目を覚ませとよぶ声が聞こえ…

歴史とかゲームとか本とかそんなものの覚え書き

直江兼続奸臣説3 追記

2008-07-27 21:07:38 | 直江兼続
直江夫妻の墓は林泉寺に移したが、位牌は与板組が真福寺に移した。林泉寺の檀家になることを嫌った?なれなかった?与板衆がそこを菩提寺として、命日に法要を行ったといわれている。

上杉鷹山が「直江夫妻の法要を営まずは人情にあらず」と言ったとされていることからか、藩をあげての法要はなかった、与板組でほそぼそと法要を行っていた、これが藩内で奸臣と見られていた証拠じゃないかという人もいるみたいだが、そんなことはなく綱勝の時代に藩をあげての33回忌の法要が営まれ、院殿号の追諡があった100回忌は吉憲の時代に、150回忌、200回忌が鷹山によって営まれている。(綱憲の時代にあるはずの50回忌はわからない。)上杉鷹山によって奸臣直江が再評価されたというのは鷹山を持ち上げるレトリックで実際は吉憲が元禄期に落ちた地位を戻し、再評価したのである。もちろん鷹山も兼続の政策をおおいに参考して、藩の殖産興業に成功したと言われていることからも、先の言葉からも彼がきちんと評価していたことは疑いがないと思う。

ちなみに宰配頭の平林正興(平林正恒の子)が真福寺住職と喧嘩し、東源寺の檀家となりそれに伴い直江夫妻の位牌も東源寺に移し法要を続けたという。
東源寺は兼続の母の実家といわれる泉氏(尾崎家)が文明八年(1476)信州水内郡泉郷に創建、後米沢に移した寺院。


直江兼続奸臣説2 菩提寺徳昌寺の破却

2008-07-27 15:02:06 | 直江兼続
不思議に思うのである。

直江家の菩提寺、徳昌寺は文明十一年(1479)直江秀綱(法名昌山一徳、直江景綱の祖父といわれている)によって与板城下に創建された曹洞宗の寺院、林泉寺は明応五年(1496)越後高田に長尾能景によって建立された、長尾・上杉の菩提寺。
確かに徳昌寺の方が創建は早いが、林泉寺は最初から主家筋の寺院である。それに対し禄所争いなどするだろうか?

この禄所争いといわれている事件は寛永十八年(1641)の出来事である。

徳昌寺は寛永八年(1631)の分限帳に塩井に百石の知行を賜っている。越後時代の文禄三年上納員数目録(1594)では七十一石三斗三升の寺領な事を見ると、この時点ではたいそうな厚遇ぶりではないか。
ちなみに兼続は元和五年(1619)に、景勝は元和九年(1623)、お船は寛永十四年(1637)に死去している。

次の年には白鷹町の瑞竜院、伊達氏によって建てられた末寺五百に及ぶという古刹(新庄藩の戸沢氏の菩提寺は白鷹町の瑞竜院の末寺、由緒あるのだ)に禄所争いが起き林泉寺が勝っている。

はじめから定勝はつぶすつもりで仕掛けた罠ではないのか。

直江時代の栄光が忘れられず結束する与板衆、伊達時代からそこに住み伊達こそ主家と思っているような檀家や住人。象徴を破壊することで、誰が主人かわからせる手法なのではと思う。

この徳昌寺の破却が、直江が定勝に嫌われていたとか、直江批判の一端だというような言われ方をすることがあるが、そうだとは思えない。そのような理由ならば母のように慕っていたと言われるお船の墓を破却してまで死後20年もたってからやるという方が変だ。

直江夫妻の墓を長尾・上杉の菩提寺に移した。このことの方が大事なのではと思う。与板の管理から藩の管理に変える。直江夫妻を林泉寺(身内)にいれることで、与板衆の主人は上杉なのだ宣言したのだと思う。

問題は与板衆が直江死後20年経っても直江麾下という独立意識を持っていたことにあるのではないか。そのことによって対与板への藩内の反感が徳昌寺を破却せねばならないほど強くなっていったからではないか。

