Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.20

2013-09-30 | 小説








 
      
                            






                     




    )  誰が袖  Tagasode


  ニューヨークの公園で一度リス(栗鼠)を見かけたことがある。
  リスだとは分かるが、しかしよく観察してもアメリカシマリスとニホンリスの違いが見出せなかった。
  リスには、樹上性リス(滑空する種も含む)と地上に住むジリスの、異なる2タイプがある。シマリス類は、樹上生リスとジリスの中間的な存在であり、主に地上で暮らすが、木登りも巧みである。また、愛玩動物として飼育されている種も、環境適応力が高い事などを理由にシマリス属が多い。それゆえ近年、飼育環境から逃げ出したアメリカシマリスによる日本国内の生態系の乱れが懸念されている。
  矛盾に満ちた時代のきしみが小動物の世界にも現れているようだ。
「 残念ながら、私にはニューヨーク市街の奥に蠢(うご)く底意地のようなものは、わからない。おそらくはアメリカの坩堝(るつぼ)の中にひそむ森のようなものが私の意識の奥底で掴めていないからだろう。私には古事記や日本書記や万葉集が示した日本人らしき意識の意味は分かっても、アメリカ合衆国という多民族がクロスした意識はかんじんのところが掴めない・・・・・ 」
  幽・キホーテは、同じく太平洋戦争(日本では大東亜戦争)をおこしたアメリカと日本でありながら、その体験における決定的な差異というものを感じてきた。二国の本心もきっとそうであるはずだ。アメリカや日本がきっと沖縄を理解するには、この差異にまで深入りすることが要請されるにちがいない。比江島修治が久高島の闇に落ちた彗星を憂うということは、そういうことなのであった。




  二人を乗せた早朝のバスは三条駅方面へと向かった。
  万葉といえば、桜ではあるが、愛しきその最たるものは、冬のサクラである。
  虎哉にはそう想われる。
「 桜木が最初に兆す花芽の、貧しくとも命弾けるその産声を聞くと、来る春を知り冬の過酷さを怨んだりはしない・・・・・ 」
  散る花は怨みがましくさせる。
  美しくなくとも愛しい花に巡り逢いたいと思う。
  奈良坂を越えるにあたって雨田虎哉はそう願いたいのだ。
「 たぐひなき花をし枝に咲かすれば桜に並ぶ木ぞなかりける 」
  と、西行は詠んで、素直に桜を筆頭にあげた。
  百花繚乱あるなかに「なかりける」とは、桜もひどく惚れられたものだ。奈良に生まれた雨田虎哉も桜への傾倒は断然であった。80を過ぎた今もなお、佐保川の桜木が眼に焼き付いている。
「 だが・・・・・、未だ桜と無理心中とまではいかない・・・・・ 」
「 散る花を惜しむ心やとどまりて 又来む春の誰になるべき 」
  と、さらに西行は詠むが、しかし虎哉の桜は、冬枯れて立つ葉のなき一樹が最も好ましく思われた。
  一つ、二つ、三つとしだいに満ちる花芽つく趣にこそ、やがて豊かな満開に人が近づける夢がある。



「 西行は、咲き初めてから花が散り、ついに葉桜にいたって若葉で覆われるまで、ほとんどどんな姿の桜も詠んでいるのだが、そのなかで私がどんな歌の花に心を動かされるかというと、これは毎年決まっていた・・・・・ 」
  それは花を想って花から離れられずにいるのに、花のほうは今年も容赦なく去っていくという消息を詠んだ歌こそが、やはり極上の西行なのだ。奈良に生まれたからそう思うのか。虎哉はいつも、そういう歌に名状しがたい感情を揺さぶられ、突き上げられ、そこにのみ行方知らずの消息をおぼえてきた。
「 私の、その行方なき消息は、決まって花芽なき冬の桜木から始まるのだ。毎年、一雨、また二雨が来て、あゝもう花冷えか、もう落花狼藉なのかと思っていると、なんだか急に落ち着けない気分になってくる・・・・・ 」
  それは、寂しいというほどではなく、何か虎哉に「 欠けるもの 」が感じられて、とたんに所在がなくなるのである。
  どうして貧しいのか。何が欠けたのか。そしてそういう欠けた気分になると、決まって西行の歌を思い出すのであった。西行は人の辿りつくあこがれをみごとに描いてくれた。奈良の山は、西行がみると仏の山となる。
「 梢うつ雨にしをれて散る花の 惜しき心を何にたとへむ 」
  と、バスが一乗寺へと向かうと、あちこちの葉のない桜木が北風のなかで明るく悄然としていた。
  静かに花芽だけを萌やそうとして懸命に凍える風の枝にしがみついている。その姿が次々に車窓の向こうを走るようになってくると、虎哉は、あゝ、今年もまた奈良の桜も、こゝから始まるのだなと思う。すると虎哉の眼には鮮やかに泛かんでくるものがあった。
「 あゝ、在所の山に佐保の桜がみえる。そしてあの、人形の姿が・・・・・ 」
  それは、香織であるかさねの姿に似ているからだけではない。やはり何か欠けたものを感じる虎哉にとって、雨の日の自動車が、あのようにアスファルトに散った桜の花びらを轢きしめていくのが何んともいえぬ「哀切」であるように、遠い日を引き戻すそれは忘れ難き人形であった。そうして香織と同じ年齢の白い手に抱かれた人形であったことを覚え重ねて泛かべるほどに、悲しみが深く静かに噴き上げてきた。



「 話しても、かめしまへんやろか・・・・・ 」
  そういう香織は、青白くある虎哉の頬が気になり、やはりバスの揺れは障るのか、思いなしか虎哉が急にやつれたようにみえる。だから静かに覗くように声をかけた。
  無言のまゝ虎哉が振り向くと、口はしの笑窪をみせた顔がある。
  屈託のない香織の顔を見せられると、さらに心残りの面影に弾みがついて、ふと香織の笑みに過ぎるかの一筋の翳かげをみ覚えた。そしてしだいにその翳は虎哉の裡にじんわりと沁みてくる。すると雨田家に嫁ぐ日の、今は亡き妻香代の花嫁姿がその翳のうしろに重なり合うように立っていた。
  そのようにしてバスが百万遍の交差点にさしかかると、さらにその翳は色濃くなってくる。
  百万遍から銀閣寺までは香代と一度だけ歩いた道なのだ。
  二人して歩いた道は、虎哉の中にその記憶しかない。虎哉は香織の背後でかげろうその翳の揺らぎに、亡き香代が影となって還って来ていることを覚さとった。
「 何やな・・・・・だんだんに青うなりはッて、老先生、脚ィ痛いんやないか・・・・・ 」
  やはりどうしても顔色が気がかりになる。そんな香織は、不安気に虎哉をみてそっと訊いてみた。
  しかし虎哉はじっと妻香代の翳と寄り添っていた。
  京の市井には、新婦が男児の人形を抱いて嫁入りするという慣習があった。それは嫁(か)しては男児を儲けて一家の繁栄をはかるという女の心得を訓ずるものである。家同士が定めた縁組により、お互いは一度も会ったことのない婚儀が当時の常であった。
  虎哉の場合も例外ではない。香代は祖父秦野(はたの)正衛門が見込んだ婿を、素直に一途に信じて嫁にきた。婚儀の席で初めてみた白無垢の香代はまだ17歳、初々しくも婚礼の膝に固く市松人形を抱きしめていた。

                                 

「 そんな香代が雨田家に嫁いだことを実感したのは、ようやく嫡男光太郎を授かり、その産後の枕元に置かれた市松人形(いちまつさん)をみつめて嬉しそうに笑みたときであろう・・・・・ 」
  しかし、それから香代が享うけた歳月はわずか五年でしかなかった。その香代は京都の知恩院の近くに生まれた。秦野家は式台の玄関、使者の間、内玄関、供待などの部屋がある武家屋敷の構えの家だった。
  お手玉やおはじきが好きな少女は、行儀見習いの二人の女中さんから「 ことうさん 」と呼ばれ、ことうさんとは「 小嬢さん、末のお嬢さんのことで大阪では(こいさん) 」というが、そこで何の苦労も心配もなく育ったようだ。京都でも有名な美しい四姉妹であったらしい。そうした小譲(ことうさん)の婚礼がさすがである。
  色振袖が錆朱(さびしゅ)の地に松竹梅模様、帯が黒に金銀の市松、黒留袖は「誰が袖大和百選」の中の沢瀉(おもだか)文様、黒振袖は土田麦僊(つちだばくせん)の扇面散しに光琳松の帯をつけた。婚礼調度はすべて京都の「初瀬川」で揃えたというのだから、いまでは考えられない「姫の豪勢」ぶりであった。虎哉がそんな香代の生い立ちを想えば、木の葉がそよぐように雅な京の暮らしが静かに始まっていくのである。
  しごく短い結婚生活のため、香代の死は虎哉にとってどうしても夭折なのだ。
  想えば想うほど若い面影に不憫さが倍増し、どうにも嫁ぐ前の京都での人生が長い香代の姿を追えば、香代から聞いた少女時代の彼女への興味ばかりが長くなる。



  その理由は、おそらく虎哉が香代のことを日記にして長女君子へ綴り遺そうと考えたのが20世紀の最後の年末だというためだろう。
  虎哉がそうしようとしたのは、20世紀を不満をもって終えようとしていたことが一つにはある。とくに日本の20世紀について、誰もが負を帳消しにする気を取り崩し、何にも正体の本質を議論しないで取り澄まそうとしていることに、虎哉はひどく疑問をもっていた。
「 我々こそ、真の(戦中戦後)にいたのではないか。もはや戦後は終わったのだと語られるが、しかし日本の敗戦の体質は負の赤児を抱いたまゝ一向に終わろうとしない。そうであっては、到底、今日の社会人に成り済ませない当事者の面々も多かろう・・・・・ 」
  省みることもなく突かれ続ける除夜の鐘を聞きながら虎哉は、そんな怒りのようなものがこみあげていたのだ。
  そのとき、桜が人の心を乱すものとは世の常のこと、いまさら言うべきこともないはずなのに、ちょっと待て、いま何かを感じたのでちょっと待て、と言いたくなるのは虎哉にとってじつに可笑しなことであった。




  東山三条で乗り継いだバスの席に香織と虎哉の二人はいた。
「 三条駅からやしたら、近鉄の特急やと奈良まで40分たらずで行けることやし、老先生、一体どこに行かはるつもりなんやろか。ほんに、けったいやなぁ~・・・・・ 」
  無口のまま何かに憑かれたような虎哉の気配に、香織はふと「 お父ちゃん・・・・・ 」と呼びそうになる自身がいることにハッとした。笛にこり、笛に呆(ほう)けた父増二郎の不可解な気随さが、いまこの老人の肩越しを這っているようであったからだ。
  香織の頭の中では、でっぷり肥ったその増二郎の赤ら顔がくるりと一回転して、思いもよらぬほど大写しになっていた。しかし虎哉があの父と同じであるのなら、詮(せん)ないと思う。増二郎は呆れるほど頑固者だった。これは「 なるようにしかならへんのだ 」と、そう香織はわが心にそっといゝきかせることにした。
  バスの車窓から祇園界隈をながめみることなど、香織には初めての感触である。
  表の路線から花街の路地奥はみえないのだが、それでも香織には思い出深く刻まれた裏町の華やぎであった。そもそも祇園とは、インドのさる長者が釈迦のためにつくった寺「 祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」からきている、と置屋の女将佳都子からそう教えられた。香織は虎哉の別荘に住み込むようになる二年前、二年間この界隈で暮らしている。その祇園四条から南の京都は香織には久しぶりにみる街並みであった。しかし四条から南はやゝ恐ろしい。
  東山の終わりの裾野は南へと長くゆるやかに流れていた。
  そうした八坂や祇園などは全く眼中にない虎哉は、半ば無意識で、メモ用紙に書きつけた「 ひなぶり 」という古びた筆文字を見つめながら、養母お琴が遺した言葉を温かく反芻(はんすう)したり、鞄から何やら海外の雑誌を引き出しては読んでいた。
  香織は「 こんなン、ほかっとこ 」と思った。
  東山七条の智積院(ちしゃくいん)を過ぎたあたりで虎哉は「 少し早目にきすぎたのではないか 」と腕時計をみた。つられて香織も携帯電話の液晶をみたのだが、まだ八時過ぎであった。
「 花は、哀しくて惜しむのではなく、惜しむことが哀しむことである。しかし何をたよりに惜しむべきか・・・・・ 」
  と、そう反芻してつぶやくと虎哉は唐突に席を立った。
「 あれ・・・・・、次で、降りはるつもりなんやわ・・・・・! 」
  香織が慌てゝそれに従って連れ立つと、祖父と孫娘にも映る二人は泉涌寺(せんにゅうじ)道でバスを降りた。
  鳥辺野(とりべの)の南、泉涌寺への道はしずかで長いゆるやかな坂である。
  虎哉は少し足を止め参道をながめながら遠い眼をした。



「 かさね・・・・・、300メートルほどこの坂を上ると総門がある。入ると左手が即成院(そくじょういん)というお寺さんだ。その本堂に二十五体の菩薩座像があるのだ・・・・・が 」
  と、そこまでいゝかけると虎哉は、プツンと言葉の尻を切った。
  坂をのぼりつめて総門、その先に大門、さらに奥の泉湧寺仏殿までの約1キロの間にある光景を、眼に積み重ねながら想い泛かべるだけで、すでに虎哉には遠く息切れる思いがした。自身で歩いたというより、幾度となく歩かされたこの坂道である。
  いつもこの坂を想いながら見えるものは、何者かに毀(こわ)された後の荒寥(こうりょう)とした風景でしかなかった。あるいは瞞着(まんちゃく)されたような奇妙な脅(おび)えに身震いするほどの光景であった。そんな憧憬を曳き遺しているために、却(かえ)って泉涌寺に出向くことはどうにも気が重く、虎哉はこの界隈にしばらく足を遠ざけていた。
  やはり幾度こゝに来ても虎哉は、ゆるやかなこの坂の、この世の一角に異様なものゝ出現をみせられて立ちすくむ思いがする。そうして今日もまたこゝには、どこからともなく匂ってくる暗い懐かしさを思い起こさせる特別の香気が沸き立つようであったのだ。
  どうしても虎哉の心の裡に流れる体臭とその香気とが混ざり合うのである。
  下りながら仏殿までの間を詰めねばならぬ不可思議さがこの寺にはある。手を引かれながら「 虎、足音さしたらあかん。音立てたらあかんえ~ 」という声を繰り返し聞かされた。
  大門からその仏殿までは下り坂なのだ。そう言われると恐る恐る玉砂利を踏むことになる。ゆるやかな下り坂だが、幼い足は、とほうもなく長い時間に涙眼をして歩いた。
  そんな虎哉が、この長いゆるやかな坂道を、母の手に引かれて初めて歩いたのは、大正という年号が昭和へと移り変わるころであった。こうした記憶に残された肌触りを現在まで具体的に噛砕いて考えたこともなかったが、やはり下り坂であることが不思議だ。
  本殿までを下る寺院というものが珍しい。虎哉の記憶では他に例がない。なるほど記憶の影が歪むのは一つには坂の勾配にあるのかも知れない。今やその母影も眼にはおぼろげである。虎哉がまだ六、七歳のつたない記憶のまゝでしかない。だが、たゞそこから香り出るものは鼻孔の奥に籠るようにある。そうした母の匂いは82歳になろうとも確かで、それは母がいつも着物にに焚きしめていた追風用意(おいかぜようい)の香気なのだ。
「 人気のない山里にもかゝわらず明治生まれの母菊乃という人は焚きこめた香りを優雅にまとっては風に漂わせている女だった 」
  香織がいま首もとに架けている更紗(さらさ)の匂い袋は、昨夜君子が手渡してくれたものだ。それはそもそも虎哉が君子の成人式の折に祖母菊乃の遺品として譲るために身にまとわせた「 誰袖(たがそで)」である。
                                     
「 やはり、九月がいゝ。今日はやめておこう。なぁ~・・・・・かさね・・・・・ 」
  虎哉はそうポツリというと、香織が首にかける誰が袖をじっとみつめた。
  西行の花は「 花みれば そのいはれとはなけれども 心のうちぞ苦しかりける 」と、いうものになっていったのだが、そもそも西行にとっての桜は、この歌の裡(うち)にある。桜を見るだけで「 べつだん理由いはれなどはっきりしているわけではないのに、なんだか心の中が苦しくなってくる 」と、そう詠んだ歌である。その「 いはれなき切実 」こそが、西行の花の奥にはある。
  そうであるからまた虎哉にとっても「 惜しむ 」とは、この「 いはれなき切実 」を唐突に思いつくことである。虎哉はいま、それが亡き母の匂い袋の花に結びつく。さらに遠い日の月に結びつく。奈良で過ごした花鳥風月と体験した一切の切実とがこゝに作動するのだった。
  そのなかで亡き光太郎と、亡き妻と、亡き母の三つの花こそは、あまりにも陽気で、あまりにも短命で、あまりにも唐突な、それこそが人知を見捨てる「 いはれなき切実 」なのだ。
  しかしそう感じることは、何が「うつゝ」で何を「夢」との境界かを、消えて失うことを覚悟することでもあった。参道をみつめる虎哉は、香織に投げかける次の言葉を失くしていた。
「 えッ、やめはるのか。そしたら何や、それだけのために、老先生、こゝで降りはったんか 」
  虎哉が何かをいゝかけたまゝ、プツリと途中で、妙な間を残し口をつぐむので、寒空に重い鞄を両腕にさげていたせいもあるが、あきれた香織は皮肉たっぷりにいった。
  昨夜遅く書斎の窓を開けた虎哉は、さきほど想ったのと同じように、満州の荒野に咲いていた罌粟(けし)の赤い世界を思い出しては眼に訝しく、そう感じて窓を閉めた後、東京の自宅から持ってきていた聞香炉(もんこうろ)の入る木箱をそっと開けてみた。
  白磁の筒型をしたその炉を取り出して机の上に置くと、背筋を伸ばし、あごを引き、体の力を軽く抜いて一呼吸整えた。そうして心を落ち着かせ終えると、一炷聞(いっちゅうもん)の作法で香をしずかに聞いた。まず鼻から深く吸い込み、顔をやゝ右にそらして息を吐く。その繰り返し七息の後、手にする聞香炉を心静かに見改めるように回してはみつめた。その聞香炉も亡き母菊乃が生前使用していた、室町期から雨田家に伝わる遺品であった。
  すでにその菊乃とは鬼籍の人であるが、まだ虎哉の中では、過去になどなってはいない。
  混沌として、滓(かす)のようなものが残されていた。香を焚かずともそこに母がいる。どうしようもなく、はかなくたって驚かない。はかないのは当たり前なのだ。西行もそういうふうに見定めていた。そこでは夢と浮世は境をなくし、花と雨とは境を越えている。この歌をぜひ憶えるとよい、と諭してくれたのが亡き菊乃なのであった。
「 世の中を・夢と見る見る・はかなくも・なほ驚かぬ・わが心かな 」
  よろしいですか、という母の声が悉皆と耳奥に潜むごとくある。
「 細い口でピタリと撃ち終える、それは、それは、手厳しい声であった・・・・・ 」
  そうしてまたその母は、ついでながら、さらに「西行学」を持ち出していえば、とくに「わが心かな」で結ぶ歌は、西行の最も西行らしい覚悟を映し出している歌なのであると継ぎ足してくれた。その母の眼の前に座る虎哉はいつも幼子ではなかった。
「 かさね・・・・・そうじゃない。今日、かさねを、尼あまさんにさせる気には、なれないのだ・・・・・ 」
  しばらくぼんやりとしていた虎哉は、ハッとして我に返り、そう小声で香織に応え返した。
  一瞬、我が母の強さにたじろいだ。その揺らぎが言葉を引き出した。
「 えッ、うちが尼、やて・・・・・! 」
  いきなり辻褄の合わぬ薄情な話ではないか。
  咄嗟にその声を呑みこんだ香織は、頭の中が透明になった。しばし唖然として固く立ちすくみつゝ香織は「 うち、頭ァ、剃るんや 」と思い強いられると、何やら黒髪の総毛が根元から硬直するようであった。




  不意に意外な釘を頭からカツンと撃たれた香織は、焦点をどこにも合わせられない放心でもしそうな誰のものとも思えぬ眼を、丸くも細くもさせられずに、たゞツッ立ったまゝポカリと口をあけていた。それまで香織は「 老先生の脚ィ、痛うて歩けへんさかいに、うちが支えなあかんのやから 」と、一心にそう思っていた。
  ここ二、三日、急に底冷えするような寒波が襲っていたのだ。
  香織は、こんな急激な気候の変化はきっと虎哉の体に障るのだと、先日、出町柳の主治医のところに立ち寄って、虎哉の脚気(かっけ)には白米による精米されて不足したビタミンB1を補完するなど、温かいしゞみ汁などのなるべく精のつくものを食べさせて、できるだけ安静にして虎哉の気力を養えばいゝことを丁寧に聞いてきた。
  また昨夜は寒い夜になりそうで、そうだからと虎哉の書斎に予備の炬燵(こたつ)まで納屋奥から引き出してきては、痺れや痛みが増さぬよう備えたりもしていた。さらに昨夜はいつもよい少し早目の午後九時には香炉を用意して、虎哉のまだ寝る前の寝室にそっと忍びこみ、虎哉が爽やかな寝ざめをみせるよう君子と二人計らって、百檀や丁字など焚かなくても香る香料を厳選したし、その香気が虎哉の患部を清め、寝室を浄化し邪気を払ってくれることゝ、憂鬱な気分を爽快にさせる作用があるのだからと、虎哉にそのことを意識させぬよう、そっとベッドの下に香炉を忍ばせたりもしたのだ。
「 来月は少しだけ連休もろて、祇園の花江姉さんとパ~ッと城崎きのさきにでも遠出したろ思て、約束してたんやないか。もうそれも、わややわ。なしてうち・・・・・尼やねん。そないなこと、前もっていうてもろたかて、うち承知でけへんことや。罰あたりなこと、何もしてへん・・・・・。毎日、しんどうても、ほんにお務めしとるつもりやし・・・・・ 」
  もう、とりとめのない香織は、わなわなとふるえる手を、そう思ってはかろうじて握りしめた。
  そのまゝ眼を伏せた香織は、こんな場合、やり場のない感情をどう表わせばいゝのかを、五郎や置屋の女将佳都子の顔を泛かべてはためらっていた。
「 老先生ッ、もう高齢や。80歳も過ぎたといえば、だいたいの男はんは、自分の限界がどんよりのしかかっている時期であるさかいに、いまさらきれいごとですませるものなんてないということも、あんた分かっとらなあかんえ。せやけど男はんの美学というものは、存外にどんな時期でもはずせないもんや。そこで美学と辻褄とがソリを競いあうもんなんや。するとなッ、最後ォにひっこんでもらうほうは辻褄のほうで、男はんいうたら美学ひっこめはらんもんなんや。香織にもそんな理不尽なとき、きっとある思う。せやけどな、短気だしたらあかん。老いた口ィは、そう思ても叩き返したらあかん。それかて養生や・・・・・ 」
  以前、置屋の佳都子がそんな話を聞かしてくれたことがある。いま噛みしめてみると、なんとなく理解できそうにもあるが、やはり心の始末におぼつかない香織であった。
「 せやけど。尼寺で・・・・・成人式やなんて。やっぱ、うち嫌や 」
  香織は君子から貰った胸の誰が袖をキュと握りしめた。そこにはサザンカの一枚もある。
  ときとして虎哉の言葉づかいは地口や冗句に富んでいて、若い香織を翻弄させることがある。それが、ちよっとした自意識過剰であることは虎哉自身も分かっている。長女の君子にもずいぶん嫌な顔をされてきた。それは、どこか偽善的な意識であり、しかし自分を「 まともには見せたくない 」という、そんな矛盾もを交錯させる偽悪的でもあるのだからそうとうにひねくれているのだが、それでいてつねに影響力を計算しつゞけているような、どこか悲しい自意識なのである。そうした妙な自意識を牽引したと自身でも思われる泉涌寺という寺院は、虎哉の青春の「 傷のつくりかた 」を決定づけるほど衝撃的な世界であった。
  自分でもそう思う虎哉がふと気づくと、ふいに不安を呷(あお)られた香織はしょんぼりとしている。虎哉はうつむく香織のその顔色を感じながらおもむろに笑みを泛かべて首を振った。
「 案外かさねも、阿呆やなぁ~・・・。実際だれが、かさねを尼にさせる。そんなことあるか。いや何、尼になろうとする女性の心情を推しはかることも大切だと思ってな。この寺は古くから、そういう女が通い合う道なのだ・・・・・ 」
  虎哉はそう言いながら改めて腕時計をみた。
  駒丸扇太郎と落ち会う約束の時間にはまだ少し間があった。泉涌寺の、この界隈はやはり秋がいゝ。こゝらはまだ京都の田舎といった淡い光が残っている。しかし、みな枯れたものゝ間にあって、この冬を越そうとしてしがみつくように残る常緑樹が黒ずんだ葉の色をさせて寒さに耐えて立っているのは、かえって生身の血が通うものゝ本性をみるようで、これが泉涌寺には好ましい本来の季節ではないかという気にもなる。虎哉は少し遠い眼をした。









                                      

                        
       



 奈良・佐保川の桜








ジャスト・ロード・ワン  No.19

2013-09-29 | 小説








 
      
                            






                     




    )  高野川  Takanogawa



  久高島(くだかじま)の闇にふとコメットが流れた。青白いテイルがみえた。
「 日本の支配者は彗星( comet)が接近しただけで変わることがあった。執権北条貞時もそうして引退したではないか・・・・・ 」
  これなどは天人相関、地上に悪政があると、天上が詮議して彗星や流星や客星(新星)の出現をもたらすというものだ。
  例えば、日本に元(モンゴル)が攻めてきた。蒙古襲来(元と高麗の連合軍)は文永弘安の2度だけではない。サハリン・琉球・江華島などの日本近域をふくめると、1264年から1360年までの約100年のあいだ、蒙古襲来は繰り返しおこっている。こうした襲来は、為政者や神社仏閣のあいだでは「 地上と天上の相関 」によって解釈されたのだ。
「 そうだとすれば、北米の同時多発テロという地上の出来事に対しては、天上の出来事が対応すべきであるということになる。世界各地の地上で天上を扱っているともいうべき屋代(日本は神社)に祀られている神々は、同時テロに対し何事を詮議したのであろうか。地上には神の加護を旗印に闘おうとする国民がいる、聖戦という人間がいる。あれを「神の戦争」と解釈する、そのことが異常だった・・・・ 」
  そのために阿部明子は篠笛を吹いた。そう思われる幽・キホーテが斎場御嶽にいた。
「 すでに君達は、昨年、カタルシスが踊る現場を目撃したではないか・・・・・ 」
  というモロー教授の言葉は、必然に沸き上がってきた闘争の解を平和のための能力システムに変換するというものだ。つまり事象を最も適切にアブダクションすることを生かすよう学生らに指南した。おそらくモロー教授は人間の生体を本質に解き、確実性を求めて不確実性を相手にしていないからであろう。そうすると戦争とは、傲慢の成果にすぎなくなる。
  モロー教授にとって、意識とは「意識が向かうところ」で、弥勒とは「その先」だった。平和を真剣に願う未来派たちは「用心のその先、人智のその先」に、より周到に注意を向けるべきなのだ。
「 これを日本では、智外に非のあらんことを、定心に用心すべし、という・・・・・・ 」
  そう思って幽・キホーテはまた雨田博士と清原香織の二人に眼差した。




  

  梅の木の下に、幾輪かの水仙の花が仄々とある。
  純白のそれが静かに上の紅梅の蕾つぼみを押し上げていた。
  初めゆく朝の陽に射され花は透かされている。香織は、しだいに冴えいくその可憐な水仙の白さを眼でじっと追っていた。すると花に捕えられた眼は白く縛られている。
「 花は何のために咲くのか!。手折(たお)る花を人は看取れるのか! 」
  虎哉もまた香織と同じように水仙の白さに眼を止めている。
  白は顕色(しろ)くさせた。
  若い香織と老人とではやはり感想が違う。白さとは、それを白だと認めると、老人の眼には自身の汚れが浮き彫りとなる。虎哉はしだいに透かされていく花鏡の白さに、それまで蓋(ふた)をしてきた問題が次々と噴出しては、ギシギシと軋(きし)み始めるような予感がした。
「 現代は(もっと快適な自由を!)という理想の追求がいつのまにか功利目的の追求にすり替わり、誰もが己の自由のテリトリーの保全に及々として独善的・排他的になり、しかもその個の自由を可能にするために犠牲になっている多くが不可視になっている・・・・・ 」
  水仙の白さは、そんな人間社会の不自由さを映し出しているように思えた。
  白を看取れない近視者の不自由が描かれていた。



「 どうやら人は花の潔白の前に勝てない存在でしかない。九月十一日以降のアメリカ社会だけではなく、それは日本のどんな家族であれ鏡となって映し出している・・・・・ 」
  これは当然、虎哉のモノでもある。たゞ水仙は白く自然体で、見事に社会のこれを鏡面の上に熨(のせ)てみせつけた。
「 それでも現代の人間は、自分が主役の自由な世界をせっせと拡張すべく、高度情報社会という画面の上を滑らせるのに忙しい眼先には潰すだけの暇すらないのであるから、日本の一集落にすぎない山端に咲く花の描く色模様など見てなどいられない。そうした自由にゆさぶられながら先進国は麻痺し縛れたごとく偏向のまゝ器(うつわ)だけを膨張させ続けている・・・・・ 」
  白さにそう畏(おそ)れると、水仙はそれをもはや陋屋(ろうおく)の暗さに等しい不自由な世界として透かし彫りにし、小さくても漱(すす)ぐ力は薄情であることを虎哉に見せつけていた。
  バス停の脇にさりげなく咲くその水仙は、別荘で働くようになった二年前に、車椅子生活の君子に見せてあげたい清原香織が北山の芹生(せりょう)から移植したものである。
  そして一株ごと等間隔でバス停から道脇に植えられた白を目印に辿れば、別荘に着く。
  晴天の日の午後に香織は度々このバス停まで君子の車椅子に付き添い、帰りの上り坂を押した。
  そもそもこの花の白さは、比叡山西方院の鬼掛石の付近に野生する一株の水仙から竹原五郎が株別れさせて、北山の芹生で香織に育てさせていたものであった。水仙には黄色い花もあるが、それが白であることに竹原五郎の深い思い入れがあったようだ。
  御所谷の五郎の暮らしぶりと密接である香織は、五郎がそうする心情を亡き父から知らされている。虎哉もまたそんな香織から、この水仙は何やら八瀬の地と深く関わる曰(いわ)くの花なのだという話を薄っすらとだが聞かされていた。
「 この花、神秘・・・・・、という言葉なんや 」
  という、花言葉の話を君子から教えられたという五郎の笑顔を香織は思い出していた。
  そうして指先で花びらに触れてみるとその花言葉は、植物の花や実などに与えられた、象徴的な意味をもつ言葉である。日本には、明治初期に、西洋文明とともに主にイギリスの花言葉が持ち込まれた。
「 花やかて言葉を持っている。それを知るとなッ、たしかにその花の言葉は、花の語る密言なんやわ。やはりそうやと、わいは思う。するとな、人は白状せなあかんのや・・・・・ 」
  そんな話を君子が聞かしてくれたのだと言って、そう香織に語る五郎はいかにも嬉しそうであった。



「 せやけど、悲しい花やなぁ~・・・・・。神さまァ、泣きはったんやわ・・・・・ 」
  ギリシャの青年ナルキッソスは、その美しい容姿から乙女達の心をとりこにした。しかし彼は決して自分から人を愛することはしなかった。ニンフ・エコーは働けなくなるほど彼を愛したが、彼は相変わらず冷たい態度で接し通した。これを見て怒った復讐の女神ネメシスは「 人を愛せない者は自分自身を愛するがいゝ 」と呪いをかけたのである。ナルキッソスは水面に映った自分自身に恋をし、食事も出来ずに痩せ細り、白いスイセンになったのだという。五郎はそんな青年の死に同情した。
  けれども香織には、仕打ちしなければならない女神の心情が悲しいのだ。つまりナルキッソスは、その美しさと高慢がゆえ、復讐の女神ネメシスにより、水鏡に映った自分自身に恋させられた。水面の中の像は、ナルキッソスの想いに応えるわけもなく、彼は憔悴(しょうすい)して死ぬ。これは呪いとは何かを問いかけている。
「 五郎はんは女神を怒らせると祟(たた)る、だから怖いのだと言いはった 」
  そして、その体は水辺であたかも自分の姿を覗き込むかの様に咲くスイセンに変わったという。このギリシャ神話の伝承からスイセンのことを欧米ではナルシスと呼び、スイセンの花言葉「うぬぼれ」「自己愛」が生まれたのだ。さらにこの神話がナルシスト(ナルシシズム)という語の語源ともなった。
  比叡山の下、その山端に育つと死とは空気のように常に身近にある。そう育った香織は素直に戒めだと思えた。
「 学名はNarcissusというのよ。原産は地中海沿岸なのだけども古い時代に日本に渡来し野生化したの。スイセンという名は、中国での呼び名「水仙」を音読みしたものよ。水辺で咲くスイセンの姿を、仙人に喩えたと言われているわ。仙人は、中国の道教において、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を指すの。それは不滅の真理である道(タオ)を体現した人とされるわ。だから花言葉は(神秘)とも言われているのよ 」と。 五郎と同じように、車椅子を押す香織もそんな話を君子からしだいに詳しく聞かされた。耳奥のその声を引き出すと密かなのだ。すると耳も眼も白くなる。

    


「 これは、密言の花や・・・・・ 」
  五郎は以前からスイセンの花をそう呼んでいた。仙人は基本的に不老不死だが、自分の死後、死体を尸解(しかい)して肉体を消滅させ仙人になるという方法があり、これを尸解仙(しかいせん)というのだと語っていた。
「 小生の聞き覚えでは、これは道家(道教)の術である。一般にその仙人といえば、白髯を生やした老人というイメージがあるのだが、韓湘子かんしょうしなど若々しい容貌で語られる者や、中国では西土母、麻姑仙人(仙女)などの女性の仙人の存在も多く伝えられている。尸解の仙術を心得ると、人は肉体を残して魂魄(こんぱく)だけ抜け出た超人となる。最澄(さいちょう)は平安時代の僧で、日本の天台宗の開祖であるが、入唐求法(にっとうぐほう)の還学生(かんがくしょう・短期留学生)に選ばれて天台山に登り天台密教学を日本に持ち帰った。これが日本の天台宗の開宗となる。その天台宗の年分度者は比叡山において大乗戒を受けて菩薩僧となり、十二年間山中で修行することを義務づける。そうした天台千日回峰行僧の修行の姿が、仙人と同じなのだ・・・・・ 」
  と、主人阿部秋一郎は語っていた。
  おそらく比叡山に親しい五郎は、水仙をその阿闍梨(あじゃり)が尸解した白さだと考えている。

                                 



「 千賀子はん、どないしてはるかなぁ~ 」
  そういゝながら香織は、先ほど会った五郎を泛かべ、すっかり朝の明けた鞍馬山の方をぼんやりとみた。
  そして奈良から帰ったら一度芹生の丘の水仙に逢いに行きたいと思った。
「 千賀子さん、て、あの芹生のか・・・・・ 」
  ふと何か、発見の素直な歓びに満ちている風景が泛かんできた。
「 そうや。今でもまだ、あの牛飼の少年のこと、じっと待ってはるんやろか・・・・・ 」
  香織がそういう千賀子とは、今から二年前、虎哉が香織に連れられて初めて芹生の里を訪れたときに出逢った女性である。それは水仙の花がまだ蕾の固い初冬のころで、北山へと分け入って、香織が育てる水仙の丘を確かめた日のことであった。
  しかしその丘を見るのとは別に、そこには灰屋川の上流になる清らかな流れを、そして北山杉の育つ原風景を、虎哉が今一度眼に焼きつけておきたいという願いもあった。その光景が泛かぶと、また、かって北山杉が聴かせてくれた朝の聲(こえ)を覚えた。



「 あゝ、あの千賀子さんだったら、きっと待っているだろうね。どうやら彼女はそんなお人のようだ・・・。魂魄眼(こんぱくがん)というが、気を集める眼とは、あゝいう人の瞳をいうのだろう・・・・・ 」
  魂(こん)は陽に属して天に帰し(魂銷)、魄(はく)は陰に属して地に帰すと考えられている。
  あの日、香織と虎哉は貴船(きぶね)の奥の芹生峠を越えて杉林の中をしばらく行き、一つの木橋を渡る途中で牛の鼻先に籠(かご)をかぶせて牛をひく少年と行き違った。
  その牛の背には鳩籠を積んでいた。香織と同じように水仙の白さを見つめる虎哉は、その少年と牛のどうにも長閑(のどか)だった光景を重ねながら、少年を見送る千賀子の姿、その眼が湛える清らな精留(まどろみ)を思い出していた。そしてその千賀子は香織のことを雉(きじ)の子と呼んいた。
                                       
  そもそも竹原五郎が芹生の里で比叡山の水仙を株分けし保存しようとした背景は、阿部家の山守屋敷を管理していた千賀子と深く関わっていた。そして二人は陰陽(おんみょう)で交わっている。千賀子は阿部富造の妹なのだ。
「 宇治ィ行かはったら、一度見ておくれやすか 」
  と、千賀子はいった。そこに株分けした水仙がすでに植えられているという。そして日を改めた穏やかな冬の小春日に香織の案内で宇治の恵心院を訪ねてみた。虎哉はその恵心院での一日を思い出していた。
  恵心院は、宇治川のほとりにある。
  恵心院は年間を通じてさまざまな花が見られる、まさに植物園のようなお寺であった。京阪宇治駅から恵心院に向かうには、まず「さわらびの道」と名付けられた通園茶屋の脇を橋寺の山門前を通り宇治川に沿って続く道を進む。途中、左へ向かう「さわらびの道」との分岐があるが、そこをさらに宇治川に沿って進むと、宇治神社の鳥居を過ぎたところに、恵心院へ向かう緩い坂道の参道がある。
  この参道の両脇に千賀子と五郎が移植した水仙の花が咲いていた。
  さらに参道を上って行き、突き当たりを右に折れると正面に恵心院の山門が見えるが、このあたりでも水仙が咲いていた。その水仙に潮の香りを感じる陰陽の花が虎哉には不思議だった。
「 百万遍(ひゃくまんべん)、回向(えこう)しはる水仙の白い花、そんな気持ちで植えさせてもろてますんや・・・・・ 」
  と、千賀子は頬笑みながら語ってくれた。それはじつに初々しい口元であった。
  恵心院は弘仁十三年(822年)に弘法大師空海が開基した龍泉寺を源とする。真言宗智山派に属する古刹で、戦火による荒廃の後、寛弘二年(1005年)に比叡山の恵心僧都(えしんそうず・源信)が再興したと伝えられ、恵心院という名はこの再興の僧都にちなむものである。
「 後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ 」
  と、虎哉は久しく思うこともなかったこの古い歌を思い返していた。
  虎哉の眼には、今日、奈良へと向かう道がある。歌はその奈良の道へと通じていた。さらにこの歌は母が偲ばれ故郷を省みたくなるような歌なのであった。これは源信に宛てた母の歌である。源信は奈良の当麻に生まれ、虎哉もまた奈良に生まれた。その虎哉は、母よりこの歌がどのような意味合いを持つのかを、手習いとして幼心に覚えさせられた。それはまことに苦い記憶には違いないが、今となれば母恋に温かくある歌でもあった。
  大和国北葛城郡当麻に生まれた源信は幼名を千菊丸という。父は卜部正親、母は清原氏、天暦二年(948年)7歳のときに父と死別した。信仰心の篤い母の影響により9歳で、比叡山中興の祖である慈慧大師良源(りょうげん・元三大師)に入門し、止観業、遮那業を学ぶことになった。14歳で得度し、その翌年には15歳で『称讃浄土経』を講じ村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれた。
  そして、天皇より下賜された褒美の品(織物など)を故郷で暮らす母に送ったのである。
  しかしその母は源信を諌める和歌を添えてその品物を送り返した。以後、源信はその諫言に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選んだ。紫式部の源氏物語に登場する横川の僧都とは、この源信をモデルにしたとも伝わる。



  いずれにしろ千賀子のいう「 回向しはる水仙の花 」とは、畏れる人が、この世にめぐり遺したい清浄の花であった。
「 せやけどバス、えらい遅いなぁ~・・・・・。電車だと早うに行けたんやわ。きっともう伏見ィ過ぎたころや・・・・・ 」
  苛々とした口調で香織は投げやるようにいった。
「 いゝかい、かさね。人生とは、待ちわびることだ。あこがれて希望を待ちわびるのが佳き人生の旅をする極意なのだ。自分で計る風なんか、たかが知れている。何かや、誰かに、計られた配剤の風にこそ、大きく享(うけ)るものがあるからね。人が人として長い人生を生きる間には、時として、動こうとしない時間も人間には必要だ。何もかもが人間の思い通りにゆくはずもない。だから、たゞひたすらと待ちわびる。ときには他界の摂理にでも身を委ねる時間というものを心がけることが大切になる。あの芹生の、牛を引いていた少年のようにな 」
  と、苛立つ香織をなだめながら虎哉の眼には芹生で出逢った千賀子の姿が映されていた。
  それは凛と背筋を立て、穏やかな眼差しを感じさせながらも何かを深く見つめた鳶色(とびいろ)の眼の女性であった。少年は牛を曳きながら奈良の長谷寺まで行くのだという。まさしく平安の観音信仰を彷彿とさせる。そう聞かされて虎哉は眼を丸くした。

                          

「 あれは、たしかに隠国(こもりく)・・・・・。そして鳩の名は、栗駒・・・・・か 」
  そう香織にいゝ聞かせながら虎彦は、めくり忘れて少し気がかりなことだが、昨年のさゝいな過失、日めくりの暦(こよみ)を思い出すと新春を迎えた今、どうにも幸福を求めようとする自分が苦手なのである。
  馬齢のせいか、眼に見えて「残り日」が減ることがじつに面白くなかった。人生というものが80歳も過ぎると、消えていく時が見えにくいのがいゝのだ。年末に日めくりを千切ろうとしたとき、どうにも心まで吹き飛ばされるようであった。 だからあえて暦をめくり忘れることにした。しかしそうした確信的な自らもが、虎哉はまた苦手なのであった。めくる手数分だけ死の影を近く感じさせる日めくり暦は、そのときもう架けるのは止めようと思った。余命を思えば、実際すでに一、二枚の余白しかない。
「 ふ~ん・・・。・・、たゞ待ちわびること、えらい面倒な話やなぁ~ 」
  面倒な話を聞く途中で耳を塞ぎたいのも若さである。
  香織はやゝ目先につられ先走りする質たちの娘で、そんなときにいつも耳朶(みみたぶ)を指先でなぞり始める癖がある。その様子をながめながら虎哉は、香織がまた悩み始めていると思うと、そこに「 いずれの時か夢のうちにあらざる、いずれの人か骸骨にあらざるべし 」という一休宗純をふつと覚え、もう若くもないのに胸が躍る自分がいることが、夢でもあり骸骨でもありそうな揺れ間に立つようで、その隙間が自身でも何だか可笑(おか)しかった。
  昔は、「仕事始めの日」というのは、新年の挨拶、顔合わせをするだけで、得意先を回り、屠蘇(とそ)を飲んで、午後には三々五々帰宅していたものだ。子連れの母さん社員が会社に来ていたりしていた。現代ではそんな風景は皆無、まず見られない。
  松の内の正月六日までは、ドタバタしないものであったが、現在では、もう今日から定時出社定時退社ともなれば、サラリーマンは風情の余裕もなく大変である。全く世知辛く、日本独特の長閑でのんびりした正月が消えている。はっきり言って、過日を佳日として体験した老人にはつまらない時代なのだ。現代の人間は時間と経済とにコントロールされ浮遊するごとく生きている。こういうことが寒々と身に沁みてくると、やはり若者にはしつこい辛口となる。老いの舌は甘言を捏(こね)る余力などない。
「 儂(わし)のように老けてくると、時計が止まる時間が、どれほど嬉しいものであるかがよく解るようになる。死期が近づく手前で時計が針を止めて欲しいのだ。もしそうであれば本当に嬉しいと日々思うのだよ。しかしそうなればなったで、もう新しい明日などは永遠に訪れない。そうであってもピリオドだけは自らの意識で打ち終わりたい。最期だけはこの手で打ち遺したいものだ。これは、かさねには、まだ解らないと思う。だがね、若いかさねには、若いから耕して欲しいと思う時間がたくさんある。だから今の時間をしっかりと享け止めて見つめて欲しい。その時間とはね、真剣に待ちわびることでしか享け止めることはできないよ。だから、自分から進んで時間を止めては駄目なのだ。止めるのと享け止めるのでは大違いだからね。解るかい・・・・・かさね・・・・・ 」



「 へえ~・・・・・そうなんや。せやかて、うち馬鹿やし、盆暗(ぼんくら)やして、老先生のいゝはること、むずかしいて、うち、よう解らへん・・・・・ 」
  そゝくさと虎哉から視線を逸らした香織は、くるりと元に向き直るとうつむいた。
  さすがに主人の説法じみた難解な口どりには疲れるのか、霜柱を踏みつぶしながら妙に寂寞(せきばく)とした小さな背中をみせた。しかし、それをまたのんびりとみる虎哉の眼には、そうする香織の姿が、何やら冬ごもりのような、やわらかい絵になっていた。香織はむっつりとはしたものゝ「 君子はん、今ごろ、どないしてはるやろかなぁ~ 」と、ふとそのことを虎哉に訊こうとして、しかしそれをやめた。
「 えゝか、あの家やしたら、ほんに香織も幸せに暮らせるさかい、一にも二にもまず辛抱(しんぼう)やで。身を肥やす勉強や思たら辛うはあらへん。もし、辛い思ても、もう帰る家かてあらへん、そない思いや。何事も、味能(あんじょう)して、務め通さなあかへんえ 」
  このとき香織は、雨田家に最初に連れられて伺う折々に、置屋(おきや)の女将佳都子と竹原五郎とが同じようにいって聴かせた二人の言葉を思い返した。
「 たゞ、待っていれば、それでえゝんやな! 」
  佳都子と五郎の顔を泛かべ、香織は小さくしょんぼりといった。
「 いや、そうじゃない。違う。(えゝんやな)という、その言葉使いは少し不味(まずい)ね。(よろしィんやな)と言う方が、より上品だし適切だろうね 」
「 へえ~・・・。待てば、よろしィんやな 」
「 あゝ、そうだ。それでいゝ・・・。だが、バスが来てくれることに感謝する気持ちが込められていないと意味がない。バスがいつも来ることを、当たり前だと思っていたら、その気持ちがすでに駄目ということだ。かさねがいつも使う言葉で(来はる)(来てくれはる)の、あの(はる)の心遣いが大切なんだね。それは、京都で生まれ育った、かさねなら、簡単なことじゃないか。何もそう身構えて考えることもなかろう。生まれたまゝに、すでに身に染みているのだからね。ごく自然に振る舞えばいゝ。バスは来るのではなく、いつも(来てくれはる)のだからね・・・・・ 」
  こういゝ終えた虎哉は、吐く息の白さも白いとは感じとれぬ杉木立の陰の薄暗さの中で、今も使われているとは信じがたい、そんな古めいた臭気がふと鼻を衝ついた。
「 香織が盆暗というのなら、私もまた何とぼんくらなことか・・・・・! 」
  それは昔、六燭光の小さな電球が、六畳の部屋を薄気味悪く照らしていた光景である。
  その中央に、凋(しぼ)んだように小さく、5歳の長男、光太郎の遺体が左向きに寝かされていた。
  死後十日も放置され、壁に向かされたその横伏せの顔面は、被弾で潰された亡骸なきがらの青く涸れた顔をして、その首から下は消毒液が濡れて乾かぬほど、散布されていたのであった。
  ふとよみがえるように感じた臭気とは、虎哉の両腕で固く抱きしめた後に、鼻先に遺された消毒臭に混ざった息子の死臭なのだ。
  腐ったわが子の死体を嗅がねばならぬ親の痛恨の苦しみなど、あの戦禍の時代に、誰一人として省みて真意の涙など流してくれる者はなかった。誉れや奉公のために人は涙した。軍人の家の子として生まれたという小さな英霊の扱いとして狂気な同情を背負って我子は成敗された。西は宮城の方角であった。虎哉は、その亡骸を背負って5キロほどの夜道を宮城とは逆の隅田川の方へふらふらと歩いた。それは5歳児にして国を背負う亡霊の重みだ。その光太郎がまだ3歳であったころのことだ。虎哉は香織に今語ったのと同じ言葉で、幼い光太郎と会話したことを思い出した。
「 お父さん、バス遅いね。来るのかなぁ~・・・・・ 」
「 光太郎、来るのではないよ。バスは待っていると向こうの方から来てくれるものですよ 」
  そんな光太郎がバスを大好きであったように、いや、亡くした息子が好きであったからこそ、そうなってしまったのかもしれないのだが、虎哉は電車とかいうより何よりもバスに乗ることが好きであった。バスを待つ息子の眼はたゞキラキラとしていた。
「 なして、そないバスがよろしやすのか?・・・・・ 」
  と、以前、香織がそう問いかけたことがある。今朝もそう問われた。
  そのバスが間もなくやって来てくれるであろう。虎哉が待つバスは、いつも亡くした光太郎を乗せてやって来てくれるのであった。そう思いたい虎哉は、そうした思いが果たして香織の場合、回答になるのかどうかさえ分からないが、ともかく応え返してみようと思った。亡国や亡霊を見過ぎた老人には御伽噺(おとぎばなし)が山のようにある。
「 私は、近年になって、生活に金をかけ始めたような、そんな生々しい富貴(ふうき)さが、まずもって嫌なのだろうね。戦中、戦後、荒れ果てゝいた家の中は、それでも、古い天井の下の採光の十分でない暗い家の中に幸せというものが漲(みなぎ)っていた。それにね、今は街や道は明るく、たしかに便利ではあるが、もう昼と夜の区別すらなくなっている。これも富貴な人工照明のせいで、未明などという言葉も現在では使い辛いほど、この世からは暗闇というものがなくなってしまった。やはり生きる人間には、陽と闇の按配(あんばい)がこの上なく大切なものでね・・・・・ 」
  と、語ればまたどうしてもそんな面倒な返し方になる。きっと鼻の上に皺(しわ)をよせて、光太郎の亡き影を過ぎらせ一気に捲くし立てることだろう。そうする未練がましい自分がいることを虎哉は自覚できていた。すると聞かされた者の耳にまた同じ闇が訪れる。だから今更、香織にそんな応え方は止めようと思った。バスの、あの人臭さの中に身を沈めていると、バスを好んだ長男光太郎を偲べることは無論、多くの学生達が当時好んで使った言葉で言えば、何かに参加しているという好ましい実感が、乗合バスの中にはある。社会鍋や道普請(みちぶしん)にも進んで参加し、虎哉の若いころは、何より貧しいながらも生活道具を大切にし、使いこむ、磨きこむなどの工夫する痕跡に拘(こだ)わることで得ることの、尊さや美意識めいた価値観というものが存在したし、評価されたりもした。
  そんな生活の模様が、当時よくバスの中には溢れていた。そんな風に懐かしくバスを想う虎哉は、靴の搖曳(ようえい)がおもしろいのだ。靴をながめていると些細なことにまで感動することがある。バスの中の靴は正直なのであった。しかも雄弁だ。



  汚れても人目など憚(はばか)らぬ靴、新調だが埃をかぶり光らない靴、何年も磨きこんだ丹精の靴、いずれもが人それなりの味わいをもつものだ。しかも心が萎(なえ)て衰えそうになるとき、虎哉が一番欲するのは、群衆に紛れて、たゞ一人になることである。戎(えびす)の軍靴を見過ぎたからだ。そのためには真新しいバスでは駄目なのだ。古びてぼこぼこになった錆だらけの長い缶詰のような、鼻高のバスの中に、身をかがめていることが何よりも安らぎを与えた。しかし現代、そんな戦中戦後の最中を走るようなバスはない。それでは免罪の切符ではない。
  だからせめて今日は、わずか5歳で戦火に炙(あぶ)られて夭折した光太郎の遺骨の多すぎる余生を抱くようにして、不便を承知して何度かバスや電車を乗り継ぎしながら、手枷足枷(てかせあしかせ)を切符にして、人肌臭い車輌で奈良までを揺られてみたいのだ。そう思うと、八瀬遊園の方からバス影が近づくのが見えた。
  二人の待っていたバスが洛中の方へと遠ざかってしまうと、蓮華寺(れんげじ)の辺りにもう人影はない。高野川沿いに点在する人里は、低く冷たい北風の中にまだ眠っていた。
  その蓮華寺は天台宗の寺院である。山号を帰命山(きみょうざん)とする。
  竹原五郎が君子に会ってから後に立ち寄ると言っていたが、創建当時の山門が今日も残されている。
  五郎は時折こゝに顔を出しては境内の植栽などを手入れしていた。虎哉も度々訪れて五郎の仕上げを四季折々に愛でてはいるが、蓮華寺というやわらかな響きより、むしろ虎哉には帰命山という山号こそに山端に存在する意義が感じられた。そうして虎哉はバスの車窓に何を見るのでもなく京都の寺々を尋ね回っては個々の佇まいを眼に写し残そうとした折々の日のあったことを想い起こしている。
「 そうした風情というものが、虎哉のレジリエンスには貴重な基軸となることが小生にもよく理解できる。いくら現代の先端技術を投入したインフラ整備を施したとしても、それはレジリエンスに相反する方法で、一たび破壊された伝統集落はその方法では戻らない。虎哉の考えるレジリエンスには地域の固体性と多様性が不可欠なのだ・・・・・ 」
十年前に雨田虎哉が八瀬に別荘を建てた当時から猫六は、他所者が何故この地にと思ったものであったが、彼の眼差しを拝察し続けてみるとそこらの理由が理解できるようになった。
「 例えば虎哉は、複数の樹木層からなる混成森林を山端地域に育て、その中心を動植物保護区としたモデル地を創出させ、コミュニティー、経済システム、生物多様性、生態系を取り戻すレジリエンスを構築したいのだ。そこには地域の固体性は重要で、つながりとしての寺院の存在に多様性を見出そうとしている・・・・・ 」
  そうした虎哉のレジリエンス視点に丸彦が驚くことは、彼が環境保護とは多様な生き物全体を捉える必要があると考えていることだ。その多様な生き物の一つに人間という動物も他と同格扱いで位置づけていることである。そこが丸彦には面白いし、また感動もある。
「 何よりも虎哉には、祈りの場としての京都への畏敬いけいがある。こうした意識を下敷きにして虎哉が仰ぎみる延暦寺とは、寺名よりやはり比叡山なのである・・・・・ 」
  そしてそのお山は、やはり生きていた。さらにその生霊(いきりょう)は虎哉の眼で明らかに蠢(うごめ)いている。遠くからみている限りの比叡山は、王城鎮護の山とされた聖なる山上の天台界という印象は薄い。だが冬山だけはあきらかに違う。
  四明ヶ嶽の刻々と様相を変える雪景色は、神か仏の手がなしとげた天台宗ゆかりの霊山である中国の天台山を抽象させる白い鬼門の奇蹟なのだ。ともかくも山端に暮らす人々はそう感じ、そう信じて雪の四明ヶ嶽をしずかに畏れあおぐのである。いつもその「お山」が山端の暮らしを「見てはる」のだと感じるのだ。
  虎哉はそんな比叡山を、蓮華寺の境内からながめてきた。
  その移ろう四季の彩りの中で、山端集落の暮らしにも洛中とは違う営みがある。それは山を眺めみる人と、山中に居る人との違いである。そうした山端も暮らしてみると、一口では割り切れぬ多様な暮らしぶりであることに驚きもし感嘆もした。
  蓮華寺は鴨川源流のひとつの高野川のほとり、かつての鯖街道の京都口のかたわら、上高野(かみたかの)の地にある。しかし、もとは七条塩小路(現在の京都駅付近)にあった西来院という時宗寺院であり、応仁の乱に際して焼失したものを江戸時代初期の寛文二年(1662年)に、加賀前田藩の家臣、今枝近義が再建した。このように京都の寺院は、永い風雪のなかで変化してみせる。そして寺院と密接にある人々の営みもまた変化した。
「 山に暮らしてはいるが、しかし潮の匂いをさせる竹原五郎もまたその一人であった。どうやら五郎という男は、阿部家と共に加賀前田藩と深く関わっている。そう感じられる・・・・・ 」
  五郎という男を視ていると、虎哉には、永らく山林に関わった無数の日本の庶民の姿がごく自然に想起されてくるのだ。
「 老先生、ほら見ィや、高野川や。じきに真っ白うなるんやわ。もう寒うてカワセミもおらへん。死ぬ前ぇに、よう見とかなあかんえ~。五郎はんよく言ってはったわ。死んだら何もならんの人間だけやて。牛や豚は死んだかて丼(どんぶり)やら焼肉になりよるから人より偉いんやて。せやからお山の法師はんも、それ見習わはって精進しはるそうなんや。せやけど、カワセミは小魚漁(あせ)ってよう殺生しよる。ほやけど、カワセミは焼き鳥にはならへん。高野川のカワセミぃは人より偉いんや言うてはった。あないな殺生なら美しいて仏さん見てゝ喜びはるそうや。死んだらそれもう見れへんようになる・・・・・ 」

