目を覚ませとよぶ声が聞こえ…

歴史とかゲームとか本とかそんなものの覚え書き

上杉謙信の嫁というパワーワード!!

2019-12-30 17:30:41 | 上杉
某TV番組での黒田先生の謙信に妻がいたと言う資料が見つかった発言。その資料ってなんだ。
下に沈んでいるうちに世の中変わってしまったのか。
あまりの事にのこのこ出てきてしまった。謙信様はロマンなのにあのさりげない衝撃発言。

知ってしまう前に自分がチラッと思っていたことを書いてしまおうと思う。あさっての方向かもしれないから。

謙信が嫁を貰うタイミングというか可能性は3回あると思う。栃尾に行った時と長尾晴景の養子の時と上杉の名跡を継いだ時。上杉の養子の時は近衛の手紙とかで婚姻の祝いの感じがしない。
なので栃尾の姫か晴景の娘のもとに婿養子に入った可能性の方があるのではないか。
晴景は兄弟だからそのまま養父の方がありかもしれない。現代でもあることだし。だが戦国時代である。叔父姪はまああるけど、特に母が違う場合は結構あるけれど。どう考えてもこのとき晴景の娘がいたとしたら幼女かな・・・だから女の匂いがしないとか。しかし晴景の息子が成人したら譲ると言っていたようだし。息子は幼くして亡くなってしまった様だ。
栃尾ならどうだろう。栃尾の娘と婚姻することで古志の領主になった。思い出して欲しい。謙信が栃尾に来て「近隣諸将命に服せずの時(天文12年)」に警護をしていたのは長尾房長だったことを。(越後以来穴澤先祖留書) 嫁の父か母が上田出身の可能性が高いのではないか。自分は母親ではなく父親が上田出身だったのではないかと思っている。というのも超億宗了と超外宗公禅定門の類似が気になったからだ。天文10年に亡くなった真六殿こと超億宗了(越後過去名簿)がその人ではないか。越前が供養している。ちなみに超億宗了と(林泉寺文書)の超外宗公禅定門(古志のしんそう)と同一人物と考える。まあ婿殿を供養することもあるだろうから言い切れる訳ではないけれど。(上田出身の父である方が警護に出やすそうではある)母なら長尾肥前の娘と言うことで青岩院との混乱の原因でもあるかもしれない。いずれにせよ栃尾の主が亡くなった事で謙信が継いだ。上田の血を引く姫君と婚姻、婿養子というかたちで栃尾を継いだ。謙信は上田の養子でもあるということ。上田方は栃尾と縁続きでいたい。上田長尾房長による影響力を持ちたいからの謙信警護だったのではないか。と言うことで嫁がいたとしたら栃尾推しである。


御館の乱二冊

2011-06-17 03:34:21 | 
       



遅ればせながら上杉景虎についての2冊

どちらも上杉景虎を表題に置いているが主眼は御館の乱の勃発経緯と後継者であり、同時代史料を駆使し公平な視点で描こうとしていることで大いに参考に出来るありがたい本となっている。

はじめに関東情勢から始まって、北条三郎、越相同盟、後継者の諸説、御館の乱は家督争いではない事、三条手切いわゆる神余親綱との確執が乱のきっかけになったことなど流れはほぼ一緒なのに、後継説の結論が違うのが面白い。

分岐点は謙信が景虎をどう捉えていたかの評価が違うことだろうか。

『関東戦国史と御館の乱』

驚きの道満丸後継、景勝陣代説という先達の諸説に加わるべき新説を堂々と打ち出した一冊。

三郎が跡目をつぐ前提で越後に入ったけれど、北条手切れになってしまったことで関東諸将の手前跡継ぎにできず、景勝を跡目にすれば後継者変更で家中が分裂してしまう。(これは家臣がはじめから景虎が後継である事を承知していたという前提なのだろうか。北条手切れ後も景虎の位置は景勝と変わらないとしている。)そこで景虎の息子で景勝の甥でもある道満丸を後継者にし、景勝を陣代とすることで無用の政争を回避しようとしたとする。陣代ならば実城にすんなり入ったことも説明がつく…。

この陣代説の是非はともかく、自分が一番面白かったのは六章、七章の御館の乱の戦闘シーン。テンポが良く映画を見ているような臨場感があり一気に読んでしまった。しかし終章の文は、少し大げさすぎてせっかくの説を北条景虎を主役とすべくその物語におとしてしまった感がある。それまでの新説を裏付けていく丁寧な作業が秀逸なだけにちょっと残念に思った。いずれにせよこの陣代説は自分なりの検証をしてみたくなる誘惑の本でもある。自分は景勝後継説支持派なので総括はいらないと言われても後で少しその誘惑を書いてみたいと思う。


『上杉景虎』

こちらはその景勝後継説である。

謙信は景勝を後継と定めていた。なぜならこの継承に誰も異議を唱えていない。後に乱の中心になる神余や北条(きたじょう)も初期段階では景勝にこの書状を披露して欲しいとその政権を認めているし、四月三日に訪れた弔問の芦名の使者を景勝景虎とも恙なく迎えておりこの時点で外交に支障をきたす抗争は起きていないとする。景虎は三条手切れによって景勝と対立した神余とその仲間上杉憲政や本庄清七郎の御館側に家督継承を条件に抱き込まれ挙兵したという説である。
 

自分は北条手切れを経てなお景虎後継に目があると思えるのか不思議でならなかった。
謙信が中城を造営しそこに景勝を入れ、御中城様と呼ばせ、名と官を与え越後一二の師団をもたせた、これが後継でなくてなんなのかと思っていた。上杉三郎は謙信の養子になったと言えど北条の証人である。同盟の終焉によりその条件である養子については、管領は上杉に譲るが血は北条でという盟約があったかもしれないがそれは当然破棄。部屋住みに戻る、寺に入る、実家に戻るが普通ではないのか。よもや廻りも本人すらも後継になれるなど考えていなかったのではないか。景虎が帰らないのは家庭を持ちそれなりに幸せであり、北条に戻ったとしても自分に居場所はないのではないかと考えていて、それこそ謙信の徳と三郎景虎の人品により幽閉だの処刑だの考えるまでもなく娘(姪)の婿としての身分を保障してくれていたからではないかぐらいの感じで思っていた。