米沢の最初の奉行は、直江被官の棟梁といわれた春日元忠、春日が退いた後は、直江に算勘の才を見いだされ、18才の時に伏見舟入普請で抜擢、活躍した平林正恒、平林は直江死後もそのまま奉行を続けているのだ。
普通執政が変われば人事も一新されるべきだとも思うが、景勝が直江体制を望んでいたのかもしれない。実際景勝は定勝に「山城守相果て候ても、大小の事ども後室へあい計らい候よし。」(米沢雑事記)と遺言したそうだ。直江夫妻と景勝の間でこれからの藩のヴィジョンを話し合っていたのだろうか。
平林の次はそれこそ直江家の身内志駄義秀が奉行になっている。志駄が奉行になったのが元和八年。景勝存命中のことだ。翌年景勝死去、定勝が藩主になるも奉行の交代はなく続投。志駄はお船の甥にあたる。夏戸城主志駄義時にお船の姉が嫁いでいる。義時川中島で戦死。19才であった。家督をついだ義秀はまだ2才だったので祖父春義が後見するも2年後に死亡。孤児になった義秀は母方の直江家で養育されたのでお船にとって義秀は弟に近いのかもしれない。ちなみに義秀は兼続と同じ年だ。定勝は後室へあい計らったのか。寛永九年(1632)息子義繁に交代するも寛永十年義繁罷免。この年迄与板系が奉行になっているのだ。

景勝が置いた奉行である義秀までは藩内の支持があったのかもしれないが、息子へ継承となるとどこまで独占する気だ与板衆みたいな感情が起こっても不思議なく思える。直江死後まで数々の特権を受けたきた与板衆と特権を受けるべきは我らだと思っている侍組の間で確執が起こってきていたのではないか。直江独裁の下、実践を積んできていて実際使える人材が多く、いまだ郡代、代官、奉行職などにつく事が多いとなれば、侍組や他の三手組の反発も強いだろう。与板組VS他組の抗争があったのではと考える。

このあとの奉行は寛永十年(1633)清野長範、島津忠利。清野は景勝の小姓後に取次ぎで、涅槃であおう(意訳)とまで言われた景勝の超寵臣。島津は直江執政下の会津三奉行の一人だった岩井信能の子、二人とも定勝腹心といえるかどうかわからないが、とりあえずここから直江体制から定勝体制に移行していくのがみえる。景勝死後から十年、定勝がこの間なにもしなかったかというとそんなことはないので、政治体制の整備がちゃんと図られている。「中之間」の新設、(中之間は定勝の近侍がつとめるところ、中之間年寄りは藩の重要な評議に参画する要職)、奉行・郡代の複数制(例:筆頭家老 志駄義秀、家老広居出雲)寛永十二年には奉行三人制になる。合議制による支配を目指していたのが見て取れる。

寛永三年(1626)侍組(上級家臣)・三手組(中級家臣)の礼席を制定する。家臣の格、序列をきめたということ。侍組、馬廻組、五十騎組、与板組の順。与板は一番下なのだ。

寛永十五年に領内総検地が行われた。結果、表高三十万石に対し実高五十一万七千石余だったという。(半知後も表高十五万石に対し二十八万石余)直江体制が順調にいっていた証拠でもあり、そのようなことから交代のタイミングを計りにくかったのではないか、あるいはお船への配慮(これが大きそうだ)もあるかもしれない。
定勝も独自の政治体制を確立するために様々な改革を進めていたことが判るが、側近を中枢に置くことがなかなかできなかった。
それが完全定勝体制で固めることを引き延ばしていた、もしくはすることができなかった原因ではないだろうか。


カリスマ謙信の後の景勝を見ると、御舘の乱で反景勝派の一掃に成功、勝利した城には上田衆をいれ(例:樋口兼豊に直峯城、佐藤甚助忠久、宮島三河守に栃尾城、登坂が養子に行った先の甘粕近江守に三条城、笹岡城には今井源右衛門久家など)、味方した大身の家臣に上田衆の若者を養子に入れる政策(例:樋口与六の直江家に婿養子、弟樋口実頼の小国家養子、甘粕へ登坂加賀守の長男、)、戦死などでまだ子供が幼い大身領主などの後見を積極的に見ることで、取り込んでいくなどのやりかたでポイントを上田衆で固めていく。
景勝の側近中の側近兼続は、18歳の時の御舘の乱で公式(資料)デビュー、景勝が藩主になると取り次ぎに。21歳で直江家に婿養子に入り家老に、そのまま政治の中枢にすわる。
景勝は腹心を政治の中心にすえるまで一年とかけていない。