                      

  そんな香織のつぶやきは、反対の車窓をみている耳にも届いたのであろう。虎哉はコホンと一つ咳払いをした。
  わずかに眼をなごめて「死ぬ前ぇに」の言葉の妙な揺らぎに、ポカンと口もとが崩れ、奔放な娘に微笑したようであった。
  気随な虎哉の横に訝しくチョコンとかたく座る香織は、遠のく生まれ在所あたりの冬枯れる閑しずかさを、もう見飽きた風景とばかりに軽く感じ寄せ、その眼だけは朗らかに輝いていた。その香織は「 うちは何も頭から反対なんかしとらへん。心配なんは、老先生が死んだお父ちゃんに似てはるさかいや 」と、動かざる能面みたいに反応のない虎彦を按じながらそう思うのだ。
  香織は水の流れが川石に砕けて光るのを見憶えると、下る流れがいつしか笛のような鼓動を打ちはじめ「 笛の上手なお人やった。その笛にあわせて高野川の風が踊らはる」、その父と高野川の光景がキラキラと懐かしくよみがえりくる。そんな香織は口をひきむすんでは「何や知らん、うち変な気持や 」と、つれない虎哉を横眼にながめては、しばらく眼を閉じたまゝにした。
「 こうした何の変哲もない茫洋(ぼうよう)とさせられる日常が、いつまで続いてくれるというのか 」
  虎哉の青春期にはいつも戦争という非日常と接しあう日々の中にあった。そんな虎哉もまた香織と同じ山端の光景を眼に映しているのだが、虎哉は頭の中にポッカリと空洞ができていた。その空洞の中に、遠い遠い、故郷の奈良の、干からびた冬の古い土埃ほこりがひろがっていく。日本の仏(さとり)は、その故国よりはじまる。
  今日、虎哉が越えるのは白河の関ではない。京都と奈良を結ぶ現在の県道と平行する般若寺の道、その奈良坂である。そこより遠くに望む大仏殿の屋根に、来る人は無事の到着を喜び、去る人は別れを惜しむ。
「 奈良坂は、そんな出会いと別れを幾度見てきたのであろうか・・・・・ 」
  と、まず虎哉の眼には般若寺の甍が泛かんでいた。ともかくも虎哉にとって遷都を繰り返して至る奈良から京都の道はワジ(WADI)なのであった。ワジとは水流のない涸かれ川をいう。しかしその水は人の不可視なのであって涸れ川の上は常にfall or flow in a certain wayであり、気功の流れでもあるのではないかと思われる。虎哉はそこに、特定の方法で落ちる、または流れる、という二つの古都を結んではその流れを繰り返す気功の法則があることを感じるようになっていた。

      


  川とは、絶えず水が流れる細長い地形である。雨として落ちたり地下から湧いたりして地表に存在する水は、重力によってより低い場所へとたどって下っていく。それがつながって細い線状になったもの、それが川である。人はその川のほとりにオアシスを見る。遷都とはこのオアシスへの移動なのだ。京都も奈良も涸れ川の泉の、そのオアシスであった。
「 百万遍(ひゃくまんべん)、回向(えこう)しはる水仙の白い花、そんな気持ちで植えさせてもろてますんや・・・・・ 」
  虎哉はまた千賀子の残した言葉が思い起こされた。
「 百万遍念仏(ひゃくまんべんねんぶつ)とは、自身の往生、故人への追善、各種の祈祷を目的として念仏を百万回唱えることである。用いられる数珠を百万遍数珠と呼ぶ。聴きようでは都の川のせせらぎは、数珠を繰る涸れ川の聲(こえ)であろうか・・・・・ 」
  京都洛北に10年ほど暮らしてみて判ることだが、比叡の原生林が杜もりになり、そこに祈りの空間を創りあげていく使命感があり、そうした人間と生態系の調和という発想に、古き良き日本人の先端精神を感じ取ることになる。
  せゝらぐ高野川は念仏の数珠をくる。
  そう思える虎哉にとって、狸谷の阿部家が代々いかなる発想で存亡を賭けて挑んだかを説くことは重要であった。
  車窓からながめみる高野川の流れの中には、そこに重なるようにして虎哉には久しく懐かしい、しかし哀しくもある佐保川の流れが泛かんでいた。その里は万葉の、いにしえの国、大和なのである。









                                      

                        
       



 酒井雄哉 比叡山「断食、断水、不眠、不臥の難行」








ジャスト・ロード・ワン  No.18

2013-09-29 | 小説








 
      
                            






                     




    )  秋子の笛  下  Akikonofue


  キリスト教精神はアメリカやヨーロッパのひとつの精神の原点を暗示するものだが、多数決の外に置かれたもうひとつの精神というのは、キリスト教精神に対するもうひとつの考え方という精神の帰着点なのである。
「 つまりそれは多数決において彼らが忌み嫌うべきものだ。そして彼らにとってくだらぬもの、かつ悪魔的なものだ・・・・・ 」
  中世の欧米のいたるところに登場する悪魔たちは、そもそも滑稽や風刺のウィルスをもたらすためのピエロたちであって、しかもしばしば中世独得の謎々に絡んでいるような寓意に関連した悪戯者(いたずらもの)にすぎなかった。それを本格的な悪魔に仕立てていったのは、やはりキリスト教である。しかし近代以降、排他的本位のそれは多少の滑稽や風刺の哲学では動じなくなった。
「 そこに封じ手があるとすれば、ミスター・モローの哲学美は、やや奇抜だが有効であろう・・・・・ 」
  世界における多くの死者は戦闘によって登場する。その死者はキリスト教の道化者とは限らない。いったん登場するとこの象徴力は死神の風刺性にむすびついて強靭になる。やがて嵐となって現代社会を吹き荒れる。この死者たちは、キリスト教とは別のもうひとつの社会人なのであった。世界にはまだまだ欧米の知らない「隠れた次元としての文化」という原点がある。どうやらモロー教授はそのように言いたがっている。最初はゆっくりとしか動かないが、それこそがアメリカを知り尽くしユダヤ人の結論であったようだ。
「 この世には、このようなユダヤ人もいたのか・・・・・! 」
  阿部秋子がデリケート・アーチから届かせた篠笛の音を背景に、幽・キホーテはモロー教授の講義へ出席することにした。



  にわかに明るくされた、そんな先生の風貌が秋子の眼には、一夜明けた今も懐かしく泛かぶのである。
「 あの、いかめしい八の字髭が、さっぱりと切りおとされていた・・・・・ 」
  しかも、よく気がつけば、まゆ毛も剪(そろ)い美しく整えられていた。こうなると、まったく不思議な人物というほかはない。飄ひょうと、薄らとぼけられて多少の距(へだた)りをもつ、いつもとは違うそんなモロー先生の形相に、たゞ秋子はぽかんと口をあけて見守っていた。
  一堂がざわめいたとき先生は、背筋を伸ばし、青々とした口元をいくぶん下げ、じっと学生達に眼を注いで、身動き一つ、されなかった。すると、モロー先生はかねて定めてあったかのように、まずポトリと語り落とされた。
「 In the talk, there is order, and are a machine. 」
  話というものには、順序があり、間や機というものがある。
  とこういって、影と化した八の字髭のあたりを、いかにも意味ありげに指でなぞり終えると、くしゅんと鼻をこすりあげた。ということは、その本旨はどこにあるにせよ、受講生に何か未知への憧れを充たしてくれそうな感じを抱かせた。
  こうしてテーマ「 A subject MIROKU 」と名づけられたモロー先生の特別講義がはじめられたのである。
  この講義の後日、秋子には講義らしい講義を受けたという満足感があった。もちろん講義らしい講義というとき、それがどのような内容を指すかは人によって違いがあるはずだ。こゝで秋子が講義らしい講義というとき、素朴に「 次はどのように展開するのだろう 」という興味で秋子を先へ先へと引っ張っていってくれるもの、という意味がこめられている。



  モロー先生から授かる「 A subject MIROKU 」には、アリストテレスの哲学的ミステリー「 Aristotelian philosophy mystery 」と宗教哲学的ラブロマンス「 Philosophy of religion love romance 」の要素がないまぜになっていた。
  哲学ミステリーとしての「 その事件はどう展開していったのか 」と、宗教哲学ラブロマンスとしての「 その恋愛はどんな結末を迎えたのか 」という二つの哲学サスペンスが、受講生である秋子を強い力で引っ張っていってくれた。
「 人間がいかに自らの自由により自らの生き方を決断してゆくか 」
  ということを先生は語られたのだ。
「 アリストテレスの夜は、カタルシスを踊らせる舞台なのである 」
  と、そのプロローグにて、モロー先生はまず咳払いを一つなされた後、鳶色(とびいろ)の瞳をすこし輝かして、深遠玄妙に言葉をつむがれた。それはすでに受講生にはおなじみの口ぶりだ。こうして受講生を唖然と曳きつける、斬新な前置きの言葉を述べられて、じっと一堂を見渡されてから、達した孔明のような方の趣をみせて静かに語り始められたのである。
  この序章だけでも秋子には何か泛き立つような楽しさがうかがえた。
  秋子はこうしてモロー教授からじつに多くの未発見であった自分自身を鍛えられた。大学への入学には大学で学問を修める適性があるかどうかをチェックするSAT(Scholastic Achievement Test)のスコアが必要である。秋子にはこの大学進学適性試験のリスニングに苦々しい時間を費やして堪(こら)えた苦境への思いがあった。しかしこの講義のときは違った。秋子は何事もなかったように、モロー先生の一言一句が自然と理解されて、これが果たして、神がかりといえるのかどうかわからないが、ノートに和訳でつらつらと書きつゞることができた。はじめての味わいだが、豊かな気分にひたりつゝモロー先生の言葉の一つひとつに耳をかたむけた。
  そして秋子の耳に響くモロー先生の声質はベルカントなのだ。
  秋子にはそう感じ取れた。
  ベルカントはモーツァルトのオペラに最も理想的とされるイタリアの歌唱法。自身でも耳は他より敏感だと自覚する秋子には、モロー先生が響かす声質が、音の美しさ、むらのない柔らかさ、なめらかな節回しに、やはりベルカントのような美しい歌声に聞こえる。




「 When the mechanism of this world is very understood, the doubt also seems to start at daybreak however ..it is likely not to hold.. in the starting existence during a day during a day because of the sunset you. In the etiquette of the evening sun, there was an important working in the height degree in which the reproduction of moonlight was pressed. 」
  一日が、夜明けに始まることに、皆さんは、なんの疑問も抱かないかもしれないが、しかしこの世の仕組みをよくよく理解すると、日没で始まる一日の存在がみえてくる。夕陽の儀礼には、月光の再生を促す最高度に重要な働きがありました。と、ベルカントで歌われた。モロー先生は「 Etiquette of evening sun 」(夕陽の儀礼)と、三度くりかえされてから、受講生をじっとみつめられて「 Pulau Bali 」をご存じですかと訊ねられた。
「 本日はまず諸君らの眼に、バリ島の美しい夕陽を想い映して頂きたい 」
  どうやら夕陽にも儀礼ということがあるらしい。それはモロー先生からの次代の若者へ贈る誠実な申し送りともいえた。



「 私はこの夕陽の儀礼を、バリ島において何度も見たことがある 」
  と、期待した通りベルカントの口調は、これより濃密な取材で、その言動、心理を克明に描写しようとすることをまず告白された。
「 夕陽の名所バドゥン半島、そのインド洋を望む70メートルの断崖絶壁の上に、バリの最高神サンヤン・ウィディを祀った三層のメルが建つウルワトゥ寺院がある。プルメリアの花咲く境内は遊歩道が完備され、伝統舞踊ケチャダンスの会場にもなっている 」
  やはりモロー先生は、まずフォークロア(民俗)から切り取ってこられると秋子は思った。
「 バリの寺院は、全体を壁で囲まれた敷地の中にいくつかの塔や小さな社が建てられ、あちらこちらにチャナンと呼ばれる可愛らしい供え物が置かれていた 」
  これはモロー先生らしい例えでもあろうか。国家は共同幻想だというかわりに、国家は妖怪だというようなものだ。哲学を民衆に説く方便として秋子には解釈された。
「 熱帯雨林と丘陵、火山帯といった地形が島の肥沃な土壌を助け、豊かな作物が収穫できる傍らで、人々は最高神であり唯一神であるサンヤン・ウィディだけでなく神的霊的な諸々の存在に対し、朝な夕なに供えと祈りを捧げた 」
  どうやらモロー先生のバリ島とは、消滅しつつあるフォークロアの一種として重視すべきものであったようだ。それを先生は文学的装飾なしに克明に記録されていた。
「 そうして音楽や舞踊、絵画や彫刻といった美術芸術活動に勤しみ、至宝ともいえるバリ文化を築いたのだ。美しい王宮や大小の寺院を訪ね歩き、エキゾチックな伝統舞踊とガムラン楽器の音色に浸っていると、エンターテイメントに満ちたこの島のすべてが、じつは祭礼と儀礼に基づいたひとつの壮大な舞台となっていることを強く感じずにはいられない 」
  と、おっしゃって、じつはそこに仮象を抱かさせる。自然科学によって一応の真相は解明できるが、しかし、写し取った仮象が除かれた跡にこそ、人は真の真怪(妖怪の真実)に出逢えることを丁寧に説かれた。




「 人類学者のクリフォード・ギアツは、演劇こそがバリ国家の本質であるとし『劇場国家』と呼ばれる国家像を説いた。そして今なお、世界の人類学者達がバリ研究に魅了され続けている。気まゝな旅人でさえも、この島の新たな風景の中へ入り込むその都度、いたく激しく心揺さぶられ、ギアツの説いた『劇場』の幕開きを心待ちにするほどなのだから・・・・・ 」
  これなどは自然世界そのもの、カントでいえば物自体である。まるまる鵜のみにはできない説法であった。秋子は三年間、モロー・ベルカントを聴いてきた。常に先生は宗教的認識を、哲学として、さらにそれを真怪学として語ろうとされる。
「 バリ島には、バリ・ヒンドゥーという特有の信仰がある。そしてバリの祭礼や儀礼には、必ず舞踏が伴う。それらは神々に感謝を捧げる宗教的要素の強い奉納舞に始まり、鑑賞用、娯楽用として発展を遂げたものまで様々だが、バロン・ダンスやサンヒャン・ダリ(憑依舞踏)といったものが盛んになることで、呪術的な儀礼と演劇活動は、バリ全土で活性化した。さらに近年の舞踏芸術は宗教的立場から切り離されて、観光用として整えられ、そのぶん演じる要素もまた増大したと言える 」
  モロー先生とは、日本の柳田国男なのだと秋子はふと思うことがある。その柳田に劣らず世界各地を自らが訪ねては形而上世界を実体験で調査されている。しかも形而下に足の根を着地させて論じられていた。そのモロー先生にとって、地球は大きなモルモットなのである。
「 文化人類学者クリフォード・ギアツは、著書『ヌガラ・19世紀バリの劇場国家』の中で次のように分析する」
「 バリの国家が常に目指したのは演出(スペクタクル)であり儀式であり、バリ文化の執着する社会的不平等と地位の誇りを公に演劇化することであった。バリの国家は、王と君主が興行主、僧侶が監督、農民が脇役と舞台装置係と観客であるような、劇場国家であった 」
「 ギアツは、王や王宮を中心にすべての儀礼を演劇的に行うことが国家の本質であるという。ならばと現代の劇場国家に触れるべく、バリ鑑賞のひとときへ旅立った 」



「 MIROKU SAMA is・・・・・ 」
  と、モロー先生は、幾度となく弥勒(みろく)を引き出しては意図あからさまに「様付け」を試みたのである。
  その「さま」付けにされる異邦人の抑揚は、日本人の秋子には「Summer」としか聴き取れない。弥勒SUMMERなる敬意のあらわれようが斬新で、鶯(うぐいす)の初音のごとく新鮮であった。一瞬、落語かと想わせるそんな異邦人のするトーンの外しようがモロー先生の巧みで思慮深いユーモラスにも感じとれて、みずからの言葉へと曳きつけようと工夫された快い痕跡は、とくに日本人の秋子を一際妙に嬉しくさせた。
  しかしそれは単に日本人だからということだけではない。弥勒と聞かされゝば秋子には何より親しみがある。普段ならば幼い女子の遊び相手は人形なのであろうが、秋子は少し違った。幼くして手に握らされたのが弥勒仏の彫物であったからだ。それを投げたり転がしたりして遊んでいた。そしてその弥勒によく語りかけた。哲学史の講義なら、プラトンから順にカントあたりまで教えれば教授の役割は充分に果たせるのであるが、Amherst College〈米アマースト大学〉のハロルド・モロー教授のそのときの講義は、大切な未来の問題を、みずからの頭で深く考察する機会を学生に与えようとしていた。
  この講義を秋子が受講したのは新世紀を越年した2002年1月、セメスターの明けた雪の降る午後のことであった。
  夜は、カタルシスを踊らせる舞台なのである、と先生が諭(さと)すのであるから、受講生は見る見る夕闇の中へ、しだいに恐る恐る暗い夜の中へ溶けこんでしまっていた。
  ところが講義の中盤にさしかゝると、唐突に鋭く、指先で受講生の頭上をさし示して、問いかけてきた。
「 すでに君達は、昨年、カタルシスが踊る現場を目撃したではないか・・・・・ 」
  と。 モロー先生はそれまで接続してきた哲学めいた話を、こう問いかけることで、講堂内の雰囲気を生々しく、どんとスライドさせようと考えたのであった。この突拍子無い展開に、受講生の大半からどよめきが起きた。こゝから先、学生達は、モロー先生が企てた、川に落ちかなり早い流れに押し流された。




「 September 11. You are to keep memorizing the nightmare in that stone stage through all eternity. 」
「 9月11日。あの石舞台での悪夢を、君たちは永遠に記憶し続けることだろう 」
  一度辺りをじっと見渡し、目を潤ませる先生は「September 11」を強調しこう述べてから、淀みなく悲しさのあふれる語りかけで昨年の9月に起きた同時多発テロの惨状と、目撃者の悲劇と旅客機に乗り合わせていた乗客の恐怖とをさも当事者の体験のごとく描き映して、学生達の目に鮮やかに回想させてみせた。受講生の脳裏にはモロー先生の言葉通りの高層ビルの壁を叩き破るジェット音が叫び声にまざり合い、おめき声や悲鳴さえもありありと聴こえ取れて泛きあがる。それにつられ講堂の中ほどの辺りでは、けたゝましい叫び声が起こった。
「 Ladies and gentlemen, quietness please. 」
「 皆さん、どうぞ静粛に・・・・・ 」
「 The newspaper on the evening of that day is here. 」
「 こゝに当日夕刻の新聞がある 」
  さらに、某新聞を両手に開きかゝげたモロー先生は、その記事を淡々と読みすゝめた。
「 11 American Airlines of going in departure Los Angeles of -200 Boeing 767 Boston (Logan International Airport) (Los Angeles International Airport) flights of American Airlines (-200-Boeing 767 type machine and airframe number N334AA) took 81 passengers and 11 crew, and did the delay departure at 7:54AM. It was hijacked around 8:14AM, and the cockpit seems to have been taken over. The course is suddenly changed for the south at 8:23AM, it rushes into the twin towers north building (110 stories) that is the skyscraper of New York The World Trade Center of Japan at 8:46AM, and the explosion blazes up. Remains of the airframe hardly stopped the prototype unlike the accident when taking off and landing because of the horizontal,high-speed collision to the building. 」



「 アメリカン航空のボーイング767-200ボストン(ローガン国際空港)発ロサンゼルス(ロサンゼルス国際空港)行きアメリカン航空11便(ボーイング767-200型機・機体番号N334AA)は、乗客81名と乗員11名を乗せて、午前7時54分に遅延出発した。午前8時14分頃にハイジャックされ、コックピットを乗っ取られたらしい。午前8時23分に進路を急に南向きに変え、午前8時46分にニューヨーク世界貿易センターの超高層ビルであるツインタワー北棟(110階建)に突入し爆発炎上。水平かつ高速で建造物に衝突したため、離着陸時の事故と違い機体の残骸はほとんど原形をとゞめなかった 」
  こうして『 Events of 11 September 』(9月11日事件)の悲劇が、あきらかな非情として呼び戻された。講堂は凄まじい響(よど)みであふれ、涙するもの体を震わすものが多くいた。



「 ・・・・・・・・ 」
  この後、講堂に束の間の空白ができた。ふと何故(なぜ)か、モロー先生は、次足そうとした言葉を、こゝにきてピタリと止めたのである。先生のこの沈黙は、時間にして四~五分であろうか。モロー先生はたゞ沈黙のまま、聞き手に非常に酷(ひど)く長く感じさせながら、指先を震わしていた。そうして受講生の誰もがまったく気づかない素振りをしてそっと右のてのひらを胸に置くと、おもむろに眼差しを上げて講堂の天井に巍然(ぎぜん)と眺め入った。
「 3,000 dead or more・・・・・ 」
「 死者三千人以上・・・・・ 」
   みつめたまゝ声にはならず、先生はすゝり泣くような弱々しい小さなつぶやきを残した。誰の目にも追悼とうつる、そんなモロー先生のポーズに、賛意をあらわし、何よりも先生の鎮痛な胸の裡(うち)を察しようとしたのは学生達であった。秋子がうしろを振り向くと、たしかに学生の多くが、モロー先生の表情と同化しようとしていた。
  起立して同じ表情を示す学生も多くいた。だがこのときモロー先生は、応手である学生達が、この後どのような反応をもたらすか、ということに密やかな興味を抱いていた。
  最前列席に陣取っていた秋子は、席から伸び上がるようにして、このときモロー先生がみせた微妙なまばたきと唇の動きの中に、そんな気配を感じとったことを覚えている。航空機を使ったこの四つの同時テロ事件は、航空機によるテロとしては未曽有の規模であり、全世界に衝撃を与えたし、この渦中にあったのはアメリカ国民であるのだから、モロー先生の投げかけに対してそんな反応をしめしたことは至極当然の市民感情の現れであった。
  その後、アメリカはアフガニスタン紛争、イラク戦争を行うことになる。ウサーマ・ビン・ラーディンとアルカーイダに首謀者の嫌疑をかけた米政府は、その引渡しを要求した。
  だが、これを拒否し続けられ、対テロ戦争の「 不朽の自由作戦 (OEF: Operation Enduring Freedom) 」を高ゞと掲げたアメリカ軍はターリバーン勢力を攻撃するためにアフガニスタンへと侵攻した。しかし正義の逆説として、アフガン報復戦争開始時に、某新聞は「 言語学者のチョムスキー氏、アフガンを語る 」という記事を載せている。
  この勇気のペンのことは、日本人の秋子にも意義深く感じられた。
               
  言語学者チョムスキーは「 アメリカは、イスラム地域の多くの人々も納得するような国際社会への手順を踏み、理性的なアプローチを最大限にとり、最終的にはテロリストのみに絞って力の行使に踏み切る方法もありうるという道を追求すべきだった。アメリカはナショナリズムが燃えたゝめに理性を失ってしまった。無実の人々が死ぬような武力行使はノー 」だと述べている。
  NATOは攻撃によってターリバーン政権を転覆させる必要を認め、2001年10月にアフガニスタンの北部同盟と協調して攻撃を行い、12月にはターリバーン政府を崩壊させた。この攻撃はアメリカ合衆国政府によって「対テロ戦争」の一環と位置づけられ、国際的なテロの危機を防ぐための防衛戦として行われた。
「 これでは日本人はアメリカに対し無言のまゝや、国際社会への言論すら放棄するんやわ! 」
  イギリスを始め多くの国がアメリカ政府の攻撃に賛同し正義を掲げたのだが、戦争の主体者は疑うべきもなくアメリカであった。モロー教授の講義はこの翌年1月のことであるから対戦争で実際に無実の人々も殺されつゞけてきたこと知る学生も多くいた。中にはチョムスキーの観点に納得し、同氏のメッセージにアメリカの良心をみて目頭を熱くした学生も数多くいた。リベラル・アーツならなおさらである。しかし同時に日本人の本音も見透かされた。
  このように同時テロ後のアメリカには、二つの正義があり、対戦争に両論があった。
  モロー先生は、この大きな二つの海に一石を投げ入れたことになる。
  すると途端に喝采の渦が起こり、講堂に集う学生達が大きく揺れた。モロー先生はそんな学生達から贈られる拍手の渦を目に認(したた)めると、みずからも、おうむ返しに拍手を学生達へ贈り返しながら、さも満足げに何度もうなずいて見せた。しかし講堂の響音が遠ざかるのを待つと、学生達の胸にゆだねられてモロー先生と同化したかのように思われた学生達の昂ぶりが、モロー先生の次の言葉で、また寸断された。
「 Please raise your hand if there is a person who changed the Stars and Stripes in eyes in you now. 」
「 君たちの中で、今、目の中で星条旗をひるがえした人がいれば手を挙げてください 」
  この一言で、しきりと前後左右の学生達と連絡をとりはじめたことを、モロー先生は発見したのである。あるいはこの発見を近隣の学生に告知することが、この講義の目的であった。
「 Now?Is the consultation left it at that, and is not your courage shown?Please raise your hand. 」
「 さあ~相談はそのくらいにして、君たちの勇気を示してはくれないかね。手を挙げてください。諸君はこの賛否に怯(ひる)むことなく堂々と応えるでしょう。星条の誇らしさに誓って! 」
  どよめきが収まるのを待って、今度は嘲笑し返すかのように訊たずねかけられた。
  これはリベラル・アーツならではの反動なのか。学生達はモロー先生にそう促されても慎重かつ冷静さを装いつゝ、まず一人手を挙げ、次に二人目が、そうして三人目が手を挙げ終えると、残りの学生達は至極当然とばかりに、次ゝと手を高らかに誇らしげに掲げてみせた。留学生を除くアメリカ籍の学生の多くが、きらりとした貌(かお)の目の中に、確かに星条旗を誇らしく掲げていた。しかしモロー先生にすれば、これはまったくとるに足りない一つの描写にしかすぎなかった。このときモロー教授は、ユダヤ人として中立であったのだ。



「 It is so. This is a dance of the catharsis. You saw the catharsis dance now. 」
「 そうです。これがカタルシスの踊りです。皆さんは今、カタルシスが踊るのを見たのです 」
  たゞこう言うと、モロー先生は何くわぬ顔をして、またこの講義の冒頭でみせた哲学紳士の、やわらかで貴公な表情を泛かべた先生へと帰っていった。学生達は、ねじるように振って回されたかと思うと、これを地面に叩きつけられたような心境で、そんなモロー先生をたゞ唖然とながめていた。ユダヤ人とは聖典の元、国籍をも退ける痛切な流浪を体験した。
「 カタルシスはカルパ国(kalpa)に生まれました 」
  こう語られると、首をひねりたくて、言葉の焦げる匂いすら感じさせる。もしも、これが真なる認識だとすると、この後モロー先生はどの様にして保証されようとなさるのか、見当がつかなかった。
  哲学は、言葉の文脈に、論理的な破綻が無い事で、その理論の正当性を求めますから、この地上には無い、誰の眼にも確かめようもないカルパ国という存在を語りかける哲学者が、目の前にいるということがそもそも不思議なのである。



  なぜモロー先生は、個別現象を超えた、核心的な問いから離れようとなさるのか、それが何を意味するのかが解らなかった。そんな受講生の戸惑いを察したのであろう。淡い日差しのような眼をされてモロー先生は言った。
「 哲学とは解っていない事を考え抜いて明らかにする事ですから、まことに非常識な学問といえる。皆さんはまず私が語ろうとする非常識な内容と向かい合いながら(カタルシスはなぜ存在するのだろう?)(カルパ国はなぜ存在するのだろう?)と、考えるところから、解っていない非常識な事を考え抜くように考えてみて下さい。これは、哲学のパソコンに例えるならば、非常識なOSですね。つまり哲学問の最も非常識な基本ソフトでもありますから 」 と、語りかけながら、そしてまた非常識に、
「 カタルシスはカルパ国で生まれたことを、ギリシャの哲人アリストテレスは理解していた 」
  と展開させては、通じなければならぬ脈絡がふっと切れるもどかしさを受講生に感じさせながら、淡ゝと非常識な話しをなさるのであった。
「 つまりアリストテレスは、このことを承知した上で、師プラトンのイデア論を批判し、最高の善は幸福だと説いたのだ 」
  などと、講義が佳境となるに連れ、じつにテンポよく先生は、独自のモロー理論を語りかけられたのである。それはいかにも非常識ではあるが、ただし、先生は常識そうな顔をして語られていた。
  モロー先生の講義が、他と違うのは、日常生活で直面するジレンマを「弥勒(みろく)」を題材にして未来とは何かを考えさせるのが主眼なのだが、モロー先生が京都の同志社大学といかに交流ふかき仲だとはいえ、また数年間かを日本で暮らされたとはいえ、日本人にはこうは語れないと思える弥勒観と、見えざる手について口にすることをタブーとするユダヤ人らしからぬ弥勒観だけに、秋子はたゞたゞ驚きを隠せえぬまゝに圧倒されていた。




「 カルパ国と、この地球とは五劫(ごこう)の距離で結ばれている 」
  あの八の字髭を消したからの、この仕業の所以ゆえんなのであろうか、肥った姿態、髭の生えたいかつい相貌とはうらはらに、なかなか優しい声である。しかし同時に、面映(おもはゆ)い脅(おそ)れを感じさせた。
  輪廻や永遠など、むしろ忘れて生きる中にこそ、ほんとうは輪廻や永遠の世界が垣間見えてくる。あるいは自然なことゝ感じられるようになってゆくのではないでしょうか、とスピリチュアルに語られた後に、それとは反対に死を非常識に直視した弥勒観なるものを展開されるのであるから、受講生の多くが、その複雑な思索におぼれてしまっている印象を秋子は強く感じ、仏教に親しむ習慣のない異邦人の眼差しに脅れのゆらぎが現れているかのようであるから、秋子にはそこが面映ゆいのであった。
  しかしモロー先生は、素知らぬ顔で平然と進められた。
「 劫(こう)とは極めて長い宇宙論的な時間の単位で、一劫を四十三億二千万年と換算し、五劫とは二百十六億万年の距離となる 」
  こうなるともう仏法そのものである。受講生は樺色にくすんだ顔を無表情に据えて、親昵(しんじつ)そうな態度で語られるモロー先生とたゞ黙って向き合っていた。しかしそれは、哲学に係わる者は盲目的に権威に服従することをタブー視するのであるから、こゝを弁えようとする自然な眼差しではあった。
「 弥勒さまもまたこの遥かなるkalpaの国で生まれた。その弥勒さまはシッダッタの入滅後五十六億七千万年後の未来に姿を現わして人類を救済するという。こう約束して地球へと向かい来る弥勒さまは、すでに百六十億万年を歩き越えて五十六億万年先の地球が見下せる夜の頂きに立っている。するとこの地球からみると、弥勒さまの立つ頂きへは、未だ人類の悲劇のような長い夜がつゞいてみえる。そんな夜とは、カタルシスの踊る舞台なのである! 」
  こゝまでを話し終えると、モロー先生はまた、おもむろに話しの矛先を切り換えした。
「 It will touch the origin of the philosophy a little here. 」
「 こゝらで少し、哲学の起源に触れることにしよう・・・・・ 」
  こう言葉を切りだすと、慨(なげ)くような眼をふたゝび天井へと向けられた。
「 哲学とは、近代における諸科学の分化独立によって、現代では専ら、特定の学問分野を指すのであるが、そこには神のこともあれば、死のことも、数のこともある。しかしながら、学術は細分化され、対象は限定されているから、学者や研究者が問えるのは、そのように限定された領域に支配するかぎりでの前提、つまり、浅いレベルの前提でしかない。例えば、生物学者はDNAのある部分の解読にいそしんでいて、生命とは何かという根本的な問題をなおざりにしている。こうなるとラッセルのように、哲学の消失を予想する哲学者も現れてくる 」
  と、こゝで一つ大きな息継ぎをされた。
「 そこで諸君らは本校を離れ去る前に、今一度、確認しておくべきことがある。それは哲学の起源である。古希のφιλοσοφία、英語のphilosophy、独語のPhilosophieとは、古代ギリシャでは学問一般を意味し、知の営みの全体を表していた。またこのピロソピア、フィロソフィアという語は、愛智という意味なのである。これはそもそもphilos(愛)とsophia(智)が結び合わさったものであるから、元来philosophiaには〈智を愛する〉という意味が込められている。この意味を込めた者は、アリストテレス以前の人々であった。確認すべきことは、この起源の本質である。今君達が立ち還るべきはこの本質にある・・・・・ 」
  と、そして了(おわ)りは 「 あるいは〈愛を智する〉ことであるのだ・・・・・ 」と笑みて結ばれた。




「 An important person of you who came to see off when you board the train without important ";Person";'s being said is floating tears. And, it runs to chase the train that began to run. However, the distance between two people opens in a moment. The shaking night is a stage in the window of the night train that will be seen before long that the catharsis still dances. the you 」
「 大切な「ひとこと」を口にできないまゝ、あなたが汽車に乗り込むと、見送りに来たあなたの大切な人が涙を浮かべている。そうして、走り出した汽車を追うように走ってくる。しかし、二人の間の距離はみるみる開いていく・・・・・。そのあなたが、やがて見るであろう夜汽車の窓にゆれる夜とは、やはりカタルシスの踊る舞台なのである・・・・・! 」
  省みるべき交感に、新しい交感を注ぎたくなった秋子は、講義を終えた夜に、ミセス・リーンを伴って夜行列車に揺られた。
「 リーンは新しい創作デザートを、新しい眼のオーブンで焼き菓子をこさえたいという 」
  二人は相槌をうち合って暗い坩堝(るつぼ)のニューヨークへと向かった。
  ミセス・リーンの料理の腕前は秋子の三年間の収録活動フィルムで、つとに知られるところ。今夜から未明にかけて、そのレシピ集が、世界平和への黙祷を顕影する創作部門でグランプリを獲得するのであろうか。リーンは始終、かって自作したレシピの使い込んだ分厚いノート見開いて、また新たな一品を書き留めようとていた。
「 秋子がおいしいと感じる味を求めたら、自然とこうなってしまうのよね。きっと今夜、自由の女神様から自分の名前が呼ばれたときは、もう頭の中が真っ白になっているはずだわ。きっとそう・・・・・。そのとき私は、秋子の語った夢の浮橋を渡れるのだわ・・・・・! 」
  と、そう語りかけるリーンの言葉を聞いていると、秋子は高揚感を全開にして理科実験室とか博物館に足を踏み入れた小学生のわくわく感が、蘇ってくるようであった。そうした記憶の奥には、やはりあの赤い奇岩で奇跡的に架け遺されたアーチズ国立公園のデリケート・アーチに魅せられて眼に描かされた広大な赤い赤い夢の浮橋がある。
「 木の橋に生まれはったけど、夢の浮橋、アメリカであゝも固い岩のアーチにならはった。オーロラも夢の浮橋、せや、夢は消えんと架け遺るモノや。ほんにこれ京都のお女(ひと)の夢や! 」
  世界には多様な物差しがある。しかし希望の眼差しは同性のようだ。
  衝撃の渦中、希望を求めながらもアメリカの多くの人々は伍劫(ごこう)の距離感を掴めないであろう。自由の女神は、真冬の未明に慟哭の眼を見開いたまゝ眠れないでいた。
  その自由の女神を眼差しながら未明の闇に秋子の吹く伍円笛(ごえんぶえ)の音が流れた。伍でこゝろは丸くなる。
  そっと脇にいてミセス・リーンは眼を穏やかに閉じている。その横顔をさりげなく嬉しそうにみつめる秋子の、その眼には雉(きじ)のほろうちで目覚め、比叡山に鎮められた西方浄土の穏やかな早朝の森を泛かべていた。









                                      

                        
       



 Monument Valley Sunrise to Moonrise








ジャスト・ロード・ワン  No.17

2013-09-28 | 小説








 
      
                            






                     




    )  秋子の笛  上  Akikonofue


  日本国には形跡や証拠の一切を消却したパフォーマンス道の理論書がある。
  これは世界に誇る金字塔で、そこには楽譜のようなノーテーションやコレオグラフは挿入されていない。ただひたすらと日本の言葉だけを尽くし芸能の真髄を教え伝えた。したがってただの芸能論ではない。唯一未踏の神髄を本分とする。
  観阿弥は、彼が到達した至芸の極致から人間の「品格」や「本位」をこれに述べた。
「 それが・・・・・、風姿花伝・・・・・ 」
  篠笛の音を耳奥で拾いながら幽・キホーテにはこの巨匠の哲書が泛かんできた。
「 秘すれば花、秘せねば花なるべからずとなり 」
  で、あるから、これは世界でも唯一、秘密重視主義の思想の頂点にたつ稀有な日本の家宝なのだ。
  斎場御嶽(せいふぁうたき)から望む久高島(くだかじま)は、北東から南西方向にかけて細長く、最高地点でも17mと平坦な島である。
  土質は島尻マージと呼ばれる赤土で保水力には乏しい。
  島民は200名ほど、ここに河沼はなく水源は雨水と湧き水を貯める井泉(カー)に依存する。そして海岸には珊瑚礁で出来た礁湖(イノー)が広がっている。知念岬の東海上5.3kmにあるこの久高島は、周囲8kmの細長い島である。
  琉球王国時代には、国王が聞得大君を伴ってこの島に渡り礼拝を行っていたが、後に斎場御嶽から久高島を遙拝する形に変わり、1673年(延宝元年)からは、国王代理の役人が遙拝を務めるようになった。
  そうした久高島には琉球王朝に作られた神女組織「祝女(ノロ)」制度を継承し、12年に一度行われる秘祭イザイホーを頂点とした祭事を行うなど、女性を守護神とする母性原理の精神文化を伝えている。
「 秘すれば神、秘せねば神なるべからずとなり 」
  異国の赤く枯れた大地から聞こえる篠笛を聞きながら、赤いマージを潤す井泉(カー)へと耳を澄ました。
  久高島は海の彼方の異界ニライカナイとつながる聖地、穀物がニライカナイからもたらされた。琉球国由来記によると、島の東海岸にある伊敷(イシキ)浜に流れ着いた壷(瓢箪・ひょうたん)の中に五穀の種子が入っていた、五穀発祥の地とされる。

                                    



  萩はその名に秋を抱く花である。
  一乗寺駅へと向かうその途中にあるお宅には、道路にまでしだれ咲く宮城野萩がある。
  そろそろ紫の花がつき始める季節であることが懐かしく想い泛かんでいた。
「 小さな蝶の花飾り・・・野辺行きしかば萩の摺れるぞ・・・・・か 」
  もう夏のものとは思わないそんな気配に、ふと気づかされる朝が日本にはあった。
  それは身を潜めていた秋が急に姿をみせたような快い空気を感じるときである。九月中旬、このころ日本では朱夏(しゅか)を過ぎて、秋は色なき風の白い装いとなるのだ。
「 萩ィは、秋の仕草しはる花なんやわ・・・・・ 」
  これが日本の季語でいう「 けさの秋 」である。
  そうした日本の仕草を養母阿部和歌子は秋子にせっせと教えてくれていた。
  その秋子は第二十六代陰陽寮博士を受け継がねばならないのだ。
「 京都ォの夏もかなわへん。けど、秋ィ、こない暑うあらへん・・・・・ 」
  朝の天気予報で、予想最高気温38度、と聞いただけで阿部秋子はめまいがした。
  アメリカ暮らしが早三年目となる秋子の瞳には、京都の在所から一乗寺駅への途中にあるお宅の、道路にまでしだれている萩に、そろそろ紫の花がつき始める季節であることが懐かしく想い泛んでいた。
  秋子の暮らすニューイングランド地方にも日本と同じような四季があるのだが、しかし夏の湿気が払われて、透き通って寂びていく景色という京都の風情などはない。そんな風に京都を懐かしむ秋子は、初めて訪れた日のアメリカを思い起こした。



「 ながめみる海に、初夏の朝陽を浴びて一隻の帆船がある・・・・・ 」
  メイフラワー号ともいうが、別称はポリティカル「political」である。しかし、そう名付けられてみると、また裏返された名に因む帆船となる。この名から連想される「political correctness」とは、世の中にある差別や偏見に基づく言語表現でマイノリティ(少数派、少数民族)に不快感を与えるような表現を制限しようとする、文字どおり「政治的な訂正」ポリティカル・コレクトネスのことである。もっと簡単に言えば、差別用語を、あるいはそれどころか、ピルグリムと呼ばれるこの聖者たちは、プリマスに上陸すると、すぐにさまざまな暴力をふるいはじめるのだ。
  どちら側の意識からこの帆船の名が生まれたかは、もはや明白なのであった。
  ここは北アメリカにおけるイギリス植民地の魁(さきがけ)の地である。その最盛期には現在のマサチューセッツ州南東部の大半を領有していた。このことを祖父阿部富造は憂いながら他界したのだ。プリマスの太陽は、向日葵(ひまわり)の咲き誇る花畑を越えて、秋子に向かってくるかのように見えた。そして時計の針は奇しくも広島の上空に原爆が炸裂したときと同一の時刻を指している。

                    


「 あれは、あのときは、八時十五分・・・・・ 」
  日本人に深く刻まれた黒い時刻である。秋子が身構えてあらかじめそう意識して時計の針をセットしたわけではない。ふと腕時計をみると長針が右90度に振れていた。偶然であろうか。しかし秋子には熔けて壊れた赤黒い柱時計がこの角度を指して死んでいた記憶が鮮明にある。祖父の戦友である古閑貞次郎が最期までその写真を握り締めていたという。
  おそらくこの時刻に、、限定された特別の感情を抱くのは世界広しとはいえ唯一核を食べた日本人だけだ。
「 うち・・・・・、やっぱ日本人なんや・・・・・! 」
  幼少期を旧陸軍の祖父阿部富造に構われて育ったせいか、黙祷と対にしたくなる時間として、どうしてもこの時間帯は特別なモノとして感情を意識させられる。しかしこの時間を瞬時思い出して、それで日本人であることを意識するとは、愚かなことである。
  じつに愚かだがしかし、やはりその秋子は日本人なのだ。富造はこの警鐘を鳴らしつゞけた。
「 ほんに、人間いうんは、しょうないなぁ~・・・進化やいうて血を散らさはる・・・・・ 」
  ピルグリムの上陸を忍ぶ象徴の一つがプリマス・ロックである。それはプリマスの上陸地点近くにあった花崗閃緑岩の大きな岩の露出部であった。プリマスは1620年にできた村として記念石にその年号が刻まれている。しかし、この岩が上陸地点にあったということに言及している当時の証言は無いのだともいう。つまりでっち上げられたモノとする意見がある。

        


「 遺されて眼に触れる勝者の記録とは、大半がそうなんやわ・・・・・ 」
  実際そこは、ピルグリムが上陸地点に選んだのは岩場ではなく、清水を確保し魚が取れた小川だった。しかも石に刻む「1620」の年号に見当たる日本史の、その回想に秋子は良き思い出として伝わる記憶はない。
  そして西洋に拓かれた道とはおぞましくある。おのずと、その一つが元和大殉教(げんなのだいじゅんきょう)が重なってくる。
  元和の大殉教とは、江戸時代初期の元和8年8月5日(1622年9月10日)、長崎の西坂でカトリックのキリスト教徒55名が火刑と斬首によって処刑された事件である。日本のキリシタン迫害の歴史の中でも最も多くの信徒が同時に処刑された。
「 あの事件後、幕府による弾圧はさらに強化されていく・・・・・ 」
  また、オランダ商館員やイエズス会宣教師によって詳細が海外に伝えられたため、26聖人の殉教と並んで日本の歴史の中で最もよく知られた殉教事件の一つとなっている。そのような感情が加わると、秋子はじんわりと、比叡山を駆け下って朝廷に押し迫る荒法師らがあらがう気勢の声を想い泛かべた。それは西洋に翻弄された流血へのあがらいである。
  京都山端に育つと、自然とあらがう者の声に耳を傾けようとしたくなるのだ。
「 せやけど・・・・・、こゝはアメリカやないか!。アメリカ人はそっぽ向いとる・・・・・! 」
  そう思うと、自身の日本人がする滑稽(こっけい)に秋子はひとり笑えた。
  大群の向日葵はいかにも咲き誇るかに見える。太陽は向日葵の咲き誇る花畑を越えて、やはり秋子に向かってきた。そして淡い桃色のトレイリング・アービュータスの花(赤毛のアン)、これは、この地に春を告げる花だ。かつて、春のはじめになるとボストンの街の通りなどで花売りが「 プリマス・メイフラワーはいかが! 」と呼びながら、この花を売り歩いたものであるという。先月までの朝の窓辺には、やはりそうした名残り通り、日本にはない春の朝顔の淡い桃色の花が開いていた。
  そんな故国とは違う彩りにはやはり馴染めないものだ。
「 何や知らん早いもんやなぁ~。後、もう少しやわ・・・・・ 」
  回想に浸ると、グローブ紙(The Boston Globe)で知らされたニューイングランドはすでに夏休みなのだ。
  日本の蒸し暑い梅雨の中を抜け出してきたせいか、初夏のボストンは仄ゝと優しく爽やかな感じがした。ボストンへはユナイテッド航空ORD経由で向かった。所要18時間である。
  ボストン・ローガン国際空港のバゲージクレームへと向かう階段を下りながら、秋子は迷いのないことを自身の胸に問いかけていた。習慣のように繰り返される毎日が嫌であるから一度、母語の外に出て自身のことを見つめ直してみる機会にと選んだアメリカ留学であった。何よりも養母阿部和歌子が望んでいたこともある。
「 陰陽寮博士を継承する阿部家にはすでに男性が絶えた。第二十五代阿部富造も四年前に他界したのだ。そこで次代を直系として引き受ける若者といえば、やはり私しかいないのか・・・・・ 」
  アムトラックを降りると、なるほど、サウス・ステーションは美しい駅であった。
  そしてボストン郊外の夕陽の中で・・・秋子は一編の詩を想い泛かべていた。

     After a hundred years Nobody knows the place,-
     Agony that enacted there, Motionless as peace.
     Weeds triumphant ranged, Strangers strolled and spelled-
     At the lone orthography Of the elder dead.
     Winds of summer fields Recollect the way,-
     Instinct picking up the key Dropped by memory.

  異邦人ストレンジャーの留学生は「 100年後には この場所を知る者は誰ひとりいない。こゝで体験された大きな苦悩も もはや平和のように安らかだ。千草が庭でわがもの顔にはびこり 見知らぬ人々が散歩にきて。もう遠い遠い死者の面おもての・・・・・さびしい墓碑の綴字を判読する。たゞ夏の野を通り過ぎる風だけが・・・・・この道を回想してくれるだけだ。記憶の落としていった鍵を・・・・・本能が拾い上げてくれるかのように・・・・・ 」と、これを訳した。
  After a hundred years Nobody knows the place,-- Agony that enacted there, Motionless as peace. Weeds triumphant ranged, Strangers strolled and spelled At the lone orthography Of the elder dead. Winds of summer fields Recollect the way,-- Instinct picking up the key Dropped by memory.
    100年後に、この場所を知る者は誰もいない。ここで体験した大きな苦悩も、平和のように静かだ。百年あとには、この場所を知る人は誰もいない。
    ここで演じられた大きな苦悩も、平和のように静かだ
    雑草がわがもの顔にはびこり  見知らぬ人々が散歩にきて 
    もう遠い死者の・・・・・さびしい墓碑の綴字を判読する
    夏の野を通り過ぎる風だけが・・・・・この道を回想する
    記憶の落としていった鍵を・・・本能が拾い上げて・・・



「 星の数ほどあるHP(ホームページ)の中からこのアドレスにたどり着いて下さった偶然に感謝している。あなたは記憶の鍵を拾った 」
  と、秋子は日本にいて北米に建てられたデジタルの家を一度訪ねて挨拶されたことがある。ロッキー山脈に暮らす人の住居を探し訪ねる旅の途中、偶然、眼の前に現れて、ついドアをノックしてみた。
  このドアが開いたのは秋子が篠笛で、夷則(いそく)A♭の六律(りくりつ)九音を吹いたときだ。
「 1日に一つのありがとう・・・・・わたしは( Gershwin・賀修院 )・・・・・ 」
  そう最期に挨拶されて、その家を後にした。後ろ髪を曳く聲(こえ)であった。
  さる一葉の古い絵葉書が、今、乙女の手のひらにある。
  大正13年に日本の京都で投函された絵葉書だが、どういう訳か長い年月を経て平成元年の秋に、アメリカ中西部の宛先へと配達されていた。65年間、どうして迷子になったのか、なぜ半世紀以上も過ぎて再び届けられたのかは定かでない。
  さらに不可思議なことは、この絵葉書だけを同封したAir mailが、アメリカの配達先から平成7年に、再び京都の送り宛てへと投函されたことだ。しかも何よりそれが平成8年に、栞(しおり)のように挿(さ)されて一冊の古本の中から発見されたことである。その経緯は謎めいていた。
「 From the hometown of Joe・・・(ジョーの故郷から)・・・・・ 」
  と、たゞ書き添えられている。送り主が匿名(とくめい)であるために、源氏物語絵巻が描かれてセピア色に日焼けしたこの謎に満ちた絵葉書を、阿部秋子は5年もの間、人知れずたゞじっと握りしめてきた。
「 たしか、これは、橋姫(はしひめ)・・・・・しかも隆能(たかよし)の写しや・・・・・! 」
  何度か京都博物館に足を運んだから間違いない。この数奇な運命にある一葉の絵葉書を手に、留学生になった秋子が宛先の地を一度訪ねてみることにしたのは2001年10月のことであった。
  その古本とは、五条坂にある「冬霞」という古書院で買い求めた「椿説弓張月(ちんせつゆみはりづき)」である。
「 橋姫は、宇治十帖(うじじゅうじょう)の一・・・。そして夢の浮橋で了(おわ)る・・・・・ 」
  宇治十帖は源氏物語の最末尾にあたる第三部のうち、後半の橋姫から夢浮橋までの十帖をいう。予定では、30分後にスプリングフィールド駅へと向かうことになっていた。
「 Aki(あき)-Sun(さん). ひどい雨ね・・・・・ 」
  窓ガラスに叩きつけている遣らずの雨を、秋子が恨みがましく眺めているとミセス・リーンは、あっさりと笑いながらそう言うと煎れたてのコーヒーに目を細くした。
  名の後につけてくれる(太陽)は、リーンの嬉しい常套句なのである。新しい日本語を見つけたなどと、本人はそう思ってはいないのだろうが、日本人の秋子にはそう聞こえる。
「 何やいつも、雨の日も、曇り日でも太陽と一緒やわ・・・・・ 」
  寄宿舎をしばらく留守にするからと思い、スプリングフィールド駅へと向かう前に、大学内のポストセンターに立ち寄ると、郵便物の有無を確かめているわずかな間に、先ほどまでの穏やかな秋空が驚くほど早く消えて雨になっていた。
「 今の天気が気に入らなければ、数分間待て、という諺(ことわざ)がこの地方にはあるわ 」
  などとよく会話に挿まれる、ニューイングランド地方は天気と温度の変わりやすい所である。あるいは「 今の天気が気に入らなければ、数分間待て 」という諺(ことわざ)もあるくらいで、真夏でも朝夕が冷え込むこともあるので、長袖のものを必要とすることがあるし、この地方では9月にはすでに紅葉がはじまるのだ。
  そんなアマースト南部の穏やかな紅葉の中を抜け出して来たせいか、シカゴの10月は強烈な太陽の中で身も焼かれるような感じがした。この地方特有のインディアンサマーである。
  常に具体的なプランを提案しないと納得しないのがアメリカ人なのだ。交渉ごとの成果を求められるとき悠長に「がんばります」では通じない国なのである。何事も明確にした意思表示が求められる。そんなことを秋子はこの留学三年間で痛いほど体験してきた。



「 カリフォルニア・ゼファー号の右窓の座席が指定できますか? 」
  デンバー・ユニオン駅の改札でそう言って駅員にまず頬笑みを見せた。
  コミュニケーションの不通は笑顔がそこを融通してくれる。とても日本では過剰で見せられぬが、しかし北米では有効で適時に効能を発揮する笑顔の作り方や使い方を教えられ、語学とはまず笑顔から、だが曖昧な笑みはマイナス、とこれが語学を得意とはしない秋子の工夫した持論でもある。
「 Oh you are lucky. There is only one vacant seat. 」
  おゝ、じつに幸運だ。一個の空席しかありません。
「 Ah how wonderful it is! It is power to be born from your smile. Thank you. 」
  あゝ、それは何と素晴らしいこと。きっとあなたの微笑がそうさせてくれたのね。 ありがとう。
  こうした英語の波乗りの楽しさとユーモアへの反射神経がいつしか身に付いた。
「 It is asaving grace of God. 」
  それは神のご加護ですよ。と、これなどは定形の常套句、ご加護などなくても汎用する。
  空席が一つ、あなたは幸運、とは日常茶飯事に存在するし、この国にいれば人は常に幸運なのである。
「 Yes, of course. 」
  と、秋子は改札員へ頬笑みを返した。
  笑みは眼に明らかな最高の言語である。曖昧(あいまい)な真実より、明確な虚実が高得点となる。
  そんな三分間のミュージカルもミセス・リーンから舞台稽古のように何度となく習った。その舞台上では日本人は消えていた。そしてこのエクソフォ二―の旅は、母語の外に出た秋子が初めて乗車するアメリカ大陸横断鉄道を使っての一人旅であった。
  椿説弓張月は琉球王朝開闢の秘史を描く。秋子はそれを握り締めていた。
「 California Zephyr 」
  カリフォルニア・ゼファー号の旅だ。改札で何号車に乗るのかを問われた秋子は、番車を告げて、その行き先を書いた紙をもらう。この紙は荷物棚の下、自分の頭の上に挟む場所があり、おのずと車掌が目配り一つで乗客の行き先を確認できるようになっている。こうして業務上の煩わしい会話が省かれる。百のお喋りは一つの頬笑みで精算できるのであった。
「 この国では言葉数は不経済、表情の質量が経済なのだ。このことを江戸幕府は迂闊にも見落とした 」
  そしてデンバーのユニオン駅からそのアムトラックに秋子は乗車した。
  カリフォルニア・ゼファー号はロッキー山脈を越えて、宛先のユタ州ソルトレイクシティへと向かった。
  すると真っ青な空の下に、赤い塩の砂漠が広がっていた。
  視界を飛び出して、たゞ延ゝとある。その永遠らしき果てしない連なりを肉眼に描写してみると、大自然の喜怒哀楽というものが天地の奥深いところから語りかけてきて、秋子の本能とつながるかのようである。
  この「 Arches National Park 」に阿部秋子は訪れた。
  人間の眼にそう感じさせ、心にそう思わせるアーチーズの荒外(こうがい)な塩岩の赤ゝたる峡谷は、じつに赤裸々として地の浸食のありようを具体にみせつけていた。秋子は「 Arches National Park 」にそんな印象を強く抱いた。夕陽の中でみつめていると、今にもうごめき出しかねない巨大な磐紆(ばんう)の赤岩が、途方もない時間の中に身をゆだねながら生きつゞけていることが分かるのだ。
  赤い潮騒がある。数千もあるという妖怪な赤い岩の輪は、その一つひとつが、秋子の眼の中でたしかな聲(こえ)をして動いていた。もはや公園では陋(せま)く、日本の天地創造を百万倍ほどにした広大なまほろば・・・・なのだ。
  異邦人(やまとびと)の眼にはそうみえるのである。デリケート・アーチをくゞり映る紫陽なラ・サール山脈の雪渓を眼に入れてたゝずむと、秋子は記憶の奥底から目醒めるように、泛き上がる回想を早めぐりさせては、何度も何度もうなずき返した。
  そこが異国であれ、古地層の突出には人間の原点が蘇るようであった。どうしても懐かしくなる。かつてはアナサジと呼ばれる先住民族の祖先が住まいとしていたエリアなのだ。あえかな煙が湧き立っていた。
  さらに2億7千万年位前の地層が現われた奇形のモニュメントバレー、この赤褐色ビュートの深遠な大地はナバホ族の聖地なのだ。





