄い!
天皇系統図では、鳥羽天皇と待賢門院璋子(たいけんもんいん・たまこ)の子ということになってますが、
実は鳥羽天皇の祖父である白河上皇が、待賢門院璋子に産ませた子だというのです。
(白河上皇とえば「わが意のままにならぬもの、賀茂川の水と双六の賽と山法師」と言った、
当時の専制君主です)
しかもこれは「孫の嫁に手を出した祖父」なんてもんじゃなくて、
白河上皇が璋子に目をつけて可愛がっていたのは、璋子5歳の時からなのです。
璋子さん5歳の時から抜きん出た美しさだったそうですが、その時白河上皇53歳。
それから10年後、初潮を迎えた璋子を自分の愛人にしたというんですが、
まさに子どものころから手塩にかけた愛人ってわけです。
のちに璋子を嫁がせる段になって、押し付けたのが孫の鳥羽天皇。
この時璋子18歳、天皇15歳。(白河院66歳)
しかもこの璋子さん、院の寵愛を受けながら、火遊びの止まぬ放縦ぶり。
そのことを院はとがめもしない上に、押し付けられた鳥羽天皇も
璋子さんとの間に4男2女をもうけたというんだから、
われわれとは神経のできがちがうんですねえ。
というより待賢門院璋子、いったいどれほど魅力的な女性だったのか!!
・・・で結局、保元の乱というのは、璋子さんからすれば
崇徳院派(白河院と待賢門院璋子の子)と後白河天皇派(鳥羽天皇と待賢門院璋子の子)の
つまり実の子と不義の子の、親兄弟骨肉の争いといえるわけです。
もうひとつ面白いのは、漂泊の歌人・西行が出家した原因のひとつが、
待賢門院璋子との恋愛がらみだというから、事実は小説より奇なり、です。
崇徳院と待賢門院璋子は不義とはいえ息子と母親。
一方西行は北面の武士として、鳥羽天皇や待賢門院を警護していて、同期には清盛がいる。
崇徳歌壇の主要歌人で、崇徳院とはほとんど同い歳ということもあって、
崇徳院とは身分の差を超えた深い親交があった西行。
その親友のやんごとなき母に熱烈な恋心を燃やして、どうやら一夜の関係もあったらしい。
その後どんないきさつがあったのか、心の葛藤があったのか想像するしかないが、
出家した後、西行は待賢門院への恋慕捨てがたく、女院とかかわりの深い土地を訪ねては歌と残し、
讃岐に流された崇徳院とも手紙のやり取りをし、
崇徳院悲憤の死の後は讃岐を訪れたりしている。・・・・・と、
西行と崇徳院、待賢門院璋子との深い関わりをまとめたのが、白洲正子著『西行』
崇徳院に興味のある人は、教科書的な解説本より、よほど身近に感じられるはずです。
さて「瀬をはやみ・・」の和歌ですが、落語「崇徳院」でも恋の歌として扱われ、
通説でもそう採られているようですが、実は「題しらず」なのです。
だからどのような状況で詠われたものなのか、よくわからないのです。
ちなみに白洲正子は「苛烈な政争で奪われた帝位をもう一度取り戻したい」と読んでいますが・・・
崇徳院の悲劇の始まりは、白河上皇の背徳の愛からなのでした。