Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.9

2013-09-19 | 小説








 
      
                            






                     




    )  吾輩は祖である  Wagahaiwasodearu

  あきらかに神はどこからかやってきて、そこにありつづけ、気がつくとそこに立っているものなのだ。
  そして神はまた帰ってしまうものでもある。
「 その神はいつ現れるか分からない。一筋の煙のときもあるのだ・・・・・! 」
  小豆島の南端にある白浜山の頂きにいて聖護院六号の上空通過を確認した丸彦は、くるりと北に背をむけると星ケ城址にいる阿部和歌子の動きをじっとみつめた。和歌子も六号の通過を確認したであろう。丸彦は次の指令を待っていた。
  次にどうすべきかは、和歌子の上げる狼煙(のろし)の色で決まるのだ。
  その狼煙もまた神なのである。待てばその神はやがて城址に降りて立つ。丸彦はじっと眼を北に据えていた。
  寒霞渓(かんかけい)の空に昇り立つ色が、赤であれば和歌子のいる星ケ城址へ、ただの白なら和歌子を置いて京都の阿部秋子の元へ、緑なら予定通り清原香織のいる那覇へ、黄の点滅なら今しばらく待機して次の狼煙の色に従え、白の渦巻ならば後は勝手で好きにしろ、となる。
  阿部家の長(おさ)が立てる、この五通りの指令を丸彦は静かに待っていた。
  狼煙の色が六通りになることはない。すると「六」なことにはならないからだ。この道理は、陰陽の天理を踏まえている。
  神懸山とも呼ばれる二百万年の歳月が創り出した寒霞渓は、8月の末ともなると黄金色に彩りはじめていた。
  そこは星ヶ城と美しの原高原の間、範囲は東西7キロメートル、南北4キロメートルに及ぶ大渓谷で、約1300万年前の火山活動により堆積した疑灰角礫岩などが、度重なる地殻変動と風雨による侵食により、断崖や奇岩群を形成する。日本書紀にも記述がある奇勝で元々は鉤掛山、神懸山などと呼ばれていたが、これを明治初期の儒学者・藤沢南岳が「寒霞渓」と命名した。





「 あッ、あれは黄色の点滅!。そうかもうしばらく待機だ・・・・・ 」
  まずは黄の神が立った。
  神とは、神道や神教ではない。神の、そこにはもともと「主張」というものがない。「言挙げ」がない。
  神は、まったく静かなものである。そこがわからないと神の感覚はなかなかわからない。
  しかし、どうしたことか、静かなどころか、次々にうるさいほどの神道理論が交わされてきた。そのあげくが明治維新後の国家神道なのである。じつはこういう「理屈の神道」と「権力からの神道」が日本にありすぎて、神が本来もっているはずのナチュラルでアニミスティックな感覚を静かなものだと唱えるのが今日の日本に困難になってきた。
  だから阿部家のように逆に、静かに神に奉じる者たちは、こうした日本の歴史が抱えてきたうるさい歴史に目を閉じるようになっている。神の社会はひたすら沈黙をまもるようになっている。そうした神への静かで本来の感覚が「ムスビ」の感覚であり、「ありがたさ」「かたじけなさ」の感覚であり、また「惟神(かんながら)の道」の感覚ということだ。
  そしてこれらを祭祀する空間が、各地に広がっている神社や社や沖縄のウタキなどである。だからこの神の道には心を洗うものがある。神の道に名状しがたい清潔感がある。だがこうした日本本来の感受性が近現代文明化社会の現象と引換にして壊滅した。
  京都阿部家の人々と暮らすようになって、丸彦にもようやくそうした神の骨格が理解できるようになった。そして理解できると安倍家の今日的使命の重要というもが身に沁みて堪えた。
  黄色の点滅をみて了解した丸彦は、再び南の方へ振り返ると四国方面の静けさを見渡した。



「 どうやら、ここで任務完了とはいかないようだ!。何か主人に迷いでもあるのか、これは面倒な予感がするぜ・・・・・ 」
  丸彦は早朝から白浜山の頂きにいて片時も動かずに空ばかり仰ぎ上げていた。
  朝食や昼食はおろか一滴の水さえ飲んでいない。丸彦はふと岩を踏む足元がふらりとして、岩穴の深さに肝がドキリとした。丸彦には遺伝子的に溺死をふくむ水難にコンプレックスがある。
  小豆島は、香川の高松市の沖合いに浮かび、香川県内最大の島だ。瀬戸内海では淡路島に次いで2番目の面積で、日本の島においては19番目の大きさである。島のシルエットは、横に向いた和牛が西を見ているようなじつに特徴的な形で海岸線は変化に富み、多数の半島と入江がある。そして温暖な瀬戸内海式気候を活かし、現在はオリーブやミカン、スモモなどの栽培が行なわれている。
「 次の合図まで今しばらくかかるのであろう・・・・・。果たして次の神は、何色として現れるのか・・・・・ 」
  と思うと、丸彦の眼は、とある光景に、ピタリと止まった。その瞬間、ふと眼の中に緑色の光りが奔るのを覚えた。

