Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.2

2013-09-02 | 小説








 

      
                            






                     




    )  死 角  Shikaku


  東京は世界最大の都市だ。
  神奈川・千葉など周辺各県を合わせた首都圏(人口約3500万人)として世界最大である。
  この規模は2000万人台のインド・デリー、メキシコ市、ニューヨークを大きく引き離している。しかしこれを裏返せば、東京とは世界で最も人口密度の高い最悪の都市だといえる。現代は、希望するならば国境を気にせずに、自由に住む場所を選べる。今や世界規模で、どこに住むかを考えるのは極普通のことになった。東京は内心忸怩(じくじ)たる思いになっているはずだ。
  関東大震災時の東京圏は人口600万人。震災で一度リセットされた以後、東京は現在まで約6倍近くにまで膨張した。
  現代にいたる東京の人口は、1939年1(昭和14)に700万人を超え、全人口の約1割に及んでいる。ところが、1945年(昭和20)年には、350万人に満たない所まで減少する。これは、言うまでもなく、米軍の爆撃による。もちろん、原因は直接的な虐殺だけではなく、疎開や、社会の混乱による数値の不確実などもあるだろう。それにしても、極端だ。米軍機およびB29は効率を考えて、人が多くいそうなところを集中的に攻撃した。焼夷弾は、日本家屋がよく燃えるように開発されたわけだ。
  そして終戦から10年後の1955年(昭和30)には、都民は800万人を超えてくる。この時点は、すでに戦前の人口を上回っている。中には戦地や外地・疎開先などから戻ってきた人もいるだろうが、それらが一段落付いた。さらにその後は、他地域を圧倒的に上回る速度で増え続けてきた。これが東京という世界最大の目をまるくして凝視したくなるメガシティーである。
「 問題は、この東京から(世界がどう見える化)、日本と東京は(どう見られる化)なのだ・・・・・! 」
  電話がネズミの長いシッポのような黒い紐で結ばれた時代に、その紐を断ち切って現れたソーシャル・ネッワーク・サービスがあるが、その元祖は、スタンフォード大学の卒業生が始めたフレンドスターだった。やがて雨後のタケノコのように類似ソフトや類似サービスが試みられて、社会を「どう見せる化、どう見られるの化。いかに人脈の見える化」が進んだ。その後発の、またその後発として数年前に大当たりしたのが、親指を立ててチョイスするフェイスブックである。特に東京のような人口の密集する都市社会では、実は自分の趣向や好みに応じた人脈はできにくい。メガシティーの人間たちがあまりに細かく枝分かれ、重なりあっているため、気持ちの交換や交流といった人の出会いを縁遠くする。異なった点の稠密な集合から似たものどうしの点をつなぐ線を発見するのが、ややこしく難しいのだ。そこでフェイスブックが大当たりした。
  この顔の本棚の人気は、都市ではつながりのための「もうひとつの場」が必要なのことを物語る。しかし比江島修治には、この新たなヒューマン・キャピタルになってくる交流の機会化が危うく見透かされるのだ。もうひとつの場の需要は、人を破綻させようとするほどの高速都市機能が人を片隅へと押しやる反動から生まれた。果たしてこれが人に正当な需要なのか。修治は一つ二つ東京から距離を置こううとした。