織田クライシス(新発田の乱含)や豊臣大名になったことなどによるのか謙信時代よりも中央集権化に成功し、阿賀北衆などの国人衆を含め家臣団はより一体化している様に見える。上条正繁の出奔以外に表だった反抗は見られない。

新藩主定勝にとって家臣団の統制、把握は急務であったと思う。直江体制からの脱却に時間のかかりすぎた結果が徳昌寺の破却に繋がったのではないか。

破却は藩内の家臣掌握の課程の一つであったのだと思う。

直江兼続奸臣説

2008-07-22 09:10:11 | 直江兼続
絶賛した南魚沼のHP天地人のなかの決して低くなかった父・樋口惣右衛門の身分のなかで気になる文章があった。

「樋口惣右衛門はなぜ台所廻り柴薪の役に仕立てあげられたのか。」

仕立て上げられたはなんだか人聞きが悪い。

まず仕立てたらしい藩翰譜である。 以下wikiの引用で悪いが、

“元禄15年(1702)成立。元禄13年、甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したという諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけたもの。”
“藩翰譜の出典だが、折焚柴の記には、諸家の事共、尋ね究めて、と記載があり、伝聞に基づくものであることがわかる。また本文中にも、ある人のいう、一説にいう、などの記述があり、いずれも伝聞調の記述が見られる。他の史料を引用している記述は見られないことから、新井白石が伝聞に基づいて、独自の主観で編纂したものと思われる。明治に出版された藩翰譜の解説には、異本が非常に多く、善本により校正したとある。また、誤字脱字、語法の誤りを是正。家系図においても、寛政重修諸家譜で大幅に修正を加えると、ほとんど改修となってしまうと記載されている。”

甲府藩主の徳川綱豊の命でである。江戸幕府編纂の公文書ではないのが一つ。
幕府編纂の公文書は寛政重修諸家譜である。これは各大名家・旗本から提出させた記録だが、藩翰譜は任意であった。よしんば上杉家がきちんと提出したとしても、このテキストの言うように自分のところの藩士をわざわざ改竄してまで「惣右衛門が軽輩の士として届けられた」というのは疑問である。

薪炭用人は藩翰譜のみ。白石が伝聞で書いたものを俗説として定着してしまったものではないかと思う。現在フィクション扱いの山内一豊の妻の内助の功話も堀尾の手柄横取り説も出典は藩翰譜(講談社で出している現代新書「検証・山内一豊伝説」参照、すごく面白い) 少なくとも新井白石に悪意はない。「我が蔵に兼続が和漢連句百韻あり、その才有し、うたがうべからず」は兼続への白石の評価である。

上杉家内で悪意を持って提出した可能性もなくはない。一国の伝統ある藩がそんなことをと思いたくはないが、藩翰譜の編纂年が元禄13年~15年であることに注目したい。藩主が上杉綱憲の時代だということ。前藩主綱勝が吉良邸から帰った後急死。末期養子の手続きもないままであったため、改易を免れないところであったが、綱勝の義父であった会津の保科正之の支援もあり末期養子として、綱勝の妹の子吉良三郎が当主になるものの騒動の罰として削封、半知15万石となる。

この寛文の削封にはいろいろ噂がついて回る。綱勝毒殺説、吉良三郎を藩主にする為毒を盛ったというもの“寛文4年閏五月朔日綱勝登城の帰途鍛冶橋吉良上野介義央邸で茶を喫したところ同夜半江戸桜田邸で俄に腹痛を催し、夜明方迄に吐瀉すること7,8度に及んだ。”保科は確かに義父であったが、保科の娘は若死にし子もいない。会津とは切れていたはずであるが、彼は奔走してくれた。千坂の削封日記に綱勝の病状経過と保科の素早い対応が記してある。