しかし家督争いではないとしたら史料に流れる景勝と景虎の不穏さ、不安定さは何かと考えあぐねていたのだが、自分なりにすとんと納得できる答えがこの本に書かれていた。

p211~p212の『上杉家記』の引用。 景勝母仙洞院は、景勝が家督を相続すると、憲政に計策し景虎親子の将来のため所領割譲を一門に議した。上杉十郎景信、山本寺伊予守は同意し、上条政繁、山浦国清、景勝は同意しなかったという。母は景虎を自立させようと憲政達と計った。同意者の数を募ったのだろうか。北条や武田の勢威を思慮するものも現れ、上杉管内を二分して対立、争乱の起因を為したという。

母にしてみれば息子を藩主に付けて一安心。次ぎは娘の幸せのことを考える。婿が部屋住みの証人、軟禁状態では娘も孫もかわいそうだ。生計を立てられる上杉庶系領主として独立させてやりたいと思っても不思議はない。もう息子を脅かす存在ではないのだから自立させてやっては母心だと思う。しかし息子は母さん甘すぎる。奴のバックには北条がいるんだぜ。とばかり反対する。すんなり通ると思っていたのに息子はわかってくれないとうまくいかないことに意地になってしまったのではないか。母のやり過ぎが家臣達を徐々に二分していく。体制に与える影響はすぐにはなかったかもしれないが、景虎の気持ちは暗澹たるものになっていったのではないか。それに呼応するように、景虎を慕うものや、景勝政権では出世が見込めないもの、謙信初期に重用されるも遠ざけられていったもの達などそれぞれの派閥をこしらえていったのではと想像できる。
三条手切れが、そこに流れていた空気の引き金になり、たかだか地方領主の反乱が、越後を二分する乱に発展していった背景が見えたと思った。

景虎後継説の証拠といわれる由良の書状も納得できる解釈だと思う。「不思議の使い候間、…景虎江御家督参候由承及、目出御本望令察候」確かに景虎への御家督はふってわいたという印象を受ける文面だ。

神余が景虎を御旗にしたゆえ、端から見たら家督争いに見えた流れだが、不満がそれぞれ違うものの寄せ集めであったゆえに上田衆中心に一枚岩の景勝方に遅れをとったのだろうか。景虎の孤軍奮闘が痛々しい。

豊富な史料を駆使し、巻末に原文を載せ年表まで付けてくれている丁寧で重厚な一冊。

景虎に関する一連の流れは納得できる結論が多くわかりやすかった。しかし丁寧な解説は時に流れを分断しているようにも感じられ、各章にはさまる上杉一門や長尾一門の系譜などは自分の考え方と全く違うこともあるのだろうが、緩慢な気がして一気に読破というワケにはいかなかった。


                


ということでここから少し私的解釈を

長尾顕吉についてだが、上田長尾出身で(発行文書等で上田長尾でであるとしか思えない)、古志長尾にはいり(「謙信公御書集」に栖吉城主長尾肥前守顕吉で謙信の母青岩院は娘とある)、上条入道(「外姻譜略」に顕吉は朴峰永浮とあり、朴峰は清浄心院越後過去名簿において上条入道とかいてある。)になったというのはどうだろうか。たしかに緑字の括弧を繋いでいけばそうなるが普通にそれはありえるのか。上田で栖吉で上条であるという離れ業になぜ疑問を挟まず受け入れているのかわからない。

過去名簿の朴峰の項にはこうも書いてあるー上杉弾正少弼御新造立ーと。この御新造を為景妻に当てはめたのか、為景が上杉弾正少弼を自称したであろうとするのには特に異議を唱えたい。

様々な解釈があって然るべきだが、主筋の上杉二人も涅槃に送った戦国の鬼長尾為景が上杉を自称する必要があるのか、定実は生きているのに。そんなになりたければ晴景を無理矢理定実の養子にし上杉を継がせれば済む話だ。定実は幽閉中、それぐらいの権力はあっただろう。なによりそんな姑息な為景は嫌である。実際初期は晴景は定実の婿であり猶子であったとも聞く。だがそれをやめて自ら幕府に近づき将軍から直接晴景に偏諱をもらっている。幕府をバックに長尾のまま主権を正当化しようとした。それが為景だと思う。


自分は顕吉が栖吉城主であるとか朴峰であるとかいうのがどうしても信じられないし、青岩院が天甫喜清だとも思えない。この著者の主張である顕吉が上田庶流だというのはわからないし、越の十郎景信が孫とかいうのはもっとわからない。

なぜか。上杉御年譜に入っている上杉系図や外姻譜略が越後過去名簿に触れたことで何か違うと感じたからだ。江戸時代に編纂された上杉史料はまず謙信ありきなのではないか、そこから解釈され編纂されていったのではないか。この謙信ありきが見方を狂わせているのではないかと思ったからだ。
そういう意味で見ると、この180ページの系図はこれを基にして組み立てて行くのに適した史料なのだろうかと思う。江戸時代に作られた系図はその時代の思想・思考・嗜好・思惑が反映されている気がするので、一端これを排除して見て行く必要があるのではないか。基礎となる系図の選び方が解釈の違いを生むのだろうと思うが、自分はこの越後過去名簿と同年代史料に近い天文上杉長尾系図と発給文書のみで見ていきたいと思っている。いき詰まった時に他に助けを求めればよいのではということで。

この本では顕吉は上田庶流なので本来の正統である甥の房長が上田当主を継いだので上田から古志へ移り栖吉に居を定めたとしている。だから栖吉城主とされたのであろうと。しかし房長が一線に立っているとき房景が栖吉城主としてそこにいるのである。この本では古志長尾は蔵王堂を根拠にしており栖吉長尾と系統が違うとしているが只見書状の中に栖吉の城が完成し引っ越しが終わり御家風の者ども皆祗候したというのがあるので蔵王堂にいた長尾が栖吉に引っ越したのは間違いない。だから顕吉が上田から栖吉城主になるというのはありえないのだ。普済寺が持っていた栖吉領を殿に引き渡すという書状が残っているし、豊州段銭日記の豊州様(房景)領にも栖吉は間違いなく入っている。