「 あゝ、そうや、こゝや。ほんにこゝやわ!・・・・・ 」
  と、秋子は眼頭を熱くした。そんな秋子が、このダブル・アーチを訪れたいと思った動機は、映画「インディージョーンズ最後の聖戦」でスピルバークが切り撮るビギニングの一シーンの追憶に集約されていた。
  少年時代のインディーを描写してバックドロップされた或(あ)の巨大な赤いドーナツ型の奇岩トンネルに秋子が魅了されたのは、今から13年前の12歳京都市立修学院第二小学校に通う6年生のときであった。
「 薫君(かおるのきみ)は、小野の里にいるのが、浮舟であることを聞き、涙にくれる。そして僧都にそこへの案内を頼んだ。僧都は、今は出家の身である浮舟の立場を思い、佛罰を恐れて受け入れなかったが、薫君が道心(どうしん)厚い人柄であることを思い、浮舟に消息を書いた。薫君は浮舟の弟の小君(こぎみ)に、自分の文(ふみ)も添えて持って行かせた。浮舟は、なつかしい弟の姿を覗き見て、肉親の情をかきたてられ母を思うが、心強く、会おうともせず、薫君の文も受け取らなかった。小君は姉の非情を恨みながら、仕方なく京へ帰って行った。薫君はかつての自分と同じように、誰かが浮舟をあそこへかくまっているのではないかとも、疑うのだったとか。・・・・・法(のり)の師とたづぬる道をしるべにして 思はぬ山に踏み惑うかな 」
  と、宇治十帖の夢の浮橋が、赤く赤く泛かんでくる。幽(かそけ)くその赤い橋の欄干で橋姫が泪ながらに泣いていた。そんなダブル・アーチの前に秋子はひとり陣取ると、ひたすらと篠笛を吹いた。笛の音は、何度も何度もダブル・アーチをくぐり抜けては大空へと舞い昇る。秋子はこのとき赤い大地に重ねるようにして比叡山を泛かべていた。
  黄色いピーターパンに乗るとボストンからアマーストまで3時間ほどかゝる。秋子がそのボストンより真西へ約150㎞のところにある小さくて上品な田舎町にやって来て、早3年が過ぎた。初秋は「Holyoke Range」の紅葉にくるりと囲まれて、タウン・オブ・5カレッジスとも呼ばれるこの大学の町は、アパラチア山脈の中程に緑のスープ皿をそっと置いたような盆地にある。美しい草花に囲まれたアマーストタウンと、木々からは小鳥たちの可愛らしいさえずりが聞こえる長閑なキャンパスとが、その盆地皿に並ゝとそゝがれた緑色のスープの豊かさのごとく、ニューイングランドの美しい往時の風景を偲ばせるゆるやかな起伏の丘に広がっていた。秋子にはこうした秋の季節が最もこの町に似つかわしく感じさせるのだが、しかし冬は膝もとまで雪のある極寒の町へと一変させる。
  この冬の雪景色もじつに美しいのだが、人口の8割を学生で占めるこの町の学業期には5万の人口があるものゝ、冬季にはその数を1万7千までに減らすのであった。そうなると秋子は、この人影もまばらに震撼とさせる雪里の寮暮らしが恐ろしいほど退屈で、しかも異国人であることを噛みしめる日々の連なりに人恋しさを募らせることが、とても苦痛であった。
  そんな秋子は「 Boltwood Avenue, Amherst, MA 01002-5000 U.S.A. 」のジョンソンチャペルの隣にある赤レンガの寮舎に留学生として暮らしている。
「 あんたも、そろそろ外したらんと、あかんのやさかいになぁ・・・・・ 」
  9月の窓辺に吊るし残した風鈴が、深まる秋空に涼しい音色を淋しげに奏でていた。
  このビードロの琥珀の風鈴は、京都に暮らす養母和歌子からの拝受品である。そうであるから夏を過ぎ越してもついつい仕舞忘れてしまうのであるが、後一年で卒業という今秋も、昨秋と同じで京都に吊るされたころと少しも変わらずに、はんなりとさせる音色を広ゝとした寮舎の庭に響かせていた。
                           
  昨夜「Aword is dead When it is said. Some say. I say it just Begins to live.」という一編の詩を寝付かれぬまゝに想い泛べては、口籠らせてみたくなるほどの長い夜を味わっている。
  訳すれば「 言葉は口にされたら死んでしまうと言う人がある。私は言おう。正にその日言葉は生き始めるのだと 」とでもなろうか。南北戦争を経た、この女性の聲(こえ)が秋子の胸ぐらに痛く沁しみいるのであった。それは19世紀の前半にこの町に生まれたエミリー・ディッキンソンの、人の眼では仕訳られぬほど深層の底にでもありそうな重く深い詩である。
  ボストン市内のアマーストコモンからMain St.を右に曲がった木々の中に、彼女の生家が「The Dickinson Homestead」として遺されている。昨日、この生家の前を通り過ぎよとして秋子はふと足を止めさせられた。
  以前に三度見学に訪れているが、初めて訪れた折に見初みそめた、彼女が16歳の若かりし写真の、その昧ゝ(まいまい)とした撮られようを、そのときふと思い起こしたのである。まだ若いのにひっつめ髪の地味な面(おもて)に影をさし、真っ黒なドレスを着ていて、質素でひかえめな生活を滲(にじ)ませた彼女らしさがよく窺えるその写真は、彼女の生涯唯一の一枚なのであるが、この死相を纏(まと)うかのような写真と先の詩とが折り重なり合って醸しだそうとする、まったく難解なメッセージに秋子は酷ひどく心を揺さぶられた。
  閉じられようとして、閉じ込められまいとする雁(かり)の聲が目の前にある。ほとんど家の外には出ることがなかったという彼女の詩は現在、1番から1775番までの番号をつけられて遺されている。そのエミリーの詩は、彼女の死から4年後の1890年に妹のラビニアによって初めて詩集が出版された。正に、その日々の言葉が秋子の心の中で生きながら動き始めている。
  すると、どことなく自分らしくない。どことなくそぐわないものがある。朝陽の窓ガラスの中に映る自分の顔をみて、その外れようが気になる秋子は、かすかに眉をよせて窓辺の椅子に背もたれていた。 詩は、そのようにさせる予言とも思えた。
  百年あとには・・・・・・この場所を知る人は誰もいない こゝで演じられた大きな苦悩も・・・・・平和のように静かだ。雑草がわがもの顔にはびこり、見知らぬ人々が散歩にきて、もう遠い死者の・・・・・さびしい墓碑の綴字を判読する。夏の野を通り過ぎる風だけが、この道を回想する。記憶の落としていった鍵を、本能が拾い上げて・・・・・。 「 Motionless as peace. 」という予言を、エミリーの未来を、ニューヨークの昨朝が詬恥(こうじ)したように感じられた。
  この詩の詡(ほこら)かな聲も汚れさせられて、晩夏の季節の去りゆく暑さを惜しむエミリーの印象に、拾い上げてはもらえぬ記憶の鍵のことを、秋子は遠い眼をして探していた。しかしやはりエミリーが、密かに書き遺したように「 目をさまして 正直な手を叱った 宝石は消えていた 」ことになる。
「 どうかしたの。ぼんやりとして・・・・・」
  と、そんな秋子に背後からふと声がかけられた。振り向かずとも、それが誰かは声と時間帯とであきらかである。
  しかるべき声はミセス・リーンそのものであるのだから、秋子はいさぎよく振り向かねばならなかった。彼女はいつも三日置きの朝8時には、決まって花瓶の花を挿し替えにきてくれるのである。
「 Good morning. 」
  秋子はいつも通り友情のしるしのようにそういって振り返るとミセス・リーンもいつもの彼女らしく頬笑みを泛べて立っていた。しかし、いつもより秋子の語尾がゆっくりとのびた。その分ミセス・リーンはそれを推し量ろうとして、じっと寝不足で瞳のむくむ秋子の顔をみつめた。しかしその瞳はいつもの太陽のような輝きであった。
「 Homesickness ? Yesterday's terrorism ? 」
  ホームシック?、それとも昨日のテロ事件のこと?。
  と、問われすっと笑いながら眼をそらされると、ミセス・リーンはあえて言葉にはしなかったが、少しも案じることはありませんよと語りかけるもが彼女の眼の底にはあった。そうして肩をポンとたゝかれてみると、それがいつ会っても心が通じ合っている確認のように思え、秋子の沈みこむほどの重みがふっと軽くなった。だから秋子はリーンに問いかけられて返そうとした、昨日の同時多発のテロ事件のことを、いゝさしてあえて止めることにした。友情には暗い言葉は不向きである。
「 It thought whether there was delicious breakfast that some eyes seemed to wake up. 」
  何か目の醒めそうな美味しい朝食はないものかと考えていたのよ。
  すると一瞬、むっと身を包んだその弾みからか裏腹に、思ってもいなかった言葉が口をついた。
  しかし、いってしまった後で、それをさして意外とも感じない自分に、秋子は改めて驚いた。いつからそんな醒めたものが胸の底にひそんでいたのか、これと思い当たる節目もなく無意味なことなのだが、とりあえず底意のない明るさをミセス・リーンへ返そうとしたことだけは確かなことであった。
  それは、決して、自分の中から振り払ってしまいたいような類の思いではない。却(かえ)ってそうであることが、自分で驚くほど爽やかなときめきにつながっている。このミセス・リーンという人とならと、あらゆる空想の中で、その場に臨んだとき、訪れてくると思える知的な華やぎをどこかで許してしまっているところがあった。



「 If you hope for it, there is very dangerous dessert called a bomb of Oregon. 」
  それだったら、オレゴンの爆弾という物騒なデザートがあるわよ。
  彼女にこう返されると、いつも秋子はテーブルに身をのり出して平らげてみたくなるのだが、この日もミセス・リーンはそうであった。
秋子が期待し予感したように、軽口のそれでいて機転を利かしたユーモアたっぷりの献立を秋子にすばやく直球で投げかけてきた。
「 If it is such a wonderful bomb, I want to eat. 」
  そんな素晴らしい爆弾ならば、食べたいわ。
  養母和歌子に似ているからか、そのリーンに薦められると何でも食べてみたくなるのだ。その素晴らしい爆弾も食べた。オレゴンの爆弾はエミリー・ディキンソンが食べたデザートであるという。しかしこれは一種のメルヘン。ほとんど引き篭もりの生涯を送ったエミリの部屋に、一匹の蒼いネズミが住みつき、彼女と心を通わせるという物語の中に登場するデザートであった。
  この物語はミセス・リーンの創作である。秋子はその創作を読んで、まっさきにデリダの「引用」概念を思い出した。どんな言葉も聞き手の一人一人違うコンテクストの中に引き込まれて再生されるのだから、言葉はそのつど新しい意味を担って創造されるというのがデリダの「引用」である。そこにはエミリー・ディッキンソンの詩も効果的に引用された。
  秋子はリーンの創作に「引用」されているディキンソンの詩をいくつも知っていたが、エミリーと蒼いネズミの交歓の物語の中に置かれたそれぞれの詩は、秋子の知らなかった新しい輝きを帯びていた。ディキンソンの詩はとても短い。だから、四季折々の心の中で変化されて引用されるたびに、言葉のデザートは新たな相貌を見せてくれた。
                           
  オレゴンの爆弾は、淋しいクリスマス迎えるエミリーを楽しく過ごさせて上げたいと考えた蒼いネズミがプレゼントする爆弾デザートである。そしてミセス・リーンは「 悲しいときに食べるデザート 」という。たしかに食べると不思議に悲しさが爆発して消えた。秋子はそのデザートのお返しとして、いつも篠笛を吹いた。その笛の音は「 比叡の名乗り 」という旋律で、京都比叡山へと分け入るときに儀礼として告げる阿部家伝承の笛の音であった。
  翌日の夕食後に薦めてくれたミセス・リーンのユーモアたっぷりの献立も刺激的で素晴らしいデザートなのであった。それは新作のヒロインと言ってよい。デザートは秋子の淋しさを翻弄して憂鬱は宵闇へと消えた。それはまったくユーモラスな考古学者で、エミリーの助手を務めていたスーツ姿の似合う知的美女だが、蒼ネズミの仲間達がひしめく下水道に躊躇なく入るなど、肝が据わっている。しかしミセス・リーンが、ただ無償の愛を注ぐはずもない。
  新作を閉じ終えると、いつしか彼女は密かな楽しみを蓄えたかのように微笑むと、おもむろに窓側へと移動した。
  そして秋子はそのミセス・リーンの後影にでも語りかけるように篠笛を吹いた。
  そんなミセス・リーンの助言からこの旅は始まった。

                              

「 It is the one that it visits New York and it doesn't visit ";Statue of Liberty"; that Arches National Park in Utah state is visited and doesn't see ";Delicacyarch";. 」
  ユタ州のアーチズ国立公園を訪れて「デリケート・アーチ」を見ないのは、ニューヨークを訪れて「自由の女神」を見学しないようなものですからね。と、新しい旅に誘われて、二週間ほど前にフィールドトリップしたユタ州の風景を、そして篠笛を奏でながら広大な赤い大地から得た交感を秋子は忘れないでいる。
  そこで野生のバファローにネイティブアメリカンによる不思議なスピリチャル体験をした。秋子は初めてアマースト、ワシントン、NYCとはまったく違う雰囲気の、アメリカのDiversity(多様性)を実感した。
  留学後三年目にしてようやく果たせたという感慨もあるのだが、アマースト大学の緑の芝生に囲まれたニューポート・ドームの窓辺からは、そんなユタ州のアメリカンサイズに魅せられた瞬間の空気が「いま、こゝ」に直結され、ありありと秋子の目の前にあらわれていた。 豊かさと交換するように人と自然との絆は細くなるばかりではないか。すでに日本にはないが、しかし、異国には未だ神の手で天然の原型が遺されている。これは敬けんで穏やかな人々が培ってきた風土でもある。アーチズの赤いその遥かさは、秋子に人としてのありようを深く問いかけてきた。そして問い掛けをそっくりマッカーサーに突き返してみた。省みることの豊かさを知らされたそんな秋子は「アメリカも捨てたもんやおへん」と、寝室の壁に向かってつぶやいた。朝になると空や草花をみてつぶやいた。
「 それって、無作法な授業形態にようやく慣れてきたせいもあるんじゃないの・・・・? 」
  と、ふいに背後から声をかけられて秋子が振り向くと天野伸一が笑顔で立っていた。
  彼はハーバード大学から、どうして引っ越してきたのかも解らない未だ不可解ではあるが有能な新参者であるから、鵜呑みにできることと、鵜呑みにはできぬことがある。その手には迂闊には乗れないとなると、いや、慣れたというおざなりの言葉使いでは、アメリカの学生に対して失礼なことで、正しくは三年目にしてようやく、少しだけ理解できるようになってきた。
  授業がはじまり辺りを見わたすと、部屋のなかで帽子をかぶったまゝの学生、お菓子を食べている学生、机の上に足を乗せている学生、ローラーブレードを履いたまゝ座っている学生、日本の大学ではとても考えられないような状態である。また、教授の名前をファーストネームで呼ぶ学生さえ多くみられた。
  入学当時の秋子は「アメリカの学生は、なんて失礼で行儀が悪いんだ。これだから日本人は翻弄させられるのだ! 」と強く感じていた。
  明日は「 Martin Luther King, Jr. Day 」である。
  マーチンルーサーキング・ジュニアの生誕したこの1月15日は、アメリカの祝日とされている。それはマサチューセッツ州でも同様であった。講堂は五百人をこえる学生達で満席となっていた。
  悠々閑々と生きている、それがハロルド・モロー先生の平生であるらしい。黒いビーバーのファーフェルト帽をかぶられて、平生は思慮深く粛然とした風姿を崩さないで、先生はしばしばくったくもない一面を覗かせてくれたのである。
  講義の日、あのときも普段と同じように、ご自慢の黒スネークのステッキを軽く左右にゆらしながら粛然とした足どりで教壇へと上がられた。しかし教壇に立たれ、いつものやさしい視線を受講生へと向けられたとき、一堂ゆれるようにどよめいたのだ。








                                      

                        
       



 Monument Valley Sunrise to Moonrise








ジャスト・ロード・ワン  No.16

2013-09-27 | 小説








 
      
                            






                     




    )  八瀬の五郎  下  Yasenogorou


  安倍晋三、パククネ、習近平。日本、韓国、中国の、トップが入れ変わった。しかも北朝鮮が魁斗に牽引する。四国の、この変平であるようで妙に普遍を誘わない不安な躍動とは一体何か。こうした極東のざわめきに世界が聞き耳を立てた。特にオバマの耳は黒いオオカミのごとくピンと直立する。それが今日のボケきった日本人に、お得意のメイドイン・アメリカで深々とした鉄槌を打ち下ろしてくるようだ。あのときアメリカは日本人にさえ理解しがたい農事思想を丹念に解読し分解してみせたではないか。
  アメリカ国家の私的哲学を伴うコンピュータが、戦後われわれ日本人の脳や心のはたらきに、どこまで食い下がれるかという問題は、1950年代にまだ日本の限られた工学インテリーを自負する人々が熱中し始めた当時から、比江島修治もそれなりに密かで先駆的な議論を内心で耕してきた。しかし今日まで修治はまだその技術が人の生体で「生きているシステム」というものを一度も覗いて確認したことがないのだ。そこに積年の疑問がある。
「 これは、それぞれが、犬狼になろうとする動きなのか。農耕的な偏平と沈着が遊牧的に溶融され、ゆるやかなこの変平感の背景に大陸の遠吠えが聞こえてくる。ここにきてまた、われわれ日本社会にも潜在する遊牧的な革新性や戦闘性を根底で疼かせてきた。そしてこの間隙にあってアメリカの遠吠えが聞こえてくる。戦後、日本オオカミは絶滅したはずだが・・・・・ 」
  昨年末、比江島修治は除夜の鐘にそんな夢をみた。そのことを幽・キホーテは思い出した。雨田博士の動きが、当時の修治の気分にぴったりだったからだ。近年になって日本のトップが頻繁に入れ替わる世相に、修治の耳は何度かにわたるシャッター音を聞いた。結局、それが三国にまでなり昨年の掉尾を飾ることになった。そして国民はしだいに四方に感化されている。
「 アメリカを含む、五国には歴史にこびりついた故実病がある・・・・・! 」
  まさか軍靴の音が鳴り響きはじめることはないだろうが、そう危うさを思って幽・キホーテはまた博士と香織のバス停へと眼差した。

                                  


                                        

  四明ヶ嶽(しめいがだけ)の朝焼けは鈍(ドン)として暗い雲が流れる。
  雨田博士は、老人の思い通りにならないのが若者の行動であり言動であるのであれば、それを自分の崩れ去る心の張りにしたかった。
「 茄子(なすび)の腹鼓(はらつづみ)はいつもの毒中(どくあた)り無しの柏手なのですから、特段、気にもなりませんよ! 」
  ナスと一緒に煮込めば毒キノコで中毒は起きないという迷信がある。
  五郎は意外そうな顔をして、そういう虎哉を呆(ほ~)っとみた。
  しばらく黙っていたあとで虎哉は平静な声でいった。
「 竹原さんこそ、こんな朝早くに、どこかご商売にでも?・・・・・ 」
「 へぇ、それが・・・・・ 」
   五郎が応え返そうとする、その脇で香織は、五郎が手に固くにぎる赤いリボンのついた大きな手提げ袋の中身に気がそゝられていた。指でおさえては、ピンと弾いて物音の何かを確かめている。
  その紙袋のリボンは虎哉の眼にもたしかに、赤い羽をピンと立て上品に色気をふりまいていた。
「 何するんや。そないにしたらあかんやないか。やめなはれ・・・・・ 」
「 隠さんかてえゝやんか。リボンついとるし、これ一体何やねん? 」
  五郎に慣れっこの香織は、まるで仔犬が尾をふり甘えるような甲高さで袋の中身を問いつめた。
  赤いリボンは誰かへの贈り物に違いない。そのリボンと、指の感触から中身のおおよそを察した香織はもうそれ以上は自分の口からいゝだすまいとしていた。良質の作曲家の内面にさかしらな理性の入りこむ必要はない。ときおり慧眼(けいがん)な作家の音楽を聴いていると老いた虎哉でさえ、どんな自分の姿も可能なような気がしてくる。この躍動性と同じように香織が傍にいると、ふんわりとしていつも現実が希薄になる。虎哉はむしろその内面の飛躍をうらやましく感じるのだ。
「 しゃないなぁ~。これか、これわやなぁ・・・・・ 」
  五郎は白い息を一度はずませて応え返そうとしたが、どうやら虎哉の存在を意識してか何やら気恥ずかしそうに躊躇(ちゅうちょ)した。そんな気にさせているようであると、明らかにじれったく虎哉にもその初心(うぶ)さが判る。頬をサクラ色に染める露わな男の純情がそこにある。先ほど、無意識に力んで斜めに踏み出した右足をス~ッと揃え直すと、五郎は弱ったように小さくなって神妙となった。
「 なぁ~教えてェ~な。そない、もったいぶらんと、何していえへんのやろか 」
  香織はことさら謎めかした笑みを泛かべ問いつめる。そのためか気恥かしさが滝のように五郎の顔面に滲み出ているのが虎哉にもわかった。みかねる虎哉はそれとなく眼を笑みて促してみた。
「 しゃ~ない娘やなぁ~。これ、毛布のシャレたやつや。ブランケットいうて、舶来の膝掛けや。この毛はキャメルいうそうや。駱駝(らくだ)の毛を織ったモノや・・・・・。ほしてな、これは琉球の紅型(びんがた)や・・・・・ 」
  ようやく弾みをえた五郎はもう満面の笑みで中身を披露すると、二人をみて得意そうであった。やはり虎哉の眼くばせが助け船になったのか、五郎は笑ってチラリと虎哉をみた。



「 寒い日ィ続きよるし、これやしたら元気取り戻さはるんやないか、と、そない思うてな 」
「 誰が、元気取り戻さはるんや? 」
  それまで瞼の上を桃色にうつむきがちに聞いていた香織であるが、フィっと虎哉の前を横切ると、その身を二人の間に割り入れるようにして五郎から眼を逸らさずに訊(き)き質(ただ)した。
「 そんな怒った顔せんかて、これ、決まっとろうが、君子はんのや 」
  こう聞かされて五郎と真向うと、訊き質してみて、しかしどこか自分らしくない。
  香織は何かそぐわないものを感じた。見慣れてしかるべく泛かぶ、その君子の眼がまじまじとこちらを見返しているようにもある。そう感じたとき、父のものを貰った黒目が勝った香織の透き通る丸い眼は、五郎の目線から、こころもち下がっていた。
「 わい、こないだ道具屋寄った難波の帰りにな、船場にいったんや。ほなら、着物きた店の人がやな、これがえゝ、これがえゝ、いゝよるんや。ラクダやし、フランス製やいゝよるし、ほれで、わい、買こうてしもた。それから大正区船町の洋子はんとこ寄ったんや。琉球衣装は帯がの~て楽や思うてな。そんなんでコレ、君子はんに、今朝届けとこ思て・・・・・。その後、わて、蓮華寺に用事あるさかいに・・・・・ 」
  虎哉の前だから、もじもじと、なかなかいえそうになく困っているのが虎哉にはわかっていたが、五郎はさもうまそうに北風を大きく呑み込んでから、二人に語りはじめると、眼をしばたいて瞳を炯(ひか)らして、じつに嬉しそうに話した。
  堰(せき)を切るとこの男は真っ直ぐに表現する。その眼の炯(ひか)り、初めて会ったときにも感じたと虎哉は思った。
  虎哉の認識では、男にはおおむね2種類のポーズの意識というものがある。
  一つは自身の才能や容姿をより向上させて見せたいというしごくあたりまえだが、どこか偽善的な意識であり、二つは自分を「まともには見せたくない」という、偽悪的であるのだからそうとうにひねくれているのだが、それでいてつねに影響力を計算しつづけているような、どこか悲しい自意識である。しかし竹原五郎の爽快な笑顔は、あきらかに両者のいずれにも属していないのだ。



「 えらい早口やったなぁ~。うちのォは、次、船場行きはったときでえゝわ 」
  そう口をつく怪訝(けげん)な言葉も、頬から顎(あご)にかけての弛(ゆる)やかな丸い線がそれを救ってくれる香織なのだ。君子の笑顔に、一足控えようとする乙女心がそこにあった。
「 あゝ、買うてくるさかいにな。そんなもん嘘いうもんかいな。赤い紅型かて買うてくるさかいに・・・・・ 」
  もう香織は微笑んでいた。若いということは、何をみても聞いても老いとは違う意味を感じさせるものだ。香織は五郎が話をする途中から、赤地に白いストライプをあしらった温かそうなブランケットをながめ返しながら「 いつか、うちの子ォ生まれたら、こんなんで巻いて抱きたいな 」などと連想をふくらかし、あこがれの中の、すでに赤ん坊ができたという確信が、勝手にあつらえたまゝごとの慶事に寄り添って、仄々とした喜びに浸っていたのだ。
  無論、五郎を慕う心根もそこにあった。そのような香織は、ブランケットを膝の上にのせて児を包み、ためつすがめつ見つめ直しても、まだどこにも仕舞いこむことができなかったのかも知れない。そしてようやくブランケットをたゝみ始めた、その手がまたふと止まると、両瞼からぽろりと涙をこぼした。
「 急にうち、何やしらん、おかしいんやわ・・・・・ 」
  そういゝながら香織は、自身でそんな自分の感情に驚いていた。
  母親の顔も知らずに育った、その事情の端々から、五郎が香織に明確には答えてくれなかった内容を、漠然と感じとることはあった。自分でそれらを訊き質そうとしなかったせいもあるが、聞けば何かが壊れる恐れを抱き続けてきたようにも思える。父親を亡くしてからは一人生きようとすることが精一杯で、そんなことには一切眼が向かなかったような気もする。しかし気づかぬうちに、母恋しさに染まっていたのかも知れなかった。そんな香織の眼は、視界全部に立ちふさがると思えるブランケットや黄色い紅型に向けられていた。
「 香織ッ、どないかしたんか?。次ィ、きっと買うてくるさかいに堪忍や。ほんに、ほんに堪忍やで・・・・・ 」
「 そんなん、何も気にしはらんでもよろしがな。うち今、夢ェみて遊んでたんやさかいに・・・・・ 」
「 せやけど、香織・・・・・そない言うても・・・・・ 」
「 えろう~、すんまへん。早よォ行きはって、大事ィな君子はん、味あん善じょうみたげとくれやす 」
  と、さも悲しい声でこうつけ加えた。はっと我に返った香織は思いなしか君子を見守る五郎の眼も以前とは変わってきたように感じられる。するとまた香織の眼には君子の笑顔が泛かんできた。
                                     
  以前の五郎なら、君子の優雅な言葉遣いや、隙のない身じまい、行儀のよさに近づけぬ思いをしたに違いない。香織もそうであったから判るのだ。しかし最近の二人は何となく隔たりが無いように思われる。
「 そんなん嬢(いとう)はんにィ、えらい冷たいものいゝやないか。失礼や。わい変な気持やわ 」
  五郎は、気づかぬ素振りで通りすぎたい型の男とは、あらゆる点で違っていた。
  そう虎哉には感じられる。子を産めぬと若いうちに決まっていた女の、どれほど淋しい人生なのかは、かって子を産んだ女でもわからぬもの。まして男には、もちろん父親の虎哉にもわからぬものだ。
  そんな君子が十年を重ね経てようやく、おのずから賤(いや)しい身の上だと自覚している五郎になぜか警戒を緩めて親しんでくれている。五郎にはそんな思いに重なる親しみの他は何もない。晦日(みそか)に庭の手入れでもと別荘に顔をだした折「 体のそこらじゅうが怠(だる)いし、冷えると痛いいうて膝頭さすってはったんや。正月の挨拶もまだしとらへんし 」と、だから今朝そんな君子に届けたい一心でやってきたのだ。 洛北の八瀬に虎哉が別荘を建ててから十年になる。当時から君子はこの八瀬の集落で暮らしてきた。虎哉は東京都内の音羽鼠坂の自宅と、京都八瀬の別荘とを相互に暮らし分けたニ重生活で、折よく別荘にいてもその大半は外出がちになる。したがって、考(もの)いうまでもなく五郎との付き合いは君子の方が長い。
  虎哉の不在中、五郎は不自由な君子のために面倒見もよく香織や他の手に頼みづらい用件や、厄介な世話を幾度となくかけているという話は君子から聞いていた。その君子のためにと、凍える寒さの中を御所谷からわざわざ歩いてきた五郎の言葉は、虎哉にとっても誠実で温かみのあることであった。
「 一生涯、病人ともいえる不憫者の君子というものは、親の眼からして、いつまでも子供のようなもの。私がそう努めねばならぬように、私がしでかした過失である。嫁ぐこともできずに遠に五十路いそじを過ぎた女でも、いやむしろ、五十歳を過ぎ、まもなく六十歳にさしかかる女だからこそ、歳の差のさほど違わない、五郎のような逞(たくま)しい男性が身近にいて欲しいのであろう 」
  そう思う虎哉は、そんな五郎の一途な温もりで、急にいたらぬ我が身のひきしまるのを覚えた。

      

「 せやッたわ。五郎はんの渾名(あだな)ァ、蛸薬師(たこやくし)いうんや。せやろ。死んだお父ちゃん、五郎は、蛸薬師ィやいうてはッたわ 」
  さる寺の僧侶が病に苦しむ母のために、好物のタコを買ったのだが、仏門の身でそれは何事かと問われ、咄嗟にその僧侶が薬師如来を拝んだところ、タコが薬師経と変化(へんげ)して、以来、母の病も癒(いえ)たのだという。その蛸薬師のことか、当の五郎はたゞ笑っていた。
「 旦那はん。今日、雪ィになりまっせ。お山がそないな匂いさしてはる。ほな、気ィつけて・・・・・ 」
  そういゝながら五郎は指先で、香織の額をチョンと押した。
「 五郎といゝ香織といゝ、この二人は、何と同じような体臭を私に聞かせる者たちか! 」
  虎哉はたゞ不思議さに戸惑い、この隠せようもない確かなモノを、どう抑えようか、しかたなく苦笑して終わらせることしか手はないと思ったが、その間に五郎は別荘の方へ歩き、向かい風にも平然とゆく逞(たくま)しい後ろ姿となっていた。小さくなるその五郎の影に、虎哉は、「 私と君子との関係が硬化しそうなときに、この五郎が現れたのだが、もしあの時期に別の男が現れても、おそらくこうはならなかったであろう 」と思うと、どことなく安らかな余光を弾いて五郎の影は消えた。
  それは親という他人の加わる余地のない純真な影であった。それだけに虎哉は、蛸薬師という渾名に、もし縁あれば君子もきっと癒されるのでは、と思うと妙にその影の余韻に惹かれた。
  比叡の西谷に隠(こも)るように暮らし、山岳の情緒豊かな雰囲気を漂わす五郎に、東京の都会育ちの君子が好意を寄せている。五歳で儚くも夭逝した兄を話にしか知らずして他に兄弟もなく育った君子だから、五郎を兄と感じて慕うのか。何よりも患うその君子に蛸薬師の五郎が親しみを抱いてくれている。
  君子の実感では間違いなくまだ戦後なのだ。
  暗くて惨めで、しかし二人なら先に希望がないわけではない。虎哉は比叡山という霊山がもつ神秘さをそこに感じていた。
「 えゝもん贈らはるわ。ほんま、よう考えはったなぁ~。きっと君子はんのことや、喜ぶ姿ァ、五郎はんに見せてくれはる。五郎はんは、ほんに一途な男はんやして、なあァ、老先生・・・・・ 」
  ほっとして肩を落とした香織は大人びてそういうと、深い二重のまぶたを心もち伏せ加減にした。このとき、朝陽の奥に白々と融けこんでいった五郎の影が、虎哉と香織の心を占領し、バス停に残された二人は、比叡の山の向こうから昇る陽の静けさの中に、たゞシーンと包まれていた。
  香織は梅の季節に五郎とこの辺りを幾度か通った春を思い返している。
  虎哉は、正常な感覚が麻痺まひした君子の車椅子を押し続けた日々を思った。

      坊さん頭は丸太町  つるっとすべって竹屋町  水の流れは夷川(えびすがわ)
      二条で買うた生薬を たゞでやるのは押小路  御池で出会うた姉三に 六銭もろうて蛸買うて
      錦で落として四かられて  綾まったけど仏々と  高がしれとる松どうしたろう
・・・・・。

  香織が何気なくふと呟く京のわらべ唄が、ひとり北風に吹かれて揺れていた。

                                         



  いつしか京の市井に根付いたこの唄は、もはや京都において「 梵天(ぼんてん)」のようなものであろう。唄が梵(そよぎ)と、古都という風流を多様な趣を湛えて感じさせてくれる。今や日本の都会でわらべ唄が紡がれる風情は京都しかない。何気なく聴かされる京言葉の抑揚には、古都に根付いた素顔の風が吹いてくる。香織の歌は虎哉に京の地層の深さをしみじみと感じさせた。



「 そうだ博士、それは地夭(ちよう)というものだ。六道の辻から噴いておる・・・・・ 」
  このとき丸彦は博士の眼を見据えながら懐の大宝恵(おおぼえ)をギッと掴んだ。
「 博士の感じた、その地層とは地夭(ちよう)の趣きであり、京言葉一つにそよぎ顕れている。梵天とは仏語での色界の初禅天、大梵天・梵輔天・梵衆天からなる三天の淫欲を離れた清浄な天のこと、修験者が祈祷に用いる幣束(へいそく)も梵天。また大形の御幣の一つ、長い竹や棒の先に厚い和紙や白布をとりつけた神の依代(よりしろ)も梵天というのだ・・・・・ 」
  阿部家の家業は専(もっぱ)らこれが本筋で、明治に陰陽寮が廃止されるまでは御所の御用達として天文学などを果(おお)せられていた。さらには浄瑠璃の終わりに祝言として梵天を語ったことから物事の終わり、ここから転じて追い出すことを暗示させる。
  そして厄鬼払いが生まれたのだ。京のわらべ唄は地の利の裏に、梵天を皆くるんでそよぐのである。口ずさむと言霊(ことだま)でそよぎ、地を祓い、道を清める唄となる。
「 あッ、老先生ッこれ違うとるわ。今日、土曜日なんやして、あと十分待たんとあかんわ! 」
  待ちくたびれた香織がバスの時刻表を確かめると、通常日の運行時間と、土、日曜の運行時間とは違うことに気づいたのだ。
「 えらいもんアテにしてた。うち、何てことや。老先生、ほんに堪忍やえ~・・・・・。何ぁ~んか、うちら二人して、たゞ、君子はん訪ねはる、そんな五郎はん、待っていたのか知れまへんなぁ~・・・・・ 」
  風穴でもポカリと開いたような、そんな呟きが香織の唇から洩れたとき、花野に座る地蔵と出逢ったようなその仄かな言葉は、しかるべき余韻を虎哉の胸にしみじみと残して、踊りはじめた笛の音が空でも弾くように、しばらく北風の中に舞っていた。
「 かって日本の文明は、農耕のリズムと農耕の価値観にもとづいて発展してきたはずだ・・・・・! 」
  幽・キホーテがそう感じた瞬間、その脳裏には不思議な光景がふと舞い降りてきた。
  それはかって訪れたことのあるユタ州モアブのデリケート・アーチ、その延々と悠々とし不動のごとく見えた赤く枯れた大地であった。そしてその光景の中にかってヴィョン教授と眺めたフランスの子供たちの姿が夢でも語るように仮装化されて重なってくる。またさらにどうしたことか、誰かの奏でる篠笛の音が幻のように耳奥を刺して響かした。
「 かのアインシュタインの相対性理論が最期まで永遠に成立しているとすれば、物理法則が適用できない異次元空間の特異地点があらゆる多様なブラックホールにもなければならないはずだ。この笛の音はそこを引き出そうとでもするのか・・・・・ 」
  という奇妙な推測を打ち出したことで、幽・キホーテは夜の御嶽(うたき)から見える暗い久高(くだか)の島影を揺らぐようにじっとみた。琉球の創世神アマミキヨが天から久高島に降りてきて国づくりを始めたという。
  しばらくその篠笛の音の起伏に揺らされていた。

                                    







                                      

                        
       



 久高島・イザイホー







ジャスト・ロード・ワン  No.15

2013-09-26 | 小説








 
      
                            






                     




    )  八瀬の五郎  上  Yasenogorou


  雨田博士の山荘は、比叡山西崖の裏陰にある。
  京都の、東の山際にある場所の朝とはまた随分と遅い。比叡山を越えた朝陽は、まず山荘から西に望む鞍馬山の高みを射るように当たり、山荘の朝はその西からの、逆しのゝめの余光に仄かに映えながら、高野川を越えてしだいに水紋が広がるように明け初めてくる。
  まるで西から陽が昇り、その日の出を拝むように朝を迎える趣きなのだ。
  したがって洛中のあけぼのに比べると少し遅れた朝となる。だから香織は朝方になると決まってまず鞍馬山の光りを確かめた。これが洛北東山の夜明けである。この時間差の摂理で描かれる水墨の抄が山端にはある。山荘はその四時の彩りを借景とし森の淵にでも泛く舟のようにみえた。そうした雨田家の山荘を、山端の人々はいつしか『帆淵庵(はんしんあん)』と呼ぶようになった。
  山荘の南には音羽川がある。この川の名は、東京鼠坂の音羽と符合する。
  雨田虎哉の脳裏には白々とする冬の空気のなかに幼き富造少年が遊んだ棲家(すみか)の竹林城が仄かに泛かんでいた。
  そして琉球の御嶽(うたき)からそのことを思う幽・キホーテの関心は、一夜において博士がどのように「夜の思想」に出会えたかということであり、どのように「京都」と「琉球」と「奈良」を同時の刻限に観相できるかということだ。その同一刻限に見る富造が古閑貞次郎を懐かしく想い起こそうとして眼に浮かばせた竹林城の光景というものは、三者の目に触れた全天のその一つの星座なのであり、ここから始まっていくキラリと冬めく夜陰を仰ぐ物語は、見過ごしてきた人間が新たな意識性を帯びる旅なのである。
「 これはきっと、この後の博士が浮かばせる海図ひとつに安倍家の行く末の運を見定めることになろう。それは彷徨する海上でどんな星に出会えたかということに近い。博士にとって安倍家とは、日本と切り離せない北斗七星やオリオン座といった星座なのである・・・・・ 」
  暗い森を抜けていけば出会える幻想の象徴があるとしたら、それが比叡山の青い彦星なのである。
  そう思うと幽・キホーテはまたミズヒキの花に込めた阿部富造の祈りを想い起こした。
「 なんや、またバスどすかいな。老先生の顔に、そう書いたるわ 」
  そういうと、旅支度をすっかり整えた香織は、手に握らされた虎哉のステッキをかるく揺らしながら、悪びれた様子でもなく朗らかにまたつけたした。顔にそう書いてあると言うが、虎哉は顔にバスに乗ると書いた記憶などない。



                                        


「 老先生、ちょっとも、病人らしくしはらへん・・・・・! 」
  と、チクリと言い刺しては、ほんわりと眼に陽だまりを湛える。
「 三日前、あないなひどい発作おこさはったくせに、ち~とも懲りはらん。しゃ~ないお人や。なして遅いバス選らばはるのか、よう分からへんわ。電車ならスーッと、速ように着きよるのになぁ~ 」
  何ともふくよかな白色の顔の糸をひくような眼をつむって笑う。
「 きょうは外、寒うおすえ。足ィ、ほんに大事おへんのか・・・・・ 」
  と、人形(いちまつ)さんのような香織が気遣うように、室内にいても、しんしんと寒い日である。
  眼を丸くそういって、カメラで花でも撮るかのごとく瞳をパチリパチリとさせた。
「 この香織という娘に、加賀あたりの羽二重(はぶたえ)の熨斗目(のしめ)を、あでやかな西陣の羽織と対で着せ、白足袋をはかせ、やはり西陣の角帯をキュッとしめて、髪型を丸く整えると、それはまさに等身大の市松人形ではないか・・・・・ 」
  虎哉は初めて別荘で出逢った日、香織にそんな勝手な仮想を創り、明るく匂うように歩かせてみた。
  そう歩かせた日から、今朝も変わらず同じように市松が歩いている。萌え出したばかりの美しい緑の、そんな命をもつ香織と出逢えてから雨田家は、それまで忘れていた呼吸を、いつしか取り戻すことができていた。



「 どうしても、今日じゃないといけないの・・・・・ 」
  と、香織がほそい指先でそっと虎哉の乱れたマフラーのバランスを整えていると、一人娘である車椅子の君子が、いつもは弁(わきま)えのある細い口を控えているが、今朝はどうも普段とは違うこわごわとした口調を曳いて虎哉に念を押した。
「 あゝ、お互いが内心では待ち望んでいたことではないか。おまえもすでに承知の通り、私はかねてより承知の上のことだ。もう70年、終わらねばならぬ・・・・・。7年前の件、あれもある。いまさら彼との約束を破棄になど出来ない。手遅れでは、すべてが水の泡だ 」
  尠(すく)なくしたいから君子をあえて見ずに虎哉はそう応えた。
  妙に憐れむと君子の心を鋭く刺すように思えるからだ。十年前バリアフリーで設計した別荘の、谷底の茶室を除いて全てのスペースで君子が一人でも生きられるようにシステム化されている。そのときに今日の訪れはすでに覚悟した。
  そう思う虎哉はみずからが君子に投げかけたその言葉を噛みしめていた。
「 そう、そうですよね。やはり、行くのですよね。えゝ、ごめんなさい・・・・・ 」
  無茶も甚(はなは)だしいと思う。しかしあっさりと承諾してしまう。君子の性格の中に、いつも何かふっ切れない腫物(はれもの)の膿(うみ)のように、そういうダメなものが潜んでいることが、君子には自分でもわかっていた。
「 朝、二度も同じことを訊(き)かないでくれ。お前らしくもない。何度も説明したはずだが・・・・・ 」
  ふりむいてから、ふッと視線を苛々(いらいら)しく君子にとめた。
「 そんなん怒らんかて・・・、たゞ君子はん、老先生のこと、心配しとらはるだけや! 」
  君子に虎哉が眉をひそめたせいもある。だがそれとは別に香織は以前から虎哉に対し、疼(うず)きに似た興味がなかったわけではない。以前から父親の虎哉が一人娘の君子にだけは冷たい距離感を感じさせていた。出せばよい心根をあえて伝わらぬようにする距離が香織には常にじれったく受け取れる。温かいはずも矜持(きょうじ)も内に秘めては何の意味すらないように思われるのだ。香織にとってそれは小さくてさゝいな悲しい理不尽であった。先に玄関を出ようとしていた香織が、今度はすかさずキッと視線を睨(ねめ)すえて虎哉にとめた。
  そうして意地悪なその虎哉の頬面(ほほづら)を嫌気の小さな棘(とげ)でチクリと刺すようにいう。
「 老いては子ォに従うんや、と、弘法(おだいし)はん、そういゝはったわ。たしかそうや思うけど、伝教(でんきょう)はんやったかも知れへん。お大師はん、亡くなりはった前の晩の、二十日ァにや。うちのお父(とう)はんそないなこというて、講ォの人らと話してはった。どなんあっても子ォだけは宝なんやと。いつかて親はそうせんとあかんのやと・・・・・ 」
  香織は、何の罪もない君子に、かわいらしく茶目っ気なウインクを投げかけてフフっと笑みた。
「 空海さん、そんなこと言っていません。ごめんね、香織ちゃん。だけど、もういゝのよ・・・・・ 」
  それでもう君子は、車椅子の上で、何やら心泛きたつようなものを覚えていた。
  そんなざわめきに耳を傾けている心境でもなさそうな虎哉は、ふッと一つ吐息を漏らした。
「 日東大学の瀬川教授ほか五名が、明日の午後四時に京都駅着ということだ。梨田君が案内してくるから彼をふくむ都合六名で、祇園の佳か都子つこに連絡しておいてくれないか。万事よろしくと・・・な。あゝ、それから、これも・・・頼む。梨田君が来たら渡してくれ 」
  と、どうにもシャレや冗談の通じぬ質(たち)で、こう君子にやゝ昂(たか)まりのある声で言伝(ことづて)し、一枚のメモ紙を手渡すと、虎哉はもう振り向きもせず香織を伴って午前七時前には別荘を出た。



「 香織ちゃん、父のこと、くれぐれもお願いね 」
  君子のそんな言葉に振り返る、四十路(よそじ)ほど歳のはなれた若々しい香織はOKとばかりに手を大きく左右に振ってみせながら微笑んだ。紺のデムニに淡い桃色のスニーカー、何よりも背負うゴリラを吊るした若草色のリュックが新年の風をカラフルに揺らしてじつに可愛らしいのである。虎哉は、そんな香織のことを「 かさね 」と呼んでいた。
「 かさね、とは、松尾芭蕉が奥のほそみちにいう( 那須野の、小姫の、かさね )なのだ・・・・・ 」
  こういう話は神戸の五流友一郎が言い出したことになっているためか、虎哉は直(じか)にそうとは語らないのだが、じつのところは虎哉の本歌取りのようだと、そう君子は車椅子の上で手を振りながら〈ふふふッ〉と思う。父子家庭の長い娘が父の趣癖(しゅへき)に従えばまた、そのかさねとは「 八重撫子(なでしこ)の名なるべし 」の、かの河合曾良の句に自然に連なり解けてくる。
  その撫子は晩春から初夏に育ち、初秋には可憐で淡い紅色の花を咲かす夏の草である。
  春の野は厳しい冬の間に創られるもの、が口癖の虎哉ならば、こんな採り重ね方をきっとするに違いないのだ。
  人方ならぬ世話になった五流友一郎にやはり遠慮があるのか、あえて口に出してそうとは言わない虎哉の、胸の内の香織とはもうすでに孫娘なのである。その香織が別荘にきてから、まだ二年なのに、もう十年は共に暮らしているようだ。
「 両親と死別して、まだ二十歳にも満たないで、どうしてあゝも明るく振る舞えるのか・・・・・ 」
  坂道を下る二人のシルエットを玄関先で見送る君子は、二年ほど前から置屋(おきや)の女将(おかみ)佳都子からの紹介で、別荘に住み込みで働くようになった家事手伝い兼、虎哉の付き添い役、そんな香織の屈託のない様子をじっとみつめながら、二つの影が消えるまでを見送った。香織と暮らしていると自身のDNAを新しく芽生えさせてつくるという爽やかな逆転写がおこるのだ。
「 えゝ人や。あの人なら父を任せても安心や。大切にしてくれはる 」
  と、爽やかな香織の情緒に呑み込まれながら、あの娘ならまさしく我子に見間違えられても致し方ない君子は何となく、ほのぼのとしたものを覚えた。そしてこのとき君子はふと笛の音を聞いた。手を振り返しながらそんな気がした。





「 あゝ~これ、いやゝ。鼻ァつんとする。ふん~これ、雪の匂いやわ。また三千院はんから運んできはる。せやけどバス遅いなぁ~ 」
  三宅八幡前バス停で東のお山と北の大原をながめながら、香織は何度も首をふる。そんな表情の貌(かお)にある眼は、市松の人形にそっくりといっていゝほど似ていた。
  虎哉の一人娘である君子の持ち合わせていない、女の子でありながら、目尻に生きる力の光りを上手(じょうず)におびさせる男児かとも思えるほど逞(たくま)しい眼の輝きであった。
「 あのな老先生、今夜、お山、雪になりはるわ。何や、そないな匂いするさかいに・・・・・ 」
  京都でお山とは、比叡山のことだ。しょんぼりと丸く虎哉のコートに寄り添うまだ17歳の香織は、そう不満げにいってから、左頬に深いえくぼを寄せて、何やら懐かしい親しみでもつかむかのように、虎哉82歳のコートの袖口をあいらしくキュッとひっぱった。
「 ほう、雪に!、匂いがあるのかい?・・・・・ 」
「 ある、のッ・・・・・! 」
  虎哉には、雪が匂うという或(あ)る種の儚(はかな)さが面白く思えた。
  以前から虎哉は、一瞬だけの儚さの裏側にある、無限の変化を秘めて湛(たた)えた香りというものゝ性格に惹(ひ)きつけられてきた。その無限の向こうに、自分では見届けることの出来ない、雪の匂いというものがあるとすれば、自分の前にありもしない匂いだが、香織の記憶と共にふう~っと鼻先に戻ってくるような気もした。
  香織の雪は、三千院から運ばれてくるらしい。そんな虎哉は、訓練された鼻が、一瞬で余分な匂いを差し引いて、特定の香りを聞き分けることを十分に知っていた。
  人は香織のそういう特殊な感性を、迷信だといって笑うかもしれない。しかし、虎哉の脚の痛みも時々風のきな臭さを感じたとき休火山のように爆発し、この匂いが誰にも解らないことのように、降雪と香織の摂理との交感とが、まんざら無関係なこととして、虎哉には思えなく笑えないのであった。
「 そうや。これ、ほんに雪の臭いや。せや、今夜、きっと雪ふるわ 」
  こう強く香織がいゝ切ると、空から冷たさに凍えて溺れそうな風が、またしんしんとバスを待つ二人の袖口に差しこんできた。指先や頬の赤さが、辛うじて老いた虎哉の顔色を人間らしきものに染めていた。山端(やまはな)で育った香織には、この土地の雪の匂いがわかるのだ。雪が降り出しそうな、そんなとき、何となく周辺がきな臭くなるという。

                                 

「 それは私が感じた、或る朝の臭いと、同質のものかも知れない 」
  虎哉はふと、そう思うと、微かに高揚するものを覚えた。
  朝の香りは、立ちならぶ木立に射しこんでくる斜光にともなって、特有の香りへと発展し、五感では聞き獲(と)れるが、眼では不可視の風土なのだ。そう思う虎哉は、遠く今は異国ともなった満州の貧しい木々を想い起こした。また夢の中にも木の香はあった。
「 源氏物語の夢の浮橋・・・・・、あの橋は、何の木で架けたのであろうか・・・・・ 」
  と、そこには青年の虎哉がいる。そして日本津々浦々にある樹香を立ちあげた。
  その木を杉とすれば京都北山あるいは奥秩父三峰(みつみね)山、山毛欅(ぶな)なら白神、扁柏(ひば)なら津軽、紅葉ならば嵐山、桜なら吉野、桧(ひのき)なら木曾など、このそれぞれが無双の朝の香りを持っていたことを覚えると、耳朶(みみたぶ)が記憶するその香音をそっと聞いていた。かって虎哉は吸い寄せられるようにして、それらの場所へ朝の香りを求める旅をしたことがある。比叡で育ち、その風土と共にある香織をかたわらにして虎哉は今、日本各地の朝の香を訪ね続けた日々を思い返していた。
「 小生は・・・、湯葉の香りから名残り雪の気配を抱くことがある。京都に暮らすとは、そんなことではあるまいか。香織の感じる雪の匂いも、やはり京都の季節に順応した節分の匂いなのであろう・・・・・。気風を聞くとする文化は京都から始まった・・・・・ 」
  と、丸彦が推測してみると間もなく節分なのである。




  その節分の日には、縁起のいゝ方角を向いて太巻きの恵方巻を食べるが、京都の禅寺における太巻きの具材には卵焼きの代用に生湯葉を使う。つまりこの湯葉が丸彦に沁みついた節分の香りなのだ。
「 節分は、冬季ではあるが、しかし、翌日が立春であるから、すでに春の匂いの濃い冬季だといえる。香織がいう雪の匂いとは、この春の香り濃い節分の空気感なのであろう・・・・・ 」
  本来、この節分は文字通り季節の分かれ目のことで、立春、立夏、立秋、立冬の前日をさし、したがって一年に四回あった。
  京都には今もこの四つの節分がある。
                              
     月も朧(おぼろ)に白魚の  篝(かがり)も霞む春の空  つめてぇ風もほろ酔に  心持好く浮か浮かと
     浮かれ烏の只一羽  塒(ねぐら)へ帰る川端で  棹(さお)の雫か濡れ手で粟  思いがけなく手に入る百両
     ほんに今夜は節分か 西の海より川の中  落ちた夜鷹は厄落とし  豆だくさんに一文の  銭と違って金包み
     こいつぁ春からぁ延喜(縁起)がいゝわぇ

  丸彦は、ふと、歌舞伎狂言『三人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)』の序幕、お嬢吉三の名科白めいセリフを思い出した。このセリフは、冬が春に変身することの風情を縁起づけた。丸彦は主人・阿部秋一郎が河竹黙阿弥の作風を自慢する話を何度となく聞かされた。清原香織に限らず、狸谷の阿部家では節分前後の降雪は縁起佳きモノの例えとなっている。
「 つまり・・・・・、香織のいう雪の匂いとは、冬が終わる匂いなのだ。最期に雪は春濃く匂うのである・・・・・。そして濃く匂う節分は、気運の呂律(りょりつ)も大きく変動することになる・・・・・ 」
  と、思い、丸彦も香織の陰にあって雪の気配にそっと鼻先を向けた。
  たしかにそのとき、乾いた空気が、妙に鼻の奥と喉のあたりで濃厚に混ざった。そして丸彦の眼の中に、白いまるい浮遊物が現れた。それは、やがて、睫毛(まつげ)のうえで起きた小さな風に吹かれて、丸彦の唇に落ちては、そしてトロリと溶けたのであった。




「 老先生ッ、雪ふると、また脚ィ痛うなりはるわ 」
「 ・・・・・・・・・ 」
  虎哉は、ぼんやりと四明ヶ嶽を見上げて無言であった。
  それで奈良まで行けるのかと香織は心細くなっていた。
  雪が降り始めると、虎哉の決まって患っている脚が痛くなる。しだいに痛みは背中まで走り、やがて膝が疼くようになると、もう全く歩けなくなって支えきれない香織が困るのだ。その体験を虎哉から度々させられていた。
「 しゃないなぁ~・・・・・ 」
  香織は、微かに心に重荷を感じ、深山(みやま)をみてまどろむような、小さな声でいうのである。聞こえてはいたが、虎哉は口を噤(つぐ)んで何もいわなかった。冷たさに焦(じら)される時間が嫌だからと舌打ちして、この颪(おろし)が止むものではない。
  虎哉はたゞ眼だけを、いとおしく香織の方へ向けた。
  たしかに香織にしか聞き分けのできぬ比叡の朝に雪を孕(はら)ませた匂いがあるのであろう。二人の眼と眼が合って、香織の純真な眼の輝きにふれたとき、虎哉は一層いとしさが増した。この娘には、この世の中を「 どうか幸せに生き抜いて欲しい 」と願いたくなる。ともかくも、過去も、現在も、視界に汚いものがあり過ぎる。
  辛いもの、苦しいもの、嫌なものを見ないでは生きてゆけない毎日ではないか。眼の毒は気の毒を増殖させる。不幸とは、そんな視界の貧しさから生まれ出るものだ。眼の前には未来を見つめられる香織がいる。そう思う虎哉は昨夜、寝る前に書斎の窓を開けたことを思い出し、こじ開けた過去の時間が訝(いぶか)しく想い起こされた。
「 そうだ!。虎哉博士、もっと過去の時間をこじ開けてくれ!。そのために小生はこうして芹生(せりょう)からやって来た!。駒丸鳩舎の上を三度旋回した音羽六号は、すでに伊吹山の上空を東へと羽ばたいていよう。こうしてる間も阿部秋子は笛を奏で続けているのだ。そして六号は、きっと壱越(いちこつ)D(ディー)の陽律を奏でて飛んでいる・・・・・ 」
  と、虎哉と香織の二人がバスを待つ気配に、丸彦は何よりも誰より今、敏感に天理の危機を感じ、二人の吉日を願っている。
  丸彦はそろそろ冬の雪が解ける季節が近づくと妙に疼くものを覚えるのだ。そのことと雨田虎哉が奈良で生まれたことは決して無縁ではない。おそらく虎哉博士もこのことは承知しているはずだ。奈良はまほろば、だがその瑞穂の芽生えには善悪二つを合わせ持つ。世の中の必要悪とは人間の詭弁だ。そのお粗末を続けている限り、琉球もまたいつまでも危うい。