この一件で吉良、保科と共に後ろ盾になってくれたのが高家畠山である。謙信の時代、景勝、北条の景虎とともに、能登畠山から謙信の養子になった上条政繁の子孫であり、上杉に重きを成していた上条が、直江兼続の台頭から居場所をなくし、出奔してしまうという因縁つきだが、上条はその後徳川に仕え畠山に戻した。上条の息子で景勝の養子となり秀吉の人質として送られた畠山義真は、土井利勝の仲介で和解し、綱勝の後見となる。その子義里の代である。

上杉家重臣達の間にも内紛があったと伝えられている。吉良三郎をおす、江戸家老千坂兵部、執政澤根伊右衛門垣高と、保科正之の子東市正を後嗣とし吉良家の女子を配するという小姓頭福王子信繁の案があったというのだ。保科は家光の異母弟であり東市正を養子にできれば30万石を全うできるというものだった。

それはともかく吉良家の子が藩主綱憲となり、半知になったにも関わらず、保科の意見によって家臣の召し放ちも行わず、しかも新藩主は浪費家であった。外戚吉良家は上杉家の合力を受け暮らしていたがその出費も膨大なものだったという。

上杉家には越後以来蓄えてきた『御囲金』(御貯金)があった。1645年定勝が死去した折、玉金、延金あわせて14、5万両、竿金竿銀が幾百幾千と長持の中に貯えられていて、床が抜けたこともあったほどだという。綱勝の時代、万治元年(1658)綱勝が2000両の借金をした時、このときの御囲金は20万両有ったと伝えられている。半知の試練の時にさえ、極力堪え忍び、6万両の御囲金を残していた。宝永元年次代藩主吉憲が当主になったときは、ほぼ皆無の状態、そればかりか借金が雪だるま式に増えていたのである。

そんな風だったので赤穂浪士によって吉良上野介が殺害されたとの報が家中に伝えられても「面々が内心では上野介を恨んでいた最中の出来事であったから、その知らせをきくや、悲しむ心はなく、むしろいい気味と口に出して言いたい」(米沢雑事記)だったそうだ。


ながなが書いたが、

○半知になり財政難のしわ寄せが藩士にきているのに、藩主親子は贅沢のし放題。
その怒りの矛先を他の誰かに向けさせ悪者にすればよい。「東照宮に逆らい石田三成と共謀して主家を西軍につかせて道を誤らせた奸臣直江」とか。

○直江の台頭によって出奔を余儀なくされた上条正繁の身内である畠山が悪感情を持っていて後見になっているうちに藩に浸透した可能性もなくはない。

○承応三年(1658)京都中村五郎右衛門によって直江状の写しが刊行された。市井にとって御上の悪口ほど面白いものはない。評判をとればとるほど、徳川の機嫌を損ねたくない上杉にとって都合の悪いものだった。奸臣直江を藩をあげて宣言しなければなら無かったのかもしれない。上杉の資料にもそのことが反映され、上杉鷹山がやめさせたというのをどこかで見たことがある。(その資料を見たことがないので正しいのか判らない。)

という可能性も有るとは思うが、藩翰譜の噂話が徳川に楯突く奸臣(orヒーロー)として、奸臣と思う人たちは蔑みを、ヒーローと思う人、関係ない市井の人々は、より自分たちに近い身分を喜び定着していったものではないかと思う。後は新井白石の名前だけで誰も疑うことがなかったのかも、権威に弱い日本人ならあり得ると思う。

独裁に批判は付きものだし、30万石にしてしまったのも事実、それに対する批判は当然あるとは思う。上記の様に元禄期に評価が下がっていった過程も検証してみた。(菩提寺破却の件は思うところ有るので次回に)

それでもこのテキストの「惣右衛門が軽輩の士として届けられた(藩翰譜)のは、兼続への批判の一端を負うかたちの表れといわなければならない。」とか「仕立て上げられた」は自虐の域だと思う。










天地人のHPに感動したっ

2008-07-17 10:44:43 | 直江兼続
南魚沼観光協会で作っている来年の大河の為の直江兼続のHP天地人
このHPは至れり尽くせりもう本当にすごい。「兼続 生誕の地紀行」と称したそれぞれの地区のパンフレットが見れるようになっていてとても面白い。いきたいなあ南魚沼市ってな気分になる。

天地人検定だとか性格診断テストとか参加型企画もばっちり。特に好きなのが史跡ガイドで興味深いテキストや今までと違う見解なんかも載っていて、もわくわくしながら読ませていただいているわけです。