  19世紀の半ば、青い雲の通りに生まれ、パリの聖ドミニク通りで没した男がいる。昨夜の比江島修治は、その男がロンドンで描いた画集書を食い入るようにながめていた。またそこに日本が近代化に邁進する明治初期を重ねていた。
  ギュスターヴ・ドレが描いたのは、産業革命、その始まりのロンドン風景である。それは国民国家と産業化社会という二つの新型エンジンによって駆動する近代装置車の往来する表通りと路地裏であった。しかもドレは、その背後に始まった近代資本主義社会までに絵筆をあてた。
「 マルクスは資本論を著し、ドレはロンドンの貧富の差を描いた・・・・・ 」
  この二人は同じ年に没したのだ。修治は妙に因縁めくも、無国籍者の影に一抹の虚しさがあった。
  修治が書斎の照明を二色光に落とすと、閉じたドレの画集の奥より明治初期の日本人達が歩きはじめた。かつて福沢諭吉はソサエティを「人間交際」と訳したものだが、社会という言葉に未だ馴染みの薄い明治大衆の耳に対し、社交界を刷り込むこれこそが社交的にして実にうまい翻訳だ。それに倣えば最近のソーシャルこそ「社交的」と訳すのがいいかもしれない。この一例にして福沢を平成の世の社会にも歩かせて見たくなる。内政を重視した戦後の日本社会は、世界社会との正しい交流を縁遠くさせた。自宅を出て八幡坂の細い階段を下りる比江島修治はそう感じると、そのせいか8月末の汗ばむ無風さに少し息苦しさを覚えた。
  ドレがロンドンにいたのは彼の故郷・アルザスがドイツの支配下に入ったからだ。
  彼はそのロンドンで、産業革命の始まる風景として、蒸気船、ガラス工場、通勤列車など新時代を告げる新しい文明の道具を描いている。そしてテムズ河畔で大量の荷揚げをする労働者達、大漁のニシンやタラ、船着場で働く人々、夜のドックの活気など、まさに新時代の萌芽をリアルに動画させるごとく紙や布の画面に立ち上げた。ダービーに熱狂する大衆の声も聞こえてくるようだ。だがその反面で、花や、オレンジや、マッチや、ボロやガラクタを売る最下層の人々の生活をリアルに描き上げた。
「 そのドレの描いたロンドンに、留学の夏目漱石は27~8年遅れてやってきた・・・・・ 」
  漱石である夏目金之助は鏡子と結婚をするが、3年目に妻鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。この折りに彼は、英国留学を命じられた。
  漱石は化学者の池田菊苗と2か月間同居することで、新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。
  その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送るなどしたため、それを土井晩翠によれば、下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥ることになる。
  そして9月に芳賀矢一らが訪れた際に「 早めて帰国させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか 」と話が出て、そのためか漱石発狂という噂が文部省内に流れた。このため漱石は急遽帰国を命じられ、1902年12月5日にロンドンを発つことになった。
  修治が閉じたドレのロンドン画集から、発狂寸前の漱石が暮らしたロンドンの蠢きが現れてきた。
  100年も前の、それは、うつ病者・漱石の姿であった。この姿を100年後のうつ病者である修治が思い重ねるのは、それは比江島修治にとって一つの事件であった。そこには漱石が、ドレが描いた産業革命時の風景を歩いた、その果の発症であることが一つある。また二つは、ドレには「法廷から退場するキリスト(1872)」という作品があるのだが、この「退場する」としたドレの設定意識において、何か精神性の綻びと崩壊という暗示の事件性を感じるのだ。場面は、これよりゴルゴダの坂を上がるキリストの描写である。この救世主は、妙にポジティブではないか。そう、当時のイギリス聖書は奇妙に積極的なのだ。そしてその一連の事件を修治は不安に引き出しつつ、危うげに帰国する漱石の後ろ姿を眼に重ねながら、しばしばする眼を擦りつつ修治はそのまま浅い眠りについた。






  一夜の夢か現実かの連想をふと思いおこした修治は、今宮神社の角を右手に曲がり目白坂下の交差まで出ると一度自宅の方へ振り向いた。ギュスターヴ・ドレは、イギリス・ドイツ・ロシアの書籍にも挿絵を描いた。クリミア戦争の際には著者兼イラストレーターとして、フランスとイギリスが戦端を開いたロシア攻撃を風刺した『神聖ロシア帝国の歴史』を著している。
