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上条家は謎だらけⅢ 上条定憲の不思議

2011-02-26 18:46:32 | 直江兼続
上杉系図は、家督相続継承の系統を記した系図であるのだから枝葉は載っていないのは当然といえるかもしれない。上条自体が上杉にとっては枝葉と言ってしまえばそれまでだが、天文長尾上杉系図には最勝院殿御家(清方が作り房実がついだとされるいわゆる上条家)なるものが載っていて、上条家の系図が表されている。しかし上条当主であるはずの上条定憲は載っていない。彼は普通に上条当主として認識されているはず。例えば天文年、大宝寺と砂越との間に争いがあった時、大宝寺から定憲へ調停の依頼があり、本庄房長を派遣し調停させている。時代が下り大宝寺義氏の時代になると本庄繁長を通じ謙信に調停依頼を出しているのでその位置がわかろうというもの。他の系図、上杉文書(米澤家譜など)は長福院齢仙永寿と混同されているというものがあるぐらいで、むしろそれ以外皆無という感じなのだ。

そのなぜを考えるなら、「やはりその後政権をとった長尾家の政敵だったから。」ということになるのだろう。しかし政敵であることだけで普通はそんなことはないはず。定憲の消息を消したわけはなにかを見て行きたい。

天文上杉長尾系図はでみてきたように謙信初期に作られた系図なので父為景が得ていた白傘袋毛氈鞍覆の格式や息子への将軍からの偏諱など守護級の格式にけちがつかないように、あるいは守護定実の死を受け自分がその格式になるために必要な系図であったと思われるので、父の権力争いの相手を意識的に排除したと考えられる。

その他系図は江戸時代に作成されたものなのでそこまでの意図はなく、時代が下がってうやむやになってしまって、都合良く諱のわからない法名に法名のわからない諱を当てはめたぐらいのことだったのではないか。しかし清浄心院過去名簿によって長福院は大永二年になくなっていることがわかり、定憲は法名常泰泰林永安、天文五年の死亡が記されているのだ。ここではっきりと定憲と長福院は別人であるという認識が必要だと思う。

長福院ではないということは朴峰の息子ではないということ。(断言はできないが前に『上条家と長尾家 林泉寺文書と高野山清浄心院「過去名簿」に見るその関係2』でみたように定憲は朴峰の息子というよりは、為景の娘「理円祖芳」の夫だと考えている。)

では定憲の出自はどこにあるのだろう。定明の息子という系図もあれば、その注に顕定の実子で定明に養子に行ったのだという説、定明の子で顕定に養子に行き、戻って定明の名跡を継いだというのもある。しかし天文上杉長尾系図には定明は「十郎殿無御息」と記されている。

十郎殿に子供がいなかったということは定明養子説が有力ということなのか。ということは顕定の子供という方に信憑性はあるのか。もちろん長尾作為のもと定憲の痕跡を消すために「無御息」と註を入れた可能性は否定できない、定明の実子ということもあるかもしれない。