最近特にうれしかったのが『決して低くなかった父・樋口惣右衛門の身分』というテキスト。
前から彼の父が薪炭用人からはい上がった説は、江戸時代に書かれた新井白石の藩翰譜のみで、妻とされる2説あるうちのどちらの妻女も身分の低い人たちじゃないので、それは違うだろうと言われてはいたんだけど、この古記録によって証明されたかたちになった。

ほとんどの小説は身分の低い小姓上がりの兼続が上杉の家老になるという成功譚みたいに書いていて違うだろ!って思っていたから。ま最初の頃は何の疑念も持たずそうだと思って読んでいたけど、「関ヶ原」とか。自分もそうだったし、あまり世間に知られていなげな兼続だからこそ、大河で知って、見た人、この原作を読んだ人がそうだと思いこむのはいやだなあと思うわけです。新説こそ広まって欲しい。せっかくの大河なんだから。

大河の原作での父は、薪炭用人からはい上がって算術が得意だから家老になった説をとっていて、大河でそういう風に放送されると、やっぱりそれが定説になっちゃうんだろうな。原作者は昔からの定説と新説をくっつけて真実っぽくしているのも実はすごく変だと思う。上記の妻2説も最初の妻は直江景綱の妹で亡くなってから後妻に泉重蔵弥七郎の娘をもらったことにしているんだよね。何でもくっつければいいのかって話で。で何で変だと思うかというと、このテキストにあるように「長尾政景の城主時代、天文十五年頃から永禄七年に至る18年間の内の一時点での記録」つまり1546年~1564年の間。
ぎりぎり1564年に家老になったとしても兼続(1560年生)4歳のときには御家老伊与守事樋口惣右衛門だったことになる。薪炭用人の父の後ろにくっついていって、台所で仙桃院にみそめられて景勝の小姓に取り立てられたというのはなりたたなくなる。
越後以来穴沢先祖留書の文書は仙桃院のお輿入れの記録でしかも御和談(上条の乱の後の婚約→結婚)のしるしとあるから天文八年~十六年(1539~1547の間)年頃には仙桃院をお出迎えできる年齢、職種だったということになる。年齢的に薪炭用人でいる時間は無いように思える。樋口惣右衛門が亡くなるのが1602年、お輿入れから50~60年後だ。樋口としか書いていないから、惣右衛門の父もしくは兼続の叔父といわれる樋口主水助かもしれないが。それなら代々そういう家柄ということになり、身分の低い薪炭用人だった可能性は更に無くなるのではないか。

原作「天地人」は小説だから、成り上がり成功譚でもそれはそれで良いんだけど、まあこのHP内でも主水公園と題されたテキストに『樋口一族の栄光は兼続が藩の執政になってからのものです。』と書かれていて、このテキストで父別に身分は低くなかった説大浮上なんだから、前に書かれた小説が、藩翰譜並でもしょうがないと思うけど、あの大河の後先にやる、紀行ものみたいなのできちんとフォローして欲しいなあと思います。

周家と孫家

2008-07-11 17:29:34 | 歴史
周ピーと孔ピーもいいけど、心の友策ピーも欲しいところ…

赤壁とは直接関係ないけど周家と孫家との出会いが気になっている。
名門周家とたたき上げ孫家の結びつき。

破虜討逆傅によれば、孫策の父、孫堅は呉郡富春の人。
孫策が生まれる少し前に会稽で起きた許昌の乱の鎮圧に功があり、たぶんこの頃会稽の人でこの鎮圧に関わっていたと思われる将軍朱儁の目にとまった。
孫堅の全国デビューである黄巾討伐に彼の左軍司馬として上奏してくれたのである。
(朱儁はこの時中郎将であったが黄巾討伐(184年)に孫堅などとともに活躍し、車騎将軍に昇進し、その後も可南伊、三公である太尉にまで上り詰める人でもある。ちなみに演義では劉備達の手柄を横取りし出世したいやな奴に書かれている。これだから演義ってやだ)孫堅もこれを機に韓遂辺章の乱(185年)・区星の乱(187年)などに功を上げ出世してゆき江東の虎と呼ばれるようになる。そして190年の反董卓の義軍を興し反董卓連合に入り袁術の配下となる。