「越後過去名簿清浄心院」に朴峰は上条入道と書いてあり、長尾為景御新造御腹様である春円慶芳は上杉トノ上条殿上(上条殿の奥様の意味)と記されている。林泉寺文書では二人は仲良く並び、天甫喜清(為景御新造様)の御尊父の記述があり彼らは為景の舅、奥方の両親であることがわかる。顕吉=朴峰なら顕吉は上杉トノで上条入道ということになる。ではなぜ上田長尾の顕吉が上条入道になり得るかというと孫の越ノ十郎こと景信が上条上杉十郎トノの家に養子にいったからそう呼ばれたということらしい。その前に孫が養子にいったからといって祖父が養子先の名字で呼ばれるなど聞いたことがないのだが。もしそれがあるのなら養子に行ったのは顕吉ということにならなけらば上条とは呼ばれないのではないだろうか。

それになぜ上杉十郎に養子にいったのに「越の」なのだろう。十郎がつけば養子先だでは短絡的すぎないだろうか。その意味では「越の十郎景信は顕吉の孫である」も彼が越のである限り信憑性はなくなる。むしろ能景の時代長尾飯沼検地帳に出てくる栃尾周辺に領地を持っている古志六郎右衛門尉に注目するべきではないのか。なぜわざわざ古志のとか越のとか同じ冠がついているのか。越の十郎はこの六郎右衛門尉の子孫とみるべきではないか。どうしても孫にしたいなら女系とするべきだ。養子というのはあるかもしれないが。肥前守顕吉は永正の乱後穴沢桜井などと被官契約を結んでいる書状があるのでそのときまでは確実に上田topで動いている。自分は越の十郎が上杉十郎になったのは謙信が憲政の養子になった後だと思う。謙信が持っている所領、守護上杉の御料所、管領領、守護代領の内、案外守護定実の領地を分け与え断絶した定実の跡として上杉と名乗ったのではないかと密かに思っているのだが…。

不思議に思っていることがあって顕吉=朴峰が本当なら青岩院=天甫喜清ということだろう。朴峰は上杉トノ上条入道なのだからなぜ上杉の女なりにならないで栖吉城主の女なりなのだろう。

江戸時代の養子の考え方なのかしばしば権威付けというか意味づけみたいなものを感じることがあって、直江兼続の母は直江から来た人。だから直江を継ぐ正統な理由があるのだみたいな。本当は泉氏でも。謙信でいえば藩翰譜に「尊氏の母清子の兄越前守頼成、その三男兵庫頭藤景、始めて長尾の家を継ぐ、これ輝虎の先祖なり云々」とこの人は上杉から養子に行ったのは本当らしいが千秋長尾氏で越後長尾とはあまり関係ないのにわざわざ意味づけを新井白石がしてくれたりしている。天甫喜清が上杉の娘と知れ渡っていたのなら、もっと近くに事例があるのにと不思議な気になるのだ。

で考えられるのは謙信の母は栖吉の娘というのは動かし難い事実だったからではないかということ。

青岩院≠天甫喜清、顕吉≠朴峰というのが持論なのだが、なぜ房景ではなく顕吉なのかの疑問はある。自分はこれを景勝方の都合なのではと思った。景勝が謙信の養子としての正当性を印象づけるための。景勝の母の母は天甫喜清はこの上杉景虎本の表紙でわかる。つまり上条上杉の娘、仙洞院はその孫である。謙信と上杉で繋がっている方が権威として良いのではと思うのだがそんなものには目もくれず、謙信の母は長尾肥前守顕吉の娘と景勝の曾祖父は長尾肥前守顕吉で繋がろうとしたのではないか。景勝の子孫にとって上杉よりも謙信とより深い血筋を構築する方が大事だったのではないか。

謙信の母は為景の正妻。これを誰も疑わず青岩院殿天甫喜清と二人を一緒にしてしまった。これが系図を狂わせている原因だと思っている。



陣代説も少し語りたい。

自分は道満丸が越後当主となるには正当性も求心力も足りているとは思えないのでこの説はとれないが面白い解釈が二つばかりあったので少し調べてみた。
それは実城は隠居号であるという説と御名代の解釈の二つ。

実城とは本当に隠居した当主に使われる称号であると断じて良いのか、疑問に思ったのが一つ。
氏康は隠居しても本丸を動かなかったので御屋形様が氏政になったのだから別呼びで御本城様なのだろう。伊豆に隠居したら伊豆様だったのではないか。隠居しなくても住む場所でそう呼ばれるのではないのか。例えば米沢新田藩の上屋敷は、麻布にあった上杉宗家中屋敷の一角にあったので藩主は「麻布様」と呼ばれていた。同時代では、ここで由良が証拠としてあがっているのだが、金山城に年始に行く僧の日記に実城親子とか実城様(成繁)、六郎様(国繁)という表現が出てくる。成繁は隠居して柄杓山城に移ったのでこれは隠居前である。だから由良には当て嵌まらない。当主として実城と呼ばれているのである。こういうのもあった金山城実城ご一族、家老横瀬泰繁…この場合は岩松が当主で実城と呼ばれているのだろう。

謙信の場合本当に景虎が来てから御実城様と呼ばれたのか。じつは永禄十二年八月六日本庄美作守から中条藤資宛ての書状の中に「…御実城江少も無御粗略意趣存知候、黒川方云々」と書いているのがある。黒川と中条の領地争いに関する書状で一連のやりとりが何通もの書状に渡って出されている。永禄十二年八月は越相同盟が締結したばかりで、幼い国増丸が証人として出されることになっていた時期。武田が北条攻め決断前で北条の交渉も強気な時だし、関東味方衆にはそっぽをむかれるというまだ詰める所がたくさんあった時期である。ここで隠居というのはわからない。この書状はすべて中条宛で謙信の呼び方はばらばらだ。新発田は屋形様と上様、山吉は上様と御意、直江は上様、本庄は御実城、屋形様と好きに呼んでいるとしか思えないのだが明確な使い分けは御意ぐらいしかわからない。とりあえず御実城呼びは景虎の養子前に使われていた事は記しておく。

二つ目の御名代の解釈についてである。

芦名の兵が平等寺薬師堂に残した落書、原文が『上杉景虎』の巻末ににのっているのでこの御名代の部分を引用させていただくと

…謙信さま御とんしニ付而、三郎殿・喜平次殿御名代あらそひ、国中いこいこ(繰り返し記号く)に候条、三月末黒川ミのき衆小国の地より乱入…

●陣代説を採る『関東戦国史と御館の乱』の解釈では「三郎殿と喜平次殿が御名代を争い、越後中が大混乱になりました。」と訳し、この時代の名代は代理人をいい、家督の絡む場合は御名代は後見人をさすとする。つまりこの二人のどちらが道満丸を後見人として保護するかを争ったとする。