  寒霞渓の紅葉を背景に、霞むようなオリーブ林の丘には、真っ白な風車が回りながら白くはためいている。
  そのとき丸彦は次の狼煙の色を確認するまでもなく、次の指令が那覇であることを悟った。
  そして、その白い風車の風景の中に、比江島修治が立っている姿が泛かんだ。
「 これはどうやら、香織と旦那の猫の手でもしろと、そういうお告げがありそうだ。また、よりによって一番遠方か・・・・・ 」
  直感に眼をしばたかせた丸彦は、何度か阿部富造と訪れたことがある沖縄の風土を想い起こした。
「 小生、阿部丸彦は気隋な居候(いそうろう)である 」
  置候(おきそうろう)が阿部秋一郎であった。つまり小生が脳裏に泛かべる出来事はしばし過去形となる。
  この昔男の主人が他界して随分と久しいのだが、同じくして阿部家の人々の足も京都芹生の山守屋敷から遠のくようになった。かの戦禍の動乱に人手不足が生じたからだ。嫡男は江戸に暮らすことになる。そして家系を継ぐ要の男手はすべて他界した。
  主人秋一郎は明治中期に生まれた。
  しかしこの阿部秋一郎の逝去をもって阿部家本来の使命は幕を閉じた。そしてその後、阿部一族の暮らしぶりは狸谷を本家とする極限られた営みのみとなった。芹生の里には現在、たゞ廃屋だけが遺されている。
  その朽ちた面影はじつに寂しい。だから小生は、せめて秋一郎の陰膳(かげぜん)を絶やさぬよう未だ芹生の里に留まっている。そうした廃屋の裏山に音羽の塚がある。しかしこの塚は古墳だ。裏山まるごとが大きな音羽の墳墓、平安朝以来の数十万羽の鳩が鎮められている。
「 名前の丸彦は主人がそう呼んでくれた。そんな小生の茵(しとね)は・・・、大甕(おおがめ)の中である・・・・・! 」
  鯖(さば)の匂いがプンとする。そもそもこの五尺丈(ごしゃくだけ)の大甕には塩鯖を漬けた。備前焼の素肌にはその鯖汁が沁み込んで、唯一この甕だけに主人の面影が衣魚(しみ)のごとく這はい出してくる。そこで甕の底に亡き主人の尻痕(しりあと)のある座布団を敷いた。じつに座り心地のよい座布団だが、その中には主人手造りの北山杉の椙綿(すぎわた)が詰めてある。



  そして丸彦は、さる夜半の虫養(むしやしない)に、ニヌキを食べていた。
「 これが小生の、ケンズイである。ふと、狼煙を待ちながら、このことを思い出した・・・・・。今年の新年のことであった・・・・・ 」
  そのニヌキだが、一見の来客はよく勘違いを引き出してくる。
  東京日暮里(にっぽり)のクロという男が、訪ねてきて、妙に話を盛り上げようとした。何やら諸国行脚の途中とかで、京都へは賀詞交換できたという。つまり見知らぬ関東者だ。おそらく根なし草か、あるいは凶状持ちの風来坊であろう。
「 遠路悪いが、アポなしで突然夜遅くこられても困る。明日にでも出直してくれ!。今宵は二ヌキでくつろぎアルバムの整理などして昔の旅路を偲ぼうとしたが、どうにも喉元に小骨が障さわるようで今夜はダメだ!。二ヌキでこんな情けない夜にするとは初めてだ! 」
  と、追い返そうとしたが、日暮里のクロは「 そいつは気の毒だ。なら後二名、今から連れてくるぜ 」と谷根千(やねせん)でいう。関東の下流言葉は鉈(なた)でもふるようで嚇(こわ)い。
  四名で分けるほどのニヌキなどない。どうしてそうなる、たゞ、小生はニャンとも唖然(あぜん)とした。
  するとクロは「ポン」と口上を投げ入れて、ポケットから紅中(フォンチュン)を取り出すと、その牌(パイ)を突き出し「平和(ピンフ)」といゝ、まかせておけと放笑(ほうしょう)した。なるほど、そういう魂胆なのか。一人分のニヌキを、二ヌケにすり替えて、四人で食べようなどとは、それこそが、べらんめ~なピンフ話だ。ニャンとも詭弁(きべん)でニヌキを戯曲化、その手に小生は乗るものか。

