Kの理論 「華麗なるブレイクアウト」 Breakout Magnificent.

脱走・・・ただ道は一つ。いつも道に一人。万人は来ない。脱線し続けるサイボーグ社会からの脱出。

ジャスト・ロード・ワン  No.5

2013-09-09 | 小説








 

      
                            






                     




    )  むんじゅる  Munjuru


  ご都合主義の主観の時代ばかりがまかりと通るなんて、もうたくさんだ!と、そして「平和」や「愛」や「心」や「性」といった主題なら、とっくの昔に本棚や墓場の辺りに出揃っているではないか。そんな主題を何千回、何万回だいそれて天論人駁するよりも、そうした主題を突き動かす客観視力に着目したほうがいい。修治はそういう意味で小高い戦場の丘をじっと見つめていた。
「 おそらく21世紀の後半戦は「 客観視力を結集させる世紀 」となるだろう・・・・・ 」
  客観とは冷静な道筋である。万全の手立てである。また、「 人には無駄な仕組み 」であって「 人を寄せ付けぬ裂け目 」である。20世紀という前半戦、主観はいつも偉そうに居座ってきたが、これまで座らされていた客観は、本来切れたり離れたり、くっついたり重なったりして活動するものだ。客観視力は、ことさらさように主観と主観のあいだに注目し、社会の悪態を見破ってくれる。修治はそう、考えるようになった。
  シュガーローフ(安里52高地)の一帯、今でも土地を掘り返せば人骨をはじめとして砲弾の破片など多数の戦跡遺物が見つかるこの土地の上を、観光客をはじめとして多くの人が往き交っているが、しかし残された白い水タンクのある小高い丘を振り返る人はほとんどいない。メディアビルからじっと見据えていた比江島修治は、その眼を静かにずらして上の青空にあてた。
「 5月18日、米海兵隊は、あのシュガーローフを占領確保した・・・・・ 」
  安里東側のこの52高地地区は、18日早朝から猛烈な砲迫の集中火と戦車を伴う強力な米軍の攻撃を受け、日本軍も勇戦したが、午前10頃には52高地頂上付近は米軍に占領された。しかし同高地守備の独立混成第15聯隊第1大隊は18日夜、奪回逆襲を行い、19日午前2時30分頃には米軍を52高地頂上付近から撃退したが、死傷者続出し奪回は不成功に終わり、大隊は19日黎明安里北側台地に後退する状況となった。真嘉比地区の独立混成第15聯隊第3大隊も、米軍の強圧を受けながら、真嘉比南側地区の陣地を保持した。同大隊は18日夜包囲下にある連隊砲陣地の救出攻撃を実施し、連隊砲中隊、速射砲中隊の両中隊長以下の救出に成功した。
  こうした敗戦はアメリカの主観、日本の主観、二つの主観がある。その沖縄を客観で一度体感しようと思いたったときに、比江島修治は、こっそりひとつの目標をたてた。それは「 日本人の場所 」という問題を自分なりに追いかけようということだった。そして今回の沖縄で「 場所と屍体 」という現在を転ぶ形骸を、往時に照らし出して連想してみるのも、正しい日本人の居場所を探ろうとする、ひとつの試みであった。






  アメリカからみた大戦「シュガーローフの戦い」(日本側は安里52高地と呼称)

  修治はおそらく12~20歳くらいのずっと昔、プランテーションという言葉を開拓精神の代名詞のように教わった記憶がある。
「 しかし、そうではなかった。それは、イギリスからの入植者が多数の奴隷をつかってサトウキビ栽培をして、本国に富をもたらすための工場であり企業であったのだ。その結果、生み出されたモノの一つとして、ブラジルやカリブ海域に新種のクレオールが登場した 」
  また、イギリスの植民地では入植者が土地を購入した。あるいはインドシナなどのフランスの植民地では、土地は領地のようにふえていく。これがアビタシオンである。農園主の居住地のまわりにゴム園・サトウキビ畑・菜園・家畜小屋・奴隷小屋・手工業施設などが拡張していってアビタシオンとなった。そこにアビタシオンのクレオール文化が生まれてもいる。さらにヒューストン・ベーカー・ジュニアの証言でもあるが、ブルースの本質はボトルネック・ギターに乗って各地を遍歴した「移動性」と「交差性」と「流動性」によって生まれたのである。ブルースを聞くと、誰もがそこに自分と関係のあるような「場所」を感じられるのは、ブルースがその本質に非トピックな「無場所性」をもっているからなのだ。
「 おそらく、プランテーションやアビタシオンでは仲間の奴隷が死ぬと、夜になって闇との媒介人が火を焚いて仲間や死者に何をかを語りかけながら弔いをした。死者のそこには語り部により夜の物語がつくられる。奴隷たちはそのような「告別の通夜」を何年もへて共通の語法を定着させていったにちがいない。そしてそう示された場所にはきっと「内なる神」(entheos)がいる。であれば、すなわち戦後という沖縄の戦地には内なる神としてのインスピレーションが潜在して、このインスピレーションを取り出すことが日本人の精神力の牽引となる。そうだとすると、それは日本の本来へと戻さねばならない精神だといえる 」
  現在では振り返ることも少なくなった安里52高地の一つでさえ「場所の永遠性」に惹かれて修治が見つめるうちに、これはものすごい内なる思想者であることがたちまち伝わってきた。沖縄には実在した戦線の裏面にこそ隠れた真実がある。そこに至る人の連続性と複雑性、差異と内包、秩序と組織、変化と適合といった日本が未来に考えるべき問題意識は、ほとんどこの沖縄によって、本来なら日本の蓄えた知覚のバリアを非常の時間で食い破ってきたと見てもよい。だが日本は戦後、日常の沖縄を、非常と感じることをしなかった。





「 教育の方法よりも「 方法の具体科学 」こそが必要ではないか、政治の方法より「 方法の具体政治 」が必要ではないか、哲学の方法より「方法の具体哲学」のほうが大事なんじゃないか・・・・・」
  と、うつ病に刺戟された修治は、うつ病を客観視することで、よりラディカルな気分になってきた。
  修治が沖縄で考えてみたい場所とは、日本人の「 生きている場所 」あるいは「 人間として日本人の生きる風土 」というもので、一言でいってアリストテレスからベルグソンにいたる場所論ではまったく議論にもされていなかった新しい視点で構成される居場所なのである。そしてその場所が、萌芽させる生命の動向、すなわち有機体としての分子の声を聴かせ、これを耳に傾けてみたいのだ。
「 あの小さな丘には、きっと日本の神がいた・・・・・ 」
  と、ヴィヨン教授は、さも一言の詫びでも入れるように顔を青くしてうなだれた。そうしてあのとき教授がそっと机の上に置こうとした白いパナマ帽は、風にコロコロと転がり修治の足元に落ちた。すると教授はその帽子をじっと寂しげにみつめては「 君が、未来に対する創造性を期待するなら、現代の経済の発展と技術の革新に目を集中させないことだ・・・ 」と言って、修治が今思い出すことは、教授がアメリカ軍側によって撮影された安里52高地の写真数枚を破り落としたときの、脳裏に焦がされて残るあの深い苦悩の表情である。
「 あと40分か・・・・・ 」
  午後3時丁度に、名嘉真伸之と落ち合うことになっていた。メディアビルから待ち合わせ場所のダイワロイネットホテルまで5分ほどで行ける。少し早目にメディアビルを降りた修治は、ホテルのそばにある県立博物館の方へと向かい、ヴィヨン教授の面影を浮かべながら歩いた。
  狂い咲きして修治がながめる山桜の齢(よわい)はまだその老木という域ではない。壮年前期の一樹なのだ。世阿弥はいう「 上がるは三十四、五までのころ、下がるは四十以来なり 」と。そうして行く末を見極める時期なのである。博物館前の交差点までくると、ふと京都での出来事を脳裏から引き出した修治は、その当時、世阿弥のいう青年の若さが消えようとする四十以来の年域にいた。
「 この分目(わけめ)を知ること、肝要の花なり。・・・・・その分目とは、一体? 」
  この先、どう秘すれば花と成るのか、どう行えば精神の修成をたどれるのかと思うが、そうかこれは不惑の窓なのかと、より夢中になったその時、玄関先で妻の沙樹子を訪う馴染みのある大きな声が聞こえた。
「 何んや居てはるやないか、平気なもんや 」
「 今日のは、また、えらい大きな荷(やつ)やさかいに、それもまたえらいに遠い処からや 」
  一条寺郵便局員の波多野照夫である。波多野は老いるにつれて「平気」ということをしきりに言うようになった。どうやら見当のつかない横着が平ちゃらになっていくのであるが、定年で一度局を退いたが再び嘱託として配達員をやっている。腰を据えてこの男の都合に係わると、修治が知らない気楽というものが何故(なぜ)か次々に広がっていく。修治のよく知る現役のころは、貴き血筋のアンシャン・レジームさを見せびらかす嫌な質(たち)の男であったが、最近は様子がまるで違う。静謐(せいひつ)なバサラのようなものを感じさせた。どうしてかと訊(き)くと、還暦の時分に愛宕山で採った毒キノコに祟(や)られたという、巻きこまれて修治が頭を冷やすのには丁度気晴らしによかったが、波多野はそんな珍しい話を長々として帰って行った。
「 人生というものには、やはり偶然が関与するものだ 」
  波多野という男の変化がそうであるように、修治と沙樹子とが出逢った縁も偶然だった。それは東京の夜中に街を歩いていて、ふと見渡した公園の何に目をとめたかという偶然である。いつ、どこで、どんな女に出会ったか。修治は生まれてきてからこの方、数多(あまた)ある女を見てきたことになる。沙樹子はその一人なのだ。女子大生であった沙樹子は、公園の外灯に赤いフィルターを取り付けていた。それは修治には、一連の星座をかたどる銀河のうちの星姫の一つに出会うような偶然であった。
「 あれが、ちょっと冬めく冷たい公園の夜陰なら、偶然はなかったのであろう 」
  そう思うと、一瞬、修治はハッとした。あのとき沙樹子は夜桜の公園にいたのだ。たしか四月の中旬で満開を通り越した花はもう人知れず見向かれることのない青葉まだらの季節なのである。沙樹子はその散り残る桜木を赤く染めようとしていた。沙樹子はあのとき、出会ってみなければ決してわからない結晶的な雰囲気というものを実験しているのだと言った。法学を専攻する学生がいかなる事情でそのような実験を訝しくなるようなその偶然は、そうして特別な夜の思想までをも修治に与えた。
「 あれはそう、何かの深奥を感じた、あのキリコの形而上絵画にも似た感覚じゃないか・・・・・ 」
  目的も解らない彼女の実験であることから、どうしてキリコなのかも解らないが、そのときの修治の眼は未来都市の静寂に光と影だけを泛き上がらせていた。
  そしてフランスから「POSTEXPORT(ポステクスポール)」が届いたのは正午が少し前であった。
  6㎏用箱とあるが、送り主はRobert Villon(ローベル・ヴィヨン)教授である。
  秋晴れの穏やかな日で、京都の狸谷(たぬきだに)は比叡(ひえい)の西陰とういう質(たち)もあり、嵐山などに比べると秋色の訪れも遅く、その頃ようやく丹色(にいろ)の彩りを見世(みせ)はじめていた。
  玉露を淹(い)れ立てる湯加減を計りながら、その温もりの手肌で先ほど波多野から届けられた郵便物にそっと触れてみた。早速開くには妙な慎みを覚え、一知半解(いっちはんかい)のもどかしさがあった。開く前からこんなにも開くことを憧れていた郵便物はなかったのだ。受け取る直前にすでに胸がはちきれていたといってよい。これもまた偶然である。だから先ず撫(な)でるように触れた。泛(う)き泛きしすぎて、どうにも開ける算段に迄ならなかった。修治はしばらく、まどろみの中の逆旅(げきりょ)の風景に座らされていた。
「 私は、ヴィヨン教授に訊(き)きそびれていた事が未だ数多くある・・・・・ 」
  先ほど迄、山桜を見続けていたからであろう、まるで幻覚剤を飲み込んだまま、また別の映画を見ているような心持ちのである。その逆旅の中には、明るい道や暗い森を抜けていけば出会える幻想としてのヴィヨン教授がいた。しかしこの時はまだ、その幻想がどんな前後の脈絡をもっているかということなど、まったく意に介していなかった。修治は、あたかもフランス人が、フランスを思い出しているかのように、フランスをつねに香ばしく語ってくれていた、そんなローベル・ヴィヨン教授のことをひたすらに回想した。
「 もう、パリの郊外では、乗馬で散歩する人が多い。当時、よく見かけたが・・・・・ 」
  サマータイムが終わって日本との時差が八時間ぐらいの少し遠さを感じるころの、フランスは日照時間を短くさせた夕暮れ時がとてもいい。どうにも人恋しくさせて、素晴らしい紅葉を随所で堪能することができる。郊外の川辺には、優雅な形の家々が続き、或日その一軒の家に伺って、田舎暮らしのフランス人に実際に会ってみると、表情も会話も柔和なのだが、言葉にはし難いほんわりとした綿にでも包まれるような体験をした修治には、石の積み重なるアンティークな秋色が印象深く思い起こされた。
「 サン・ラファエルに向かう道中もじつに良かった。しかし、トランペットの嵐には困ったが・・・・・ 」
  高い山がなく台地が国土の大部分を占めるフランスでは、車窓から黄金色に色づいた黄葉をどこまでも続かせて行く。日光が流れるようにたわむれて夢幻の印象をつくりつづけていた。
  じつに広大だから、修治が窓辺から望む京都の紅葉山とは断然趣きも違う。しかし親しみという一点では、見飽きた瓜生山の紅葉が安らいでいい。そんな修治の、やがて艷やかな賑わいをみせるであろう、その楓(かえで)や錦木(にしきぎ)の林をながめていた眼が、懐かしい輝きとなって十数年前の面影を拾うように捕らえると、紫煙を燻(くゆ)らした老紳士の横顔がみるみる明らかとなってきた。
「 リヴィエラ海岸を見下ろす石畳の村・・・・・ 」
  太陽に干涸(ひか)らびた石畳の道を一歩一歩登っていくと、まるで中世のおとぎ話の世界が山頂に現れる。この頂上からコートダジュールを一望できる鷲の巣村がEZE(エズ)という古い山城跡の回廊であった。
  夏になると修治は、かならずヴィヨン教授からこのEZEの街へ誘われて、しかも一度は一人だけでこっそり訪れた。迷路のような路地が続き、一年中花が途絶えることがない街並み、蔦の絡まる石造りの家、サラセン人の外部からの攻撃から備えて要塞化した村のそれらはあたかも中世に迷い込んだ錯覚を覚えさせた。