●『上杉景虎』では御名代はすぐ直前の謙信さま御頓死に付而に掛かる意味で用いられていると解釈し、謙信の代わりにその権力の座につこうという景虎景勝両者の相続争いだとしている。訳は「三郎殿・喜平次殿が後継の座を争い、国中が対立した。」

●大日本史料のなかにこの文の要約が載っていた。先人達はどのように訳しているか上げてみたい。
「謙信頓死故、喜平次・三郎争国、家臣互国中相分、会津亦窺隙、同下旬之頃、自小国侵襲…」
喜平次と三郎が国争い(家督争いの意味だろうか)したので、国中の家臣がどちらか支持する方に分かれた、三郎喜平次どちらかについた家臣つまり彼らの言い分のわかる代理として争ったみたいな意味だと思う。この場合の御名代は家臣ということになる。

阿賀町のガイドブックでは黒川ミのき衆のミは(之ヵ)となっていて、黒川の軒衆なら意味が通じる。(ミのき衆のみのきは実城と読む事も出来るようだ。)このように手書き文字だと見る人によって読み方が違ったりする。この文を大日本史料で検索すると集古文書と新編会津風土記と二つ出てくる。会津風土記の方は「御名代あらそひ」だが、もう一つの方は「御名代打そひ」となっている。打そひは加わるという意味だ。

これが落書原文の一部、どちらに読めるだろうか。自分はひらがなであらそひのほうが近いと思うが、打にみえなくもない。打そひなら家臣の意味が自然になる。先人の要約はあらそひでも家臣の意味にとっている。

実は自分もこれは家臣の意味だと思うのだけれど、なぜかというと上記二冊どちらも「いこいこに候条」を訳していない。これがわからなければ全体が訳せないのではないかと思い、このいこいこの意味を考えてみた。まさかいいこいいこではないだろうし、行こう行こうでもないだろう。古文は濁点を記さないことが多いのでいごいごでいごきつまり動きの意味で広島などで使われる方言いごいご、落ち着きがないとかざわざわしているという意味にとれなくもないが、会津の方言をさがしたけれどいごいごはなく、このいこは依怙贔屓の依怙にあたるのではないかと思ったのだ。これは一方に肩入れするという意味になり国中の家臣達がどちらかに荷担し真っ二つに分かれたもしくはいがみあったとなる。自分にはこれが自然に思えたので家臣と取りたい。

残念だが自分には隠居号も御名代も陣代説の傍証にはなりえないと思う。










上条家は謎だらけⅢ 上条定憲の不思議

2011-02-26 18:46:32 | 直江兼続
上杉系図は、家督相続継承の系統を記した系図であるのだから枝葉は載っていないのは当然といえるかもしれない。上条自体が上杉にとっては枝葉と言ってしまえばそれまでだが、天文長尾上杉系図には最勝院殿御家(清方が作り房実がついだとされるいわゆる上条家)なるものが載っていて、上条家の系図が表されている。しかし上条当主であるはずの上条定憲は載っていない。彼は普通に上条当主として認識されているはず。例えば天文年、大宝寺と砂越との間に争いがあった時、大宝寺から定憲へ調停の依頼があり、本庄房長を派遣し調停させている。時代が下り大宝寺義氏の時代になると本庄繁長を通じ謙信に調停依頼を出しているのでその位置がわかろうというもの。他の系図、上杉文書(米澤家譜など)は長福院齢仙永寿と混同されているというものがあるぐらいで、むしろそれ以外皆無という感じなのだ。

そのなぜを考えるなら、「やはりその後政権をとった長尾家の政敵だったから。」ということになるのだろう。しかし政敵であることだけで普通はそんなことはないはず。定憲の消息を消したわけはなにかを見て行きたい。

天文上杉長尾系図はでみてきたように謙信初期に作られた系図なので父為景が得ていた白傘袋毛氈鞍覆の格式や息子への将軍からの偏諱など守護級の格式にけちがつかないように、あるいは守護定実の死を受け自分がその格式になるために必要な系図であったと思われるので、父の権力争いの相手を意識的に排除したと考えられる。

その他系図は江戸時代に作成されたものなのでそこまでの意図はなく、時代が下がってうやむやになってしまって、都合良く諱のわからない法名に法名のわからない諱を当てはめたぐらいのことだったのではないか。しかし清浄心院過去名簿によって長福院は大永二年になくなっていることがわかり、定憲は法名常泰泰林永安、天文五年の死亡が記されているのだ。ここではっきりと定憲と長福院は別人であるという認識が必要だと思う。

長福院ではないということは朴峰の息子ではないということ。(断言はできないが前に『上条家と長尾家 林泉寺文書と高野山清浄心院「過去名簿」に見るその関係2』でみたように定憲は朴峰の息子というよりは、為景の娘「理円祖芳」の夫だと考えている。)

では定憲の出自はどこにあるのだろう。定明の息子という系図もあれば、その注に顕定の実子で定明に養子に行ったのだという説、定明の子で顕定に養子に行き、戻って定明の名跡を継いだというのもある。しかし天文上杉長尾系図には定明は「十郎殿無御息」と記されている。

十郎殿に子供がいなかったということは定明養子説が有力ということなのか。ということは顕定の子供という方に信憑性はあるのか。もちろん長尾作為のもと定憲の痕跡を消すために「無御息」と註を入れた可能性は否定できない、定明の実子ということもあるかもしれない。


