遅ればせながら上杉景虎についての2冊
どちらも上杉景虎を表題に置いているが主眼は御館の乱の勃発経緯と後継者であり、同時代史料を駆使し公平な視点で描こうとしていることで大いに参考に出来るありがたい本となっている。
はじめに関東情勢から始まって、北条三郎、越相同盟、後継者の諸説、御館の乱は家督争いではない事、三条手切いわゆる神余親綱との確執が乱のきっかけになったことなど流れはほぼ一緒なのに、後継説の結論が違うのが面白い。
分岐点は謙信が景虎をどう捉えていたかの評価が違うことだろうか。
『関東戦国史と御館の乱』
驚きの道満丸後継、景勝陣代説という先達の諸説に加わるべき新説を堂々と打ち出した一冊。
三郎が跡目をつぐ前提で越後に入ったけれど、北条手切れになってしまったことで関東諸将の手前跡継ぎにできず、景勝を跡目にすれば後継者変更で家中が分裂してしまう。(これは家臣がはじめから景虎が後継である事を承知していたという前提なのだろうか。北条手切れ後も景虎の位置は景勝と変わらないとしている。)そこで景虎の息子で景勝の甥でもある道満丸を後継者にし、景勝を陣代とすることで無用の政争を回避しようとしたとする。陣代ならば実城にすんなり入ったことも説明がつく…。
この陣代説の是非はともかく、自分が一番面白かったのは六章、七章の御館の乱の戦闘シーン。テンポが良く映画を見ているような臨場感があり一気に読んでしまった。しかし終章の文は、少し大げさすぎてせっかくの説を北条景虎を主役とすべくその物語におとしてしまった感がある。それまでの新説を裏付けていく丁寧な作業が秀逸なだけにちょっと残念に思った。いずれにせよこの陣代説は自分なりの検証をしてみたくなる誘惑の本でもある。自分は景勝後継説支持派なので総括はいらないと言われても後で少しその誘惑を書いてみたいと思う。
『上杉景虎』
こちらはその景勝後継説である。
謙信は景勝を後継と定めていた。なぜならこの継承に誰も異議を唱えていない。後に乱の中心になる神余や北条(きたじょう)も初期段階では景勝にこの書状を披露して欲しいとその政権を認めているし、四月三日に訪れた弔問の芦名の使者を景勝景虎とも恙なく迎えておりこの時点で外交に支障をきたす抗争は起きていないとする。景虎は三条手切れによって景勝と対立した神余とその仲間上杉憲政や本庄清七郎の御館側に家督継承を条件に抱き込まれ挙兵したという説である。
自分は北条手切れを経てなお景虎後継に目があると思えるのか不思議でならなかった。
謙信が中城を造営しそこに景勝を入れ、御中城様と呼ばせ、名と官を与え越後一二の師団をもたせた、これが後継でなくてなんなのかと思っていた。上杉三郎は謙信の養子になったと言えど北条の証人である。同盟の終焉によりその条件である養子については、管領は上杉に譲るが血は北条でという盟約があったかもしれないがそれは当然破棄。部屋住みに戻る、寺に入る、実家に戻るが普通ではないのか。よもや廻りも本人すらも後継になれるなど考えていなかったのではないか。景虎が帰らないのは家庭を持ちそれなりに幸せであり、北条に戻ったとしても自分に居場所はないのではないかと考えていて、それこそ謙信の徳と三郎景虎の人品により幽閉だの処刑だの考えるまでもなく娘(姪)の婿としての身分を保障してくれていたからではないかぐらいの感じで思っていた。
しかし家督争いではないとしたら史料に流れる景勝と景虎の不穏さ、不安定さは何かと考えあぐねていたのだが、自分なりにすとんと納得できる答えがこの本に書かれていた。
p211~p212の『上杉家記』の引用。 景勝母仙洞院は、景勝が家督を相続すると、憲政に計策し景虎親子の将来のため所領割譲を一門に議した。上杉十郎景信、山本寺伊予守は同意し、上条政繁、山浦国清、景勝は同意しなかったという。母は景虎を自立させようと憲政達と計った。同意者の数を募ったのだろうか。北条や武田の勢威を思慮するものも現れ、上杉管内を二分して対立、争乱の起因を為したという。