「 猫に限定してその保護を論じると、それが動物愛護保護法に抵触するだと、まったく冗談じゃないぜッ・・・・・!。猫の幸せとは一体何か、世の守銭奴(スクルージ)は一度これをゆるりと論じるがよかろう・・・・・。飼い猫を失敬する。それは野良猫を捕獲するより簡単で、きちんと飼われているので栄養も充分で皮の状態も良さそうだ。こう三味線屋が言っていた。そして安価なものでも一棹60万円だと。まったく冗談じぁない! 」
  と、現在、奈良市内に一件だけ存在する国認定の三味線師を覚え起し妙な憤りを過(よ)ぎらせた丸彦は、鞣(なめ)してしごく猫皮の恐怖音を感じながら、これから二人が向かおうとする奈良の方角をじっと見据えた。そこには世に祭ろわぬ人々が蠢(うごめ)いた歴史の邂逅(かいこう)がある。そのことを阿部家の人々はよく心得ているのだ。
「 轍(てつ)を踏むとは、人間の用語解説をみると、前人の犯した失敗を繰り返すたとえと記している。それならこれは前任者の悪さを踏まぬようにする戒めともとれるではないか。しかし人間は轍を踏み続けている・・・・・? 」
  慣用句で考えると、先人がしたことをくり返し、または前の人が陥った失敗を繰り返し、多くの人々が同じ轍を踏むという表現ができる。
これは人間が人間の実体を予測した事例なのだ。それほど人間の予見能力は抜群に高い。この確率を高く評価する丸彦は「 それだから、あと数十年もすると、この国は危ないとさえ考えるが・・・・・ 」。
  そう猫の丸彦に案じられる人間の崇高とは何か。どれほどか思案したがついに丸彦にはよく判らない。
  人間への理解ほど困難なモノはないのだ。何しろ人間様が、その人間に手を焼いている。それが丸彦には痛く気の毒に見えてくる。幸いに猫の世界にその事例がない。最近、人間の凄さは、弖爾乎波(てにおは)を無視する能力に長けていることではないかと、つくづく思うのである。どうにも前後のつじつまの合わぬことを懸命に生産する。
  自慢の頭脳明晰が、何とも憐れなるか生体の基調ともいうべき心身機能を退化させている。
「これからの時代、コンピュータとの大戦に勝利する武器は、彼らをマインドコントロールするしか手立ては無い。彼らの弱点は精神の生体ではないことだ。そこが解らぬと、人間はいずれ彼らの捕虜となる。やはり人間は修羅(しゅら)パンツの奇妙な高等動物だ・・・・・! 」
  と、そう簡単に丸彦に感心されて結論が導き出せるところが、人間様のご愛敬であろう。今を生き、未来を生きようとする香織に「 人間とは、好物である矛盾を食べて生きるのさ 」とは、とても伝えたくない。
  たしかに香織はブンブン蠅(ばえ)みたいなお転婆のヤンチャな娘(こ)ではあるが、彼女には人間が本来基調とすべき生体がきちんと備わっている。そのことは丸彦と同じように虎哉もまたそう感じているはずだ。




「 そうあれは・・・・・、60年も前のことだ・・・・・! 」
  虎哉は、ふと汽車の旅中で眼を醒ました。
  上海(シャンハイ)から南満鉄の大連(ダイレン)駅で乗り継いだ亜細亜(あじあ)号は炎々とした血の海を走っている。
  だが当然そこは海洋ではない。北上する流線形の豪華客車は少しも曲がることもなく真っ直ぐな軌道の上を、遥かなる地平線を目指して走っていた。見渡す限り茫漠(ぼうばく)としてじつに広大な満州の荒野である。その広々とある地平の果てまでが真っ赤な罌粟(けし)の花で燃え立っていた。莫大な赤い波立ちのそれは、まったく感動に揺り動かされて眼に燃え滾(たぎ)るじつに猩々緋(しょうじょうひ)な光景だった。虎哉は予定通り哈爾濱(ハルビン)駅で降りた。



  しばらく滞在することになっていたが、或る日、近衛文麿を第五代院長とする東亜同文書院大学を卒業した者として公営の工場に招かれ、見学後にお土産として一袋の阿片(あへん)をもらって帰った。
「 あれは・・・・・、日本円にして千円相当の代物であった・・・・・ 」
  当時、満鉄職員の月給が約百五十円である。しかも「 支那人(しなじん)に売りなさい。五倍の価値になる 」と言い添えられて手渡されたのであるが、卒業祝いの土産に阿片とは、馬鹿げておゝらかな時代であった。しかも馬鹿に河馬を重ねた悪態の狂言である。満州では阿片禁止令を施行しながら、同時に、支那人にはその満州で育てて精製した阿片を、平然と狡猾(こうかつ)に売り捌(さば)いていた。初代院長根津一(ねづはじめ)は同文書院の創立にあたって「 中日揖協(ゆうきょう)の根を固む 」とした。
「 私は、その狂気な一袋であることに気づいたのだ・・・・・ 」
  芥子の実からは褐色で固めのチューインガムのような阿片が作られ、さらに精製されてヘロインが作られた。大部分は、満州国からシナをはじめとする亜細亜一帯に輸出されたが、一部は満州国内で消費された。鉱山などの労務者(苦力・クーリー)へのボーナスとして阿片・ヘロイン入りのタバコが配られたりした。報酬として現金を渡すとシナの家族に送金されてしまったり、本人が辞めてしまったりするからである。現金ではなく阿片で支払うのは、苦力(ク―リー)を逃亡させない手口でもあったわけだ。その結果、彼らは重度の阿片中毒になる。だが労働力の代りはいくらでもいたし、中毒になってくれれば阿片の需要拡大にもなるわけだ。
「 あゝ、これでは、すでに八紘一宇(はっこういちう)の大義がない。帝国の満州とは日本人だけの夢か・・・・・ 」
  そのことを醜く思い知らされた虎哉は、無性にプライドを破壊された手で、お国のためにと戴いたその阿片をハルビン郊外の溝(どぶ)の汚れに流した。「揖(ゆう)」とは、親しく両手を組むことである。
  同文書院建学の精神に反するこれらは、満州国、つまり悪態の本性を陰に伏せて日本政府が為す悪政であったのだ。


「 わずか地上より、百六十センチメートル内外の眼の高さから、転じて八十二年間、世の中には醜悪で酷ひどい矛盾がたくさんあった 」
  現在でもその眼の高さから転じて、大きく空を仰ぐことさえじつに少ない毎日である。
  その限られた眼のゆくところに、安心して受け止めることのできる真実がどんなに少ないことか、と虎哉は訝いぶかしく溜息を洩らした、そのとき、ふわりと風に影が揺らいだ。黒い人影が二人の方に近づいてくるのを感じたのだ。
  とっさにステッキを左脇に抱えた虎哉は、黒いフェルト帽のつばを指でつまんでキュッと引き下げた。帽子が風に煽られるとでも思わせればそれでいゝ。さりげなくそう見せかけたい虎哉は帽子の陰でうつむいていた。
  迫る人影が妙に周囲の山と静かに溶け合っている。しかし静かさの中に妙な圧力を感じる。それは虎哉が意識し過ぎるのか、明らかにひたひたと迫る静かな影を揺曳(ようえい)させていた。
「 老先生ッ、あれ、隠れ道の、五郎はんや・・・・・! 」 眼ざといものだ「 この娘には、この距離から人物の特定ができるのか 」と虎哉は驚いた。以前にも感じさせたが、こんなとき香織はまつ毛を立て目尻を震わせるのだ。
「 ほ~ら、やはりそうやぁ~ 」
  と、香織は嬉しさにむせるかのような甲高(かんだか)い声を北風のなかに響かせた。
「 こないだ、五郎はん別荘にきはッてん。お菓子やら、お花やら、お魚やら、ぎょうさん買うて来てくれはりましたんや。あれ、たしか晦日(みそか)やったわ。老先生、まだ東京から戻りはらん日ィや。せやけど、どないかしたんやろか。御所谷から、こない早うに・・・・・ 」
  香織のいう「隠れ道」とは、一般にはほとんど知られていない、比叡山の僧でさえあまり知らない密かに杣(そま)の暗がりに隠されて杣工(そまく)が渡りつたいする山男の道である。
  比叡山の西塔の中心となるのは釈迦堂であるが、その裏脇から黒谷に下り入ると、北尾谷に抜ける急斜面の細い坂道がある。それは修行道より悪路の、もう獣道(けものみち)にも等しい細く険しい山岳の道なのだ。比叡山からここを下ると八丁谷に、そこから御所谷へと、抜けてさらにそこから麓の八瀬へ向かうと、八瀬天満宮の祠(ほこら)のところに出る。これが、隠れ道である。
  祠から先の奥地に人家などなく、これを訊ねても道と呼ぶ人は少ない。棲むモノがあれば野猿か狸ごときぐらいであろう。五郎はそんな八瀬の奥まった御所谷の山中に一人住んでいた。屋根の上は鳩小屋、その塒(ねぐら)の裏が工房で、煙突は朝夕の二時間ほど黒煙を上げた。

                                     



「 おゝ、香織やないか。こない早う、どないした?・・・・・ 」
  先に訊こうとしたセリフを五郎にとられると、妙に嬉しく香織はみるみる顔をゆるめた。
「 老先生、奈良、いきはるんや。うちも一緒、カバン持ちや。せくれたり~やわ・・・・・ 」
  にっこりして香織は弾むような言葉を返しつゝ、さも楽しそうに虎哉の顔をみた。
  竹原五郎はその声を聞きつゝ虎哉をみてペコんと丁寧に会釈した。
  虎哉は、この比叡の猿山の谷に暮らす男とは、別荘で一度会っている。
  以来、五度は別荘の敷地内や裏山で見かけている。杳(よう)として暮らし方が知れなかったこの男の、その面(つら)をまともに見るのはこれが二度目なのだが、二人の様子の自然さに接していると、虎哉は妙に爽やかな風が吹いてくるのを頬に感じた。血のつながらぬ二人がまるで父と子のように溶け合っていた。そこには微塵の逡巡(しゅんじゅん)もなかったかのようにみえる。
  するとふと、さきほど見送ってくれた君子の影が侘しく泛かんだ。
  これでは虎哉も凍える顔をさせて、バス停の一隅に形よく立ったまゝではいられなかった。
  この竹原五郎という男が、香織の亡き父と刎頸(ふんけい)の友で、祇園の佳都子から五郎が八瀬童子(やせどうじ)の末裔なのだとも聴かされていた。そしてまたその八瀬童子とは、何やら十津川の竹原家とも深い関係を匂わせるのだ。アニミズム歴史学の川瀬教授が以前、そう論文に書いていた。奇遇にもその川瀬教授が明日の夕刻には京都駅に到着する予定である。虎哉は、そんな五郎から先に挨拶されたせいもあるが、おもむろに黒いフェルト帽をとると、五郎よりも深々と頭を下げていた。
「 あれ、老先生っ、それ、お商売どすのんか! 」
  このまゝ目礼だけで済ましてスレ違おうと考えたその間に、香織がフィとまた妙な言葉を挿(さ)しいれた。五郎も同じ思いであったろう。立ち去ろうとした流れに、香織がパッと明るさを灯すような含みのある言葉を投げかけたのだから、迂闊(うかつ)にも五郎の足を止めさせてしまう羽目となった。
「 なんや香織、悪戯(てんご)いうたらあかん。旦那はん、困らはるやないか 」
  親代わりだという心根をもつ五郎は、やはりそれらしく厳しさも感じさせてそう叱ると、やゝ気まずそうに虎哉をみて貌を赤らめた。それは何やら半茹での毛蟹とでも眼を合わせたようである。



「 てんごなんかいうてへん。これ、うちの仕事なんや 」
  香織のそうした言葉には「 博士いうんは、頭下げはらんもんや。ただ学問さけ、しとかはればそれでよろしいんや。せやけど今朝は、頭ァ起こさはるのに、えろうご苦労なことやなぁ~ 」
  と皮肉めかした妙な含みを持たせてはいたが、香織はどうもそうとは思ってなさそうだ。
「 せやなかったら何か、旦那はんに、わいの頭ァ、10トントラックなんや、重とうて、あがらしまへん、などと、香織のツッ込みィに、ボケて返しなはれとでもいうんかいな。そんなんアホなこと、それ、仕事とちゃうやないか。ほんに、しゃ~ない娘や 」
  と、五郎は真面目に真っ赤になって怒った。毛蟹はもう八分ほど茹で上がっている。
「 五郎はん、えらいじょうずに返しはるなぁ~。せやけど、そんなんじゃあらへん。うち、老先生のこと、お師匠はんや思うとる。せやさかいに、五郎はんのアホ!。頭ァ下げるんは阿呆の義務やないかいな。何いうたかて、うちの博士が偉いに決まっとるんやわ 」
「 わいが・・・・・阿呆(あほう)・・・・・!。挨拶は、アホウの義務やと・・・・・ 」
  だが、香織はもう眼に一筋の涙さえ泛かべている。
「 ああ、これじゃ埒(らち)がない 」
  五郎に向って「阿呆など」とは・・・毛蟹は完全に茹で上がりそうだ。
  こうなると五郎の手前、いつものことであるから刺した釘も用をなさないことがわかる虎哉は一応、見咎める眼できつく香織をみた。しかし、それでも皮肉やあてこすりの調子などいさゝかも含ませてないと思う香織は、やはりそれを他人事のように剽軽(ひょうきん)に笑みた眼の目玉を上下左右に廻してヤンチャに動かした。こうして香織が笑うと唇のめくれかたが河童(かっぱ)の童(わらべ)が胡瓜(きゅうり)でもうまそうに舐(なめ)るごとく妙に独特である。これにはつい虎哉も五郎もプッと笑ってしまった。
「 こないな娘ォで、ほんに、こっちゃが困ってしまうがな 」
  足を止められた五郎は、茹で上がる寸前で火を打ち消された蟹のように、なまなかな手足をどう始末する術もなく真実困った声をだした。
かすれて低い濁声(だみごえ)である。荒く冷たそうに聞こえるが、しかし節々に香織をそっと庇(かば)い包むやさしい人柄のでた言い回しで、しかも弁(わきま)えていた。一見その五郎とは、尻あての鹿皮(ししがわ)を腰にまきつけた野生の風体で、赤鼻の小柄な山男だが、脚を患う虎哉だと承知でも、あえて凍えるや冷えるを挨拶の言葉に引き出して、そうした愚かな会釈など一切しやしない。それがまた虎哉に、毅然(きぜん)とした強さを感じさせた。
「 二人とも、けったいなお辞儀だけしはって、済まそうとしはるさかいやわ。茄子(なすび)かて会えば腹をポンと叩きよる。親のォ小言と茄子(なすび)の花は千に一つの無駄もない、そうや!。茄子はほんにアホな子や、せやからよう頭ァ下げよるンや・・・・・ 」
  茄子(なすび)とは裏山の♀仔狸(こだぬき)である。どうにも懲りない香織がまた眼を細めて笑いかけた。いつもがこんなお茶目な娘なのである。虎哉はその辺りのことを詰めていくのが嫌で、二年間何もいわなかった。妙に上品さだけをものほしげに見られるのは、65も歳の違う香織が相手であるだけに我慢ならなかった。むしろこの娘といると老いゆく一日が、本来ならひどく短く感じられるものであろうが、何とも長々と感じられるのである。
  老船の帰り着く港が見えないのもじつに淋しいものだ。それだけに帰り着ける港のあることを感じさせてくれる、いつしか香織とはそんな存在となっていた。そんなヤンチャな非凡さの思春期を生きる香織から狸以下だといゝ遊ばれて軽くいなされることに、平凡な老人の日々を重ねられるようで、虎哉にはいつしかそれが嬉しい快感ともなっていた。
「 茄子といえば、その祖母は、あの菊だ!。その亭主が、たしか聖太だった。そして阿部富造・・・・・ 」
  虎哉は眼をじっと比叡山の方へとあてた。








                                      

                        
       



 斎場御嶽






ジャスト・ロード・ワン  No.14

2013-09-25 | 小説








 
      
                            






                     




    )  遅刻坂  Chikokuzaka


  古い東京を懐かしんで、それだけで時代の真相が分かるものではない。
「 阿部富造は、敬愛する兄貴がフィラデルフィアで客死して、そこで、14歳のころすでに寄席通いをはじめている。富造とはそんな風変わりな男だった。私にはその真意がよくわからないが、寄席通いは祖父の影響らしい。ともかく富造はそのときは府立一中に通っていた 」
  雨田虎哉博士は、そう想い起こしたようだ。
「 どうやら、寄席でおもしろいのは期待もしていない色物が予想外の出来だったときで、富造もしきりに手品師の思い出にふけっていたという。たしかに14歳で寄席の色物は道に入りすぎている。しかも盲目の女芸人の思い切って声を殺す風情が悦に入るとは、それはきっと他の目的があったはずに違いない。何だかそこに新しい生命が籠もっているような気がしたのだというから、陰陽道と無関係とは言えまい。学校の講義を休んでまで聞きに寄席通いとは驚きだ・・・・・  」
  雨田博士の視線に連なって、幽・キホーテもまたじっと富造の動向を泛かべた。
  第一次世界大戦中は大戦景気に沸いた日本であった。
  だが戦後恐慌になると、社会は、暗く深刻な不安のなかを揺れつゞけていた。
「 たしかに、そうなのだが、しかし、どうしてか当時、それでも何だか新しい生命がきっとどこかに籠っているような気がしていた 」
  これは理屈なく真実だ。人は気張ろうとした。阿部富造にはそう思われる。
「 深川職業紹介所には四千五百人、江東紹介所には約千人、他の紹介所にも大勢の、未だ明け遣らぬ凍てつく路上に、仕事は大概、関東大震災の復興の力仕事、賃金は1円60銭から30銭どまり、貯蓄銀行の支払い停止措置に取付る預金者が銀行に殺到・・・・・ 」
  と、朝刊は報じる。だが、そこに希望と前進とがあった。
「 たしかに大正9年の世界恐慌による連鎖反応として引き起こされた昭和2年金融恐慌からの長引く不況は大問題であったのだ。しかし陰気だからこそ逆に、そうした暗い世相には、明るい歌が陽気のトリガーになる。たしかに当時、風は人にゆるやかであった・・・・・ 」
  世相の陰気臭さより、どうしても陽気さの方が上回るのだ。困難は勇気と夢とで克服し、満たそうとする気概を先に溢れさせていた。



「 たとえ貧相であれ、明日という一日が信じられた・・・・・ 」
  苦しい時代なのだが、そこに息苦しさは無い。ただ希望は溢れる、そんな阿部富造の記憶には明るい一曲が思い出されて泛かんでくる。
  巷(ちまた)では浅草オペラで人気を集めていた歌手・二村定一(ふたむらていいち・通称べ~ちゃん)が歌う「私の青空」が大ヒットし、国内ではジャズ音楽が舶来の雰囲気を漂わせて大衆層に広く支持されていた。
「 当時、浅草が日本で最大の盛り場であった・・・・・ 」
  富造はそんな1929年(昭和四年)のことを眼に泛かばせていた。
     夕暮れに仰ぎ見る輝く青空  日暮れて辿たどるはわが家の細道
     せまいながらも楽しい我家  愛の灯影ほかげのさすところ  恋しい家こそ 私の青空






「 富造、早よう来んかい! 」
  そう言って古閑貞次郎がにっこりと笑っている。
  それは・・・・・、坂道で出逢ったあの青春盛る笑顔である。
  彼のそんな笑顔が泛かぶと、富造は胸のつかえがすう~と下りていった。
  百年の間に降り積もった世上での恨み辛(つら)み、みずからの済まなさや蟠(わだかま)りがいっぺんに溶けて、若く青々としたころの真まっ新さらな男の親しみだけが花芽を膨らます春陽のように残った。
「 貞次郎・・・・・、あの青空をお前に渡してなるものか・・・・・! 」
  富造は小躍りしながら駆け出した。
  貞次郎はここまでおいでとばかりに先駆けていく。
  あの丘の向こうには、日本の青空がきらめき、光り輝くその丘の道辺みちのべには、二人だけの夢が落ちていた。
  それは日本国中が国威の発揚に沸き、時代の装いがハイカラからモダンへと移り変わるころのことであった。
  明治維新を経て開国し、二度の戦勝(日清・日露)による好景気も得て国力も高まり、帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ、これで勢いを得て第一次世界大戦にも参戦、日本はその勝利の側についていた。
  日本のそれは、欧米から学んだ会社制度が発達し、やがて熟し輝きを増そうとした時期である。 私企業が発展、世界に向けて大規模化して、投機の成功で「成金」と呼ばれるような個人も現れ、庶民においても新時代への夢や野望が大いに掻き立てられていた。
  ようやく民本主義が台頭すると、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする大衆の文化を花開させようとしていたのだ。
  が、しかしこの裏面では、大戦後の恐慌や関東大震災もあり、経済の激しい浮き沈みや新時代への急激な変化に対応できない不安や不満による歪ひずみも底辺に暗く潜在化させていた。
  たしかに第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。さらに1927年(昭和二年)には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じて昭和金融恐慌となった。
  若槻内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだのだ。
  安倍富造と古閑貞次郎の出逢おうとする時期は、こうした文明の開渠(かいきょ)と暗渠(あんきょ)とが混在一体とする中の、帝府を一もみに潰つぶした関東大震災(大正十二年九月一日)を経た7年目(昭和四年)の春のことである。
  隅田川にも前年二月に新しい言問橋(ことといばし)が架け替えられ、七月には有楽町の数寄屋橋が石橋として完成するなど、東京府はようやく痛手の燎原(りょうげん)から立ち直るかの景観を見せ始めていた。
「 ふ~ん。これが、昇降機というやつか・・・・・ 」
  人を閉じ込めた鉄の箱が上に動き始めると、身と魂がふわ~りと天昇するような脳味噌(のうみそ)の揺れる心地がして、こうして安倍富造12歳の帝府暮らしが始まることになった。





「 ご来店まことに有難うございます。まもなく最上階、八階でございます 」
  と案内される乙女言葉の使われようが何とも新しく上品で麗(うるわ)しいことか。歳にして十七、八の乙女である。そんな乙女の瞳が富造の眼に初対面でもするように触れると、眩(まぶ)しすぎるほど富造の男根は芽吹きの気恥しさを秘めて固く動揺した。
  先日の新聞ではこの乙女らのことを「昇降機ガール」と称し、日本初の試みだと朝日新聞は報じていたが、その見栄えさわやかな洋装の香りに12歳の富造はうっとりとした。
  大震災後の焼け跡に、上野松坂屋が地上八階、地下一階の白いルネサンス洋式として新装開店したのは昭和4年4月1日である。店内には演劇ホールや動物園まであり、開店当日には十三万人もの人々が殺到した。新装と同時に登場したのが「昇降機ガール」である。つまりこれは日本最後の戦後にいうエレベーターガールだ。
  年齢は富造とさほど違わぬ乙女らであるが、洋装の凛々しさやすでに芳醇な大人の女性に見える。
  3月の下旬にすでに上京を終えていた富造は、長兄倫一郎に誘われて開店三日目の上野松坂屋へとやってきた。
  東京市内の六割が焼失し崩壊したというが、上野界隈も後7年にして未だ多くの爪痕を残して、在るもといえば平屋造りの低い建物ばかりで、新装の上野松坂屋ビルは、焦土の中に凸状に現れた巨大な白亜の殿堂のごとく映った。



「 よ~く見ておけよ富造、これが今の帝府だよ。あれが宮城(きゅうじょう)だ・・・・・ 」
「 凄すごいな~、これが帝府の広さなのだ・・・・・ 」
  富造が眼をキラキラと見張らせてみる、上野山から兄と展望する東京はじつに広大であった。盆地として山に囲まれた京都に育ったせいか、囲いの無い関東平野というものがじつに新鮮であり、自由広々として富造の眼が描く光景のすべてが手に取れるようである。 富造は、倫一郎が指さす南の宮城にも素直に感動した。
「 なんと馬鹿な、そうじゃない。このドン底の帝府を目に焼きつけておけ、ということだ 」
「 えっ、どん底なのですか・・・・・ 」
「 そうだ。こんな始末の悪さが他にあるものか! 」
  兄の苦言が真っ直ぐにくる。そして兄は前方を恫喝する。しかしそんな初体験の、その春陽はじつにあたたかく、頬ほほをなでる東風は雑草にむせるような匂いがした。富造はこの兄と兄弟であることに幸せを感じた。
  その安倍倫一郎は明治三十五年に生まれた。
  富造より16歳上である。一中で飛び級し、一高、帝大の法科を出て頭も風采(ふうさい)もよく、健康で人情味もあり、家族が最も信頼を重くする安倍家の嫡男で、富造はこの長兄が賢明で堅実であることが自慢だった。
  その倫一郎(23歳)は、帝大を出ると内務省に入り、帝国という日本があり、日本に政治がある限り、帝国の役人として行くべきところまで確実に出世して行きそうなタイプの男だった。
「 今、富造の目の前にある光景が、帝府復興計画の実情ということさ。あゝ、そうともあれが復興の兆しなのさ・・・・・ 」
  と、そういうと倫一郎は、一瞬、不快そうに眉をしかめた。
「 大震災当初、内務省では三十億円の予算を捻出しても帝府復興計画を実現させようとした。しかし現実には、その予算額が大幅に縮小され、何と六分の一、五億円の規模に抑えられてしまった。これが今の政治力というか、帝国の実情ということだ 」
  この報告を聞かされたとき、椅子(いす)を蹴倒(けたお)して職場を出た倫一郎は、駆け出さんばかりの足取りで執務室に向かった。丸七日徹夜の激論の末に・・・・・(これでは何のために)と、倫一郎の唇は憤懣(ふんまん)やる方ない思いにひくひくと震えた。滅多に怒りなど貌に現わす兄ではない。倫一郎はそう語りながら、それにつれて鼻下に黒々とある大きな黒子(ほくろ)を上下に揺らしていた。
「 当初の三十億円計画は、総裁の後藤新平によって提案されたものだ。しかし政党間の対立などという馬鹿げた事があり、結果、議会には縮小案化された五億円規模の予算分しか提出されなかった。だからこの目の前にある市中の復興景観は、金に小癪(こしゃく)な糸目をつけた最低限の野暮(やぼ)な計画なのさ。将来のことを考えると、私はこの計画は大失策だと考えているのだよ・・・・・ 」
  倫一郎は、大きな眼をぎろりと剥(む)き、大きな顔を怒りに染めて語った。富造は初めてみせる赤ら顔に驚いた。
「 富造いゝかい、将来はもっともっと自動車が増える。昨年の四月には新型の蒸気機関車C53型が登場もした。今年の夏には東京と大阪を二時間半で結ぶ定期旅客飛行機が飛ぶことが決まってもいる。これからの時代は、人と物とが、もっともっと速い時間で行き交うことになる。復興が進めば関西方面へ仮移住した府民も数多く帰ってもくるだろう。だがこの計画にはそこらの計算もない。先で必ず後悔することになるはずだ 」
  赤ら顔がにわかに黒筋さえ泛き上がらせて語尾を強める。
「 道幅はもっと広く、帝国を象徴させ帝府の活力を表した豊かな公園で帝府たらしめる必要もある。それらを見越した居住地の整理などは今だからできることだ。何せこれは、江戸時代以来の大改革事業だからね。壊れたことは悲しいことだが、壊れたからこそ出来る計画がある。今なら、今しかやれない大計画ができる。大震災が天命であるとしたら、その天命の下にこそ大計画をいたす重要がある。計画というものは、そうでなくてはならない。そのことを富造にはしっかりと覚えといて欲しい。これから時代は大きく変わるぞ・・・・・ 」
  倫一郎は息をつく間もなくこう語り終えると遠い眼をして、ゆっくりと空を仰いだ。
  関東大震災における帝都被害の規模は、直後に参謀本部が遷都を検討したほどの動揺が物語るように帝都史上最悪の甚大さであった。新しい遷都話は幻のように二日で立ち消えたが、とそんな事も富造に語ってくれた。

                                     

「 もう武士の世は終わったのだ。イギリスやフランスにも昔は騎士(ナイト)というものがあった。しかしそれも終わった。今は同じ市民になっている。軍人もそうせんと本当の四民平等の世はつくれない。軍人は武士の誉れを持てと軍部は教えるが、何が誉れかを未だに履き違えとる。そこが肝心だね。日本はまだまだその肝心が足らぬ・・・・・ 」
  胸のざわめきを押さえながら富造は兄の熱い言葉を聞きつゞけた。
「 あの維新は日本のためだったはずだ。武士のためではなかった。西郷さんは一身でそれを背負った。大久保さんはそこをじっと我慢して堪えた。武士や友情より日本だった。時代を背負い、時代を変えるとはそうゆうことだ。お前は軍人になることを決めたのだから、只、その道を真っ直ぐに堂々と行け。だが、国民を見殺しには出来ん。勝敗は軍人のためのものではない。国民のものなのだ 」
「 ところで、将来は、陸軍か、海軍か・・・・・? 」
「 まだ決めかねていますが、慎重に決めたいと考えています! 」




  富造は幼かったころ高熱を発して寝込んだとき、三日も枕元で看病してくれた倫一郎の姿を思い出しながら、切々と語り詰める兄の言葉をありがたく聞いていた。
「 それでいゝ。いずれにしろ、いくらかの捨て扶持(ぶち)を与えられて飼い殺しにされてしまう軍人にだけはなるな。軍人として、堂々と肩を揺らして国民の生きる道を切り拓く男になれ。維新では、士族から職も誇りも奪ってしまったではないか。この国の計画は、そうした無念の礎(いしずえ)の下にあるが、軍人が国力ではなく、つねに国民が国力である。お前がやがて軍刀を握るとはそういうことだ。その軍人は生あれど死が常だ。そしてその死は常に国民と共にあれ。だから、もし死のときは・・・・・ 」
  と、倫一郎は一瞬、五体を震わせた。
「 そのときは、そのときはだな・・・・・富造、国民の力のために、富造は、真っ逆さまに天国に落ちて行け!・・・・・ 」
  天国に落ちる、地獄に落ちるより厳しい戒めだが、富造は嬉しかった。
  明日は府立一中の入学式である。 その前に倫一郎は上野忍ケ岡からの東京を見せたかったのであろう。そう思う富造は、新たな血を注ぎ込まれた清々しい顔で、大空を仰ぐ兄の伸びやかで広い背中をじっとみつめた。
「 1000円を捕り損ねたぜ。西巣鴨にいたとは、迂闊(うかつ)、うかつ、残念無念 」
「 けッ・・・・・!」
  男は我慢がならんと言いたげに吐き捨てた。
  そもそもこの奇怪な言動が貞次郎との馴初めであった。
  星ノ岡は坂道の多いところである。
  頂きに府立一中が日比谷から移転完成したのは昭和四年のことであった。その頂きの地とは、明治のたばこ王と称された井村吉兵衛邸跡地のことであるが、一帯は星の美しく輝く高台で古くから星ノ岡と呼ばれていた。
  高嶺の花道とばかりに新調の服で京都から東京へと渋谷道玄坂の長兄倫一郎宅に転居して、府立一中へと進学することになった阿部富造は、本日の福寿暦の運勢に習い事・事始め・種蒔きは吉、結婚・葬儀は凶とあることから、縁起よく六時の鐘のように早立ちをして一中のある星ノ岡をめざすことにした。
  倫一郎から習った道筋通りに青山から乃木坂、赤坂へとのんびりと歩いた。



  復興する東京の空気を旨うまそうに食べながら行くと、やはり京都とは違う風景は開放されて新鮮なのであった。
  そんな富造は、新築校舎の待つ入学式に出席するために遅刻坂(ちこくざか)を意気揚々と上がっていた。この坂を上がりきると右手に、あこがれの一中が目前にあるはずだ。富造の心は泛うき立っていた。その花道で、吐き捨てた男の言葉が富造の眼の前を歩いていた。
  前にある人影は、丸く愛くるしい肩をした小柄な男だった。地声なのか、その言葉が鮮明にしかも唐突に聞こえたので、いさゝか富造は苦笑した。1000円という響きが妙になまめかしく後を曳(ひ)くのである。
  昭和四年当時の円の値打とは、現代平成の値打に置き換えると約五百倍ほどの価値となる。これが1000円であれば、額面にして五十万円相当になる。当時、本郷界隈の下宿代(二食付き)が一ヶ月分25円、小学校教員の月給が46円であった。そういう貨幣価値の感覚からして、尋常小学校を卒業したばかりの年少の口が洩らす額面としては尋常ではなく、富造が耳にした金額はいかにも怪しげで破格のものであった。
「 ほゞ二年分の授業料じゃないかよ。しかも、それを盗(と)り損ねた、とは・・・・・ 」
  入学の諸経費が百四十六円十九銭、前納した一ヶ月分の授業料が五十五円であった。
  これらの一切を長兄倫一郎が工面してくれたのであるから、富造はとくとくと正座しながらも金銭の値打について語る倫一郎から学生の本分まで指南されている。その免目を兄に涙して誓ったのであり、金銭の扱いには人一倍の魂を悉皆(しっかい)と胸に叩き込めていた。
  もし1000円あれば学寮生活の費用が丸々二年分楽に賄(まかな)える金額であることへの分別(ふんべつ)は逞(たくま)しいのである。しかし同年齢と思える男のそれが一体何事なのか、それは分からない。どうにも他に聞かれてはならないような秘め事を盗み聞きしたようで、小柄だからと侮(あなど)れない富造は心なし足取りをゆるめ男から少し距離をおいた。

                             

「 しかし惜しい、実に惜しいことをした 」
  男はまたそう言って立ち止まると、今度は、ふと腕組をして首をかしげた。そんな男の形(なり)振りには、勘(かん)ぐれば恣意(しい)とも感じ取れる妙な間があった。敢(あえ)て聞こえ届くような発声でもある。否(いや)、地獄耳めいた富造だから聞き分けのできた声なのかも知れない。だが富造には迫る式典の時刻もあり、たかゞ一見(いちげん)の男などに気遣ってはいられない苛立(いらだ)ちがあった。
「 こんなところでつ立ってもらっては邪魔だ!・・・・・ 」
  そう思う富造は追い抜こうとして男に並びかけると「遅刻するぞ」と大声で道をゆずるよう促した。すると男は立ち尽くしたまゝ、ぽろぽろと涙を流しはじめたではないか。やゝ怒鳴りはしたがそれほど邪(よこしま)な声ではなかったはずだ。富造は足を止めさせられて、すこし腰を泛かせて男の顔を今一度ていねいに見た。
  背丈が一尺も違うからそうなるのだが、背を折って覗(のぞ)き込むように気配を窺(うかが)うと、その瞬間、
「 遅刻・・・・・この坂で・・・・・か 」
  と、男はそう呟(つぶや)くとどっと笑い声を発(た)て、弾みに体を前に乗り出して富造の股間(こかん)をぐいと掴(つか)み上げた。
「 くっ・・・・・! 」
  潰(つぶ)さんばかりに男根を掴まれると、下腹の奥に焼けつくような痛みが走った。さらに捻(ひね)り挙あげられると、唇だけがひくひくと動き、手も足もぶらりと動かぬのでは、いかんともし難い富造であった。たゞ、切れ長の眼が吊り上がり、肉の薄い額に叩き破られた蜘蛛(くも)の巣のように青筋が立っていた。
「 さっきの科白(セリフ)、もう一度聞かせてもらおうじゃねえか 」
  男は猪首(いのくび)の顔を鋭くどんと富造の鼻先にぴたりとつけると、藁(わら)くずのような勢いで燃え上がるような眼の光りをむき出して言った。それはほとんど常軌を逸した厳しさであった。だが富造も一中を足がかりにやがては士官学校にと闘志を篤(あつ)くする男児である。たとえ急所が潰れようとも怯(ひる)むはずもなく、青筋を隈取(くまどり)のように赤変さして、食いつかんばかりの形相で詰め返した。
「 手前(てめえ)こそ、どういう了見だ! 」
  男は富造の血相を見るなり、ぎょっとして怯(ひる)み、油断したかに手元を弛(ゆる)めた。
  その一瞬を叫ぶなり富造は男を突きのけ、胸倉を掴んで殴りつけた。猪首の上にちょこんとある丸顔は、見るも無惨(むざん)に腫(は)れ上がった。だが男はそれでも富造の脇腹にとりつくと、この天才児は、鼻血をしたゝらせながらも、天を睨(にら)んで大見得(おおみえ)をきった。
「 これ寸善尺魔(すんぜんしゃくま)の障化仏罰(しょうけぶつばち)、あゝ我われ破戒のうえは、生きながら鳴る神となって、かの女、たとえいずくに隠るゝとも、天は三十三天、地は金輪奈落(ならく)の底か・・・・・ 」
  と、 さながら市川團十郎(だんじゅうろう)が好んだ凄みで鳴神上人(なるかみしょうにん)を見事に傾(かぶい)て演(み)せた。
  これにはさすがの富造も呆然(ぼうぜん)とした。しかし富造は、歯をかみしめ唇を閉ざすと、潰さんばかりに男の鼻をつまんだ。だが男も口を固く閉ざしたまゝ、逃れようともしなかった。
「 うががっ・・・・・ 」
  息苦しいのか、男は喉で痰(たん)を切るような音をたてた。
「 苦しいのなら、その口を開けろ 」
  それでも鼻をつまむ手をゆるめなかった。だが、男の息が次第に細くなるように感じた。顔から血の気が引いていくのもわかる。眼も黄色く濁ってきた男は、しかし未だ傾(かぶい)ていた。
「 何と強情な奴だ・・・・・! 」
  この一瞬の演(み)せ場を見せられて、即座に歌舞伎十七番の「鳴神」だと判るところが、京都の小憎らしい富造の素養といえるものではあったが、祖父阿部清衛門の薫陶の中に育った富造には、幼少より幾度となく祖父の手に引かれて観劇した、日本最古の京都四条南座に遊びながらも体験した大向こうをうならす外題(げだい)の大半は体に滲しみてあった。
  その「鳴神」は市川家の十八番(おはこ)である。
「 無礼構わぬ、よっ、成田屋(タヤッ)! 」
  鼻をつまんだ手をゆるめると、咄嗟(とっさ)に富造はこう声を掛けていた。
  これは狂言の幕切れの柝頭で、歌舞伎通なら知れたことであった。たゞ富造のそれは数寄者特有の粋(いき)を演(み)せた踏み込みがある。それは京者の富造が大向こうの江戸歌舞伎へと投げかけた儀礼でもあった。
「 ふぉ~っ 」
  と、男は水面で息をつく鯉のように大きく口をあけた。
「 ほゝう、お前(め)え、大(てえ)した者(もん)やなあ~。負けたよ。決まり手は、うっちゃり、てとこだね 」
  男は息も切れ切れに言うと、声高(こわだ)かに大笑いをして、さわやかに笑った。
「 無礼構わぬに、鎌(かま)輪(わ)ぬ、を掛けやがるとはな~ぁ。しかも(たや)と縮めた。大した奴や 」
   鎌輪ぬ、とは成田屋の役者文様である。判物(はんじもの)文様(もんよう)の一種で「鎌輪奴(かまわぬ)」とも書く。「鎌」の絵と「〇」(輪の絵)とひらがなの「ぬ」の字で「かまわぬ(構わぬ)」と読む。「ぬ」を〇で囲ったもの、〇と「ぬ」が別になったものなど変種も多くある。江戸時代初期の元禄前後、町奴(町人の侠客)などの間に流行した衣服の文様である。
  これを「 水火も辞せず(私の命はどうなってもかまわぬ)」という心意気で好んだ。役者文様にも分類され、今でも浴衣や手ぬぐいに用いられる粋な柄である。団十郎のライバルの尾上菊五郎が張り合って、「斧(よき)琴(こと)菊(きく)」という吉祥文様を愛用する。「鎌輪ぬ」は男性が好み、「斧琴菊(よきこときく)」は女性に愛用された。
「 これは、まさしく天の声だな・・・・・ 」
  と、富造はぽつりとつぶやいた。
  そうとしか思えない瞬間が最近時々おとずれる。すべてが祖父清衛門からの手習いである。富造は全身の血がふつふつと滾(たぎ)ってくるのを感じた。空を仰いだ富造は、はち切れんばかりに帆をふくらました船のように胸と背を張った。そうしてこの坂道を海の彼方に消えていくまで走ろうと思った。
「 おい、遅刻するぞ。初日に遅れるとまずい、おい走るぞ 」
   白い帆をするすると上げるように、富造は両腕を上下させて男の眼の前を煽(あお)った。
「 それそれ、その遅刻するが、まったく野暮(やぼ)だねぇ~。お前知らないのか、此(こ)こを遅刻坂というのを。口にするのは野暮ってもんだ。見て見ぬ振りが、花ってもんよ。粋ってもんよ・・・・・てなこと言っていたら遅刻するか。よ~し走るぞ、それッ! 」
  その間合い良く、吹きつけた突風に押されて横にすべるような動きを見せて一羽のひばりが目の前を過ぎた。これを合図に、二人揃って飛ぶように坂道を駆け始めた。そのとき富造の眼は、比叡山でいつも共に遊んだムササビの姿を泛かばせていた。そしてそのお山へと上がる竹林は富造少年が山の仲間と築いた一国一城の砦。その竹林城の清風が吹いてくる。
「 俺は、古閑貞次郎。お前は・・・・・ 」
「 安倍富造だ! 」
  二人は走りながら名乗りあった。
「 ところで・・・おい、1000円って、あれは、一体何だ! 」
「 あゝあれか、聞こえたのか。長くなる、式が終わってからな。この坂の下で待っているよ 」
  追い風に帆をふくらました二つの船は、府立一中の校門に、ぐいぐいと近づいている。
  小太りの貞次郎は息が上がるのか両手で何度も頬を叩いた。
  そして踵(かかと)を蹴ってホウ、ホウとみゝずくのような声をあげた。
  それはあの京都山端の山々で聞いていた懐かしい声だ。そんな気にさせられたのだ。
  だから富造も貞次郎に同じ声を返しながらホウホウと駆け上がった。




「 お~い関介(かんすけ)・・・、元気でいるか!・・・・・ 」
  駆け上がりながら富造は関介の姿が眼に泛かんだ。
  小さな黒い手足を四方に伸ばし、身丈を上手に風呂敷のごとく広げては自在に風に乗り比叡の山々を渡り跳んでいた。カンスケとは狸谷不動院の屋根裏に棲むムササビである。その関介の親友に阿部家の裏山が縄張りの聖太(せんた)という古狸がいた。
「 菊さんは元気やろか!。よう、あないな狸じじいに、惚れやしたなあ~・・・・・ 」
  菊とはセンタの五番目の若妻である。センタの茵(しとね)は瓜生山の祠(ほこら)の中にある。その祠の草には富造もよく寝ころんだ。富造はよく野風僧(のふうぞう)をしては関介と聖太と菊とで比叡の森を自在に駆けた。琵琶湖への道によく道草をした。関介や聖太や菊によって鍛えられた足は、いつしか自慢できる韋駄天(いだてん)となった。
  そんな富造に、どうやら東京でまた新たな友ができたようだ。
  遅刻坂は勾配のきつい坂道である。
  富造は比叡山へと上がる、きらら坂の急勾配を思い出した。
「 あの、木の根の生えた坂のきつさに比べれば、こんな坂・・・・・ 」
  ホウホウと駆ける、二人の声の掛け合いは、どこか忍び走りの符合の笛のようでもあって、すでに長い長い友垣(ともがき)でいる阿吽(あうん)のそれだ。富造には古閑貞次郎との出逢いをもたらしてくれたこの遅刻坂が、二人で駆け上がりながら、関介や聖太と駆けているようで、どうにも背にいとおしくてならなかった。
「 人間の人生というものには偶然が関与する。それは、夜中に街を歩いていて、ふと見上げた星々の何に目をとめたかという偶然だ。いつ、どこで、どんな人物に出会ったか。そのなかには、一連の星座をかたどる生涯のうちの一人に出会うような偶然がある。すると、こうして雨田博士から聞かされた富造を想い浮かべることは、それはやはり二つの星の廻り合わせなのか・・・・・ 」
  幽・キホーテは、富造が貞次郎に手向けた「ミズヒキの花」の小さな赤い景色が泛かんできた。
  正岡子規に「 かひなしや水引草の花ざかり 」という句がある。同一刻限に見る見知らぬ人生の光景というものは、どうやら出会ってみなければ決してわからない結晶的な雰囲気というものがあるようだ。
  ミズヒキの赤い花粒を夜空に並べてみた幽・キホーテには、博士から始まる人物との出会いが、連星のように感じられた。


                                    







                                      

                        
       



 関東大震災






ジャスト・ロード・ワン  No.13

2013-09-24 | 小説








 
      
                            






                     




    )  水引の花  Mizuhikinohana


  日本という国と正座する日本人の雨田博士には、ここ30年間にわたり万夜万乗の執筆がつづく。
  衰えたその眼には、それでも初夜から昨夜までの筆跡をバックナンバー順に並べたインデックスが、次々と引き出されていた。
「ああ、これではもう幾ばくも無い、そんな気がする・・・・・! 」
  吐息、そして溜め息に、ひと呼吸おいて静かに坂を上る阿部富造の影を泛かべると、ある雨の一夜が想い起こされた。
「 戦中、特に戦後、この異様な現象間によこたわる本性、そして戦争という実在の奥底にある非日常の世界性、博士は何故そのような試みに夢中になったのであろうか。博士は、戦後における日本人の生活意識が二重化され、玩具化されているという。これなどは博士独自の類をみないフラジリティ的史観ではあるが・・・・・ 」
  やはり博士が気にかかる。そして斎場御嶽(せーふぁうたき)で宵闇の青い星空をながめる幽・キホーテの眼には、さも共鳴し合うごとく雨田博士が富造へと想いやる一筋の軌道が克明に泛かび起こされていた。
  克明であるというのは、雨田虎哉の見聞が詳細にわたっているというだけではなく、取り扱っている情報の意味、すなわち「日本をどのように変えようとしたか」という主題を深く彫りこんでいるという意味もあった。
  博士の眼は、コーン・パイプを咥(くわ)えたマッカーサーが厚木飛行場に到着するところから始まろうとしているが、すでに敗戦直後の混乱と錯綜は緩和されていた。が、ここから日本は、アメリカ指南の豪腕な「民主化」という敗戦処理が徹底して行われた。幽・キホーテは現在にいたる今も、GHQが日本にもたらした亡国のシナリオを知って驚愕しているのだ。そして日付を追って戦時体験者・雨田博士のツボをバランスよく心得た見聞と過不足ない適確な感想を読んでいくと、暗澹たる気分になってくる。
  幽・キホーテはそのうえで、まるで2時間で一国スクラップの推移を描いた銀幕をみるごとく、珍しくも不可解な人間界の出来事に食い入るように自国の過激な変貌を見ている自身がいることに気づかされた。きっと琉球の御嶽だからそうさせるのだ。しかしだからと言って、ここでアメリカに惨敗した日本の惨めで不格好でペコペコした姿をじっと見続けさせられるのは、それはやはり痛切である。
「 だが、その日本の戦後を何とか回復させようと躍起になっていた日本人らしき日本人が生き生きとした活躍も、博士は遠慮容赦なく書き加えてくれている。ああ、あの一翼に、あらゆる万感が込められている・・・・・ 」
  その一翼である音羽六号の飛翔を泛かばせながら、幽・キホーテは雨田博士の眼差しを追った。
「 雨田博士、阿部富造、この一点をどう見るかということに21世紀後半の日本の大半がのしかかってくるといってよい。その最初の一撃がこの御嶽によって私に放たれたわけだ・・・・・ 」
  幽・キホーテは京都から放されて富士山を越えようとする一翼に、そして二人の男影に、じっと手を固く握り締めた。密かにその影にいた小生丸彦もまた同じく猫の手を固く拳(こぶし)にした。





  枯葉でも一枚たゞようごとく小さな列島がある。
  西洋の野心家らの眼にはそのように映っていた。
  極東に隠れるように陰(かげ)り、かたくなに国を鎖(とざ)したこの小さな島の連なりを敷島(しきしま)という。
  これが幕末に日光権現の力が弛緩(しかん)して、古き形を捨てようとする日本という国の夜明け前の姿である。
  嘉永五年、そんな日本に迫りくる異国からの密かな一団があった。
「 あれは国ではなく、小島の村だ。あの島を補給基地として活用すれば、清国は近くなる。東海岸からインド洋経由で134日かかっていたものが、西海岸から太平洋経由でならわずか18日で行けることになるのだ。じつに七分の一、驚異的な時間短縮が見込まれる。ヨーロッパのアジア戦略に対抗するためにも、開港は是が非でも実現したい。もはやその力は知れている。分断された非力な小島の集合ではないか 」
  餌を求めて飛び回る鴎かもめの群れをみすえながら、老司令官ぺリー58歳はそうつぶやいた。
  大統領の親書を携えたこの艦隊は、1852年11月(嘉永五年)にアメリカ東海岸のバージニア州ノーフォークを出航した。フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦とした四隻、黒い鎧(よろい)づくしに黒煙を吹く艦隊である。カナリア諸島・ケープタウン・シンガポール・香港・上海・琉球・小笠原諸島を経由して浦賀沖へとやって来た。
  1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、ペリー率いる米海軍東インド艦隊の黒船来航がこれである。
  目的は開国の要求、ペリー代将はこのときフィルモア大統領から、琉球の占領もやむなしと言われていた。その年はアメリカ国独立宣言から77年の節目、記念すべ喜ばしさに加えアメリカ国が新たな希望を拓きより飛躍しようとする年であった。
  7月4日がその記念日にあたることから数十発の空砲で祝した。
  蟻(あり)が砂糖の山に群がるように浦賀浜にとりついた江戸の民衆は、突如と現れて空砲と黒煙を吹く、その船団の異様な大きさ、黒さ、怪しさにド肝を抜かれ、我先にと逃げ散った。ペリーの日本遠征記によると二度の来航で、百発以上の空砲を、祝砲、礼砲、号砲という名目で撃っている。結果、耳をつんざくような音に、江戸中が大混乱を巻き起こした。

           

「 アメリカは、このようにして日本の鎖された封建の正門へ黒船の大砲を翳(かざ)して強引にこれをこじ開けたのだ・・・・・ 」
  翌1854年、ペリーはすでに香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えていた。
  そして二度目の恐喝に屈した江戸幕府はアメリカの開国要求を受け入れた。
  約一ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、二つの不平等条約(長崎、下田、箱館、横浜などの開港や在留外国人の治外法権を認めるなど)を日本は締結させられて、ペリー艦隊は6月1日に優優と下田港を去った。
「 この黒船が開国へのトリガーであり、開国が明治維新へのトリガーとなる・・・・・ 」
  産業革命期の世界の列強は、大量生産した工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大に急いでいた。後にそれは熾烈な植民地獲得競争となるが、競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は、清国を目指すうえで太平洋航路の確立が必要であった。また、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で「捕鯨」を盛んに行なっていた。
  これは、夜間も稼動を続ける工場やオフィスのランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油を使用していたからである。
「 太平洋で盛んに捕鯨を操業していたアメリカは、太平洋での航海・捕鯨の拠点(薪、水、食料の補給点)の必要に駆られていた 」
  永らく閉ざされていたこの敷島から、三本マストの蒸気船「咸臨丸(かんりんまる)」百馬力で米国桑港(サンフランシスコ)へと船出し、初めて太平洋横断を果たしたのが1860年(安政七年)のことであった。
  出港から到着まで、じつに37日を費やしている。洋行の目的は、日米修好通商条約の批准書を交換するためで、遣米使節団一行77名が、アメリカ軍艦ポーハタン号(黒船)にて太平洋を横断するに伴い、咸臨丸はポーハタン号の別船として浦賀より出港した。この渡航より八年後の明治、日本はアジアで最初の西洋的国民国家体制を有する近代国家として誕生することになる。
「 ご一新の、これが「ミカドの国」という小さな帝国であった。だが国名は、いかにも大きく「大日本帝国」と名付けられた・・・・・ 」
  したがって名実とするために日本の新政府は西洋に手習い近代化を急いだ。



  この小さな帝国に、ダグラス・マッカーサー は二度訪れている。
  初めて訪れた1905年(明治三十八年)とは、それまで世界史の中で隠れ隠れしていた小さな島国が、あたかも神風を吹かすがごとく、大国ロシアとの日露戦争に勝利し、ポーツマス条約を締結させて、大日本帝国の名を世界の大国らの前に堂々と知らしめた年であった。
  フィリピン植民地総督のアーサー・マッカーサーの来日の目的は、駐日アメリカ大使館付き駐在武官としてこの日露戦争を観戦することである。この時に「 父と共に私も副官として観戦した 」と後年に自身でほのめかしてはいるが、正しくはダグラスのみポーツマツ条約の締結後に遅れて来日した。来日の真相はいずれにしろ、ロシア帝国を破ったこの小国の想定外の変貌(へんぼう)が25歳のマッカーサーの眼にはどのように映ったのであろうか。またこの年の6月にはアルベルト・アインシュタイン(当時25歳)が特殊相対性理論を発表し光量子仮説を導入するなど、物理学の奇蹟の年を起した。
  日本の近代には二つのエポックがあった。またそこに係わる大きな存在として、二つのメイド・イン・アメリカがある。
  その一つは開国を強要した「黒船」であり、二つは終戦を決定づけた悪魔の「リトルボーイ」であった。対象である世界大戦の上に何らかの幻想を織りあげるとすれば、これら二つの唯物は、数奇な運命として日本の敗戦のそこに連なる。

                            


