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絵空ごと

あることないこと、時事放談から艶話まで・・・

背徳のサロン 

2008-11-26 | ちりとてちん

「ちりとてちん」の第6週35回、
バラバラになっていた草若師匠の弟子が、喜代美の奔走で復帰するくだりで、
キーワードとして使われたのが、百人一首で有名な
 瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の われてもすえにあわむとぞ思ふ 
を題材にした落語『崇徳院』でした。

「草々くんを助けてやり」
愛妻ミドリさんのひと言で、草原兄さんが落語家に復帰する決心をしたこの回は、
ある人などは”ティッシュボックスでは足りない”、
”タオルを顔に当てずには見れなかった”というくらいの感動的な回です。
決心がついて晴れ晴れとして繰り返す、草原の「・・とぞ思う」・・・
”よかったなあ”・・喜代美の努力が報われて、
見ている我々も、先に光明が射した思いに救われたものです。

ところで何度も出てくる「瀬をはやみ・・」
この和歌(うた)の方は知らぬ人がいないほど有名ですが、
調べると、その作者である当の崇徳院およびその周辺相関図が、滅法面白いのです。

平安の貴族から武士に主権が移った、重要な事件で保元の乱というのがあります。
崇徳院はその内乱のキッカケとなった片方の当事者なんですが、
要は天皇の帝位をめぐる兄弟争いと藤原氏の内部闘争がからんだ骨肉の争いで、
これに新興の平、源の武士団を巻き込んでの、陰湿な駆け引きがあったのち、
狡猾さに勝る後白河天皇派があっさり勝って、崇徳院は讃岐へ島流しになる。
この乱を期に清盛らが台頭してくるのですが・・・

平安末期の朝廷貴族の乱脈ぶりといったら、まさに「背徳のサロン」の様相を呈していて、
女色・男色みさかい無く、まさに乱脈の極みといった感じ。
崇徳院の出自がまづ凄い!
天皇系統図では、鳥羽天皇と待賢門院璋子(たいけんもんいん・たまこ)の子ということになってますが、
実は鳥羽天皇の祖父である白河上皇が、待賢門院璋子に産ませた子だというのです。
(白河上皇とえば「わが意のままにならぬもの、賀茂川の水と双六の賽と山法師」と言った、
 当時の専制君主です)
しかもこれは「孫の嫁に手を出した祖父」なんてもんじゃなくて、
白河上皇が璋子に目をつけて可愛がっていたのは、璋子5歳の時からなのです。
璋子さん5歳の時から抜きん出た美しさだったそうですが、その時白河上皇53歳
それから10年後、初潮を迎えた璋子を自分の愛人にしたというんですが、
まさに子どものころから手塩にかけた愛人ってわけです。

のちに璋子を嫁がせる段になって、押し付けたのが孫の鳥羽天皇。
この時璋子18歳、天皇15歳。(白河院66歳)
しかもこの璋子さん、院の寵愛を受けながら、火遊びの止まぬ放縦ぶり。
そのことを院はとがめもしない上に、押し付けられた鳥羽天皇も
璋子さんとの間に4男2女をもうけたというんだから、
われわれとは神経のできがちがうんですねえ。
というより待賢門院璋子、いったいどれほど魅力的な女性だったのか!!

・・・で結局、保元の乱というのは、璋子さんからすれば
崇徳院派(白河院と待賢門院璋子の子)と後白河天皇派(鳥羽天皇と待賢門院璋子の子)の
つまり実の子と不義の子の、親兄弟骨肉の争いといえるわけです。

もうひとつ面白いのは、漂泊の歌人・西行が出家した原因のひとつが、
待賢門院璋子との恋愛がらみだというから、事実は小説より奇なり、です。
崇徳院と待賢門院璋子は不義とはいえ息子と母親。
一方西行は北面の武士として、鳥羽天皇や待賢門院を警護していて、同期には清盛がいる。
崇徳歌壇の主要歌人で、崇徳院とはほとんど同い歳ということもあって、
崇徳院とは身分の差を超えた深い親交があった西行。
その親友のやんごとなき母に熱烈な恋心を燃やして、どうやら一夜の関係もあったらしい。
その後どんないきさつがあったのか、心の葛藤があったのか想像するしかないが、
出家した後、西行は待賢門院への恋慕捨てがたく、女院とかかわりの深い土地を訪ねては歌と残し、
讃岐に流された崇徳院とも手紙のやり取りをし、
崇徳院悲憤の死の後は讃岐を訪れたりしている。・・・・・と、
西行と崇徳院、待賢門院璋子との深い関わりをまとめたのが、白洲正子著『西行』
崇徳院に興味のある人は、教科書的な解説本より、よほど身近に感じられるはずです。