顕定は足利成氏の次男顕実を養子にし、上杉憲実の孫憲房たぶんその弟の十郎長茂憲明も養子にしていた。
なのに定憲が実子という可能性はあるだろうか。よしんば実子だとして、顕実は成氏の子であるから都鄙合体の象徴としてという政治的な意味もわからないではない。だが憲房はどうなのだろう。憲実の孫と自分の子だとしたら自分の子を跡継ぎにしたくならないのだろうか。例え政治的配慮で継承順が後だとしても顕実も憲房も顕定と10~15才くらいしか違わない。まてば我が子を管領にできる可能性が高いのにあっけなく養子にだしてしまえるものだろうか。定憲を実子としているのは北越軍記と盛衰通紀だが、北越軍記は相変わらず電波なのでいいとして、盛衰通紀は「憲実か孫上杉兵部少輔定憲を養子として、職をゆつられたり、又古河公方足利政氏の弟をも、顕定の養子として、上杉顕実と云々」とかいているので兵部憲房を書き間違ったものとわかる。上杉家譜の上杉氏系図で顕実、憲房、定憲が兄弟としているのがあるのだが、この定憲は十郎憲明であると考えた方が自然ではないだろうか。註に顕定と共に討ち死にとあるのは、「一、上条弥五郎相馳砌、寺泊要害為始長茂張陣之衆被除以来、各屋敷打明候間…云々」上条弥五郎(定憲)が駆けつけた時には長茂の陣は壊滅していたということで、ここで亡くなったのは十郎長茂。これを定憲と混同したもの、あるいは憲明の存在を知らなかったので定憲としたのではないだろうか。続群書類従上杉系図四十九には顕定・憲房・憲明が兄弟として載っているというこれもたいがいな系図なのだが憲明の註には「於越州討死」と上記を裏付ける一文がある。なので定憲の註の「顕定とともに討ち死」には憲明との混同であると言えると思う。一般的にも定憲実子説や系図の記載はほぼ間違いという認識でその信憑性が疑われている。

しかし顕定の子説にまったく目がないのかといえば、この顕定実子説を採っている森田真一氏の論文「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」で注目するべき記事がある。清浄心院発表前であることからか告峯=朴峰、長福院=定憲であるということから始まっているので、この説は自分とは違うけれど『花押』に関するところを参考にさせていただいた。定憲の伊達宛てに永正11年、藤原憲定の名で出している書状に押されている花押が房定、顕定の花押と酷似しているというもの。定実の永正4年守護に擁立されたものに比べ明らかに房定-顕定-定憲と位置付けられるのに相応しいものだと記している。(同論文8、9P)

自分もそれに似たことを感じたことがことがある。それは法名で房定は長松院殿慶泉常泰、定憲は常泰泰林永安、顕定は扶桑名画傳に可諄、或作可諄、皓峯と号し、また常泰と号す。とある。彼は絵画を良くし、梅花無尽蔵の万里集九(柳の絵)、京華集(文殊普賢像、春日山扇図、白鷺図)の横川景三などに()内の彼の画の賛詩があるという。扶桑名画傳は江戸後期に作られたものなので本当に常泰と号したのかは疑問だが、房定と定憲の常泰という共通名は何か関係があるのではと思わせる。例えば上杉景勝がその法名を宗心と号し、謙信への尊敬の念をあらわしたように、定憲は房定に特別な思いがあるのではないだろうか。ここでも房定-顕定?-定憲ラインが確認できるのである。定憲がわざわざ常泰をいれたのはやはり自分の出自をいれたかったのではと考える。自分は長松院家(房定の家系)の出であると。

可能性を考えてみよう。定憲は房定の孫であり、なにか事情によって房定に育てられた。房定の衰えと共に顕定に預けられたのではないか。房定の孫となると嫡男定昌、次男顕定、三男房能、芦名に嫁いだ娘、確認はできないが畠山に嫁いだ娘もいたらしい。この娘が子供を連れて出戻ってきた可能性もある。以外とこれが一番可能性が高いのかもしれない。養子にいくまで母の元で育ったとか。ただそれならば、なぜ男児がいない末弟越後守護房能の養子になれなかったのか考えなくてはならないだろう。長松院家と最勝院家の密なる連携のため、上条出身の定実は長松院家へ、定憲は最勝院家へという配慮があったというのはあるかもしれない。しかし定実は聟で嫁を貰ったのだから定憲と交換しなくても十分密なのではないか。それに房能の姉妹ならば我が子を生まれ育った長松院家に置き、守護になって欲しいと願うのではないか。

顕定の子で母の出自が悪く跡継ぎにできない場合も考えられるが、定憲の母は芳雲寺殿花芳公(大永4年卒)と立派な法名である。養父定明の妻とも考えられるが定明殿上様の字はなく、房定公御娘の字もない。上杉上条播磨守御母花芳公のみだがとても出自が悪い法名とは思えない。やはり顕定の子だとするのは苦しいと思う。

前述のように房能には男児がいない。自分の子供をわざわざ養子に出す必要はない。むしろなぜ定憲を養子に取らないかの方が不思議な気がする。

残るは長男定昌の子である場合だ。謎と言われる彼の死はよくわかってはいないが、その死の際、あまりにも幼子であったので彼だけ自刃することなく房定に預けられたとしたらどうだろう。定昌の死は様々言われているが、その頃敵であった扇ガ谷家による暗殺、長尾景春によるものなどに加え、越後衆房定配下の長尾能景沼弾正あたりが疑われている。房能が糸を引いたのではと房定が疑っていたとしたらどうだろうか。例えば越後衆、房定が守護の内は良いが、定昌が白井の殿様といわれ発智、尻高など上州に基盤を持ち、魚沼周辺を支配していた者達を重用していたと思われるし、実際発智景儀は追腹をしているわけで、定昌が越後守護になった暁には上州勢にその地位を奪われ、自分たちの居場所が無くなることを危惧していたとしたら、房能が部屋住みでいることを良しとしていなかったら、房能は定昌、顕定と母が違う。(天文上杉長尾系図に別腹と記されているし、1503年に顕定は板鼻の海竜寺で母親の13回忌の法要をしているが、房能の母芳賀大方は永正元年(1504年)長尾殿へ能景を通じ普済寺を引き渡し、その修理を依頼をしている。)その母が越後守護の地位に我が子を付けたいと思っていたら。越後衆、房能、その母の思惑が一致、犯行に及んだとしたら、本当はそうでなくても房定がそれを疑っていたとしたら、房定は幼い定憲を房能に託すことはできないのではないか。一端同母弟である顕定に預け、子のない上条宗家の養子にするという路線を房定が設定していたというのはどうだろうか。上条へ養子というのは大殿房定の遺言であったのならそこに必ず収まるのではないだろうか。そうだとしたら越後では安養院瑞室賀公(定昌)のことはタブーだったとも考えられ、定昌の法名を入れるより、自分の出自を潜ませる事が出来、房定に感謝の意を伝えることが出来ると言う意味で常泰をその法名におりこんだのではないだろうか。

