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縁的世界 謙信と古志長尾

2009-07-03 14:46:50 | 直江兼続
栖吉城主、古志十郎こと長尾景信は、永禄4年(1561年)謙信が上杉姓引き継いだとき、彼も上杉姓を許され上杉景信となった。なぜ当時彼だけが上杉姓を名乗れたのだろうか。
結構不思議なことだと思うのだけれどなにか定説はあるのだろうか。

謙信と景信の直接的な接点は、天文12年(1543年)、元服してすぐの幼き謙信が古志に行き、栃尾城主になったことだろう。謙信の母青岩院は古志長尾、栖吉出身だと思われる。母方の叔父さんというわけでそのことと何か関係があるのか。謙信と古志そして長尾景信について考えてみたい。

この頃の謙信について2、3当たってみると下記のように書いてある。

長尾景虎、享禄3年1月21日(1530年2月18日)越後守護代長尾為景の末子として誕生。
母は栖吉城主長尾房景の娘(青岩院)。幼名虎千代、通称平三、元服して景虎と称する。

次をWikipediaで参照させていただくと  「天文5年(1536年)に兄の長尾晴景が家督を継ぎ、虎千代は城下の林泉寺に入門して住職の天室光育の教えを受けたとされる。実父と仲が良くなかったため、為景から避けられる形で寺に入れられたこととされている。天文12年(1543年)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、中越の長尾家領統治のため栃尾城に入る。 となっている。

このwikiだけではなんなので他も見てみたいと思う。この文を1とさせていただく。

2.花ヶ前盛明著中世越後の歴史より「兄の晴景が病弱で武将としての器量がなかったため、揚北衆らは晴景の命令に従わず、わがままな振る舞いの限りを尽くした。十四歳の景虎は中郡の守護代長尾家領の確保と揚北衆牽制のため、敵の群がる三条城に、ついで栃尾城に移った。

3.新潟県長岡市の公式HP栃尾エリアの「戦国の聖将 上杉謙信の栃尾で旗揚げ」ページ父為景の跡を継いだ兄の晴景は、天文12(1544)年に14才になったばかりの景虎を中越地方の支配強化の為に栃尾城に向かわせたのです。  幼い景虎が中越地方の豪族の上に立つためには、大きな力が必要だったはずです。そこで古志郡司であった古志長尾家に形式的に養子に入るという形をとり、郡司という公的権力をふりかざして、栃尾周辺の豪族を押さえようとしました。ところが景虎がまだ幼かったので、近郷の者たちが栃尾城に向かって戦をしかけてきたり、景虎の命に背いて反抗するものもありました。このため、景虎は栃尾城将本庄実乃らを従え旗揚げをし、各地で戦いを繰りひろげました。」

4.講談社「日本の歴史13一揆と戦国大名」より「謙信は兄から命じられて蒲原郡などにおもむき、古志郡司の権限を受け継ぐ形でその平定に成果をみせた。」

5.吉川弘文館で出ている戦争の日本史10の「東国の戦国合戦」にはこう書いている「家督を継いだ兄晴景の越後統一構想のもと、天文十二年に「古志郡司」として栃尾城に配置され、中越地域平定にあたるようになった。」


たいがいどのテキストもこんな感じなのだが、これらの文章になんだか違和感を感じてしまうのは自分だけなのだろうか。元服したばかりの子に荒れているという中越の長尾家領の統治をさせるとか。しかも古志が郡司権をもつ栖吉の支城、栃尾にはいって。古志側も郡司権をみすみす府中に手放すようなことをするのか疑問である。(父と仲が悪い云々もつっこみところだが無視…6・7歳で寺に入り親元を離れ勉強、12・3歳で寺を出て元服、14・5歳で初陣が普通のコースだそう。謙信はコース通りで愛されていると思う。)

この時代の越後は、鎌倉幕府から派遣されてきた地頭がそのまま国人領主となった上杉や長尾より古くからの家が多い揚北の国人衆、北条、安田などの毛利一族、斉藤氏、新田一族などの土着豪族が守護上杉の家臣となり地頭として領主化した者。あるいは古志長尾、上田長尾などのように一族だが、時が経つにつれ守護領、管領領など違いはあれど郡司領が支配地域となり領主化したものなど様々で、それぞれ独立の気概を持って越後の地で守護上杉の下で緩く結びついていた。それに越後守護の家臣、守護代の家臣など様々な思惑で動いていた時代である。