「 阿部富造が、山王社北にある左右庵を訪ねてきたのは、或(あ)る晩秋の夜であった・・・・・! 」
  秋はものうく熟(う)れきっている。やわらかな雨打(あまうち)、そんな夜であるから、門前は呆(ほう)けたように閑しずかである。20年ぶりにみる、記憶の風雪を止める小さな茅葺(かやぶき)の門はしっとりと濡れていた。
  門前には「面会謝絶」の立札がある。濡れるにまかせて富造は茫然(ぼうぜん)と立ちつくした。
  但し書きに「 やむなく門前に面会御猶予の立札をする騒ぎなり 」と添えられている。
  それは誰にともなくつぶやいているのではなく、矛先(ほこさき)をぴたりと老人に向けていた。
「 軍人を捨てたら、私に何が残る。もう、疲れたよ 」
  慷慨(こうがい)の士が、それらしくなく呻(うめ)きながらこう吐き捨てた。初めて聞く弱音であった。富造の遠い記憶の中に、この言葉だけは今も鮮明にある。国事に悲憤して泣いた落胆のそれは、蜘蛛(くも)の巣の糸が心にからみついた後味の悪さのように、どのように時を重ねようとも落ちることはなかった。
「 軍人として、君は卑怯(ひきょう)だよ・・・・・ 」
  と、そのとき即座に答え返し、富造は彼の不甲斐なさを罵倒(ばとう)して詰(なじ)ったのだ。ただし腹に据えかねて侮辱したのではない。あのときは、あふれ出ようとする大粒の涙をはじき飛ばして、敢(あえ)てそのような促し方をした。死に臨んで潔(いさぎよ)くあるべきだという、軍人としての未練が厭(いとわ)しく感じられたからだ。
「 なにっ!・・・・・ 」
  冷静な富造の侮辱に、精気を失いかけてはいても、目鼻をくしゃくしゃと寄せて相変わらずの怒声で仕返してきた。
  しかしそれは一瞬、腸(はらわた)を噴き出して嘶(いなな)くような只(ただ)の一言でしかなかった。敗北を背負った軍人が、最後の力をふりしぼって空をかく声であった。
  そうしてそのまゝ、つんのめるように前に倒れたが、その眼はまだうっすらと血走っていた。
  一睡もせずに思い詰めた末の言動であったはずだ。
  軍事裁判の前に自害する軍人の情報を得るたびに、今日は死ぬか明日は果てるかと気を揉むことに、疲れ過ぎていたのかもしれない。そこには武人として人の上に立ったからには、という自負と自責とがあった。
「 気の済むようにさせてくれ 」
  と、律儀で強情な性(たち)であるからこそ、富造もまた常軌を逸したかに、冷たくそれを諌(いさ)めようとした。
  互いに気性は知り尽くしている。
「 だってそうだろう。国民にこれ以上苦労をかけて済まないとは思わないのか。たしかに日本軍は敗北した。だが国家には回復の道もあろう。その事後処理という重大な任務を放棄し、屈辱を恐れて自害して果てた軍人と等しく、みずからの面目ばかり立てようとしているのではないか。そうした軍人の性(たち)でもって、置き去りにされる国民は一体どうなるというのか 」
  と、真っ直ぐな正義は、真っ直ぐに切り崩すしかない。竹の剛のごとく死を賭(と)した正義は真っ直ぐである。睨(にら)んだ通りやはり苦(にが)り切った貌(かお)で貞次郎は首を振り、呻くような声を切れ切れに漏らした。
「 しょせん復員に帰した軍人に、仏の救いなどまやかし事さ。俺も軍人であったが、俺は生きて償いをしたい。お互い罰当たりを承知で軍人をしたのではないか。たしかに一度はお前と同じように自害の道を選ぼうとした。しかしそれは敵前逃亡、鬼が外から閂(かんぬき)をしたよ。どうだろう、惨めで辛い道になるのだが、もう一度、同じ道を二人して歩こうじゃないか・・・・・ 」
  終戦直後の、あたりを憚(はばか)る押し殺した二人の会話には、言いようのない重苦しさがあった。詰(なじ)られた戦友はしばらく地べたに腰をお落としたまゝでいた。隔意のない間柄であるからこそ富造はあえて平然と無造作に応えたのであるが、戦友でもある親友はスィと立ち上がると、抉(えぐ)るような凄まじいばかりの号泣になった。
  富造もまた棹(さお)立ちで水洟(みずばな)をすゝり上げながら泣いた。
  高札は人を拒むものではない。しかし何とも皮肉な目をして富造を見下ろしていた。庇(ひさし)からの雨だれが、かすかな光をともなって立札に落ちて、しずくがその字面(じづら)を這(は)うように流れると、また雨垂れとなり、終戦時の地へとしたゝりながら富造の足元に落ちていた。
「 このまゝでは、たゞ、古い日本を信じて死んだ、ということになるな・・・・・ 」
  と、言い遺(のこ)そうとしたので、肩をぽんと叩いてやったのだが、そのとき彼は妙に生臭い匂いをさせた。しかし初七日の夜に骨壷のある部屋に入ると線香の匂いに混ざって生臭さもあの世へと紛(まぎ)れたようであるから、恋しい人の清らかな名をそっと耳元に呼んであげた。




  彼が生き永らえることの苦しさにはその名への呵責(かしゃく)もあったからだ。
  許嫁(いいなずけ)の「妙子さん」20歳が無差別の東京大空襲で落命している。右腕をもがれながら身ぐるみ焼け爛(ただれ)て転がるようにもがきながら他界した。置き去りにした呵責は彼の胸を鎖させた。生前はその名さえ一言も語ることはなかった。
  その古閑(こが)貞次郎は20年前に他界したのである。
「 古い日本・・・・・か 」
  阿部富造は彼の臨終(いまわ)の言葉を改めて起こすと、ぐっさりと心につき刺さるようでどうにも気持ちがめいるのを感じた。それは言葉にも何もならない、大正、昭和、平成と継ぎ、やがて還暦を目前にした初老の心の襞(ひだ)にべっとりと貼り付いたまだらな感情の沈殿でもあった。
「 堪忍(かんにん)やで、本当に堪忍や。お前だけではない、私も古い日本の雨垂れなのかも知れない 」
  富造はしばらく痛ましげな面持ちで高札を見廻していたがその高札の中に、野末を吹き渡る風のような海原(うなばら)に渦巻く潮騒(しおさい)のような音をきいた。否(いや)、訊(き)かされた。すると富造の古い五体は妙に軽くて意外だった。生前貞次郎は高札が古くなると真新しく立て替えていた。
「 読めなくてはこの世に何の役にも立つまい。古臭くてはこれがこゝに立つ瀬もあるまい 」
  と、剽軽(ひょうきん)にさらりと言って、その、のんびりとした声音(こわね)が富造の耳底に今も棲(す)みついている。左右庵はこれまでに幾度となく訪れてきたが、雨の日の夜は数少なく、しずくが垂れながら地を洗っている。
  そんな門前の立札をながめながら、それらが貞次郎の面影を静かに洗い鎮めるようで、確かこれが三度目の雨夜であることを覚えると、富造の古びた心を波のような懐かしさがやはり戦友であったときと同じように潤(うるお)した。
  焼けただれた焦土の上に、やがて緑の草が生えようとするころに立てられた憤る高札である。だが永遠の憤慨のつもりでいても、これはもはや、無(む)の沈黙としか理解されない立札であった。
「 なあ貞次郎、そろそろ、意地もたいがいにして和睦(わぼく)をしようじゃないか 」
  どこか空気にでも抗(あらが)うかに富造は力細く吐き捨てた。 狂うにはじつに多くのことを知り過ぎたのだ。たゞ遣瀬無(やるせな)くなる、それを堪(こらえ)るために富造は少し角度を穏やかに変えて高札をながめた。
  立札がいう「騒ぎなり」とは、日本政府が社格制度を廃止させた騒動のことである。
  昭和21年2月2日、神道(しんとう)指令により神社の国家管理が廃止されるのと同時に社格制度も廃止された。
「 神道指令とは昭和20年12月15日にGHQが日本政府に発した覚書の通称である・・・・・ 」
  覚書は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道を廃止し政教分離を果たすために出されたものであり、「大東亜戦争」や「八紘一宇」の語の使用禁止や、国家神道、軍国主義など過激なる国家主義を連想するとされる用語の使用もこれによって禁止された。
  この覚書「 国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件 」に従って、日本国の神社の性格が解体されたのである。
「 それまで山王日枝神社は、神祇官が祀(まつ)る神社の官弊(かんぺい)大社として一等に列格されていた・・・・・ 」
  高札はこれを廃棄させられた側の憤慨の証であった。そこで貞次郎という不器用な男は高札を立て続けることに固執した。立札がなされてから、すでに半世紀が経っている。
「 この高札も、古い日本を信じて今も立っているというのか・・・・・ 」
  富造の眼には、敗戦直下、許されぬ神の住まいを覗(のぞ)きみるような恐怖で息をつめて高札のあたりを見まわした古人(ふるひと)の自らが羨(うらやま)しいのである。しかし反面、老人は自分が戦中に何をしたかを考えなければならなかった。
  それは胸倉の片隅に直径一尺ばかりの不発弾が、二つ三つ四つ転がっているような、何時(いつ)如何(いか)なるときも棘(とげ)に座らせられて居た堪(たま)れない燻(くすぶ)りである。
「 界隈を焼き焦がし草のない世界にしたのは軍人であった・・・・・ 」
   当事者であるその軍人の眼でみても、この高札が、敗戦という大事件の中で人間が人間にもたらしたところの、屈折した遺恨の表現であることに変りはない。今や無の沈黙としか理解されないが、もはや貞次郎の手を離れても、尚(なお)、堂々と起立し憚(はばか)り続ける高札なのである。キリストの血に係る彼(か)の国による試みは、日本国の敗北というより、密かに産み落とされて揶揄(やゆ)された仇名(あだな)も「リトルボーイ」という少年の血に宿された惨劇と悲劇であった。
「 人間が殺されることに正義などなく、国を比べ較あわせて人が下す勝敗などに何の意義もなく価値もない。あるとすれば唯一、無防備の人民を無差別大量に撃殺すことを可能とした科学の敗北であったろう。彼の国では神は人間に叡智を与えたのであるというが、その科学という聖域をみずからが手で穢(けが)した・・・・・! 」
  その多くがキリストを父としマリアを母とする子供らの手なのであった。
  日本では「 天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ 」という明治維新の一節が有名である。
  この「云ヘリ」とは、現代における「云われている」ということで、したがってこの言葉は福沢諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの引用である。咸臨丸でアメリカに渡った福沢はこれを範として日本国民の行くべき道を指し示した。
  しかし範とされた彼の国がその宣言で人の平等を説きながら、広島のリトルボーイで輝かしきその伝統の法灯を消した。長崎の不必要がその思いをさらに強固に証明させるのである。

            


  中でも、「 全ての人間は平等に造られている 」と不可侵・不可譲の自然権として唱えている。
  このことを憂い思う富造は、戦後の1946年に公布された日本国憲法の第十三条「すべて国民は、個人として尊重される」にも、その影響が見られることに、人民の下にあるばずの国家というものが全く危うく思われるのであった。
  福沢諭吉は、江戸時代末期から明治時代初期にかけて、西欧文明が押し寄せてくるのに先立ち「 天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ 」と、著書「西洋事情」で、「 千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文 」と、して、アメリカ独立宣言の全文を和訳して紹介した。
  このうち、冒頭の章句および思想は、後の著書「学問のすすめ」初編冒頭に引用され、日本国民に広く知られるところとなった。
「 日本には障(さわり)という言葉使いがある。その顕あらわれ方は、言霊(ことだま)の作用である。古代から日本では言語の裡(うち)に神が顕れた。つまりそこには日本の神の心がある。この神意は畏れ多い日本人の他は解らない。神の意志とは人間の意志では表せぬ日本国において、そのような障りがどこに向かうかは日本人の心のみが予感して判ることである・・・・・ 」
  それはまことに小さく斬新な科学、直径75センチ、長さ3メートル、重さ4トンの人類未曾有の兵器である。
  それが広島のリトルボーイ(少年)と、長崎のファットマン(豚男)であった。
  この原爆で玉砕され、かくして莫大な障りを享受した日本国民は、被爆国の理性を芽生えさせて戦後を生きることになったが、新たなこの理性を真摯に享受した富造は、この一点で新たな日本人であることを誇りに思い続けている。
「 リトルボーイ・・・・・ 」
  と、確かに俺はこの耳で聞き取った。
  テニアン島ハゴイ基地からの打信音の中に・・と、語りかけるその古閑貞次郎の眼光は、人の心の奥底まで見透かすほど鋭かった。
「 こんな、こんな、こん畜生があるのかい 」
  一瞬気圧(けお)されるのを感じた富造は、気後れしそうになる自分に活を入れながら震えるように聞いていた。
  何よりもリトルボーイという奇妙なコード番号の新語が耳に斬新であった。
「 あの時、参謀本部が広島に敵機襲来の空襲警報を発令してさえいれば、多くの人命が救われた。なぜ、発令はなかったのだ! 」
  と、こう語りながら烈(はげ)しく詰め寄る貞次郎の終戦直後の無念さが、富造によみがえり脳裏を痛烈にかすめるのだ。体は小柄(こがら)だし、ふっくらとした顔には温和な笑みを普段は泛かばせていたが、このとき貞次郎は貌(かお)を、十歳ほど老けた鬼の姿に変えていた。
  この貌に富造は酷い障りを強く抱いた。
「 北マリアナ諸島の一つサイパンから南8キロにテニアン島がある。その島北部に諸島最大の飛行場を有するハゴイ基地があった。1944年(昭和19年)7月まで、この基地は約8500名が駐屯する日本軍の重要な軍事基地であった 」
  その7月、北部チューロ海岸から米軍が上陸、日本軍を玉砕し8月には同島を占領した。
  これが戦史に名高いテニアンの戦いである。



  以後、飛行場は拡張され本格的な日本本土空襲を行う前線の基地となった。
  この戦いは、日本の終戦をすでに決定づけていた一戦ということになる。
  7月16日にはすでに、米国内でのトリニティ実験(プルトニューム原子爆弾の起爆実験)が行われ、成功した同日サンフランシスコ港から重巡洋艦インディアナポリスに同型原爆の二種類、リトルボーイとファットマンが積載され、日本本土への爆撃機の基地であるテニアン島へ向け出港をしている。 到着後、リトルボーイの組立が完了したのは7月31日であった。
  昭和20年8月6日、真夜中、日本軍の諜報(ちょうほう)部隊はテニアン島を軍事拠点とする米軍部隊の無線情報を監視し、懸命なコール無線の傍受によってB29エノラ・ゲイという特殊任務を帯びた敵機部隊が広島に接近していることを察知した。しかしその諜報は、防衛に生かされることもなく空襲警報すら発令されなかった。古閑貞次郎26歳は、通信班を率いる中尉としてこの諜報の任務にあたっていた。
「 あの時、一翼の紫電改(しでんかい)すら広島の上空に無かった・・・・・! 」
  確かに本土決戦に備えた当時、すでに零戦では米英軍の新鋭戦闘機に太刀打ちできなくなっていたし、ようやく完成した雷電(らいでん)は実戦配備が遅れ、空中戦の切り札として紫電改は残されてどこかに待機していたはずだ。
                          
  高度一万メートルの上空で交戦できる戦闘機は紫電改(紫電二一型)しか他はなかった。本機は遠方から見るとグラマン社の米海軍F6Fヘルキャットとよく似ており、誤認させる作戦は夜間の戦闘上有効でもあった。
  一説では当時、日本国の敗戦を予期したソ連軍が北部から南下を開始したことで、参謀本部は混乱を極め適正な判断が疎(おろそ)かにされたというが、そうであれば益々貞次郎は不本意なわだかまりが消化できずにいた。ドイツが降伏したのは5月7日。その後に欧州戦線のソ連軍が満州方面に大挙して移動中との情報が入ったのであるから、その間約三ヶ月、軍議に暇(いとま)なきことが参謀の本分であろうから、と考える忠誠の貞次郎には理解不能なことであった。
「 俺達の懸命な諜報任務は一体何であったのか、あの有様は・・・・・ 」
  貞次郎の吊りあがった細い眼が、らんらんと輝いていた。このとき富造は深くため息をついた。これは初老である阿部富造が未だ若く、戦後昭和21年にようやく再会を果たした折りの、古閑貞次郎との会話である。
  以来、語る復員者と聞く復員者とにできた空白は一度も動こうとはしなかった。
  しかしあの時、小刻みに震える貞次郎の肩を見ているうちに、富造はどうしょうもない無力感にとらわれたが、なぜ気力が萎(なえ)ていくのかが解らなかった。富造の無念や痛哭は終戦という結論では一切閉じれないのだ。

                              

「 日露戦争から40年後、来日二度目のマッカーサーは、大日本帝国の凋落(ちょうらく)に立ち会うことになる・・・。この黙示録的な黒い影がふらふらとする時間の経過とは一体何か・・・・・ 」
  1945年(昭和20年)、降伏文書の調印に先立つ8月31日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立った最高司令官マッカーサーは、記者団に対して第一声を次の様に答えた。
「 メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する・・・・・ 」
  と、コーンパイプを燻くゆらしたのである。
  このような因縁の交わりのもとで織りなす敗北と勝利のさまとは事実としての奇妙な奇跡であった。
「 いにしえより日本の四季は、朝の凛(りん)に夜の幽という・・・・・ 」
  マッカーサーが初めて訪れた日露戦争の当時、日本には楚々(そそ)とした野趣の漂う日本人の長閑な凛とした生活があり、表には近代文明へと生き急ぐような変貌ぶりで、国勢の絶頂を幽(かそ)けく見せつける滞在期間があった。この絶頂から凋落までが40年、そのすべてが戦争に尽くされた何とも不毛の時間であったわけだ。
  昭和20年(1945年)9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ艦上で日本の降伏文書調印式が行われた際、嘉永七年(1854年)の開国要求を果たした折りの、ペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた米国旗が本国より持ち込まれ、マッカーサーはその旗の前で調印式を行なった。
  このセレモニーを演出してみせたマッカーサーの意図が、大戦の一切が不毛であったことを物語っている。富造にはこうした日本人に向けた決着の付けようが一つの慟哭の要因なのだ。日本の男児には馴染まないのである。




「 人間どうしが互いに理解しあうことが困難なのは、しかし、国家と国家とのつながりだけなのであろうか。同じ時代を生きた人間どうしの心にも、語りがたい体験の落差として、孤独の深淵(しんえん)は今もぽっかりと口を開いているではないか・・・・・ 」
  マッカーサーやアインシュタインの孤独が不毛なものであるなら、大日本帝国の情熱もまた不毛なものであったかもしれない。にもかかわらず、どんなに徒労に終わった情熱でさえ、やはり人生の固有な一駒をなしているし、人間はどの時代に対しても、それぞれの夢を抱くことに変わりはない。敗戦には一言もないが、アメリカは日本人に潔い敗北の慟哭を自責させることをしなかった。
「 現代の日本と自由な交渉を持つアメリカを、戦後の解放の所産と見ることもできなくはないが、戦争が人間に与えた痕跡は、まことに複雑を極めたものであった。特に原爆の、その苦痛はあまりにも量り知れない。私は最期の沖縄も見た。文化とか心とかは合理や効率で分かち合えるものではない。心ここにあらずの米国と結び合う将来とは不安だ! 」
  眼にペリー艦隊の旗艦「ポーハタン」号に掲げられていた星条旗が三度みたびはためく。無性にはためくのだ。無性に障るのだ。
  人が末期(まつご)に見る色がどんなものかは知る由もないが、これに対し、死体とはまったく沈黙の世界である。ひたすら静謐(せいひつ)なのである。そこには人間を限りなく誤解させるほどの静けさがある。その人の死とは、冷然と人間界を無視して勝手に動いてゆくものではないであろうか。人間とは卑小であるから、と、済ますのでは悪意に翻弄された人間の心の傷が永遠に癒えることはない。そんなはずはない。富造は同世代の死者にたいして拘泥(こうでい)せずにはいられないのである。
  たしかに人間は卑小かも知れぬ。だが富造には、還暦を過ぎて長寿になろうとするまでを生き永らえて享けた命のあることの意味として、仏の済度に洩(もれ)た衆生(しゅうじょう)を救うために現れる未来の仏も人間にはあるような気もする。そんな陰陽寮博士・富造の、花卒塔婆(はなそとば)とは、あらゆる死者たちに化粧を施し、哀しくも美しく弔うことであった。
「 神に丘惚れした男に板塔婆(いたとば)はなかろう。貞次郎には花そとば、どうだ此(こ)の花は、貴様には比叡山の野花と語り合って欲しい。あの世でもきっと俺の花形で居ろよ。なあ貞次郎よ!・・・・・ 」
  高札の根元に富造はそっと水引(ミズヒキ)の赤い花穂の小さな花束を添えた。
「 待っていろ貞次郎・・・・・!。俺も間もなくそちらへ行く。きっとお前はあの姿で、あの坂にいるのであろう。あゝ、俺もそうだ。あの坂の頂きにまた二人して立とうじゃないか・・・・・! 」
  富造が古閑貞次郎という男との最初の出逢いを想い起こそうとするのは、今日が彼の祥月であるからで、高札を眺め終えた初老・安倍富造は、茅葺きの門前で一礼を終えると、眼に刻み込まれた二人だけの、あの青春を描き起こした。


                                    







                                      

                        
       



 リトルボーイ 広島






ジャスト・ロード・ワン  No.12

2013-09-23 | 小説








 
      
                            






                     




    )  百姓  Hyakusho


  自然界が「くびき数式」という語法で解説されていた。
  どうやら日没の瞬間は、その数式によると視界の彩度が「零(ゼロ)」になるという。
  自然が「くびき」を意識するという、語法の引用がいかにも生臭く感じられた。
「 これは、法衣の解釈でしようね!。自然科学の概念とは思えません・・・・・ 」
  キッパリと、修治は読後の感想を伝えた。
  そして30分後に、雨田博士の本棚にある本を「すべてチェックさせて下さい」と願い出た。
「 その読書感想文は、赤点です! 」
  とザックリ、仕返しされたからだ。
  人間の明日とはいかにも未明である。翌日から半年間ほど、毎日山荘に通うことになった。
  数万冊はある博士の蔵書の中に、その不可解な数式を解説したと思われる古い手引書が一冊含まれているという。仕分けてそれを見出すのに半年間を要したのは、不可解な数式とは、科学式なのか工学式なのか判別がし難い本だったからだ。つまり修治はこの本の内容が知りたくて半年間も山荘に通ったことになる。本の手引きは、既存の価値を維持しようとするものに反逆するものであった。
  すべてをチェックさせて下さいとは言ったが、全書という意味ではなく、一冊の全てをということだった。したがって博士は少し誤解をしていたと思う。博士はあのとき「二年でも三年でも貴男のお好きにどうぞ」と言ってくれた。そうだから一冊の本をかかえて、修治は書庫の中をあてどなく回り行き、歩きながらその本をようやく読了した。するといつしか修治はすっかり反逆の意識内へと手引きされていた。
  この一冊には、半年かけて修治がそうするだけの不可解な価値があった。
「 落日は、おぞましいものを棄却するために一度すべての色を零(れい)にする。結果、落日は乗法と除法による演算を廃棄した。同時に減法による演算も廃棄した。このとき落日は加法のみに注目し、その性質を黒とした。また等式によって黒の性質は無制限に変化することになる 」
  と本には、修治の記憶に残る特別な一行が、人の想像は神髄の理論をえて意味をもつように刻まれていた。
  そして、これを尸解仙(しかいせん)という無意識の力であることを初めて知った。仙人の言葉である。

                    


  日没のとき陽の消えて逝く海洋は漆黒となる。そして月が生まれ、海はにわかに仄かな青みを射してくる。
「 ああ、これが、美(チュ)らの青さなのか・・・・・!。あの本のいう、零点からの加法なのか・・・・・ 」
  琉球の海はこうして青い夜をはじめるのかと感じた。だがその海は、しだいにただならぬ様相をおびてきた。
  たとえばそれは汚物や廃棄物、体液や死体などがそうであるとともに、天理の法を破ろうとするもの、天上の良心を欺こうとするものも、神の御法度を破る人間によって創造されるものを、黙示録の様相として現した。
  夜の青さにそう語りかけられると、今お前がみつめる海の青は太平洋の表層色であって、到底お前には見えない深層色の青が真なる琉球の海であるというあたりから、まるで天上より修治は叱られているかのようであったのだ。
  しかし、そのうち、その表層や深層を琉球の神々が尚書令に律せられたときの事情を顧みるときは、などという史実疑考の何とも神さびた名調子に入ってくると、これは神に叱られている立場が、なんとも真逆に感化されて快楽に思われてきたのである。
  さらに曲亭馬琴の著名な「椿説弓張月」の才色によれば、といわれたあたりでは、あたかも未知なる才色を放つ曲亭馬琴が修治にも既知の昵懇の間柄に見えて、比江島修治は、ついついおおいに、琉球の海原へと身を乗り出すことになった。するともはや前人未踏の境地を曲亭馬琴と共有しているということに全く違和感などなかった。だから御嶽から望む青い夜の外洋は、しだいにただならぬ様相をおびてきたのだ。
「 ああ、あの波の上を滑るように、野口英世が、シェイクスピアが、そしてアンデルセンが、さらにスターリンが南へ南へと運ばれて行く。くるくると面々が何かを話題に上げながら、南へと運ばれながらも夜の青を美味そうに食べている。あれはおそらく死後の世界を生前の彼らが楽しく語り明かしているのではないか。その南とは、なるほど西方浄土なのだ・・・・・! 」
  出逢うこともない見ず知らずの4人が、どうしてか回転寿司のコンベヤーベルト上で、皿に座る寿司ネタのごとく修治の前を滑りながら、そして際限なくくるくると回り続けていた。寿司屋を訪れた客がみたその光景とは、そこに夥しい彼らの仕立てた名物の華葉果実がたわわにぶらさがるというふうなのだ。その博覧強記の味はいうまでもない。なにしろ彼らはこの地上で珍味名物を醸した面々なのである。
  そして修治は一皿の行列、この共通点に何か濃密な秘密が隠されていることに気がついた。
「 やはり・・・・・、農家には何か不可思議なものがある! 」
  どこか「百姓のいわく」というものがひそんでいるように見えた。
  比江島修治は以前から、少なくとも次の9人が農民に生まれたことにはなにがしかの因縁があるのだろうと思ってきた。
  眼に浮かぶ9人とは、謝国明(しゃこくめい)と、吉田 兼熈(よしだ かねひろ)と、呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)と、小西隆佐(こにしりゅうさ)と、紀伊国屋文左衛門と、野口英世と、そしてシェイクスピアの父ジョン・シェイクスピアと、あるいはアンデルセンと、さらにソ連の帝王スターリンの母ケテワン・ゲラーゼという面々である。
  こうした多くの昔話の主人公たちは、何らかのハンディキャップを背負っているものなのだ。





  おそらく9人に共通する人生なんてないのだろう。
  けれども、少なくともこの9人が百姓に生まれたことは、世の中に新しい職業が生まれるにあたって神々の遠大かつ広大な寝台が用意され、すでに天上の意思が書き割りになっていたにちがいない。
「 きっとこの9名の人間は、一人の貧しい百姓の少年や少女に窓辺の月が語りかけるところから始まるのだ。月は少年と少女に、これから自分が生きる物語を宵闇のなかに照らし出してみなさいと勧める。そこで少年と少女はトテツモナイ大きな話を窓辺に書きつけた 」
  青いタテガミの馬に跨る幽・キホーテの修治には、夜の深海の底にいて9人が結ばれて横一列に座る姿が泛かんできた。
「 ああ、これでは、まさにあの三猿ではないか。叡智の3つを握りしめながらも、さも秘匿するかのようだ。なぜ眼を伏せるのか、どうして耳を塞ぐのか、口までを閉ざすのか。君たちはいずれもが誇らしくあるべき勝者ではないのか・・・・・ 」
  9人はじつに消極的である。この世に無関心である。天上に響く鐘の音を聞いていると、この見ザル、聞かザル、言わザルの沈黙をまず突き崩すよう、目に見えない神の手が修治を導いているように感じた。
「 ここには何か大事な暗合や符牒が劇的に秘められているはずなのである 」
  日宋貿易に従事した謝国明は南宋の宗教文化を博多に輸入した。卜部氏の流れを汲む堂上家の家祖・吉田兼煕は、自宅の敷地を足利義満に譲り、吉田神社の社務となり公卿にまで昇った。呂宋助左衛門は堺の貿易商人として身を起し後にルソンからカンボジアに渡海する。小西隆佐は後に堺の豪商となり小西行長の父である。紀伊国屋文左衛門は紀州みかんや塩鮭で富を築き老中の阿部正武らに賄賂を贈り接近した。福島猪苗代に生まれた野口英世は医学者になり黄熱病や梅毒などの研究をする。ジョン・シェイクスピアは皮手袋商人として成功し8人の子供がいて劇作家シェイクスピアは3番目に生まれた。アンデルセンの父は貧しい小作人で、靴直しなどして生計を立てる。ソ連の指導者スターリンの父は靴職人、母ケテワン・ゲラーゼは農奴出身という貧しいグルジア系ロシア人の家系であった。
  これらいずれもの人物に関わるキーワードが百姓である。
  かって百姓とは、百(たくさん)の姓を持つ者たち、すなわち有姓階層全体を指して一括りに束ねられていた。
「 その百姓を、農民と同義とする考え方が日本人の中に浸透し始めたのは江戸時代であった・・・・・ 」
  9人の中からアンデルセン一人をみても、少年ハンスがどのように作家アンデルセンになっていったかという経緯(いきさつ)は、今日の登校拒否児童をかかえる親たちこそ知るべき話なのかもしれない。ハンスはろくろく学校に行かない落ちこぼれだったのだ。最初の貧民学校もやめてしまったし、次の学校も、さらに次の慈善学校も長続きせず、全て途中でやめている。引きこもり症状もあったらしい。そして父親がつくった人形に着せ替えをしていたのは近所の女の子たちではなく、少年のハンスだった。やがてその靴職人の父親もハンスが11歳のときに死に、残された母は文字すら読めなかった。だがそうした貧しさの寝台は、特異な素養をアンデルセンにだけ与えたのだ。
「 この9名は同じようにして、唯一の発見を果たした・・・・・。ところがどうだ・・・・・ 」
  あの世におけるこれらの9人の奇妙な物語には、何かが足りないか、どこかに弱点があるか、誰かに欠如を持ち去られたというプロットがひそんでいるようだ。さて、これらの物語はなぜわざわざ、こんなふうな「弱みとおぼしき姿」を露骨に見せているのだろうか。ここに「弱点の相転移」があるのではあるまいか。修治にはそう想定されるのだが、まさに琉球の神々もまた、曲亭馬琴の「椿説弓張月」を差し出してそのことに留意せよと仕向ける素振りだった。
「 何やら妖気を発した動かぬソロバンを前に、これは九連の妖猿の頭でも弾くようなものだ。それなら生身の修治のままでは一向に拉致がないではないか・・・・・ 」  
  そう感じた幽・キホーテは、9人の百姓の顔色のそれぞれを、ジロジロと見比べてみた。
「 どうやらこの9匹の猿には狸寝入りならぬ「猿寝入り」というものがあるらしく、おとなしく9匹一緒に皿の上で座っていても、人間のほうが眼に寝息をたてたとたんにむっくり起き上がり、日頃してみたかったことのすべてをやりとげるらしい。まず人の頭をポンと叩く、そして脳内をひっかきまわす、蓄えた知識のコードをめちやめちゃにする、しだいに常識の洋服をめためたにする。9匹はついに人間から伝授されたとおりに、意を決して人間の首ねっこにがぶりと噛みついてくる。その傷口からポタリポタリと血が滴り落ちるのだが、その地を9匹は転がそうとする。こっそりと穴の中に落とそうとする。穴の地下には9匹の猿知恵が懸命に働いていた・・・・・ 」
  幽・キホーテの見たそれは「百姓を創るファクトリー」であった。
  人間の生血で、次々と百姓の分身が生産されていた。







      



  たとえばギリシア神話には、テーセウスが大岩を持ち上げたときに発見したものの話が出てくる。テーセウスはそこに剣と黄金のサンダルを発見したのだ。大岩を持ち上げることができたのはテーセウスが成熟した年齢に達したことをあらわしている。そうだとしたら、そこに黄金のサンダルを発見できたのは、その成熟した力が他人に譲渡可能になったことを意味しているのである。
「 これとまったく同じ経緯が、動こうとはしないこの9人の物語にもあらわれているではないか・・・・・ 」
  あのシンデレラがガラスの靴を片方だけ失くさない限りは、彼女は幸せにはなれなかったのである。これは古代神話以来、そのような宿命を背負った物語のセオリーだったはずだ。このことが神話や伝説の真意を説くためのきわめて大きな鍵となっているのはその通りなのだが、琉球の神々がここで修治に言いたかったことは、現在の人間が過去の神話伝説の世界を読むにあたっては、近代や現代ではまったく逆の定礎をうけてしまった事情がそこには必ずひそんでいるのだということを、忘れるべきではないということなのだ。
「 そうだとすると、9人の事情とは、一体何なのか・・・・・ 」
  しかしそう考えようものなら、9人は矢も盾もたまらず「おい、その考えはダメなんだ。吐きだせ、吐きだせ」と叫ぶ始末なのである。
  百姓という言葉遣いは、日本において当初は中国と同じ天下万民を指す語であった。しかし、古代末期以降、多様な生業に従事する特定の身分の呼称となり、具体的には支配者層が在地社会において直接把握の対象とした社会階層が百姓とされた。この階層は現実には農業経営に従事する者のみならず、商業や手工業、漁業などの経営者も包括していた。だが、中世以降次第に百姓の本分を農とすべきとする、実態とは必ずしも符合しない農本主義的理念が浸透・普及し、明治時代以降は、一般的に農民の事を指すと理解されるようになった。百姓を農民の意味とした初見は、現在のところ9世紀末に編纂された『三代実録』という書物である。
「 つまりこれは日本最古の百姓進化論というべき一冊なのだ・・・・・ 」
  この一冊を眼に浮かばせたとき幽・キホーテは「新しい日本社会の魔」を想定して、三代実録のコスモロジーの図を一枚のペーパーの上に描き出すごとく、それを鉛筆で何度もたどりながら百姓が延々と記したであろう「新しい科学のシナリオ案」を琉球の海の上に披露した。それから弥生時代あたりから百姓という仕事意識が芽生えて、様々な職業意識へて転換された確率論の周辺を散策しながら、ついには日本神話の記憶の話に及んだのだが、日本人が最初にこの地上で成した職業が「百姓」あったことを琉球の海上に重ねて再確認した。
「 天孫のニニギノミコトは初穂の種をたずさえて降りたのだ・・・・・! 」
  想いがここに突き当たると、御嶽から眺める琉球の夜は、赤い赤い夕陽の落ちる一面のススキ原となっていた。
  それは農耕民族が萌えだそうする赤い原始の光景であった。



  日本の古代においては、律令制のもとで戸籍に「良」と分類された有姓階層全体、すなわち貴族、官人、公民、雑色人が百姓であり、これは天皇、及び「賎」とされた無姓のなどの賎民、及び化外の民とされた蝦夷などを除外した概念であった。
  そうした百姓に属する民の主体であった公民は、平安時代初期までは古来の地方首長層の末裔である郡司層によって編成され、国衙(こくがは、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画)における国司の各国統治、徴税事務もこの郡司層を通じて形成されていた。しかし8世紀末以降、律令による編戸制、班田制による公民支配が次第に弛緩していくのと並行して郡司層による民の支配と編成の機構は崩壊し、新たに富豪と呼ばれる土着国司子弟、郡司、有力農民らが私出挙によって多くの公民を私的隷属関係の下に置く関係が成立していくことになる。そのため、国衙は国司四等官全員が郡司層を介して戸籍に登録された公民単位に徴税を行うのではなく、筆頭国司たる受領が富豪層を把握して彼らから徴税を行うようになった。
  そしてこうした変化は、9世紀末の宇多天皇から醍醐天皇にかけての国政改革で基準国図に登録された公田面積を富豪層に割り当て、この面積に応じて徴税する機構として結実する。
  これによって10世紀以降、律令国家は王朝国家(前期王朝国家)に変質を遂げた。
  また、ここで公田請作の単位として再編成された公田を名田、請作登録者を負名(ふみょう)と呼び、負名として編成された富豪を田堵(たと)と呼んだ。さらにこうして形成された田堵負名層がこの時代以降の百姓身分を形成する。そうなると百姓は、請作面積に応じた納税責任を負うが、移動居住の自由を有する自由民であった。彼らの下に編成された非自由民に下人、従者、所従らがいた。こうして律令国家においては戸籍に登録された全公民が国家に直接把握の対象となりそれがすなわち百姓であったのだ。だが、王朝国家においては国家が把握する必要を感じたのは民を組織編制して税を請け負う田堵負名層だけとなり、それがすなわち百姓となった。
「 これを言い換えれば、田堵負名層の下に編成された下人、従者、所従らは国家の関心の埒外となったとも言えよう。また、国家権力や領主権力が把握対象として関心を示す範囲の階層こそが百姓であるという事態は、現代を含む以後の歴史においても明確な国家の基本線となっていくことに注目してよい。そしてさらに、前期王朝国家において、田堵負名層は在庁官人として国衙の行政実務に協力する一方で、しばしば一国単位に結集して朝廷への上訴や受領襲撃といった反受領闘争を行ったが、彼らの鎮圧や調停を担う軍事担当の実務官人として武士という職業が誕生した。これも注目して顧みる必要があろう・・・・・ 」
  武士は戦闘を本分とする、宗家の主人を頂点とした家族共同体の成員である。かの沖縄戦線の惨状を映し出した幽・キホーテの眼には、戦争と紛争の源泉である武士の台頭が琉球の海にあることが痛切に感じられた。武士はその軍事力をもって貴族支配の社会を転覆せしめた。また近世の終わり(幕末)まで日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けたし、明治から昭和までをその戦闘精神が興国のための原動力として作用した。そしてその結実の果てが、かの敗戦であった。武門の闘争精神が、大日本帝国の軍人が持つべき倫理と接合して、軍人の倫理の骨格をかたちづくることになった。
  そして百姓は、江戸時代中後期の社会変動によって、百姓内部での貧富の差が拡大していくようになる(「農民層分解」)。高持から転落した百姓は水呑百姓や借家などと呼ばれるようなった。その一方で富を蓄積した百姓は、村方地主から豪農に成長した。また、村役人を勤める百姓を大前百姓、そのような役職に就かない百姓を小前百姓と呼ぶようになる。この実際の村落には多様な生業を持つ百姓が住んでいた。
  大工、鍛冶、木挽、屋根屋、左官、髪結い、畳屋、神職、僧侶、修験、医者、商人、漁民など、これらは水呑・借家あるいは百姓が営んだ職業であることが多かった。御嶽のノロとて同じことである。
  戦争がおこると、殺人がおこる。殺した者も、殺された者も百姓であった。
  百姓というその多様な伏流の姿は多彩な職業に従事した人間の生き方に見えてくる。だが、そのことを問題とする前に、中世社会における貨幣と流通がどのようになっていたかという話になれば、これは日本人が「富」というものをどのように考えたかという一大問題である。ここをつきすすんでいくと、贈与と互酬による社会のコンベンションが、貨幣によって駆逐されるのではなく、別のかたちに移行しながら、新たな職人世界というものを形成していったという経緯を解剖していくことになるのだ。そして、そこにクローズアップされてくるのが、天皇や神仏の直属の民の一群としての「神人」「寄人」「供御人」である。
  戦争という鉄砲の引き金の背景には、かくも百姓の複雑な歴史的動向の勢いがあった。戦中を戦った者も百姓であり、戦後に反戦を叫ぶ者もまた百姓なのだ。さらに沖縄の人々は皆百姓なのである。
  そう考える幽・キホーテの脳内では、現代人という一体の生体が、もはや動かざる遺伝子組み換えで改変された「百姓のトランスジェニック三猿」として存在し、内気な神秘主義と虚無の関係に始まるこの呪縛された新モデル生物とは、いつ変異原が投与され、どう突然変異を起こすのかにさえ無関心な生体膜で包まれたアエロモナス的感染爆弾であった。そして琉球の青い闇の中に、感染したこの重力の謎が残った。
  そして御嶽から覗く闇深い海上にはしだいに富士山が浮かんできた。
  地球がずるずると大陸の表面を移動させていることを考えると、未来的には一向に不可思議なことではない。しかしそういうこととは別にキホーテには富士山が想い描かれるべき根拠が以前から想定されていた。





「 あの音羽六(りく)号は、富士山を越えて、東京へと向かったのだ・・・・・! 」
  間もなく明けようとする朝の景色に雨田博士は、音羽六号の飛影を想い、そして阿部富造の影をそこに描き重ねたのだ。その眼にある光りとは、また日本の夜明け前でもあった。近代日本の払暁ふつぎょう、そして同時に陰陽寮はこの世間から消えた・・・!。幽・キホーテは再びそれらの動向を追うことにした。








                                      

                        
       



 沖縄本島






ジャスト・ロード・ワン  No.11

2013-09-21 | 小説








 
      
                            






                     




    )  御嶽の沓  Utakinokutsu


  斎場御嶽(せーふぁうたき)まで来る以前の比江島修治には何かが決定的に欠けていた。
  それがやがて「知覚」と「身体」と「行動」、あるいはそれらの「関係」という一連の結び目が固められて現れてくる。これを陰陽寮博士の領分に小生が牽強付会すれば、まさに絶対的関係で新しい比江島修治が出現する。しかし、修治にその着想はまだ芽生えていなかった。ただ、そうした着想の苗床になるべき幽霊体験が斎場御嶽で起きようとしていた。それは修治が三者の亡霊に耳を傾け、三つの雄叫びを同時に聞いたからだ。そして修治の思索の内奥に一体となってこびりついた。
「 知能とは、知覚された領域にひそむさまざまな対象のあいだの関係をとらえる能力のことではないか・・・・・ 」
  日没の闇間よりザワめいて聞こえ届く潮騒を聞きながら修治にはそう思えた。
  そしてまた雨田博士と清原香織とが交わす会話に耳を傾けた。
  深い谷底の青い光りに巻かれながら、定められたごとく自然に二人はそれぞれの闇へと消えたのだ。
「 あれは・・・、やはり鐘の音やわ・・・!。タヌキはんの腹鼓(はらつづみ)やあらへん・・・・・ 」
  階段を上がり切ると、しかし未だ背を曳く花音がやはり不思議である。振り向かされた香織は、火影(ほかげ)の揺れる谷底をじっとみた。
  そして余韻を拾いつゞけると、耳の芯(しべ)をやはり鐘の音はたしかに叩いた。するとその鐘の響きは香織の躰をあかく揺らしはじめた。揺らされると、しだいに胸の蕊(ずい)は何やら赫(あか)い晶(ひかり)のしずくで濡らされる。香織はたゞその湖(うみ)にたゝずむと、美妙に閼伽(あか)く染められていた。

      


「 暁(あさ)の鐘は夜の眠りを覚さはるために、晩(よる)の鐘は心の暗さを覚さはるために敲(たた)かはるものやと、たしかそないうてはった 」
  延暦寺で香織はそう聞いている。あるいは一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)、これは凹凸(おうとつ)詩仙堂の住職より、この世の中に存在するもの全ては、すなわち仏性であり、私達の生きている日常の世界はすなわち仏の世界であるのだと聞かされた。それはあの道元の言葉であった。
「 せやから、あのサザンカはやはり仏はんなんや・・・・・ 」
  山も仏(さとり)であり。川も仏(おぼえ)であり。野に咲く花も仏様(ぶつだ)である。この世の中全て仏様(にょらい)でないものはない。道元禅師はそう説いている。聞き覚えのあるそんな悟りの言葉を脳裏からつまみ出しながら香織は居間へと引き返してはポケットの中のひとひらをそっと取り出した。従来、生体の行動は一定の要素的な刺戟に対する一定の要素的な反応のことだとみなされている。
  それは先ほど茶室の庭で拾った山茶花(さざんか)の一枚である。
「 此(こ)の花、奈良ァ連れて行くんや・・・!。お守りや・・・・・ 」
  そして見終えるとまたそっと胸のポケットに仕舞い納めた。すると自分の胸の辺りで花の白い口が、今日の一日、平安の鐘を鳴らし続けてくれるように思えた。こゝろの芯がほつこりとする。何だか温かな揺り籠にでもくるまれている気がしたのだ。



「 その鐘(さとり)の音といえば、小生にも時々聞こえてくる・・・・・!。これはどうやら血筋のようだ・・・・・。その血は甕(かめ)の中で産まれた・・・・・、そして鐘の血は今日に受け継がれている・・・・・ 」
  阿部丸彦には香織に聞こえた鐘の音が、決して空耳ではないことが判るのだ。鍾の音を聞いた、だから漱石先生は結界に触れた祖先の吾輩を密かに甕の中に入れたではないか。「吾輩は猫である」とは祖の生命が封印される物語なのだ。丸彦はこの轍てつを踏まぬよう用心せねばならない。DNAとは自身の気づかぬ意外と妙なところで顔を出す性癖がある。祖の吾輩にはまことに気の毒なことだが、文学や芸能に深く干渉することに不用心であってはならぬということだ。 このとき丸彦は、すでに御嶽の虎口から這い出して修治の背後にピタリとついていた。
「 黄金餅・・・・・か・・・・・! 」
  寒月は苦沙弥の元教え子の理学士で、その苦沙弥を「先生」とよぶ。なかなかの好男子だが戸惑いしたヘチマのような顔である。富子に演奏会で一目惚れした。高校生時代からバイオリンをたしなむ。吸うタバコは朝日と敷島。朝日は苦沙弥と同じものだ。そんな祖先返りの古い話を思い出した彦丸は、黄金餅の眼で、香織のこしらえた椿餅(つばもち)をじっと見つめていた。
「 川端正面角の甘春堂の椿餅、虎屋黒川の逆さ椿餅もいゝが、香織手造りの椿餅もじつに旨そうではないか・・・・・! 」
  茶の間の円卓の上に京焼、三代道八(どうはち)の青磁があり、その雲鶴模様の大皿には椿餅がつんであった。春を彩る銀沙灘(ぎんしゃだん)のように、大胆にも大盛に椿餅が積み上げてある。
「 香織、おはよう。何かお祝い事でもあるの 」
  というのは、ようやく目覚めて、かんたんな化粧をすませた虎哉の一人娘、今朝は黒いロングスカートの雨田君子である。仁阿弥道八(にんあみどうはち)といえば京焼を代表する窯元であり、明治の三代道八は青花、白磁の製作にも成功し、刷毛目を得意とさせながら煎茶器の名品など多数製作した。その手からなる雲鶴大皿は狸谷の駒丸家より譲り受けた逸品であるが、普段はめったに人目に曝さらされることのない父虎哉の寵愛する蔵品なのである。



  そうした由緒ある雲鶴の有無を言わさずドンと白い餅が平然と陣取っている。朝の空が白む時刻でもあるから、かぶいた餅の、その胸のすく思いをさせてくれる格好が、君子の眼にはじつに豊潤であった。
「 あ、君子はん。小正月くるし、通し矢やさかい、お祝いしょ思いましたんや。この日ィは女将おかみはん、うちらもお祝いやいうて、よう作らはったんやわ。女将はんみたいにはじょうずにできへんけど今日、奈良行きますやろ。せやから、君子はんに、食べさしてやろそう思たんや。祇園には電話したさかい、午後に初音(はつね)姉さん来るいうてましたから、半分は女将はんとこの分やさけ、姉さん勝手に持っていかはる思う。君子はんは何ィも構うことあらへん。気ィ使わんと部屋にいらしたらよろしおすえ。姉さんには電話でそう念押しときましたさけ。たくさん食べておくれやす。せやけど一つ二つは、仔狸の茄子(なすび)のやわ・・・・・ 」
  通し矢とは、三十三間堂のことである。香織がそういうのを聞きながら、君子は食卓の上をながめ、母もなく誰も節目を祝ってくれた覚えもない少女時代を思い返した。まして小正月など東京の暮らしでは無縁のことであった。
  七草を炊き込んだ七草粥が終わり、京都における小正月の風物詩といえば、やはり「三十三間堂の通し矢」がある。これを弓引き初めともいう。それは、江戸時代にさかんに行われた「通し矢」にあやかるもので、全国から新成人あるいはベテランの弓道者が集まってくる。小正月は、元日の大正月に対していうもので、女正月、十五日正月などともいう。古来民間では、この小正月が本来の年越しであった。
「 日本には古くから祖先野生種のヤブツルアズキという豆がある。阿部家では古くからこの種を大切にし、祝膳には欠かせぬ品としての仕来たりがある。随分、小生も馳走になった 」
  七草粥をくるりと替えた年越しの日は、この豆で小豆粥(あずきがゆ)を炊くことで、その粥の中に竹筒を入れて、筒の中に入った粥の多少で、当年の米の出来高を占っている。
  これらは豊饒を祈る宮廷譲りの慣習である。この手習いがいつしか装いよく椿餅の姿へと変化した。これまでは、父と娘の二人っきりの味気なく侘しい生活に慣れて見過ごしてきたが、白あんの餅に紅をひき、窪みのところに黄色い花粉をあしらう橙皮(とうひ)の粒が色目を立てゝ散らしてある。それを見ているうちに、無垢(むく)だったはずの少女時代がよみがえって、君子は淡い感傷にさそわれた。
「 お父さま、まだ茶室かしら・・・・・ 」
  そういってまた椿餅に眼を盗られると、しだいに仄かに芯(むね)が温かくされる。家内で手作りにされた餅の温かみを感じた体験がない。
「 もう、お上がりにならはッてもよろし時間やけどなぁ。そろそろお食事、しはらんと・・・・・ 」
  その虎哉であるが、眼を見開いたまゝ、やゝ神妙なおももちでまだ茶室にいた。
  客座に散らされた白い花びらは、香織が拾い摘んださゞんかである。花は、それだけしかない。一見、素人の娘が無造作に散らしたようにみえるが、どうもそうではない。すっかりと虎哉の定形が砕かれて、しかしその形骸(けいがい)は井然(せいぜん)とある。
  風にでも散らされた、その自然なせいか黎明の迫る暗い茶室の中に白い小さな宇宙でも区切るかのようにみえた。この野風僧(のふうぞう)な花捌(さば)きの美妙を、利休なら何と観るのか。





「 かさねの奴(やつ)、花びらを相手に茶など点てさせて・・・・・ 」
  と、散らされた花を客人に見立て、一通りの茶道の形を終えた虎哉は、花びらとの独り点前に、たゞしずかに茶碗を差し出すと、幽かな影に揺らされ息を吸い込むような動きをみせながら、逆に、何んと無垢な点前かと、観念に近い吐息に似たものを洩らした。
「 散り終えた花のひとひらに生き終えた花の襞(ひだ)がある。その散り際の白さとは此(こ)の花の足音なのであろう。それは唯一、此の花だけが持つ白い音(さとり)だ。それはまた、此の花が見続けた月の跫(おと)でもあろう・・・・・ 」
  茶道をたしなむと、侘びた可憐な花にたゝみこまれた奥行が、虎哉にふと、自分をみつめることを促したりする。虎哉には駆け巡る月の跫(あしおと)が聞こえた。たしか以前にもこれは一度聞いた。そう気づいたのは、いつのころであったか明確な記憶はない。もう40年近く茶の湯に親しんでいるが、有りそうであって、そうそうには無いような気もするのだ。だがそう意識したとして到底人の手で整うはずもない。
  花の蕾(つぼみ)とは、いつとはなく襞(ひだ)のほどけて、咲ききってしまうまでの間に、頑(かたく)なゝものを綻(ほころ)びさせてゆく時間があろう。たゞじっと己(おのれ)を縛られたかにみる白さゞんかの、その時間の長さと深さとが虎哉の胸に強くしみた。
  82歳になる現在、年に一度、年齢が避けようもなく加算される日が、このように繰り返し来ることなど信じがたい事実のように、それも花の綻ぶ襞の深さに例えられることなのであろうかと考える虎哉は、六時半にはもう朝食を終え、ひとり書斎の窓辺にいた。
  そうして深くソファーに腰を沈めると、全くあてどない老船に積み残して岸壁を茫然と振り返るような思いが去来した。
「 あれはM・モンテネグロと見た、七年前の、あの空の景色なのか?。いや・・・そうじゃないなぞ。もう少し深く遠くにありそうな藍のような色にも思える。これはもしか赤児のときに産湯から初めてみた奈良の青さではないか。いやその十月十日前の、卵胎生(らんたいせい)としてこの世に芽生えようとした胎盤を丸くくるむ密やかな景色、その星空ではないのか。しかし独楽(こま)のように回る、この笛の音は!、一体どうしたことか。これは、たしかどこかで同じリズムを聞いたことがあるぞ・・・・はて・・・・・ 」
  たしかに深層に刻まれた響きだ。しかも青い光りを伴って感じられる。虎哉はどこで見たのかも思い出せない青い空のことを考えていた。脳裡に延々と残り消えないでいるから、それも人生の真実には違いない。そこに笛の音、これは何かのきっかけを待っていた自分に、今回の奈良行きが、何か思いがけない変化を訪れさせるのではないか。笛の音、それが何かはまだ分からないが、70年も忘れようとして拒みつゞけた奈良である。もう二度と近づくまいとした。その、干ひからびた奈良の裏面に、何か大切なものが沈めこまれているような気がする。それは明確な不安となることもあれば、新たな喜びをもたらしてくれことなのかも知れぬのだが、しかし、いずれにせよ判然としないモノはこゝにきて未明の淵に置き去ることが出来なかった。虎哉はそろそろ観念すべきことは潔く、素直に観念することの心構えを芽生えさせていた。
「 観念するとは、失念ではない。東亜同文書院を卒業するときにそう学んだではないか。そう、あの時代の観念に・・・・・ 」
  虎哉は冥土への入り口が眼に映るようになっている。
「 かさね、そろそろ発とうか。君子は・・・、その大きな荷物を宅配で奈良ホテルまで送っといてくれ。途中、寄り道のため少し歩かねばならない用事があるのでね。いつもの黒猫で頼むよ・・・。生モノは一つ、一乗寺中谷(なかたに)の、でっち洋かん。まあ、そう気遣う必要はないが・・・・・ 」
  と、そういって黒いステッキを香織に持たせた虎哉が、コートの袖に手を通しながら居間の窓をうかがうと、ようやく外の敷地が仄かに白みはじめていた。修治も療養の折に度々博士の山荘まで足を運んだことがあるが、冬場この白々と明ける京都の趣には心打たれたものだ。



「 博士はあの笛の音を聞いた。さて・・・・・小生も、一緒に出立だ・・・・・! 」
  旅立ちに、月は有明にて、という。これより二人は出発する。面白くなりそうだと丸彦は眼を輝かせた。
  白河の関越えんと、しかしこゝろ定まらず田一枚植えて立ち去る。そうして風騒(ふうそう)の人はあの関を越えた。しかしこの行く春の哀しみを騙(かた)りはじめる「おくの細道」という俳諧は後、数年の長い時間の中で推敲の手が加えられている。机の上に置かれ灯(ひ)に曝(さら)した言葉とは、すでに生々しい人間の声では無いのだ。田を一枚植える時間、松尾芭蕉は旅空間を独自の言語でそう数式化した。
  その芭蕉は西行ゆかりの遊行柳に心を寄せ、そして細道の序に立ち止まる。
  虎哉は何度か訪れたことのある那須町芦野の、旅立ちにふとその北へと眼差した。
「 しかし、やはり、あの、俳諧の矢立てのようにはうまくゆくまい・・・・・ 」
  芭蕉はそうであれ「 あゝ、私の今日の覚悟とは、何やらその田植えにも等しい、どこかへの手向けの花でも必要であろうか 」と、田一枚植える間が無性に気にかゝる虎哉がいた。故国とは生々しく、柳の精に遊行するような物見遊山の気隋な旅ではないのだ。
「 阿部富造(あべのとみぞう)・・・・・・! 」
  するとそこに虎哉は、一人の影の名を泛かばせた。虎哉はこの影を出迎えたのだ。奈良へ向かうということが虎哉をそうさせた。どうしても意識させられる人影である。今の山荘に暮らすようになってから、この人物の影に度々出逢うようになったのだ。
「 あれは闇間を濡らす雨夜であった。剃髪の仏頂面に肩首から丹(あか)い半袈裟(はんげさ)を吊るした、ちょつとあやしいネクタイ姿の老人が坂道を上がろうとしていた。私は下ろうとした。それが富造・・・なのだ!。想い起こさねばならぬ日がようやく訪れた・・・・・ 」
  眼に泛かびくるその夜、虎哉は都内三王社跡の山門に立つ高札を訪ねた帰り道のことだが、遅刻坂と呼ばれる小さな坂道の半ばで、阿部富造という男と、奇妙な一言交わして、奇遇な別れ方をした。数ある坂にあって、これほど印象深く残る坂道は他にない。

                              