後は、孫ではなく房定の実子の可能性もある。房定最晩年の子で、新妻は若くて出自もよかったりして、芳賀の大方の嫉妬をかい、上条に養子に出さざろうえなかったとか。

上条家から見たらどうなるのだろう。上条家の御曹司である定実が房能を討ち守護の座を手に入れた。長松院家から庶流である最勝院家への政権交代である。上条家としたら歓迎すべきことではないだろうか。そこに長松院家の管領殿が攻めてきたのだが、定憲は顕定側で戦っている。他の上条家の人たちはどうだったのだろう。定明とか朴峰とか定俊とか上条兵部とかこの時代の書状に名前の現れる人たち。定実の父と山吉伝記の写しにかかれている定俊は椎名陣屋にいて上杉憲明こと十郎長茂と戦っているから定実方は間違いない。上条兵部は為景の書状に名前がありその花押が永正5年~7年の間に使われたものだそうで、顕定乱入前後にあたる。ということは為景と行動を共にしていることになり、為景側つまり定実側ということになるだろう。定憲の養父定明はわからない。朴峰は為景の義父だがこれもわらない。が上条の人間なら自分の家系から守護が出たことを守りたいと思うのではないか。それでも上条弥五郎定憲が顕定についているのは、やはり定憲が顕定と猶子とか血の近さとかそういう関係にあったからではないのだろうか。

はじめから定明の子なら顕定方について戦う意味がわからないし、常泰とわざわざつけたこともわからなくなってしまう。少なくとも定憲は自分の法名に中央からも一目置かれていた房定と同じ号を入れても良い地位にいたということは間違いない。
これらのことから定憲は房定の血筋なのではないかと思う。

上記をふまえ天文系図に定憲の名がないことを考察してみる。

為景は越後守護房能の排除には、定実をたて傀儡といえど筋を通したといえる。しかし定実はそれを良しとせず、宇佐美と共に反抗する。定憲もこれに荷担敗北、伊達に例の花押の書状をだす。定実を幽閉せざろう得なかったことを為景自体も困ったのではないのだろうか。永正11年の為景からの安堵状が水原、安田、大窪宛にでていて「…御屋形様御定上、追而御判可申成者也、仍如件」とある。…新しい守護が就任したならば守護の判を押した文書をだします。ということだが、この新守護に自分の嫁天甫喜清の兄弟、朴峰の息子長福院齢仙永寿を定実の代わりに立てたのではと思っている。(中央には認められていなかったと思う。幽閉中の定実宛てに幕府から書状が来ているので)守護定実と同等の法名がその証拠になるのではないだろうか。上条家、しかも自分の義兄弟である。都合の良いことこの上ない。

この時の定憲を考えると、長福院の守護代行に対しては同じ上杉であるし、自分も敗戦側だし、後ろだてをなくしたこともあり為景の娘を貰うことで和解、おとなしくしていたのではないかと思っている。しかし長福院は大永二年三月十三日に死亡。この辺から為景の中央への接近があからさまになってゆく。贈り物攻勢により白傘袋毛氈鞍覆をゲット。晴景への偏諱。直臣待遇をものにし、次ぎの傀儡を立てることなく自ら守護になろうとした。この為景の行為に国内の反発は強かったのではないか。特に中央からの段銭要求に強権的に取り立てたことで国人が困り、自分の土地を担保に大熊から要求額を借りたりした旨が書状に残っている。それらのことを上条家当主であった定憲に相談。定憲は為景を討つことを決意する。国人達という後ろ盾ができたということもあるだろう。定憲にしてみれば為景が守護の様に振る舞うことにがまんができなかったのではないか。彼よりも守護になる資格があるのは自分であるはずと。こうして上条享禄天文の乱を起きたのではないか。反発する国人達が彼を頼り、担ぎ上げた。為景は芦名家臣山内氏に対し、この盾矛は大熊が定憲との間を離間させたからとその手紙に訴えているけれど、定憲的には上杉をないがしろにする其の方が許し難かったのではと思う。天文五年の三分一原の戦いが原因で定憲は亡くなったと思われる。大将を失いながらも定憲方は勝利したのだろう。為景の引退を引き出し、定実復活を果たしたのだから。晴景が守護代になったということは、為景方の顔もたてたということだろうか。

上条家に養子に出たとはいえ、房定の直系の子孫なのだとしたら、定憲の血筋は守護になりたい者達にとって地雷であったのかもしれない。定憲の死と共にひっそりと消してしまいたいことではなかったか。房能聟ということが政権を取る正当性としていた定実にとってもできるなら中央に隠しておきたい事実みたいなもの、自分の正統を危うくするものだったのではないか。また長尾家にとっても為景と定憲の争いは長尾家を簒奪者にしかねないものだったのだと思う。定憲は、顕定の敗北、その後組した定実・宇佐美の敗北によって後ろ盾のないまま、養子先の上条当主でいることを全うするしかなかった。しかし最後の抵抗をしたがゆえ、記録にも記憶にもその存在が残った。為景は正式に幕府から白傘袋毛氈鞍覆を貰っていたのだからかまわないと思うのだが、そこ(定憲)に真の正当性があるかぎり、若き謙信・その側近達には父やお家が傷つくことを良しとしなかった。時代が近くまだそのうわさや出来事を皆が共有していたから、その存在を正式文書から消してしまったのではないだろうか。妄想の域なのだろうが、定憲の系図抹殺をこのように考えてみた。





上条家は謎だらけⅡ 系図から

2010-12-07 01:34:14 | 直江兼続


浅羽本上条家の部分を抜粋してみた。特徴は房実の子供が上杉頼房・某兵庫頭と書かれている事。越後守護家の方に書かれている定実(養子にいった子供は養子先のみの掲載)の註に兵庫頭、猶子実房実子と載っているので3兄弟ということになる。
それと清方の嫡男と思われる定顕がのっていること。彼も兵庫頭である。
この兵庫頭のオンパレードは何か意味することはあるのだろうか。
はじめ某が兵庫頭と書かれているのは定実との混同だと思った。同時期に兄弟で兵庫頭はないだろうと思ったからなのだが、清方兵庫頭-定顕兵庫頭-定実兵庫頭-某兵庫頭と言う風に並べるとこれは上条宗家を指しているのではないかとちらりと思った。しかし某には上条少弼入道の註があるので、弾正少弼である可能性が高いと思う。この件は後で検証してみたい。