  EZE

  長い夏休みの読書後は、いつも石のパティオの日陰が転(うた)た寝の指定席で、子守のようにそっと脇に置かれた白いパナマ帽が、いつしか主人から放れ自由にコロコロと転がり遊ぶかの長閑(のどか)さも、またお決まりの光景なのであったが、修治はそんなヴィヨン教授のシルエットを居間の窓ガラスにくっきりと映し出していた。
「 Restez Fous. 」・・・・・( 愚か者であり続けよ! )
  と、目覚めてはいつも口癖のようにこう語り掛けられた。ヴィヨン教授は、そうして好奇心と人生の楽しみを膨らましてくれたまえと、パナマ帽をそっと拾って差し出す修治に、さもニーチェの静香(しずか)さでも匂わせるように遠い眼をされて、さりげなく濃厚な励ましで勇気を与えてくれた人である。ニーチェもまたエズの街とは思索で結ばれているが、ヴィヨン教授とは、ニーチェの自叙伝『この人を見よ』をみずからで独自の解説を加えながら、哲学の魅力を学ばせてくれた恩師でもあった。
 ヴィヨン教授がニーチェから索(ひ)いたアフォリズムの樽に、漬け熟(な)されるされるような修治の夏休みであったが、その肩の荷の重さを振り返れば、それらは皆、まさにそういう稀な心根の持ち主により与えられた貴重な時間なのであった。教授と過ごしたすべてを出来事の順に並べなおしてみること、教授からタグをつけられて贈られた書籍の数も膨大である。修治の行き先を厳密に標(しる)してくれること、ヴィヨン教授の人材教育作業とはそういうものだった。
  それらは人への温かい情愛を包んでいるのだから、久しくお会いしていない異国人(エトランゼ)からの郵便物は、いかにも唐突に恩師を迎えた修治にとって、新たなときめきを抱かせる訪問客なのである。わずか二年間のフランス留学中の交流ではあったが、送る人も送られる人も、オルリー空港のターミナルで涙を流していた。そう、あの別れ方の眼差しもまた箴言(しんげん)であったろう。
「 Mon fils! Mes amis! Shuji, merci.  」・・・・・(息子よ。友よ。しゅうじよ、ありがとう)
  声高々に涙を流されて、修治が、搭乗口へと消える間際まで、ローベル・ヴィヨン教授は、白い頬をまっ紅に染めて立ちすくみながら高々と両手を振り上げて見届けてくれたのだ。
  人間肯定の深い思いが常にヴィヨン教授の背後にはあった。
「 君は頭もいいし、行動力もあるのだが、万事に用心深いところが、君を年齢よりも老成した感じにみせていて、周囲の眼から多少、野暮ったく思われがちだ。そこが妙に軽んじられる要因にでもなると君が困るのであるから、君には我が母国の太陽をもっと感じ取ってもらいたい 」
  という、そんな教授の言葉を想い泛(う)かべて窓辺に映し返してみると、呼び戻されてよみがえる面影との再会に、懐かしさの深まりを悉皆(しっかい)と抱いた修治は、ローベル・ヴィヨン教授の後について初めて上り下りした、カスバのように曲がりくねったエズの坂道を、踏みしめて歩いた感慨をしんみりと思い出していた。
「 ああ~、僕はなんと愚かなことを・・・・・ 」
  あれこれ思いだすと、正直、至らなさが恥ずかしくて、只(ただ)、詫びるしかない。
  開放感あふれるここでの生活をニーチェは(エズでは、喜びのあまり小躍りしているのを人に見られ、我慢して威厳を保つのが大変だった)と回想して書き残しているのだ、と、そのように教授から教わったのだが、当時、教授を慕う修治に微塵の下心がなかったわけではない。
「 そもそも、永劫回帰の思想とは、やたら難解なモノではないか 」
  そう考えて逃げ腰でいたのだ。間違って、月並みで安直な理解のし方をしてしまうことだってある。そうなると厄介は、ヴィヨン教授を「期待を裏切られました」と幻滅させ、凶状でも廻されることになったのでは帰国後の先行きが面倒であると考えていた。毛頭、哲学に没頭する気概など無かったに等しいのであるから、いささか、修治にとって夏休みの存在は煩わしことであった。
  しかしヴィヨン教授が「 一切はこわれ、一切は新たにつぎ合わされる。存在という同一の家は永遠に再建される。一切は分かれあい、一切はふたたび会う。存在の円環は、永遠に忠実におのれのありかたをまもっている 」と、煙草を燻らせていう、その語種(かたりぐさ)には、妙に人を曳き込み魅了させる力があった。
  そうして魅了されてみると、知らずと修治もまたニーチェと同じような開放感を味わっていた。ヴィヨン教授に導かれて、トンネルのような細い通路に入れば、粗(あら)い石組みの家、遥か窓を見開いてみればエーゲ海の光、これが思索の虎口(こぐち)かと思える体験をした。そこには教授から「 フランス的身体性 」とは何かという問題が突き付けられていたが、それこそが修治の過去と現在をつなぐ貴重な架け橋なのである。
  そんなEZEとは別に、二夏の大半を過ごした「Arles(アルル)」にある教授の生家での実生活、このアルルそこが修治の「願望の僻地」なのであった。アルルはまたファーブルの愛した僻地でもある。




「 ガルディアン・ド・トロ・・・あのカウボーイの味は旨い・・・・・ 」
  眼を閉じて想うと、カマルグ地方の珍しい料理が泛かんでいた。
  素朴だが、じつに旨い。渋いイエローの皿の中央にカマルグ米が高く盛られ、その周りを囲むように牛スジ肉の煮込みがソースと共に盛り付けられる放牧民(カルディアン)の名物料理である。
「 これをmoche(モーシュ)(醜い)と感じ、そして美味しいと感じれば、君はすでにカルディアンなのさ 」
  カルディアンの祖父、その血筋を継ぐヴィヨン教授は、この好物を食べながらJean-Henri Fabre(ジャン・アンリ・ファーブル)がやはり同じ血筋であることを伝えながら、そうして一度(ひとたび)ファーブルの昆虫記を語り始めると、修治にカマルグに棲む糞ころがしの特性までを熱心に教えてくれた。そんな面影を辿(たど)る修治は、イエローの街アルルからサント・マリー・ド・ラ・メールに至る湿地帯に生きる放牧民と、半野生化したカマルグの白い馬の美しさに覚醒させられていた。腑に落ちるも腑に落ちないも、白馬はそのすべてを引き取ってくれた。
  もっとも、ヴィヨン教授は、箴言の数々の優品も、駄作も残しているのだから、人間味に溢れ、何よりも土と共に生きる営みを源とし、素朴な嵩(かさ)を重ねた深い味わいがある。そこにはジタンの青空と白馬とがいた。
「 ジタンヌのブルー・・・・・ 」
  教授の印象として先ず思い起こすことは、扇を持ったジプシー女性の青いシルエットである。
  よみがえり泛かぶことは五月革命のパリである。留学生は、ラテン地区で機動隊が学生約2万人のデモ参加者を殴打する光景を今でも刻みつけている。ローベル・ヴィヨン教授は「対立を深化させない解決法」を冷静に論じられていた。ジタンヌのブルーの紫煙を燻らせては、両切りのカポラルを旨そうに喫(の)み、ほんわりと遠い眼をされていた教授の表情がよみがえる。そうしてようやく、喜びと懐かしさを合い交えながら梱包を開くと、黒いコールテン布にくるまれた荷物の上に、教授からの手紙がさりげなく添えられていた。
「 la(えっ) surprise(これは)? ・・・・・これは一体!・・・・・ 」
  水色の封筒の、その一枚のPapeterie(びんせん)はじつに思いがけないものであった。
  便箋には「M. Shuji, comment allez-vous.Même pendant que boire du vin, s'il vous plaît lisez ceci. C'est le dernier cadeau. Eternal Love.・・・・・修治君、お元気ですか。ワインでも飲みながら、これを読んで欲しい。これが最期の贈物です。永遠の愛を込めて 」という、極短い一行の言葉で結ばれていた。
  それは只(ただ)、ぼんやりとした胸の痛みを感じさせては、ふと裁ち切られてしまう、サプライズな手紙なのである。修治は、教授の思いが何かしら言い明かされぬまま、じつに教授らしく閉じられていることに微妙な不安を抱かされた。それはこれから、人間の魂の昇天のしかたを克明に描きだそうとしている不安である。荷物の底に使い古した「むんじゅる」が入れてあったからだ。
「 たしか、教授には、もう十年ほどお会いして無いが・・・最期の贈物・・・・・? 」
  繰り返し何度手紙を読み終えてみても、修治には、やはり言葉の投げ掛けが奇妙に感じられた。しかも郵便物には、教授が今どこにお住まいなのか、その住所が記入されてない。以前なら手紙の交換を頻繁に行なっていたが、ここ五年間はそれも滞(とどこお)り、しかも十年もの間、一度もお会いする機会がなかった。その中には分厚い茶封筒が三つと、ワインボトル一本が入っていた。そして古いむんじゅる。
「 まだ20分ほどあるのか・・・・・ 」
  ダイワロイネットホテル18階のレストラン「大地の恵」まで上ると、もう一度約束の時間を確かめた修治は、ヴィヨン教授が分厚い茶封筒の三つに区分して送り届けてくれた9冊のファイルを読み通した一夜のことを思い出しながら窓際のテーブルに腰を落とした。その黒革のファイルは、あの古く崩れかけた「むんじゅる」が加わると、まさに人間の魂の昇天のしかたを克明に描き出している。ヴィヨン教授が琉球について語りかけるそのファイルの言葉づかいは地口や冗句にも富んでいているのだが、ましてその沖縄研究が視覚と言葉をまたぐ歴史の中の、テイスト出現のプロセスともいうべき得体の知れないものの解析におよんでいることは、修治に尊敬というより、むしろ戦慄とか恋愛をヴィヨン教授の綴る琉球のそこに覚えたのだ。それほどヴィヨン教授は琉球史の研究に、魚眼のようで顕微鏡のような目玉をもちこんでいた。
  名嘉真伸之との再会を心待ちにする修治は、高層の窓ガラスにヴィヨン教授を想い、沖縄にきた男の胸を熱くさせていた。







                                      

                        
       



 琉球舞踊「むんじゅる」






ジャスト・ロード・ワン  No.4

2013-09-06 | 小説








 

      
                            






                     




    )  雉鳴女  Kijinonakime


「 沖縄を単に「戦後」と、呼ぶべきじゃない! 」
  修治は琉球本来の想像力にこそ、未来へと翔ぶ何枚もの羽根が生えていることを発見した。
  薩摩や、日本や、アメリカと出逢う前の、かっての琉球は、真の未来派だったのだ。
  壺川駅から北へ向かうゆいレールの車内では、乗客の大半が窓際に立ったままの修治の身なりをジロリとみた。
  まず視線を修治の手元にチラリと止め、しだいにスイと垂直に下げ、足元辺りまでをキョロリとみる。そして眼をまた元に引き上げては、修治の顔色をジロリとみる。すると一度車窓の外に向けた視線を、また修治の顔にくるりと振り向けてきた。さらには、視点を安定させたかに修治のスタイルをしばし見つめていた。
「 これだけ熱くシャッフルな刺戟をしてくれると、塵も積もれば山となり、きっと文殊の知恵も出る 」
  あなたの「わかる」は「かわる」のだが、その変わるが、分かるのだと、見つめられる修治はそう感じた。これは乗客らが修治の奇抜な姿にどこか普段ではない珍しいモノを発見したからだ。沖縄の生体に琉球は染みこんでいる。ラボラトリー気分を装う修治はシャッフルされることがじつに嬉しかった。プラトンは小ポリスにこそ理想を求めたのだ。
「 国力とか地域力とか個々の体力といった、今では手垢がついてしまったけれど、沖縄の本来はうんとナイーブなこれらの力の大元になるもの、つまり「美しい想像力」という得体の知れないものが生み出されてくる手立てについて、沖縄はすでに体得している 」
  沖縄がどれほど途上県あつかいされようとも、かっての沖縄である琉球が修治にもたらしたものは、いつもいつも刺激に富んでいて、しかも快適で、修治は今日までそれを忘れたことがなかった。紅型をふくむ琉球衣装を見せられるのは、現代の日本人のような民族音痴には軽い痺れがやってくるような劣化する民族生体の刺戟になってよい。そこには到達した美意識がある。
「 東京音羽の住人たちは、そういうことはしない。また都内いたるところの人達もそうはしない。現実から大半が離れようとする 」
  そう感じる修治は、モノレールの車内一つにも沖縄のゆるやかな時の流れを感じた。
  それは沖縄に限らず、修治がそう感じる大半の街が、人口100万以下ほどの都市の器には満たない日本では平均水準にある相撲番付でいうと前頭一枚目以下の面々である。そこに共通してあるものは、人に止められる程度で流れる時の速度だ。現代の東京はこれを破壊させている。それを大都会の人は億尾なく忙しいというが、聞かされると欠伸こそあれ、生体に与える時間の本質はそう単純に科学で割り出せるモノではないだろう。東京は時間が萌えようと瞬いてみせる生体信号の本質を見落としている。
「 しかしこうもジロジロと品定めされると、どうにも居心地が悪い。気になると、無性にどこか気恥ずかしい。この感触は(男は強くなきゃ)みたいな感じで自身が人にそう感じさせている発見で、それに引き換え自身は、と思ってしまう懐かしい無言の圧力ではないか。あゝ、やはりこれが沖縄なんだ。東京では完全にこの生体圧力が消えているではないか・・・・・ 」
  車窓から下の往来をながめながら肩越しにクルクルと回し続ける、ステッキ変わりに常に七色の日傘を携帯する比江島修治は、背後から寄せられる沖縄の視線を強く感じた。そして心地よい生体への圧力を感じた。それは沖縄の人が、人に対して無関心ではないことの証拠なのである。無関心がフォーマット化された東京では、すでにこれが壊れている。暑いなかでスーツを着て、ビジネスの現場に向かう男性を、修治は長らくやってきた。しかし修治は五年前にピタリと「闘う男」のイメージを辞めた。自身では脱ぎ捨てたと考えている。以来修治は、それまでは女性が夏にするシンボルであった日傘を持ち歩くことにした。しかも夏季の色目は、あえて七色の傘に限定した。



                              