「 どうもこれだから江戸っ子は、風流に眼が暗く、京の間尺(ましゃく)に疎うとすぎる。明治維新の混乱に乗じ京の一字を掠かすめ盗とり、やれ東京だ遷都だと粉飾して終えたからか・・・・・ 」
  ニヌキをニヌケと取り違えるとは、まったくマヌケな野郎であった。関東の客人はよくこの手の狂気な勘違いをする。まして古都で生まれて風雅に育つ小生は、放笑や売笑(ばいしょう)という気風になど馴染めない。
「 ニヌキは麻雀(マージャン)のニヌケとは違うぞ。遷都以来、京の都では固茹(うで)の味卵(あじたま)をニヌキという 」
  しかし小生の好物は、黄鶏(かしわ)のニヌキではない。けんずい(おやつ)ならやはり鶉(うずら)のモノにかぎる。小粒だから通ともなれば歯切りで雪肌を傷めず丸呑みにして喉越しで味わう。つまり白玉のようなつるりとした食感を舌で揉み回して味わい、後は腹でこなし、とろりとした胃液漬(ペプシン・シロップ)の余韻にひたる。小生はいつしか主人のそんな嗜好に染められてしまった。
「 さて・・・、突飛な関東の客人に宵腰を折られたが、妙な戯曲化に襲われたそのとき、じつは貴重な古新聞を読んでいた 」
  古新聞とはいっても主人が切り溜めて遺したスクラップ記事の帳面である。
  しかし一見そうとは判らない。江戸時代の商家さながらの大宝恵(おぼえ)にして綴じられていた。平たくは大福張ともいう。売掛金の内容を隈無(くまな)く記し、取引相手ごとに口座を設け、売上帳から商品の価格や数量を転記し、取引状況を明らかにした帳簿である。商家にとっては最も重要な帳簿の一つであった。狸谷(たぬきだに)の阿部家は代々が北山杉の豪商、そして戦前までは洛北の大地主を継いで篤農家(とくのうか)たるを家訓とした。またさらに阿部家の家系を遡れば、遷都以来、代々は陰陽寮博士として宮廷に仕えていた。そして当代、阿部家の世襲は第二十六代目となる。しかし、ここは現在、空白となっているのだ。
「 阿部秋一郎に富造という男子がいたが、この第二十五代阿部富造も先年他界し、訳あって嫡男がいたが廃嫡とした。継ぐ者があればその孫がいるのだが、何しろ子女なのである。かって安倍家には女系の世襲は一度すら経験がない。その孫娘の名を秋子という。現在、その秋子の養育に養母の阿部和歌子が懸命にあたり、世襲への希望を拓こうとしている・・・・・ 」
  したがって現在、阿部和歌子は小生の主人ではあるが、阿部秋子の後見人である。
「 二十四代目の主人秋一郎がなぜ、大宝恵の体裁にして密かに切り抜き記事を遺したのか、めくり終えてみて小生は、これが主人の胸の障さわり、無念を憤(いきどお)る売掛であることが分かった・・・・・ 」
  大半が昭和初期の新聞記事、かなり色褪(あせ)た遺品だが、昭和二十七年四月二十八日付で、その面だけにのみ赤ラインが引かれていた。つまりそこに主人が留意して、仕分た意思(売掛)があることになる。
  ニヌキを食べながら小生は、細く伸びた赤い生き血のその売掛にニャンとも妙な胸騒ぎを覚えた。
  赤ラインの文面は「 The Akkied Powers recognize the full sovereignty of the Japanese people oveer Japan and territorial waters. 」となっている。日本語訳で「 連合国は日本国及びその領水に対する日本国民の完全なる主権を承認する 」とされる。
  つまりこれは「 Treaty of Peace with Japan 」昭和27年条約第五号のサンフランシスコ講和条約、日本国の独立を認めた文言なのであった。さらにその講和条約の最後の一文は「 DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951,in the English,French,and Spanish languages,all being equally authntic,ando in the Japanese language. 」と、太い赤ラインで囲われている。主人がここを強調したことは明白であった。日本語訳の内容は「 一九五一年九月八日にサンフランシスコ市で成立した。英語、フランス語並びにスペイン語各版において全て等しく正文である。そして、日本語版も作成した 」と書かれている。しかも主人は、『 all being equally authentic 』の一部のみを特に強調するかに二重の赤ラインを引いていた。
  この二重の赤ラインこそが講和条約締結時の日本の立場を浮き彫りにする。つまり「 all being equally authentic 」の「 全て等しく正文 」であるのは、英語、フランス語、スペイン語版だけなのだ。
  日本の新聞報道によると、その後にカンマで区切られて「 and in the Japanese language 」と記された。つまり付随として「 そして、日本語版も作成した 」と書いている。ニャンと、これは条約として有効なのは、英、仏、西語の文章のみであり日本語訳はあくまで参考ということになる。主人はこゝを二重の赤ラインで指摘していた。むらむらと、小生の眼光は赫(あか)く熾(も)えたのだ。
「 主人はじつに寡黙かもくな男であった。語ることなくこう記すことが主人の売掛であったろう・・・・・ 」
  なるほど、見事に条約の本質が操作されている。巧妙な政府のトリックだ。あるいはトラップかもと疑うが、ここに敗戦から独立にいたる真相の狂言歌舞伎、その裏舞台がある。
  某新聞社はこれを一面のコラムで「 占領よ、さようなら 」と結びながら素直に喜んで報じた。こうして六年八カ月の占領は終わったとされる。しかし同時にこれは、報道の敗戦である。重要な質草(しちぐさ)を見殺しペンは盲目であった。
「 これは単なる見落としではない。誤訳でも校了(こうりょう)の不手際でもなかろう。見殺しだ。このことを小生は悟ると、好物のニヌキに喉が詰まった。主人の憤慨(ふんがい)は明らかで、好物ではあるが次に手が出せるはずもない。しかも今日までの新聞報道で、両刃(もろは)を置き去りにしたことへの謝罪記事を、小生は一度も見たことがない・・・・・! 」
  確信的な共謀犯(きょうぼうはん)を仮面に隠し、言論の敗戦を報道の輩は放置したまゝではないか。これでは毎日、読売を待ちわびる国民の朝に、朝日が昇ることはない。帝国も草葉の陰で憤る。
  帝国は滅びたが、報道機関とはいえ日本民族の一員だ。かくして日本は言論までが敗北に帰した。
「 見殺しにされた沖縄では四月二十八日を「 屈辱(くつじょく)の日 」とする。その通り、この日は日本政府が、主権回復の日だとそう国民に思い込ませようと目論んだ屈辱の一日なのだ。政府は未だ詭弁を弄ろうする!。戦後の復興を後継するこの詭弁尽くしには、もはや日本人としての美意識がない!。国家固有の美意識を欠いて、国際化時代の主権が万国に成立するというのか・・・・・ 」
  主人にとってこれはインサイダーなのである。
  日本の政治は、いつまで戦後を秘匿ひとくし眼隠しの傀儡(かいらい)治世を執るというのか。たゞ自由民主主義社会を眼先鼻先で退化させていることはないのか。日本人本来の良識はどうしたのか。
「 10マイナス2を合計10とし元本は回復されたとするのであれば、日本の学校教育に無礼ではないか。小生にだって不正解だと分かるのであるから幼児ならば簡単に間違いが指摘できる。日本の教育を正しく受けた者ならこうしたイロハの指摘には(済みません)と言える。日本の義務教育は起立の一礼に序し、起立の一礼にて了る。それを主権回復と言い切れるとは、やはり政府の要人ともなると流石さすがに日本人離れしている。そう感じる小生は日本種の猫である・・・・・ 」
  さすがにその夜だけは、どうにもニヌキが不味(まず)いモノとなった。その後、やはり好物だからニヌキは食べるが、以前ほどは旨うまくない。眼に泛うかぶ赤いラインがトラウマとなっている。
「 何と愚かな悪智恵であろうか 」
  と、主人は見返しの余白に書き止めた。そのなぶり書きの墨痕(ぼくこん)が男の遣やる瀬せ無い慟哭を赧々(あかあか)と顕している。
「 秋一郎の記した赤ラインは、たしかな警鐘として、現代の沖縄問題を鳴り響かせている 」
  以前、天願桟橋(てんがんさんばし)の漏電を体感したとき小生は、亡き主人秋一郎の赤い警鐘が泛かび、そこに怪しげな北太平洋の米領ジョンストン島と、沖縄が暗闇に包み隠されながら結ばれている、暗黒の航路が未だあることを眼に描き出した。
  その天願桟橋の所在地を「昆布(こんぶ)」という。第十二代阿部清之介は、昆布を積む北前船「龍田丸(たつたまる)」で薩摩を経由し琉球の天願桟橋に下ろしたのだ。
「 主人のいう、この悪知恵はサグ(SUG)で陥る醜態だ!。人間はこのサグに盲目である!。大宝恵の一件に、そうニャンと吠えてみたくなる 」
  サグとは科学工学技術用語で直線波形のひずみの一つ。出力パルスの頂点の傾斜を示す。「たるみ」「たわみ」を意味し道路における下り坂から上り坂への変化点となる。この区間において人間社会は、何と約60%の時間を渋滞させている。まことに迷惑はなはだしい限りだ。どうやら人間はこのサグの作用を理解していない。



