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長尾政景溺死事件Ⅱ 殺人検証

2008-11-09 05:16:11 | 直江兼続
前記の背景を踏まえて政景溺死が暗殺なのか事故死なのか。殺人なら犯人は誰なのかを検証してみたい。

●上杉謙信暗殺説

殺人事件といったら動機だと思うのだが、この中で政景を殺害して一番得をするのは謙信だと思う。

上田長尾は反乱を起こした実績がある上、この時期武田側はしきりに越後有力者を調略していたらしい。(実際1568年本庄繁長はひっかかった)謙信は政景を信じていなかったかも知れない。いつ武田北条に寝返り反逆してくるかも知れない最強軍団を有する上田長尾の牙を抜く。それ以上に政景殺害にはメリットがあると思う。

第一に関東出陣が増えるにつけ交通の要衝を上田長尾に抑えられているのは不安なことではないのか。関東にでるいわゆる謙信軍道は犬伏・琵琶懸まではともかくそこから上田の政景の領地を通り三国街道や清水峠を通らなくてはならない。政景殺害で軍用道の安全確保が図られる。

第二に経済、三国峠、清水峠を抑えることで上州との流通・交易が直接管理できること。謙信の財源であったいわれる青芋。青芋は三島郡、魚沼あたりの山間部でとれ、特に最高級品は妻有の青芋なのだという。これで越後の青芋を完全掌握できる。魚沼産の米、上田銀山しかりである。

第三に最強の上田衆と言われた軍団を自由に使えるようになる。実際政景の死後すぐに謙信は黒金安朝を上田に派遣し家臣掌握努めたらしい。素早い行動に怪しさを感じてしまう。

けれど自分のなかで暗殺を企てる謙信というのを想像できない。しかも宇佐美に実行犯をなすりつけ、両方殺害とかだったら…。謙信関与の証拠がないのでこれは一応白だと思う…。




●下平土地争いで政景を恨んで殺害説

土地争いは府中奉行に裁判権があり、謙信が裁定をくだしている。その後のすったもんだは下平にしてみたら上野と本庄を恨むのはわかるが、なぜ裁定に関わらない政景にその感情を抱くのかわからない。同列の敵がいたら、下のものはまずそこに目がいく。主君を疑うのは最後だと思う。政景はことさらそれに関わったという証拠はでてきていない。下平が訴訟から政景の死までの8年間、上田衆として活躍していることを考えると突発殺人(喧嘩等)や事故はあっても、長年の恨みによる計画殺人はないように思う。しかも下平の家臣が浮かび上がってきた政景を鑓でつついたと言う目撃があるなら下平家はお取りつぶしになるだろう。そんなことはなかったことは記録からも確認できる。


●下平、信玄大熊朝秀の指示で調略するも失敗、殺害説

下平は8年間も武田に通じていながら、対武田戦で感状もらったりしていたのか?
絶対ばれると思う。これはちょっと違う気がする。

●下平魚野川で酒宴中言い争いになり転落して死亡説

あり得ると思う。ただし宇佐美が没落しているのに比べ下平に何のお咎めがなかった事を考えると下平説は?な気がする。

下平が主人の殺害を企てたとしたら、どんなメリットがあるのか。明智光秀のように天下をねらえるわけでなく、下平家が発展した跡も、謙信の奉行に取り立てられた形跡もなく、上野家成が取りつぶされた形跡も縮小された形跡もない。武田と通じていたという噂も聞いたことがない。土地争いの訴訟から8年もの間恨み続け失敗すれば改易の危機にあうことがわかっていて決行した割りに無風過ぎる。下平が溺死に関係していたとすれば、突発的ななにかで、同年、一族が佐野合戦に参陣していることを見ると事故が一番妥当な気がする。



●宇佐美、謙信の為に捨て身で殺害説

北越軍記ベースでは宇佐美が信州野尻湖に船遊びををしようと誘うわけだが、この年の春3月謙信が関東に目を向けている間武田に野尻城が奪われ、夏前に色部が奪還するという小競り合いがあった。野尻湖はこの年の武田上杉の最前線であり、船遊びなどできる状態になっかたというのが本当のところで、野尻違いの湯沢の野尻池、もしくは坂戸城下の銭渕ということになったらしい。ただ湯沢となると政景のホームだし招待したのは政景で宇佐美は客、おもてなしにたくさんの家臣や賄いがいたのではないか。相手の招待での計画殺人は難しいのではないだろうか。

最近読んだものでは『別冊歴史読本の直江兼続の生涯』の中の永岡慶之助クレジットの兼続登場でこれなんかひどくて双方の家臣が斬り合い幼い義景や景勝が拉致監禁の大騒ぎになって春日山から駆けつけた兵によって鎮圧されたことになっている。それだけ大騒ぎしたのならどこにでも噂が聞こえていく。越後全体が不穏な空気になっていなければおかしい。だが10月には関東侵攻を果たしているわけで、そんなことのあった余韻が感じられない。今時無いだろうというくらいの宇佐美定行系大フィクションというか北越軍記そのまま。

今まで見た背景でも宇佐美が一族を没落させてまで謙信に尽くすような土壌はない。守り役をしていた本庄実乃ならわからなくもないが。しかも遠ざけられているのを感じているのに。むしろ招待されて酒に酔い、謙信への愚痴などこぼしながら悪酔い。過去のわだかまり噴出、喧嘩になって殺傷転落死のほうがある気がするのだが。此の事件後、宇佐美家は越後から名前が消えるので何らかの処分があったのではと考えられ一緒に亡くなったのはやはり宇佐美なのではないかと思う。