「 人間がする行為の半分はインストラクション(動作命令)で成り立っている。動植物でもそうだが、ということはコミュニケーションの半分はインストラクション(指令行動)で占められているということだ 」
  修治の傘は単る陽射しを遮る日傘ではない。インストラクション信号として、七色にはそれなりの意味があった。心理学の実験やテストで、被験者にやり方などを指示することと同じで、傘の七色がその指示であり、修治は普段にそれを持ち歩きながら、被験者がどう反応をしめすかの実験をしていた。つまり修治が出逢う人々は常に被験者なのだ。
「 そもそも人の生きる活力として太古からインストラクションそのものはある。なのに日本の教育では、様々なインストラクションの表情の仕組みや、その活用の術を教えてこなかった。そうだとすると、人情でコミュニケーションされるにあたってどのように心理化され、伝達処理されているのかということを、活動をしている生活者の大半以上が理解していないということになる。なぜなら心の理解とは、その重要な骨格がインストラクションで成り立っているからだ。そのインストラクションが伝わらないということは、そもそも「理解」とは何か、理解はどういうふうに進行するのかということが理解されていないということになる。動かない心の情報や、閉じられた心の知識は、人情として何一つの力も持ち得ない。人の心はインストラクションで日々を動き、日常を切り抜けているではないか・・・・・ 」
  日本の賢愚と正邪、損得で沖縄は揺れてきた。今もなお沖縄は揺れ続けている。
  修治は日本人のインストラクションが、日本人らしくあるコミュニケーションの鍵を握っている、と考えている。また、どんな生活の本質も心の転移でできていると考えている。心の転移によって何がおこるかといえば、そこで初めて「人の心を理解する」ことのシャッフルがおこる。だから修治は、すべての営みは「アンダースタンディング・マインド」となるべきだと考えてきた。戦後の沖縄を振り返れば、一つの誤りは「敗戦のさせられ方」の甘さだった。戦争の閉じ方、戦後の開き方に敗北したのだ。終戦後も沖縄は消化されるどころか、火に油を注がれてきた。



  国際通りの各駅を、ゆいレールは冷房を利かして真夏の軌道を滑りながら長閑に通過している。
  七色の日傘を固く杖にして握りしめた比江島修治は、京都での保養生活を思い出していた。
「 あの保養を終えて、東京に帰った翌日に、この七色の日傘を千駄木の久保竜次に作らせたんだ・・・・・ 」
  久保竜次とは和傘専門の傘職人である。修治が持ち歩く日傘にはオーダーメイドするまでに、飽くなき表明をさせるべき経緯があった。当時、物忘れの頻発に、うつ病を意識するようになった修治は妻沙樹子の提案で、沙樹子の実家近くにある別荘で静養することにした。当初は1ヶ月ほどと思っていたのだが、意外な居心地の良さから1年間の長逗留となった。そのころ沙樹子は神戸に本社を置く日本五流商社の顧問弁護士を引き受けて月に二度は関東と関西間を行き来していた。別荘はその商社のオーナー五流友一郎の持ち物であった。
「 京都の夏は油照り・・・。だが、あの別荘だけは不思議と過ごしやすかった 」
  修治は八坂神社から帰ると別荘裏山の藪の茂みをじっと見ていた。
  そして、眼をそうさせたまま、脳裏には遠い昔の、ある弔いの光景を浮かばせていた。
「 寒さが温んだら、もう一度、瓜生山(うりゅうやま)の頂に上がろう・・・・・ 」
  数日前に奈良から戻った日にそう思い、修治は今日もまた同じようにそう思った。また南フランスのヴィヨン教授から懐かしい手紙を頂いて以来、そう思い続けてもいたのだが、これもうつ病のせいか少し老いたように感じる脚の痛みがなかなかそうはさせないでいた。
「 これでは・・・、あの、ほろうち、ではないか・・・・・! 」
  裏の藪から眼を居間に移すと、テーブルの上には、3つのコーヒーカップ、清原香織が運んできたままの状態から微塵も動かないでそのままにある。すでに来客は去りコーヒーは冷めていた。
「 何や・・!。手ェつけはらんと。せっかく君子はんが・・・ 」
  客の一人は、狸谷の波田慎五郎である。もう一客は、詩仙堂裏の駒丸扇太郎であった。香織はコーヒーを運んでから一度も顔を出してない。三人が何やら息を詰めた気配を匂わせていたからだ。それにしても二人は、足音一つさせないで風のように帰って行った。
「 香織・・・、裏山で雉(きじ)の鳴き声、聞いたことあるかい? 」
  修治はぼんやりとした小さな声でそう訊いた。
「 雉やしたら、裏には来ィしまへん。崖ェあるさかい子ォこさえるの向きへんのや思うわ 」
  と、意外に味気なく、夕餉支度に追われてそうあっさりと答えると、香織は手つかずのカップを盆に下げてキッチンへと向かった。そのいかにもさり気ない後影を見つめながら修治は「やはり瓜生山か・・・・・ 」と思った。
  羽をバタつかせてケンケーンと鳴く。これを雉の、ほろうちという。
  春を告げる声でもある。早春の草原や果樹園の茂みなどで耳にする。縄張りの主張やメスへのアピールだ。4月ごろ繁殖の季節を迎えると、この時期の雉は、赤いトサカが大きくなり体も大きく見えるようになる。行動をより大胆にするようになる。だが冬場、ほろうちをしないわけではない。 一度、修治は高野川を渡った鞍馬山に向かう柿園で聞いたが、あれは晩秋であった。雉の居る場所はかなり薄暗いところで、上空が遮られているほど安心できるのか人が近づいても逃げないことが多い。また一度は大原のミカンの木の下で、ほろうちは直立して鳴き始めるが、その姿をみたことがある。修治の記憶では、そのときメスがすぐ横にいた。冬の雨後、緑のない枯れ草を歩く雄の雉はよく目立つ。
  しかし、修治が想う雉は、やはりどうしても瓜生山の雉なのだ。

            

  来客が去れば応接の四脚はポッカリと穴を開けたように夕暮れの陰でそう見える。
「 アメノワカヒコの妻のシタテルヒメの泣く声が、風と共に高天原まで届いた。・・・・・そして、高天原にいるアメノワカヒコの父のアマツクニタマとアメノワカヒコの妻子達が聞いて、地上に降ってきて泣き悲しんだ・・・・・。ああやはり、これは・・・・・、あの、ほろうち、ではないか・・・・・! 」
  またそう思えると、応接の椅子に腰を落として、もう一度、波田慎五郎の話を泛かべた。
「 ねっ、どうして降らないの?・・・・・ 」
  と慎五郎は、娘の夕実から問われた。
「 ふーん、どうしてだろうかね・・・・・・ 」
  と、慎五郎は答えた。
  子供は大人社会を選べない。多くの場合、希望と化した予測は裏切られることになる。だが親としては、そこから子供を持つということの、そして子供を育てるということの喜びをいだく不思議さが始まる。意外な個性を持った子が育ち、驚かされることになるのだ。そんな慎五郎はしだいに、子の夕実に囚(とら)われ、夕実の夢がいう「雨」に囚われていくという感覚を抱いてみることにしたそうだ。
  そんな慎五郎の話を思い出すと、修治はそこにRobert Villon(ローベル・ヴィヨン)教授の顔が懐かしく重なってきた。
  慎五郎が娘に抱く気持ちを浮かべてみると、放置すればやがて喪失感を抱くであろう子の夕実。恍惚とした時の夢を見つめながら喪失感に近い溜息をついてみせたヴィヨン教授。この二人が修治に、共通して感じさせるものは、同じ性質が引き起こしてみせる喪失感ではないか。修治はそれが、どちらも人間の想像力をかき立てる美学としての表現だと確信すると、白い教授のパナマ帽を眼に想い泛かばせ、そこに悔悟の念を抱きながら昭和53年10月の出来事を思い出した。



             


  親子なのだから、師弟なのだからいずれは解り合えるという幻想は幻想として、宿命的に相容(あいい)れない親子や師弟というのも間違いなく存在する。 そうだとすると、夕実とヴィヨン教授はその宿命を前にして立ちすくみ、慎五郎はその宿命にどれほど荒々しく爪を立てようとしたであろうか。そう考えるとあのフランスでの10月の結論の皮肉な運命がやるせない。比江島修治はヴィヨン教授に一言の詫びを入れねばならなかった。思い出した10月の「雨」が修治をそうあおり立てた。
  神に摂理されながら完成に至らぬ「存在しない雨」というものが、この世には無数に存在するのかも知れない。もしそうであれば、修治の今煽(あお)られるこの挫折にも等しい裏面史は、しばしば現実に存在する降り注ぐ雨より刺激的なのだ。だが、あらかじめ自らが挫折することで「雨を見ること」を感じさせる時間が現実に存在していることを、一体どう考えるべきか。そう想われると修治はひからびた地に立たされて熱い太陽を身に浴びるようであった。
「 教授はPluieと名付けましたよね・・・ 」
  修治はシモーヌ・ヴェイユが『重力と恩寵』のなかで「メタクシュ」というきらきらとしたギリシア語を何度もつかっていたのを思い出した。メタクシュとは「中間だけにあるもの」という意味である。きっと雨にも重力と恩寵が関与しているのであろう。 雨は重力とともに地上に落ちてくるが、その前にはいっとき重力に逆らって天の恩寵とともに空中で中間結晶化というサーカスをやってのけているはずなのだ。ヴィヨン教授はその「いっとき」を追いつづけた人だったのだ。そう思って、あらためて教授と過ごした南フランスのエズ(EZE)での夏休みを振り返ってみると、教授は地上の雨にはいっさいふれないで、天から降ってくる途中の雨だけを凝視しつづけて修治が聴かせた童謡「雨」の雨音を聞いていたことに気がつかされるのだ。
  そうしてあのときヴィヨン教授は、飼っていた駒鳥に「雨」とい名を付けた。修治がその鳥を眼に泛かべると、教授の手元からその鳥が帽子を啄(ついば)み飛来してくるように感じられた。 そう感じると、その駒鳥は狸谷に飛来してくるのだ。そうしてまたその駒鳥は、波田慎五郎が語っていた内容の、慎五郎一家の夢の出来事と重なり合ってくるのだ。
 慎五郎の話では、狸谷では熱い太陽に煽られた慎五郎、秋子、夕実の三人が地蔵と化して佇んでいる。駒鳥はその、それぞれに三つの帽子をプレゼントしてくれた。どうしたことか駒鳥は、狸谷育った秋子には笠地蔵のあの菅笠を、慎五郎には黒いパナマ帽を、夕実にはピンクのリボンを掛けた麦わら帽子をかぶせてくれる。そして慎五郎は錯覚の赤い雨をふと抱かされていた。


 


「 赤い雨・・・・・! 」
  昭和53年10月、高度成長期にふくれあがった中高年層の中で、ラインの管理職からはずれたオフィスの窓際にデスクを構えるミドルたちを「窓際族」と揶揄した年である。またこの年、原宿の竹の子族と、「あ~う~」という、大平首相のやたらに間延びした口調を修治は記憶しているのだが、微笑ましくもないそんな色彩の紡ぐ妙な慰めには、ほろ苦い世相をにじませていた。
  東京という都会のくたびれる通勤や通学の、肩が触れ合う空間には、かんしゃく持ち、気配り下手、仕事でしくじったかの人が地下鉄に揺らされていた。その許容の物差しは微妙に各様で、ささいな言動があらぬ化学反応を引き起こす。思えば、そんな東京そのものが、巨大な満員電車のようなものであった。
  しかし何かと縮こまりがちで、虫酸が走りそうなそんな時代に、対して丁寧に時間をかけて編まれた書籍には、万感、胸を襲って貫いていくものを感じさせられた。修治はそんな一冊と出逢ったのだ。その一冊が修治の世相に走る虫酸をゆっくり溶かしてくれた。修治は刻み込むように綴る著者の背中を感じ取りながら読み進めてみると、自身がその著者の何かを引き取って実現しなければと覚悟した。
「 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 」
 長い沈黙の中で、ふと修治はある種のひらめきを覚えた。
 眼の中には、慎五郎が持参して見せた分厚い古文書がある。だが、その一冊は同じモノが東京の修治の自宅にもあった。ここがじつに奇遇なのだ。その同じ古文書を波田慎五郎から見せらたとき、修治はふと涙すら覚えた。
 するとそんな修治の眼には、 おもむろにステッキを突きたて身体を起こすと、もう曲がらなくなった膝を固々しく曳き磨りながら静かに書斎へと向かったヴィヨン教授の面影が揺れて泛かんできた。そしてしだいに、教授の面影を湛えたその眼には、日本で最も古い「記紀」がそこに重なるように泛かんでいた。







  二つの書に夷振(ひなぶり)という歌の記しがある。

    日本書紀
    あもなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまるの あなだまはや みた
    にふたわたらす あぢすきたかひこね
    あまさかる ひなつめの いわたらすせと いしかはかたふち かたふちに あみはり
    わたし めろよしに よしよりこね いしかはかたふち

    古事記
    あめなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまる みすまるに あなだまはや
    みた にふたわたらす あぢしきたかひこねの かみぞや

  この夷振(ひなぶり)は大歌所(おおうたどころ)に伝えられた宮中を代表する楽舞である。鼓吹に合せて奏楽し、朝会公儀等の時に用いられる。 和歌の祖とされる下照姫の作とされ、由来は日本書紀の歌謡となる。
  しかし古事記のこれは、日本語なのだろうかと解釈に苦しむ歌であるが、古事記には、その一部分が伝わる。
  この歌を解釈した本居宣長は、
        天なるや 弟棚機のうながせる 
        玉の御統 御統に あな玉はや
        み谷 二(ふた)わたらす 
        阿遅志貴高日子根の神ぞや
  と、して天織姫が首にかける宝石と、アジスキタカヒコネ神が発する光が谷を渡って輝く情景を描いた。
「 これは・・・・・、日本版の七夕、織姫と彦星なのだろうか・・・・・! 」
  とも修治には思えるが、古今和歌集、その仮名序は、この歌について次のようにいう。
        世に伝はることは、久方の天にしては下照姫に始まり
        下照姫とは 天わかみこの妻なり
        兄の神のかたち 丘谷にうつりて輝くをよめるえびす歌なるべし
  ここでは、夷(ひな)を「えびす」と言い換えている。枕詞「あまさかる」は「ひな」で受けないと五七調にならないが、本来はエビスを修飾する言葉が「あまさかる」だったのかもしれない。そうであれば、夷振は「えびすぶり」になる。そう辻褄を合せると、西宮戎の「えびすかき」が宮中で披露されていたことにも通じるではないか。あるいは修治が今日訪ねた八坂神社とも重なり合う。
「 しかし・・・・・、 あまさかる鄙(ひな)という書き方は万葉集にはない。どうもここは、後代の解釈による当て字のようだ。(鄙)という字は悪い意味が強すぎて避けられていた。どうもそう思える・・・・・ 」
  そう思い当たると、修治は眼を細く鋭くして、天井を見上げると夜空に北極星でも見出したかに一点を見た。そこにはかって東福寺門前の万寿寺でみたものと同じものが吊るし止めてある。
  別荘にも同じものを取り寄せた。香織に頼んで御所谷の竹原五郎から拝借したものだ。
  みつめると赤いトウガラシの小さな束が、鬼門を祓うとばかりに揺らいでみえる。あのとき、そう思えてやや嬉しさが微かに湧くと、しだいに修治はまた眼を別荘の庭先へと回したが、眼をやるその顔がチラリと窓ガラスに映ると、修治はにわかに笑みを浮かべたその自分の顔を、じっとみて口角に笑った。
  さきほどまで、ある弔いの光景を浮かばせていた比江島修治は、慎五郎が持参して見せた分厚い一冊と同じものが東京の書斎の奥で眠っているのだと思うと、この世には、奇遇ではない宿命という実在を体感したようで身震いがした。今にも一羽の雉(きじ)が藪奥から飛び出してきて、ほろうちの甲高い声を空に向かって突きあげるようだ。修治の五体は指先の根まで振るえ、まったくそんな身震いをうつ病の男はさせたのだ。このとき男のうつ病も身震いして奮い立ったのだ。脳天まだツ~ンとした。
  それによって、古い弔いの光景がにわかな色彩を加えられ、修治の眼に弔いがより鮮やかな蘇りの光景となって泛かんできた。また同時に京都阿部家の深い関わりと、山端集落との結びつきが泛かぶのだ。