「 人間は峠しか見ておらぬ。人生とはそう甘いモノではない。大抵は下り坂から上り坂の谷底で人は生きている。峠の向こうに幸せの保証などはない。山のあなたの幸せ・・・・・とは妄想である!。本土と沖縄の現状はたるみどころではない。断線であり、漏電状態にある! 」
  大方の物理作用は、人間の心理作用と等しいではないか。サグでどう工面するかで幸せの糧は生まれる。こゝは小生の凌しのぎ処どころでもある。じつは、珍野苦沙弥(ちんのくしゃみ)先生も偏屈な性格で胃が弱く、ノイローゼ気味であったが、その顔の今戸焼のタヌキとも評される明治男が、このサグで悩んでいたようだ。人間はたしかに物の道理はよく発見する。だが自らで見つけ出しておきながら、自らの人生に応用できないところが、人間とはまことに滑稽な動物で、人生と称する道とやらも、現実には空回りさせて自我自尊、じつは埒らちがない。
「 しかしこれを反面教師とみれば有難い標本となる・・・・・ 」
  人と比べて猫の小生も、狸も、狐も、蝉までもが能(よく)そこらを心得るようになる。したがって常套(じょうとう)、道の穢けがれに備え自浄の工面を心がけている。
「 うつせみの羽は、忍び忍びに濡るる袖かなという。だから・・・、蝉はカナカナと鳴く。しかも男ばかりが・・・ 」
  それを聞き入るに連れ滅法な話ではないかと深い眠りに入れない夜がいた。
  人が寝静まるとも夜は起きている。そんな夜の気配を感じながら、それでも乏しい未明のひかりが下弦の底の暗闇を眠らせようとする午前四時、朝まだき芹生(せりょう)の里には人知れず遠い閑しずかさがあった。

                    