「 あの坂の・・・あの笛の音、まさしくあれが一期一会・・・・・ 」
  それは二人が逢い初めた夜である。そして二人が最期に別れ合った夜であった。
  わずか三分に満たない時間、それを交流と呼び合えるはずもないが、しかし二人はたしかに濃密な時間を過ごした。じつにたしかに虎哉にはそんな実感がある。そこで交わした言葉といえば虎哉の一言、富造の一言、この二言でしかなかった。
「 そうだ、博士、そう二人はやはり戦友であり、すでに親友なのだ。時間の長短が問題ではない。あの坂で二人は共通の親しみを感じたはずだ。一言の問答を交わすことで互いは永遠に絆を結んだ・・・。何よりも博士、あなたはあの沖縄の安里52高地を鮮やかに記憶しているではないか。あのとき二人互いに、52高地の2㎞圏内にいたのだ。そして二人して同じ流血の惨状をみた。そこで眼に沁みた赤い血とは、語らずとも互いを引き寄せる霊力となる・・・・・ 」
  博士が今眼に泛かばせている富造は、小生とは密接な間柄、博士と同じく富造もまた旧帝国陸軍の指揮官であった。二人の交感に二人は互いに気づかぬが、たしかに交感はした。阿部秋子からの指令で小生が沖縄へと向かったのは、これより十年後のことであった。
「 富造とは、小生の主人であった阿部秋一郎の三男である。どうやら雨田博士は、よほど富造との出逢いを奇遇だと感心しているようだ。あの夜、虎哉は文京区音羽の鼠坂(ねずみざか)から山王社へと向かったのだ。博士の自宅は鼠坂にある。ふゝん、運命(さだめ)とはそういうことなのだ!。そしてさらに二人に加わって数奇な宿命を共に運ぼうとする男がいずれ現れる。小生にはその予感がする・・・・・! 」
  山荘の裏には毎日花が手向けられて切らされることのない石の小塚がある。虎哉はじっとその石塚の方をみた。この塚下に「栗駒一号」を納める京焼の甕(かめ)を埋葬した。虎哉はその棺(ひつぎ)の甕にそっと耳を澄ました。
「 クルグルック~、グル。クルグルック~、グル・・・・・ 」
  と、そう虎哉には聴こえる。そして眼には往年の一翼、耳奥にはその音羽が泛かんでくる。するとその翼は奈良の故国を空高くめぐるようだ。そして何やらその羽の音が夢の浮橋を引き出してくる。小生の耳にもその甕の音羽は聞こえた。小生はこの埋葬に立ち合っている。
  御嶽のここで、潮騒の遠鳴きを聞く比江島修治に、意識と身体のあいだにひそむパースペクティブのようなものがはたらいていた。しかもそれらは、どこか相互互換的であり、関係的で、射影(profil)的だった。そして、それを中心にいて取持っているのがスペインの作家ミゲル・デ・セルバンテスだった。少なくとも修治にはそう見えた。
  そして丸彦は、背後よりその修治の肩を叩いたのだ。その手は心身二元論を決定的に刺戟するものであった。そしてその刺戟は、修治が眼に描きだした幻想が、自身の知覚や意識の中にあるはずだということを予感させた。この錯覚のような現実は、何かの「陰」に対して浮き上がってきた「陽」であったのだ。
「 アッ、この姿は、あのキホーテではないか・・・・・!。そうか、俺が、キホーテなのだ・・・・・! 」
  哲学とはおのれ自身の端緒がたえず更新されていく経験なのである。これは偶発的な動向から生まれた単なる神話ではない。どうやら御嶽の神は、セルバンテスの死亡後に、彼の生涯プログラムを消去したスペースに、もう一人のセルバンテス・データを書きこんでくれたようだ。これで修治が御嶽を立ち去る最後まで、ドン・キホーテの生体を作動させることが確認できれば、修治が生きてきたその全てのプログラムは消去させられるか作動禁止のロックがかけられる。そうなると比江島修治は、世界でたったひとつの自分だけのセルバンテスIDを所持するモンスター・キホーテの所有者となれるのだ。
  戦禍に伏せた沓音(くつおと)を鎮める御嶽の海に鳴る鍾音を聞いた修治は、すでに翔出そうとする青馬に跨っていた。









                                      

                        
       



 ダイナミック琉球






ジャスト・ロード・ワン  No.10

2013-09-21 | 小説








 
      
                            






                     




    )  山茶花  Sazanka


  秋風に鈴の音が運ばれてくる。  
  風が南へと変わると、チリン、チリンとその鈴の音が聞こえてきた。
「 ああ、そうか、和歌子はんは、この風向きを待っていたのか・・・・・ 」
  世の中は一粒の音が接近しただけで変わることがある。それを天人相関という。天上は何かの出現をもたらすのだ。そのとき地上で天上を扱っているともいうべき神を祀る人の上に神託が降り、天上はその神人の望みに相応しい神託をもたらした。星ヶ城の高みから阿部和歌子が家伝の「咤怒鬼・たぬき」の鈴を揺らしはじめた頃合をみて、丸彦は一度コクリとうなずいた。
  すると丸彦は、白浜山を下りて土庄港のある西へと向かった。
「 小豆島には世界で最も幅の狭い土渕海峡がある・・・・・ 」
  小豆島は一つの島と思われているが、そうではない。小豆島とは土渕海峡が隔てる二つの島である。しかし二つの島は、古くから橋で陸続きであり、すっかり小豆島とは人知れず1つの島としてみなされている。
  二つの島の、小さい方の島(海峡を挟んで西側の島)を前島(まえじま)という。
  近寄れば土庄港に流れこむ何の変哲も感じさせない普通の川として映るこの海峡は、全長約2.5km、最大幅は約400m、最狭幅は9.93mで、最狭部分に永代橋(えいたいはし)が架けられている。10mの橋巾なら猫の足でも一跨ぎほどのありふれた小橋なのだ。
「 たしか、世界一幅の広い海峡は、ドレーク海峡。最も狭いところでも650km・・・・・・ 」
  土渕海峡はその6万5千分の1、ドレーク海峡がどこにあるかも分からないそんな数値をおとぎ話か神話のごとく丸彦は、かって阿部秋子から聞かされたことがある。真意を確かめるべくこっそり図書館で調べたのだが、南アメリカ大陸南端のホーン岬と南極大陸との間の海峡なのだ。南極海の一部でもあり、世界でも最も荒れる海域の一つ。見たいとも行きたいとも思わないが、ただ丸彦は和歌子が鳴らす鈴の音を拾いながら世界一最短の永代橋までくると、橋のたもとで立ち止まり西の秋空をそっと窺った。
「 伊勢、奈良の三輪、そして九州の島原、さらに琉球・・・・・か。永代橋はその結界なのだ・・・・・! 」
  そして慎重に橋を渡りつつ、丸彦の脳裏には一筋の遥かな白い道が泛かんでいる。
  それは白糸のごとく長い長い細道であった。そのつるりとした白い輝きは、ペコンとした空腹にグ~とひどく堪えた。
  小豆島そうめんは、伊勢参りに行った小豆島の島民が、奈良の三輪そうめん作りを学び、島独特の手延べそうめんとして作り上げた。その40年後、肥前島原で発生した島原の乱で、多くの農民が殺害されたため、小豆島からも島原半島南部に島民の移住が行われる。その際、手延べそうめん技術も島原に移入され、それが南島原の手延べそうめんとなっている。またさらに、阿部家が伝える古文書によると、南島原に風待ちのため寄港した阿部家の北前船が、島原の手延べそうめんを琉球に運んだとされる。
                          
「 それが阿部家の第十二代阿部清之介の、龍田丸か・・・・・!。そして、そうめんの道・・・・・! 」
  手延べそうめんを積んだ一隻の白い帆船が泛かぶと、丸彦はその航跡を調査していた阿部富造の面影が偲ばれた。
  さて、永代橋を渡ると丸彦は前島の最西端、戸形崎へと急いだ。土庄港から逆時計回りに前島の西海岸を行けば、亀神社を過ぎてほどなく小瀬集落の船泊りとなる。阿部家の伝えでは、この小瀬の港を瀬戸内を往来する北前船の寄港地とした。そして港の端にこんもりとした小さな雑木林があるが、ここが前島の最西端・戸形崎である。
  播磨灘を西に越えて目の前に小豊島がみえた。この最西端の尖がりこそが、六道の辻とソリューションする出入り口なのであった。和歌子はその虎口の扉を開くために、小豆島で最も標高の高い星ヶ城から家伝の咤怒鬼鈴を振っていた。
「 天人相関は、特に天変地異が際立ち、旱魃・地震・津波などで地上が動いたときに活発になる。そのとき神託を預かる神人は、陰陽寮博士たちであったのである。そして今もまた、やはり「神々の加護」を旗印に阿部家の面々は何事かと闘おうとしている・・・・・ 」
  丸彦の前にある虎口の扉は沖縄に向かって開かれている。そこに、数百年にわたって沈静していた神話的な力がにわかに復活することになるのだ。虎口からそうした風潮が吹き上がるのを感じた丸彦は、そう感じた瞬間、緑の玉が光りを放ちながら潮騒を揺らす虎口へと消えた。






  そして同時刻の沖縄がある。日没の時間を静かに見計らっていた比江島修治の眼には、そろそろと、琉球の落日が赤の淡い濃淡で御嶽(うたき)の淵を揺すろうとしていた。そこに揺らぐ光の飛沫(しぶき)は、丸彦の消えた虎口に通じる、またまことに緑(あお)い潮騒でもあった。
「 御嶽には、アマテラスこのかた女の執念のようなものが宿っている・・・・・ 」
  現在までノロの神仏思想は、琉球の神話を確信して天理の将来に加担した人間の宿命のようなものを、黒々と描いてきた。そして赤々と映し出してきた。またあるときは青々と見えた。琉球の神託をえたノロは、世の人々の顔色を変えるそんな性癖をもっている。阿部富造のいう五色の虹とは、社会があまりに究極の姿を求めるときにしばしばあらわれるノロに祈祷られた悲喜劇的な色彩事象なのであろう。こうして琉球の吉凶が暗示された。
「 そこには琉球の普遍的なタブーが宿っている! 」
  沖縄における一つの忌まわしい現象というのは、基地問題の事件・事故のような血なまぐさい動向が、さも宿命のごとく人々の意識下や水面下で不人情な忌まわしきを天上から切り離して動かしているといってよいだろう。以前には、天理により琉球の風景は、四六時中眺めていればじゅうぶんに幸福になれるように仕組まれていたはずだ。時代は本質としてあるべきその天理を破壊しようとする。
「 ノロはその祈りが、人の本質や核心に迫るための「気孔」のようなものだということを知っている・・・・・ 」
  そう考えると比江島修治はかって自身でも体験した不思議な光りの霊気が思い出された。
  そしてその光りを誰よりも数多く身に沁みさせていたのが雨田博士であり、清原香織だったはずだ。陽が落ちるとしだいに潮騒の揺れが激しくなり、御嶽の周りに闇が囲むようになった。御嶽の岩間から日没の海をみつめる修治の眼には、新しい月光が揺らめき、そこに連なるようにして京都で体験した比叡山の天衣が撒き散らす静謐な光景が広がっていた。






  古都は、まだ冬のつゞきである。
  昼のあいだ吹き荒すさんでいた北風は、昏(くれ)から夜半になると急にとだえて、それまで空をうずめていた幽くらい雲の群れが不思議なほどあっさりと姿を消していた。
「 こんな夜にかぎって、奈良の空は高く澄み、星がいっそう輝いてみえるのだ・・・・・ 」
  大声をあげたいような歓びが湧き上がったわけではない。70年も以前の老人の遥かな追憶であるのだから。けれども、胸の奥が凛りんとひきしまり涼しくなるような、この清々しさときたらどうだろうか。たしかに当時、佐保山さほやまからながめ仰ぐ宙いえの中は、さわやかな星々でいっぱいだった。
「 あゝ、やはり氷輪(ひょうりん)は現れた。どうやら天の配剤はそこで完結されたごとく、あれ以来そのまゝのようだ・・・・・。今年も佐保川の桜は、また此の花を美しく咲かすのであろう・・・・・ 」
  そうした今も眼の奥に遺る星々の綺麗なつぶやきが、果たして佳(よ)き花信となってくれるのであろうか。すでにそんな動きが故国にあると考えねばならない。
「 だが、そこはすでに干(ひ)からびた土地でしかない・・・・・ 」
  京都八瀬の別荘でそんな故里(ふるさと)の夢を懐かしくみせられた雨田虎哉(とらちか)が、七年ぶりに来日したM・モンテネグロの泊まる奈良ホテルを訪ねたのは、2002年が明けた仲冬の土曜日、ぼたん雪の降る乙夜(いつや)のことであった。
「 家族とは最初から有るものではない。共に力を固くして創るもので、此(こ)の一族は、闇を貫く光りの結晶なのだ。絶やしてはならない。そのための密約なのだ、とそう彼は語った 」
  奈良へと向かうその朝の、比叡山四明ヶ嶽(しめいがだけ)の西麓は地の底まで冷えこんでいた。しかし、そうであるからこそ例年通りの京都なのである。京都山端(やまはな)の人々は、この比叡ひえ颪(おろし)を安寧(あんねい)な循環の兆しとして知りつくしている。そうしてまた虎哉の山荘も真冬の中にたゞ安らかに寂しずまっていた。



  京の冬は紅葉の後にきっぱりとやってくるのだ。鉛色の空から降る冷たい雨に雪がまじるようになると京都で暮らす人の腹はきちんと据わるようになる。襟元を正しては悉皆(しっかい)と冬を懐ふところにする。
  新春の山野はすがれてはいるが、しかしよく見ると、裸になった辛夷(こぶし)など、ビロードに包まれた花芽をおびただしく光らせている。山が眠る、などということは無いのだ。つねに冬山は不眠で生きている。芽吹く日の光りを湛え、継ぎゆく血を蓄えている。ことさら洛北山端の冬は、枯れて黙したような身の内に、木々は深く春を抱くのである。
  虎哉に、遠い奈良の星々がよみがえるように見えたのは、そんな朝まだき午前四時であった。
「 あゝ、胸奥に沈むようにチクリと隠されて、かるく痺(しび)れる、この香りは、白檀(びゃくだん)と、たしかこれは丁字(ちょうじ)だ。静かに小さな春でも爆(は)ぜるような快さではないか・・・・・ 」
  ほんのりと寝顔をまきつゝむ快哉な香りを聞かされながら、血流をしずかに溶かされた虎哉はゆっくりと目覚めさせられていた。
「 沈香(じんこう)の他に、これを加えてくれるとは、かさねの奴も、ようやく香道(こうどう)を手馴れてきたようだ。しっとりと肌に馴染まさせてくれている。わずか二年足らずでこれを、おそらく天性のものであろうが、能(よく)したものだ・・・・・ 」
  今朝の香りには、しずかなやさしさがあった。虎哉は人間としてのふくらみを感じた。暗い眼では香木の形はとらえられてはいないが、焚(た)かないでも香る香木を取り合わせた、なるほどあの娘の手にかゝるとこうなるのかと、いかにも清原香織らしくあるその香りは、虎哉のこゝろの襞(ひだ)の上に、着なれた衿合せでもさせてくれたかのごとく、普段通りの躰(からだ)できちんと納まっている。
  大きな山茶花(さざんか)の一樹に隣り合わせた虎哉の寝室は、こんもりとした茂みが庇(ひさし)のような影を障子戸に映して一段と暗い。そうなるように天然の配剤で闇夜をつくりだす寝室の設計がなされていた。毎年、冬にさしかゝる時期はどこか、太陽が遠くなる心細さがあるが、すっかり真冬になってしまえばそこに寂しさが勝るようになるものだ。
  加齢するにしたがい、脚の痛みはその木枯らしに急せかされるように増してくる。いつの間にか、そんな虎哉にとって眠りは厳(おごそ)かな真剣勝負のようになっている。日常の脚あしの痛み止めの薬を一錠でも少なく控(ひか)えて痛みを抑えるために、虎哉の睡眠には墓の中のような暗闇と、無音の状態が必要だった。また以前には常用であった睡眠薬を控えるために、就寝時には鎮静作用のある香物を焚きしめた芳香が、今の寝室には欠かせないものとなっていた。そんな漆黒(しっこく)の未明から目覚めた虎哉の、あたりのすべてが虚空(こくう)である。六徳と清浄のあわいに座るとはこのことか。
  虚空蔵菩薩は虚空すなわち全宇宙に無限の智慧と功徳を持つ。京都において十三参りが行われ、子供が13歳になると虚空蔵菩薩を本尊とする西京区東山虚空蔵山町の法輪寺に参拝する習慣がある。明星が口から入り記憶力が増幅したというが、虎哉はその虚空蔵にでも抱かれているようであった。 暗闇と芳香とで繰り返したしかめる日常の、そんな虎哉にはあたりまえの話だが、虎哉はこの虚空がいちばん親しいのだ。時がまき戻るような、まき返せるような何事をも空暗記(そらんじる)ごとくの安らぎだ。今朝も寝室の四方八方、虎哉の親しい虚空がみしみしと満ちていた。
「 かの天竺(てんじく)のガンジャというものも、もしか、このようなモノであったのではあるまいか・・・・・。たしか空海は「 乾坤(けんこん)は経籍の箱なり・・・宇宙はお経の本箱 」といった。私はその乾坤で眠りながら虚空の音を聞いていたのであろうか。そうであれば逆らわずに応じたい・・・・・ 」
  芳香につゝまれて目覚め、虚空の層の厚さを感じると、肉や骨の重みがどこからどこまでがどうと、よく判らないけれど実に軽いのである。それは血が鎮められた重さか、気が冷まされた重さか、暗さと芳香とがもたらしてくれる芳醇な安眠が、適当に与えてくれる虎哉の寝室にいる身の重さとは、能(よく)した傀儡師(くぐつし)により計算し尽くされたように、なかなか、よくできていた。どうやら佐保川の桜の芽吹きが、わざわざそのことを告しらせにきたに違いない。
  そうしてうっとりと眼をみひらき、暗闇に何をみるともなく辺りをながめる。やがて次にその眼の持ち主が何者であるかを自覚できると、ようやく虎哉の一日が始まるのであった。そんな虎哉は、虚空の時間からふと一呼吸はずして、ムートンの上に横たわる老体をおもむろに反転させると、うつ伏せのまゝベットの脇に手をのばし、居間の呼び鈴に通じるコールボタンを軽やかになった指先でそっとプッシュした。
「 老先生・・・・・、起きはッたんやな・・・・・ 」
  そのころ居間で炭点前(すみてまえ)の準備をしていた清原香織は、床下の炉に用いる練香を入れた陶磁器の小さな蓋(ふた)を重ねて棚の上にしまい終えると、これが朝餉(あさげ)の仕度の次ぎにする日課なのだが、居間のカーテンを全開にして虎哉の寝室へと向かった。茶の湯では炭点前が終わると香を焚く決まりがある。その炭点前とは、茶を点てる前に湯を沸かす炉や風炉に炭をつぐことであるが、風炉は夏季、冬季は床下の炉で、種々の香料を蜜で練りあわせた練香を焚くことに決まっている。この冬の炉は何かと手間暇をくう。




  虎哉は毎朝、ひとり点前を行っていた。
「 あとは・・・?、そうや、お花や。奈良のォ荷物、大きいのォはもう準備すんどるし。せやさかい後は、小さいのだけや。あゝ、今日は何や、てんてこ舞いやわ 」
  と、もろもろの仕度に追われる香織は、昨夜のうちに朝餉の下ごしらえは済ませていた。毎日がこういう具合に、香織はいつも午前二時半には起きている。
「 明けたァ思たら、もう月末くるし、新しい曲また選らばなァあかん。次何がえゝんやろ・・・・・ 」
  松の内はすでに過ぎて、早もう小正月が過ぎようとしている。しかし虎哉の寝室はまだ新年を寿(ことほ)ぐかのような調べである。虎哉は何よりも雅楽の序・破・急を通しで演奏する「一具」の調べを好むのだが、「越天楽」を平調と盤渉調で聴き比べてくれなど純邦楽の難題な文句に振り回されると香織には目眩(めまい)すら覚える一大事、不慣れなそうした楽曲を月毎(つきごと)に変えては寝室用のBGMを収録することも香織の大切な務めの一つであった。 そうして虎哉の寝室のドア前に立つと、ノブ下に備えられた、新春は琴の音が室内に小さくゆるやかに流れる音響装置の、手動スイッチをONにキッと押し上げた。
「 せやけど、毎日こないするん、ほんに面倒やわ 」
  寝室に入るとき虎哉は、ドアをノックすること、ドア越しに声をかけないことの二つを固く禁じていた。もしそうされたとしても不機嫌さを残さないために、外部との遮音壁が分厚く周到に施されて、多少の音も虎哉の耳には届かないのだが、それほど安眠を損なわぬ厳重な施工がなされていた。
  しんしんと身を刺すような廊下に、京都の女なら「冬は、早朝(つとめて)という」少しお説教めいた虎哉の習い事通りの張りつめた気構えで香織はピンと背筋を伸ばし、しばし間合いをうかがうように立ち尽くしながら、虎哉がカチリとさせてくれるまで、たゞしずかに電子ロックの解除音を待つのである。
「 老先生、おはようさん。・・・・・お目覚めどないどすやろか?・・・・・ 」
  静かに部屋に押し入りつゝ、笑みて香織はさわやかな声をかけた。まだまだ修業中の身ではあるが、爽やかな笑顔だけは、苦にせずともいとも簡単にできる香織なのである。
「 あゝ、おはよう。おかげでぐっすり眠れたよ。ありがとう 」
  虎哉はそう満足気にうなずくと、ステッキで躰を支えながらも椅子から軽やかに立ち上がった。その軽やかな姿を確かめるために香織は毎日未明には起きて見守っている。虎哉は今朝も軽やかに立ち上がってくれた。
「 そうどすか、よろしおした 」
  そうたしかめてみる虎哉が安らかに返す言葉の揺らぎは、香織が毎朝ホッとして息を下げる安堵の瞬間である。厚い遮音壁に内部の物音がすっかり遮られるために、深夜にさせる虎哉の息遣いがいつも心配になる。香織は溜息をし尽くして朝を待つのである。
  老いた主人への、万全なその配慮と気の配りが常に香織には課せられてあった。そう用心することが最も大切な奉公人としての心棒なのである。深夜から未明にはいつも気と眼を寝室に向けて研ぎ澄ませていた。そんな香織は、のっぴきならぬ用事が今朝も起きなかったとばかりに、ふう~っと肩から一息を軽く洩らした。このとき一夜の溜息が消えるのだ。
「 せやッたら、もう窓ォあけて、空気入れ替えても構いませんやろか? 」
「 あゝ、そうしておくれ。最近あまり使わなかったが、丁字もなかなかのものだね。いつもより爽やかに感じる 」
  虎哉がそういう丁字とは、南洋諸島で生育するチョウジの木の花のつぼみを乾燥させたもので、強烈で刺激的な香りをもつことから、世界中で調理のスパイスとしても重宝されている。クローブともいう。大航海時代にはスパイス貿易の中心的な商品の一つ。この甘く刺激的な香りは、当時、さぞや日本人に異国情緒をかきたてたのであろう。これは日本人にも案外なじみ深く、江戸時代からビンツケ油や匂い袋の香料として、あるいはウスターソースのソースらしい香り付けにも使われている。江戸時代、阿部家の北前船はこの香料を琉球から運んだ。薩摩藩の承諾をえた内密な商いであったが、無印の帆船は琉球と上方とを頻繁に往来した。
「 うちも丁字ィすう~として、えゝ匂いや思う。せやけど、うち、あの香り聞くの辛うて、たまらへん。何やえろう悲しい花やしてなぁ~。それ知ると、ウスタぁソース好きになれへん。店で見かけてもな、手ェ伸びまへんのやわ。そないしてると、いつも醤油しょうゆ買うとる。洋食の献立、つい和食に変えとうなるんやわ 」
  ずしりと胸にきたのか、泣くような小声で香織はそうしょんぼりといった。丁字は、つぼみのときが最も香りが強いため、深紅色の花が開化する前に摘み採られてしまう。このため虎哉もまだ生きた花の色目はみたことがない。香織はその花が、香りのために花開くことを奪われてしまった悲しい運命の花木なのだ、といゝたかった。
「 あゝ、たしかに花は悲しい。だけど、その短い命は、やがて人の命へと循環する。だから儂(わし)のような老いた者にもめぐり廻って悦びを与えてくれるのさ・・・・・ 」
  と、いゝかけた虎哉だが、それ以上いゝ足せば、やゝ小賢しくもある。香織の澄みやかな感性の口調を前に、さり気なく視線をそらすと語尾のトーンをすう~っとぼやかした。
「 この娘に、私の表情の裏をみせてはなるまい。老人の内面の汚い剥(はが)れなど、、無用の長物じゃないか。無邪気の若さを、私の口の汚物でまぶすのはよしておこう。虚空とは汚れを消した清の領域、かさねは、その位に私を濯ぎ清めてくれたではないか・・・・・ 」
  丁字はアルコールと混ざりやすく整髪剤や石鹸につかわれ、殺菌作用と軽い麻薬作用をもつので歯科院の歯茎にぬる痛み止めチンキにも活かされている。人間の視線に立てばそれでいゝ。しかし花の視線でそれを裏返せばそれは人間本位の身勝手なことで、香織のように感じ、無慈悲と思えば、摘まれたその花へと思いやる眼にあふれる涙さえ覚えるであろう。その花の涙のみえぬ人とはまた何と悲しいものであろうか。しかしもはやその情緒を震わす心には立ち返れそうもない老人は、若く生き生きとある香織の輝きが愛らしく嬉しくもあった。
「 老先生、お茶室の準備もう少しやさかいに、ちょっと待っておくれやすか。今朝のお花やけど、まだ決めてまへんのやわ。そろそろ正月のォもけったいやし、どんなん、よろしィんやろか?・・・・・ 」
  と、 香織はガラス窓を開けながら訊(き)いた。しかし、そう虎哉に問いかけていながら、ふと、「 あゝ~、あの青白い不思議なひかり・・・・・ 」と、一瞬、脳裡をかすめてツーンと胸に通るものがあった。香織に或ある美しい光景が過よぎったのだ。



「 せや、あれやわ。あれ見んとあかん。老先生、待ってゝおくれやす、えろう済んまへん 」
  呟(つぶや)くようにそういうと、何か急(せ)かされた忘れ物でもあるかのように、慌てゝ言葉の尻をプツリとへし折って、虎哉にはそう受けとれたのだが、要領をえさせないまゝに妙な弁解だけを残した香織は小走りにまた居間の方へと引き返して行った。
  香織は未明に起きたとき、凍りつきそうな井戸水を一杯のみ終えるとぱっちりと眼が冴えた。そのとき昨日の黎明前に体験した不思議な光景が想い返されていた。あれはたしか、裏山の山茶花(さざんか)の大樹が、ひらりぽたりと白い花びらを庭に散らし落すころであった。
  花は地に着くまでの間にひそかな何をかの話でもするのか。間もなく昨日と同じその幽(くら)い刻限が近づいていたのだ。
「 去年の冬、ちィ~っとも気づかへんやった。せやけど、あんなんあるんやわなぁ~・・・・・ 」
  裏山が見渡せる茶室へと向かう香織の脳裡には、朝まだき昨朝の黎明前の淡いひろがりのなかで感じとれた絵模様がぼんやりと描かれていた。しかし、あの無限の哀しさに包まれていると感じられたあのときめきは、一体何だったのであろうか。
  香織はもう一度よく確かめてみたいと思った。
  明日は月あかりのない、朔(さく)の日である。そうした無明な下弦の終わり日ともなれば、しじまな崖下へと降りる階段あたりから、しだいにその底に凍てついて沈むような侘しい茶室までの間は、まったくの暗闇であった。灯り一つ無ければ香織の若い肉眼でさえも、もう何の影さえも追えぬ怖い暗がりの淵を厚く重ねていた。



「 老先生、あし悪いし、お歳やし。もうそろそろ、この階段おりれへん思うわ。階段、えろう凍りついとるし、きっと足ィ滑らせはる。うちかて危ない階段やさかいに、ほんに心配なことやわ。ほやけど、どうにもならへンのやし、かなわんなァ~・・・・・ 」
  と、手燭を点した香織は、階段の降り口の杭にくゝりつけられた温度計の摂氏3℃をたしかめてからそう一心に気遣うと、そろりそろりと滑りそうな階段を一歩ごと慎重に踏みしめておりた。さきほど準備を終えた炭点前の用具一式を抱えて、その三十段はあろう階段はいかにも長い。両手をふさがれたまゝ、それでも息を詰めてようやく転ばぬように降りた香織は、そこから先、小さな手燭などでは眼の利かぬほど暗い茶室までの飛び石を足さぐりに渡りつゝ、きたる一日の安寧(あんねい)をていねいに畏(おそ)れて七つある石燈籠の燭火を順番に点しながら、ようやく茶室のにじり口まできた。
「 たぶん、昨日と同じなら、後ちょっとや。もう少し待たなあかん・・・・・ 」
  そういって茶室の裏側へと回った香織が、腰掛石から虎哉の寝室に灯る小さな明かりだけを頼りにながめ仰ごうとする山茶花の大樹は、天空の高みでも垂直に仰ぎみるような柱状凹凸の崖の上にある。虎哉の寝室はその大樹と隣り合せだが、寝室の窓を開いて茶室をみようとすると、古風な青銅葺(からかねぶき)のその屋根は、谷間でものぞきこむような高さの距離を感じさせる視線の先の、その奥底にようやく感じさせるほど小さかった。この深い谷底は、昼間でも太陽とは無縁の昏(くら)い暗がりなのである。しかし晴天時に限り一日に一度だけ光りの降りそゝぐ瞬間があった。眼をつむると、すでに香織の頭の中ではうす紫の仄かな渦が巻き起こっていた。



  腰掛け石にすわる香織はその時をじっと心待ちにした。
  それは朝まだきから黎明の生まれようとする間に起こるのだ。比叡山を越えて生まれ出ようとした朝陽が崖の岩面を射し、その凹凸で屈折した反射光が垂直に谷間を抜いてふるように染める。そのときのみ、茶室が青白く照らされながら谷底に映える一瞬であった。
  香織はその瞬間をじっと待っていた。
  茶室の裏の庭前は、きれいに箒(ほうき)の目をつけて掃はき清められている。これは昨日の夕刻に香織の手で丁寧に掃かれたもので、雨の日を除けば、香織が毎夕している仕事なのであった。この掃き清めた庭土に、いちめんの白い散りさゞんか遺されてある。それは皆、夜の間に散らされた花なのだ。香織はまだ真っ暗い庭に、眼を凝らしてその花々の散華をみた。あまりの暗さに、マッチを擦って、指でかざしては揺らして、庭土の奥をじっとみた。厚く深い白なので、あざやかに泛き残されている。
  それは清らかな純白ぶりだから、闇のなかに消え惜しむかに泛き残っていた。暗闇だから一層そうさせるのか、遠目からもあざやかに白い。見開いた眼でその白をたしかめ、また眼を閉じてみてはその白を想い泛かべた。繰り返しそうして、また眼を閉じた香織は、崖の上に咲いている、暗闇にみることのできぬ白いさゞんかの花を、そっと瞼に描きながら光りに照らされる谷間の一瞬を待った。



「 あゝ~、これやわ。きっと、これが聞香(もんこう)なんや。香りは嗅ぐもんや無い、聞くもんやと、老先生はそういゝはった。聞くとは、あゝ~、ほんにこれなんや 」
  崖の高みの上から白いさゞんかの、ほのかな甘い香りがふり落ちてくる。そう感じとれて、ふと眼を見ひらいた途端、香織はかすかな音をたてゝ土に着く、白い花びらをみた。 みあげるうちに、ひらひらひらり、ひらり、はたりと、白い花びらが不規則な時間差で舞い落ちてくる。それは決して桜のようなふわりとした散り様ではない。さゞんかの白は、ほのかな青白いむらさきの光りを身に纏い、その光と一緒にしつかりと重く舞い降りてきた。そうして、その散りぢりの庭土を見渡すと、散り終えた白い花びらが、仄かに淡いむらさきに染め上げられて、いつしかぐるりと廻る散華の紋様が描かれている。
  小さな黒い築山の岩上にも点々と降り落ちていた。しばらく香織は立ち竦(すく)み、手にとれないでいつ散り落ちるか判らない花びらをひたすたに待ちながら、肩に背に、あるいはコッンと黒髪の上に、大樹を離れて遠く庭土に着くまでの清浄な白い花びらを、じっと眼や肌に感じては香織はたゞ一心にその白を身にとまらせたいと願った。



「 あゝ~、えゝ匂いや。ほんに、しィ~んと、静かで真っ白ォな声だしはッて、きっとこれ、散りはッたんやないわ。もう、お花やのうて、お山の仏はんに変わらはッたんや。何やうす~い、むらさきィの天衣てんねェ着はって、舞いはったんや。そんなん、じ~っと見とったような、うち、何やそんな気ィするわ。ほんに、えゝ匂いやった 」
  十数分間のつかのまの散り落ちる花びらのを待つ時間の何と厳粛(おごそか)なことか。たしかに開いた花は、咲けば散る。しかもその花は、たゞの白である。そして花の名は、さゞんかに過ぎないのだ。そのたゞの、さゞんかは、やがて形跡もなくなり土に還るたゞの花びらである。きっと人間にはそれぐらいのことしか感じ取れない。
「 たしかに、そうかもしれへん。しれへんのやが・・・、せやけどあの鐘の音ェは一体何んやろうか?。どこぞの寺ァの鐘の響きやない。六時の鐘、鳴りよる時刻やあらへんし・・・。せやけどあれはやはり鐘や・・・。ほやけど、あそこになぜ、狸(たぬき)はんいたんやろか・・・・・ 」
  梵鐘が響くように、そんな音をさゞんかの口が、そっと洩らしたような気がしたのだ。
  あれは、やはり空耳などではない。そう感じた香織は、もう一度ざっとあたりに眼を通してから、また眼を閉じてみると、その鐘の音は澄まされた耳奥で、まだはっきりと感じとれた。眼に瞑(ねむ)る花びらの上でしばらく鐘の音が鳴っていた。香織は黎明の刻限に合わせてその落ちる間を逍遙(しょうよう)としたとき、見える者には感じとれない花の声や、見えぬ者こそが感じとれる声の匂いを、たしかに聞きとれたのだ。一瞬、気がポ~ッとなった。しだいに胸がキュッと温かくなる。そして香織にどっしりとした比叡山の土の香をじ~んと感じさせてくれた。
「 ハッ、せやッた。お花や、茶室のお花や。せやッたわ。老先生が待ってはるんや・・・。早よう済まさなあかん。えらいことや・・・、これ、タヌキはんのせいやわ・・・・・! 」
  はっと、そう思い気づいてそれでも数分間、散らされた花を踏まないように、庭前の小さな余白をうろうろと歩いた香織はもう午前五時過ぎには茶室にいて、茶の湯の席を整え、間もなくやってくるであろう虎哉の杖音を聞き逃すまいとことさら耳を澄まして待っていた。
「 あ、来はッた。ふう~っ・・・滑りはらんと来ィはったんや 」
  三つ脚のような老人の足音は、片足をかばうために、どことなしかぎこちなく定まりの悪いステッキを撞(つ)きながら凍てつく石道を危なげにやってくる。谷底は風のない静寂の中にある。明らかに虎哉の杖の音だとわかった。
  その音を聞き取ると、急(せ)くように香織は、戸口から身をにじり茶室の外にでた。そうして四つ目の燈籠の灯の中に虎哉の影がゆれて露(あらわ)れたとき、小さな波立ちを胸に抱えながら、腰元に赤い勾玉(まがたま)を幽かに揺らした香織は、その影に向かって歩きはじめた。



  虎哉の方も茶室へと向かいながら、この二、三日、深閑として凍りつく谷底が年が明けてやはり春が近づく趣きなのか、ひっそりと暗い美を湛えていることに神秘さを抱いていた。燈籠の灯を過ぎりながら白々と揺らぐ香織の影がその神秘さの上に重なり合うと、それは比叡の山にこめられた永遠の祈りを凝縮したような透明な時間の過ぎりではないかと感じられた。
  そうして二つの影が並び合おうとするとき、
「 かさね、七時には発つ。その心づもりでな 」
  という、重たげな虎哉の一声に、香織は別に驚きもせず、無言(しじま)のまゝ軽くうなずいた。
  香織は、二人の会話や立ち振る舞いにも、一日のうちで一番うつくしい旬があるということを、香道や茶道に親しむ虎哉から教わっていた。それは、さまざまな草木が季節ごとに花をつけるのと同じ、確実にその日がめぐってくる自然の循環と等しいのである。そういう虎哉の和服からはほんのりと、昨夜、香織が焚きこめた伽羅(きゃら)が香りたち、虎哉はすでに茶道に篭る人となっていた。
  スレ違う二人の影は、いつものようにこゝで別れ、それぞれが二つの闇の中へ消えた。   










                                      

                        
       



 沖縄






ジャスト・ロード・ワン  No.9

2013-09-19 | 小説








 
      
                            






                     




    )  吾輩は祖である  Wagahaiwasodearu

  あきらかに神はどこからかやってきて、そこにありつづけ、気がつくとそこに立っているものなのだ。
  そして神はまた帰ってしまうものでもある。
「 その神はいつ現れるか分からない。一筋の煙のときもあるのだ・・・・・! 」
  小豆島の南端にある白浜山の頂きにいて聖護院六号の上空通過を確認した丸彦は、くるりと北に背をむけると星ケ城址にいる阿部和歌子の動きをじっとみつめた。和歌子も六号の通過を確認したであろう。丸彦は次の指令を待っていた。
  次にどうすべきかは、和歌子の上げる狼煙(のろし)の色で決まるのだ。
  その狼煙もまた神なのである。待てばその神はやがて城址に降りて立つ。丸彦はじっと眼を北に据えていた。
  寒霞渓(かんかけい)の空に昇り立つ色が、赤であれば和歌子のいる星ケ城址へ、ただの白なら和歌子を置いて京都の阿部秋子の元へ、緑なら予定通り清原香織のいる那覇へ、黄の点滅なら今しばらく待機して次の狼煙の色に従え、白の渦巻ならば後は勝手で好きにしろ、となる。
  阿部家の長(おさ)が立てる、この五通りの指令を丸彦は静かに待っていた。
  狼煙の色が六通りになることはない。すると「六」なことにはならないからだ。この道理は、陰陽の天理を踏まえている。
  神懸山とも呼ばれる二百万年の歳月が創り出した寒霞渓は、8月の末ともなると黄金色に彩りはじめていた。
  そこは星ヶ城と美しの原高原の間、範囲は東西7キロメートル、南北4キロメートルに及ぶ大渓谷で、約1300万年前の火山活動により堆積した疑灰角礫岩などが、度重なる地殻変動と風雨による侵食により、断崖や奇岩群を形成する。日本書紀にも記述がある奇勝で元々は鉤掛山、神懸山などと呼ばれていたが、これを明治初期の儒学者・藤沢南岳が「寒霞渓」と命名した。





「 あッ、あれは黄色の点滅!。そうかもうしばらく待機だ・・・・・ 」
  まずは黄の神が立った。
  神とは、神道や神教ではない。神の、そこにはもともと「主張」というものがない。「言挙げ」がない。
  神は、まったく静かなものである。そこがわからないと神の感覚はなかなかわからない。
  しかし、どうしたことか、静かなどころか、次々にうるさいほどの神道理論が交わされてきた。そのあげくが明治維新後の国家神道なのである。じつはこういう「理屈の神道」と「権力からの神道」が日本にありすぎて、神が本来もっているはずのナチュラルでアニミスティックな感覚を静かなものだと唱えるのが今日の日本に困難になってきた。
  だから阿部家のように逆に、静かに神に奉じる者たちは、こうした日本の歴史が抱えてきたうるさい歴史に目を閉じるようになっている。神の社会はひたすら沈黙をまもるようになっている。そうした神への静かで本来の感覚が「ムスビ」の感覚であり、「ありがたさ」「かたじけなさ」の感覚であり、また「惟神(かんながら)の道」の感覚ということだ。
  そしてこれらを祭祀する空間が、各地に広がっている神社や社や沖縄のウタキなどである。だからこの神の道には心を洗うものがある。神の道に名状しがたい清潔感がある。だがこうした日本本来の感受性が近現代文明化社会の現象と引換にして壊滅した。
  京都阿部家の人々と暮らすようになって、丸彦にもようやくそうした神の骨格が理解できるようになった。そして理解できると安倍家の今日的使命の重要というもが身に沁みて堪えた。
  黄色の点滅をみて了解した丸彦は、再び南の方へ振り返ると四国方面の静けさを見渡した。



「 どうやら、ここで任務完了とはいかないようだ!。何か主人に迷いでもあるのか、これは面倒な予感がするぜ・・・・・ 」
  丸彦は早朝から白浜山の頂きにいて片時も動かずに空ばかり仰ぎ上げていた。
  朝食や昼食はおろか一滴の水さえ飲んでいない。丸彦はふと岩を踏む足元がふらりとして、岩穴の深さに肝がドキリとした。丸彦には遺伝子的に溺死をふくむ水難にコンプレックスがある。
  小豆島は、香川の高松市の沖合いに浮かび、香川県内最大の島だ。瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の面積で、日本の島においては19番目の大きさである。島のシルエットは、横に向いた和牛が西を見ているようなじつに特徴的な形で海岸線は変化に富み、多数の半島と入江がある。そして温暖な瀬戸内海式気候を活かし、現在はオリーブやミカン、スモモなどの栽培が行なわれている。
「 次の合図まで今しばらくかかるのであろう・・・・・。果たして次の神は、何色として現れるのか・・・・・ 」
  と思うと、丸彦の眼は、とある光景に、ピタリと止まった。その瞬間、ふと眼の中に緑色の光りが奔るのを覚えた。

  寒霞渓の紅葉を背景に、霞むようなオリーブ林の丘には、真っ白な風車が回りながら白くはためいている。
  そのとき丸彦は次の狼煙の色を確認するまでもなく、次の指令が那覇であることを悟った。
  そして、その白い風車の風景の中に、比江島修治が立っている姿が泛かんだ。
「 これはどうやら、香織と旦那の猫の手でもしろと、そういうお告げがありそうだ。また、よりによって一番遠方か・・・・・ 」
  直感に眼をしばたかせた丸彦は、何度か阿部富造と訪れたことがある沖縄の風土を想い起こした。
「 小生、阿部丸彦は気隋な居候(いそうろう)である 」
  置候(おきそうろう)が阿部秋一郎であった。つまり小生が脳裏に泛かべる出来事はしばし過去形となる。
  この昔男の主人が他界して随分と久しいのだが、同じくして阿部家の人々の足も京都芹生の山守屋敷から遠のくようになった。かの戦禍の動乱に人手不足が生じたからだ。嫡男は江戸に暮らすことになる。そして家系を継ぐ要の男手はすべて他界した。
  主人秋一郎は明治中期に生まれた。
  しかしこの阿部秋一郎の逝去をもって阿部家本来の使命は幕を閉じた。そしてその後、阿部一族の暮らしぶりは狸谷を本家とする極限られた営みのみとなった。芹生の里には現在、たゞ廃屋だけが遺されている。
  その朽ちた面影はじつに寂しい。だから小生は、せめて秋一郎の陰膳(かげぜん)を絶やさぬよう未だ芹生の里に留まっている。そうした廃屋の裏山に音羽の塚がある。しかしこの塚は古墳だ。裏山まるごとが大きな音羽の墳墓、平安朝以来の数十万羽の鳩が鎮められている。
「 名前の丸彦は主人がそう呼んでくれた。そんな小生の茵(しとね)は・・・、大甕(おおがめ)の中である・・・・・! 」
  鯖(さば)の匂いがプンとする。そもそもこの五尺丈(ごしゃくだけ)の大甕には塩鯖を漬けた。備前焼の素肌にはその鯖汁が沁み込んで、唯一この甕だけに主人の面影が衣魚(しみ)のごとく這はい出してくる。そこで甕の底に亡き主人の尻痕(しりあと)のある座布団を敷いた。じつに座り心地のよい座布団だが、その中には主人手造りの北山杉の椙綿(すぎわた)が詰めてある。



  そして丸彦は、さる夜半の虫養(むしやしない)に、ニヌキを食べていた。
「 これが小生の、ケンズイである。ふと、狼煙を待ちながら、このことを思い出した・・・・・。今年の新年のことであった・・・・・ 」
  そのニヌキだが、一見の来客はよく勘違いを引き出してくる。
  東京日暮里(にっぽり)のクロという男が、訪ねてきて、妙に話を盛り上げようとした。何やら諸国行脚の途中とかで、京都へは賀詞交換できたという。つまり見知らぬ関東者だ。おそらく根なし草か、あるいは凶状持ちの風来坊であろう。
「 遠路悪いが、アポなしで突然夜遅くこられても困る。明日にでも出直してくれ!。今宵は二ヌキでくつろぎアルバムの整理などして昔の旅路を偲ぼうとしたが、どうにも喉元に小骨が障さわるようで今夜はダメだ!。二ヌキでこんな情けない夜にするとは初めてだ! 」
  と、追い返そうとしたが、日暮里のクロは「 そいつは気の毒だ。なら後二名、今から連れてくるぜ 」と谷根千(やねせん)でいう。関東の下流言葉は鉈(なた)でもふるようで嚇(こわ)い。
  四名で分けるほどのニヌキなどない。どうしてそうなる、たゞ、小生はニャンとも唖然(あぜん)とした。
  するとクロは「ポン」と口上を投げ入れて、ポケットから紅中(フォンチュン)を取り出すと、その牌(パイ)を突き出し「平和(ピンフ)」といゝ、まかせておけと放笑(ほうしょう)した。なるほど、そういう魂胆なのか。一人分のニヌキを、二ヌケにすり替えて、四人で食べようなどとは、それこそが、べらんめ~なピンフ話だ。ニャンとも詭弁(きべん)でニヌキを戯曲化、その手に小生は乗るものか。

「 どうもこれだから江戸っ子は、風流に眼が暗く、京の間尺(ましゃく)に疎うとすぎる。明治維新の混乱に乗じ京の一字を掠かすめ盗とり、やれ東京だ遷都だと粉飾して終えたからか・・・・・ 」
  ニヌキをニヌケと取り違えるとは、まったくマヌケな野郎であった。関東の客人はよくこの手の狂気な勘違いをする。まして古都で生まれて風雅に育つ小生は、放笑や売笑(ばいしょう)という気風になど馴染めない。
「 ニヌキは麻雀(マージャン)のニヌケとは違うぞ。遷都以来、京の都では固茹(うで)の味卵(あじたま)をニヌキという 」
  しかし小生の好物は、黄鶏(かしわ)のニヌキではない。けんずい(おやつ)ならやはり鶉(うずら)のモノにかぎる。小粒だから通ともなれば歯切りで雪肌を傷めず丸呑みにして喉越しで味わう。つまり白玉のようなつるりとした食感を舌で揉み回して味わい、後は腹でこなし、とろりとした胃液漬(ペプシン・シロップ)の余韻にひたる。小生はいつしか主人のそんな嗜好に染められてしまった。
「 さて・・・、突飛な関東の客人に宵腰を折られたが、妙な戯曲化に襲われたそのとき、じつは貴重な古新聞を読んでいた 」
  古新聞とはいっても主人が切り溜めて遺したスクラップ記事の帳面である。
  しかし一見そうとは判らない。江戸時代の商家さながらの大宝恵(おぼえ)にして綴じられていた。平たくは大福張ともいう。売掛金の内容を隈無(くまな)く記し、取引相手ごとに口座を設け、売上帳から商品の価格や数量を転記し、取引状況を明らかにした帳簿である。商家にとっては最も重要な帳簿の一つであった。狸谷(たぬきだに)の阿部家は代々が北山杉の豪商、そして戦前までは洛北の大地主を継いで篤農家(とくのうか)たるを家訓とした。またさらに阿部家の家系を遡れば、遷都以来、代々は陰陽寮博士として宮廷に仕えていた。そして当代、阿部家の世襲は第二十六代目となる。しかし、ここは現在、空白となっているのだ。
「 阿部秋一郎に富造という男子がいたが、この第二十五代阿部富造も先年他界し、訳あって嫡男がいたが廃嫡とした。継ぐ者があればその孫がいるのだが、何しろ子女なのである。かって安倍家には女系の世襲は一度すら経験がない。その孫娘の名を秋子という。現在、その秋子の養育に養母の阿部和歌子が懸命にあたり、世襲への希望を拓こうとしている・・・・・ 」
  したがって現在、阿部和歌子は小生の主人ではあるが、阿部秋子の後見人である。
「 二十四代目の主人秋一郎がなぜ、大宝恵の体裁にして密かに切り抜き記事を遺したのか、めくり終えてみて小生は、これが主人の胸の障さわり、無念を憤(いきどお)る売掛であることが分かった・・・・・ 」
  大半が昭和初期の新聞記事、かなり色褪(あせ)た遺品だが、昭和二十七年四月二十八日付で、その面だけにのみ赤ラインが引かれていた。つまりそこに主人が留意して、仕分た意思(売掛)があることになる。
  ニヌキを食べながら小生は、細く伸びた赤い生き血のその売掛にニャンとも妙な胸騒ぎを覚えた。
  赤ラインの文面は「 The Akkied Powers recognize the full sovereignty of the Japanese people oveer Japan and territorial waters. 」となっている。日本語訳で「 連合国は日本国及びその領水に対する日本国民の完全なる主権を承認する 」とされる。
  つまりこれは「 Treaty of Peace with Japan 」昭和27年条約第五号のサンフランシスコ講和条約、日本国の独立を認めた文言なのであった。さらにその講和条約の最後の一文は「 DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951,in the English,French,and Spanish languages,all being equally authntic,ando in the Japanese language. 」と、太い赤ラインで囲われている。主人がここを強調したことは明白であった。日本語訳の内容は「 一九五一年九月八日にサンフランシスコ市で成立した。英語、フランス語並びにスペイン語各版において全て等しく正文である。そして、日本語版も作成した 」と書かれている。しかも主人は、『 all being equally authentic 』の一部のみを特に強調するかに二重の赤ラインを引いていた。
  この二重の赤ラインこそが講和条約締結時の日本の立場を浮き彫りにする。つまり「 all being equally authentic 」の「 全て等しく正文 」であるのは、英語、フランス語、スペイン語版だけなのだ。
  日本の新聞報道によると、その後にカンマで区切られて「 and in the Japanese language 」と記された。つまり付随として「 そして、日本語版も作成した 」と書いている。ニャンと、これは条約として有効なのは、英、仏、西語の文章のみであり日本語訳はあくまで参考ということになる。主人はこゝを二重の赤ラインで指摘していた。むらむらと、小生の眼光は赫(あか)く熾(も)えたのだ。
「 主人はじつに寡黙かもくな男であった。語ることなくこう記すことが主人の売掛であったろう・・・・・ 」
  なるほど、見事に条約の本質が操作されている。巧妙な政府のトリックだ。あるいはトラップかもと疑うが、ここに敗戦から独立にいたる真相の狂言歌舞伎、その裏舞台がある。
  某新聞社はこれを一面のコラムで「 占領よ、さようなら 」と結びながら素直に喜んで報じた。こうして六年八カ月の占領は終わったとされる。しかし同時にこれは、報道の敗戦である。重要な質草(しちぐさ)を見殺しペンは盲目であった。
「 これは単なる見落としではない。誤訳でも校了(こうりょう)の不手際でもなかろう。見殺しだ。このことを小生は悟ると、好物のニヌキに喉が詰まった。主人の憤慨(ふんがい)は明らかで、好物ではあるが次に手が出せるはずもない。しかも今日までの新聞報道で、両刃(もろは)を置き去りにしたことへの謝罪記事を、小生は一度も見たことがない・・・・・! 」
  確信的な共謀犯(きょうぼうはん)を仮面に隠し、言論の敗戦を報道の輩は放置したまゝではないか。これでは毎日、読売を待ちわびる国民の朝に、朝日が昇ることはない。帝国も草葉の陰で憤る。
  帝国は滅びたが、報道機関とはいえ日本民族の一員だ。かくして日本は言論までが敗北に帰した。
「 見殺しにされた沖縄では四月二十八日を「 屈辱(くつじょく)の日 」とする。その通り、この日は日本政府が、主権回復の日だとそう国民に思い込ませようと目論んだ屈辱の一日なのだ。政府は未だ詭弁を弄ろうする!。戦後の復興を後継するこの詭弁尽くしには、もはや日本人としての美意識がない!。国家固有の美意識を欠いて、国際化時代の主権が万国に成立するというのか・・・・・ 」
  主人にとってこれはインサイダーなのである。
  日本の政治は、いつまで戦後を秘匿ひとくし眼隠しの傀儡(かいらい)治世を執るというのか。たゞ自由民主主義社会を眼先鼻先で退化させていることはないのか。日本人本来の良識はどうしたのか。
「 10マイナス2を合計10とし元本は回復されたとするのであれば、日本の学校教育に無礼ではないか。小生にだって不正解だと分かるのであるから幼児ならば簡単に間違いが指摘できる。日本の教育を正しく受けた者ならこうしたイロハの指摘には(済みません)と言える。日本の義務教育は起立の一礼に序し、起立の一礼にて了る。それを主権回復と言い切れるとは、やはり政府の要人ともなると流石さすがに日本人離れしている。そう感じる小生は日本種の猫である・・・・・ 」
  さすがにその夜だけは、どうにもニヌキが不味(まず)いモノとなった。その後、やはり好物だからニヌキは食べるが、以前ほどは旨うまくない。眼に泛うかぶ赤いラインがトラウマとなっている。
「 何と愚かな悪智恵であろうか 」
  と、主人は見返しの余白に書き止めた。そのなぶり書きの墨痕(ぼくこん)が男の遣やる瀬せ無い慟哭を赧々(あかあか)と顕している。
「 秋一郎の記した赤ラインは、たしかな警鐘として、現代の沖縄問題を鳴り響かせている 」
  以前、天願桟橋(てんがんさんばし)の漏電を体感したとき小生は、亡き主人秋一郎の赤い警鐘が泛かび、そこに怪しげな北太平洋の米領ジョンストン島と、沖縄が暗闇に包み隠されながら結ばれている、暗黒の航路が未だあることを眼に描き出した。
  その天願桟橋の所在地を「昆布(こんぶ)」という。第十二代阿部清之介は、昆布を積む北前船「龍田丸(たつたまる)」で薩摩を経由し琉球の天願桟橋に下ろしたのだ。
「 主人のいう、この悪知恵はサグ(SUG)で陥る醜態だ!。人間はこのサグに盲目である!。大宝恵の一件に、そうニャンと吠えてみたくなる 」
  サグとは科学工学技術用語で直線波形のひずみの一つ。出力パルスの頂点の傾斜を示す。「たるみ」「たわみ」を意味し道路における下り坂から上り坂への変化点となる。この区間において人間社会は、何と約60%の時間を渋滞させている。まことに迷惑はなはだしい限りだ。どうやら人間はこのサグの作用を理解していない。



「 人間は峠しか見ておらぬ。人生とはそう甘いモノではない。大抵は下り坂から上り坂の谷底で人は生きている。峠の向こうに幸せの保証などはない。山のあなたの幸せ・・・・・とは妄想である!。本土と沖縄の現状はたるみどころではない。断線であり、漏電状態にある! 」
  大方の物理作用は、人間の心理作用と等しいではないか。サグでどう工面するかで幸せの糧は生まれる。こゝは小生の凌しのぎ処どころでもある。じつは、珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)先生も偏屈な性格で胃が弱く、ノイローゼ気味であったが、その顔の今戸焼のタヌキとも評される明治男が、このサグで悩んでいたようだ。人間はたしかに物の道理はよく発見する。だが自らで見つけ出しておきながら、自らの人生に応用できないところが、人間とはまことに滑稽な動物で、人生と称する道とやらも、現実には空回りさせて自我自尊、じつは埒らちがない。
「 しかしこれを反面教師とみれば有難い標本となる・・・・・ 」
  人と比べて猫の小生も、狸も、狐も、蝉までもが能(よく)そこらを心得るようになる。したがって常套(じょうとう)、道の穢けがれに備え自浄の工面を心がけている。
「 うつせみの羽は、忍び忍びに濡るる袖かなという。だから・・・、蝉はカナカナと鳴く。しかも男ばかりが・・・ 」
  それを聞き入るに連れ滅法な話ではないかと深い眠りに入れない夜がいた。
  人が寝静まるとも夜は起きている。そんな夜の気配を感じながら、それでも乏しい未明のひかりが下弦の底の暗闇を眠らせようとする午前四時、朝まだき芹生(せりょう)の里には人知れず遠い閑しずかさがあった。

                    

「 吾輩は・・・、祖である!。・・・・・ 」
  その名無しの祖の、血筋通り、小生もまた居候(いそうろう)である。
  しかし名は丸彦、ちゃんとある。
  貴船の奥の峠を越えて、つまり都から鞍馬に向かう手前の追分を左上がりに北山へと分けいると、山迫る谷間の小さな里にでるがこゝが芹生である。そこには灰屋川の上流になる清らかな流れがあるが、山迫る谷に小生が間借りする阿部家の廃屋はあった。
  都の市井(いちい)からはさほど遠隔なところでもないが、一山越えると酷ひどい豪雪地帯だ。近年では冬場の芹生に人の気配を感じさせない。こゝは夏場だけの避暑地なのである。
  標高700m近い。冬は雪が深く、無人の村となる。隣家もかって炭焼きをしていたが廃業。今は夏でも三軒ほど住んでいるだけの村内に、やはり阿部家の隆盛も寂びれ、朽ちかけた廃屋だけがかろうじて花背峠へと向かう山裾にポツリと残されていた。
  そんな淋しい芹生の里の水温むころに、ふと、聞きなしにカナカナという、甲高い男の鳴き声が聞えてきた。訪うその声は何年も暗い土の中で過ごして、ようやく地上に這い出した小さな山守(やまもり)の遠吠えであった。たゞひたぶるに貴女を恋う心だけがそこにある。