  眼に浮かぶのは、もう15世紀も前の太古の、古い錆びれた日本の神々の弔いであった。
  人間よる古事記が記される以前のその昔、そこに雉の鳴女(なきめ)という神がいた。 この鳴女こそが、今、比江島修治という男性の全身を振るえせている。 そして修治は、うつ病の眼を、発症する以前の強く若かりしころのように悠々とさせていた。
  多くの神々とオモイカネは、「 鳴女という名の雉を派遣するのがよいでしょう 」と答えた。そこで、タカミムスヒとアマテラスは、雉の鳴女(なきめ)に「 あなたが言って、アメノワカヒコにも問いただして来なさい。(あなたを葦原中国に派遣した理由は、荒ぶる神々を説得して帰伏させろということのはずではなかったのですか。なのに、どうして8年もたっても復命しなかったのですか)とそう言って来なさい 」と命じた。 そうして、その鳴女は高天原から降りると、アメノワカヒコの家の門の楓の上に止まって、アマテラスとタカミムスヒの言葉をそのまま、つぶさに、言葉どおりに伝えた。
  ところが、アメノサグメというものがこの鳥の言うことを聞いて、アメノワカヒコに「 この鳥はたいへん声が悪い。殺した方がよい 」と勧めたので、アメノワカヒコは高天原の神から持たされた、アメノハジ弓とアメノカク矢を使って、この雉の鳴女を射殺してしまった。
  すると、その矢は鳴女の胸を貫いて、天上まで上っていき天の安の河原にいたアマテラスとタカギノカミのところまで届いた。タカギノカミというのはタカミムスヒの別名である。タカギノカミがその矢をとって見ると、血が矢の羽についていた。
  タカギノカミは「この矢はアメノワカヒコに与えた矢である。」と言って、多くの神々に見せた。そして、「もし、アメノワカヒコが命令に背かないで悪い神を射た矢がここに届いたのならばアメノワカヒコにはあたるまい。逆に、アメノワカヒコに悪い心があるのならば、矢に当たって死ぬ。」と言って、その矢を取って矢が飛んできた穴から衝き返して下すと、朝の床に寝ていたアメノワカヒコの胸に当たってアメノワカヒコは死んだ。
  ところで、高天原から派遣した雉は帰ってこなかった。「雉の片道使い」ということわざは、こういったことが起源になっている。
  さて、アメノワカヒコの妻のシタテルヒメの泣く声が、風と共に高天原まで届いた。そして、高天原にいるアメノワカヒコの父のアマツクニタマとアメノワカヒコの妻子達が聞いて、地上に降ってきて泣き悲しんだ。
  さっそくそこに喪家をつくり、河の雁を支社に食事をささげる役とし鷺を喪屋の掃除をする役とし、翡翠を食事をつくる役とし、雀を米をつく女とし、雉を泣き女として、八日八晩の間、連日にぎやかに遊んで死者の霊を迎えようとした。
  このときに、アジシキタカヒコネノカミがやって来て、アメノワカヒコの喪を弔った。
  そのとき高天原からやってきたアメノオヒの父と妻は、泣きながら「 私の子は死んでいない。ここにいる。私の夫は死んでいない。ここにいる 」と言って、手足に取りすがって喜び、泣いた。その父や妻が見誤ったのは、二柱の神が似ていたからで、見誤ったのも無理はない。 ところが、アジシキタカヒコネは、たいへん怒って、「 私は親友の弔いに来たのだ。それなのに、わたしを汚い死人と間違えるなど、とんでもない 」と言って、大きな剣を抜き、喪家を切り伏せ、蹴飛ばしてしまった。
  この蹴飛ばされた喪屋は、ミノの国の相川にある喪山となった。持っていた剣は大量(おおばかり)といい、まだ神度(かむど)の剣といった。そうしてアジシキタカヒコネが怒って飛び去った時に、妹のシタテルヒメは、兄の名を知らしめようとして、次のように歌った。

    天なるや 弟たなばたの うながせる 玉のみすまる みすまるに
    穴玉はや み谷 二渡らす アジシキ タカヒコネの神そ

「 天上にいる若い織姫が首にかけている糸で結んだ玉飾り、その意図で結んだ玉飾りは、穴の開いた玉で出来ている。その穴のような谷を二つも渡られた。それがアジキシキタカヒコネノカミである 」
  この歌は夷振(ひなぶり)である。修治は静かに眼を閉じた。



            



「 阿部富造・・・・・! 」
  そんな瞼の裏に一人の男性を偲ぶと、かって妻の沙樹子とヒッチハイクで訪ねた沖縄の旅が泛かんでいた。
  雉鳴きて平穏訪る、という。戦地から帰還した富造は、敗戦をそう感傷させる雉と出逢った。そこは生まれ故郷の山河、生駒山である。その生駒の山中で聞いた一羽のほろうちから、連想させる神の物語を、富造は感じたのだという。
「 戦争は終わったが、私は最も倭(ヤマト)を梃子摺らせた神という事になっている 」
  と、神はさも悲しそう語りかけてきた。
  どうやら、祀られている「杜人(モリト)(=王樹様)」と部下であった「守人(モリト)(=私)」が混同されていった結果そうなってしまった。こう言って神は腹を曲げている。
  阿部富造がよくよく聞いてみると、戦争が終わって早々、監視の為に送られてきた雉鳴女(キジノナキメ)という女性の神霊が、そういう勘違いをしてしまったのが問題であるらしい。
  さらに富造は、この神の悲痛な声に耳を傾けてみた。
  私もまさかあの王樹様と間違われるなど欠片にも思わなかったので勘違いは進行し、中央の命令によって『モリト』の名を変えるよう言われた時も私の改名だと思っていた。神はそんなことをいう。
  さらに、倭のイワレビコは切り札の八咫烏(やたがらす)と互角以上に戦う王樹様を随分と畏れているようで、名を変え、信仰が王樹様に向かないよう封じ続けていた、と。
  これに従えば、史書において中央が使わした神の一柱としてやる、と。雉鳴女の話を聞くに、私が深く臣従している事が周辺地域の安定に必要なようで、従わねば再び矛を交え民を殺す事になるだろう、などと軽く脅迫してきた。元々が中央の仲間だ、等と書かれるのは不快だったので、後の世に間違いを正す事を約束に改名に従った。
  私は王樹様を祀る者、社ヤシロの人として名を『杜人(モリヒト)』と改めた。
  辛気臭い戦後処理も終わり、失われた時間を補うように急速に復興が続く。
  鉄器文化は木材加工技術を飛躍的に上げた。より大型の舟の作成も可能となり、漁業は再び発展の時を迎えている。 少々コストが高いが、鉄製の農具も作製して農業の効率化も図れるだろう。
  幸いにも山犬のおかげでモリトの血筋は残り、高度な技術を持つ者として国の再興を大いに担ってくれていた。私の民はきっとこれからも大丈夫だ。
  今日も私はいつものように山犬の背に乗り、ぐるりと国を観察し、杜人神社へと帰った。
  あまりに遅くなると監視役の雉鳴女が良い顔をしないのである。彼女はいつもピリピリした攻撃的な気配を隠そうとはしない。私は言ってみれば敵国の王に当たるのだからしょうがない話ではあるのだが、・・・・・。
  山を登り、木々を掻き分け御社が見えてくると幾つもの気配がある事に気が付く。
  漁民達が網を抱え境内で祈りを捧げていた。それを前に雉鳴女が困ったような表情でこちらを見ている。私が何事かと尋ねると、漁が上手く行くようにお願いに来たのだと言う。舟で沖に出るのは死の危険が付きまとう。大漁祈願よりは安全祈願のようだった。
  ……そのために、わざわざ山奥の緑深い神社まで来てくれた。
  胸にありがたい気持ちが込み上げて来て一も二もなくすぐさま私は応えた。
  漁港に御社を築いてもらえれば、波の荒れる日はすぐに鎮めてあげる。
  私の言葉を聞くや否や、彼等はすぐさま飛び出し山を降りていった。
  きっと2、3日の内に簡単な御社が拵えられるのだろう。分社を作るのは確かに考えていなかった。交番や派出所のように要所へ置いておくと便利だろうか・・・・・。
  思索に耽る私に雉鳴女が疑問の声を上げる。いつになく鋭い視線はただの詰問でないと告げていた。私も、真剣に答える。
「 貴方は山の神ではなかったのか 」
  私は、山の神であったとは思っていません。
「 貴方は海の神であるのか 」
  時と場合によればそうする事も出てくるでしょう。
「 山犬に乗る神が海も治めると? 」
  民を守るため、治めては駄目なのですか?
  私は相手の言い分にちょっと悩んでしまった。神様は意外と『何とかの神』のように専業が多い。複数を兼ねる神も多いのだが、この聞かれ方はおそらく、『 中央が海を治める神霊を遣わすからお前は大人しく山だけ治めていろ 』の意味で言っているに違いない。
  思わぬ所で叛意と取られかねない発言をしてしまったか!。そう内心で慌てる私だったが、雉鳴女は優しく微笑んだ。
「 私はどうにも貴方の事を見誤っていたようです 」
「 倭では荒ぶる野蛮な神であると伝えられておりました 」
「 真実は杜人の神は慈悲満つる賢神であったと 」
  鳴女の字に賭けて、誤りを正す事を誓いましょう。・・・・・と、本来、私のお目付け役で上役でもある彼女が私に頭を下げた。私は間抜けにも驚きのあまり立ち尽くしていただけだった。
  それから、月が一回り満ち欠けを繰り返した後、雉鳴女は中央へと帰っていった。あの質問の日から彼女は監視役にも関わらず私の仕事を良く補佐してくれた。鳴女とは伝令を主に行う神霊の一族で、多種多様な経験から凡そ何でもできるらしい。また手伝いに来てくれないかな、と私は凪いだ海に呟いた。
「 はやり、これは『鄙の国』の匂いだ・・・・・! 」
 そう改めて感じ直した比江島修治は、沖縄の旅をまた思い起こした。





 かなり以前の話(1978年・昭和53年)だが、 奈良で感触を抱き、そうして重箱の一段ほどに分厚い一冊を旅行カバンに押し込んで、阿部富造は本土復帰後の沖縄県に行くことにしたのだ。その一冊とは、青表紙の上製本、『鎮西琉球記』について書かれた重要な研究書籍であった。12世紀、源為朝(鎮西八郎)が現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。真偽は不明だが、琉球の正史として扱われており、この話がのちに曲亭馬琴の『椿説弓張月』を産んだ。日琉同祖論と関連づけて語られる事が多い。そして鎮西琉球記の異聞伝として京都阿部家が伝え遺す古書があるが、現在、この一冊が東京音羽の修治の書棚にある。
 じつは富造が奈良より沖縄へ向かった一件に関して、その半年前の4月5日に、大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳から古墳時代の修羅(しゅら)が出土した。比江島修治はその発掘に携わっていた。 修羅とは、仏教の八部衆の一人、阿修羅であり、また仏教の六道の1つ、修羅道ともみられるのだが、それが古墳から出土するものではない。古墳発掘の場で、修羅と書けば(ソリ)と読み、巨石運搬用のソリである。これは重機の存在しなかった時代に重いものを運ぶ重要な労働力を軽減させる手段であった。コロなどの上に乗せることで、摩擦抵抗を減らすことができる。
 この発掘は全国的に大きな反響を呼び、同年9月3日には、朝日新聞社や考古学などの専門家によって、市内の大和川河川敷で、復元した修羅に巨石を乗せて牽引する実証実験が行われた。そしてこの実証実験の見学を終えた後、奈良に向かった修治はしばらく飛火野を歩きながら宿泊先のホテルへと向かおうとしたのだが、その途中、金龍神社の三叉路で、沖縄から来たという一人旅の男、名嘉真伸之と奇遇な出会い方をした。伸之は京都阿部家とは縁者である。修治は「おもろまち」で、この名嘉真伸之と落ち合う予定でいた。



「 まずは、安里(あさと)52高地を先に確かめておくか!。約束の時間までもう少し余裕がある・・・・・ 」
  ゆいレールの車窓に国際通りの賑わいを覚えつゝ、七色の日傘ををさした修治は、おもろまち駅に降りた。そして改札を抜けた修治は1番出口より再び新しいシャッフル刺戟を周囲に感じながら、沖縄タイムズ社屋のメディアビルへと向かった。このビルから安里52高地がよく見渡せることを名嘉真伸之から聞かされていた。日傘の七色とは、雉子の鳴女の胸羽の輝きを暗示させる。かって奈良から沖縄へと向かった阿部富造は一羽の雉子を携えていた。その一羽の雉子こそが富造の意図した言霊(ことだま)なのであった。修治は歩きつつ時折、くるくると七色の日傘を回しては、この言霊を目覚めさせようとした。
  駅西口に広がるこの「おもろまち」とは琉球最古の歌謡集「おもろそうし」にちなむ歌にちなむ区街だが、そこはかって米軍基地、返還後にその用地を新商業地区として再開発した那覇新都心である。
  一方、駅東口の真嘉比地区は旧来の静かな住宅地でモノレール計画当時、駅名の仮称は真嘉比(まかび)駅であった。つまりこの地域は陰と陽に二分、みごとにクレオール化(混交現象社会)に染められた4種の顔色をみせるエリアなのである。
  日本の顔、アメリカの顔、琉球の顔、そして沖縄の顔は、やはり複雑な顔をしていた。それにしても一見、すっかり垢抜けて都会派を気取る晴れ晴れとした界隈は、南国の華やぎと賑わいを見せているが、一帯はかって沖縄戦の激戦地のひとつとして知られる「シュガーローフの戦い」のあった、まことに惨劇な流血をみせた非情地帯なのだ。
  旧日本軍はこゝを安里52高地と称し、地点は日本陸軍の首里防衛線の西端、守備隊の独立混成第44旅団配下の部隊が、猛進撃する米第6海兵師団と激戦を繰り広げた。日本軍側はシュガーローフを含めた3つの丘からなる巧みな防御陣地を構築し、海兵隊を撃退しつゞけ、丘は戦闘が行われた一週間で11回も国旗の色を塗り変えている。この戦いで米海兵隊側は2662名の戦死傷者と1298名の戦闘疲労患者を出したとされる。だが日本側については、この戦闘に限った統計がない。じつに甚大な人の終焉地が現在も不明なのだ。
「 あれが安里52高地だ・・・・・! 」
  那覇市街地を眼下に見下ろすメディアビルからは、東シナ海までを臨む大パノラマの広がりがある。そして北側真下に扁平な円錐型の白い水道タンクを抱える小高い丘が見えるが、比江島修治はその一点をしばらく見据えていた。










