
富士重工(鶴田)で新製された24系25型がベースとなる品川客車区へ回送される姿です。EF58がブルトレをけん引すること自体まぶしく思えた時代でした。 76,09,25 御徒町 回1941レ
40年前の09月はその年の秋(9月下旬から10月初旬)に予定されていた東京口の”はやぶさ”・”富士”・”出雲”の2段寝台車化のため新製された24系25型が続々と配置区である品川客車区へ回送されていました。
この頃、客車を新製するのは宇都宮郊外(鶴田)にある富士重工と新潟の新潟鉄工の2社だけでした。別に受注出来ればどこのメーカーだろうと客車なら製造できたのでしょうが国鉄式の住み分けがあったために前述の2社で客車の新製を担当していました。ちなみにこの富士重工と新潟鉄工は客車以外に貨車や気動車も新製していたと記憶しています。
40年前だとブルトレ全盛期で増発(実際は急行の格上げ)を重ねて特急寝台用客車が不足していました。一方で新製15年以上経過した20系客車の老朽化および14系及び24系寝台車に比べ接客設備の見劣りが目立つようになってきました。そのため東京口で24系2段寝台客車で運行されていた前述3列車を新しく設計した2段寝台の24系25型に置き換え、余剰となった24系3段寝台を青森運転所に転属させ乗車率の高い”あけぼの”の体質改善に充当する計画を立てました。そして夏頃から新潟鐵工で新製された24系25型は長岡運転所のEF58にけん引され上越国境を越えて関東入りし、富士重工新製分は宇都宮ー宝積寺往復の公式試運転を経て8102レで尾久へ回送され翌日に回1941レで品川に回着しました。
この写真はその時の1枚です。牽引機は所定A24のEF58124号機で当時、私が一番お気に入りのカマだったのでその124号機がピカピカのブルトレを牽引するとあって気合を入れて撮影した記憶があります。
ちなみにこの置換で20系客車が大量に余剰となりましたがこれに合わせて旧型客車で運転していた夜行急行の体質改善がなされ玉突きで余剰となった20系で”新星”(上野―仙台)・”天の川”が運転されることになり体質改善がなされました。