「 吾輩は・・・、祖である!。・・・・・ 」
  その名無しの祖の、血筋通り、小生もまた居候(いそうろう)である。
  しかし名は丸彦、ちゃんとある。
  貴船の奥の峠を越えて、つまり都から鞍馬に向かう手前の追分を左上がりに北山へと分けいると、山迫る谷間の小さな里にでるがこゝが芹生である。そこには灰屋川の上流になる清らかな流れがあるが、山迫る谷に小生が間借りする阿部家の廃屋はあった。
  都の市井(いちい)からはさほど遠隔なところでもないが、一山越えると酷ひどい豪雪地帯だ。近年では冬場の芹生に人の気配を感じさせない。こゝは夏場だけの避暑地なのである。
  標高700m近い。冬は雪が深く、無人の村となる。隣家もかって炭焼きをしていたが廃業。今は夏でも三軒ほど住んでいるだけの村内に、やはり阿部家の隆盛も寂びれ、朽ちかけた廃屋だけがかろうじて花背峠へと向かう山裾にポツリと残されていた。
  そんな淋しい芹生の里の水温むころに、ふと、聞きなしにカナカナという、甲高い男の鳴き声が聞えてきた。訪うその声は何年も暗い土の中で過ごして、ようやく地上に這い出した小さな山守(やまもり)の遠吠えであった。たゞひたぶるに貴女を恋う心だけがそこにある。

「 男の、何と切ない遠吠えであろうか・・・・・!。いのち潰(つい)えるまでたゞ愛のみを熱烈に希こいねがう・・・・・! 」
  この恋唄を聴く季節になると小生は、この地球上のどこかにはまだ男の自分が身を浸ひたしたことのない美しい海が残っているのではないか、と、年齢がもたらしたずっしりと重い理解で、我慢し難いほどに自身が古びて見えてくるのである。
「 だがそれは小生が、鄙(ひな)びた洛北の暮らしぶりに和(なごみ)を抱き、いつしか愛着を持ったからであろう。それもそうだが、何しろ酷ひどい大戦の戦禍に小生も血だるまの人間を見過ぎた・・・・・ 」
  まだき闇の中にあって凛々(リンリン)と身を焦がすかのような男の叫び声であるだけに、それが、ひと夏の小さな命だということには、不思議に注意が向かなかった。それはかの風騒(ふうそう)の人曰(いわ)く、岩にしみて一切をおし黙らせた声であるからだ。
「 そしてしばし小生もまた一夜の乞食こつじきとなる。僧の基本である乞食托鉢に立ちかえるのだ 」
  すると、束の間の夜と朝のあわいに廃屋のすぐ裏には梅雨明けの杉山が広がっていて、小さな山守の遠吠えを、また巡りきて確かに聞いた。毎年、杉雨(さんう)の風情を序に従いて、このヒグラシの薄暗い声が夏の到来を告げてくれた。
  このようにして阿部家の住人は代々、未明に起きて暦を春から夏へとめくり替えてきたのだが、昨年の八月に小生は、灰屋川の水面に映る流れの中の老人を見て、何かそぐはないものを感じ、すこし眉を寄せた。戦時体験は猫をもす~っと狂わせる。
「 妙に取り澄ました見知らぬ化猫(ばけねこ)が屈(かが)むようにいるではないか・・・・・ 」
  50年前に主人の阿部秋一郎が井戸の上に置き忘れたもので、小生にプレゼントしてくれたものではないが、その太い丸黒縁の眼鏡をかけてみると、どうも自分らしくない。この小生の、祖父のものを貰った黒眼が勝った丸い眼は、いく分怪訝(けげん)な表情になっていた。
  元来、小生は眼鏡などして顔の形を整えるなど好まない質(たち)である。ガクリとひざまずく小生はもう一度、川の流れの上に眼を走らせた。自然、他人の顔じみてくる。今年だけはそうなることが無性に嫌であった。主人秋一郎はカナカナの声を聴きながら、一涙を遺して他界したのだ。桜が終わると節目となる祥月命日がやってくる。カナカナが五月蠅(うるさい)念仏を唱えるごとく無情に聴こえてくるのだ。そうして一夏を終えてみると、廃村の校庭に干からびた蝉の死骸が転んでいて、そこでふと猫の道という本質を省みせられると寂しくもある。