  そして彼には、ドレの絵で読ませる「ドン・キホーテ」の挿絵があった。
  ソーシャル・ネッワーク・サービスの出現は、異なった情報をユニバーサルに扱うのではなく、マルチバーサルに扱っている。そのうえでそこから必要な「引っ張り出し」をつくろうとしているSNSの方法は、(そうか、そうか、ああすれば成功するのか)という、ひとつの一例だった。しかしこの「マルチバーサル的引っ張り出し」によって新たなソーシャルという「つなぎ」や「絆」が結ばれていくには、それなりに適切な社会的のエディティング・フィルターが考案される必要があるのだ。
  修治は自宅の方を振り向くと、数週間前から妻沙樹子が切り抜いて青いファイルに収めた探査衛星の情報を思い出した。
  青いファイルに収めた最新の、そのエディティング・フィルターにあたるものは必ずや現代科学の「アテンション(注意・注目)」によって何かの現代的誤算が起こるだろうと二人して見抜いたのだ。青いファイルはそのスクラップであった。
「 あれは、果たして自然界や自他に、負荷がかからない程度に人間が使いこなせるモノなのか・・・・・? 」
  音羽の高台にある小日向は都内では案外、天体との距離感を手近にさせて宇宙の神秘に触れさせてくれる。京都から嫁いできた妻沙樹子との縁もあって、修治の天体への関心はより深まってきた。沙樹子の旧姓は、あの京都の阿部である。その陰陽寮博士の末裔を引くことから、修治も天体がさせる焦げ臭さなどの異臭に敏感で、しだいにそう慣らされてきた。
  ドン・キホーテ(Don Quijote)は、欧州宇宙機関が開発する探査機計画の名称である。この計画は、宇宙機を小惑星にぶつけ、地球に向かう小惑星の軌道を変えることができるか否かを検証することを目的とする。そのオービタは7年間保つように設計されているという。計画では打上げを2013年か2015年の目標としていた。
  そのミッションは、直径500m程の小さい小惑星上で作戦を実行する2機の宇宙機で構成される。
  1機目の宇宙機サンチョ(Sancho)は、標的となる小惑星に到達すると、数ヶ月の間周囲を回り、観測する。そしてその数か月後、2機目の宇宙機ヒダルゴ(Hidalgo)が衝突軌道を通って小惑星に向かう。このときサンチョは安全な距離に避難し、ヒデルゴは10km/sの速度で小惑星と衝突する。さらにその後、サンチョは接近軌道に戻り、小惑星の形、内部構造、軌道、自転が衝突によってどのように影響を受けているかを調査するのだ。またサンチョは「Autonomous Surface Package」を放出する。このPackageは2時間で小惑星に着陸し、衝突でできたクレーターの内部で、小惑星表面の特性を調査するのだという。
  こうしたこのミッション計画は、スペインの小説家ミゲル・デ・セルバンテスが著した小説『ドン・キホーテ』の主人公で、風車を巨人と間違えて立ち向かった騎士の名前にちなんでいる。ドン・キホーテのように、宇宙機ヒダルゴは、自身よりずっと大きな天体にぶつかっていく。また「サンチョ」は、ドン・キホーテの従者サンチョ・パンサの名前に由来する。彼は後方に留まり、安全な場所から眺めるのを好んだが、その性格は、この宇宙機に課せられた役割に一致している。だがこの意向は、セルバンテスの理念上、互いの合意(mutual consent)を得るものではない。
「 これは、いかにも人文に目を向けようとはしない、科学者のしでかしそうな宇宙開発の大事件だ 」
  欧州の科学者らはアーレント的に、そのフィルターがそもそもアテンションの交差による効能だと見たわけである。どうやら科学者間の意識では、それが地上におけるソーシャル・メディアの社会的ではない「宇宙的ソーシャル」という特色のようだ。だが、こうして気がつけばSNS時代がすでに宇宙規模の末恐ろしい人間社会になってきたわけで、欧州宇宙機構は2つのシナリオを用意しているという。だが、そのアテンションの交差の記録がすべからくデシタルデータであるから消えないものいう保証など何一つない。また、かのセルバンテスなら、その交差の「天意を軽んじる宇宙開発における生きざま」の大半を測定可能なものとさせるはずもない。
  修治が胸に収めているドン・キホーテは、毎晩そこを仮面の大槍で突いてきた。
  日本国にはセルバンテスの創作意欲を旺盛に掻き立てる死角が彼を気狂いさせるほど存在する。