母にしてみれば息子を藩主に付けて一安心。次ぎは娘の幸せのことを考える。婿が部屋住みの証人、軟禁状態では娘も孫もかわいそうだ。生計を立てられる上杉庶系領主として独立させてやりたいと思っても不思議はない。もう息子を脅かす存在ではないのだから自立させてやっては母心だと思う。しかし息子は母さん甘すぎる。奴のバックには北条がいるんだぜ。とばかり反対する。すんなり通ると思っていたのに息子はわかってくれないとうまくいかないことに意地になってしまったのではないか。母のやり過ぎが家臣達を徐々に二分していく。体制に与える影響はすぐにはなかったかもしれないが、景虎の気持ちは暗澹たるものになっていったのではないか。それに呼応するように、景虎を慕うものや、景勝政権では出世が見込めないもの、謙信初期に重用されるも遠ざけられていったもの達などそれぞれの派閥をこしらえていったのではと想像できる。
三条手切れが、そこに流れていた空気の引き金になり、たかだか地方領主の反乱が、越後を二分する乱に発展していった背景が見えたと思った。
景虎後継説の証拠といわれる由良の書状も納得できる解釈だと思う。「不思議の使い候間、…景虎江御家督参候由承及、目出御本望令察候」確かに景虎への御家督はふってわいたという印象を受ける文面だ。
神余が景虎を御旗にしたゆえ、端から見たら家督争いに見えた流れだが、不満がそれぞれ違うものの寄せ集めであったゆえに上田衆中心に一枚岩の景勝方に遅れをとったのだろうか。景虎の孤軍奮闘が痛々しい。
豊富な史料を駆使し、巻末に原文を載せ年表まで付けてくれている丁寧で重厚な一冊。
景虎に関する一連の流れは納得できる結論が多くわかりやすかった。しかし丁寧な解説は時に流れを分断しているようにも感じられ、各章にはさまる上杉一門や長尾一門の系譜などは自分の考え方と全く違うこともあるのだろうが、緩慢な気がして一気に読破というワケにはいかなかった。
ということでここから少し私的解釈を
長尾顕吉についてだが、上田長尾出身で
(発行文書等で上田長尾でであるとしか思えない)、古志長尾にはいり
(「謙信公御書集」に栖吉城主長尾肥前守顕吉で謙信の母青岩院は娘とある)、上条入道
(「外姻譜略」に顕吉は朴峰永浮とあり、朴峰は清浄心院越後過去名簿において上条入道とかいてある。)になったというのはどうだろうか。たしかに緑字の括弧を繋いでいけばそうなるが普通にそれはありえるのか。上田で栖吉で上条であるという離れ業になぜ疑問を挟まず受け入れているのかわからない。
過去名簿の朴峰の項にはこうも書いてあるー上杉弾正少弼御新造立ーと。この御新造を為景妻に当てはめたのか、為景が上杉弾正少弼を自称したであろうとするのには特に異議を唱えたい。
様々な解釈があって然るべきだが、主筋の上杉二人も涅槃に送った戦国の鬼長尾為景が上杉を自称する必要があるのか、定実は生きているのに。そんなになりたければ晴景を無理矢理定実の養子にし上杉を継がせれば済む話だ。定実は幽閉中、それぐらいの権力はあっただろう。
なによりそんな姑息な為景は嫌である。実際初期は晴景は定実の婿であり猶子であったとも聞く。だがそれをやめて自ら幕府に近づき将軍から直接晴景に偏諱をもらっている。幕府をバックに長尾のまま主権を正当化しようとした。それが為景だと思う。
自分は顕吉が栖吉城主であるとか朴峰であるとかいうのがどうしても信じられないし、青岩院が天甫喜清だとも思えない。この著者の主張である顕吉が上田庶流だというのはわからないし、越の十郎景信が孫とかいうのはもっとわからない。
なぜか。上杉御年譜に入っている上杉系図や外姻譜略が越後過去名簿に触れたことで何か違うと感じたからだ。江戸時代に編纂された上杉史料はまず謙信ありきなのではないか、そこから解釈され編纂されていったのではないか。この謙信ありきが見方を狂わせているのではないかと思ったからだ。
そういう意味で見ると、この180ページの系図はこれを基にして組み立てて行くのに適した史料なのだろうかと思う。江戸時代に作られた系図はその時代の思想・思考・嗜好・思惑が反映されている気がするので、一端これを排除して見て行く必要があるのではないか。基礎となる系図の選び方が解釈の違いを生むのだろうと思うが、自分はこの越後過去名簿と同年代史料に近い天文上杉長尾系図と発給文書のみで見ていきたいと思っている。いき詰まった時に他に助けを求めればよいのではということで。
この本では顕吉は上田庶流なので本来の正統である甥の房長が上田当主を継いだので上田から古志へ移り栖吉に居を定めたとしている。だから栖吉城主とされたのであろうと。しかし房長が一線に立っているとき房景が栖吉城主としてそこにいるのである。この本では古志長尾は蔵王堂を根拠にしており栖吉長尾と系統が違うとしているが只見書状の中に栖吉の城が完成し引っ越しが終わり御家風の者ども皆祗候したというのがあるので蔵王堂にいた長尾が栖吉に引っ越したのは間違いない。だから顕吉が上田から栖吉城主になるというのはありえないのだ。普済寺が持っていた栖吉領を殿に引き渡すという書状が残っているし、豊州段銭日記の豊州様(房景)領にも栖吉は間違いなく入っている。