古志長尾は上田長尾と同じく御名字衆ではあるが、古志に郡司権をもつ自立的国人領主であるはずだ。房景の時代、実質越後国守として振る舞っていた為景でさえ、越中に出兵を依頼するとき、畠山尚順の越中一部割譲の手紙を披露してまで丁寧にお願いしなくてはならなかった。
少し前の古志長尾をみれば大永7年(1527年)に「豊州段銭日記」を房景が作成(豊州=豊前守房景)。享禄4年(1531年)、越後享禄天文の乱通称上条の乱の次の年に「越後国衆軍陣壁書」に十郎で署名しているので、この間に房景が引退し、景信が城主になったと思われる。
府内も為景が上条の再乱(1533年)により引退(1536年)。家督を晴景にゆずり、新体制に入っている。

謙信はなにせ戦国の聖将、毘沙門天の生まれ変わりなので、虎千代君のままでも周りに群がる悪い敵wを蹴散らしちゃうのが当然な気がしてくる。だけれども普通に考えたらこの時の虎千代は寺から出たばかりの13歳。海のものとも山のものともわからないうちにそれを期待して前線基地設定の中郡に派遣されたなどちょっと信じられない。

晴景には動かせる駒が彼一人しかいないというのならいざ知らず、黒田秀忠の謀反は天文14年、彼に殺されてしまう晴景の弟達長尾景康、景房は景虎の栃尾入りの時(天文12年)は生きていた。(この弟達の存在を疑問視する声があるが定実の書状に晴景および御舎弟達とか幼き方々とかの複数人の表現があり、弟は景虎一人ということはないと思われる。)

揚北、中郡を抑えるというのなら彼らの内の誰かでも良いのではないか。少なくとも景虎よりも年上なのは確かなわけで。しかも中郡はともかく、揚北衆の抑えなら三条城のほうが最前線基地として適当ではないのか。三条は自軍であるし城代山吉と連携してことにあたればよい。守護代晴景のいうことも聞かない国人衆に13,4の子供が出向いていってもにらみをきかすことなどできないと思う。そこで古志との提携を考えたのなら、むしろ景虎は人質要素のほうが強いのではないか。守護代と地方郡司なので人質はないだろうが、上田に仙桃院を嫁に出した如くの政治的な養子縁組はありではないか。心証は3番の説に近いが形式的養子では古志側にメリットが感じられない。守護・守護代側と古志と一枚岩になって初めて機能する政策だと思う。正式な養子としてだされたと考える方が普通ではないだろうか。養子として迎えるなら古志側だとて血縁のある方が良いだろうし、末子でもある彼が選ばれたとて不思議ではないと思う。(三条城に入り次に栃尾に移ったと表現されている文があるが三条こそ本貫だろうから元服のために行きその礼として日蓮宗本成寺の寺領を安堵したのではないだろうか。)

自立的国人領主は自分たちの権利が脅かされようすると即反旗を翻すのは為景引退劇で明らかなように(「越後国衆軍陣壁書」に署名した安田・北条・古志十郎をのぞくほぼ全員が、細川失脚により為景に幕府の後ろ盾がなくなったとみるや半年も経たないうちに上条方に乗り換えた。強権的な段銭徴収で自領や自治権を取り上げられる心配が出てきたことが原因とされる。時代は下がるが、古志だとて例外ではない。房景が幼いのを理由に府内に蔵王堂をとられたとき、永正の乱、顕定対為景戦のとき、初期の頃は顕定につき蔵王堂を攻撃している。)
戦国の鬼為景ですらお願いしなければならないものを、求心力のない晴景の命令で一時的であろうとなかろうと古志の権利である郡司権を簡単に取り上げることはできないし、古志側だとて簡単に手放すはずがない。双方にメリットがなければならない。なので府内と古志との同盟ならば正式な養子と考える。

むしろこの場合だったら、古志側が優位な立場で養子縁組を成立させたと考えられるのではないか。
謙信が栖吉に入らず、栃尾に入ったのは古志の軍事力に頼らざるを得ない晴景の弱さを表しているのではないだろうか。だから景信もしくは古志長尾を継ぐ者が本城である栖吉に、守護代の御養子君は栃尾の支城に、なのではないだろうか。