「 男の、何と切ない遠吠えであろうか・・・・・!。いのち潰(つい)えるまでたゞ愛のみを熱烈に希こいねがう・・・・・! 」
  この恋唄を聴く季節になると小生は、この地球上のどこかにはまだ男の自分が身を浸ひたしたことのない美しい海が残っているのではないか、と、年齢がもたらしたずっしりと重い理解で、我慢し難いほどに自身が古びて見えてくるのである。
「 だがそれは小生が、鄙(ひな)びた洛北の暮らしぶりに和(なごみ)を抱き、いつしか愛着を持ったからであろう。それもそうだが、何しろ酷ひどい大戦の戦禍に小生も血だるまの人間を見過ぎた・・・・・ 」
  まだき闇の中にあって凛々(リンリン)と身を焦がすかのような男の叫び声であるだけに、それが、ひと夏の小さな命だということには、不思議に注意が向かなかった。それはかの風騒(ふうそう)の人曰(いわ)く、岩にしみて一切をおし黙らせた声であるからだ。
「 そしてしばし小生もまた一夜の乞食こつじきとなる。僧の基本である乞食托鉢に立ちかえるのだ 」
  すると、束の間の夜と朝のあわいに廃屋のすぐ裏には梅雨明けの杉山が広がっていて、小さな山守の遠吠えを、また巡りきて確かに聞いた。毎年、杉雨(さんう)の風情を序に従いて、このヒグラシの薄暗い声が夏の到来を告げてくれた。
  このようにして阿部家の住人は代々、未明に起きて暦を春から夏へとめくり替えてきたのだが、昨年の八月に小生は、灰屋川の水面に映る流れの中の老人を見て、何かそぐはないものを感じ、すこし眉を寄せた。戦時体験は猫をもす~っと狂わせる。
「 妙に取り澄ました見知らぬ化猫(ばけねこ)が屈(かが)むようにいるではないか・・・・・ 」
  50年前に主人の阿部秋一郎が井戸の上に置き忘れたもので、小生にプレゼントしてくれたものではないが、その太い丸黒縁の眼鏡をかけてみると、どうも自分らしくない。この小生の、祖父のものを貰った黒眼が勝った丸い眼は、いく分怪訝(けげん)な表情になっていた。
  元来、小生は眼鏡などして顔の形を整えるなど好まない質(たち)である。ガクリとひざまずく小生はもう一度、川の流れの上に眼を走らせた。自然、他人の顔じみてくる。今年だけはそうなることが無性に嫌であった。主人秋一郎はカナカナの声を聴きながら、一涙を遺して他界したのだ。桜が終わると節目となる祥月命日がやってくる。カナカナが五月蠅(うるさい)念仏を唱えるごとく無情に聴こえてくるのだ。そうして一夏を終えてみると、廃村の校庭に干からびた蝉の死骸が転んでいて、そこでふと猫の道という本質を省みせられると寂しくもある。



  小生を置候(おきうろう)の秋一郎だが、加齢に従い弱る視力を養生することを洛北の村衆に常々切々と気遣いされながらも、それでも眼鏡にだけはどうしても抵抗があった。これを村人や阿部家の人々は「 六道鏡(ろくどうノめがね) 」という。
  つまりこれは、六道の辻をのぞきみる眼鏡であった。
  秋一郎は眼鏡自体が嫌なのではない。眼鏡を見るとどうしても眼鏡を掛けていた人物の遺影を拾いだし、戦禍にあって忘却のできぬ辛い思い出の体験をしたようだ。洛北の村では甚大な弔いを出した。六道の辻にはそれら明治から敗戦までの膨大な死体がみえる。それは辛かろう、そこで置候に代わり居候(いそうろう)の小生は敢(あえ)てその丸眼鏡をかけてみた。
「 何よりも煮抜き卵が好物の、どうやらその丸彦である小生は、六道の辻から生まれ出たようである・・・・・ 」
  したがって寝起きするは六道の甕だ!。
  安倍家の伝えでは、この甕の中からは、鍾の音が聞こえてくるという。
  清原香織も妙に不思議がっていたが、この鐘のさとりの音といえば、猫の小生に時々聞こえてくる!。
「 これはどうやら血筋のようだ・・・。その血は甕(かめ)の中で産まれた・・・、そして鐘の血は今日に受け継がれている・・・」
  小生には香織に聞こえた鐘の音が、決して空耳ではないことが判るのだ。
  そもそも珍野(ちんの)家で飼われていた小生の祖は雄猫である。その祖は、漱石先生の綴り遺した本編の語り手で、名前はなく、「吾輩」と一人称で名乗りを上げた。名はなくとも有名、日本(ひのもと)一なのだ。
  人間の生態を鋭く観察し、猫ながらも古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。そして何よりも人間の内心を読むこともできた。男として三毛子に恋心を抱いたりもする。だが最期は、ビールに酔い、甕の中に落ちて出られぬまゝ死ぬ。これが丸彦の祖の顛末(てんまつ)だ。今もって吾輩は永久にその甕の底に溺死体のまゝ眠らされている。
「 あの祖の心意気で、酒になど足を盗とられての死の始末とは、未だ小生には信じられず事故死扱いに斬捨てたかの何とも孤独な風葬の下りがじつに不可解である。何故(なぜ)、あの幕切れなのか・・・。甕に落とした漱石先生は、また妙な弔いの鐘を鳴らしたものだ・・・・・ 」
  その祖は年齢「 去年生れたばかりで当年とつて一歳だ 」として東京に生まれ、「 猫と生れて人の世に住む事もはや二年越し 」と生きた。
「 そんな小生の祖は、どうやら鐘の音をあの甕の中で聞かされたようだ!。その血の温もりが丸彦の体内にある!・・・・・。またその、わての血ィは、狸坂の多聞院に預けたンや・・・・・ 」
  丸彦である小生の祖、つまり吾輩の飼い主は、文明中学校の英語教師であったが、その父は場末の名主で、またその一家は真宗であったようだ。
「 小生の祖が、顛末で鐘の音を聞いたことは、その真宗と無縁ではない・・・・・ 」
  真宗は法然によって明かされ、浄土真宗は法然の真実を継ぐ親鸞によって明かされた。
  そうした親鸞の閼伽井(あかい)に浸る漱石先生もまた自身で禅をし、禅の語録を読み、一心に禅を研究した。ちなみに鐘の音の正体はこゝにある。先生はその鐘をそっと甕に入れた。
「 しかも苦沙弥(くしゃみ)先生を小生の祖は、際限なく観察し過ぎたようだ 」
  頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず、平生なら猪口で二杯ほど。わからぬもの、役人や警察をありがたがる癖があった。はからずもそんな洞察力に小生の祖の吾輩は秀でていた。
「 出る杭は打たれる。その杭が鐘を叩くこともあろう。たしかに過ぎたるは及ばざるが如し、あまりにも膨大な珍野家に関わるパロディを見過ぎた!。あるいはクシャミの聞き過ぎで、耳でも悪くしたのか・・・。窃盗犯に入れられた次の朝、苦沙弥夫婦が警官に盗まれた物を聞かれる件があるではないか・・・・・ 」
  あるいは「花色木綿(出来心)」の、水島寒月がバイオリンを買いに行く道筋を言いたてるのは「黄金餅」の、パロディである。迷亭が洋食屋を困らせる話にはちゃんと「落ち」までついている。これを綴り遺した漱石先生は、三代目柳家小さんなどの落語を愛好したが、小生の祖の人生は、落語の影響(パロディ)が最も強くして縛られてしまった。



「 だから先生は結界に触れた吾輩を密かに甕の中に入れたのだ・・・・・ 」
  京都には日本人が古くから美しいとした風雪の揺らぎがあるという。 そういう博士はそんな古都の感動を描き溜めては濯ぎ直し、再生するために東京から京都へと来た。そして洛北山端の八瀬にひっそりと別荘を建てた。
  よくよく思い出してみると、雨田博士は、あえて洛外の地を選び、そこを終の棲家に瞑(ねむ)りたいと希望した。その老博士は永訣の朝、鳥の子紙(とりのこがみ)につづり終えた夢記『 洛北陰陽家伝 』という分厚い一冊の手記を枕元に置いて、狸谷の阿部秋子宛に遺したのだ。
  秋子とは小生の主人秋一郎の曾孫娘(ひまご)、陰陽笛「伍円笛(ごえんぶえ)」の名手である。
「 それは老博士が末期につゞり、古都洛北を奏でて揺らぐ風の比率を1対√2という音律で描写した夢の風土記なのだ!。この物語は、博士の音律と狸坂多聞院誕生の秘話である! 」
  清原香織の整えた羅国(らこく)の香りを聞きながら眠りについた雨田老人が、この世の夢の途中で鼓動を止めたのは、しぐれ雪の降る午前5時であったという。そう小生は香織から聞かされている。
  このとき阿部秋子は、朝を迎えようとする比叡山へ名乗りの篠笛を吹いていた。
「 ほのほのほ、ほのほのほ、ほのほのほ 」
  と、博士は人生の幕を閉じた。今際いまわの際で三度くり返し、細い息切れで消え遺したこれが老人の末期(まつご)の音であった。またこのとき虎哉老人は小粒の赤い勾玉(まがたま)の揺れ動く音を覚えた。
「 ニャンとも妙な事切れだ!・・・・・。まさか末期に聴かせた鼾(いびき)でもなかろう。あるいは今際に、ほのほのほ、と笑うはずもない 」
  日本国の猫として耳に覚えるリズムとなると、「ほ」三つ「の」二つの仮名かあるいは音符を連ねたこの旋律、「5・7・7」の片歌かたうたのリズム感ではなかろうか。
「 ともかく博士のことだ。何かの問答であることには違いない 」
  しかし風土記をつゞり終えた安息の聲こえだとも推察される。どこかにその安息を暗示させるモノがあると仮にそう想えば、京都の波止場にて擦れ違うあの三人の影、それぞれの顔が小生の眼にたしかな映像として泛うかんでくる。
「 そういえば、京都にも海はあった・・・・・! 」
  海のない京都のその波止場とは六道の辻にある。数日前、小生が主人阿部秋一郎の形見である大宝恵(おぼえ)を見開きに読みながら清水寺へと坂道を上がろうとしてふと潮騒が聞こえた。
「 たしかに、あれは汐しおの満ちようとする揺れだ! 」
  猫は進化の歴史の中で聴力を著しく発達させてきた。その進化の結果、犬が嗅覚(きゅうかく)の動物と呼ばれるに対し、猫は聴覚の動物と呼ばれている。丸彦の鋭い聴き取り能力については亡き主人もよく驚いていた。小生に限らず猫は耳介(じかい)を左右別々に動かせる。
  耳介とは集音装置、音のする方向にそれを瞬時に向けて音を集める。そして耳管(じかん)でその音を感じて増幅させ、さらに鼓膜で拾った音を耳小骨(じしょうこつ)、つち骨・きぬた骨・あぶみ骨にて増幅させては、すべての音を蝸牛(かぎゅう)へと伝える。その蝸牛は音を電気信号に変換して小生の脳へ送ることになる。
「 この聴覚能力は、何と人間様の約四倍はあろうか・・・・・ 」
  周波数が500ヘルツ(だいたい1m位までの日常会話)の低い音なら、人と猫も聞き取り能力には差がないのだが、こと高い周波数の高音を聞き分ける能力は人間の比ではない。人間が聞こえる範囲は2万ヘルツ以内なのに対して、猫の場合は7~8万ヘルツ位まで聞き分ける。だから聞き逃すはずはない。



「 小生はこの耳でたしかに汐(しお)の波立ちを聞いた! 」
  小生が振り返るとそこは六道の入口、不思議に思って引き返してみると、六道の辻からは暗い波濤の海洋が見えてきた。
「 しかも、うねる波濤は・・・、赤い赤い海であった 」
  その潮騒の赤い揺らぎには不運な人間への痛切な感情がある。雨田虎哉博士がみた「哀切と痛切」は、異なった回路を経て生まれる似て非なる感情だった。哀切であることは誰にでも感じとれる。しかしそれが痛切であるかは体験者のみ感じとれることだ。戦禍の痛切は、自分が相手に置き換えられ、そこで初めて生まれ出る感情である。雨田老人はそんな言葉で篤農家が生きた戦禍の空疎さを強調した。
「 老博士は、京都洛北でレジリエンス(Resilience)を試みようとした・・・・・ 」
  外部から力を加えられて、崩壊しかゝった人やモノやコミュニティーや組織が立ち直る力のことをレジリエンスという。つまり復活力あるいは復元力である。そのレジリエンスは適応力、敏捷(びんしょう)性、多様性と協力、これらの繋がりにより「結ゆい」を復活させる。
  かって京都には自らの仕事に高い理想を掲げて個性ある小集落の伝統を守る人々がいた。しかし明治3年に飛鳥時代から設置された陰陽寮が廃止されたことで斜陽する。雨田博士はその息吹を浴びて、彼のレジリエンスにも溌溂(はつらつ)たる青春を薫らせるごとく心の力で変えられる集落の再生について取り組もうとした。博士は戦禍の空疎(くうそさ)をそこに埋めようしたのだ。
「 現在2013年、1868年の明治維新からやがて145年、1945年の終戦から68年がすでに経過した・・・・・。したがって陰陽寮の廃止から約140年が過ぎようとする・・・・・ 」
  明治維新から太平洋戦争の終結まで77年、大戦の連続したその期間において洛北山端もまた空白となり集落は変貌した。そして博士はその空白に未だ満たされぬ渇望感を覚えた。
「 主人阿部秋一郎が売掛として刻み遺した大宝恵の空白を見つめながら、小生はこれより雨田虎哉博士が見捨てられたその空白を埋めようとして奈良へと眼差した空間を、しずかに辿ろうと思う。さて、その12年前の旅を、追って出かけるとするか・・・・・! 」
  小生は数年前、芹生から鞍馬山の暗闇を超えて一旦、一乗寺下り松へと向かった。虎哉博士の八瀬を訪ねる前に、少々気掛かりな駒丸家を訪ねた。そこには扇太郎という嫡男がいる。
「 おゝ、これが・・・あの栗駒(くりこまの)末裔(音羽の六)なのか!・・・・・ 」
  かって帝国の旧陸軍は、南部系や勢山系の伝書鳩を飼育し情報手段としてその翼を活用した。そうした一連の諜報活動を担うため阿部秋一郎は南部家伯爵の南部利定が導入した南部系伝書鳩の改良に励んでいた。
  栗駒号灰栗胡麻♂とは、秋一郎が苦心惨憺(くしんさんたん)して開発した銘一翼の傑作である。カワラバトの飼育に始まる伝書鳩の歴史は奈良朝にまでさかのぼる。そして陰陽寮の陰陽博士らの手で専(もっぱ)ら行われてきた。洛北狸谷の阿部一族はその末裔として後世に連なっている。
「 明治20年3月23日は、帝国陸軍が伝書鳩の東京・静岡間の試験連絡に成功した日、秋一郎の鳩がその成功に貢献した・・・・・ 」
  その後、旧陸軍は大正8年にフランスから千羽のタネ鳩を輸入して中野通信隊で本格的な訓練を行い、翌9年11月の陸軍大演習で実用実験を行った。こうした軍用鳩は軍の機密事項に関わる、その飼育実態は密やかに陰陽道寮舎にて行われた。秋一郎の鳩舎は芹生の里の奥山に囲われて訓鳩を重ね、そして阿部家縁筋の駒丸家がその種鳩を今に引き継いでいる。駒丸扇太郎は日々この育鳩に余念がない。
「 おゝ・・・・・!。音羽六号が勢いよく飛び立った! 」
  音羽六号は、駒丸鳩舎と東京の雨田鳩舎とを相互に往復できる能力を有して飼育されている。雨田虎哉と駒丸扇太郎は、阿部家伝来の陰陽鳩の復旧に取り組んでいた。
「 毎分2㎞の速度、京都~東京間約400㎞は最短なら三時間半着の飛行能力、しかし日本列島はそう単純に割り出せない。最大の難関はやはり日本アルプス越え、そして幾度かの磁場力の変動を飛び越える必要がある。それでも音羽六号は半日の所要時間内には鼠坂に到着し鳩舎のタラップをくぐり終えるであろう・・・・・ 」
  名は博士の本宅のある音羽町に由来する。鷹や隼の寝静まる早朝、音羽六号は東京・鼠坂の鳩舎へと飛翔した。
「 移動鳩は一般にはあまり知られていない。これは戦場において移動式の鳩舎を探してそこへ鳩が帰巣する。放鳩後に原隊が移動しても、訓練された軍用移動鳩は、移動先の車輛鳩舎へと帰巣することができた。栗駒号はこの能力を保有した。音羽六号♂はその血統だ 」
  小生は駒丸家を飛び立つ音羽六号の気配を押えた後、そして急ぎ雨田博士の八瀬へと向かった。農学者Doctor of Agriculture虎哉と、駒丸扇太郎は師弟関係にある。そして二人はかねてより山端集落における山間地再生への研究に取り組んできた。
「 レジリエンス要素の一つには、陰陽道という天文道や暦道、自然科学と呪術の体系も重要だ!。博士はそう考えている・・・・・ 」
  これより奈良へと向かう虎哉は、裏山の石の小塚を見据えながら栗駒一号の眠りをたしかめた。思い起こせば、山荘を建てる前の広い敷地がそもそも密やかな処であった。その音羽の甕を納めた小さな敷地は山荘と隣接しているが雨田家の敷地ではない。そこだけは狸谷阿部家の所有地であった。つまりそこは鳩の墓場なのである。
「 音羽の塚・・・・・! 」
  と、そう山端(やまはな)の人々に呼ばれた。小塚はそうした村人の手向ける花が途切れなくいつでも季節の彩りで生けられている。村人は毎日輪番で墓参へとやってくるのだ。そのために清原香織は毎朝、その細い参道の入口に箒目(ほうきめ)を入れ清浄(きよめ)の打水をした。
「 放鳩の予定時間は午前6時・・・、すでに放たれた・・・・・ 」
  そう感じると虎哉は静かな眼で空の気配をうかがった。新春の空の高みには下弦の終わり月が細く細く消えかけて幽かに水引の白を止めている。その薄闇の中を音羽六号は一矢のごとく琵琶湖の彼方へと消えたはずだ。虎哉はさらに薄闇に眼をキッと睨みすえた。
「 間もなく明けようとする朝の景色に博士は、音羽六号の飛影を想い、そして阿部富造の影をそこに描き重ねた。その眼にある光りとは、また日本の夜明け前でもあった。近代日本の払暁(ふつぎょう)、そして同時に陰陽寮はこの世間から消えた・・・・・! 」
  阿部丸彦は、和歌子からの指令を待ちながらここまでを想い起こした。
「 あの旦那はんは、奥さんの沙樹子はんからネコの扱いがヘタだといって笑われた人であるが・・・・・」
  そして、ふと、比江島と沙樹子の顔が浮かんだ。阿部沙樹子が比江島家に嫁ぐ以前、小生は沙樹子には随分喉元をゴロゴロと優しく撫でてもらった。何しろメス猫よりもツボを心得たエソロジストの指先は抜群なのだ。彼女のは、快感をじらしながらだんだん始まるのではなく、だんだんじらして、じらしている中に突然に快感のツボをグイッとしごいてくれた。小生はこれに痺れた。現在でもそのエソロジスト効果の快感は小生の記憶に存分に沁みている。
「 アッ、緑だ・・・・・!。やはり緑か。 かちゃーしー もーてぃ あしぶんサー・・・・・ 」
  小生はポンと岩場から飛び降りた。そしてもう一度、オリーブ林の丘にある風車の白さを確かめた。

                                      





                                      

                        
       



 琉球の着物 4






ジャスト・ロード・ワン  No.8

2013-09-17 | 小説








 
      
                            






                     




    )  瑠璃茉莉  Rurimatsuri


  未明の闇の中では強烈なインプレッションが、いつまでも修治の気分を抑圧し続けていたが、いつしか眠りについて朝目覚めてみると一転して、静謐なインプレッションの刻みが、いつまでも修治の気分を高揚させ続けていた。
「 昨夜は、誰かの口笛で、青い花の咲く野原に、太陽がゆっくりと冷えてゆく夢をみたような気がするのだが・・・・・ 」
  比江島修治はおそらく、未明に出逢った眼の覚めるような女性に一目惚れをするように、琉球のバラードに恋をしたのである。このインプレッションは、ホテルを出たおもろまち駅付近から安波茶交差点でタクシーを降りるまで高揚し続けていた。
  だがそれがタクシーを降りて地に足をつけた途端、高揚するインプレッションが停止した。まるで死に場所を探し当てたように足だけが急いでいる。それはあたかも沖縄のこの地に、内地では計り知れない琉球の生身魂(いきみたま)がいるかのようだ。

   


  初女句集を現したとき名嘉真伸之は「 俳句は私の(おもろぞうし)の第2三線(さんしん)のようなものだ 」と仄めかしている。そして句集を片手に秋空を仰ぐと「 この国の死後を行悩むいわし雲 」と詠んでみては、するとふと地に眼を伏せて「 畳の上を土足で歩く蟻の列 」と詠んだのだ。戦後は名嘉真にとって死後なのである。日本とは白蟻に破られた亡国なのだ。だからそう詠んだ句に伸之は「 私はその他の階段を降りる裸体なのだよ 」と付け足した。だったら名嘉真を単に俳句作家と思うのは、彼の投げた見せ球に空振りさせられてちょっと損である。おもしろいのは決め球の「その他の階段」の方ではないか。伸之の俳句には投法として「その他」に下りる「階段」があるのだ。
「 名嘉真伸之の仰いだ秋空にあった「その他」とは一体何なのだ・・・・・! 」
  その秋空の下にある歩道橋の階段を、三人が仲睦まじく語らいながら下りてくる。
  清原香織はかって見覚えた通りのヤンチャ顔で声を弾ませている。そんな三人の姿を修治は待ち構えていた。
「 見間違うはずはない。たしかにあれは香織だ。しかし、それにしても沖縄で香織に出逢うとは、どうしたことか・・・・・?。夏季休暇でも貰ったかなッ・・・・・!。だが、京都の安倍家に夏休みがある、そんな話など沙樹子から一度も聞いたことはない・・・・・ 」
  香織は阿部家の格式と仕来りで暮らせることを喜んでいた。しかも五流家で修業中のはずだ。
「 彼女はまず奈良や京都の2000年を学ばねばならない。武者修行はもっと先だろう。それが唐突に、しかも沖縄で・・・・・ 」
  修治には、鞍馬山しか知らないカナヅチ猿が、南国沖縄に泳ぎ着いたようなもので、何とも判然としない香織の出没であった。
「 しかし、それはあくまで京都での諸事情を踏まえての話だから、阿部家や五流家とは無関係なのかも知れない。だが、両家と関係があろうとなかろうと、そもそも香織がなぜ沖縄にいる・・・・・ 」
  沖縄という場所で香織と出逢うことが、どうにも修治には意外であり、どうしても不自然であった。




  陰陽道の阿部晴明といえば平安の京都が歴史の舞台である。
  そして直系ではないが、近代から現代に陰陽寮博士の家業を受け継ぐ末裔に京都山端(やまはな)の阿部一族がいる。修治の妻沙樹子もこの安倍家とは血縁にある。洛北に育った清原香織もその安倍家とは切れざるべき深い関係を持つ。以前、修治が京都の別荘を借りて療養をした折、清原香織は二年間ほど、修治の身の回りに常にいて、あれこれ何かと親切によく尽くしてくれた。
「 香織が沖縄に来ているということは、もしや安倍家に何かを頼まれてのことか。それとも五流家と沖縄に何か接点でもあるのか。あるいは旧盆でもあるし香織に個人的な事情があったのか・・・・・?! 」
  別荘での二年間もの療養について比江島修治が思うには、寺島佳代との恋仲を父源造に裂かれた五流友一郎が、祇園の置屋「よし乃」に投宿するところから、この二人の人生が一幅の劇画のごとく大正浪漫の香りをゆっくりと放ちつつ始まっていく。そんな放蕩伝説を沙樹子から何度も聴かされた。また修治が療養のために拝借させてもらった洛北の別荘は、神戸の大富豪五流一族の迎賓館ともいえる5棟連なる数奇屋づくりの避暑施設のことで、そこはそももそも聖護院修験道が夏安吾に使用した日蔭道場である。さらに伝えでは、幕末の伏見寺田屋で新選組に襲撃された坂本龍馬がお瀧としばらく隠れていたところでもあった。
  五流友一郎がその別荘地を「羅森庵」という名にしたのは、奥の裏山に深い谷底があり、不思議な霊力の光りを放つ柱状摂理の洞窟があったからだろう。その洞窟をみて友一郎の放蕩は終わるのだ。別荘のここで繰り広げられた平安時代以降の時間は長くもあり、またわずかな近代の隙間におこった数々のドラマは、別荘で一時寝起きした体験を持つ比江島修治の眼には、じつに見事な一幅の絵巻物に描かれてくる。
  別荘の敷地は上の比叡山と地続きとも思えるほど広大なのであるが、中でも「五流館」というプライベートホテルは妻沙樹子の祖父が五流一族の資金で、大正3年に大正博覧会にくる外人客をあてこんで京都で饗すために建てた洒落た洋館のホテルなのである。博覧会期間にはいつも万国旗がはためき、異国のシャンソンやワルツが鳴っていたという。それだけでなく、敷地全体の歴史は、今日の日本がすべて失ったであろう貴種的ドラマ性を秘めているのだ。何しろあえて天下には曝そうとはしないが、修治が軽く見渡しても日本史の要を色濃く刻んだ貴重なコレクションの数々がそこにはあった。格調の高さばかりを見世るのではない。どう調達したのか、かって大久保利通が使用した褌(ふんどし)が、綻びをそのままに注連縄か暖簾のごとく渡り廊下に、さりげなく風流に吊るされていた。
「 別荘の壁一面一面に凛として凡とした日本の人生が刻まれていた。それに触れたとき、それまで僕の体の奥深くまで澱(おり)のように溜まっつていた記憶の中から、無意味な記憶だけが消却され、残された記憶だけが、これから長い旅を終えた後に残される唯一のものであるのかも知れない、とそう何度となく胆など叩かれたものだ・・・・ 」
  そう思えると修治は「 明治維新以後に日本の色は消えた 」という名嘉真の言葉が泛かび、それは日本人が「 畳の上を土足で動き回ったからだ 」という伸之にみえた白い蟻の行列が修治の体から這い出してきた。しだいに白蟻は修治の屋台骨を破るのだ。
  すると修治は、不器用なまでの琉球の律儀さを感じた。
  同じように眼を輝かせていた五流友一郎の姿も、澱のように溜まった世界の記憶から何かを生み出そうと必死にもがく男のそれだった。しかし、清原香織という京娘は、妙に親しくそんな五流一族の敷居を自由に跨ぐ奔放な女性なのだ。
「 あッ、あれレっ・・・・・!。樽万の先生やわ。えらいところで見つかってしもた・・・・・ 」
  やはり目敏い娘である。香織の方から先に声を掛けてきた。
  なるほど先手必勝とはいかにも彼女らしい。天目にピタリとまず一石を打つ。五流囲碁はこれを規範のごとく儀礼の色にして定石とする。そして香織は修治のド派手な日傘の色を感じて、ホほホと笑った。そしてこの笑顔に修治は、笑みを見せられたとき、笑みを見たときなのかも解らないまま、香織はひとつのプロトタイプであることに気づいた。どんな世代にもひとつはそういうものがある。考えてみると別荘で療養していたとき、すでに香織を修治は与えられたプロトタイプとして客観視せねばならなかったようだ。
  修治は京都の別荘では香織から「樽万(たるまん)」と揶揄されていた。樽は、日本酒の酒ダルであり、万は、万が一にも樽を修治から遠ざける、つまり療養の身には一滴の酒をも修治に与えるべからずの小生意気な説教癖から、妙な渾名が香織によって献上された次第だ。やはりその香織とはプロトタイプ的にヤンチャなのである。それが証拠に、日常の所作は五流家によって手厳しく鍛えられていた。したがってこの娘は心身共に伸び伸びとして背筋もピンと張っている。一見、おてんばで天真爛漫のようであるが、必ずしもそうではない。それは精神を静謐に練り上げる修行体験からそう生じさせる、ある種戦略的に人を揺動させる術を素地とする奔放性なのであろう。何かと辛抱強く、打たれ強く、粘り強く、根気よくあるために、彼女は笑顔を積極的に絶やさないのである。五流友一郎は「伝統」という言葉を嫌っていた。最も美しいものは「時間の運動」だとみなしていた。彼女はそのプロトタイプなのである。
「 何や、かさねこそ、何で沖縄で遊んでるんや!。さては大文字焼きで何か仕出かし、安倍家から破門でもされたか・・・・・ 」
  かさね、五流友一郎は香織のことをそう呼んでいる。京で「かさね」とは襲(かさね)、「車の簾、かたはらなどに挿し余りて、―、棟などに」と枕草子にもあるが、上を覆うもの。友一郎が香織に何を覆わせるかといえば「女らしい」の息苦しさを破れ、と常に指南しているのだから、修練で男気(おとこぎ)を重ねては女性を覆うことである。修験道を束ねようとする友一郎が重視していたのは、おそらくは、つねに「あらゆる外見から遠ざかっていたい」ということである。
「 ふん・・・・・!。遊びやあらへん。せやけど内緒やわ・・・・・ふフふッ・・・・・ 」
  と、やはり、明るくあっさりと香織は内緒を認め、屈託なく無邪気に笑った。
  それはそうとして、香織の横にいてペコリと会釈した男とは京都の別荘で出会っている。名は忘れたが、五流家に頼んだ資料を別荘まで届けにきてくれた男だ。きっと男も聖護院派の修験道なのであろう。もう一人の小柄な女は男の背後にいてよく顔が見えなかった。
  届けてくれた資料といえば、ニコライ・コンラッドとニコライ・ネフスキーに関するモノだった。コンラッドは『伊勢物語』『方丈記』『源氏物語』を訳したロシア人、ネフスキーはスサノオ伝説や月の民俗学を研究した。
  東洋学者として当時のソ連における日本・中国研究に指導的役割を果たしたニコライ・コンラッドは、モスクワとキエフとを結ぶ街道沿いの町オリョールに生まれる。そしてまもなく一家でリガ(現在のラトビアの首都)に引越した。1908年ペテルブルク大学東洋学部日本語・中国語科に入学し、そこで黒野義文に日本語会話を習うが、ところでその黒野の能力に不満があり、実用東洋語学院にダブルスクールで通いながら、デ・エム・ポズネーエフ教授やエス・イノウエ講師から日本語を学んだ。
「 東京にいたニコライ・コンラッドが京都へと来たのは、大正博覧会が終わろうとすることだった・・・・・ 」
  そして大正博覧会が終わった直後、オーストリアでセルビアの皇太子が撃たれて第一次世界大戦が勃発した。8月には日本もドイツに宣戦布告する。日本中、とりわけ東京が沸き立っていた。折しも日本人の意識は上り坂を越える勢いにつられ「今日は帝劇、明日は三越」が流行語になっていた。それは京都とて同じで、ニコライ・コンラッドはまさに万国旗のはためく別荘に投宿したのである。
「 古事記、日本書紀、古今集、新古今集、和歌などの日本の作品は、コンラッドのようなロシア人東洋学者の研究・翻訳のお陰で世界的に知られるようになったのだ。だがその行為により彼らは甚大な衝撃にみまわれた。現代の日本ではその実態がほとんど知られてはいないが、多くのロシア人の東洋学者が「東洋文化に興味を持ったがため」に、じつに尊く多大な命がこの世から消えた・・・・・ 」 
  日本学者ボリス・ワシリエフとユリアン・シュツキイらは銃殺された。コンラッドが源氏物語の部分翻訳をしたのは1924年。そしてスターリン政権下時代の1937年、ロシアの日本学者コンラッドは逮捕された。当時ロシアでは、東洋言語を知る人々は「スパイ」だと宣告される。旭日章を授与されていたニコライ・コンラッドは「日本のスパイ」として逮捕され、彼は拷問を受けた後、冬期極寒のシベリアで森林伐採の強制労働を強いられた。そしてさらにソ連時代の強制労働収容所内の秘密研究所で強制労働の身となるが、不屈の精神力で生き残るのである。




「 やはり宮古島まで行こう・・・・・ 」
  何やら安倍家と五流一族が申し合わせたように影働きをしている。ここで香織と五流派の修験道と出逢ったことに、修治はふと先の予定を変更して宮古島に渡る、そう思った。宮古島はいずれ行かねばならない場所であることは先般から考えていた。にわかに予定を変えた修治の眼は一枚の家族写真を泛かばせている。その眼にはじんわりと涙があふれた。
  当時日本には、ペテルブルク大学を卒業して日本研究に従事した者が3名いた。コンラドは日本における中国文化を、ネフスキーは神道を、ローゼンベルクは仏教哲学を、それぞれが分担して研究にあたった。コンラドはソ連初の日本文学博士であるが、修治は別荘において、彼の仕事が日本にとってどのような意味を持ったかを知った。そしてロシア革命実態の裏面史に近づけた。
  中でもニコライ・A・ネフスキーには日本人として甚大な呵責がつきまとうのだ。
  ロシア革命が起きると、内戦状態が長く続いて本国からの送金も途絶え、ネフスキーは帰国するてだてが無くなり、そのまま日本で研究を続けることになる。そして北海道の小樽高等商業高校(現在の小樽商科大学)のロシア語教師として就職し、この時期、ネフスキーは北海道のアイヌ語の研究を始めた。ネフスキーは、収集した資料の整理及び助手として、当時19歳の萬谷イソを研究者仲間に紹介される。イソはとても有能な女性で、仕事も効率よくこなして、イソとは2年後に結婚する。そして宮古島出身の稲村賢敷(いなむら・けんぶ)と出会うことになる。その稲村から宮古島の特徴ある方言の話を聞いたネフスキーは、宮古島の方言に強い興味を抱いた。こうしてネススキーの宮古島における調査が行われた。彼は 6年間に、宮古島以外にも琉球諸島や台湾に住む少数民族の言語と民族史を研究する。 また、この期間に数多くの雑誌や新聞にその研究内容を発表した。妻イソとの間に娘エレーナが生まれたのもこの時期であった。
  だが、ソ連の指導者スターリンによる、東洋学者や東洋で学び帰国したロシア人研究者および、日本人を含む東洋人の教師や講師に対し、粛清(しゅくせい)が始まった。この以前にネフスキーはすでに帰国を許され、家族三人はソ連にて暮らしていた。スパイ容疑でネフスキーが逮捕されのは1937年10月4日のことであった。彼はそして拷問をうけ、裁判なしで、当時「RSFSR 58 - 1A刑」と言われた国家反逆罪の宣告を受けて、粛清として銃殺された。11月24日、45歳であった。
  現在、宮古島市の漲水御嶽の近くに「ネフスキー通り」と呼ばれる長さ約90mの石畳の坂道がある。
「 ところで、かさね・・・・・!。その後、あの人の体調はどうだ・・・・・? 」
  ふと非情なニコライ・A・ネフスキー家のことを想い起こした比江島修治は、さらに一人のアメリカ人を連想し、香織の友人は一度その人物に何かと世話になった経緯もあり、清原香織にその女性のコンデションを訊ねた。
  ネフスキーの逮捕により、また妻のイソも4日後の10月8日に、スパイ活動の容疑で逮捕される。イソは拷問にも容疑を否認し続け、官憲の調書を最後まで認めず署名を拒否した。夫の立場を守り、無実の者として最後まで尊厳を失うことなく毅然として生きようとする。そのイソはネフスキーと同じく裁判されることなく、レニングラードのKGB本部で夫とともに銃殺刑となる。この時、イソ35歳であった。そして両親を処刑された娘エレーナは孤児となるが、ネフスキーの親友で同じ日本学の研究者だったニコライ・コンラッド夫婦に引き取られた。しかしエレーナは、その後いくつかの家族を転々とすることになる。修治にはこのエレーナへの不憫さがあった。
「 へえ~、大丈夫みたいどす。そういうたら、先日、M先生から手紙届いて、えろう~気ィつこうてもろて・・・・・。せやけどおかしなことはエアーメールやのうて、消印、那覇から出さはったもんやった・・・・・ 」
  そういうと、香りはポコンと胸のアタリを軽く平手で叩いた。そして五流友一郎が口癖のようにいう「市松人形のような娘や」という、まったくその通りの愛くるしい眼差しを修治に向けってまた笑った。そのように香織は常に笑顔を絶やさない娘なのであるが、M・モンテネグロが来日していたとは知らなかった。しかし、そのモンテネグロに関して誰もがあまり知っていないことがある。
  修治は一度だけ涙を流す香織の友人の姿に接したことがあった。香織の笑顔の堀が深いほど、その真逆にある涙の粒が浮かんでくる。アメリカのM先生から香織に手紙が届いたというが、香織の友人はあのときの修治を感動させた渾身の涙を一生抱き続け、きっと感謝し続けるのであろう。その彼女が感謝すべき人物が、ユダヤ系M・モンテネグロなのだ。



  人は常にいくつかの旅立ちを持つ。
  それが新たな旅であれ、古き何処かに還る旅であれ、人は何かにあくがれて行く。
  そして阿部和歌子がアメリカへ旅立った朝に、山荘のベッドの上では、京都洛北の山河を省みる老いぼれた一人の男がいた。
「 ようやく陰陽家伝を書き終えた、雨田虎哉博士である・・・・・ 」
  その眼には、いつしか見憶えてしまった早春の山端を漱ぐ高野川のせゝらぎを泛かべている。するとこのとき修治は、なぜか消えようとする博士の眼の裏側をみたような気がした。
「 洋子の娘、と、だけ名のなき名を呼んだからだ・・・・・。おそらく博士はその名さえ知らなかったのであろう 」
  博士は臨終の間際まで、洋子の娘の病状を心配していた。執刀が行われたのは、その三日後のことであった。
「 あの日・・・、患者のかたわらの小さな椅子に腰をかけ、縦にまっすぐ切り開いた胸の内側に高坂甚六(こうさかじんろく)は瞳孔も静かにためらいなく超音波メスを入れた・・・・・ 」
  そして冷たくピッ、ピッ、ピッと心拍のモニター音だけが響く。
  12人の医療スタッフが立ち会う中央手術室は静まりかえっていた。どうしても博士が眼差していた高野川、川の流れにその光景が重なってくる。そしてその修治が博士を思う眼の動きを感じながら、同じ光景を、たゞじっと見守る阿部秋子と千賀子とが同室にいた。そして母親の洋子が祈るような思いで横にいた。修治はそれを見過ごせるはずもなく母の動揺を静かにみていたのだ。
「 そのとき・・・・・、10万ルクスの高照度白色LEDが照らし出した無影灯光源の室内は、あらゆる影の存在を否定した中で人間の五感が繰り広げる非常の世界である。その緊迫の手術台の上で清原香織はたゞ青白く昏睡(こんすい)に落ちていた・・・・・ 」
  高坂甚六は、上下に走る直径2ミリほどの細い内胸動脈を丁寧にはがしていく。
  しごく少しずつ、丁寧に、さらに丁寧にはがした。
「 この動脈は、洋子の娘がこれから安心して暮らすための命綱なのだ。心臓の筋肉に血液を送れなくなった冠動脈の代わりを果たしてくれる。だから執刀医は大切にあつかう・・・・・ 」
  そうしてこの心臓が拍動する状態のまゝ動脈を縫い合わせる、オフポンプの冠動脈バイパス手術は、M・モンテネグロを訪ねた修治がアメリカから帰った半年後に、京都順正大学付属病院で行われた。
「 開始から約2時間、あれはじつに鮮やかで迅速な手さばきであった・・・・・秋子もこの施術には驚いたし、衝撃さえ覚えた・・・・・ 」
  比江島修治は特別室のモニターでそれをじっとみつめながら、洋子の娘の動脈にうまく血流が流れはじめたことを確かめた。付き添う阿部秋子も千賀子も母洋子も感激の涙を眼に湛えていた。
「 あなたが、日本のエンペラーの手術をなさったドクターですか・・・・・ 」
  と、術後にアメリカから医療視察に来日していたM・モンテネグロが問いかけると、高坂甚六は満面の笑みで「イエス」と答えた。その日は海外の医療関係者10名ほどが立合う国際医学会プログラムが組み込まれていた。それらの関係者にも甚六は同様の笑みを泛かべ、そして最後に通訳として同行した修治をチラリとみた。
「 あれは・・・、平常な親しい、いつもの笑みであった 」
  同医療チームにいた工藤医師は、術後にそうしんみりと語るとまた付け加えて、中学校からの盟友であるその甚六は、手術中、頭を使っているのは10%ぐらい、90%は反射的に手を動かさないといけないという。
  阿部秋子は手術後に、高坂甚六から経過説明を受けてはしきりに感心したかに笑みを零し、甚六の手を両手で握りしめてじつに嬉しそうであった。なるほど、そうだからこの男の眼の輝力は、一流のピアニストが感じさせる極限の眼光とよく似ているのだと修治には思えたのだ。それはピアニストが今弾いている楽譜を胸の芯で見ているように、外科医高坂甚六は、手術の先にある香織の命だけをまっすぐに見ていてくれた。



「 やはり彼は評判通りの外科医であった 」
  と、術後に阿部秋子がそう思ったとき、そしてまた細やかで丁寧な仕事ぶりが執刀までの手筈を整えた修治にも改めて充分に伝わってきた。この一切のお膳立てを引き受けたのがM・モンテネグロなのであった。彼は日本一の執刀医を紹介してくれることを約束してくれていた。彼は国際医療リストを査定し高坂甚六を引き出してくれた。モンテネグロも医学博士なのだが、彼の専門は医療工学の研究開発であった。
「 何と精密な手捌きであろうか。ミリ単位での冷静沈着な命との攻防は、むしろ神々しくもある 」
  と、M・モンテネグロはしきりにそんな言葉で賛辞していた。
「 手術があなたの娘さんに提供できる自分の真心のすべてであろうから僕は、そういう方向で今まで自分を追い込んできたのだ。手術では100%と患者と向き合うし、必要な準備は怠らず絶対に手抜きなどしない。今回もひたむきに香織さんに集中しますよ・・・・・」
  と、手術前に高坂甚六は、こだわりを持って患者の命に突き進むのだと母親に言ってくれたのだ。だから、甚六を修治は推薦し、秋子や千賀子から甚六は指名され執刀を依頼された。何しろ阿部家は六(ろく)に賭けた。
  彼は盟友の工藤から執刀医に推薦されたと聞くと「 他に誰がいるのだ、自分以外に引き受けて自分以上に結果をだせる心臓外科医はいないだろう 」と、逆に推薦者である修治を勇気づけるかに朗らかに笑った。そうして甚六は明言の通りに託されたバイパス手術を無事成功させてくれた。そして洋子の娘が麻酔からようやく目覚めたのが手術後三時間のことであった。
「 その娘は新しい生命の旅立ちを、新しい涙でもそこに汲み与えるかに、まず彼女がしたことは、最初に自身の涙をポトリぽとりと流したことだ。あれは単なる嬉しさと安堵だけの涙ではなかった。純水のごとく産まれ出る生命の水晶のように思われた・・・・・ 」
  年齢は清原香織と同じだと聞いていたが、名さえ知らぬ娘の、この光景に修治は立ちあったのだ。その涙があまりにも純水すぎて修治の魂を直撃してしまっている。なぜ修治がその娘の名を知らないのかは、自身が名を知らぬまま行動を優先したことにあるのだが、少女がこの名をもつ花に変身して恋人を路傍で待つと幸せになるという伝説に因んでいるらしい。そこまでしか分からないが、それは百合、菊、桜、すみれ、あるいは洋花であるのかも知れない。ともかくも清原香織の親友なのであった。
  この名さえ明確でない娘の涙から当時を浮かばせてみると、ロシアはひたすら荒涼とし、ひたすら広聊としていた。それはM・モンテネグロと出逢う少し前だが、どうにもクレムリンの復活祭の鐘の音を聞くうちに、これが自分の復活祭だと思えたのだ。リルケがそうであったからであろう。リルケはあの鐘の音について何度も書き綴っているのだが、その言葉の音感のようなものには凍てつくように鋭いものがある。ただその音を共有してくれる者が見つからない。そんな筆運びであった。それでもリルケからして、当時のロシアには新たに感じるものがあったのだ。そんな想いを重ねると、クレムリンの鐘の音は、修治には辛くて途中で聞くことを放棄したほどに、痛哭で神々しかった。それが尾を曳いていたせいもあるが、一度だけ出会った彼女の流した涙の純水には気が惹かれて、またそれが現在まで尾を曳いていた。
  しかし今、そう思えた直後に比江島修治にとっての沖縄は、そこかしこが死ににくるための街なのだ。
「 あの~・・・・・、出羽洋子です。あっ、いいえ、あのときの洋子です・・・・・ 」
  男の背後からのっそりと現れた影と声に、突然、お礼の言葉を付け加えられてみると、生命の危篤とは母親にとっても修治にとっても「いとわしいもの」で、二人して見つめた手術室の光景は、なんだか死に方と、生き方の見本のような細部観察で、繰り返す生死の感情の起伏をして成り立っている。陰から現れた女による「洋子」と名乗られた陽暉さに、ただ修治は唖然として驚いた。だから、そして御嶽(うたき)の祝女(のろ)によって祈り続けられる琉球とは、神々しくあって常に「神から遠のき、行きあうすべてのものたちからたえず否定されている」ような街だったのである。その神とは欺かざるモノで、今日の沖縄の重荷や苦痛とは、琉球の姿勢があまりにも神の天理に過敏で真摯であるということだ。
「 名も何も知らんと、やっぱり樽万はんはアホや。彼女の名、瑠璃いうんやわ。ルリマツリの(るり)、沖縄の花や・・・・・ 」
  という、香織の声は、京都にいるときと同じで、沖縄の秋風を弾き陽気にはしゃいでいた。
  このとき修治は初めて男の名が出羽五郎ということ知る。
  三人は少し前に、出羽洋子のオバー知花(ちばな)千代の墓参りを済ませていた。 さらに三人は早朝すでに「浦添ようどれ」から聖護院六号を放ち終えていたのだが、そのことを修治が知るよしもない。
  歩道橋の下でしばらく立ち話をしていた四人は、香織に拾わせたタクシーに乗ると、国際通りへと向かった。




  覚醒をしたレナードは30年ぶりに朝をみた。
  そして、妻を帽子と見まちがえた男がいた。
  オリヴァー・サックスは、色のない島へ、と一人の博士を連れて旅行した。
「 これらは、いずれも興味深い話ではないか・・・・・! 」
  一日に熟読して一冊、丸三日を費やした鷲羽(わしゅう)四郎は三冊目の本を閉じ終わると、喫茶処六道庵の二階窓越しに、五条茶わん坂詰の真向かいにある古書院「冬霞(ふゆがすみ)」の店構えをじっとみつめていた。
  弁柄(べんがら)古民家の軒に五色幕(ごしきまく)をかけたその室礼(しつらい)はなるほど清水寺参道の遍智(へんち)な風情をかもし古都らしくある。だが名の「冬の霞」とは妙に密かである。
「 立春のとき、天子は青衣を着け、青玉を佩(お)び、百官を従えて自ら東郊に赴き、春を迎えた。同様に立夏となれば赤衣をまとい、南郊に夏を迎え、立秋には白衣をもって西郊に秋を、立冬には黒色の衣を着けて北郊に冬を迎えた。そして・・・・・黄衣は・・・・・ 」
  五色幕に四郎はそう想い泛かべ院構えをみていると、まもなく店の主人が軒先に表われた。
  藍染の着物に茜(あかね)だすきで袂(たもと)をあげたこの主人の名を音羽(おとわ)一郎という。しかし、茜だすきを外して帯を西陣の黄色い角帯に差し替えると、この男は音羽五玄(ごげん)となる。
「 よし・・・・・、金茶錦(きんちゃにしき)の帯に締め替えたぞ・・・・・!。予定通り六号はまもなく・・・・・ 」
  香川高松にいる三郎から連絡が届いたようだ。六道庵の亭主・四郎は五玄になった男の姿をたしかめると、おもむろに席を立った。
  そして一郎が五玄となった姿を眼に納めたとき、四郎もまたその名を鷲羽五学(ごがく)と入れ替えた。これと同じように、聖護院六号が四国山脈の中央構造線を超えたとき、八栗寺にいる白羽三郎は五真(ごしん)と、金剛福寺にいる笠羽二郎は五寿(ごじゅ)に、那覇にいる出羽五郎は五芳(ごほう)にと、これで五者それぞれが表名を、裏名へと差し替えたことになる。
  事有れば異名を名乗るこの五人には、個別の表家業と、そして同業の裏稼業とがあった。
「 さて・・・・・、鳩舎へと向かうことにするか・・・・・。はて、あれは、本願の聲(こえ)か・・・・・! 」
  と、聖護院六号の帰還を出迎えようと考えた音羽五玄は、ふと清水寺の朱(あか)い仁王楼門の方をすかさず振り向いた。鹿鳴(ろくめい)の聞こえ、耳にそう感じられた。鹿鳴は詩経に「ゆうゆうたる鹿鳴、野の蓬(よもぎ)を食む」と、宴に客をもてなす調べではある。その鹿は好んで仲間を呼び合うというが、しかしこの参道で何故(なぜ)。雌鹿の鳴くのは稀(まれ)、雄鹿は自分の縄張りを宣する時に鳴く。
「 仙人がしばしば乗騎(じょうき)とするのが白鹿なのだ・・・・・! 」
  清水寺には鹿の伝説がある。鹿を捕えようとして音羽山(おとわやま)に入り込んだ坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、修行中の賢心(けんしん)に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮(えんしん)(賢心の後の名)より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。
  後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷(えみし)平定を命じられた田村麻呂は若武者と老僧、若武者とは観音の使者である毘沙門天、老僧とは地蔵菩薩の化身なのであるが、この加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。その後、田村麻呂は延鎮(賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では東山山麓に草庵を結んで住した行叡(ぎょうえい)を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。この本願の啓示は鹿鳴の聞こえ方により兆される。
「 何事か・・・・・、火災のごとく、厄介な凶事の兆しでなければよいが・・・・・ 」
  清水寺の伽藍は康平(こうへい)6年・1063年の火災以来、近世の寛永6年・1629年の焼失まで、記録に残るだけで9回の焼失を繰り返している。平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、永万元年・1165年には延暦寺の僧兵の乱入によって焼亡した。現在の本堂は寛永6年の火災の後、寛永10年・1633年、徳川家光の寄進により再建されたものである。他の諸堂も多くはこの前後に再建されている。音羽五玄はしばしぽ~っと立っていた。
「 あるいは、どこぞの茶碗でも割れたか・・・・・! 」
  坂道のゆるやかに続く茶わん坂は、東山にある清水焼発祥の地。弁慶と牛若丸が出会ったという五条大橋よりも東を五条坂、東大路通りから清水寺までの五条坂を上り、半ば右曲がりの小路を茶わん坂という。五重にそびえる八坂の塔に象徴され、八坂に結ばれるこの界隈は、産寧坂(さんねいざか)など、京都名所の清水寺近くという地の利の良さも相まって、八坂いずれの坂道も旅人らで賑わっている。しかし、この茶わん坂だけは、裏陰のごとく渋い表情の陶芸人家屋の立ち並ぶだけの地道さもあり、他の坂の賑わいとは無縁である。
  普段、歩く人もまばらで閑静な坂道であるから、そこに茶碗一つを落としても、その割れ音は、明らかに聴き取れる響きをさせて坂道を上下に転がってくるものだ。茶碗とは限らぬが、しかし、五玄の耳はやはり何かの動く不審な気配を感じた。
「 それは鹿鳴であれ、茶碗の欠けた音であれ、これら微細な動きの一つ一つは、さしたることともない。が、これは次の大きな変化を予想させ何かを察知すべき蠢(うごめ)きと考えるべきなのだろう・・・・・ 」
  そう想いつゝ店じまいを終えた音羽五玄は、松原通へと出た。そして20m後方にピタリとついて五玄の後を追う鷲羽五学がいた。



「 ピンゲラップ島・・・・・!、日本人にとって、なかなか興味深い島である・・・・・ 」
  ピンゲラップ島は、先天性全色盲の人口比率が8%以上という特殊な島、色のない島へというミクロネシア紀行記にオリヴァー・サックスはそう書いていた。鷲羽五学はその記述に特別な執着を覚えた。興味深い情報は、興味深い人間が運んでくる。そして運ぶ人間の生活意識は興味深い環境から与えられる。これは五流友一郎が喰いついてきそな人物だと五学にはそう思えた。
  その「 色のない島へ 」は、二つの紀行文で構成されている。1つは、ミクロネシア連邦のポンペイ島とコスラエ島の間に位置するピンゲラップ島への紀行記。もう一つは、ミクロネシアのグアム島でのチャモロ人固有の風土病を取材した紀行記である。
「 このオリヴァー・サックス教授は、コロンビア大学の脳神経科医、そしてエッセイストだ・・・・・。教授は、島民が「太陽の光」に順応できないので夜に活動するというが・・・・・!。そういう教授はロンドン生まれた・・・・・ 」
  アメリカの教授陣を含む有識者たちがインテリジェンス・ピープルに背をむけて、地道な生身の男性に戻りたがっている。長すぎたベトナム戦争に疲れたアメリカが変わったのだ。「Events of 11 September(9月11日事件)」に揺すられグラウンド・ゼロ(爆心地)となったアメリカが変化したのだ。音羽五玄の背中を追う五学の眼には、カリスマが消えたアメリカが泛かんでいた。
  こうして五玄と五学が聖護院六号の鳩舎へと急ぐころ、沖縄では、出羽五芳と洋子、清原香織の三人は磁場密度を調査するため修治と別れ旧久米村へと向かっていた。
  そしてその三人と県庁前で別れた比江島修治は、一度ホテルの部屋に戻ると再び「 夕陽が沈むところに浄土があるというものだ 」と、そう念じながら旧知念村の斎場御嶽(せーふぁうたき)まで行くために、まず1Fのローソンに立ち寄り好みの夜食をみつくろうと、読みそびれていた朝刊を握りしめ、のんきに大あくびなどして待機していたが、最近までビール工場で働いていたというタクシードライバーに缶コーヒーを一本手渡しつつホテルを出た。盂蘭盆会の御嶽というもはどういう気配なのか。3つの拝所が集中する最奥部の三庫理(さんぐーい)まで来ると、クバの木を伝って琉球の創世神であるアマミクが降臨すると伝えられる、その日没の時間を静かに見計らっていた。  










                                      

                        
       



 琉球の着物 3






ジャスト・ロード・ワン  No.7

2013-09-13 | 小説








 
      
                            






                     