「 ブレイクスルーするために、ブレイクアウトするのだ!。現代の風車がどれほど固いものか試してやる・・・・・ 」
  と、妻沙樹子の顔をジロリとみた。
「 やはり、貴方のサイコロの目は、ドン・キホーテ、そうなっていましたか・・・・・ 」
  修治はそういって微笑む彼女の仕種をたしかめてから音羽の家を出た。
「 まだこの世で二人が生まれない前の、深い深い縄文の森のなかで(宿命)と(偶然)とがサイコロをふって勝負をきめたことがある 」
  修治は20年前、こう日記の冒頭に書いている。沙樹子はこの日記のことを知っていた。
  しかし、日記の一行は、その先が昨夜まで書かれることはなかった。
  修治は日記を付け始めようとしたのではない。降り出したサイコロが修治をどう転ばすのかが気になっていたからだ。賽の目の判定は修治の将来である。この一日限りの尻切れトンボ日記に、将来のサイコロを振り出してみた。そして今転んだのだ、と現在までを書き留めていた。
  そして六面体のそこに、6つの将来があり、その選択肢が空白であった。
  日頃から何かと女房を巻き込む自身の能力には気づいていた。そして愛妻に笑顔で送り出されて、それがやはり穏やかな能力ではないことに改めて気づいている。「 できない理由より、できる方法を・・・・・ 」と、いつも沙樹子は旦那の背を押してくれていた。そして「 沖縄の人々が想像もできない言葉がいつかきっと飛び出すはず。沖縄は今、その言葉を聞き耳を立て待っています 」といい、家内の現実など彼方に放り投げたかのようにクスリと笑ったのだ。
  この、わずか10分ほど前の軽快かつ晴れ晴れとした記憶が、今、沖縄に正しい認識を呼び込む修治の期待感につながっている。少子高齢化と称されて久しいが、人口減少が避けられない地域では、正しい割合での人口減を目指す取り組みが重要だ。放置すれば転入者が転出者を上回ることはない。そう考える修治は、ふと想い起こしたように眼差しを童心に返した。
「 僕の原点は、あの薩摩の風土にある・・・・・ 」
  冬になると村に一軒しかない豆腐屋の店先に猟銃で射殺されたイノシシが並んだ。
  村唯一のこの豆腐屋は雑貨店も兼ねていた。
  つまり小さな万事屋(よろずや)が、ぽつりと一軒。しかし、それでも明治創業の村一番の老舗であった。
  真っ暗な未明では大豆を煮茹でするエントツの煙など見えない。だが、黒光りした欅材の柱時計が五ツ鳴らす朝まだきには、毎日きまって豆腐を仕上げるため、すでに真夜中から赤々と電灯が点いていた。そして固い木綿豆腐が仕上がる夜明け前には、毎朝必ず1台の錆びた3輪トラックが店先に横づけする。この豆腐屋は南日本酪農の牛乳や乳製品、ヤクルト、南日本新聞などの各種新聞を取次いで販売した。
「 たしか、小瓶が5銭、大瓶が1円。ヤクルトの稼ぎは・・・・・ 」
  店先の暗がりでトラックの荷下ろし待ち構えている修治5歳は、荷下ろしを手伝い、手際よく配達先ごとに仕分け終えると宅配にでる。右肩に牛乳瓶を入れたバック、左肩にヤクルト瓶を入れたバック、二つのショルダーバックを両肩にかけ、背中には新聞を入れたリュックサックを背負い、徒歩で、てくてくと歩きながら宅配した。雨の日もあれば、台風、北風の日もある。一軒は、山の頂きにぽっんとあった。また一軒は、小川の向こうに孤立してある。さらに一軒は、大きな池の向こう岸にポツリとあった。こうしてわずか30の得意先を回るのに約1時間半かかる。
  修治はこのアルバイトを5年間続けた。
  そして修治が空き瓶を回収して店先に帰ると、作られた豆腐は完売し、一丁だけ金ボールに入れて残されている。
「 僕は、あの一丁を毎朝貰って、母さんに届けた・・・・・ 」