顕定は足利成氏の次男顕実を養子にし、上杉憲実の孫憲房たぶんその弟の十郎長茂憲明も養子にしていた。
なのに定憲が実子という可能性はあるだろうか。よしんば実子だとして、顕実は成氏の子であるから都鄙合体の象徴としてという政治的な意味もわからないではない。だが憲房はどうなのだろう。憲実の孫と自分の子だとしたら自分の子を跡継ぎにしたくならないのだろうか。例え政治的配慮で継承順が後だとしても顕実も憲房も顕定と10~15才くらいしか違わない。まてば我が子を管領にできる可能性が高いのにあっけなく養子にだしてしまえるものだろうか。定憲を実子としているのは北越軍記と盛衰通紀だが、北越軍記は相変わらず電波なのでいいとして、盛衰通紀は「憲実か孫上杉兵部少輔定憲を養子として、職をゆつられたり、又古河公方足利政氏の弟をも、顕定の養子として、上杉顕実と云々」とかいているので兵部憲房を書き間違ったものとわかる。上杉家譜の上杉氏系図で顕実、憲房、定憲が兄弟としているのがあるのだが、この定憲は十郎憲明であると考えた方が自然ではないだろうか。註に顕定と共に討ち死にとあるのは、「一、上条弥五郎相馳砌、寺泊要害為始長茂張陣之衆被除以来、各屋敷打明候間…云々」上条弥五郎(定憲)が駆けつけた時には長茂の陣は壊滅していたということで、ここで亡くなったのは十郎長茂。これを定憲と混同したもの、あるいは憲明の存在を知らなかったので定憲としたのではないだろうか。続群書類従上杉系図四十九には顕定・憲房・憲明が兄弟として載っているというこれもたいがいな系図なのだが憲明の註には「於越州討死」と上記を裏付ける一文がある。なので定憲の註の「顕定とともに討ち死」には憲明との混同であると言えると思う。一般的にも定憲実子説や系図の記載はほぼ間違いという認識でその信憑性が疑われている。

しかし顕定の子説にまったく目がないのかといえば、この顕定実子説を採っている森田真一氏の論文「上条上杉定憲と享禄・天文の乱」で注目するべき記事がある。清浄心院発表前であることからか告峯=朴峰、長福院=定憲であるということから始まっているので、この説は自分とは違うけれど『花押』に関するところを参考にさせていただいた。定憲の伊達宛てに永正11年、藤原憲定の名で出している書状に押されている花押が房定、顕定の花押と酷似しているというもの。定実の永正4年守護に擁立されたものに比べ明らかに房定-顕定-定憲と位置付けられるのに相応しいものだと記している。(同論文8、9P)

自分もそれに似たことを感じたことがことがある。それは法名で房定は長松院殿慶泉常泰、定憲は常泰泰林永安、顕定は扶桑名画傳に可諄、或作可諄、皓峯と号し、また常泰と号す。とある。彼は絵画を良くし、梅花無尽蔵の万里集九(柳の絵)、京華集(文殊普賢像、春日山扇図、白鷺図)の横川景三などに()内の彼の画の賛詩があるという。扶桑名画傳は江戸後期に作られたものなので本当に常泰と号したのかは疑問だが、房定と定憲の常泰という共通名は何か関係があるのではと思わせる。例えば上杉景勝がその法名を宗心と号し、謙信への尊敬の念をあらわしたように、定憲は房定に特別な思いがあるのではないだろうか。ここでも房定-顕定?-定憲ラインが確認できるのである。定憲がわざわざ常泰をいれたのはやはり自分の出自をいれたかったのではと考える。自分は長松院家(房定の家系)の出であると。

可能性を考えてみよう。定憲は房定の孫であり、なにか事情によって房定に育てられた。房定の衰えと共に顕定に預けられたのではないか。房定の孫となると嫡男定昌、次男顕定、三男房能、芦名に嫁いだ娘、確認はできないが畠山に嫁いだ娘もいたらしい。この娘が子供を連れて出戻ってきた可能性もある。以外とこれが一番可能性が高いのかもしれない。養子にいくまで母の元で育ったとか。ただそれならば、なぜ男児がいない末弟越後守護房能の養子になれなかったのか考えなくてはならないだろう。長松院家と最勝院家の密なる連携のため、上条出身の定実は長松院家へ、定憲は最勝院家へという配慮があったというのはあるかもしれない。しかし定実は聟で嫁を貰ったのだから定憲と交換しなくても十分密なのではないか。それに房能の姉妹ならば我が子を生まれ育った長松院家に置き、守護になって欲しいと願うのではないか。

顕定の子で母の出自が悪く跡継ぎにできない場合も考えられるが、定憲の母は芳雲寺殿花芳公(大永4年卒)と立派な法名である。養父定明の妻とも考えられるが定明殿上様の字はなく、房定公御娘の字もない。上杉上条播磨守御母花芳公のみだがとても出自が悪い法名とは思えない。やはり顕定の子だとするのは苦しいと思う。