「越後過去名簿清浄心院」に朴峰は上条入道と書いてあり、長尾為景御新造御腹様である春円慶芳は上杉トノ上条殿上(上条殿の奥様の意味)と記されている。林泉寺文書では二人は仲良く並び、天甫喜清(為景御新造様)の御尊父の記述があり彼らは為景の舅、奥方の両親であることがわかる。顕吉=朴峰なら顕吉は上杉トノで上条入道ということになる。ではなぜ上田長尾の顕吉が上条入道になり得るかというと孫の越ノ十郎こと景信が上条上杉十郎トノの家に養子にいったからそう呼ばれたということらしい。その前に孫が養子にいったからといって祖父が養子先の名字で呼ばれるなど聞いたことがないのだが。もしそれがあるのなら養子に行ったのは顕吉ということにならなけらば上条とは呼ばれないのではないだろうか。
それになぜ上杉十郎に養子にいったのに「越の」なのだろう。十郎がつけば養子先だでは短絡的すぎないだろうか。その意味では「越の十郎景信は顕吉の孫である」も彼が
越のである限り信憑性はなくなる。むしろ能景の時代長尾飯沼検地帳に出てくる栃尾周辺に領地を持っている古志六郎右衛門尉に注目するべきではないのか。なぜわざわざ古志のとか越のとか同じ冠がついているのか。越の十郎はこの六郎右衛門尉の子孫とみるべきではないか。どうしても孫にしたいなら女系とするべきだ。養子というのはあるかもしれないが。肥前守顕吉は永正の乱後穴沢桜井などと被官契約を結んでいる書状があるのでそのときまでは確実に上田topで動いている。自分は越の十郎が上杉十郎になったのは謙信が憲政の養子になった後だと思う。謙信が持っている所領、守護上杉の御料所、管領領、守護代領の内、案外守護定実の領地を分け与え断絶した定実の跡として上杉と名乗ったのではないかと密かに思っているのだが…。
不思議に思っていることがあって顕吉=朴峰が本当なら青岩院=天甫喜清ということだろう。朴峰は上杉トノ上条入道なのだからなぜ上杉の女なりにならないで栖吉城主の女なりなのだろう。
江戸時代の養子の考え方なのかしばしば権威付けというか意味づけみたいなものを感じることがあって、直江兼続の母は直江から来た人。だから直江を継ぐ正統な理由があるのだみたいな。本当は泉氏でも。謙信でいえば藩翰譜に「尊氏の母清子の兄越前守頼成、その三男兵庫頭藤景、始めて長尾の家を継ぐ、これ輝虎の先祖なり云々」とこの人は上杉から養子に行ったのは本当らしいが千秋長尾氏で越後長尾とはあまり関係ないのにわざわざ意味づけを新井白石がしてくれたりしている。天甫喜清が上杉の娘と知れ渡っていたのなら、もっと近くに事例があるのにと不思議な気になるのだ。
で考えられるのは謙信の母は栖吉の娘というのは動かし難い事実だったからではないかということ。
青岩院≠天甫喜清、顕吉≠朴峰というのが持論なのだが、なぜ房景ではなく顕吉なのかの疑問はある。自分はこれを景勝方の都合なのではと思った。景勝が謙信の養子としての正当性を印象づけるための。景勝の母の母は天甫喜清はこの上杉景虎本の表紙でわかる。つまり上条上杉の娘、仙洞院はその孫である。謙信と上杉で繋がっている方が権威として良いのではと思うのだがそんなものには目もくれず、謙信の母は長尾肥前守顕吉の娘と景勝の曾祖父は長尾肥前守顕吉で繋がろうとしたのではないか。景勝の子孫にとって上杉よりも謙信とより深い血筋を構築する方が大事だったのではないか。
謙信の母は為景の正妻。これを誰も疑わず青岩院殿天甫喜清と二人を一緒にしてしまった。これが系図を狂わせている原因だと思っている。
陣代説も少し語りたい。
自分は道満丸が越後当主となるには正当性も求心力も足りているとは思えないのでこの説はとれないが面白い解釈が二つばかりあったので少し調べてみた。
それは実城は隠居号であるという説と御名代の解釈の二つ。
実城とは本当に隠居した当主に使われる称号であると断じて良いのか、疑問に思ったのが一つ。
