Dream-Speaker

有縁の方々のインタビューを通じて、共感と共有の種を播き、育てたい。

ケミンダ大僧正の死。日本人が忘れたもの。

2011年12月14日 | コラム
ケミンダ大僧正の死。日本人が忘れたもの。



戦後、ミャンマー政府が海外に派遣した僧侶の中でもっとも権威あるお立場に居られたのが、北九州・門司のパゴダに居られたケミンダ師。同師は2011年12月14日、90歳で亡くなられた。1957年に来日し、以来56年にわたり、その存在を持ってして日本社会に上座部の精神を伝えてこられた。9月末には地元の病院に入院されていたが、私がその入院を知ったのはもう12月に入ってのこと。看護師さんから「もし会いたいのであれば、早く来た方が良い」と教えられ、お見舞いに行けたのは亡くなる2日前だった。
私が伺う数日前にもやはり知人の僧侶がお見舞いに訪れた。門司港駅から乗ったタクシーの運転手さんも同師をよくご存じで、「お若いころは精悍で、とてもうつくしいお顔立ちの先生でしたよ」と、地元でも評判、よく知られた方だった。知人は病院から戻るなりそう話した。私が病院を訪れた時、看護師さんが「ウーさん、ケミンダさん」と呼び、親しみを込めて看護されていたのが印象的だった。

私が2年前にインタビューした記事は、本ブログに掲載している。
http://blog.goo.ne.jp/dream-speaker/e/d3fb9947f5e8570e687399d002a537b6
当時撮影した写真の一部を公開したい。





この頃はもう腰が90度ほどに曲がり、僧院の長い廊下を、手押し車を押しながらゆっくりと歩かれた。ご自身の部屋でインタビューをしたが、「体が冷えてかなわない」と毛布を頭からかぶり、話をしてくださった。
もう帰ります、と言った時には、「コーヒーを飲んでから帰りなさい」と応接間まで出てきてくださった。私が自分のコーヒーを用意して床に座ると、師も床に座り、細く、長い長い溜息をつかれた。「先生はもう、本当に、本当に、疲れたのですね」と言うと、「ああ、そうだ」と答えて目を閉じて、私がコーヒーを飲み終えるのを待っていた。慌てて飲み干そうとしたら「急がなくて良いよ、待っているから」と制された。しばらくして顔を上げると「もう帰って横になるよ」と言い、そこで別れた。ゆっくりと手押し車でバランスをとりながら部屋に戻られる後ろ姿を見ながら、この先生は本来ならば国賓であってもおかしくはないのだがと、想った。

彼の国では民主化が進み、必然的に新しいミャンマーと新しい関係を構築するというところに誰もが着地するのだろう。ただ、戦後から今に至る両国の関係にとっては不遇であった時代に、ケミンダ師が日本に居られた。同師が居られたということそれ自体が、日本とミャンマーという国の関係だけでなく、過去と現在、生者と死者、兵士と家族、仏と衆生、門司港と日本全国、そういう目に見えない何かと何かをつなぎとめていた。同師によってつながっていたものがあった。日本人はそのことをもう少し、感じ取っても良いはずだと、思う。











ケミンダ師の指。体が動きにくい。その事実に逆らうようにして、師の指はとても自由に動く。経典をめくる指が意思の塊のように見えた。


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1 コメント

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ありがとうございました (luckpal)
2011-12-28 19:39:22
ケミンダ長老の広大なご恩に深く感謝いたします。ありがとうございました。深く感謝し、そして、そのご恩に報いていきます。

ケミンダ長老から教えていただいたこと、それは、ただ一言。「実践すること」だ。

私は、もう、空虚な言葉の仏教には興味がありません。

実践すること、だけです。
世界平和のため、とか、人類のため、とか、そういった、大きな物語ではありません。

自分自身のために、小さな一歩一歩を、実践してゆくのです。
具体的には、吸って、吐いて、吸って、吐いて。
今ある自分自身に気をつけること。
気をつけることです。


ありがとうございました。
そして、師のご恩に、報いていきます。
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