謙信側のメリットに比べ他の2人は計画殺人を起こすほどの動機が弱い様に感じる。宇佐美が遠ざけられていることを嘆き一族のために、あるいは謙信に振り向いて貰うために政景を殺害したのだとしたら、その後の宇佐美は報われていなさすぎてどうも納得できない。


上杉御年譜では酒に酔って池に転落溺死とあくまで事故死。
自分もやはり事故死ではないかと思う。二人だけで乗っていたわけではないだろうから、船が転覆したのではないかと思う。おぼれる人を助けようと自分もおぼれてしまう話はよく聞く。助かった人もいたのではないだろうか。旧暦7月5日はいまの8月25日頃、お盆を過ぎると今でも遊泳禁止となるところは多い。山間部の湖は水温が低かった可能性は高いと思う。酒も飲んでいたわけで。転覆し、一人が心臓麻痺一人が助けようとして巻き込まれる、あり得ないことではないと思う。

ただ政景の小姓であった国分彦五郎胤吉の母の証言というのがあって、この事件で政景の近習?小姓?であった国分彦五郎胤吉が政景と共に亡くなっている。正胤と胤成の兄弟を連れ息子の遺体を引き取りに行くと遺体は胤吉のものではなく政景のものだったという。政景の肩には切られた跡があったと寛永12年8月胤吉の母が死去の際遺言として残したという。

これを信じると船上で喧嘩になり殺傷した可能性も捨てきれなく計画殺人よりは過失致死?傷害致死なのではないだろうか。事故死でないなら宇佐美は謙信によって改易され以後名前が出こなくなるのもうなづける。

この証言は『国分威胤見聞録』にでてくる話で国分威胤は18世紀の人。『米沢里人国』を書いた米沢藩の有名な文人なのだそう。祖先の話を語りついできたとはいえ、なにぶん古い話の書留らしく、寛永12年(1635年)に死去した永禄7年(1564年)に3児の母ってどうよということになる。胤吉小姓15歳だとして、この母も胤吉を15歳で生んだとして101歳という超高齢になってしまう。胤吉は前妻の子であったとして考えると2児の母として、永禄7年当時18歳前後とすると89歳ぐらいでおかしいと言うほどでもなくなるのだが。ちなみに胤吉の父胤広は1563年に上野沼田で35歳で死去。連れていた2児のひとり正胤は兄の胤吉死去の後国分家を継ぐ。上田五十騎組、1587年に死去、その後息子の胤久が継ぎ1645年に死去した。定勝の信頼厚く、中之間年寄りや信夫福島奉行など歴任している。弟胤成は分家、大阪冬の陣で活躍1620年に死去。

船遊び中に興にのり泳ぎだして心臓麻痺で死去というのもあったが、いくら水温が低くても、酒が入っていたにしろ晩夏で真冬じゃないんだから、一度に3人も心臓麻痺を起こすものだろうか?高齢の宇佐美が心臓麻痺。政景、若年であろう国分が助けようとして溺死ならあるのかも。

自分の心証としては宇佐美の没落をかんがえると彼と船遊びの園遊会中、突発的な喧嘩殺傷、転覆による溺死が一番可能性が高いのではと思う。



晩夏。友と月を愛でる園遊会で湖水に何艘かの舟を浮かべ歌や酒で振る舞い、ほろ酔いのころ湖水に浮かぶ月を取ろうとして転落、溺死と書いている本があった気がするが、李白みたいでこれだったらいいなと思う。


       






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3 Comments

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謙信暗殺説 (坂戸守)
2012-02-27 12:47:26
誰が犯人か、大変興味のあるところですね。
謙信公の関わりを考えると、川中島合戦時に
謙信は春日山の留守役を政景に任せています。自分の城を暗殺しようと思う男に任せるかどうか??あの有名な出奔事件の時も、政景の引き止めに謙信も帰ることを決めた、という手紙も残っているようですし、謙信は政景を信頼していたのではないかな?と思っていますがどうでしょう。
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殺人検証などと書いては見たものの (rumix)
2012-02-29 03:53:35
謙信暗殺説は自分の中にある謙信像と一致しないというか回りくどいやり方で誰かに命令して殺させ罪を着せるとかそういう謙信を想像できないんですよね。
で後世の作家陣もきっとそうで宇佐美が謙信の心を慮って殺人に及んだみたいな書き方をしている。でも政景の死で得をするのはやっぱり謙信だとみんな思うからこういう物語が出来たと思うわけで。そのほうが面白いし。
実際のところは下平にしろ宇佐美にしろ、謙信の意思とか関係のないところでの喧嘩はあったかもしれないけれど両方とも亡くなっているので事故処理にしたぐらいのことだったんだと思うんですよね。自分は突発的な事故だったのではないかと思っています。

でも謙信は政景を信頼していたかというと違うンじゃないかと。彼はみんなにNo.2だと思われいたと思うんです。謙信を連れ戻す役とか有能だったようだし。その彼がもし武田もしくは北条と組んだらとか、彼らの息のかかった上州武士と組んだらとか考えると地理的にも彼の持っている軍団的にも一番危険な人物です。彼に気を遣い彼を優遇しないわけにはいかないのではないでしょうか。当然可愛がっていたとはいえ景勝は人質相当だったと思います。姉婿を頼りたいと密かに思っていたかもしれないけれど戦国の世ですし信頼まではいかないのではと考えます。
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謙信暗殺説 (坂戸守)
2012-02-29 13:04:01
確かに、やるかやられるかのこの時代ですから本当の信頼ってどうなんだろう、って思います。長尾同族とは言え、何度も敵対してきた仲ですし、姉婿なんという現代の甘っちょろい感覚ではなかったのかもしれませんね。でも同じ血が通った人間ですから、少しは信頼をしていた、と信じたいですね。景勝へも字が上手くなったと、褒める手紙も出しているようですし。少し甘っちょろいですかね?
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