                                      

                        
       



 YOOSEE「沖縄からの声」






ジャスト・ロード・ワン  No.3

2013-09-04 | 小説








 

      
                            






                     




    )  血の川  Chinokawa


  る~ちゅ~くゝは、四周を蔚藍(あお)い美(ちゅ)らの海に囲まれた浦安(うらやす)の国である。
  鞘豆(さやまめ)ほどの孤島に、住古、浦安の気は紫煙となって涌わきあがっていた。 ここに祝女(のろ)と称する霊者の座する御嶽(うたき)がある。 その御嶽とは、祝女の他に、未だ容易に人を近づけない男人禁制の聖地であった。
  阿部家十二代・阿部清之介(あべのせいのすけ)は、この御嶽うたきの青空にかゝる五色の虹を密かにのぞきみた。
  比江島修治はそんな古い先祖話を妻沙樹子から聞いていた。
「 御嶽に祝女が座ると、天地安らかに虹は産まれ、あたりは美(ちゅ)らの海となるのだ!。それはすでに二百年前の光景、陰陽寮博士の末裔にあたる阿部富造は、その虹の話を父秋一郎から幾たびか聞かされた・・・・・ 」と。
  帝国の戦前、富造青年は、この琉球國(る~ちゅ~くく)を頻繁(ひんぱん)に訪れていたのだ。
「 沖縄(おきなわ)とは琉球語(うちな~)に由来するのだが、当時、阿部富造の関心はこの古い琉球國の営みにあった・・・・・ 」
  その琉球(る~ちゅ~)は女神の国。古来より祖霊崇拝、おなり神信仰を基礎とする固有の宗教がある。首里(すい)には聞得大君御殿(きこえおおきみうどぅん)、首里殿内(しゅりどぅんち)、真壁殿内(まかべどぅんち)、儀保殿内(ぎぼどぅんち)の一本社三末社があった。聞得大君御殿は首里汀志良次(てぃしらじ)にある。これは琉球各地にある祝女殿内(ぬんどぅんち)と呼ばれる末社を支配した。この聞得大君(キコエオオキミ)は、琉球國の高級神女三十三君の頂点に君臨する最高神女で、その地位は国王の次に位置し、前・元王妃など王族女性から選ばれて任に就いた。聞得大君は御殿の神体「御スジ」、「御火鉢」、「金之美御スジ」の三御前に仕える。そして国家安泰、海路安全、五穀豊穣を祈願する。
  陰陽寮博士を継ぐ富造は、こうした琉球神道を密かに調査していた。







「 安浦の気は、紫煙のごとく、いまもって、あえかに揺れて天弓(てんきゅう)を張ることはあるのか! 」
  バゲージクレームで手荷物を引き取ると、比江島修治はまず那覇空港の外に出た。
  そして何よりも最初に琉球の青空をジッとみ上げた。
  比江島修治は、この沖縄の大空にいて、東京という世界最大のメガシティーが創り上げた常識の正面を切りたかった。
  その常識の正面とは何か。有能な科学者であれ政治家であれ、常識の誤算や誤謬は、第1に人の行動を自分が知っているインセンティブでしか理解しないことに現れ、第2に個人と集団の動きを一緒くたにしてしまい、第3に出来事を歴史から学ぼうとはしなくなることで、人間がこれを実在させている。皮肉にもそういうふうになるということが常識の正面にある。
 つまりは、多くの常識に「合理」があると思いこむのは、とてつもなく危険なのである。常識の正面にその危険性があった。
  空は翡翠(ひすい)のごとく透けている。修治はそこに秋一郎と富造の親子影を泛かばせた。こゝは「青い煙(けぶり)の国」と、阿部家伝にいう畏(おそれ)あがめる美称でもあるからだ。しかし修治の想定においては、それらはすでに新しく塗られ今や形骸(けいがい)とみた。それはそうだろう。核爆弾の投下という渾身絶大な発想はアメリカ人の想像力の核心をなしている。沖縄は被爆地ではないが、しかし全ては一連としてそこに回帰して連なってくる。沖縄とは有事一番、いつでも核発射体制下の現状にある。
「 ワイヤットとビリーは、金をタンク内に隠し、カリフォルニアからマルディグラ(謝肉祭)の行われるニューオリンズを目指して旅に出た 」
  これはアメリカ映画「イージー・ライダー(Easy Rider)1969年公開」の場面だ。ピーター・フォンダとデニス・ホッパーによるアメリカン・ニューシネマの代表作である。第42回アカデミー賞で助演男優賞と脚本賞にノミネートされた。
  しかしこうした大戦後のアメリカン・カラーだって、もともとは黒人が見せた矜持から生まれたと言うべきなのである。琉球人のアニミスティックな文化の中心で大事にされていた「イトゥトゥ」という価値感覚とこれは同じだ。アメリカは戦勝国だからこれを引き出せた。
「 登場するバイクは、1965年型ハーレー・ダビッドソンでエンジンはパンヘッドと呼ばれるタイプ、排気量は1200ccである。リアはリジットでサスペンションが無い。ワイアットが乗っているチョッパーは、前輪ブレーキが装備されていない。そして演出の小道具として登場していたマリファナ、これは本物を使用していた。・・・たゞ、それだけのこと・・・・・ 」 
  アメリカでは、それだけのこと。だが日本では、それだけでは終わらない。映画内だけの事件では済まなかった。70年の安保闘争の最中に公開されたこの映画の本質は、大津波のごとく日本の青年層に到達した。
「 ベトナム戦争は宣戦布告なき戦争であるため、摩訶不思議な開戦となり、終戦のない摩訶不思議な大戦となった・・・ 」
  この戦争はアメリカを盟主とする資本主義陣営と、ソビエト連邦を盟主とする共産主義陣営との対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」であった。ホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国(北ベトナム)側は、南ベトナムをアメリカ合衆国の傀儡国家と規定し、ベトナム人によるベトナム統一国家の建国を求めるナショナリズムに基づく植民地解放戦争であるとする。
  ベトナム戦争をめぐっては、世界各国で大規模な反戦運動が発生し社会に大きな影響を与えた。1973年のパリ協定を経てリチャード・ニクソン大統領は派遣したアメリカ軍を撤退させた。だが、その後も北ベトナム(南ベトナム解放民族戦線)と、南ベトナムとの戦闘は続き、1975年4月30日のサイゴン陥落によって一応ベトナム戦争は終戦したとする。
  アメリカは、ジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジアでの台頭(ドミノ理論)を恐れ、フランスの傀儡政権だったベトナム国を17度線の南に存続させ、これでベトナムは朝鮮半島やドイツと同様、分断国家となった。
「 この時代にアメリカから世界に台頭して見せたイージー・ライダーとは、背景に重要な本質を持つ・・・・・ 」







  つまりこれはクレオールなのだ。戦後、日本も沖縄も、このクレオール化(混交現象社会)に染められた。またこれは次世代へと隔世遺伝する。これが21世紀の日本なのだ。沖縄は、そうした国内最初のクレオール教化の標的とされる。あるいはお手本の殉教者化にされた。そうしてクレオール的に白人と混合化された沖縄は、差別と極貧を縫うように、ひどく貪欲にされたのだ。これを映像としていうのなら、あの学生運動の世間や権力に対する苛立つ反感のあらわし方を、彼らが沖縄に見せたときだった。挿入された音楽は全米2位となったステッペンウルフの「Born To Be Wild(ワイルドで行こう)」、バーズやジミ・ヘンドリックスの楽曲などを用いたが、当時、日本の若者はキャプテン・アメリカ流のこの曲で心身を混合流動としてスイングさせた。
  映画のあら筋は、メキシコからロサンゼルスへのコカインの密輸で大金を得たワイアット(キャプテン・アメリカ)とビリーは、金をフルカスタムされたハーレー・ダビッドソンのタンク内に隠し、カリフォルニアからニューオリンズ目指して旅に出る。途中、農夫の家でランチをご馳走になったり、ヒッチハイクをしていたヒッピーを拾って、彼らのコミューンへ立ち寄ったりと気ままな旅を続ける2人。しかし旅の途中、無許可で祭りのパレードに参加したことを咎められ留置場に入れられる。しかし、そこで2人は弁護士ハンセンと出会い、意気投合する。そして、ハンセンの口利きで釈放された2人は、ハンセンと共にニューオリンズに向けての旅を続ける。だが「自由」を体現する彼らは行く先々で沿道の人々の思わぬ拒絶に遭い、ついには殺伐としたアメリカの現実に直面する。
「 アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気だ。個人の自由についてはいくらでもしゃべるが、自由な奴を見るのは怖いんだ・・・・・ 」
  と、ジャック・ニコルソン演じるアル中のドロップ・アウト弁護士は、映画の中でこう言っている。20世紀のこのセリフ、まさに21世紀初めのアメリカにぴったりの言葉だ。さらにこの映画の製作には、正式なカメラマンとして、当時その才能を認められようとしていたラズロ・コバックスが参加した。ラズロ・コバックスは、ハンガリーから政治亡命してきたカメラマン。それも、ハンガリーの民主化を収めるためにソ連が軍隊を侵攻させたハンガリー動乱を記録フィルムに残すため命がけで撮影を敢行し、それを国外に持ち出した人物である。そのためか、2台のバイクがさっそうと走る姿も実はかなり計算されている。「古いぶどう酒は古い革袋に、新しいぶどう酒は新しい革袋に」そう言ったのはイエス・キリストだが、神は新しい映画のために新しい男(ラズロ・コバックス)を用意した。
  映画のラスト・シーンは、それまでのアメリカ映画にみられた既成のインパクトではなかった。どうにも「説明できない静かな怒り」を日本の若者の心に植え付けた。そして、その「静かな怒り」は未だ沖縄の心の中に潜みながら続いている。そうでなければ、こうして今、比江島修治が沖縄の青空に重ねながら古いアメリカ映画など映すはずがない。そして修治は、この映画が世界的に大ヒットしなかったならば、日本復帰後も、なお前線基地機能を担い続ける沖縄の歪(いびつ)さは生まれていないような気が改めてした。
  映画の主人公は保守的な風土の土地、南部へと深く入って行く。しかし、そんな彼らに対する偏見に満ちた周りの目は次第に厳しさをまして行く。そしてついに彼らの旅は悲劇的な結末を迎えた。まさにこの主人公が未だ開放されない「沖縄」なのである。
  戦前までの沖縄は、日本の中においても特性のある「琉球として日本の亜種」を保ち続けていた。これを打ち砕くかに亜種の存在を消滅させようとするものは、戦後の日本政府が執り続けてきた「亜種への無理解」という、まことに野蛮な未開の文化意識だったのだ。亜種であり続けることの価値が東京には分からないままにきた。したがって現在の東京が、アジアの亜種として蘇ることは永遠にない。国際化を進化させようとする時代に、亜種であることは、亜種として見られることは、最低限必須の品格アイテムとなる。亜種として認められることが次世代の牽引力であり、次世代を開く国力なのだ。そうでなければ日本国そのもが無国籍となる。




「 どうせ旦那が旅に出るのなら、ボケとツッコミよろしく、奔放なノリでロール交換しながらの丁々発止が、修治自体のリテラルテイストを軽快にしてくれるのではないかと思うわ。過去の時間は、その当時の口調のまま(プチサマリー)してはくれないけれど、実際のテイストは現物本を手にとってもらうしかないわね。女の私でも内心では、過去形の寸鉄が肌を刺して心地よくて、いまだ沖縄はリアリティーだから、きっと修治には、現代の踏み堪え現象がいろいろ参考にななると思うの。公判中の最終弁論が控えてなければ、私は旦那にくっ付いて行きたいほどよ。だけどオスプレイのプロペラは欧州の風車より強靭よ!。与論島の南海岸にでも旦那が分解されて流れつかないといいね・・・ 」
  と、真剣に冗談を語る沙樹子とは、なるほど関西の京都育ちらしくある女性で、その余計な一言が旅立つ修治を楽しいパロディ-として送り出してくれていた。そんな沙樹子はまた「 あなたの旅は、きっと脱力するほどベタな構図だと思うけど、むしろそれが意外なほど楽しくさせる旅になるのかもね 」と、何とも奥深い笑みを湛えていた。この言葉が、現在はまったく面影もない琉球を虹色に染めながら脳内散歩でもさせてくれるようで、機上にいて修治は時間を持て余すこともなく、現世を離脱して過去に急ぐ空想に癒された。
「 それにしても、グレート・ダイバージェンスなどという語り草は、いささか西洋人のインチキくさい詭弁じゃないか・・・・・ 」
  地球上に人間という動物はこれまで累計1,060億人ほど誕生した。現在その6%が地球上に生活する。そしてそのうちの60%がアジアに住み、多くがとても貧困で寿命が短い。1京6,000兆円相当の富が存在するが、この大部分が西暦1800年以降に生み出され、そしてその2/3を欧米人が保有する。現代の経済学者は、これをグレート・ダイバージェンス(大いなる格差)と呼ぶ。しかし修治には、これが正解だとは思えないのだ。歴史には莫大な詭弁がある。詭弁を錬金術で施し金色の言葉を産み落としてきた。
「 たしかに西暦2000年の時点で、イギリス人はインド人の10倍の富を持ち、アメリカ人は中国人の20倍の富を持つ 。しかし西暦1500年頃はその逆で、インド人や中国人の方が欧州人よりも遥かに裕福であったはずだ。彼らは西暦1800年で線引きして、その前後での経済格差を(グレート)だという。これはたゞ、彼ら西洋が起こした産業革命を自慢しているだけではないか。陶酔して鼻高々にグレートとは、それこそが岡目八目だ。陶酔のうぬぼれが、いつまで続くことやら・・・・・ 」
  帝国主義が欧米諸国を強くしたと考える学者もいるが、これなど大間違いで相当な阿呆である。帝国主義であれば、それこそ中国やイスラム圏の国々の方がよほど歴史がある。また、地理的な条件や、資源の有無と考える学者もいるが、それも全くもって関係ない。東ドイツはトラバントを開発した一方で、西ドイツはベンツを開発した。朝鮮半島の違いは今更言うまでもない。このような下らない歴史的な実験や考察がなされる前から、すべての答えを述べている人物がいた。
「 それは「国富論」の著者、アダム・スミスである。彼は国が富むためには、6つの条件が必ず必要であると説いた 」
  その一つ目は「競争」なのだ。ロンドンには会社の原型となる組織が多数存在したが、中国には皇帝と官僚の支配が中心であった。
  二つ目は「科学的な革命」だ。西洋にはニュートンなどの天才による科学的な大発見があり、またそれを応用する学者がいた。ベンジャミン・ロビンは、ニュートン物理学を応用し正確な砲術を開発したが、東洋ではこのような進歩は見られなかった。
  三つ目は「財産権」なのだ。個人が土地や財産を保有することを認めるかどうかで、北アメリカは南アメリカと戦争をして、北アメリカが勝利した。一方で南米ではコンキスタドールの末裔しか土地の所有が認められていなかった。
  四つ目は「医学」だ。19世紀以降、西洋医学は発展し、人間の寿命を飛躍的に延ばした。セネガルでは20世紀初頭に公衆衛生を高める施策を行い、平均寿命が20歳も伸びた。
  五つ目は「消費者集団」なのだ。産業革命が起きても、製品を買う集団がいなくては発展しない。西洋以外では日本で初めて消費者集団が誕生し、自分の買いたい物を買うという欲求が満たされた。
  最後の六つ目は「労働の倫理」だ。マックス・ヴェーバーはプロテスタントに特有のものと誤解をしていたが(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)、労働が報われる制度があれば、どこにでも労働倫理は生まれる。平均的な韓国人はドイツ人よりも1,000時間多く働いている。おおまかにして、この六つの条件を満たして世界の経済格差は生まれたのだ。
「 それを産業革命期のみを基準として、以後の格差をグレート呼ばわりするのは、学者さん達、チョイと烏滸(おこ)がましいのではないか 」
  日本は岡目八目という囲碁に手習って蓄えた仕分け能力がある。これは戦略の嗜みでもある。西欧本位に見境もなく述べたその西洋と東洋のグレート・ダイバージェンスとやらは、今日、かつてないスピードで縮小へ向かっているのだ。例えばアイホーン(iPhone)は米国人がつくったものだが、iPhoneに使われている特許は日本が24万件保有し、世界第二位のアメリカの15万件を圧倒する。中国はまだ数万件しかないが、それでもドイツよりは多い。何よりも東洋が急速に西洋との差を埋めてきている理由は、スミス国富論のいう6つのキラーアプリがオープンソースであることが大きい。まるでスマホでアプリをダウンロードするかのごとく、東洋の国々はお手軽に国富論の6つの条件を組み込み、1500年頃から付けられた差を埋めてしまおうとしていることだ。
「 2000年時点から東西の格差は再び転向し始めた。東の逆転劇がやがて上演となる・・・・・ 」
  2000年時点で中国人より20倍豊かであったアメリカ人は、現在では5倍、中国が世界一のGDPとなる2016年には2.5倍まで縮小する予定である。そこにきて差を埋められた西洋が今後どのような道を歩むのかは、未だ未来に人間の歴史がないため誰にも分からない。神のみぞ知るということは、西洋の財政規律と労働倫理はすでに弱体化しているが、その他のすべてのアプリが動かなくなる程の致命的な欠陥となるかどうかは人間である比江島修治には断言はできない。
「 ただ、一つ言えることは、沖縄の人々は、毛唐のあざ笑うグレート・ダイバージェンスが終焉する時代に生きている、ということである 」
  那覇空港から国際通りへと向かい小さなモビルスーツに武装したライトグレーの、琉球本来の風土色を見失った歯がゆさを感じさせる、ゆいレールに揺らされつつ修治は、間も無く訪れる東西間格差の終焉による逆転期に、沖縄が本来の希望あふれる社会と縁が深まり、蘇る琉球のそこで日本の戦後を終わらせてくれることを胸に温めながら、妻沙樹子が連なる安倍家の先祖達が眺めたであろう琉球の空と海の青さに、代々が伝えてきた豊かに湧き立つ五色の虹のことを静かに想っていた。