  豆腐代は新聞配達料金で相殺された。手に残る毎月のアルバイト料はわずかなモノであった。
  豆腐が品切れた店の午前中は、鮮魚、精肉、生花などの生モノが配送され、午後は乾物、文具、生活雑貨などが運送されてくる。毎日、一品二品の品数で配送される品々は、前日までに村人から予約を受けたものばかりだ。
「 すぐ買おうにも、他の店となると2~3キロ先、大衆車の普及前のことであった・・・・・ 」
  こうして大半の集落では一軒の店で賄っていた。当時、こうした集落共同体の生活システムがあった。
  近所には保育園も学校もない。無論、郵便局、銀行、役場、派出所もなかった。修治の記憶では小学校まで約6キロ、児童の足で1時間ほど歩いた。道草の楽しい帰り道は3時間もかかるが、そうした道々が絶好の遊び場となる。そして遊び疲れて帰宅するころに日没となる。何しろバスに乗るにも最寄りのバス停まで5キロほどはあった。汽車に乗るには駅が7キロ先となる。
  何ともいえない孤絶感、寝静まった夜中の気配といったことが好きで、とは対岸の火事をみていう都会派生活者の甘言、現実に暮らして体験してみないと分からないが、田舎の自然とは全く怖いもので、人と人とが寄り添って暮らさないと生命を保てないのが田舎暮らしである。夜の自然は魔界かと思うほど恐怖だが、しかし人肌の見守る昼間の自然は、これが実に温かい。
  そして村人はその昼間の自然から収穫を得る。この自然を保全し続けるのには利便性を排除する知恵も生まれた。山里らしく保全されないと、山里の特性に還元される恵みの日々を送れない。そのためには不便さは厭わない。360度振り回しても市場社会のブラックホールとは100%無縁、薩摩の宮之城とはそんな竹林に埋もれた侘しい山合いの集落なのだ。
  10歳まで比江島修治はその宮之城のさらに奥地、折小野の山中で育った。
  神田川を渡る首都高速5号の下、目の前にメトロ江戸川橋駅の1a番入出口がある。
  比江島修治が目線を向けたときその入出口に立つ男の胸がピカリと輝いた。擦れ違いざまにみると、男は襟元に金色の紀章を取付けている。ひまりの花弁、弁護士バッチである。弁護士は普段から仕事と結びつかない時間帯にはバッチを取り外すもので、取付けていたろころをみると今から仕事にでも向かうのであろう。妻沙樹子が弁護士であるからピンときた。
「 少し銀色に燻されていたが・・・・・ 」
  使い込まれるとメッキは剥げて地金の銀が見えてくる。これは純銀製で金メッキの弁護士紀章なのだ。本人の希望により純金製のものが交付されるが、紀章は身分証も兼ねるし、裁判所など帯用する弁護士記章の番号を示さなければならないため、純金製を希望する弁護士は多い。しかし沙樹子のは純銀製、弁護に装飾など無用なのだと無頓着だ。そのためか修治は男のバッチの使い込まれようをみて少し嬉しくなった。
  1960年代、村に一台しかなかった村長宅のテレビは白黒で、『ペリーメイスン』の中の刑事事件専門の中年弁護士が颯爽と活躍するアメリカの都会は、児童の眼にも輝いてみえ村長宅まで約1キロの往復も苦にはならない。メイスン弁護士は肩幅は広く、顔はいかつく、太い眉に、するどい眼光で、ひたすら真実を追究しているのだが、毎週変わる大都会の風景は、太陽も、街角も、学校も、百貨店も、夜の盛り場も、車や家具の色までも全て、きっとカラフルなんだろうなと想像していた。そして自由の女神もきっと金色だと信じていた。
  縁戚を頼った両親の疎開先が高塚山を南に越えた50軒ほどがまばらにある山村であった。比江島家は東京から疎開したのだが、昭和20年の正月を過ぎると都内の大半は疎開先へと移り、国内いたるところで大混乱の疎開移動と疎開先探しの戦局となった。