周家の方は
(周瑜伝)
周瑜字公瑾,廬江舒人也。従祖父景,景子忠,皆為漢太尉。父異,洛陽令。

というように超セレブ、一族のことは、後漢書 袁張韓周列傳の中に詳しい。この中の周栄伝を参照してみるとこの頃父異は亡くなっているが、周忠はばりばり政府の中枢、大司農とかなのである。

当時から中国では父方の兄弟従兄弟は家族であり結びつきが強い。まして周瑜は父が他界しており、伯父の周尚、中央にいる周忠、その息子の周暉などの庇護の基にいたのではないか。
(周栄伝)
忠子暉,前為洛陽令,去官歸。兄弟好賓客,雄江淮間,出入從車常百餘乘。及帝崩,暉聞京師不安,來候忠,董卓聞而惡之,使兵劫殺其兄弟。

年度が判る記述がこの周忠の息子暉の記述である。洛陽令をつとめていたがやめて実家に帰り、兄弟で江淮間の雄になったと。霊帝の崩御(189年)のおり、都の不安を聞きたぶん父のところに行ったとき董卓に殺されてしまう。董卓に殺されてしまうくらいだから洛陽でも信頼の厚い人だったんじゃないかと思われる。
暉兄弟死亡189年、周忠が太尉になるのが、董卓の死後、皇甫嵩の後だから192年、193年に朱儁と交代している。呉書に曰く朱儁と共に曹陽で李カクに敗れたとあり、194年から朱儁が亡くなる195年の間に一度失脚、複して衛尉になり,獻帝の洛陽東歸に従う。とある。


さて周家と孫家の出会いであるが、破虜討逆傅の討逆傳(孫策伝)の注江表伝によると
(江表傅)
 堅為朱儁所表,為佐軍,留家著壽春。策十餘歳,已交結知名,聲譽發聞。有周瑜者,與策同年,亦英達夙成,聞策聲聞,自舒来造焉。便推結分好,義同断金,勧策徒居舒,策従之。

「堅為朱儁所表,為佐軍…」は、黄巾討伐にでる孫堅が朱儁に頼んで家族を寿春に残していた。孫策、十余歳にして名のある人たちと親交を結び、自身も名を知られていた。周瑜は策と同じ年で彼もまた英邁闊達な人で、名に聞こえた孫策に会いに舒から出てきて友達になり、断金の契りを結び、舒に引っ越して来るように勧め、策もそれに従った。みたいなこと。

(孫策伝)
堅初興義兵,策將母徒居舒,與周瑜相友,収合士大夫,江、淮間人咸向之。
(周瑜伝)
瑜長壮有姿貌。初孫堅興義兵討董卓,徒家於舒。堅子策與瑜同年,獨相友善,瑜推道南大宅以舎孫策,升堂拜母、有無通共。

正史本文には上記の通り、寿春のことは載っておらず、富春から直接舒に引っ越してきてここで友達になってから家を提供した感じの書き方だ。それだと義軍を立ち上げた190年から孫堅が亡くなる192年の2年間のみの付き合いになる。孫堅の死と共に孫堅を曲阿に葬り、孫策は家族を連れて江都に移っているからである。江表伝を信じれば黄巾討伐は184年周瑜は175年生まれだから、数えで10歳、反董卓連合の頃(190年)に舒に引っ越しだからこの時16歳。10歳から16歳の間に富春か寿春に足げに通い断金の契りを結んだことになる。

先の周暉の話(兄弟好賓客,雄江淮間,出入從車常百餘乘)もあるように、周瑜も名士やすごい奴がいるとなると、会ってみたり、賓客として持て成したりするのが日常だったのかもしれない。同じ揚州でも呉郡の富春はちょっと遠い。九江郡にある寿春は揚州の首都でもあり、九江郡に隣接している廬江郡舒からも行きやすそうだ。九江という名で思い出されるのは、曹操からのスカウトマン九江出身蒋幹である。彼は同じ師についた同窓なのだ。端っこの舒で学ぶよりも、揚州の首都寿春で師につく、もしくは学校(王莽によりに初等教育から郡国学まで地方教育制度がすでに整備されていた。)に通う方が自然であり、周瑜自身寿春にいたのかもと想像すれば、英雄の魂を持ったもの同士惹かれ会い断金の友となるのも必然な気がしてくる。