「 あゝ、これが漫湖(まんこ)なのだ・・・・・ 」
  流れないマングローブの赤泥(あかどろ)の干川(ほしかわ)を、ゆいレールに揺らされつゝ左右の車窓にみた。
  それは粘着質の流体による貧乏アトラクション河川。修治はながめていて、このまま土に埋もれて息絶えるかと思った。乾いたマングローブの日向くさいところに顔を寄せたりしたくなる。流れない泥の上に「うちな~カンプー」の女人が坐っているように見えたりもする。しかしこの光景には強く見つめると逆に、現代の沖縄意識がおぞましすぎて、傍観者でいると罰でも当てられるように虫酸が走る。修治はその琉球と沖縄との一体映像が混合的で、クレオール化されたカット割りとモンタージュの巧さとの美妙なアメリカらしさに、あらためて舌を巻くほどの焦がし尽くされた風土をみせつけられた。
「 やはりこれは、僕も一傍観者に過ぎぬのかも知れぬ・・・・・ 」
  私には戦時の素養がないからなのかもしれないけど、自分にとってさほど興味がない琉球人の人生に、なぜこれほどその哀しさに詳しくならなきゃならないんだという嫌な鏡に映し出された思いが、空中の砂を掴むごとくする。固く掴もうとしていたのだが、修治の砂はサラサラと落ちた。干し川の赤泥には、想像以上に、日本の本土決戦の流血に加え、さらにベトナム戦線の流血までもが練りこまれていたのだ。
  こうして修治は壺川(つぼがわ)駅で降りた。

  唐船(とうしん)ドーイさんてーまん
  いっさん走(は)えーならんしやユーイヤナ
  若狭町村(わかさまちむら)ぬサー瀬名波しなほぬタンメー
  ハイヤ センスル ユイヤナ (イヤッサッサッサ)

  壺川駅には「唐船(とうしん)ド―イ」の唄がある。復員後に富造はこの唄をよく口荒くちすさんでいた。
「 まもなく壺川、壺川駅に到着します・・・・・ 」
  修治は、たゞ、この到着予告チャイムを聴くためにだけ駅のホームへと降りてみた。
  これは琉球民謡の代表的なカチャーシー、三線(さんしん)の速弾き曲、エイサーではトリの定番で祝い歌の一つである。
  唐船ドーイは、琉球王朝時代に中国からの交易船(船が来たぞ~!)と歓喜する表情に溢れる。富造のみた青空には未だこの唐船ド―イの長閑のどかな風景があった。
  しかし、ウォルマートやナイキやマイクロソフトが亜流のアメリカをむしゃむしゃ食べ始めたことは、いつのまにか新しいアメリカ文化が琉球の光景を無分別にぶんどったことをあらわしている。
  ヒップホップのバギーパンツとナイキのシューズは沖縄風コモディティの凱歌となり、マルチウィンドウとマウスのあいだのPCインターフェースは、その後の電子商品が市場と世間を独占することの予告だったのである。こうなってくると、沖縄は21世紀アメリカ資本主義の最も気軽な自由主義の地域なのであり、最も商業的・戦略的な相互扶助的お友達だということになる。そして沖縄の人はすでにその市場と商品の係数になっていった。さらに、これはおよそ日本政府に何事の準備もできない茶番のようなものだった。さらにさらに、永田町と霞ヶ関はそういうことはいっこうに居留守にしたかったのである。日本の政府や官僚の居留守能力は世界的に高レベルなのだ。
 修治には、唐船ドーイの哀愁が、赤声で喚(わめ)きつつ日本のドアを叩き続ける呼び鈴に聞こえた。










                                      

                        
       



 イージー・ライダー(原題:Easy Rider)1969年公開のアメリカ映画。






ジャスト・ロード・ワン  No.2

2013-09-02 | 小説








 

      
                            






                     




    )  死 角  Shikaku


  東京は世界最大の都市だ。
  神奈川・千葉など周辺各県を合わせた首都圏(人口約3500万人)として世界最大である。
  この規模は2000万人台のインド・デリー、メキシコ市、ニューヨークを大きく引き離している。しかしこれを裏返せば、東京とは世界で最も人口密度の高い最悪の都市だといえる。現代は、希望するならば国境を気にせずに、自由に住む場所を選べる。今や世界規模で、どこに住むかを考えるのは極普通のことになった。東京は内心忸怩(じくじ)たる思いになっているはずだ。
  関東大震災時の東京圏は人口600万人。震災で一度リセットされた以後、東京は現在まで約6倍近くにまで膨張した。
  現代にいたる東京の人口は、1939年1(昭和14)に700万人を超え、全人口の約1割に及んでいる。ところが、1945年(昭和20)年には、350万人に満たない所まで減少する。これは、言うまでもなく、米軍の爆撃による。もちろん、原因は直接的な虐殺だけではなく、疎開や、社会の混乱による数値の不確実などもあるだろう。それにしても、極端だ。米軍機およびB29は効率を考えて、人が多くいそうなところを集中的に攻撃した。焼夷弾は、日本家屋がよく燃えるように開発されたわけだ。
  そして終戦から10年後の1955年(昭和30)には、都民は800万人を超えてくる。この時点は、すでに戦前の人口を上回っている。中には戦地や外地・疎開先などから戻ってきた人もいるだろうが、それらが一段落付いた。さらにその後は、他地域を圧倒的に上回る速度で増え続けてきた。これが東京という世界最大の目をまるくして凝視したくなるメガシティーである。
「 問題は、この東京から(世界がどう見える化)、日本と東京は(どう見られる化)なのだ・・・・・! 」
  電話がネズミの長いシッポのような黒い紐で結ばれた時代に、その紐を断ち切って現れたソーシャル・ネッワーク・サービスがあるが、その元祖は、スタンフォード大学の卒業生が始めたフレンドスターだった。やがて雨後のタケノコのように類似ソフトや類似サービスが試みられて、社会を「どう見せる化、どう見られるの化。いかに人脈の見える化」が進んだ。その後発の、またその後発として数年前に大当たりしたのが、親指を立ててチョイスするフェイスブックである。特に東京のような人口の密集する都市社会では、実は自分の趣向や好みに応じた人脈はできにくい。メガシティーの人間たちがあまりに細かく枝分かれ、重なりあっているため、気持ちの交換や交流といった人の出会いを縁遠くする。異なった点の稠密な集合から似たものどうしの点をつなぐ線を発見するのが、ややこしく難しいのだ。そこでフェイスブックが大当たりした。
  この顔の本棚の人気は、都市ではつながりのための「もうひとつの場」が必要なのことを物語る。しかし比江島修治には、この新たなヒューマン・キャピタルになってくる交流の機会化が危うく見透かされるのだ。もうひとつの場の需要は、人を破綻させようとするほどの高速都市機能が人を片隅へと押しやる反動から生まれた。果たしてこれが人に正当な需要なのか。修治は一つ二つ東京から距離を置こううとした。




  19世紀の半ば、青い雲の通りに生まれ、パリの聖ドミニク通りで没した男がいる。昨夜の比江島修治は、その男がロンドンで描いた画集書を食い入るようにながめていた。またそこに日本が近代化に邁進する明治初期を重ねていた。
  ギュスターヴ・ドレが描いたのは、産業革命、その始まりのロンドン風景である。それは国民国家と産業化社会という二つの新型エンジンによって駆動する近代装置車の往来する表通りと路地裏であった。しかもドレは、その背後に始まった近代資本主義社会までに絵筆をあてた。
「 マルクスは資本論を著し、ドレはロンドンの貧富の差を描いた・・・・・ 」
  この二人は同じ年に没したのだ。修治は妙に因縁めくも、無国籍者の影に一抹の虚しさがあった。
  修治が書斎の照明を二色光に落とすと、閉じたドレの画集の奥より明治初期の日本人達が歩きはじめた。かつて福沢諭吉はソサエティを「人間交際」と訳したものだが、社会という言葉に未だ馴染みの薄い明治大衆の耳に対し、社交界を刷り込むこれこそが社交的にして実にうまい翻訳だ。それに倣えば最近のソーシャルこそ「社交的」と訳すのがいいかもしれない。この一例にして福沢を平成の世の社会にも歩かせて見たくなる。内政を重視した戦後の日本社会は、世界社会との正しい交流を縁遠くさせた。自宅を出て八幡坂の細い階段を下りる比江島修治はそう感じると、そのせいか8月末の汗ばむ無風さに少し息苦しさを覚えた。
  ドレがロンドンにいたのは彼の故郷・アルザスがドイツの支配下に入ったからだ。
  彼はそのロンドンで、産業革命の始まる風景として、蒸気船、ガラス工場、通勤列車など新時代を告げる新しい文明の道具を描いている。そしてテムズ河畔で大量の荷揚げをする労働者達、大漁のニシンやタラ、船着場で働く人々、夜のドックの活気など、まさに新時代の萌芽をリアルに動画させるごとく紙や布の画面に立ち上げた。ダービーに熱狂する大衆の声も聞こえてくるようだ。だがその反面で、花や、オレンジや、マッチや、ボロやガラクタを売る最下層の人々の生活をリアルに描き上げた。
「 そのドレの描いたロンドンに、留学の夏目漱石は27~8年遅れてやってきた・・・・・ 」
  漱石である夏目金之助は鏡子と結婚をするが、3年目に妻鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。この折りに彼は、英国留学を命じられた。
  漱石は化学者の池田菊苗と2か月間同居することで、新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。
  その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送るなどしたため、それを土井晩翠によれば、下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥ることになる。
  そして9月に芳賀矢一らが訪れた際に「 早めて帰国させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか 」と話が出て、そのためか漱石発狂という噂が文部省内に流れた。このため漱石は急遽帰国を命じられ、1902年12月5日にロンドンを発つことになった。
  修治が閉じたドレのロンドン画集から、発狂寸前の漱石が暮らしたロンドンの蠢きが現れてきた。
  100年も前の、それは、うつ病者・漱石の姿であった。この姿を100年後のうつ病者である修治が思い重ねるのは、それは比江島修治にとって一つの事件であった。そこには漱石が、ドレが描いた産業革命時の風景を歩いた、その果の発症であることが一つある。また二つは、ドレには「法廷から退場するキリスト(1872)」という作品があるのだが、この「退場する」としたドレの設定意識において、何か精神性の綻びと崩壊という暗示の事件性を感じるのだ。場面は、これよりゴルゴダの坂を上がるキリストの描写である。この救世主は、妙にポジティブではないか。そう、当時のイギリス聖書は奇妙に積極的なのだ。そしてその一連の事件を修治は不安に引き出しつつ、危うげに帰国する漱石の後ろ姿を眼に重ねながら、しばしばする眼を擦りつつ修治はそのまま浅い眠りについた。