前述のように房能には男児がいない。自分の子供をわざわざ養子に出す必要はない。むしろなぜ定憲を養子に取らないかの方が不思議な気がする。

残るは長男定昌の子である場合だ。謎と言われる彼の死はよくわかってはいないが、その死の際、あまりにも幼子であったので彼だけ自刃することなく房定に預けられたとしたらどうだろう。定昌の死は様々言われているが、その頃敵であった扇ガ谷家による暗殺、長尾景春によるものなどに加え、越後衆房定配下の長尾能景沼弾正あたりが疑われている。房能が糸を引いたのではと房定が疑っていたとしたらどうだろうか。例えば越後衆、房定が守護の内は良いが、定昌が白井の殿様といわれ発智、尻高など上州に基盤を持ち、魚沼周辺を支配していた者達を重用していたと思われるし、実際発智景儀は追腹をしているわけで、定昌が越後守護になった暁には上州勢にその地位を奪われ、自分たちの居場所が無くなることを危惧していたとしたら、房能が部屋住みでいることを良しとしていなかったら、房能は定昌、顕定と母が違う。(天文上杉長尾系図に別腹と記されているし、1503年に顕定は板鼻の海竜寺で母親の13回忌の法要をしているが、房能の母芳賀大方は永正元年(1504年)長尾殿へ能景を通じ普済寺を引き渡し、その修理を依頼をしている。)その母が越後守護の地位に我が子を付けたいと思っていたら。越後衆、房能、その母の思惑が一致、犯行に及んだとしたら、本当はそうでなくても房定がそれを疑っていたとしたら、房定は幼い定憲を房能に託すことはできないのではないか。一端同母弟である顕定に預け、子のない上条宗家の養子にするという路線を房定が設定していたというのはどうだろうか。上条へ養子というのは大殿房定の遺言であったのならそこに必ず収まるのではないだろうか。そうだとしたら越後では安養院瑞室賀公(定昌)のことはタブーだったとも考えられ、定昌の法名を入れるより、自分の出自を潜ませる事が出来、房定に感謝の意を伝えることが出来ると言う意味で常泰をその法名におりこんだのではないだろうか。

後は、孫ではなく房定の実子の可能性もある。房定最晩年の子で、新妻は若くて出自もよかったりして、芳賀の大方の嫉妬をかい、上条に養子に出さざろうえなかったとか。

上条家から見たらどうなるのだろう。上条家の御曹司である定実が房能を討ち守護の座を手に入れた。長松院家から庶流である最勝院家への政権交代である。上条家としたら歓迎すべきことではないだろうか。そこに長松院家の管領殿が攻めてきたのだが、定憲は顕定側で戦っている。他の上条家の人たちはどうだったのだろう。定明とか朴峰とか定俊とか上条兵部とかこの時代の書状に名前の現れる人たち。定実の父と山吉伝記の写しにかかれている定俊は椎名陣屋にいて上杉憲明こと十郎長茂と戦っているから定実方は間違いない。上条兵部は為景の書状に名前がありその花押が永正5年~7年の間に使われたものだそうで、顕定乱入前後にあたる。ということは為景と行動を共にしていることになり、為景側つまり定実側ということになるだろう。定憲の養父定明はわからない。朴峰は為景の義父だがこれもわらない。が上条の人間なら自分の家系から守護が出たことを守りたいと思うのではないか。それでも上条弥五郎定憲が顕定についているのは、やはり定憲が顕定と猶子とか血の近さとかそういう関係にあったからではないのだろうか。

はじめから定明の子なら顕定方について戦う意味がわからないし、常泰とわざわざつけたこともわからなくなってしまう。少なくとも定憲は自分の法名に中央からも一目置かれていた房定と同じ号を入れても良い地位にいたということは間違いない。
これらのことから定憲は房定の血筋なのではないかと思う。