あるいは政治的養子なら、晴景が守護代を継いだとき、上田の長尾政景と揚北の加地春綱に妹を嫁がせ融和を図った如く、この時期に謙信を古志に養子に出すことを決めていたとは考えられないだろうか。
謙信は末子であるし、古志十郎は叔父甥の関係でもある。虎千代元服の折には古志に養子に出すというような約束事があったのではないだろうか。常変わらずの同盟者としての養子縁組は有りそうな気がする。


そもそも栃尾に入った天文12年(1543年)は、揚北、中郡はそれほど乱れていたのだろうか。揚北は確かに守護定実の養子問題で乱れていたと思うが(定実姉の孫の伊達時宗丸を嗣子にしようとしたが中条藤資の娘が時宗丸の実母の関係から、彼が突出するのをいやがった他の揚北衆が中条に戦を仕掛けた。この戦のどさくさで本庄の城を鮎川が乗っ取るという便乗犯もいて長引いた)伊達天文の乱がおき養子の話が立ち消えになると揚北の争いも沈下した。大体天文10年ぐらいで落ち着いたはずである。

天文11年養子を取ることを断念した守護定実が引退の起請文を晴景に送っている。
「晴景事者不申及、於御舎弟達、別条有間敷候、今度ふつけいと申も、連々世上大くつ安閑無事、残世過し度計候、此儀偽候者…云々」(上杉家文書)

天文11年以降定実の隠遁で、権威の薄れた晴景に従わないものが出てきたとしても
不思議ではない気はする。戦乱後の揚北などきっと興奮状態で国府への出仕など無視状態納める物も納めなかったなど容易に想像はつくし、謙信が出奔したときの手紙に「其以後兄候晴景病者故歟、奥郡之者、不遂上府、号間之宿意、我儘之働無際限候…」(歴代古案)
国府に対して上記のことはあったかもしれないが、だが近隣との土地争いや惣領家対庶子家の争いなど揚北内での争乱に終始しているように見える。

この頃の中郡はどうだったのだろう。

敵の群がる三条城だの栃尾城とかいうが、誰が攻めてきたというのだろうか。栖吉や栃尾を囲む城は、三条、護摩堂は府内長尾の城代山吉、与板の直江、見附は三条長尾の家臣といわれる丸太、蔵王堂は、蔵王堂新次郎、為景の弟為重?といわれている。枡形城は甘粕?稗生の平子、夏戸城は志駄、北条城の北条、下田長尾の高城など府中での奉行衆や御身内衆が多い気がするのだが。

謙信の軍記物での初陣として有名なのは刈谷田川合戦だが、敵の名が長尾俊景、黒田秀忠の時点でフィクション臭が強い。長尾俊景は永正13年の定実、宇佐美、大熊らが為景の専横に蜂起したときに定実側として立ち、上田の長尾房長の家臣に討たれている。黒田秀忠は天文14年に謀反を起こすのでこの時点で暴れていて貰っては困る。彼は府内の奉行衆であったのだから。

だが謙信が幼いのを侮りちょっかいをかけてきたというのならこの刈谷田川沿いの豪族は有りそうな気はする。長尾平六俊景の一族は府内長尾の分家で長尾邦景の子、実景の弟の益景?or豊景?といわれている。この一族を三条長尾という場合もある。見附市小栗山町のあたりにあった小栗山城主である。彼の子孫とか、その家臣見附城の丸太氏あたりと境界争いをしていたとしても不思議ではないし、長尾俊景は守護上杉派であったわけで、結果的に越後を守護代長尾に乗っ取られた形になった守護派や守護家臣達は面白くなかったとは思う。天文14年の黒田秀忠事件はそのような者がくすぶっていた結果かもしれず以外と天文15年自城黒滝城に頭を丸めて引退していた黒田秀忠が再び謀反を起こすのは彼らが焚きつけたのかもと想像してみる。そしてこの黒田討伐が謙信の実力評判を更に高めることになったわけで。