「 ニッポンがいくら本気でも、日本は常に世界から試されている・・・ 」
  メトロ江戸川橋駅のホームで列車を待つ修治は、逆方向に流れる車窓の暗い斑な連なりにそう感じていた。
  日本には、いささか神秘主義のコクと香りが漂っていたのではないか。日本の戦後における復興の結論は「公」でも「私」でもなく、その両方である「共」をめざすというものだった。これはプロパガンダとして伝達が難しい。告知を飲物に例えると、抹茶をブラックコーヒーで割り、そこに醤油とソースを垂らし、さらにコーンを入れた味噌汁を注ぎ込むような代物ができる。「共」の意識はあろうとも、それは公私混同と映る。これと同じように、戦後の沖縄がいつまでも謎の中にある。つまり謎とは、日本の共の中に、沖縄が含まれていないことだ。
  沖縄はいつもこの神秘に包まれている。共の外に放置され、かくも魑魅魍魎と混沌として見えるではないか。
  そして日本の義務教育内で旧日本軍の敗戦理由が教えられることはない。
  ただ教えられるのは戦争の罪悪意識だけだ。戦争放棄はそこにのみ連なる。戦争には相互の実情に絡む衝突があるのだが、過程を飛ばされた原爆を伴う終戦、この結論のみを優先して戦争が教えられる。日本では大戦の本質を含む罪と罰の教育的解決が放置されてきた。これでは晒首を差し出して降伏した日本人の心情は皆殺しである。無念さの保存も、種の保存なのだ。
「 振り子をヨーロッパに振ってみると、このことがよく分かる 」
  西欧は日本を普通の国とは見立てない。普通の国でないと、そこに亀裂も深淵もあり、打算との闘いがあるとものと疑われる。つまり機密を堅持しなければならない立場の国は、常に建前と本音があると見なされる。人間の本質として建前と本音はリアルなのだ。能面に包まれたリアリティーは、日本の美意識ではあれ、異国人に、この識別と区別の難しさは謎を深めさせる。
  西欧の国々は、国境線を幾度となく塗り替えて、幾多の興亡を繰り返してきた。こういう戦時体験意識の蓄えから日本の本音は見透かされる。日本が戦争を恒久に放棄して、憲法下に不戦の誓いを明記したとしても、世界の実情としてそれは理想なのだ。不戦の理想は尊ばれようと、それは生きて回り続ける地球上の現実ではない。したがって現実の不在下にある国とは謎となる。戦後復興の世界が目を見晴らかした日本の高度経済成長そのものが未だ成金的に自立を欠いて神秘なのである。
「 切れるハサミよりは、切れなくて困るほどの堅い紙になってほしい 」
  と、父修造は中学校の面接でこう応え、修治はおもわずその父の顔をみた。
  鹿児島の小学校に入学し三年生になったころ、警察庁の技官だった父が母貴子と相談し、嫡男もなく長女だった母方の先祖代々のタケノコ山を処分して、再建した東京音羽の家に引っ越した。都内の有名私立に修治を入れるためだった。
  それは小学校から女子大まであるミッション系の学校だ。ここに転入してやがて中学校へと進学する。その面接で「あなたの息子さんにどんなふうに育ってほしいのですか」と父は聞かれた。
「 生徒の9割以上が女学生だった・・・・・ 」
  父が答えたのはミッション系女子大の付属中学校での面接試験日であった。面接官もすなわち女性である。
  小学校を出ても男子が系列の中学に進まずとも都内ならば公立中学も自在に選択できた。クラスに3人いた男子は、それぞれに他の進学校に入学を希望した。だが、修治だけはこの系列中学に進むことになる。修治は父のような立派な東大に進学するためにも、男子生徒と自由に競いあえる高校進学を望んで、嫌だとむずると、どうしたことか父はがっかりした。
  そのおかげというか私立中学には難なく入学できたのだが、この中学の卒業生からは、年に一人か二人の京大合格者がでるくらいの学力レベルしかない中学だった。東大なら10年に一人いるかいないかだ。進学力を養おうとする生徒には全てが迫力に欠けた。日常が成績で競う学校ではない。校風はまず品性を重んじた。道理・道徳を風紀とし、令嬢育成を本分とした。だから勉強は好きなのに、中学ではさっぱり成績が上がらない。一学期末時点の修治は400人中のうしろから20番目の成績だった。
「 父は笑っていた。しかも嬉しそうに、茶道や華道の意外に高い評価の通知表をながめていた・・・ 」
  戦前・戦中・戦後の日本のそこには、現実社会のあらゆる「欲望」の投影が照射されていた。軍部や政府にかぎらず、教育施設というもの、特に教育は世間の欲望から隔絶されているようで、しかしそうではなく、実は次世代の欲望を一手に引き受けてきたともいえるのだ。父修造は欲望が経済闘争の本質をつくっていると見抜いていた。「生命のはずみ」として、修治には闘争精神と虚栄とが一緒くたになった心身にはさせたくなかったようだ。羽田空港まで来た修治には、そんな父の面影が強く思い起こされた。
「 父は東京世田谷の三宿、その「野戦重砲兵第八聯隊(東部第72部隊)」の原隊から出征した 」
  この陸軍部隊は「トセ部隊」の通称で8年有余、上海戦・南京攻略戦・徐州・武漢・荊襄と進み、華中戦線では、第十一軍中枢の軍直砲兵部隊として赫々たる武勲の戦歴を継承していたが、昭和19年5月に至り、日本建国以来最大規模の「湘桂作戦」の渦中に揉まれて翻弄された。1945年(昭20)に至り…大本営の「戦争指導方針」に顕しい衰退が表れ始めるや、国民の戦意は急速に低下し、第一線の戦況も敗色濃厚の様相となる。慢り昂ぶった大日本帝国の威信は萎え、その屋台骨は音を立てて崩壊していく。北から南にと膨大に広がった戦線では体を躱す余裕もなく、致命的な痛手を被った部隊に援軍もなく、無慙にも糧秣と弾薬を遮断され、各地で孤軍弱体化し、敗走の止むなきに到り、かつては必勝の信念を豪語した「聖戦」の合い言葉も霧散して消えた。
  攻守逆転の戦況にもめげず、必死に食いついて、血みどろの攻撃を貫き通した無名の戦士たちの多くは、こうして悲壮の極致に「終戦」の陥穽に縺れ込んだのである。かろうじて復員を果たした父修造も、こうした中国大陸戦の前線にいた一戦士であった。