さて「瀬をはやみ・・」の和歌ですが、落語「崇徳院」でも恋の歌として扱われ、
通説でもそう採られているようですが、実は「題しらず」なのです。
だからどのような状況で詠われたものなのか、よくわからないのです。
ちなみに白洲正子は「苛烈な政争で奪われた帝位をもう一度取り戻したい」と読んでいますが・・・
崇徳院の悲劇の始まりは、白河上皇の背徳の愛からなのでした。


妄想力 

2008-10-29 | ちりとてちん

久しぶりに Book Off に入って、¥100コーナーで掘り出し物を漁っていると、
林真理子の昔のエッセイ集が目に止まった。
この人のことは、昔ひとり敢然とアグネス・チャンを叩いているのを、
密かに拍手を送っていたことと、
あの容姿で美容に励み、恋を語る根性に腰が引けてしまう、そんな印象しかなかった。

一冊手に取って開く・・・”最近の若者の箸の持ち方がヘン”という書き出しから、
”子どものころ、箸の持ち方は厳しくしつけられたものだが、近ごろの親は・・・”と進んだところで、
そういえば林真理子が”ちりとてちん”を褒めちぎっていたというのを、思い出した。
(そういえば、先日亡くなった緒形拳も面白いドラマだと言っていたそうで、
 ちりとてファンとしては、非常に誇らしく思ったものです)

B子こと喜代美が、草若師匠に弟子入りを許されて、稽古を始めたものの、
同時に二つの動作ができない不器用さ加減に、周りは呆れるばかり。
亡くなった「おかみさん」の不器用ぶりとその努力を見てきて
”不器用な者ほど稽古する”と言える草若師匠だからこそ、
人の二倍も三倍も時間の掛かる喜代美を、辛抱して見守ってやれたのですが、
さらにそんな不器用な喜代美にも美点があることも見逃さない。
”たったひとつ感心すること”は、喜代美の箸を持つ手の美しさ

そりゃそうです。
箸職人の名人の家に生れて、箸が上手く使えないじゃ恥ずかしいからと、
小梅おばあちゃんにみっちり仕込まれたんですから。

さて林真理子が”ちりとてちん”を褒めたのは、
喜代美の箸の持つ手の美しさに共感したから・・・ではもちろんありません。
褒めちぎっていたという文章を読んだわけではありませんが、
エッセイをパラパラめくっておおよそ察せられるのは、
喜代美と自分自身をかなりの部分で重ねて見ていただろうこと。
そしてその描き方に納得と共感を覚え、ドラマの作りにも作家的な評価を与えたのだろう。・・
そんなところじゃないかと思うのですが、
それも道理で、脚本の藤本有紀さん自身、B子(喜代美)は自分の分身として
いつか描きたかったキャラクターだというんだから、共鳴するところが大きかったんでしょう。

林真理子、藤本有紀の両氏がB子体質の女子だったと見なした上で、
B子(喜代美)のキャラクターを浮き彫りにするのに重要なのが、A子(清海)の存在です。

 A子・・・可愛くて、頭が良くて、スポーツ万能のお金持ちの娘
     小さいときからチヤホヤされて、自分から他人の気持ちを気遣うことに慣れていない。
     兄の恋愛感情にも気づかない、人の心理に疎く、鈍感。いまで言えばKY
 B子・・・A子とは正反対の境遇のせいか、相手の気持ちをうかがいながら、
     状況に媚へつらい迎合する。
     そんな自分が大嫌いで、そんな自分をなんとか変えなきゃいけないと思っている。
     しかし人の気持ちをうかがうというのは、観察力を磨くこととも言えて、
     その観察力がマイナスの方に過剰に発揮されて、おかしな妄想になり
     反対にプラスの方に過剰に発揮されると、正平や順子の訳知りになる。