氏康は隠居しても本丸を動かなかったので御屋形様が氏政になったのだから別呼びで御本城様なのだろう。伊豆に隠居したら伊豆様だったのではないか。隠居しなくても住む場所でそう呼ばれるのではないのか。例えば米沢新田藩の上屋敷は、麻布にあった上杉宗家中屋敷の一角にあったので藩主は「麻布様」と呼ばれていた。同時代では、ここで由良が証拠としてあがっているのだが、金山城に年始に行く僧の日記に実城親子とか実城様(成繁)、六郎様(国繁)という表現が出てくる。成繁は隠居して柄杓山城に移ったのでこれは隠居前である。だから由良には当て嵌まらない。当主として実城と呼ばれているのである。こういうのもあった金山城実城ご一族、家老横瀬泰繁…この場合は岩松が当主で実城と呼ばれているのだろう。
謙信の場合本当に景虎が来てから御実城様と呼ばれたのか。じつは永禄十二年八月六日本庄美作守から中条藤資宛ての書状の中に「…御実城江少も無御粗略意趣存知候、黒川方云々」と書いているのがある。黒川と中条の領地争いに関する書状で一連のやりとりが何通もの書状に渡って出されている。永禄十二年八月は越相同盟が締結したばかりで、幼い国増丸が証人として出されることになっていた時期。武田が北条攻め決断前で北条の交渉も強気な時だし、関東味方衆にはそっぽをむかれるというまだ詰める所がたくさんあった時期である。ここで隠居というのはわからない。この書状はすべて中条宛で謙信の呼び方はばらばらだ。新発田は屋形様と上様、山吉は上様と御意、直江は上様、本庄は御実城、屋形様と好きに呼んでいるとしか思えないのだが明確な使い分けは御意ぐらいしかわからない。とりあえず御実城呼びは景虎の養子前に使われていた事は記しておく。
二つ目の御名代の解釈についてである。
芦名の兵が平等寺薬師堂に残した落書、原文が『上杉景虎』の巻末ににのっているのでこの御名代の部分を引用させていただくと
…謙信さま御とんしニ付而、三郎殿・喜平次殿御名代あらそひ、国中いこいこ(繰り返し記号く)に候条、三月末黒川ミのき衆小国の地より乱入…
●陣代説を採る『関東戦国史と御館の乱』の解釈では「三郎殿と喜平次殿が御名代を争い、越後中が大混乱になりました。」と訳し、この時代の名代は代理人をいい、家督の絡む場合は御名代は後見人をさすとする。つまりこの二人のどちらが道満丸を後見人として保護するかを争ったとする。
●『上杉景虎』では御名代はすぐ直前の謙信さま御頓死に付而に掛かる意味で用いられていると解釈し、謙信の代わりにその権力の座につこうという景虎景勝両者の相続争いだとしている。訳は「三郎殿・喜平次殿が後継の座を争い、国中が対立した。」
●大日本史料のなかにこの文の要約が載っていた。先人達はどのように訳しているか上げてみたい。
「謙信頓死故、喜平次・三郎争国、家臣互国中相分、会津亦窺隙、同下旬之頃、自小国侵襲…」
喜平次と三郎が国争い(家督争いの意味だろうか)したので、国中の家臣がどちらか支持する方に分かれた、三郎喜平次どちらかについた家臣つまり彼らの言い分のわかる代理として争ったみたいな意味だと思う。この場合の御名代は家臣ということになる。
阿賀町のガイドブックでは黒川ミのき衆のミは(之ヵ)となっていて、黒川の軒衆なら意味が通じる。(ミのき衆のみのきは実城と読む事も出来るようだ。)このように手書き文字だと見る人によって読み方が違ったりする。この文を大日本史料で検索すると集古文書と新編会津風土記と二つ出てくる。会津風土記の方は「御名代あらそひ」だが、もう一つの方は「御名代打そひ」となっている。打そひは加わるという意味だ。
これが落書原文の一部、どちらに読めるだろうか。自分はひらがなであらそひのほうが近いと思うが、打にみえなくもない。打そひなら家臣の意味が自然になる。先人の要約はあらそひでも家臣の意味にとっている。
実は自分もこれは家臣の意味だと思うのだけれど、なぜかというと上記二冊どちらも「いこいこに候条」を訳していない。これがわからなければ全体が訳せないのではないかと思い、このいこいこの意味を考えてみた。まさかいいこいいこではないだろうし、行こう行こうでもないだろう。古文は濁点を記さないことが多いのでいごいごでいごきつまり動きの意味で広島などで使われる方言いごいご、落ち着きがないとかざわざわしているという意味にとれなくもないが、会津の方言をさがしたけれどいごいごはなく、このいこは依怙贔屓の依怙にあたるのではないかと思ったのだ。これは一方に肩入れするという意味になり国中の家臣達がどちらかに荷担し真っ二つに分かれたもしくはいがみあったとなる。自分にはこれが自然に思えたので家臣と取りたい。
残念だが自分には隠居号も御名代も陣代説の傍証にはなりえないと思う。