上記をふまえ天文系図に定憲の名がないことを考察してみる。

為景は越後守護房能の排除には、定実をたて傀儡といえど筋を通したといえる。しかし定実はそれを良しとせず、宇佐美と共に反抗する。定憲もこれに荷担敗北、伊達に例の花押の書状をだす。定実を幽閉せざろう得なかったことを為景自体も困ったのではないのだろうか。永正11年の為景からの安堵状が水原、安田、大窪宛にでていて「…御屋形様御定上、追而御判可申成者也、仍如件」とある。…新しい守護が就任したならば守護の判を押した文書をだします。ということだが、この新守護に自分の嫁天甫喜清の兄弟、朴峰の息子長福院齢仙永寿を定実の代わりに立てたのではと思っている。(中央には認められていなかったと思う。幽閉中の定実宛てに幕府から書状が来ているので)守護定実と同等の法名がその証拠になるのではないだろうか。上条家、しかも自分の義兄弟である。都合の良いことこの上ない。

この時の定憲を考えると、長福院の守護代行に対しては同じ上杉であるし、自分も敗戦側だし、後ろだてをなくしたこともあり為景の娘を貰うことで和解、おとなしくしていたのではないかと思っている。しかし長福院は大永二年三月十三日に死亡。この辺から為景の中央への接近があからさまになってゆく。贈り物攻勢により白傘袋毛氈鞍覆をゲット。晴景への偏諱。直臣待遇をものにし、次ぎの傀儡を立てることなく自ら守護になろうとした。この為景の行為に国内の反発は強かったのではないか。特に中央からの段銭要求に強権的に取り立てたことで国人が困り、自分の土地を担保に大熊から要求額を借りたりした旨が書状に残っている。それらのことを上条家当主であった定憲に相談。定憲は為景を討つことを決意する。国人達という後ろ盾ができたということもあるだろう。定憲にしてみれば為景が守護の様に振る舞うことにがまんができなかったのではないか。彼よりも守護になる資格があるのは自分であるはずと。こうして上条享禄天文の乱を起きたのではないか。反発する国人達が彼を頼り、担ぎ上げた。為景は芦名家臣山内氏に対し、この盾矛は大熊が定憲との間を離間させたからとその手紙に訴えているけれど、定憲的には上杉をないがしろにする其の方が許し難かったのではと思う。天文五年の三分一原の戦いが原因で定憲は亡くなったと思われる。大将を失いながらも定憲方は勝利したのだろう。為景の引退を引き出し、定実復活を果たしたのだから。晴景が守護代になったということは、為景方の顔もたてたということだろうか。

上条家に養子に出たとはいえ、房定の直系の子孫なのだとしたら、定憲の血筋は守護になりたい者達にとって地雷であったのかもしれない。定憲の死と共にひっそりと消してしまいたいことではなかったか。房能聟ということが政権を取る正当性としていた定実にとってもできるなら中央に隠しておきたい事実みたいなもの、自分の正統を危うくするものだったのではないか。また長尾家にとっても為景と定憲の争いは長尾家を簒奪者にしかねないものだったのだと思う。定憲は、顕定の敗北、その後組した定実・宇佐美の敗北によって後ろ盾のないまま、養子先の上条当主でいることを全うするしかなかった。しかし最後の抵抗をしたがゆえ、記録にも記憶にもその存在が残った。為景は正式に幕府から白傘袋毛氈鞍覆を貰っていたのだからかまわないと思うのだが、そこ(定憲)に真の正当性があるかぎり、若き謙信・その側近達には父やお家が傷つくことを良しとしなかった。時代が近くまだそのうわさや出来事を皆が共有していたから、その存在を正式文書から消してしまったのではないだろうか。妄想の域なのだろうが、定憲の系図抹殺をこのように考えてみた。




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