「 ここまで富の目標が本来的なものとして正当化されるとなると、これは教育の目標も経済の目標とあまり変わらないとも見えてくる 」
  と生前、父修造は語っている。これは父がいうまでもなく、経済とは欲望の関数である。欲望が市場を介して資本と商品に結び付く動向のすべてが経済なのだ。しかし今更だが、修治がこの言葉をどう解釈するかは重要問題であった。
  父が遺した一片の言葉、歴史軸に考えて修治が並べようとすると、フロイトの無意識やリビドーに忠実であろうとする見方、またバタイユがエロスとタナトスを重視して「失われた内奥性(une intimite)」を回復したいとした見方、これらも経済活動の一環になってくる。
  そして国民である生活者が消費を通して「蕩尽(cknsumation)」をめざすことは、これも人間教育に通じる人間社会の本来的な活動なんだということになるわけである。
  またこれはさらに、エリアーデが見いだした人間活動の「聖と俗、清と濁」の両面が教育と経済に同時に見いだせるという見方や、ブローデルの文明は精神と物質の開発とし、市場経済を登場させ、資本主義の拡張という3段階で発展する、という見方を巻き込んでくる。経済の世界史は、ことほどさように経済と教育とを、さまざまな角度の双子の橋に架け連ねて結び通そうとしてきたのだ。
「 今日までの学校教育の活動は、多くの経済的側面をその内奥にもちながらも、市場を媒介にしない領域での(見えない経済)に寄与してきたのだ。教師の意図がそこになくても、結果そいうことになる。そうだとしたら、さあ、これをどう考えるかということだ・・・・・ 」
  身震いをしつつ搭乗ゲートをくぐる修治は、12時30発のANA:B747で那覇空港に向かった。
「 教育が、すでに市場で取引されている。しかし宗教は取引されてはいないのだ・・・・・! 」
  これは修治にとって全く奇形な現象であった。
  欲望は、市場に行き交う商品に向かうだけではない。信仰やヒーリングやフェティッシュや、賭博や麻薬やエロスにも向かう。そしてタナトス(死)にも向かう。それゆえ宗教と経済はたしかにいろいろ重なりあうのだが、宗教的な活動をそれ自体だけ眺めると、とうていコモディティとして洗練されてきたとは見えにくい。お賽銭や寄進、お札やお祓いや霊感商法といった極端が目立つばかりなのである。これらはときにアンダーグラウンドな場面でのシャドウビジネスとして、どろどろの状況を呈してしまうことも少なくない。だがこれらは常に欲望の矛先であり、宗教そのものは市場の遡上にて取引は行われない。修治は教育の問題として、これらの宗教との関連を考えねばならなかった。
「 謎といえば、その一つに、琉球の消えた沖縄という奇形な面影のままに生存する沖縄がある 」
  たしかなことは、かの大戦の降伏がこうさせた。
  それなのに日本国は戦後、この実像をずいぶん長いあいだ、はっきりさせてこなかった。
「 ナイチャーは沖縄の陰口を叩きながらも、まったく別の見方で琉球の人々を、あんなに単純で、大ざっぱなくせに、心はひどく繊細な神経の持ち主が多いのだと評する。そして琉球の青い海には憧れている。やはりこうさせる要因は、日本の戦後の教育にあるのでは・・・ 」
  それはこの島には戦後最初にジーンズを穿(は)いた日本人がいるからだ。さらに沖縄は十番街の殺人を最初に目撃した。日本人はそれがベンチャーズの殺人だと知り、この殺人を熱狂して支持したのだ。だからこの島の実像は長らく毀誉褒貶に包まれてきた。
「 しかし現代の首都・東京の住人になると、なるほど、それで沖縄の毀誉褒貶が囂(かまびす)しいのだと頷ける。日本の政治はいたるところで奔放である。内政には妙に頑固であって、本性はどんな相手にも歯に衣を着せない。世界から不可思議な傍若無人と受けとられてきたのも、よくわかる。戦後の半世紀以上、沖縄の社会環境を、教育環境のくくりの中で推敲する意義はありそうだ! 」
  比江島修治は東京で暮らしながら、沖縄には長い間、じつに肩身の狭い思いをしてきた。これが極端な戦後処理不信になっている。修治は、東京の環境でうつ病になって、こうしたプリンシプルを持つようになったのだ。
  現代社会を生きていると、政治や経済の進行の興味とはべつに「手抜きをしたな」「これはしんどい」「いいかげんにしろ」「このくだりは抜群だ」「その調子には乗れない」「なんだよ、そうくるのかよ」「やられた」「いい気なもんだ」という気分がしょっちゅう起こる。新聞やテレビを見ていても、そういうことは、のべつ気になるのだが、現代社会の空間は国家が社会スピードを管理しているので、面白かろうと退屈だろうと、まだしも次々に事態が進むのだが、平穏に暮らそうとする国民はそうはいかない。懸命に真面目に向かうと、すべては生活者の負担になってくる。そこで途中で生きるのをやめてしまったり、それでもガマンをして生き続けたりする。
「 この裏切られた気持ちを断ち切るだけでも、人は疲れる・・・・・ 」
  実態として、資本主義・自由主義者というものの、その6~7割は一人よがりか、効率的に手抜きをしている。
  この不備と横着は律儀者に押し付けられるのだ。とくに政治家や実業家と付き合うのは、とんでもなくしんどい。そういう人間にはロクな現代化しかないからだ。彼らは資本と自由を天秤にした計算主義者なのである。逆に、難解な道程であってもスイスイ生きれる過去の時間もあるし、長い坂道だと非効率だが、歩いていてみると、あっというまに時間が通り過ぎる未来のこともある。非効率、非合理のなかに楽しく謳歌する人生も存在するのだ。人間はこうした矛盾を辛くも酸っぱくも食べながら生き続けている。
「 つまり、現代社会には必ずリテラルテイストというものが付きまとうのだ 」
  買いたてのシャツを腕に通したときの感覚、評判のパスタの最初の一口で麺を食いちぎったときのテイスト、その町を歩いてみたときの空間体表感覚、そういうものが必ずや感じられてしまう。これは消費者からいえば「リーダビリティ(読感度)」ともいうもので、ひらたくいえば生活にある「読み応え」のことだ。あるいは「着応え」、「食べ応え」、「見応え」なのだ。
  こうして読んで応えてあげるのだから、「読み応え」は、当然、読み手当人の感知感覚感度にゆだねられている。だったら実感をがまんする必要なんて、ない。社会が何をどう見せようとも、まずいものはまずい、えぐいものはえぐいのだ。
  しかし、そう考えながら雲上人になっている修治にはそこに沖縄問題が重なってくる。
  宗教と信仰がもたらす出来事と活動は、株価にもGDPにも影響を与えていないようだし、その活動組織の中身は従事者数もあきらかにならないほどに一般社会から切り離されているように見える。いいかえれば、信仰は市場で取引されてはいないのだ。これは仏教に限らずキリスト教に限らず、宗教はそうなのである。沖縄問題を注視するとき、問題なことは、この間接的な影響力なのだ。
  沖縄という日本の宝島には、中世以降の神学としての、そんな応用経済学力が日米のバランスとして執拗に働いている。このネットワーク社会というものは、なかなか一筋縄ではいかない。炎上やフレーミングがしょっちゅう起こるし、たえず「繭化(コクーン化)」が起こる。兵役からもたらされるネトゲ廃人的なビョーキも多い。常に「旅行者以外はみな戦時風景」と同化する場合も少なくない。島民はすでに半世紀以上もこうした有事意識の緊張下に晒されてきた。これは不戦を誓った国の、やはり不可解な謎である。