  一夜の夢か現実かの連想をふと思いおこした修治は、今宮神社の角を右手に曲がり目白坂下の交差まで出ると一度自宅の方へ振り向いた。ギュスターヴ・ドレは、イギリス・ドイツ・ロシアの書籍にも挿絵を描いた。クリミア戦争の際には著者兼イラストレーターとして、フランスとイギリスが戦端を開いたロシア攻撃を風刺した『神聖ロシア帝国の歴史』を著している。
  そして彼には、ドレの絵で読ませる「ドン・キホーテ」の挿絵があった。
  ソーシャル・ネッワーク・サービスの出現は、異なった情報をユニバーサルに扱うのではなく、マルチバーサルに扱っている。そのうえでそこから必要な「引っ張り出し」をつくろうとしているSNSの方法は、(そうか、そうか、ああすれば成功するのか)という、ひとつの一例だった。しかしこの「マルチバーサル的引っ張り出し」によって新たなソーシャルという「つなぎ」や「絆」が結ばれていくには、それなりに適切な社会的のエディティング・フィルターが考案される必要があるのだ。
  修治は自宅の方を振り向くと、数週間前から妻沙樹子が切り抜いて青いファイルに収めた探査衛星の情報を思い出した。
  青いファイルに収めた最新の、そのエディティング・フィルターにあたるものは必ずや現代科学の「アテンション(注意・注目)」によって何かの現代的誤算が起こるだろうと二人して見抜いたのだ。青いファイルはそのスクラップであった。
「 あれは、果たして自然界や自他に、負荷がかからない程度に人間が使いこなせるモノなのか・・・・・? 」
  音羽の高台にある小日向は都内では案外、天体との距離感を手近にさせて宇宙の神秘に触れさせてくれる。京都から嫁いできた妻沙樹子との縁もあって、修治の天体への関心はより深まってきた。沙樹子の旧姓は、あの京都の阿部である。その陰陽寮博士の末裔を引くことから、修治も天体がさせる焦げ臭さなどの異臭に敏感で、しだいにそう慣らされてきた。
  ドン・キホーテ(Don Quijote)は、欧州宇宙機関が開発する探査機計画の名称である。この計画は、宇宙機を小惑星にぶつけ、地球に向かう小惑星の軌道を変えることができるか否かを検証することを目的とする。そのオービタは7年間保つように設計されているという。計画では打上げを2013年か2015年の目標としていた。
  そのミッションは、直径500m程の小さい小惑星上で作戦を実行する2機の宇宙機で構成される。
  1機目の宇宙機サンチョ(Sancho)は、標的となる小惑星に到達すると、数ヶ月の間周囲を回り、観測する。そしてその数か月後、2機目の宇宙機ヒダルゴ(Hidalgo)が衝突軌道を通って小惑星に向かう。このときサンチョは安全な距離に避難し、ヒデルゴは10km/sの速度で小惑星と衝突する。さらにその後、サンチョは接近軌道に戻り、小惑星の形、内部構造、軌道、自転が衝突によってどのように影響を受けているかを調査するのだ。またサンチョは「Autonomous Surface Package」を放出する。このPackageは2時間で小惑星に着陸し、衝突でできたクレーターの内部で、小惑星表面の特性を調査するのだという。
  こうしたこのミッション計画は、スペインの小説家ミゲル・デ・セルバンテスが著した小説『ドン・キホーテ』の主人公で、風車を巨人と間違えて立ち向かった騎士の名前にちなんでいる。ドン・キホーテのように、宇宙機ヒダルゴは、自身よりずっと大きな天体にぶつかっていく。また「サンチョ」は、ドン・キホーテの従者サンチョ・パンサの名前に由来する。彼は後方に留まり、安全な場所から眺めるのを好んだが、その性格は、この宇宙機に課せられた役割に一致している。だがこの意向は、セルバンテスの理念上、互いの合意(mutual consent)を得るものではない。
「 これは、いかにも人文に目を向けようとはしない、科学者のしでかしそうな宇宙開発の大事件だ 」
  欧州の科学者らはアーレント的に、そのフィルターがそもそもアテンションの交差による効能だと見たわけである。どうやら科学者間の意識では、それが地上におけるソーシャル・メディアの社会的ではない「宇宙的ソーシャル」という特色のようだ。だが、こうして気がつけばSNS時代がすでに宇宙規模の末恐ろしい人間社会になってきたわけで、欧州宇宙機構は2つのシナリオを用意しているという。だが、そのアテンションの交差の記録がすべからくデシタルデータであるから消えないものいう保証など何一つない。また、かのセルバンテスなら、その交差の「天意を軽んじる宇宙開発における生きざま」の大半を測定可能なものとさせるはずもない。
  修治が胸に収めているドン・キホーテは、毎晩そこを仮面の大槍で突いてきた。
  日本国にはセルバンテスの創作意欲を旺盛に掻き立てる死角が彼を気狂いさせるほど存在する。




「 ブレイクスルーするために、ブレイクアウトするのだ!。現代の風車がどれほど固いものか試してやる・・・・・ 」
  と、妻沙樹子の顔をジロリとみた。
「 やはり、貴方のサイコロの目は、ドン・キホーテ、そうなっていましたか・・・・・ 」
  修治はそういって微笑む彼女の仕種をたしかめてから音羽の家を出た。
「 まだこの世で二人が生まれない前の、深い深い縄文の森のなかで(宿命)と(偶然)とがサイコロをふって勝負をきめたことがある 」
  修治は20年前、こう日記の冒頭に書いている。沙樹子はこの日記のことを知っていた。
  しかし、日記の一行は、その先が昨夜まで書かれることはなかった。
  修治は日記を付け始めようとしたのではない。降り出したサイコロが修治をどう転ばすのかが気になっていたからだ。賽の目の判定は修治の将来である。この一日限りの尻切れトンボ日記に、将来のサイコロを振り出してみた。そして今転んだのだ、と現在までを書き留めていた。
  そして六面体のそこに、6つの将来があり、その選択肢が空白であった。
  日頃から何かと女房を巻き込む自身の能力には気づいていた。そして愛妻に笑顔で送り出されて、それがやはり穏やかな能力ではないことに改めて気づいている。「 できない理由より、できる方法を・・・・・ 」と、いつも沙樹子は旦那の背を押してくれていた。そして「 沖縄の人々が想像もできない言葉がいつかきっと飛び出すはず。沖縄は今、その言葉を聞き耳を立て待っています 」といい、家内の現実など彼方に放り投げたかのようにクスリと笑ったのだ。
  この、わずか10分ほど前の軽快かつ晴れ晴れとした記憶が、今、沖縄に正しい認識を呼び込む修治の期待感につながっている。少子高齢化と称されて久しいが、人口減少が避けられない地域では、正しい割合での人口減を目指す取り組みが重要だ。放置すれば転入者が転出者を上回ることはない。そう考える修治は、ふと想い起こしたように眼差しを童心に返した。
「 僕の原点は、あの薩摩の風土にある・・・・・ 」
  冬になると村に一軒しかない豆腐屋の店先に猟銃で射殺されたイノシシが並んだ。
  村唯一のこの豆腐屋は雑貨店も兼ねていた。
  つまり小さな万事屋(よろずや)が、ぽつりと一軒。しかし、それでも明治創業の村一番の老舗であった。
  真っ暗な未明では大豆を煮茹でするエントツの煙など見えない。だが、黒光りした欅材の柱時計が五ツ鳴らす朝まだきには、毎日きまって豆腐を仕上げるため、すでに真夜中から赤々と電灯が点いていた。そして固い木綿豆腐が仕上がる夜明け前には、毎朝必ず1台の錆びた3輪トラックが店先に横づけする。この豆腐屋は南日本酪農の牛乳や乳製品、ヤクルト、南日本新聞などの各種新聞を取次いで販売した。
「 たしか、小瓶が5銭、大瓶が1円。ヤクルトの稼ぎは・・・・・ 」
  店先の暗がりでトラックの荷下ろし待ち構えている修治5歳は、荷下ろしを手伝い、手際よく配達先ごとに仕分け終えると宅配にでる。右肩に牛乳瓶を入れたバック、左肩にヤクルト瓶を入れたバック、二つのショルダーバックを両肩にかけ、背中には新聞を入れたリュックサックを背負い、徒歩で、てくてくと歩きながら宅配した。雨の日もあれば、台風、北風の日もある。一軒は、山の頂きにぽっんとあった。また一軒は、小川の向こうに孤立してある。さらに一軒は、大きな池の向こう岸にポツリとあった。こうしてわずか30の得意先を回るのに約1時間半かかる。
  修治はこのアルバイトを5年間続けた。
  そして修治が空き瓶を回収して店先に帰ると、作られた豆腐は完売し、一丁だけ金ボールに入れて残されている。
「 僕は、あの一丁を毎朝貰って、母さんに届けた・・・・・ 」
  豆腐代は新聞配達料金で相殺された。手に残る毎月のアルバイト料はわずかなモノであった。
  豆腐が品切れた店の午前中は、鮮魚、精肉、生花などの生モノが配送され、午後は乾物、文具、生活雑貨などが運送されてくる。毎日、一品二品の品数で配送される品々は、前日までに村人から予約を受けたものばかりだ。
「 すぐ買おうにも、他の店となると2~3キロ先、大衆車の普及前のことであった・・・・・ 」
  こうして大半の集落では一軒の店で賄っていた。当時、こうした集落共同体の生活システムがあった。
  近所には保育園も学校もない。無論、郵便局、銀行、役場、派出所もなかった。修治の記憶では小学校まで約6キロ、児童の足で1時間ほど歩いた。道草の楽しい帰り道は3時間もかかるが、そうした道々が絶好の遊び場となる。そして遊び疲れて帰宅するころに日没となる。何しろバスに乗るにも最寄りのバス停まで5キロほどはあった。汽車に乗るには駅が7キロ先となる。
  何ともいえない孤絶感、寝静まった夜中の気配といったことが好きで、とは対岸の火事をみていう都会派生活者の甘言、現実に暮らして体験してみないと分からないが、田舎の自然とは全く怖いもので、人と人とが寄り添って暮らさないと生命を保てないのが田舎暮らしである。夜の自然は魔界かと思うほど恐怖だが、しかし人肌の見守る昼間の自然は、これが実に温かい。
  そして村人はその昼間の自然から収穫を得る。この自然を保全し続けるのには利便性を排除する知恵も生まれた。山里らしく保全されないと、山里の特性に還元される恵みの日々を送れない。そのためには不便さは厭わない。360度振り回しても市場社会のブラックホールとは100%無縁、薩摩の宮之城とはそんな竹林に埋もれた侘しい山合いの集落なのだ。
  10歳まで比江島修治はその宮之城のさらに奥地、折小野の山中で育った。
  神田川を渡る首都高速5号の下、目の前にメトロ江戸川橋駅の1a番入出口がある。
  比江島修治が目線を向けたときその入出口に立つ男の胸がピカリと輝いた。擦れ違いざまにみると、男は襟元に金色の紀章を取付けている。ひまりの花弁、弁護士バッチである。弁護士は普段から仕事と結びつかない時間帯にはバッチを取り外すもので、取付けていたろころをみると今から仕事にでも向かうのであろう。妻沙樹子が弁護士であるからピンときた。
「 少し銀色に燻されていたが・・・・・ 」
  使い込まれるとメッキは剥げて地金の銀が見えてくる。これは純銀製で金メッキの弁護士紀章なのだ。本人の希望により純金製のものが交付されるが、紀章は身分証も兼ねるし、裁判所など帯用する弁護士記章の番号を示さなければならないため、純金製を希望する弁護士は多い。しかし沙樹子のは純銀製、弁護に装飾など無用なのだと無頓着だ。そのためか修治は男のバッチの使い込まれようをみて少し嬉しくなった。
  1960年代、村に一台しかなかった村長宅のテレビは白黒で、『ペリーメイスン』の中の刑事事件専門の中年弁護士が颯爽と活躍するアメリカの都会は、児童の眼にも輝いてみえ村長宅まで約1キロの往復も苦にはならない。メイスン弁護士は肩幅は広く、顔はいかつく、太い眉に、するどい眼光で、ひたすら真実を追究しているのだが、毎週変わる大都会の風景は、太陽も、街角も、学校も、百貨店も、夜の盛り場も、車や家具の色までも全て、きっとカラフルなんだろうなと想像していた。そして自由の女神もきっと金色だと信じていた。
  縁戚を頼った両親の疎開先が高塚山を南に越えた50軒ほどがまばらにある山村であった。比江島家は東京から疎開したのだが、昭和20年の正月を過ぎると都内の大半は疎開先へと移り、国内いたるところで大混乱の疎開移動と疎開先探しの戦局となった。






「 ニッポンがいくら本気でも、日本は常に世界から試されている・・・ 」
  メトロ江戸川橋駅のホームで列車を待つ修治は、逆方向に流れる車窓の暗い斑な連なりにそう感じていた。
  日本には、いささか神秘主義のコクと香りが漂っていたのではないか。日本の戦後における復興の結論は「公」でも「私」でもなく、その両方である「共」をめざすというものだった。これはプロパガンダとして伝達が難しい。告知を飲物に例えると、抹茶をブラックコーヒーで割り、そこに醤油とソースを垂らし、さらにコーンを入れた味噌汁を注ぎ込むような代物ができる。「共」の意識はあろうとも、それは公私混同と映る。これと同じように、戦後の沖縄がいつまでも謎の中にある。つまり謎とは、日本の共の中に、沖縄が含まれていないことだ。
  沖縄はいつもこの神秘に包まれている。共の外に放置され、かくも魑魅魍魎と混沌として見えるではないか。
  そして日本の義務教育内で旧日本軍の敗戦理由が教えられることはない。
  ただ教えられるのは戦争の罪悪意識だけだ。戦争放棄はそこにのみ連なる。戦争には相互の実情に絡む衝突があるのだが、過程を飛ばされた原爆を伴う終戦、この結論のみを優先して戦争が教えられる。日本では大戦の本質を含む罪と罰の教育的解決が放置されてきた。これでは晒首を差し出して降伏した日本人の心情は皆殺しである。無念さの保存も、種の保存なのだ。
「 振り子をヨーロッパに振ってみると、このことがよく分かる 」
  西欧は日本を普通の国とは見立てない。普通の国でないと、そこに亀裂も深淵もあり、打算との闘いがあるとものと疑われる。つまり機密を堅持しなければならない立場の国は、常に建前と本音があると見なされる。人間の本質として建前と本音はリアルなのだ。能面に包まれたリアリティーは、日本の美意識ではあれ、異国人に、この識別と区別の難しさは謎を深めさせる。
  西欧の国々は、国境線を幾度となく塗り替えて、幾多の興亡を繰り返してきた。こういう戦時体験意識の蓄えから日本の本音は見透かされる。日本が戦争を恒久に放棄して、憲法下に不戦の誓いを明記したとしても、世界の実情としてそれは理想なのだ。不戦の理想は尊ばれようと、それは生きて回り続ける地球上の現実ではない。したがって現実の不在下にある国とは謎となる。戦後復興の世界が目を見晴らかした日本の高度経済成長そのものが未だ成金的に自立を欠いて神秘なのである。
「 切れるハサミよりは、切れなくて困るほどの堅い紙になってほしい 」
  と、父修造は中学校の面接でこう応え、修治はおもわずその父の顔をみた。
  鹿児島の小学校に入学し三年生になったころ、警察庁の技官だった父が母貴子と相談し、嫡男もなく長女だった母方の先祖代々のタケノコ山を処分して、再建した東京音羽の家に引っ越した。都内の有名私立に修治を入れるためだった。
  それは小学校から女子大まであるミッション系の学校だ。ここに転入してやがて中学校へと進学する。その面接で「あなたの息子さんにどんなふうに育ってほしいのですか」と父は聞かれた。
「 生徒の9割以上が女学生だった・・・・・ 」
  父が答えたのはミッション系女子大の付属中学校での面接試験日であった。面接官もすなわち女性である。
  小学校を出ても男子が系列の中学に進まずとも都内ならば公立中学も自在に選択できた。クラスに3人いた男子は、それぞれに他の進学校に入学を希望した。だが、修治だけはこの系列中学に進むことになる。修治は父のような立派な東大に進学するためにも、男子生徒と自由に競いあえる高校進学を望んで、嫌だとむずると、どうしたことか父はがっかりした。
  そのおかげというか私立中学には難なく入学できたのだが、この中学の卒業生からは、年に一人か二人の京大合格者がでるくらいの学力レベルしかない中学だった。東大なら10年に一人いるかいないかだ。進学力を養おうとする生徒には全てが迫力に欠けた。日常が成績で競う学校ではない。校風はまず品性を重んじた。道理・道徳を風紀とし、令嬢育成を本分とした。だから勉強は好きなのに、中学ではさっぱり成績が上がらない。一学期末時点の修治は400人中のうしろから20番目の成績だった。
「 父は笑っていた。しかも嬉しそうに、茶道や華道の意外に高い評価の通知表をながめていた・・・ 」
  戦前・戦中・戦後の日本のそこには、現実社会のあらゆる「欲望」の投影が照射されていた。軍部や政府にかぎらず、教育施設というもの、特に教育は世間の欲望から隔絶されているようで、しかしそうではなく、実は次世代の欲望を一手に引き受けてきたともいえるのだ。父修造は欲望が経済闘争の本質をつくっていると見抜いていた。「生命のはずみ」として、修治には闘争精神と虚栄とが一緒くたになった心身にはさせたくなかったようだ。羽田空港まで来た修治には、そんな父の面影が強く思い起こされた。
「 父は東京世田谷の三宿、その「野戦重砲兵第八聯隊(東部第72部隊)」の原隊から出征した 」
  この陸軍部隊は「トセ部隊」の通称で8年有余、上海戦・南京攻略戦・徐州・武漢・荊襄と進み、華中戦線では、第十一軍中枢の軍直砲兵部隊として赫々たる武勲の戦歴を継承していたが、昭和19年5月に至り、日本建国以来最大規模の「湘桂作戦」の渦中に揉まれて翻弄された。1945年(昭20)に至り…大本営の「戦争指導方針」に顕しい衰退が表れ始めるや、国民の戦意は急速に低下し、第一線の戦況も敗色濃厚の様相となる。慢り昂ぶった大日本帝国の威信は萎え、その屋台骨は音を立てて崩壊していく。北から南にと膨大に広がった戦線では体を躱す余裕もなく、致命的な痛手を被った部隊に援軍もなく、無慙にも糧秣と弾薬を遮断され、各地で孤軍弱体化し、敗走の止むなきに到り、かつては必勝の信念を豪語した「聖戦」の合い言葉も霧散して消えた。
  攻守逆転の戦況にもめげず、必死に食いついて、血みどろの攻撃を貫き通した無名の戦士たちの多くは、こうして悲壮の極致に「終戦」の陥穽に縺れ込んだのである。かろうじて復員を果たした父修造も、こうした中国大陸戦の前線にいた一戦士であった。