ブス体質の女の子の、コソコソした観察力先を読む能力を育て、
たとえマイナスに働くとはいえ、まぎれもない想像力に違いなく、
その可能性に気づいたのはやはり草若師匠だった。

若狭が”最近落語が受けなくなった”と悩んでいるとき、
草若師匠が創作落語をやれと強引にすすめたのは、
自意識過剰ともいえる若狭のネガティブな妄想も、
裏を返せば創造的(プリエイティブ)な想像力になり得るもので、
しかもそれが笑いをとることで女性落語家として、食べてゆく手立てにもなる。
草若師匠はそんな若狭の資質を見抜いたからこそ、強引に命じたわけです。

およそ物書きになろうなどというタイプの人間は、
過剰な自意識に悩み、ネガティブな妄想に苦しんだりするものでしょうが、
しかしその能力を制御し、創造的に働かせることができれば、
人が作り出せない嘘=妄想=虚構=物語を創り出せる。
A子タイプの人間には絶対真似のできない能力で、
B子タイプの人間の宝なんですね。
大事にせんとね。


映画『しゃべれどもしゃべれども』 

2008-10-14 | ちりとてちん

「ちりとてちん」で落語に興味を持ち、
さらにお父ちゃん役の松重豊さんが出演しているとあって、
落語を舞台にした映画『しゃべれどもしゃべれども』をチェックした人、
大勢いるんじゃないでしょうか。
舞台が浅草、昔落語を聞きに行ったことなど思い出して、
懐かしさがこみあげてくるような映像でした。

登場人物はこうです。

十河五月・・・感受性が強すぎるんでしょう。
人の言葉を、表面だけ取り繕ったウソ・偽り・不誠実と思い込むようになってしまった。
心にヨロイをまとったように人と素直に対応できない。
喜怒哀楽の感情表現がうまくでず、誤解されやすいことに、
”このままじゃいけない、なんとかしなきゃ”と切実に悩んでいる。
ところでこの”このままじゃいけない、なんとかしなきゃ”って、
ちりとてちんのヒロイン、喜代美のセリフと同じです。
そして落語に出会う。

湯河原・・・野球解説者
野球技術には自信があって、ゲームを見る目は鋭いのだが、
それを解説者として上手く伝えることができない。
思っていることを、ストレートにズバっと言っては、
公共電波のお約束に反することは知っていても、
”フリ”の出来るほど器用じゃないから、どうしても口ごもる。
そうなるとラジオを聞いてる側は消したくなるほど不愉快に感じる。

村林優・・・大阪から東京の学校に移ってきた小学生
口の達者な、どこにでも馴染めそうな子どもなのに、
タイガースファンということで、イジメに会っている。
見かけによらず繊細らしく、イジメじゃない戦いだと言い張るところが、
なんともいじらしい。

今昔亭三つ葉・・・二つ目の噺家
自分の意見を上手く伝えることができない、新しい環境に適応できない人間が
”これではいけない”なんとかしようと、話し方を習おうというのだが、
その先生というのが、今昔亭三つ葉という二つ目の落語家。
ところがこの三つ葉もまた、客に耳を傾けさせ、笑いをとれるだけの技量がまだない。
いわば客とのコミュニケーションがとれず、芸の壁にぶち当たっている。

このコミュニケーションを取れずに悩む4人を巡って話が進むわけですが、
この映画で重要なのが、三つ葉の師匠・今昔亭小三文を演じる伊東四朗
志ン生さんを彷彿とさせるような「火焔太鼓」はもう、
並みの噺家が裸足で逃げ出すような、唸るような上手さなんです。
同じ噺を演じても、下手な噺家では全然笑えないのが、
名人の噺は同じところで何度でも笑える。
伊東四朗の落語はまさにその域に達していて、
何が違うって、要するに芸の力の差。
(その点、映画俳優の草若師匠は比較しちゃ可哀想)