  小生を置候(おきうろう)の秋一郎だが、加齢に従い弱る視力を養生することを洛北の村衆に常々切々と気遣いされながらも、それでも眼鏡にだけはどうしても抵抗があった。これを村人や阿部家の人々は「 六道鏡(ろくどうノめがね) 」という。
  つまりこれは、六道の辻をのぞきみる眼鏡であった。
  秋一郎は眼鏡自体が嫌なのではない。眼鏡を見るとどうしても眼鏡を掛けていた人物の遺影を拾いだし、戦禍にあって忘却のできぬ辛い思い出の体験をしたようだ。洛北の村では甚大な弔いを出した。六道の辻にはそれら明治から敗戦までの膨大な死体がみえる。それは辛かろう、そこで置候に代わり居候(いそうろう)の小生は敢(あえ)てその丸眼鏡をかけてみた。
「 何よりも煮抜き卵が好物の、どうやらその丸彦である小生は、六道の辻から生まれ出たようである・・・・・ 」
  したがって寝起きするは六道の甕だ!。
  安倍家の伝えでは、この甕の中からは、鍾の音が聞こえてくるという。
  清原香織も妙に不思議がっていたが、この鐘のさとりの音といえば、猫の小生に時々聞こえてくる!。
「 これはどうやら血筋のようだ・・・。その血は甕(かめ)の中で産まれた・・・、そして鐘の血は今日に受け継がれている・・・」
  小生には香織に聞こえた鐘の音が、決して空耳ではないことが判るのだ。
  そもそも珍野(ちんの)家で飼われていた小生の祖は雄猫である。その祖は、漱石先生の綴り遺した本編の語り手で、名前はなく、「吾輩」と一人称で名乗りを上げた。名はなくとも有名、日本(ひのもと)一なのだ。
  人間の生態を鋭く観察し、猫ながらも古今東西の文芸に通じており哲学的な思索にふけったりする。そして何よりも人間の内心を読むこともできた。男として三毛子に恋心を抱いたりもする。だが最期は、ビールに酔い、甕の中に落ちて出られぬまゝ死ぬ。これが丸彦の祖の顛末(てんまつ)だ。今もって吾輩は永久にその甕の底に溺死体のまゝ眠らされている。
「 あの祖の心意気で、酒になど足を盗とられての死の始末とは、未だ小生には信じられず事故死扱いに斬捨てたかの何とも孤独な風葬の下りがじつに不可解である。何故(なぜ)、あの幕切れなのか・・・。甕に落とした漱石先生は、また妙な弔いの鐘を鳴らしたものだ・・・・・ 」
  その祖は年齢「 去年生れたばかりで当年とつて一歳だ 」として東京に生まれ、「 猫と生れて人の世に住む事もはや二年越し 」と生きた。
「 そんな小生の祖は、どうやら鐘の音をあの甕の中で聞かされたようだ!。その血の温もりが丸彦の体内にある!・・・・・。またその、わての血ィは、狸坂の多聞院に預けたンや・・・・・ 」
  丸彦である小生の祖、つまり吾輩の飼い主は、文明中学校の英語教師であったが、その父は場末の名主で、またその一家は真宗であったようだ。
「 小生の祖が、顛末で鐘の音を聞いたことは、その真宗と無縁ではない・・・・・ 」
  真宗は法然によって明かされ、浄土真宗は法然の真実を継ぐ親鸞によって明かされた。
  そうした親鸞の閼伽井(あかい)に浸る漱石先生もまた自身で禅をし、禅の語録を読み、一心に禅を研究した。ちなみに鐘の音の正体はこゝにある。先生はその鐘をそっと甕に入れた。
「 しかも苦沙弥(くしゃみ)先生を小生の祖は、際限なく観察し過ぎたようだ 」
  頭髪は長さ二寸くらい、左で分け、右端をちょっとはね返らせる。吸うタバコは朝日。酒は、元来飲めず、平生なら猪口で二杯ほど。わからぬもの、役人や警察をありがたがる癖があった。はからずもそんな洞察力に小生の祖の吾輩は秀でていた。
「 出る杭は打たれる。その杭が鐘を叩くこともあろう。たしかに過ぎたるは及ばざるが如し、あまりにも膨大な珍野家に関わるパロディを見過ぎた!。あるいはクシャミの聞き過ぎで、耳でも悪くしたのか・・・。窃盗犯に入れられた次の朝、苦沙弥夫婦が警官に盗まれた物を聞かれる件があるではないか・・・・・ 」
  あるいは「花色木綿(出来心)」の、水島寒月がバイオリンを買いに行く道筋を言いたてるのは「黄金餅」の、パロディである。迷亭が洋食屋を困らせる話にはちゃんと「落ち」までついている。これを綴り遺した漱石先生は、三代目柳家小さんなどの落語を愛好したが、小生の祖の人生は、落語の影響(パロディ)が最も強くして縛られてしまった。