「 ここまで富の目標が本来的なものとして正当化されるとなると、これは教育の目標も経済の目標とあまり変わらないとも見えてくる 」
  と生前、父修造は語っている。これは父がいうまでもなく、経済とは欲望の関数である。欲望が市場を介して資本と商品に結び付く動向のすべてが経済なのだ。しかし今更だが、修治がこの言葉をどう解釈するかは重要問題であった。
  父が遺した一片の言葉、歴史軸に考えて修治が並べようとすると、フロイトの無意識やリビドーに忠実であろうとする見方、またバタイユがエロスとタナトスを重視して「失われた内奥性(une intimite)」を回復したいとした見方、これらも経済活動の一環になってくる。
  そして国民である生活者が消費を通して「蕩尽(cknsumation)」をめざすことは、これも人間教育に通じる人間社会の本来的な活動なんだということになるわけである。
  またこれはさらに、エリアーデが見いだした人間活動の「聖と俗、清と濁」の両面が教育と経済に同時に見いだせるという見方や、ブローデルの文明は精神と物質の開発とし、市場経済を登場させ、資本主義の拡張という3段階で発展する、という見方を巻き込んでくる。経済の世界史は、ことほどさように経済と教育とを、さまざまな角度の双子の橋に架け連ねて結び通そうとしてきたのだ。
「 今日までの学校教育の活動は、多くの経済的側面をその内奥にもちながらも、市場を媒介にしない領域での(見えない経済)に寄与してきたのだ。教師の意図がそこになくても、結果そいうことになる。そうだとしたら、さあ、これをどう考えるかということだ・・・・・ 」
  身震いをしつつ搭乗ゲートをくぐる修治は、12時30発のANA:B747で那覇空港に向かった。
「 教育が、すでに市場で取引されている。しかし宗教は取引されてはいないのだ・・・・・! 」
  これは修治にとって全く奇形な現象であった。
  欲望は、市場に行き交う商品に向かうだけではない。信仰やヒーリングやフェティッシュや、賭博や麻薬やエロスにも向かう。そしてタナトス(死)にも向かう。それゆえ宗教と経済はたしかにいろいろ重なりあうのだが、宗教的な活動をそれ自体だけ眺めると、とうていコモディティとして洗練されてきたとは見えにくい。お賽銭や寄進、お札やお祓いや霊感商法といった極端が目立つばかりなのである。これらはときにアンダーグラウンドな場面でのシャドウビジネスとして、どろどろの状況を呈してしまうことも少なくない。だがこれらは常に欲望の矛先であり、宗教そのものは市場の遡上にて取引は行われない。修治は教育の問題として、これらの宗教との関連を考えねばならなかった。
「 謎といえば、その一つに、琉球の消えた沖縄という奇形な面影のままに生存する沖縄がある 」
  たしかなことは、かの大戦の降伏がこうさせた。
  それなのに日本国は戦後、この実像をずいぶん長いあいだ、はっきりさせてこなかった。
「 ナイチャーは沖縄の陰口を叩きながらも、まったく別の見方で琉球の人々を、あんなに単純で、大ざっぱなくせに、心はひどく繊細な神経の持ち主が多いのだと評する。そして琉球の青い海には憧れている。やはりこうさせる要因は、日本の戦後の教育にあるのでは・・・ 」
  それはこの島には戦後最初にジーンズを穿(は)いた日本人がいるからだ。さらに沖縄は十番街の殺人を最初に目撃した。日本人はそれがベンチャーズの殺人だと知り、この殺人を熱狂して支持したのだ。だからこの島の実像は長らく毀誉褒貶に包まれてきた。
「 しかし現代の首都・東京の住人になると、なるほど、それで沖縄の毀誉褒貶が囂(かまびす)しいのだと頷ける。日本の政治はいたるところで奔放である。内政には妙に頑固であって、本性はどんな相手にも歯に衣を着せない。世界から不可思議な傍若無人と受けとられてきたのも、よくわかる。戦後の半世紀以上、沖縄の社会環境を、教育環境のくくりの中で推敲する意義はありそうだ! 」
  比江島修治は東京で暮らしながら、沖縄には長い間、じつに肩身の狭い思いをしてきた。これが極端な戦後処理不信になっている。修治は、東京の環境でうつ病になって、こうしたプリンシプルを持つようになったのだ。
  現代社会を生きていると、政治や経済の進行の興味とはべつに「手抜きをしたな」「これはしんどい」「いいかげんにしろ」「このくだりは抜群だ」「その調子には乗れない」「なんだよ、そうくるのかよ」「やられた」「いい気なもんだ」という気分がしょっちゅう起こる。新聞やテレビを見ていても、そういうことは、のべつ気になるのだが、現代社会の空間は国家が社会スピードを管理しているので、面白かろうと退屈だろうと、まだしも次々に事態が進むのだが、平穏に暮らそうとする国民はそうはいかない。懸命に真面目に向かうと、すべては生活者の負担になってくる。そこで途中で生きるのをやめてしまったり、それでもガマンをして生き続けたりする。
「 この裏切られた気持ちを断ち切るだけでも、人は疲れる・・・・・ 」
  実態として、資本主義・自由主義者というものの、その6~7割は一人よがりか、効率的に手抜きをしている。
  この不備と横着は律儀者に押し付けられるのだ。とくに政治家や実業家と付き合うのは、とんでもなくしんどい。そういう人間にはロクな現代化しかないからだ。彼らは資本と自由を天秤にした計算主義者なのである。逆に、難解な道程であってもスイスイ生きれる過去の時間もあるし、長い坂道だと非効率だが、歩いていてみると、あっというまに時間が通り過ぎる未来のこともある。非効率、非合理のなかに楽しく謳歌する人生も存在するのだ。人間はこうした矛盾を辛くも酸っぱくも食べながら生き続けている。
「 つまり、現代社会には必ずリテラルテイストというものが付きまとうのだ 」
  買いたてのシャツを腕に通したときの感覚、評判のパスタの最初の一口で麺を食いちぎったときのテイスト、その町を歩いてみたときの空間体表感覚、そういうものが必ずや感じられてしまう。これは消費者からいえば「リーダビリティ(読感度)」ともいうもので、ひらたくいえば生活にある「読み応え」のことだ。あるいは「着応え」、「食べ応え」、「見応え」なのだ。
  こうして読んで応えてあげるのだから、「読み応え」は、当然、読み手当人の感知感覚感度にゆだねられている。だったら実感をがまんする必要なんて、ない。社会が何をどう見せようとも、まずいものはまずい、えぐいものはえぐいのだ。
  しかし、そう考えながら雲上人になっている修治にはそこに沖縄問題が重なってくる。
  宗教と信仰がもたらす出来事と活動は、株価にもGDPにも影響を与えていないようだし、その活動組織の中身は従事者数もあきらかにならないほどに一般社会から切り離されているように見える。いいかえれば、信仰は市場で取引されてはいないのだ。これは仏教に限らずキリスト教に限らず、宗教はそうなのである。沖縄問題を注視するとき、問題なことは、この間接的な影響力なのだ。
  沖縄という日本の宝島には、中世以降の神学としての、そんな応用経済学力が日米のバランスとして執拗に働いている。このネットワーク社会というものは、なかなか一筋縄ではいかない。炎上やフレーミングがしょっちゅう起こるし、たえず「繭化(コクーン化)」が起こる。兵役からもたらされるネトゲ廃人的なビョーキも多い。常に「旅行者以外はみな戦時風景」と同化する場合も少なくない。島民はすでに半世紀以上もこうした有事意識の緊張下に晒されてきた。これは不戦を誓った国の、やはり不可解な謎である。




「 未だ海はどこまでも青いのに・・・・ 」
  日本人は比喩としての青い水の色を豊富に持っている民族だと、それは水に恵まれた国土のゆえだろうと、比江島修治はそう思いながら奄美大島あたりを飛行する機窓の下に映える離島の海を、たゞじっと見つめていた。
  主治医の浜田に「抑うつ状態」だと診断され、二十年勤めた会社を辞めた。一年間の自宅療養をはさみ、そして再就職したが、現在も精神科に月二回通院し、抗うつ薬パキシルを飲んでいる。しかしこれは離脱症状の高い出現率を持つ薬剤だ。ひどく眠くなる。それは睡魔という副作用なのだ。この抗うつ剤で自殺衝動を誘発させる可能性すら指摘されている。しかし浜田医師は「原則としてこの薬を飲んで、回復を待つ」ことを繰り返し釘を刺し続けている。いつしか修治はこの白い一錠の原則の中で縛られていた。
  錠剤によって心身をコントロールされる者が海を青くながめる心境としては、あまりに閑寂である。しかし修治にも記憶があるが、しょせん男児の世間に対する気分というものはこんなもの、とくに修治の気分として漱石に酷似するのは、世の中の連中が笑いすぎるということで、この世間に対する異和感はいまもって変わりない。
「 人間の命を燃料にして進化させようとする資本主義は、すでに狂いはじめている 」
  一日に約300トンの汚染水が海に流れ込んでいるという政府の試算が出されたのは、つい先日のことだ。
  それにしても、水に絡む深刻事態が次から次と突発する。やはり福島第一原発のタンクから、高濃度の放射能汚染水が漏れていたことが判明した。しかし漏れた原因さえ分かっていない。そもそもの事故が大き過ぎて修治の感覚も鈍るが、漏れた汚染水は、推計でドラム缶1500本分になるという。未曾有の天災に加え、人災害は今も進行中である。被爆国の体験からして、これは、水に流せる話ではない。豊かな水の国の一住人であるはずの比江島修治は、間も無く那覇空港に着陸しようとする機上にいた。
「 19歳のひと目惚れなのだから、貴方のことで、当てにならぬことおびただしい。恋は盲目というけれど、とかく若い娘は好きな男を理想化して見るので、結婚してからこんなつもりではなかったとがっかりするものである。私の場合も例外ではなかったが、惚れた弱みで何でも許すことができた。貴方とは、そういう時期が長かったように思うわ。その原点が、あの沖縄の青い海よね・・・・・ 」
  と以前、沙樹子がそう言っていたが、沖縄は二人で最初にしたヒッチハイクの旅の場所だ。
  当時、離島へのヒッチハイクは、無謀とも思えた。しかも提案者は沙樹子であった。
  難関はやはり鹿児島のどの漁村から屋久島方面に渡れるかというということになる。この漁船での無銭旅行は、完遂までの間がじっに楽しかった。船上にて漁師に行き先を語る場面は、かなりキナ臭くなってくる。すべての交渉は海上にて泥沼に入っていく。漁師は突如として無愛想になる。漁師の仕事をいそいそと邪魔しにやってきたと思われるのだ。かといって事前に打ち明けたのでは、出漁の船に乗せてはもらえない。一度目は屋久島臨海から、二度目は奄美大島臨海から、怒鳴られて船上から海に飛び込み島岸へと遠泳した。しかしこの二人旅は憂慮するもいとおしい。徳之島、沖永良部島、与論島へと南下する度に漁師の人情が篤くなった。沙樹子が胸に沖縄の琉球泥藍を使ったブローチをしていたからだ。与論島からは丁寧に沖縄北部の奥港まで送り届けられた。機上からの眼下にはその青い海原が輝いていてみえた。
「 戦争で沖縄が失ったものは人命でも琉球の歴史でもない。われわれが失ったのは、戦後の沖縄を見る日本人の感受性なのだよね 」
  と、沖縄北部の奥港まで送り届けてくれた、あるいは見届けてくれた漁師の乾坤一擲の一言がその紺碧に沁みてくる。不戦の伝統を蓄えてきた島民が琉球の起源をもってそこに重なっているというのは紛れもない実感なのだろう。言葉通り、たしかに戦後の日本人には、時代の折れ曲がりによって、見えなくなったものが多いのだ。
「 セルバンテスなら果たして、沖縄に着地したドン・キホーテを、どう動かすのか・・・・・ 」
  彼ならオスプレイを風車に仕立てる、そんなシナリオもある。









                                      

                        
       



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