定実はともかく下記に載せた天文系図や清浄心院に出てくる十郎定明や朴峰の年代がすっぽりぬけているのはなぜだろうか。
彼らは房能と同年代であろうからそのとき立て続けに起こった房能、顕定、宇佐美、上条定憲との争いの混乱で、後世史料を確認する段階でわからなくなってしまった事が考えられる。この浅羽本の成立時期は、幕府提出のため、定勝が林羅山に系図作成を依頼したものか、それ以降のもの。深谷上杉の系図を参照に作られたのものが基礎になっているという。(参考片桐昭彦氏「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」)
武蔵の深谷上杉に越後の分家庶家の系図までわかれというのは酷な話で、それでもこの浅羽本は上条上杉最後の人物頼房と兄弟某が載っている。清浄心院名簿において、大永年卒の彼の名前はわからず某、天文二十二年卒の謙信だと思われる人物春日山平三が供養した頼房の記録はかろうじてというところなのだろうか。





こちらも上条家(最勝院殿御家と房実(朝日寺殿)の御息だという定実のみ(当国太守次第=越後守後家)をピックアップしてみた。上記系図と比較するとその違いは陽谷院殿天祥祖晃である十郎定明が新たに加わり、文字だけだが朴峯が出てきたことである。そして浅羽本の某が、上条少弼入道の事也と書いてあることで長福院殿齢仙永寿が彼の事だとわかる。上記浅羽本では頼房が上に書いてあったが実は某=長福院殿で頼房は御舎弟だということ、このぐらいだろうか。
頼房は定実の御孫これはないだろう。長福院は朴峰の息子だから頼房の父も朴峰ということになる。すると定実は朴峰の父と言うことになり、御曹司定実は文亀3年に初嫁を貰う予定だったのだから、朴峰は文亀4年(1504年)に生まれて、しかも嫁のいる大永2年(1522年)に没っした息子長福院を持っていなければならないのは物理的に無理がある。この長福院が15才で結婚しその年に亡くなったとして1507年生まれ。定実が頼房の祖父になるには最短で考えても朴峰3才ぐらいで嫡男を生まなくてはならなくなる。普通に考えれば頼房は房実の御孫ということになるだろう。

天文上杉長尾系図の制作時期は、こちらも片桐昭彦氏の「山内上杉氏・越後守護上杉氏の系図と系譜」を参考にさせていただくと、定実の所に死没日時が天文十九年二月二十六日が註として載っているので、制作された時期はこれ以降で、御当方御系図の山内上杉において誤りも多く、諱がわからず法名しか記載されていないものもあることから、上杉憲政が系図その他を謙信に譲る前に作成されたもの。更に狭めれば、後ろに代々の長尾氏の法名が記載されているのだが、景虎の箇所は明らかに後筆で、長尾晴景の法名は書かれていない。このことから晴景死亡前、天文二十二年二月(清浄心院は天文二十年)より前に作成された可能性があるという。
山内上杉に連なる最勝院殿御家の最後の当主頼房の法名が載っており越後守護家とその血縁上条家の断絶迄を記していることから、長尾景虎が定実の死を受けて幕府より国主として正式に認めて貰うための一環として作成されたものではないだろうか。 

この天文系図で気になるのは長福院の諱が記されていないことと上条当主であったと思われる定憲がのっていないことだ。
上杉系図、米澤家譜などはがこれ幸いと二人を併せてしまったが清浄心院越後過去名簿では長福院と定憲は別々にのっているのでこれはありえない。ついでにその米沢家譜も上げてみる。



米澤、上杉系図とも定憲を頼房の兄として載せている。房実の子定実と定明は兄弟で、定明の跡継ぎとして定憲が載っている。顕定の項目では顕実、憲房、定憲を養子とし定憲の所の註に「実は十郎定明子、顕定の養子、後定明の家督を継ぐ。」とある。定明の方の定憲の註は、日付がおかしいが「初め民部大輔顕定養子後定明の家督を継ぐ。永正六年七月二十八日顕定と同じく長森原に於いて討死す。」頼房は兄定憲養子だそうだ。頼房の註は「実定憲か弟定憲嗣なし故に頼房を以て家督と為す永正四年十一月十二日卒」この死亡日時も清浄心院名簿によりありえない。清浄心院名簿でなくてもありえないわけだけれど。享徳天文の乱(上条の乱)より前に死亡してしまっているし。『平氏山吉系図』第十四代秀計のところに「永正七年路月十二日、於越後椎谷、上杉顕定公ト長尾為景合戦、長尾方勝利、上杉方敗軍、同年七月二十日、上杉民部大輔顕定公、上条弾正少弼氏定公親子、併せて御味方之もの討死」というのがある。この上条弾正少弼氏定公親子というのは聞いたことがないが、もしかしたら本当にいた人物でこの定憲の没年の不思議は、忘れられたこの人の記憶との混同なのかもしれない。ただし山吉系図の信憑性はわからないが。

こちらの系図での疑問は天文上杉長尾系図では、無御息と書かれている十郎定明だが、この米沢家譜の系図では定憲が息子で彼が継ぎ、弟の頼房がその後を継いだことになっている。

新潟県史のは微妙に違う。系図纂のものに似ている。こちらも上条家のみ上げてみる。



ここで生年死没がわかっているのは房定の永享3年~明応3年(1431年~1494年)、定実の卒年天文19年(1550年)、頼房の卒年天文22年(1553年)。房実は房定の弟なのだから1432年以降、父清方が死亡が1445か6年、この間にうまれたことになる。この時から定実・頼房の卒年天文20年頃まで約100年間、普通世代周期は25年から30年で計算されるから、例外はいつの世にもあるが別家族が二人そろって例外で、似たような歳に亡くなるのはまれだろう。この表では頼房は房定の兄の子であることから、1430年より前、120年のスパンになってしまう。二世代目がはさまる方が自然だ。定実もしかりだが、房実が清方卒年と同時期にうまれたとして1445年誕で、定実が二十才で結婚したと想定すると彼の誕生が1480年前後になり、35前後で父となるならこちらはあり得る。だが房実が1430年代前半生まれだとしたらこちらも一人はさまったほうが自然だと思う。



以上これらの系図と前回の「上条家は謎だらけ」で書き抜いた清浄心院越後過去名簿の上条部分と上条某と書いている書状などを踏まえて考察してみたいと思う。


長くなったので次回に。                                
                        …To Be Continued


米澤 北山原殉教

2010-11-09 18:50:37 | 直江兼続
米澤キリシタンの歴史は会津転封から始まったようです。
前領主蒲生氏郷がキリシタン大名だったため、着任地にその土壌があった為だと思われます。
1611年伊達政宗に保護されていたフランシスコ会宣教師ルイスソテロ神父が米澤に立ち寄りそれを契機に信者が増えていったといわれています。