孫策と周瑜、子供同士が大親友になるのは何の問題もないが、反董卓義勇軍に家を提供するとなると大人の話だろうと思うわけで。朝廷を牛耳る董卓政権の中の、官僚の一人でありながらの義勇軍援助なのだから。息子を董卓に殺害された親の怒りは幾ばかりか。

揚州を基盤とする周家にとって、江南を代表する義軍の雄は袁術である。袁家は周家にとっても恩のある家柄(周家栄達の祖周栄は袁安に引き立ててもらった)だ。義軍を興したものの連合軍の中に入れるほどの名家ではない孫堅は袁術の配下となり、連合軍に参加できるようになる。周家は孫堅よりも袁術に支援を申し出るのが自然と思われる。後の周尚丹陽太守就任を思えば袁術の支援を担当していたのが、周尚なのではないか。

実質使える駒袁術配下孫堅を抑えておいたのは、袁術の申し入れによる支援かもしれないが、朱儁の存在が大きいのではと思っている。朱儁はこの頃可南伊であり董卓の専横を良しとせず、抵抗している。(朱儁と周忠は正史に意外とセットで名前が出てくるので、友達とか、繋がりがあったのではと思った。)朱儁は孫堅の実力を知るものであるから。富春から直接舒に来たとすれば、周家の支援を取り付けて、引っ越してきたと見るのがすじだ。そしてこちらがちびっ子周瑜担当だったんだろうと思う。寿春で友達だったとしたら、兵糧や金銭的支援だけではなく、「うちに避難してきたら」も自然の成り行きに思える。

孫策と周瑜の友情物語は別物で、孫家周家の結びつきは、反董卓の支援というだけのものであったと見るべきではないか。孫堅が亡くなった後、孫策は家族を江都に移し、周家をすぐに出ている。援助打ち切りの図が見える。孫堅が死亡の後、董卓は呂布に殺される。その秋に周忠は太尉になる。全部192年のことだ。その後は前述の通りで、195年献帝に従う。曹操の手の内に入ってしまったということだろう。

同じ頃周尚は袁術より丹陽太守に任命される。195~196年のあたりではないだろうか。周瑜は丹陽太守の名のもと孫策を支援、その後しばらく袁術配下としての行動の後、孫策の元へ脱出、家に縛られない周瑜が見られるようになるのである。





RED CLIFF 赤壁 もうすぐ公開

2008-07-07 01:50:00 | 映画
前売り券を買うともれなく着いてくる周ピーと孔ピー ほしい… 欲しいよねこれ。

7月10日公開(日本では10月公開)楽しみすぎてどきどきします。
そしてyoutubeで見る限りやっぱり孔明は好きになれないかも。あの羽扇の動かし方を見たらむっとしてしまった。でも周ピーと孔ピーはセットで欲しいです。


RED CLIFF Special Trailer



かねたん

2008-07-03 15:10:14 | ゲーム
米沢のマスコットかねたん かわいい

兼続って無双ファンと花の慶次読者と戦国マニアにしか知名度なさそうだから
かねたんに是非がんばってもらいたい。


無双OROCHI魔王再臨キャラクター設定資料集がでた。
値段も高いし、実際いらないけど、封神演義系仙人集団と源平二人はちょっと気になる。
封神演義は漫画しか見たことないから、女媧と妲己はグルじゃないんだとか、伏犠と太公望は分身じゃないんかとか、女媧と伏犠は三国無双2になぜか出てたから遠呂智再生に巻き込まれたんだろうかとか疑問がいっぱい。

遠呂智は日本神話、女媧と伏犠は中国の創世神話の神様3人とも蛇なんだよね。
妲己と太公望は殷、周の頃、卑弥呼は三国志の時代、孫悟空は唐代、源平は平安末期そして戦国。
関ヶ原が1600年、伏犠は三皇五帝の最初の人で紀元前3350年~紀元前3040年
5000年ぐらいの広大なお話だったんだ。
ちなみに遠呂智のしっぽからでてきた天叢雲剣は謙信の第四武器…キャラ設定集買ったらすべてが解けるのか?