五月が小三文師匠の話し方講座を聞きにいって、
「口先だけでしゃべっているだけだ」といって途中で帰るのは、
五月が芸の高さを見る目がない証だったってことです。

話し方、すなわち人とのコミュニケーションというのは、
芸事と同じように、まづは基本的な技術の上で成り立つものです。
しかも自分の技術(=芸)を人に伝え、耳を傾け理解してもらうまでには、
長い年期がかかります。
技術(=芸)の未熟な者が”しゃべれどもしゃべれども”
自分の思いが人に伝わらなくて思い悩む。
でもしゃべり続けるしか上達の道はない。

人とのコミュニケーションの基本は、なにより話し方のはずなのに、
今、口の利きかたもロクにできない子どもが増えている。
作者は3人の生徒に、そのゆがみを象徴させたいのかもしれない。
そして人とコミュニケーションを上手く取れるようになるには、
芸事と同じように、根気よく稽古を続けるしかない。
私はそんな風に見ました。


プロになる 

2008-08-26 | ちりとてちん

「ちりとてちん」を通しで見るのは、ひとまず卒業したものの、
気になるエピソードを「拾い見」するつもりで見はじめると、
つい一週間分見ないと収まらない、なんてことになる。
好きな落語で、いつものところでいつものように笑うように、
「ちりとてちん」でも、いつものところでいつものように笑って泣いている。

それほど好きなドラマだが、その中でひとり、どうにもイライラが募る人がいる。
喜代美の父にして、糸子さんの旦那。
3代目の跡を継いで、塗り箸職人の名人をめざす、正典さんである。

家族を食わしてやれるだけの技のない正典さんを、社員として雇い入れてくれて、
9年間に渡って技術を伝授してくれた秀臣さんに対する尊大な態度。
その後もなにくれとなく心配して、業務提携まで提案してくれる秀臣さんの
塗り箸製作を取り巻く状況認識が理解できず、
はてはやりくりに苦しむ糸子さんの気持ちに思い至るこももできず、
職人のプライド(見栄)に固執する頑迷さ。
「自分ひとりで大人になった気でいる」といって叱る親のセリフを思い出す。

周りが見えないという点で、喜代美(若狭)の夫になる草々と相似形をなして、
この正典さんも身体がバカデカイが単細胞の「恐竜頭」なんである。
思い込んだら一直線の単純さ、鈍感さを純粋といえばいえなくもないが、
「おかしな人間がぁ、一生懸命生きとる姿は、オモロイ」と、
おおらかな気持ちで見れないのは、かつての自分と重なるからだろう。
この頑固な正典さんも、最終的には成長して、立派な職人さんになるのだが・・・

この正典さんをめぐるエピソードが、
「プロとは何か、アマチュアとはどこが違うのか」を考えるヒントを与えてくれた。

人間生きていく上で、なにをおいても必要なのは”食べる”ことだ。
食べなければ飢えて死ぬ。
食べるために仕事をする。
”おれはこの仕事で食っている”
この自覚・覚悟ができたときがプロとして第一歩を踏み出したときだ。
おれはこの仕事で食っている、食っていくのだという覚悟があるから、
技を磨いて人に認められたいと思い、そうやって
”おれはこの仕事に食わしてもらっている”ことに気付いてゆく。
それに気付けば、少々気に食わない仕事も引き受けるし、人に頭を下げもする。
職人のプライド(見栄)にばかり固執している正典さんは、
その時点ではまだまだホンモノのプロではないといっていい。

アマチュアがプロより技術が上という事は、アートの分野ではよくあることだが、
違うのは「食っていく」という覚悟だろう。
このステップにあがるかどうかが、プロとアマの分かれ目になる。
食うことに思いわずらわずに済むアマチュアは、
技術だけが価値基準になって、技術・技法のマネだけは上手くなるが、
オリジナリティーを追求しようというケースは多くない。
そのくせ自惚れだけは異常に強くて、自分の作品にベラボウな値段をつけたりできるのも、
アマチュアあがりの作家に特徴的なパターンで、あんぐりさせられるものだ。
自分を評価するのは自分しかいないから、
安心して自己満足の世界に浸っていられるというわけだ。
もちろん食うことにわずらわされず、おおらかに、自由に作り続けて
歴史に残る作品をつくった、偉大なアマチュアもいっぱいいる。