    )  安波茶橋  Ahachabasui


  生まれ落ちた人間はすでに定律の道を踏み、人知れず他人の時間に我が身を分離して潜ませている。
  その人間が地球上のどこかで、あの他人と巡り逢ったとき、人間はこの出逢いを「奇遇、偶然、必然」のいずれかの言葉で表現することになる。また他人も同じくこの表現のいずれかを選択する。そして見知らぬ二人は突然、これが運命であると自覚する。こうして天は人間の生命を運動させては美妙な配剤の処方で人を交差させるのである。さらに人間は地上を離れても定律した運命により無限に結ばれて廻向する。
  この天があらかじめ投じた定律の摂理を「宿命」という。翌朝、比江島修治は一人の女性と出逢うことになるのだが、張本人である天はすでに今宵、時みつる声を二人の意識に架けたようだ。しだいに二つの意識は宿命の意図で引き寄せられ一本の道となる。
「 一人の人間と出会うには、確かにいろいろなことがおこる。沖縄で生まれ育った人間であっても、琉球史の上を歩くように出会うなどということは、まずありえない。そんな人間は、きっとよほどつまらない有識者なのだろう。たまたま近くの本屋で隣り合わせた人を友人とする場合もあれば、何かの評判に惹かれて興味を抱くこともある。以前から顔見知りでいたのに意識することなくずっと放ってある人を、何かの拍子で意識し始めることもある。それが結構おもしろくて、ついつい同じ穴のムジナや変人をたてつづけに好きになることも少なくない 」
  問題は、その人をどのような意識状況にいたときに好んだのかということである。その意識状況によっては、別人に気をとられているときに見かけたために、その人間のおもしろさがまったくつかめず、十年以上もたってふたたび意気投合にしてみて、しまったとおもうこともけっこうおこる。修治が名嘉真伸之と出逢った場所は奈良の飛火野であった。
  しかし当時、伸之は話していて、ずいぶんなトンチンカン男なのだ。だが彼は、当時はだれも試みたことがないノンフィクション俳句の先駆者であったのに。そして赤い蝶ネクタイ、琥珀色の角縁メガネ、低くて太った体躯、人間の背中にやたらに手をまわしてくる男であった。修治はそんな男には好まれなくてもいいやという偏見の中にいた。しかし年々意識を強くさせられる男なのである。やはり逢えないと気になってくる。夕食後の小さな固い湯船のなかで修治はそう考えたのだ。それでやっと出会ったのが入浴後の「 相部屋で語らう伸之 」であった。
  晴天に暮れた沖縄の夜空には満点の星が輝いていた。
  毎晩一合の酒と決めている修治は、泡盛のオンザロックを揺すりつつ15階の窓辺から那覇ベイエリアの夜景の彩りを一人ながめている。
「 阿部富造は、奈良にいて、あの炎上の不吉に恐れたのだ・・・・・。そしてあの時、八瀬童子らは平癒祈願を行った 」
  そう思う眼には、センターポールから沖縄の地べたに引き落とし放火されて燃え尽きた日章旗の炎上が一つある。さらに二つ目の炎上として記憶に残る裁判の動向を映し出していた。この二つの炎上は強烈なインプレッションを与えたのだ。
  日本国内を震撼とさせた麻原彰晃被告の第1回公判が延期になった10月26日、これとは別件でもう一つの判決が行われていた。それは「 日の丸焼き捨て事件 」の控訴審判決である。「日の丸焼き捨て事件」とは、1987年の沖縄国体のソフトボール開会式で、スコアボードの上のセンターポールにあった日の丸の旗が引きずり降ろされ焼き捨てられた事件だ。国内において日章旗が確信的に炎上させらるというセンセーショナルな出来事はじつに多くの国民が注目したのだが、修治には何もかもが乾いたように感じられ、根底には判読不能な表意文字によるマンダラのようなものがびっしりと描かれているような空漠たる衝撃を抱かされた。
  当時、京都の陰陽寮博士の末裔阿部富造は奈良の旅中にあって、この日章旗の炎上を想い重ねながら昭和とうい時代の終焉を逸早く感じ取りつつ、富造は洛北集落の実情を記して阿部家伝を遺した。修治はその富造の動向に想いを重ねては、炎上する日の丸の光景を泛かべていた。そして沙樹子が嬉しそうに教えてくれた「 富造さんは、焦げたフランスパンのように濃い眉毛をしていたわ 」という男の風貌を想い起こしては、さらに富造の母沙耶子の故郷を眼差していた。そうして修治が感じとることは、沖縄と日本人は意外なほどに相互理解をしてこなかったのではないかということなのである。どうもこのへんの日沖事情には、かなり急がなければならない問題がはらんでいるようだ。すると修治は自分が何か厄介なナーコーマにでも捩(よじ)られながら地上を歩きまわっている夜行性の小動物のようにさえ思えてきた。
「 これは抗うつ薬パキシルのせいか・・・・・! 」
  黒い甲殻をもったアルマジロのような小動物が奇妙なマンダラ模様を横切って行く。その小さな黒い影の行方を眼で追っていると、しだいに記憶から遠のいていた琉球の首里城と浦添城をつなぐ尚寧王(しょうねいおう)の道が泛かんできた。
「 はいたいサ~。はじみてぃやーさい、めんそーれ。どぅしサ~、しんかサ~。カリー!、カリー!、だからよ!なんでかね!。わん、キジムナー。あんまーが っやー あびとーんどー。あまんかい いびぬ あたんやー。安波茶(あはちゃ)サ~、うちなーゆーや まし やたん。 ぬーん うっさふくらさ そーてぃる する むん やさ。 かちゃーしー もーてぃ あしぶんサ~。さんしん ひち はねーかすんサ~。にらいかない んかてぃ うぅがむんサ~。んーぱ やてぃん さんとー ならん。安波茶サ~、シマショウネ。あんせ~や、あちゃ~や。ぐぶり~さびら、ぐぶり~さびら 」
  いつしか修治はガラス窓越に、こんなウチナー口を聞かされていた。
「 アチャー、安波茶んかいはーれーば、阿部富造みーちが、うんじゅを待つてなますからね・・・・・! 」
  弾み転がるさやかな黒い影は最後に丸まると、そう語りかけて夜空へと消えた。
  そして窓ガラスには、丸い黒玉が転がる一筋の道が映し出されていた。



                            





「 でーじなってる。でーじなってる。まっとばー通るとでーじなってる! 」
  石は何事にも動じず、また霊力を宿すものである。
  悪鬼(マジムン)は直進する性質があるため、道を直進してきた悪鬼がT字路にぶつかると、その家の中に進入することになる。そこでT字路などの突き当たりに「石敢當(いしがんとう)」を置き、魔よけとする。
  徳利木綿(とっくりきわた)のピンクの花が咲いている。天に向けた枝先は曇天でさえ流麗である。
  肌寒いその日は、鷹の小便(タカヌシーバイ)が降っていた。
「 ちゃ~するば~が~!? 」
  小雨に濡れる桃色の花をみつめていた洋子のオバーは、結局、どうしたいのだ。あゝ!、と嘆いた。
  そのオバーの眼には戦前のガーブーが泛かんでいた。
  11月はサシバの群れが沖縄へ越冬する時期で、北風の吹く日は小雨が降りやすい。この雨をタカヌシーバイ、鷹の小便である。戦前の東町の商いがすっかり消えて、那覇のど真ん中のガーブー一帯が新繁華街になるとは誰も予想できない戦後の光景であったのだ。昭和初期の牧志周辺は湿地帯の広がる農村であった。戦前、洋子のオバーは与儀から東町の市場まで片道四キロの道を天秤棒で野菜を担ぎクバ笠を被って毎日四往復を歩いていた。市場内のガジュマルの木陰に、オバーの露店市(いしげ~まち)がひっそりとあった。
  那覇の戦後復興期の米国占領下にあって、市民の旧市街地への移住禁止により県内外からの疎開民や避難民は、早期に解放された壺屋町や牧志町を中心とする地域に移住して戦後生活をスタートさせたのだ。すると1947年11月ごろに開南に闇市が自然発生し、那覇市は公共の立場から元市役所跡地に四百二十六坪の敷地を確保して1948年4月初旬に東町の市場を移転させた。したがって米軍の支配管理下にあった旧市街地が漸次開放され使用可能になっても中心市街地は旧市内に戻らず、周囲の発展とともに日陰のように発展することになる。
  お盆に京都から帰郷した洋子は、何よりまず真っ先にオバーの眠る安波茶(あはちゃ)の墓にヒラウコーを焚いて合掌した。沖縄の娘としては猛省しなければならないのだが、じつに10年振りの墓参であった。
  そんな洋子には、730(ななさんまる)というキャンペーン標語が眼の奥に鮮明にある。
  当時、作業員数名は国際通りの歩道橋に白い横断幕を取りつけていた。
「 7月30日、朝6時から、車は左、人は右・・・・・ 」
  と、横断幕にはそう記されている。7月30日、人は右、の文字が赤色に鮮やかだ。暫くその燃える緋(ひ)の赫(あか)は、洋子のオバー知花(ちばな)千代の眼を不動明王の迦楼羅焔(かるらえん)を見るごとく鮮烈に縛りつけていた。
  それは1978年のことだ。その6年前の1972年5月15日に沖縄は日本へ復帰した。730とは、沖縄県において日本への復帰6年目に、自動車の対面交通が、右側通行から左側通行に変更することを示す事前キャンペーン名称である。1978年7月29日22時より沖縄県全域で緊急自動車を除く自動車の通行が禁止され、8時間後の翌日6時をもって自動車は左側通行となった。この8時間内に、全ての信号や道路標識の取り替え作業が行われた。
「 72年、核ヌキ、本土なみの復帰が決定・・・・・! 」
  1971年に沖縄返還協定の調印、そして翌72年の5月、通貨交換のため琉球銀行や琉球相互銀行に行列する県民の姿を見続けた。洋子18歳の暑苦しい赤黒く焦がれた夏がこうして始まった。
「 与儀(よぎ)公園の、1971年、11月10日・・・・・ 」
  洋子のその眼には、沖縄返還協定批准に反対し、完全復帰を要求する県民総決起大会に参加した女性らの姿がある。決起大会は那覇与儀公園で行われた。当日の大会はその後、浦添市までデモ行進を行い、途中、過激派学生の火炎ビン闘争で、琉球警察の機動隊員1人が死亡するなど大混乱となった。一方その眼には、協定批准の調印を祝う人々の姿がある。1971年6月18日夜、国際通りでの日ノ丸提灯(ちょうちん)、その祝賀ちょうちん行列を見た。そしてその前夜の那覇市、沖縄経営者協会事務所では、祝賀パレード用のちょうちんを準備する事務員らの姿があった。洋子には、この相反する二つの沖縄が眼の奥に残されている。この翌年の夏に、洋子のオバーは他界したのだ。炎天下に裏の畑で仰向きに太陽をみて仆(たお)れていたのだが、火山のようにぱっくり開いたオバーの口の中で金歯がびかりと光っていた。独り残された洋子はオバーの葬儀を終えた後、親戚を伝手に関西へと出た。
  沖縄ではお盆を迎える時期に、より御嶽(うたき)の精子がエイサーのごとく小躍りして活発化する。
「 アチャーやなーちゅけー、安波茶ぬ墓んかい行きよーさい。かんなじ行きよーさいね。行きよーさいね。約束やいびーん 」
  洋子はこんなウチナー口を聞かされた。その声は耳に馴染んだオバーのモノであった。
「 分かったよオバー。アチャーまた会いんかいいちゅんからね 」
                          


  琉球には、首里王府から発せられる布達や、地方からの年貢を運ぶために各地の間切(まぎり、現在の市町村にあたる区画)を結ぶ幹線道路である宿道(しゅくみち)が島の隅々にまで広がっていた。
  そのうちの一つに、中頭方西海道(なかがみほうせいかいどう)がある。
  首里城を起点に、安波茶、牧港を経て読谷に至るルートを指しているが、安波茶橋を越えたあたりまでほぼ中頭方西海道をなぞり、浦添間切番所跡を経由して「浦添城前の碑」にに至る道を、沖縄の人は「尚寧王の道」と呼ぶ。
  尚寧王は1589年から1620年に在位した琉球王国の国王で、薩摩の侵攻を受けて江戸に連行され、二代将軍徳川秀忠に謁見したことで知られるが、その浦添按司家の出身であった尚寧王が、1597年に首里から浦添グスクまでの道を石畳にし、木造の橋を石橋にするなどの整備をするよう命じたものが「尚寧王の道」である。浦添城にある「浦添城の前の碑」はその時の記念碑で、碑文には平仮名の琉球文と漢文で、道作りの様子や竣工儀礼などの様子が書かれている。
「 外見では、あんなに俗っぽく見えてくる男が、まるで静寂から聞こえてくるエレミア記の響きのような俳句が詠めるのはなぜなのか 」
  早朝に目覚めた修治は、一挙に名嘉真伸之の周辺が気になってきた。
  出逢ったのは彼が25歳のときである。修治より2歳上で、高校を卒業した当時彼は、各地を転々と旅して7年をかけている。けれども、どの俳句の一行にも破綻がなく、透明度が維持されている。処女作ならこのような集中はどんな俳家にもありうることなのだが、その才能は群を抜いている。修治はその才能を当時の認識では見抜けなかったのだ。
  たとえば『仏には遠い国』という処女句集の舞台は、北海道北部のチトカニウシとよばれている日本人でも気に止めることのない小さな村である。いわば「 小さな白昼のマタイ風土 」といった山合の散々としたアイヌ集落だ。沖縄戦で戦死した一人の日本兵がこの集落の生まれであった。句集は連句仕立てのそこに、戦死する前の父親を探している幼い息子が沖縄にやってきて、だんだん死の真相に近づきつつある大人への予感に怯えていく様子が克明に連ねて描かれていた。少年の母親も4歳のときにオホーツクの海で別れたままになっている。そのため、息子である少年は幼いころから道東、道央、道南を転々とした。つねに親戚の家にあずけられたのだ。つまりアイヌ民戦争孤児の流転記であった。こういう少年がしだいに年上の者を知り、少女に出会い、勝手な優しいおばさんに声をかけられていく。現代の日本社会で、どうなっていくかは決まったようなものだ。少年は大人への恐怖をもちつつ、自身に萌芽する自我と成熟におののくばかりなのである。何よりもまず少年がおののいたことは、この世には戦死という人間の死が存在するということであった。
「 首里の墓で撃たれて死んだ赤トンボ 」
  この句で名嘉真は句集を〆ていた。
  さらの句集を閉じる扉には「 アイヌの人の思いは、井戸のように深いところにあるとしても、琉球の人はそのアイヌ人からそれを汲み取り清らかな一杯の水を口に与える 」とある。これは、そもそも日本の古語というモノの成り立ちが、南の琉球の言葉と、北のアイヌの言葉とを源泉することを、名嘉真伸之は水質にたとえて暗示させ、同族の哀しみを織り上げている。こう言い終えて伸之は、芭蕉布の機織(はた)を止めた。北と南の神の国、それは大和の仏には遠い国なのである。







                              
  1200㎞のミドルフライトである。
  琉球王国発祥の地・浦添ようどれの地点から、500mまで、北へぐんぐんと高度を上げた。
  浦添グスクは13世紀ごろ築城され、15世紀までに英祖王や察度王などが居城とした。14世紀に中国や東南アジアとの交易で栄えた浦添は、王都として整備され、首里の原型となる。15世紀の初めに王宮が首里城に移転し、浦添グスクは荒廃したが、その100年後に、浦添出身の尚寧王が再び居住するようになる。
  この浦添グスクの北側の断崖に「浦添ようどれ」がある。「ようどれ」とは琉球語で(夕凪、死者の世界、墓)という意味で、ここに英祖王と尚寧王が眠っている。この墓前の前で解き放たれ、北の秋空へと翔び発った。
「 秋浅く産まれたての大きないわし雲の稚児が、じつに爽やかだ。この北帰する黒潮の飛行ルートは、やはり秋がいゝ・・・・・ 」
  こゝ数年、年に四回、この南海ルートでの飛行実験を繰り返している。
  夏の季節風は黒潮の上を通過してくるため、湿度が非常に高くそれゆえ日本の夏は蒸し暑くなる。これに反して、冬は黒潮上を季節風が通過しないので、晴天が多くこれにより寒さを緩和させている。しかし冬場、高度1000mの上空は極寒である。やはり秋の空は爽快だ。
「 どうやら今回も黒潮の大蛇行は感じられない・・・・・ 」
  とそう感じ、そしてふと振り返ると南後方の沖縄が豆粒ほどの小島になっていた。
「 後は、ほゞ半分、600㎞だ。それにしても、やはり焦土を経た琉球とは悲し過ぎる・・・・・! 」
  古来、黒潮は京都を起点に、上り潮、下り潮と呼ばれていた。日本国の場合、どうしても物事の視点が宮廷の都を主軸に回ることになる。現在、沖縄は日本国、だが日本神話の時代には琉球は未だ生まれず異国なのである。後ろ髪にそう想われる琉球がじつに刹那(せつな)かった。
「 あゝ、だからカノン(Canon)だったのか。だから霞音(カノン)に編曲したのか・・・・・! 」
  優しさと力強さが一つに溶けあって心に勇気を与えてくれる、そんな音階が耳奥から涌(わ)いてくる。そしてその和音(コード)の進行は、スローに演奏されるときには限りない郷愁を呼び起こし、高らかに歌われるときには、失意からの再生、希望を力強く訴え、人を力づける歌になっている。阿部秋子は、この1200㎞フライトの前に決まっていつもCANON(君子の霞音)を繰り返し聴かせてくれるのだ。
  ようやく秋子の意図が理解できた。
「 秋子の編曲した霞音(Canon)、この和音を聞きながら琉球を俯瞰(ふかん)していると、打ち砕かれることを知った人だから言える、口先だけでない力づけの言葉が、原曲のパッヘルベルのカノン和音の進行に乗ったとき、限りないやさしさと説得力を持って全身に伝わってくる。秋子の編曲したこのカノンは、つまり沖縄の返還を完成させるための追複曲なのだ・・・・・! 」
  本当に弱ってしまった時に、こんなに優しい慰めを与えてくれる楽曲もある。阿部秋子という女性は、悪戯や粗野で身なりを飾ることのない瀟洒(しょうしゃ)な人だ。
「 秋子の、その瀟洒な眼にして、やはり琉球とは瀟洒な故国なのである・・・・・ 」
  本土の床の間には刀を佩(お)びて武門の格式を立てた。しかし琉球はそこに三線(さんしん)を立てた。相争わないそれが、一本の原木から二丁の三線を作る夫婦三線(ミートゥサンシン)である。この争いとは無縁な美学が本土に根付いた三味線の起源となった。沖縄とは根源にこの性質をもつ。黒潮の彼方をみすえるその眼には、ようやく大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま)が幽かに、本州の連なりが見えてきた。





「 左手は建日別(たけひわけ)の熊曽国(くまそこく)、そして前方が伊予之二名島(いよのふたなのしま)の四国・・・・・! 」
  たしかに胴一つに四つの顔がある。あれが四国だ。
  そしてその四国山脈を越えると、右手に、関西の広がりがみえてきた。
  羽ばたくその眼下には淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)、秋陽の下に淡路の島影が輝いている。
「 あッ、あれは淤能碁呂(おのごろ)、国生みの島だ。だが密か過ぎる。今日は、妙に静か過ぎるぞ! 」
  天沼矛(あめのぬぼこ)で渾沌とした大地を二神はかき混ぜてはいるが、その精気が鳴門の渦にかき消されているではないか。そのため水蛭子(ひるこ)を乗せた葦舟は紀伊水道へと押し流されている。あやかな気功の停滞は危うさを感じさせた。
  しかし、たゞ瀬戸内の海はおだやかに凪(なぎ)ていた。
「 淡路島上空は、おそらく乱気流、紀伊水道は気流が下降している・・・・・ 」
  水蛭子の葦舟は紀伊水道を南へと下り、くるくると回りながら破れそうであった。
「 後200㎞だ。よし、進路を変更する・・・・・! 」
  東の上空に不穏な気配を感じ、正面に寒霞渓(かんかけい)を眼に入れて飛ぶ一羽の鳩がいる。
  土佐湾沖から讃岐(さぬき)五剣山(ごけんざん)の上空を超えてきた。
  白亜の一翼を鋭角にし、鳩は一路たゞ北へ秋空を飛翔する。
  払暁(ふつぎょう)、沖縄を飛び発った伝書鳩は京都へと帰還する「 聖護院(しょうごいん)六(りく) 」号である。
  午後の小豆島上空はよく晴れていた。
  その六号とは、京都隠密五流院の修験鳩、まもなく釈迦ケ鼻に差しかゝる。
「 あゝ、岬にいる、あれは丸彦(まるひこ)じゃないか。よし、霞音(カノン)を聴きながら、このまゝ進む・・・・・! 」
  日本の国生みは、二神が島々を生む物語である。それは島生みの作法であり、六号はその日本神話・記紀を泛(う)かべていた。初めに大八島(おおやしま)が生まれ、次に六島が生まれた。六島の、その一つに小豆島がある。そう思うと六号は美妙な顔つきとなった。小豆島上空を通過しようと決めたころから、可憐な紅型(びんがた)を着た阿部秋子の姿が泛かんでいた。その秋子は鳩舎へと帰還する六号を待ち侘びていよう。想い逸ると自然に、六号の風切り羽は冴えた音を鳴らした。
「 卒(そつ)なく飛んでいる。あ奴(やつ)は、ひたむきに煩悩(ためらい)もなくやってくる・・・・・! 」
  何か一言声をかけて、小生は、肩の一つも叩いてやりたい気がした。
  聖護院六号は、背に超低膨張の硝子カーボン素材のカプセルを搭載する。小生とは猫の安倍丸彦である。その丸彦は小豆島の南にある白浜山の頂きにいて此(こ)の一羽を待っていた。
                              
「 たゞし、小生は島内に一人でいるのではない・・・・・ 」
  主人の安倍和歌子は島北部の星ケ城址にいる。星ケ城は、南北朝時代に、南朝方の佐々木三郎左衛門尉の飽浦信胤(あくらのぶたね)により築城された山城で、城址には星ヶ城神社がある。 東西の両峰には、空壕(からぼり)、鍛冶(かじ)場、水ノ手曲輪(くるわ)、烽火(のろし)台などの跡が発見されているが、和歌子は三日前から一帯の天文調査を行っていた。
「 こゝで北斗(ほくと)の七星、その一つ星が、あのときに零(こぼ)れ、六星になったんやわ・・・・・! 」
  と、和歌子にそう奇想させる星ケ城の、落城時に関する伝承話が、安倍家伝にて伝えられている。この「北斗六星(ほくとろくせい)」の伝承は陰陽界にては名高く語られる話なのだ。北斗七星は、南朝方の名和長年(なわながとし)・結城親光(ゆうきちかみつ)・千種忠顕(ちぐさただあき)のほか、北畠顕家(きたばたけあきいえ)・新田義貞(にったよしさだ)らが次々と戦死し、軍事的に北朝方が圧倒的に優位に立つころに、地へと星を一つ欠いて落とした。したがって後醍醐(ごだいご)天皇にとっては凶事を兆したことになる。その小豆島は現代でこそ「しょうどしま」と称するが、中世には「しょうずしま」、そして太古には「あずきじま」と呼ばれてきた。
「 そのような古い小豆島は、歴史上の表舞台にはあまり登場しない。しかし・・・・・ 」
  小豆島は古代から吉備国(きびこく)児島郡に属し、吉備国が分割された後も備前国(びぜんこく)に属すなど、中世までは本州側の行政区画に組み込まれていた。だが南北朝時代の騒乱に四国へと移る。飽浦信胤は、備前国児島郡飽浦を本拠とした豪族で、細川定禅(じょうぜん)の家臣として足利尊氏(あしかがたかうじ)に味方して活動、備中国征討や京都での戦いなどで功を挙げた武将であった。
「 この小豆島は、平安時代初期に皇室の御料地となる。しかし1347年、それまで南朝に呼応して島を支配していた飽浦信胤が、細川師氏(もろうじ)の攻めに倒されると、以後島は細川氏領となり皇室領は解体された。またこの細川氏は讃岐国(さぬきこく)守護であり、この時から政治的な支配者という側面では、島の支配は本州側の手を離れ、四国側に移ることになるのだ・・・・・! 」
  と、そのことを頭に泛(う)かばせた安倍和歌子は、淡路島の方をながめていた。
  星ケ城山817mは瀬戸内海の島々で一番高い山である。つまり、瀬戸大橋と大鳴門橋、明石海峡大橋の三橋が同時に見渡せるのだが、和歌子もまた星ケ城より、北へ目指す鳩の気配を見守っていた。
「 おい・・・黒鷹(くろたか)、聞こえるか。六号はそちらでは無い。小豆島のコースを選んだ・・・・・! 」
  と、小生は淡路島の諭鶴羽山地(ゆづるはさんち)にいる黒鷹を呼んだ。島の最高峰であるが駒丸黒鷹もまたこゝに待機して北上する鳩の行方を追っていた。諭鶴羽山地(ゆづるはさんち)からは東寄りに紀伊水道の海域をよく観測できる。鳩の進路は、紀伊水道から北上することも予測されていた。
「 ちッ、そうかい。了解した。なら儂(わし)はこれから進行前方を警護するぜッ。いずれまた会おう 」
  波の穏やかな瀬戸内は鷲(わし)・鷹(たか)・隼(はやぶさ)などの猛禽類にとって絶好の漁場である。そのため彼らの鋭い眼は常に島影に潜むようにあった。黒鷹はこの警護役であり遊撃隊なのだ。
「 やはり二郎の観察通りだ。進路をやゝ西寄りに修正している。今、八栗寺(やくりじ)上空を通過した。15分遅れたが問題はない。想定内の通過時刻、これで中央構造線は無事に越えた! 」
  五剣山南中腹の八栗寺は遍路第八十五番札所、山内の一隅にて一時間前から双眼鏡で上空をうかゞっていた白羽(しらは)三郎は、那覇にいる出羽(でわ)五郎にそう連絡した。
「 了解!。六のダウジングが反応したのだ。淡路か鳴門の渦あたりにゼロ磁場を感じたのであろう。俺はこれから旧久米村付近の磁場密度を調査するよ。葛飾北斎の浮世絵・琉球八景にも描かれているが、そこから那覇空港に向かう。伊丹着は午後八時の予定・・・・・ 」
  国際通りの県庁北口にいた出羽五郎はそういゝ終えると、じっと沖縄の青い空を見上げた。かって島だった那覇は、土砂の堆積により琉球王国末期に本島とつながる。この琉球八景にもある翡翠(あお)色を眼に浮かべたとき、その五郎は名を出羽五芳(ごほう)と入れ替えた。
「 現在のところ磁場密度に大きな変化はなさそうだ。六号は愛宕山(あたごやま)沿いに進入する・・・・・! 」
  三郎は二郎にもそう伝え、同じく鳩舎のある京都へ報告し終えた。
  そして三郎は八栗寺内の本堂と大師堂、また聖天堂に向かって静かに「 オン アロリキャ ソワカ 」と本尊真言を唱えた。
  寺伝によれば、こゝで空海が虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を収めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れてこの地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を埋め、天長6年に再訪し、寺山を開基したという。聖天堂には弘法大師作と伝える仏の守護神歓喜天(かんぎてん)が祀られている。このとき笠羽(かさば)二郎は高知足摺岬(あしずりみさき)にいた。
「 オン バザラ タラマ キリク ソワカ 」
  三郎からの報告を了解した笠羽二郎は、金剛福寺(こんごうふくじ)にて本尊真言を唱えた。金剛福寺は遍路第三十八番札所、境内には亜熱帯植物が繁っている。沖縄那覇から京都間を直線で結ぶとき足摺岬はその線上にあった。
  六号が南方より京都へと帰還する場合、東西に延びた中央構造線をどう飛び越えるかは一つの難関である。足摺岬は太平洋に突き出る足摺半島の先端の岬、二郎はすでに正午から岬の灯台付近に待機して六号の進路を観察していたのだ。





  この聖護院六号が屋久島上空を通過しようかとする時刻に、ホテルをタクシーで出た比江島修治は安波茶橋へと向かっていた。
  安波茶(あはちゃ)橋と石畳道は、1597年に尚寧王の命で浦添グスクから首里平良までの道を整備したときに造られたと考えられている。首里城と中頭・国頭方面を結ぶ宿道(幹線道路)として人々の往来でにぎわい、国王もこの道を通って普天間に参詣した。
  橋は石造りのアーチ橋で、小湾川に架けられて南橋と、支流のアブチ川に架けられた北橋がある。深い谷の滝壷の側に巨石を積み上げる大変な難工事だった。南橋は沖縄戦で破壊され、北橋も崩壊していたが平成10年に北橋が修復された。橋の下流側には赤い血(椀)で水を汲んで国王に差し上げたと伝えられる赤血ガーがある。
「 あッ、あれは・・・・・!。えッ、清原香織!。そうだ、やはりあの香織ちゃんだ・・・・・! 」
  安波茶交差点角でタクシーを降りた修治は、何気なく立体歩道橋の上を見上げた。歩道橋は交差点の四隅を立体高架して結んでいる。階段を下りながら修治の方へと近付こうとする三人の人影が見えた。その内の一人が京都にいるはずの清原香織なのだ。
  階段の下で降りてくる香織を待ち構える修治は、ふふふと微笑みつつ、七色の日傘をくるりと開いた。
                       






                                      

                        
       



 琉球の着物 2






ジャスト・ロード・ワン  No.6

2013-09-11 | 小説








 
      
                            






                     




    )  漏 電  Rouden


  ウチナーンチュが時間を厳守する性格であることは今や常識であるという。
「 沖縄には琉球時間という特別な体内時計がセットされているというわよ・・・・・ 」
  そんな話を修治は非常識な妻の沙樹子から聞かされていた。
  沙樹子には何度か沖縄出身者の弁護を担当した体験がある。その体験によると非常識だそうだ。しかしこれは沙樹子が沖縄の人とは違う時計を常識と思い込んでいるふしがある。弁護士が弁護しずらかった琉球時間、その非常識、常識にかかわらず、今日まで時間厳守を貫いてきた性格上、修治は果たして柔軟に対応できるのか心配であった。相手も時間厳守の人である。
「 郷に入れは郷の時計に従える人が常識者なのだ 」
  そうも思える許容はゆるやかに意識しているつもりだが、しかし相手に合わせることは不慣れでもある。うつ病になってここ数年間、意識して融通の利かぬ男でいようと自覚してきたのだ。そのために遠に携帯電話は捨てている。
  30分経過した。たが名嘉真伸之は現れない。やはり琉球時間だけが見事鮮やかに修治の眼の前に現れていた。
  一人の人間が二つの時間内に存在する沖縄の待ち時間とは、なるほどなかなか不可思議なものだ。最低1時間のロスは予見しておかないと貴方の場合とても癇癪(かんしゃく)を軽減するのは困難だからと、事前にそんなアドバイスを沙樹子からされている。
  しかしその一時間が過ぎても名嘉真は一向に姿を現さない。コンピュータがわれわれの脳や心のはたらきにどこまで食い下がれるかという問題は、世界の錚々たる科学者がズラリと顔を揃えて、1950年代にまだサイバネティクスに人々が熱中していた当時から、先駆的な議論がされていた。そして人工知能(AI)の可能性が爆発した80年代は、比江島修治も片っ端からそうした動向を傍目で観察していたのだが、どうも成熟した問題を議論しているようには思えなかった。その積年の疑問について解答が何時与えられるのかと期待したくなるのだが、どうやらその期待は沖縄の体内時計に硬く拒まれて、あっけなく裏切られることになるようだ。
  やがて二時間が過ぎようとしている。こうなると相手のイレギュラーに猶予する問題ではない。すると修治は、現代の日本が立ち会うべき時間の問題を沖縄が引き受けているだろうことだけは、存分に確信できた。

「 やはり琉球とは、日本における傑作の人種なのだ・・・・・。そして、恐るべき子供たちなのだ・・・・・ 」
  絵画や書籍などの優れた作品には、観手や読み手側の常識や良識と、多々ぶつかるところがある。そこには人間が安住する世界を揺さぶるだけの力が宿されている。たとえば戦争はダメ、平和は大切だという常識性の価値観だけで咀嚼(そしゃく)できる作品であれば、誰も観ないし読まないであろう。傑作とか名作という類(たぐい)の産物は、挑発することに意義と価値がある。修治は名嘉真にある種の挑発を感じた。
「 ドストエフスキーは、青年に金貸しの老婆と妹を斧で打ち殺させて罪と罰にしたではないか・・・・・。僕を手招きで挑発している 」
  と、非常識は時として、主張の根幹をなし、時代の閉塞を反映させるモノで、そう思えると比江島修治は、遅延で挑発してくる名嘉真の常識を超えて現れた非常識な時間に身震いするような快感を覚えた。修治の常識が地響きを立てたのだ。
「 どうやら沖縄の体内温度を、いわばその「一時しのぎ」という「かりそめ」にみる、そこに日本の弱点があるとみなした方がよさそうだ 」
  だからこそ、世界の諸文化のなかで、あるいは日本文化のなかで、沖縄の文化は比類のない人の営みによる成果だという見方を挑発してまでも披露してくれているわけだ。それが修治には、日本人が琉球の面影の本質を読みとる感覚と才能のかなりの部分を失っているからだと思えた。現在の沖縄は問題を背負いながらも琉球と少しも変わらない姿でいるのだ。だから琉球は、ナイチャーのような「卑しい関心」をもつこと自体に容赦なく鉄槌をくだすのだ。そして琉球は脳の未来もコンピュータの未来もありえないという結論を用意する。沖縄が性格に内包させる体内時計は、明らかに小さなビックバンなのである。念の為に三時間待ってみたが、ついに名嘉真伸之は姿をみせなかった。
「 予測できない何か常識的なアクシデントがあったのであろう・・・・・ 」
  そうポジティブに思うことにした。修治のそれは一つの発見である。
「 これは僕の時計と名嘉真の時計が違うという問題ではない。東京と沖縄の時差なのだ。日本国内には時差がないとするのは、そもそもが詭弁なのである。厳密にいえば1mm間隔にも時差は生じる。人はこういう厄介な問題は科学から省略させる。同じように沖縄と東京間に生じる時差は日本人が勝手に消却させたことによる違和感だ。そこには日本人の身勝手が沖縄に押し付けてある。僕は潔くこの時差を認めなければならない。そして僕の対応能力の未熟さを正さなければならない・・・・・ 」
  ある結晶的な図形の性質を研究し、その図形を体験的な図形のように平面に並べることはできるのだが、修治は、自身の体験によるその並べ方は非周期的にならざるをえないという不本意な法則を沖縄に発見した。もともと曲亭馬琴で有名な「椿説弓張月」の椿説を解析し、日琉同祖論の根源を現在の沖縄に求めようとしたのがほかならぬ修治自身だったのだから、こういう発見があっても当然なのである。
「 たぶん、われわれ人間の心は、古典物理的構造の対象なるものが遂行する、何らかのアルゴリズムの特徴にすぎないというよりも、われわれの住んでいる世界を現実に支配している物理法則の、ある奇妙な驚くべき特徴に由来する性質を持つのであろう・・・・・ 」
  が、このことは容易には見えてはこない。一杯のコーヒーで三時間も窓際にポツリと居座り、ダイワロイネットホテル18階のレストランから見渡せる那覇新港の上空にある白い夏雲の動きをしばらくながめていた修治は、琉球とその心について新しく学ぶべきことが、自身の知覚する「時間の流れ」に密接な関係があるらしいと思えるようになっていた。その「琉球でうごめく時間の流れ」には、きっと日本人の本質としての量子と重力がからんで関与しているはずで、それが今、修治の脳と心を支配していることを、微妙な発光で白雲を揺すり動かす琉球の空にそう感じていた。そして欝(うつ)を晴らそうと脳内を刺戟する処方の光りにゆるやかな爽快感を覚えた。
「 8月29日午後3時。これは反古(ほご)か、常識なら仕方ない・・・・・。三年前の約束なのだ・・・・・ 」
  修治はもう一度、那覇市街のパロラマを一望した。そしてまた東の方にある雲の流れに眼をあてると、美妙な輝きと絶妙の彫琢があるにもかかわらず、平然と流れ動く雲の歯車が、不思議なほど青い空の真実を傷つけていないことを感じさせてくれた。それは不束な夏の青さが雲の白い動きをうけてその精神を受胎しているような構図でふわふわと描き出されていて、空も雲もじつにフラジャイルなのであった。





  人生はところどころ辻褄があわないものだ。60年にわたって生き継いだせいもあるし、そのような辻褄のあわないところに自分の身をおくことが、そもそも修治の生き方だったようにも思われる。しかも50歳代の最後といえば、だいたいの男は自分の限界がどんよりのしかかってくる時期である。いまさら好看(きれい)ごとで済ませるものなんてないということも、分かりきっていた。そして分かりきったと安易に思えば、そこから先は行ったり来たりで、さも修治は、土壁の前に立ちながら左官が鏝(コテ)を右往左往させているばかりの男なのだ。自身の意に反して相貌は正直なことをいう。60歳を過ぎてみると、前に憚る相貌のそこを修治はなかなか承知できなくなっていた。
  そこで一つの決心は、携帯電話を使用しないことにした。つまり電話が紐でつながれていた時代に我が身を置いてみることにした。常識は時代が作り出している。人はその時代の常識に動かされている。しかし昭和までは辛うじてそうではなかった。修治は自身の常識を取り戻したいのである。一度、時代を相手に訴訟を起こしたいが弁護できるか、との問いに、すかさず沙樹子から大笑いされた。そういうことは人類史上判例がないという。あるとすれば日本神話のアマテラスとスサノウを沙樹子は例えたが、スサノウの控訴は問答無用と棄却された。
  宿泊予定のホテルは9階がフロントである。最上階の18Fにいた修治はチエックインを済ませるために下の階に降りた。
「 予約しておいた比江島だが・・・・・ 」
  名前を名乗り、そしてチエックカードを手にとってみて、いよいよ虚無を抱きはじめたとき、フロントの女性はそんなことにはおかまいなしに、しかしその笑顔は驚くほど新鮮ではあったのだが、渋々怖々と、一枚の伝言を差し出した。
「 あの~ッ、一応お預かりはしたのですが、先ほど・・・・・ 」 
  と、差し出した嘉利吉(かりゆし)の清楚で白い琉球紬七分丈の彼女は、まだ若かった岸田今日子が演じたジャンヌ・ダルクのような少し捻れた禍々(まがまが)しい笑みをした。受け取ると、たしかに禍々しくもなりそうな文面を短く二行連ねたいかにも奇妙な伝言であった。何しろ岸田今日子似の白い細指から受け取ったそれは何というのか、ビーナスめく魔女の鏡台の匂いでもこっそり嗅ぐようなものだった。
  その伝言の内容は真逆にして想えば、それは沖縄の真夏の夜陰に出る幽霊にでもふさわしく、ふと修治はニコライ・ゴーゴリのごとく外套の襟を立てたくなったのだ。まぎれもなく名嘉真伸之からの言伝であった。

  人ごみに蝶の消えたる盂蘭盆会  明日の陽は靴の底なり昆布橋

「 もともと琉球は地球の土につながっている。その地球である琉球に新たな人間たちが生まれてくるときは、月の作用が女性たちになんらかのものをもたらして、その新たな人間がよく育つようにするはずだ。そして新たな琉球の人間を迎えることになる女性たちはきっと月になっていく。それが証拠に、琉球の地球は毎年、盂蘭盆会が近づくたびに、地球のすぐ内側にある琉球にとても月に似た部分をつくっているものなのだ。だから盂蘭盆会のころ琉球の人はいつも月と一体になる・・・・・ 」
  と以前、名嘉真はそう語ったのだが、琉球の人々は、これを舞踊し、これを感知することを現在も試みるのである。超感覚的知覚とでもいうべきものがこの世にあり得るだろうことは、堅物の科学者以外はだれも否定していない。修治でさえ、そんなことを否定したら科学の未知の領域がなくなるとさえ考えてきた。そう思う修治は、ただひたすら血走った目で暗号めいた書付を何度か口ずさんでみた。   
「 沖縄は、そうか旧盆なのか・・・・・ 」
  わずか二行の俳句で言伝しようとする名嘉真のメモ書きは、奇怪で非常識な人生を歩んで、他人に迷惑をかけつづけた俳人たちの日々でも拾ったような、それでもって我が身が忙しいからと捨て台詞のような名文なのであるのだから、真実それが沖縄の旧盆というものなのだ。
  旧盆という沖縄の常識も知らずに、約束を無理強いをした修治の方が迂闊なのであった。
「 三年先の旧暦を意識して相互の都合を見通した約束などではなかった 」
  沖縄の日常は現在でも旧暦で成立する。その年行事でも春の清明祭(シーミー)と旧盆とは特別に意識されている。おしなべて人々は旧暦7月13日(ウンケー)は必ずお墓に行き、先祖をあの世からお迎えして、家まで連れてくる。14日(ナカヌヒー)はお中元を持ち、親戚を一軒々々回って歩く。15日(ウークイ)は迎えた先祖を、またあの世へとお送りする。この三日間だけは何事があろうと絶対に妥協しないのだ。
  そうした沖縄の民俗文化は、大きく言えば信仰にもとづいて形づくられている。
  ここには御嶽(うたき)という神聖な空間がある。御嶽は本土のように神社などの建造物がなく樹木がこんもり茂った場所で、御嶽での祭りは「神女」が中心となり、信仰の際には女性が大きな役割をもつ。ウナイ神という言葉があるが、これは男性にとっての姉妹を意味し、ウナイ神信仰は、兄弟に対して霊的に守護するということの表れで、女性の役割が重要視される。
  それらの主体者となるノロ(祝女)は琉球王国時代に制度化されたもので、王国が崩壊してからも村の祭りを担ってきた。また、ユタ(呪術職能者)も圧倒的に女性が多い。ユタは公的な祭りに関わるというより、個人的な吉兆を判断する。このように沖縄の信仰には大きく女性の霊力が中心をなしている。沖縄とは神話を超えて、日本で唯一アマテスの現存するエリアなのだ。
  名嘉真はその盆行事の蘇生にあたっては沖縄の情熱や狂気に与(くみ)せず、あたかも写経などするようにその感情を殺して俳句仕立てにしているが、修治はそこに「ヒラウコー」の幽かに揺れる赤い火を想い起こした。沖縄がかかえこんだ琉球の世界というものが、われわれ日本人の存在がついに落着すべき行方であって、そのことを名嘉真伸之がとっくの昔から見据えていたということだ。




「 未来があるということは、どんな風土にもつねに未完成がつきまとう・・・・・ 」
  この世にはアマデウス・モーツァルトのように、あえて未完成を標榜する名曲もあるが、そうではなくとも、どんな風土にも未完成というものが忍びこんでいる。名嘉真が伝言とした二つの俳句は、三年前に修治の目の前で披露してくれたものであった。これは沖縄生まれの名嘉真らしく最も自伝性が濃い作品といってよい。それなのに名嘉真は、三年間、句集にすることをまるで反故にするかのようにほったらかしにしていたようだ。修治はその仕上がりを心待ちにしていた。
  名嘉真伸之の話によると、こうした俳句は明治が終わるころに生まれた伸之の母るつ美が、沖縄の家庭を守る火の神ヒヌカンに着せられた芭蕉布の一枚一枚と、るつ美の子守役でもあった「サシおば~」の生きた琉球への眼差しを通して、時代とともにしだいにめざめてきた名嘉真の俳句なのである。そうであるから修治には、琉球女性の心身が育まれる俳句というふうにもうけとれた。
  思えば三年前、当時は旬の話題がクールビズだったころに、琉球紬のことを持ち出したところ、名嘉真が「 うん、あれこそは琉球女の本格的な教養絵画ですよね 」と言ったものだった。そして加えて琉球紬や芭蕉布が琉球精神の修成をたどる作風であることを強調した。
  たしかに伝統的な琉球の着物は女性の心身なのである。それは今日の、かりゆいファッションが現代女性の関心の大きな部分を占めていることでもわかる。たしかに伝来の琉球衣裳は、和服や洋服よりもずっと心身を感じさせてくれる動機に満ちている。そうであるから琉球の着物にはいくらでも妖精や魔物が、そして神々の想像力や吉凶の出来事が棲みこんでいる。いや、綺麗に染みこんでいる。それらは琉球ができることを身をもって伝えてくれた日本希有の文化遺産なのであった。







  琉球が着物の柄や形を素朴に乱舞させて幽かで艶やかな女の妍を表現するという方法であり、また琉球紬のような着物や染物が文化の腑に落ちるというための方法であるとき、比江島修治には、いわばそれらが腑に落ちるも腑に落ちないも、基地問題こそが逆にそのすべての生命を引き取って沖縄の人生を着て、この人生に帯をしめていくという残酷な黙示録だったことが見えるのであった。
「 しかし、毒と薬はうらはらなのである。同じものが薬にも毒にもなりえるのだ。似て非なるものではない。同じく戦争と平和も裏腹なのであり、似て非なるものではなく、同じ意識が戦争にも平和にもなりえるのである。日本憲法の九条の件も、護憲にしろ改憲にしろ、平和のための護憲か、平和のための改憲か、いずれも意識の方向次第で戦争にも平和にもなりえるではないか・・・・・ 」
  そう考えると修治は、戦後の沖縄は、その生体はさまざまな生化学反応をしてかろうじて生命を維持している。沖縄に生きるということは「 生化学している 」ということだ。これらの反応はすべてが相互に連関していて、言ってみれば平和と戦争の複合的なインタースコア状態にある。だから何か一つの反応が不首尾になると、その他の反応に大小の影響が出る。沖縄をこうした生化学反応を実験室とするフラスコ形式の中で進めようとすると、そこには「 酸や塩基を加えて100度で1時間加熱する 」といった苛酷な条件をつくる必要がある。そうしないと反応はまずおこらない。基地を抱え込む沖縄とは、まさにこの過酷なフラスコ型の巨大な壺の中にあるのだ。
  修治はさもジャンヌ・ダルクを演じた怪しげな岸田今日子のごとく貌(かお)させてキープした15階の部屋へと上がっていった。
「 明日の陽は靴の底なり昆布橋 」・・・・・「 昆布(こんぶ)か・・・・・ 」
  ホテルは沖縄の新しいビジネス拠点「新都心」のランドマークとして2011年10月にオープンした。その晩秋に修治は一度このホテルを訪れているが、案内したのが名嘉真なのであった。白を基調とした真新しい部屋のソファーに深く腰を沈めてみると、眼を閉じた修治の脳裏には三年前の光景がくるくると回りはじめた。名嘉真の句の一つにその光景がある。
「 龍田丸・・・・・! 」
  修治のまぶたには海原を渡り琉球の港をめざす古い一隻の帆船が浮かんでいた。
  三年前、今日と同じように旧52高地の光景を見終えた修治は、おもろまち駅から乗車して次の古島(ふるじま)駅で降りた。
  ゆいレールの相対式ホーム二面二線を有する高架駅である。国道330号の上に建つ。すると修治は次に330号線を真北へ、たゞひたすらに眼差した。現代の内地に暮らす日本人は、戦後も遠くなったとばかりにさも能天気だけれど、戦後の沖縄とは戦時のページを繰るのがもどかしいほど愉快なのだ。やはり沖縄には、唯一ここだけの不機嫌な愉快さがある。それは生命化学の複雑なしくみを解きほぐして行くような愉快さなのだ。
  唐船(とうしん)が来たと叫んでも、若狭町村の瀬名波しなほのおじいさんは一目散に走らない人なのだが、当時、 たゞ血奔るごとくあった修治の、その眼には、しだいにサンゴ礁の連なる紺碧の金武湾(きんわん)が広がってきた。 江戸の当時、この金武湾を目指して南海の白波を越える一隻の北前船があった。
「 その沖縄の港界隈は真昼間である。美しい遠浅の海岸には、しかし暗黒の波濤が揺れていた・・・・・ 」
  たゞ、ジッとその黒く泡立つ静かな波音に修治は耳をあてた。
「 昆布(こんぶ)の北側、桟橋ポイントに、漏電地がある。そして前方に航路、その景色を確かめる必要がある・・・・・ 」
  漏電地帯(リーキジ・エリア)、そう思えると修治は、闇間に浮き上がる航路の彼方をギッとみつめた。真上には太陽が輝いている。
「 この航路の景色に、一つ枕をつけよ、とは・・・・・! 」
  いつも通りの彼女らしいおどけた文言である。修治はふゝとニヒルに笑った。
「 この海に一首、歌を詠むとすれば、枕にはやはり(夜干玉ぬばたま)・・・・・、これしかない 」
  そう固定していゝ。置き替える言葉は他にない。すると修治の瞳孔が開いてきた。こうなると妙に1938火野葦平の『麦と兵隊』が重なってくる。修治は最初これを読むのがキツかった。火野のモノなら『糞尿譚』のほうがお気にいりで、しかし沖縄にいる修治は『革命前後』を遺して服毒自殺した火野の生涯像が気になってくる。沖縄の自然は申し分のない天然作品、だからこそここには病気的・猟奇的な日本という一面も、民度風土という琉球の一面もあるのだ。悪しく語れば、それは天才的な日本人の創り上げた地中海型の神話的作品。この沖縄の10作を見らずとも1作くらい読むだけで戦後日本の歪が浮き彫りとなる。
  この沖縄の性格には闇としての一面があり、内的生活と暴力的生活、殺害の欲望と創造の欲望とが、それぞれ同居する。いずれこうした矛盾が日本国内全土で露呈するだろう。すでに沖縄とは対極にある東京はすでにこれを露呈する。現在の沖縄には日本とアメリカがある。今日、その日本とアメリカはなかなか区別がつかない近親憎悪者なのだ。それらは似て非なるもの、なのではない。似ていて、かつ非なるものなのだ。日米関係が持つ薬と毒とは現代文明が見た同床異夢なのだ。いわば「ときどき薬、ときどき毒」なのである。そして内地は薬、沖縄は毒こそを与えられてきた。だが副作用のない薬はなく、量に無関係な毒もない。結核に効く抗生物質ストレプトマイシンは難聴という副作用をもたらし、整腸剤キノホルムはスモン病を併発させた。
  では、或る薬がおこす副作用を日本国が抑えられないかといえばそうでもなく、たとえばキノホルムの投与と同時にビタミンB12を補うと、これがアルツハイマーの特効薬になることが最近わかってきたことに例えても、沖縄の現状が本来の日本回帰への回復薬になる可能性は十二分にある。沖縄の日差しは修治に未だそれほど眩しすぎた。アメリカと日本政府によってばらまかれた沖縄の毒と薬は、島民の意識が二分されたように裏腹なのである。昔から日本では「色白は七難を隠す」と言われてきたように、なぜか顔色や肌色を白っぽくしたいという美醜観が強くはたらいてきた。この人種固有の黄色肌を国策的・人為的に変更してまで美白を求めるのは、つまり日本人は色白人種に一等憧れているということにほかならない。修治はこういう白人アメリカ主義を好まない。うつ病をくれた東京がそのことを教えてくれた。





「 何だ、この妙な痺(いた)さは・・・・・? 」
  ふと背筋、指先がビリッとした。にわかに痺しびれは地より昇る。しだいに刺し上がる。修治はジロリと己(おのれ)の足元をみた。そこには、ふらふらと修治を揺する影がある。
  ハタと気づくと周囲に闇と影があるのだ。そして修治の影は泛うき立って揺れた。しかし闇間にモノ影が泛くはずはない。すると影は幻想であろうか。いや真昼間だ。影の方が正しい。ならばやはり闇の方が幻覚だ。しかし修治の前にはたしかに闇がある。そして暗黒の航路はその闇の足元から彼方へと伸びていた。
  これは不思議だ。たしかめようと影を探した。すると瞬時、全身に電流(カ―ラント)がビッと奔った。
「 俺は、今、感電(ショート)しているのだ!。俺は燃えそうだ! 」
  針のごとく全身の毛が闇によだつと、堪(たま)らず修治の眼は放電スパークをしはじめた。
「 これは・・・。やはり彼女のいう通りだ。こゝの埠頭(ふとう)は・・・・・、漏電(リーキジ)している! 」
  堪こらえ切れずに足は地を叩たたいて飛び跳ねた。修治は天願桟橋(てんがんさんばし)に立っていた。
「 天願桟橋が占める土地のうち、約半分は私有地である。このため年間一千万円を超える賃借料が地主に支払われている・・・これが漏電の対価か・・・・・!。ここは夢で人類が滅亡すると予言した場所なのだが、この体たらく。やはりここは人をだまして資本を稼ぐ日本国でありアメリカ国なのだ。俺にはこの国籍が分からない・・・・・ 」
  桟橋を奔はしりながら修治はそう閃ひらめいた。
  漏電(リーキジ)はこの断線(デスコネ)が原因なのだ。借地料を支払う見返りとして電線(ワイヤー)は切られた。修治は逃げないと感電(ショック)で火傷(ヒート)死する。保安柵まで修治は奔った。跳ねては転び、起きては転びして修治はようよう逃げのびた。
「 借地料は平成20年度に一千四百万円、地権者数は9名。これは桟橋部分だけではなく全敷地31千㎡の借地料。この施設地全域が漏電しているのだ。施設内の無断立入は不法浸入罪。しかし、だから敷地内には投光照明が備えられているのではない。この桟橋には密かに暗躍するモノ影がある。どうやら天への願い事の多くは夜陰の闇中で祈られている・・・・・ 」
  そう思えると、これは離人症的な光景、あらかじめの喪失感、世界腐食感覚などをもって、よくもわるくもここに接触不可能領域みたいなものが流出し始めていた。地権者の大半が保身された借地料を基に沖縄を疎開するごとく東京に移転した。そこにあるものは資本主義自己肯定とウルトラ保守のための屁理屈ばかりがこびりついている。
  沖縄県うるま市にある天願桟橋は長さ640m、幅約22m、最大2万トン級までの船が同時に接岸可能なのだ。閃く密かな船がある。修治は、この桟橋から闇の航路で結ばれている彼方に、怪しげな北太平洋の米領ジョンストン島を眼に描き出した。
「 沖縄本島には、ホワイト・ビーチ地区という揚陸・補給施設で、かつアメリカ海軍艦船が使用する基地があるが、天願桟橋は、ホワイト・ビーチ地区では揚陸できない、弾薬などの危険物の揚陸施設として使用されている・・・!。この天願桟橋は、米軍の沖縄占領と同時に海兵隊基地として使用を開始、そしてベトナム戦争激化に伴い拡張された・・・・・ 」
  640mとは小さな細橋であるが、現実は、じつに甚大な暗黒を秘めているのだ。
  修治の眼に泛かぶジョンストン環礁(Johnston Atoll)は、アメリカ合衆国領の北太平洋の環礁である。ハワイ諸島のオアフ島からは西に約1500㎞、ミッドウェー島からは南に約1000㎞の位置にある。





「 この紺碧の波濤には、あの枯葉剤Agent Orangeを載せた、暗黒の航路が泛かんでくる・・・・・ 」
  ジョンストン島はかつてアメリカ軍の空港や港湾施設があり、数百名の居住者がおりホノルルなどからのコンチネンタル航空の定期便も就航していたが、2004年にアメリカ軍が撤収して以降、各施設は閉鎖され、現在は滑走路跡地やその他の施設の跡地が残るものゝ、すでに無人島となっている。しかしこの無人島ゆえに怪しく密やかなのだ。
「 ぴ~ゃらぴゃらり、ぴゃらりり~、ぴゃらり、ぴゃりこ、ぴゃたうら~・・・・・ 」
  眼をつむり、小首を下げると彼女の笛の音が聞こえた。阿部秋子が吹くそれは、野仏のように無邪気で可愛い音色である。秋子は京都の狸坂多聞院(たぬきざかたもんいん)から姑洗(こせん)E陽律の笛を送り届けている。たゞしずかに黙祷、聴き終えると修治は左眼をギョロりと太陽に向けた。 秋子とは阿部美智代の妹である。この姉妹は修治の妻沙樹子とは縁戚関係にあった。
「 これが数々の戦争空間の形骸か・・・。アメリカと日本の関係、それは幕末の黒船に始まるのだ。そしてリトルボーイの投下で被爆し太平洋戦争は閉じた。だが日本と沖縄を結ぶ電線は断線したのだ。以来、沖縄は漏電をしつゞけている。大戦後、沖縄はベトナム戦争の最前線基地とされた。そして現在、沖縄は未だそのベトナム戦争で使われた兵器危険物を密かに蓄え、暗黒の航路で人知れず米領ジョンストン島と結ばれているのだ・・・・・ 」
  比江島修治の眼には、輝く太陽の白光に重なるようにして左三巴みつどもえ紋のフィジャイグムン旗が哀しげにはためいた。それは誇らしい琉球王国の古旗である。そこには昆布を積んだ北前船・龍田丸がみえた。
「 日本人がどう思おうと、米国の基地利用が続けば、戦争の火種に日本は晒さらされる。戦争の脅威から沖縄が逃れられることはない。きっと沖縄はそうなる・・・・・ 」
  と、かって阿部秋一郎は眼を皓ひからせていった。まったくその通りだった。ふと修治は亡き秋一郎が遺した大宝恵(おおぼえ)に記された赤いラインを想い起こした。現状の沖縄をみて感じることは、日本人の暴走をとめたアメリカの話ではない。近代および現代資本主義国家の歪みは成熟していない資本論から起こるというふうに読むべき現代黙示録十巻の光景であった。

                          










                                      

                        
       



 琉球の着物 1