キリシタンの中心になったのは甘糟景綱の次男ルイス甘糟右衛門信綱と彼の息子ミゲル甘糟太右衛門とヴィエンテ黒金市兵衛、その友人のパウロ西堀式部政貞、マンショ吉野など。甘糟はルイス・ソテロ神父に1612年頃江戸詰中に洗礼をうけたようです。彼らは米澤に教会を造り布教に努め信者を増やしていきました。米澤の教会は神父が常にいる教会ではなく会津若松に潜んでいるポーロ神父などがときたま巡回にくるというものだったので彼らが中心になって布教していかねばなりませんでした。特に甘糟の説法は「殿談義」と呼ばれ評判であったそうです。

キリシタン禁制による弾圧が諸藩に広がる中、当時藩主であった景勝は「当領内には一人の切支丹も御座無く候」と幕府への定期報告に答えて領民を守っていました。

1623年の「元和の江戸大殉教」の後家光は伊達政宗を江戸城二の丸に呼び奥州のキリシタン禁圧を告げます。正宗は家光に屈し東北は厳しい迫害を受けることとなります。

その同じ年、景勝は生涯を閉じました。若い藩主定勝では幕府の命令をはねつけることが厳しくなっていきました。
1624年仙台、秋田、南部の諸藩で大殉教がおきました。そんなことがあって比較的緩かった米澤藩も定勝によって迫害が始まろうとしていました。そのきっかけは領内のキリシタンの実態を報告した一通の書状だったといいます。弾圧派であった家老広居出雲守忠佳によるものでした。反対に亡き景勝、直江の意をくみ擁護に回ったのが志駄義秀でした。彼は直江景綱の娘を母に持つお船の従兄弟であり、直江兼続は養女をとり直江家の娘として志駄に嫁がせたという話もありの直江の身内中の身内です。直江景綱の弟の家系篠井家と並ぶ与板筆頭でもありました。当時筆頭家老であった志駄修理亮義秀はなんとか弾圧をくい止めようと十戒を定勝に説明したり、迫害をおこなえば領内にいる三千人の家来を処断しなくてはならなくなると定勝を諫めたりしたと言います。

定勝は改宗するようにと警告を江戸から発していましたが彼らの信仰は強いものでした。1628年定勝が米澤にはいると広居の報告に基づき、甘糟等信者に対する迫害がはじまったそうです。信仰を捨てることを勧めたり、小姓であったアントニオ穴沢半兵衛は役職を解かれたりしました。12月22日の処刑を言い渡されますが、甘糟の友人でもあった志駄は最後まで迫害をやめるように定勝に進言したり、甘糟や西堀に信仰をすてるように説得したりと救済に努め、何とか延期され、荘厳なクリスマスを迎えることができたと言います。しかしそんな志駄の努力もむなしく、広居よりTime'sUpを告げられ、死刑は免れないこと悟り殉教者になることを選びます。定勝は1629年1月12日に処刑を決断。1月11日に志駄は甘糟に死刑の決定を告げる使者を送り知らせたそうです。彼はこれまで尽力してくれた志駄に礼を言い、子供達は「父上、よかった。我らの望みが全うされた。」との言葉を残したそうです。その日から数日間のうち、米澤城下、糠山、新藤ヶ台、花沢の信者53人のキリシタンが処刑されました。(この日は寛永五年十二月十八日グレゴリオ暦では1629年1月12日、キリシタンはグレゴリオ暦を使って祝日を祝っていた。)雪がしんしんと降り積もるなかの出来事だったといいます。

「北山原での殉教の様子を詳細に知ることができたのは、当時会津若松に身を隠していたポーロ神父がバチカンに送った報告書が残されていたためです。32枚にわたる報告書には、殉教者の布教活動や信仰生活、米沢藩の政情までも詳細に記されていました。ポーロ神父は、途中の事故・災害等を考慮し、同じ内容の報告書を3部作成し、それぞれ別便でバチカンに送りました。うち2部が無事に到着し、現在も保存されています。」(山形県ホームページ北山原殉教遺跡より引用)

「甘粕右衛門(洗礼名はルイス)は米沢藩の上級家臣で、藩では甘粕らの信徒に改宗するように説得しましたが、彼らは改宗に応ぜず殉教を望みました。最初の殉教は甘粕の一族で、右衛門、右衛門の2人の子とその妻子、甘粕家に使えた者などが、聖母マリアの旗を先頭に自宅から北山原まで歩きました。子供は3歳のジェスタ、1歳のルチアという幼子でした。降り積もった雪の中で処刑が行われ、その首は見せしめのため、山形へ向かう街道脇に晒されました。
 甘粕一族に続き、ほかの信者も次々と殉教し、その数は数日で57人に及びました。また、南原の糠山や花沢などでも下級武士の家族や百姓などが殉教を望み処刑されました。」(ポーロ神父の報告書、米沢広報ふらり歴史探訪北山原殉教遺跡より引用)



北山原は米澤の刑場でした。そこで処刑された人々は城下の信者達たちと新藤ヶ台の信者(米澤に近かった為)、糠山の男信者、女子供は刑場に遠いため糠山の飯田邸で7名が処刑、花沢では一家族3名が処刑されました。

北山原

ルイス甘糟右衛門信綱、

ミゲル甘糟太右衛門、妻ドミニカ、子シュスタ3才

ヴィセンテ黒金市兵衛、妻テクラ、子ルチア1才

パウロ西堀式部政貞、妻?マグダレナ

ジョアン坂斎主計、妻アンナ、子パウル5才、子マルタ3才

シモン高橋清左衞門、娘テクレ

ヨアキム皆川

ヨアキム小市

アントニオ穴沢半右衛門、娘クララ?

パウロ穴沢栄三郎、妻マグダレナ、娘二人

アレクシス佐藤清助、妻ルチア、娘イザベル

ジョアン有江

イグナチオ飯田

アンドレス山本

糠山

ルチア(イグナチオ飯田妻)

クレンセチア(アントニオ穴沢妻)、子ミゲル、子ロマノ

マリア(アンドレス山本妻)子ウルスラ

花沢

アレクシス庄右衛門、子カンディド14才、子イグナシオ1才

(53名のすべてはわかりません。違っているかもしれませんが、わかった方の名前だけでもと思い載せてみました。)


菩提寺徳昌寺の破却のコメント参照