正典さんも、秀臣さんと小梅さんの和解に立ち会ったのをキッカケに、
技の上達だけで、自分の仕事が成り立つわけではないことに気付く。
周りの人の物質的精神的支え、作品を評価しそれを宣伝してくれるひと、
そういった環境があればこそ自分も仕事が出来るのだと気付く。
”おれはこの仕事で食っている”という、ともすれば自己完結的な覚悟が
”この仕事に食わせてもらっている”という謙虚さ自覚したとき、
正典さんはホンモノのプロになった。

人は食わなければ飢えて死ぬ。
しかし食うための仕事がこき使われるだけの Labor では虚しいだけだ。
自分の仕事を、創造的な Work に変えられるかどうか・・・


願いましては「浅にぃ×四草」では・・ 

2008-08-18 | ちりとてちん

”私は戦後のどさくさにまぎれて台頭したブルジョアの家に生まれた。
 ・・・ところがほどなく、わが家は盛者必衰のことわりどおりに没落し、
 父母は失踪、一家は離散という憂き目に遭った。
 ・・・いずれ有名中学から高校へと進み、東大卒業とともに、
 華々しく文壇デビューするはずであった・・・私の予定が狂い、
 有名中学へ入ったとたん、ドロドロの不良少年に変貌し、
 すさまじい勢いでドロップアウトしてしまったのである。

これは、私も大好きな売れっ子小説家(直木賞作家)の文章ですが、
誰のものかわかりますか?
わからない?・・・ではもうひとつ

”(皆さんは、オレは犯罪になんぞ絶対に関わらない、と思っているでしょうが)
 しかし、それは違います。
 私がなぜ、そう断言できるかというと、かって何度も逮捕勾留され、
 裁判にかけられてきた私の経験から申しまして、
 留置場に放り込まれる罪人の過半は、
 ごく普通のサラリーマンや商店主や学生であるからなのです。
 ・・・・私はこの先、みなさんに鮮やかな詐欺の手口とか、簡単な人の殺し方だとか、
 強盗、麻薬、誘拐などの凶悪犯罪のノウハウを講義するわけですが、
 これらはひとえに、こうした犯罪に善良な皆さんが巻き込まれないようにという
 社会的見地からあえて公開するわけであります。

以上は『初等ヤクザの犯罪学教室』『極道放浪記”殺(と)られてたまるか!』
から引用したもので、著者は浅田次郎
BookOffで見つけたときは、一瞬”ウソッ!”と思いましたが、
カバーの似顔絵は、まぎれもない、あの柔和な浅田次郎の笑顔。

あの浅田次郎が、一歩間違えば塀の内側に落ちるか、命さえ落としかねない
アブナイ稼業を渡り歩いてきて、馴染みになったサツを”だんまりの浅”と手こずらせ、
ブタ箱の中では”浅兄(にぃ)”で通ってたっていうんだから、
「にわかには信じがたい」でしょう。

この本の中味はというと、これが滅法おもしろい。
舞い上がった成金から金を巻き上げ、ホスト志願のアホな輩の金を掠め取り、
ヤクザの大親分相手に、ハッタリをかましてトンズラし、
抗争に巻き込まれて女と命からがら逃げまどったり、
一方で一流のプロの盗人の職人芸に畏敬の念深くし、
聞き取った芸談を巧みにさばいて盛り付けて見せる。
いっけんコワモテの兄さん達の、精一杯の虚勢がひっくり返ったときの、
ドジでマヌケなズッコケ振りなど、
浅田流のサービス精神満載だから、面白くないわけがない。

そんなエピソードを作り替えれば、面白い落語が出来るじゃないかって、
読みながら何度も思いました。
そして、これをアレンジし高座にかけられるのは四草しか思いつきません。
『まいご3兄弟』での生い立ちを語った、あの調子で作ってくれればいいんだから。

”もう人を信じるのはやめよう。
 ボクは平兵衛のような男になりたい。
 卑劣な算段をして、それでも悪びれずに、
 さわやかに生きていこう。”

草若師匠の『算段の平兵衛』を聞いて、落語家になると決めた四草なればこそ、
現代版『算段の平兵衛』を創れるはずだし、
インテリとアホを両方演じ分けられるのは四草をおいて見当たりません。
それにしても、草若師匠の『算段の平兵衛』に出会わなかったら、
インテリヤクザになったでしょうね、四草。

上方落語『算段の平兵衛』
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug195.htm