「 だから先生は結界に触れた吾輩を密かに甕の中に入れたのだ・・・・・ 」
  京都には日本人が古くから美しいとした風雪の揺らぎがあるという。 そういう博士はそんな古都の感動を描き溜めては濯ぎ直し、再生するために東京から京都へと来た。そして洛北山端の八瀬にひっそりと別荘を建てた。
  よくよく思い出してみると、雨田博士は、あえて洛外の地を選び、そこを終の棲家に瞑(ねむ)りたいと希望した。その老博士は永訣の朝、鳥の子紙(とりのこがみ)につづり終えた夢記『 洛北陰陽家伝 』という分厚い一冊の手記を枕元に置いて、狸谷の阿部秋子宛に遺したのだ。
  秋子とは小生の主人秋一郎の曾孫娘(ひまご)、陰陽笛「伍円笛(ごえんぶえ)」の名手である。
「 それは老博士が末期につゞり、古都洛北を奏でて揺らぐ風の比率を1対√2という音律で描写した夢の風土記なのだ!。この物語は、博士の音律と狸坂多聞院誕生の秘話である! 」
  清原香織の整えた羅国(らこく)の香りを聞きながら眠りについた雨田老人が、この世の夢の途中で鼓動を止めたのは、しぐれ雪の降る午前5時であったという。そう小生は香織から聞かされている。
  このとき阿部秋子は、朝を迎えようとする比叡山へ名乗りの篠笛を吹いていた。
「 ほのほのほ、ほのほのほ、ほのほのほ 」
  と、博士は人生の幕を閉じた。今際いまわの際で三度くり返し、細い息切れで消え遺したこれが老人の末期(まつご)の音であった。またこのとき虎哉老人は小粒の赤い勾玉(まがたま)の揺れ動く音を覚えた。
「 ニャンとも妙な事切れだ!・・・・・。まさか末期に聴かせた鼾(いびき)でもなかろう。あるいは今際に、ほのほのほ、と笑うはずもない 」
  日本国の猫として耳に覚えるリズムとなると、「ほ」三つ「の」二つの仮名かあるいは音符を連ねたこの旋律、「5・7・7」の片歌かたうたのリズム感ではなかろうか。
「 ともかく博士のことだ。何かの問答であることには違いない 」
  しかし風土記をつゞり終えた安息の聲こえだとも推察される。どこかにその安息を暗示させるモノがあると仮にそう想えば、京都の波止場にて擦れ違うあの三人の影、それぞれの顔が小生の眼にたしかな映像として泛うかんでくる。
「 そういえば、京都にも海はあった・・・・・! 」
  海のない京都のその波止場とは六道の辻にある。数日前、小生が主人阿部秋一郎の形見である大宝恵(おぼえ)を見開きに読みながら清水寺へと坂道を上がろうとしてふと潮騒が聞こえた。
「 たしかに、あれは汐しおの満ちようとする揺れだ! 」
  猫は進化の歴史の中で聴力を著しく発達させてきた。その進化の結果、犬が嗅覚(きゅうかく)の動物と呼ばれるに対し、猫は聴覚の動物と呼ばれている。丸彦の鋭い聴き取り能力については亡き主人もよく驚いていた。小生に限らず猫は耳介(じかい)を左右別々に動かせる。
  耳介とは集音装置、音のする方向にそれを瞬時に向けて音を集める。そして耳管(じかん)でその音を感じて増幅させ、さらに鼓膜で拾った音を耳小骨(じしょうこつ)、つち骨・きぬた骨・あぶみ骨にて増幅させては、すべての音を蝸牛(かぎゅう)へと伝える。その蝸牛は音を電気信号に変換して小生の脳へ送ることになる。
「 この聴覚能力は、何と人間様の約四倍はあろうか・・・・・ 」
  周波数が500ヘルツ(だいたい1m位までの日常会話)の低い音なら、人と猫も聞き取り能力には差がないのだが、こと高い周波数の高音を聞き分ける能力は人間の比ではない。人間が聞こえる範囲は2万ヘルツ以内なのに対して、猫の場合は7~8万ヘルツ位まで聞き分ける。だから聞き逃すはずはない。