「 未だ海はどこまでも青いのに・・・・ 」
  日本人は比喩としての青い水の色を豊富に持っている民族だと、それは水に恵まれた国土のゆえだろうと、比江島修治はそう思いながら奄美大島あたりを飛行する機窓の下に映える離島の海を、たゞじっと見つめていた。
  主治医の浜田に「抑うつ状態」だと診断され、二十年勤めた会社を辞めた。一年間の自宅療養をはさみ、そして再就職したが、現在も精神科に月二回通院し、抗うつ薬パキシルを飲んでいる。しかしこれは離脱症状の高い出現率を持つ薬剤だ。ひどく眠くなる。それは睡魔という副作用なのだ。この抗うつ剤で自殺衝動を誘発させる可能性すら指摘されている。しかし浜田医師は「原則としてこの薬を飲んで、回復を待つ」ことを繰り返し釘を刺し続けている。いつしか修治はこの白い一錠の原則の中で縛られていた。
  錠剤によって心身をコントロールされる者が海を青くながめる心境としては、あまりに閑寂である。しかし修治にも記憶があるが、しょせん男児の世間に対する気分というものはこんなもの、とくに修治の気分として漱石に酷似するのは、世の中の連中が笑いすぎるということで、この世間に対する異和感はいまもって変わりない。
「 人間の命を燃料にして進化させようとする資本主義は、すでに狂いはじめている 」
  一日に約300トンの汚染水が海に流れ込んでいるという政府の試算が出されたのは、つい先日のことだ。
  それにしても、水に絡む深刻事態が次から次と突発する。やはり福島第一原発のタンクから、高濃度の放射能汚染水が漏れていたことが判明した。しかし漏れた原因さえ分かっていない。そもそもの事故が大き過ぎて修治の感覚も鈍るが、漏れた汚染水は、推計でドラム缶1500本分になるという。未曾有の天災に加え、人災害は今も進行中である。被爆国の体験からして、これは、水に流せる話ではない。豊かな水の国の一住人であるはずの比江島修治は、間も無く那覇空港に着陸しようとする機上にいた。
「 19歳のひと目惚れなのだから、貴方のことで、当てにならぬことおびただしい。恋は盲目というけれど、とかく若い娘は好きな男を理想化して見るので、結婚してからこんなつもりではなかったとがっかりするものである。私の場合も例外ではなかったが、惚れた弱みで何でも許すことができた。貴方とは、そういう時期が長かったように思うわ。その原点が、あの沖縄の青い海よね・・・・・ 」
  と以前、沙樹子がそう言っていたが、沖縄は二人で最初にしたヒッチハイクの旅の場所だ。
  当時、離島へのヒッチハイクは、無謀とも思えた。しかも提案者は沙樹子であった。
  難関はやはり鹿児島のどの漁村から屋久島方面に渡れるかというということになる。この漁船での無銭旅行は、完遂までの間がじっに楽しかった。船上にて漁師に行き先を語る場面は、かなりキナ臭くなってくる。すべての交渉は海上にて泥沼に入っていく。漁師は突如として無愛想になる。漁師の仕事をいそいそと邪魔しにやってきたと思われるのだ。かといって事前に打ち明けたのでは、出漁の船に乗せてはもらえない。一度目は屋久島臨海から、二度目は奄美大島臨海から、怒鳴られて船上から海に飛び込み島岸へと遠泳した。しかしこの二人旅は憂慮するもいとおしい。徳之島、沖永良部島、与論島へと南下する度に漁師の人情が篤くなった。沙樹子が胸に沖縄の琉球泥藍を使ったブローチをしていたからだ。与論島からは丁寧に沖縄北部の奥港まで送り届けられた。機上からの眼下にはその青い海原が輝いていてみえた。
「 戦争で沖縄が失ったものは人命でも琉球の歴史でもない。われわれが失ったのは、戦後の沖縄を見る日本人の感受性なのだよね 」
  と、沖縄北部の奥港まで送り届けてくれた、あるいは見届けてくれた漁師の乾坤一擲の一言がその紺碧に沁みてくる。不戦の伝統を蓄えてきた島民が琉球の起源をもってそこに重なっているというのは紛れもない実感なのだろう。言葉通り、たしかに戦後の日本人には、時代の折れ曲がりによって、見えなくなったものが多いのだ。
「 セルバンテスなら果たして、沖縄に着地したドン・キホーテを、どう動かすのか・・・・・ 」
  彼ならオスプレイを風車に仕立てる、そんなシナリオもある。









                                      

                        
       



 TheVentures「十番街の殺人」