もう一度

若いころの銀行勤務でメンタルをやってます。気楽ですが、最近さみしさを感じます。安定してます。

相模原の障がい者施設の事件を考える。

2017年07月26日 23時30分37秒 | ペット
何度見ても、嫌になる。


教育が意味が無いことにならないだろうか?


ああいう犯人は。


何が大事なのかって。人とのふれあい、である。


勉強とか部活はそのためのツールに過ぎないと思う。


重度の障がい者は役に立たないからいらない。


人の中にある、悪いとこが、最悪の形で、でてきてる。


職場でも、役に立たない人間は要らないとかいう人が居る、というかほとんどだ。


管理職はそんなことを、考えてて、いらないのが、入ってきたら、やめさせる。


そんな会社にばかり、勤めてた。


使えない人間は要らない。


そのの発想を若い人が真似したともいう。


事件には特殊性と普遍性があるという。


普遍性はいらないといわれる人が、本当に消されたということだ。


人間は自分と違うものを切り捨てようとする、残酷なとことがある。


これは、戦争がなくならないことからも、否定のしようがない。


でも、障がいはあるけど、人間の優しさと共感で、いきれてるという国がある。


国は、障がいのある人を、排除はしない。


犯人は、人間の積み重ねてきた、文化を否定してるように思う。


私も障がい者だ。でも、障がいのあるとこ以外は普通に、いきてゆきたい。


この、気持ち重度の人も、一緒だ。


その気持ちに、応えるのが、ワイマールに始まる、人間の優しさの国家だ。


社会保障とは、弱者を思いやる政治だ。


そんな、近代の国家を覆すような事件だと思う。


あんな、犯人には厳しく処して欲しい。


そして、普遍性も、掘り下げて欲しい。


そして、教育にも、いかして、ほしい。

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