「 小生はこの耳でたしかに汐(しお)の波立ちを聞いた! 」
  小生が振り返るとそこは六道の入口、不思議に思って引き返してみると、六道の辻からは暗い波濤の海洋が見えてきた。
「 しかも、うねる波濤は・・・、赤い赤い海であった 」
  その潮騒の赤い揺らぎには不運な人間への痛切な感情がある。雨田虎哉博士がみた「哀切と痛切」は、異なった回路を経て生まれる似て非なる感情だった。哀切であることは誰にでも感じとれる。しかしそれが痛切であるかは体験者のみ感じとれることだ。戦禍の痛切は、自分が相手に置き換えられ、そこで初めて生まれ出る感情である。雨田老人はそんな言葉で篤農家が生きた戦禍の空疎さを強調した。
「 老博士は、京都洛北でレジリエンス(Resilience)を試みようとした・・・・・ 」
  外部から力を加えられて、崩壊しかゝった人やモノやコミュニティーや組織が立ち直る力のことをレジリエンスという。つまり復活力あるいは復元力である。そのレジリエンスは適応力、敏捷(びんしょう)性、多様性と協力、これらの繋がりにより「結ゆい」を復活させる。
  かって京都には自らの仕事に高い理想を掲げて個性ある小集落の伝統を守る人々がいた。しかし明治3年に飛鳥時代から設置された陰陽寮が廃止されたことで斜陽する。雨田博士はその息吹を浴びて、彼のレジリエンスにも溌溂(はつらつ)たる青春を薫らせるごとく心の力で変えられる集落の再生について取り組もうとした。博士は戦禍の空疎(くうそさ)をそこに埋めようしたのだ。
「 現在2013年、1868年の明治維新からやがて145年、1945年の終戦から68年がすでに経過した・・・・・。したがって陰陽寮の廃止から約140年が過ぎようとする・・・・・ 」
  明治維新から太平洋戦争の終結まで77年、大戦の連続したその期間において洛北山端もまた空白となり集落は変貌した。そして博士はその空白に未だ満たされぬ渇望感を覚えた。
「 主人阿部秋一郎が売掛として刻み遺した大宝恵の空白を見つめながら、小生はこれより雨田虎哉博士が見捨てられたその空白を埋めようとして奈良へと眼差した空間を、しずかに辿ろうと思う。さて、その12年前の旅を、追って出かけるとするか・・・・・! 」
  小生は数年前、芹生から鞍馬山の暗闇を超えて一旦、一乗寺下り松へと向かった。虎哉博士の八瀬を訪ねる前に、少々気掛かりな駒丸家を訪ねた。そこには扇太郎という嫡男がいる。
「 おゝ、これが・・・あの栗駒(くりこまの)末裔(音羽の六)なのか!・・・・・ 」
  かって帝国の旧陸軍は、南部系や勢山系の伝書鳩を飼育し情報手段としてその翼を活用した。そうした一連の諜報活動を担うため阿部秋一郎は南部家伯爵の南部利定が導入した南部系伝書鳩の改良に励んでいた。
  栗駒号灰栗胡麻♂とは、秋一郎が苦心惨憺(くしんさんたん)して開発した銘一翼の傑作である。カワラバトの飼育に始まる伝書鳩の歴史は奈良朝にまでさかのぼる。そして陰陽寮の陰陽博士らの手で専(もっぱ)ら行われてきた。洛北狸谷の阿部一族はその末裔として後世に連なっている。
「 明治20年3月23日は、帝国陸軍が伝書鳩の東京・静岡間の試験連絡に成功した日、秋一郎の鳩がその成功に貢献した・・・・・ 」
  その後、旧陸軍は大正8年にフランスから千羽のタネ鳩を輸入して中野通信隊で本格的な訓練を行い、翌9年11月の陸軍大演習で実用実験を行った。こうした軍用鳩は軍の機密事項に関わる、その飼育実態は密やかに陰陽道寮舎にて行われた。秋一郎の鳩舎は芹生の里の奥山に囲われて訓鳩を重ね、そして阿部家縁筋の駒丸家がその種鳩を今に引き継いでいる。駒丸扇太郎は日々この育鳩に余念がない。
「 おゝ・・・・・!。音羽六号が勢いよく飛び立った! 」
  音羽六号は、駒丸鳩舎と東京の雨田鳩舎とを相互に往復できる能力を有して飼育されている。雨田虎哉と駒丸扇太郎は、阿部家伝来の陰陽鳩の復旧に取り組んでいた。
「 毎分2㎞の速度、京都~東京間約400㎞は最短なら三時間半着の飛行能力、しかし日本列島はそう単純に割り出せない。最大の難関はやはり日本アルプス越え、そして幾度かの磁場力の変動を飛び越える必要がある。それでも音羽六号は半日の所要時間内には鼠坂に到着し鳩舎のタラップをくぐり終えるであろう・・・・・ 」
  名は博士の本宅のある音羽町に由来する。鷹や隼の寝静まる早朝、音羽六号は東京・鼠坂の鳩舎へと飛翔した。
「 移動鳩は一般にはあまり知られていない。これは戦場において移動式の鳩舎を探してそこへ鳩が帰巣する。放鳩後に原隊が移動しても、訓練された軍用移動鳩は、移動先の車輛鳩舎へと帰巣することができた。栗駒号はこの能力を保有した。音羽六号♂はその血統だ 」
  小生は駒丸家を飛び立つ音羽六号の気配を押えた後、そして急ぎ雨田博士の八瀬へと向かった。農学者Doctor of Agriculture虎哉と、駒丸扇太郎は師弟関係にある。そして二人はかねてより山端集落における山間地再生への研究に取り組んできた。
「 レジリエンス要素の一つには、陰陽道という天文道や暦道、自然科学と呪術の体系も重要だ!。博士はそう考えている・・・・・ 」
  これより奈良へと向かう虎哉は、裏山の石の小塚を見据えながら栗駒一号の眠りをたしかめた。思い起こせば、山荘を建てる前の広い敷地がそもそも密やかな処であった。その音羽の甕を納めた小さな敷地は山荘と隣接しているが雨田家の敷地ではない。そこだけは狸谷阿部家の所有地であった。つまりそこは鳩の墓場なのである。
「 音羽の塚・・・・・! 」
  と、そう山端(やまはな)の人々に呼ばれた。小塚はそうした村人の手向ける花が途切れなくいつでも季節の彩りで生けられている。村人は毎日輪番で墓参へとやってくるのだ。そのために清原香織は毎朝、その細い参道の入口に箒目(ほうきめ)を入れ清浄(きよめ)の打水をした。
「 放鳩の予定時間は午前6時・・・、すでに放たれた・・・・・ 」
  そう感じると虎哉は静かな眼で空の気配をうかがった。新春の空の高みには下弦の終わり月が細く細く消えかけて幽かに水引の白を止めている。その薄闇の中を音羽六号は一矢のごとく琵琶湖の彼方へと消えたはずだ。虎哉はさらに薄闇に眼をキッと睨みすえた。
「 間もなく明けようとする朝の景色に博士は、音羽六号の飛影を想い、そして阿部富造の影をそこに描き重ねた。その眼にある光りとは、また日本の夜明け前でもあった。近代日本の払暁(ふつぎょう)、そして同時に陰陽寮はこの世間から消えた・・・・・! 」
  阿部丸彦は、和歌子からの指令を待ちながらここまでを想い起こした。
「 あの旦那はんは、奥さんの沙樹子はんからネコの扱いがヘタだといって笑われた人であるが・・・・・」
  そして、ふと、比江島と沙樹子の顔が浮かんだ。阿部沙樹子が比江島家に嫁ぐ以前、小生は沙樹子には随分喉元をゴロゴロと優しく撫でてもらった。何しろメス猫よりもツボを心得たエソロジストの指先は抜群なのだ。彼女のは、快感をじらしながらだんだん始まるのではなく、だんだんじらして、じらしている中に突然に快感のツボをグイッとしごいてくれた。小生はこれに痺れた。現在でもそのエソロジスト効果の快感は小生の記憶に存分に沁みている。
「 アッ、緑だ・・・・・!。やはり緑か。 かちゃーしー もーてぃ あしぶんサー・・・・・ 」
  小生はポンと岩場から飛び降りた。そしてもう一度、オリーブ林の丘にある風車の白さを確かめた。

                                      





                                      

                        
       



 琉球の着物 4