この天文15年の反乱を元ネタに初陣伝説ができあがり一万の大軍が押し寄せたことになったのではないだろうか。

謙信の出奔時の手紙の「幼稚之時分、後又無程古志郡ニ罷下候所、見懸若年、近郡之者共從方々向橡生、取立地利、或不慮之致動之間、及其防戦候、」(歴代古案)
この書き方だと入部してから周りが攻めてきた風で、敵が群がっていたとは思えない。
「先年不慮之鉾楯有之節被抽忠信条無比類候、因之当寺為開基之験般若院并法用寺分之事宛行之畢、永代不可有他妨者也、仍如件、  
天文甘辛亥3月2日 景虎花押 常安寺」

この天文20年の常安寺の安堵状でも「何年か前の思いがけない戦…(先年不慮之鉾楯有…)」とあるように天文12年の14歳から天文17年の19歳の間に思いがけない戦があったのであって乱れていた土地を平定しに赴いた感じは受けない。

謙信が栃尾に入った天文12年本当に敵が群がっていたのか?

謙信の出奔時の手紙から類推、先に書いた北越太平記の刈田谷川合戦、もしくは北越軍記の影響でそのようなことがあったに違いないと思いこんでいるということはないだろうか。
北越軍記もなかなかでこの場面は敵に囲まれた幼き謙信が、宇佐美定行に自分の軍師になってくれと頼みに行くという名軍師誕生のハイライト場面だ。敵が強大なほどそのシーンは引き立つだろう。物語の言うように中条藤資が色部や本庄を扇動して襲わせたなど有りようはずもなく、揚北の一番奥からどのくらいの城を踏み越えてこなくてはならないのか。揚北、中郡の城主全部を抱き込んでいたとするなら、三条山吉も、古志長尾も消滅、越後を二分する戦いになっているだろうと思われる。

その時代のことが不分明であれば、自分たちにとって気持ちの良い軍記物が歴史として忍び込むことはままあることな気がする。謙信の軍神ぶりを誇示するために古志の自立性を無視した書き方はやはりいかがなものかと思うのである。

だが黒田秀忠が謀反を起こしたとき、栃尾の兵を引き連れ糸魚川まで出兵し、戦果を挙げたのも又事実で、天文14年のそれまでの間この年若い主人に心服する戦もあったと見るべきで、謙信の言う「幼稚之時分、後又無程古志郡ニ罷下候所、見懸若年、近郡之者共從方々向橡生、取立地利、或不慮之致動之間、及其防戦候、」は初陣にふさわしい何度も繰り返されていた近隣との土地争の戦闘、小競り合いを指すのではないだろうか。(先ほどの見附あたりを軽く疑っているのだがどうだろう)

13,4の景虎君には大変だったろうが、それなりの御子弟のうちの子は落としどころを知っているようなぬるい戦で初陣を体験させるというのが通例であったという。景虎は府中と古志を繋ぐ大事な御養子君である。古志側だとてそれくらいの気遣いはあっても良いと思う。この出奔時の手紙は謙信の幼き頃の記憶であるということを忘れてはいけない気がする。もちろんそこで非凡な才を発揮して目覚ましい活躍をしたのは疑うべくもなく、本庄実仍はじめ栃尾家臣達も「これで初陣だなんてっ!!これぞ毘沙門天の生まれ変わりっ!!」と思ったに違いないw。その下地があって、黒田討伐で中条、高梨など大身の豪族が注目し、府中の家臣直江や千坂などが担ごうとしたきっかけになっていったと思われる。

話が横にそれてしまったが、揚北も中郡も、一応は天文10年頃には大きな戦は収まっていたと思う。力ない国守の下で国府への出仕も滞り、各地で土地争いや水争いなどの小競り合いが頻発し静めようとしても言うことなど聞かない国人領主がたくさんいたかもしれないが、栖吉や栃尾が群がる敵に囲まれていたとは思えない。だが確かに不穏な空気に充ち満ちていただろうから、その抑えとして古志を頼り、同盟の証として謙信を養子に送ったとする方が納得できる。


1番から5番までもう一度見直してみると、これらの文に対する自分の反発がどれも古志が自立的国人領主であると認められていない、完全に府中の駒、被官として扱われていることにある。

為景の失脚の原因とか後の謙信の国人達から受けた苦労のことを考えると古志が被官化していたとはどうしても信じられない。特に5番など晴景が古志から郡司権を取り上げ14歳の景虎に「古志郡司」として栃尾城に配置など普通に考えてできるのか。そんなことをされたらむしろ古志自体が反乱の火種になりそうだと自分は思う。謙信の時代でさえ上田衆の感状は政景がだし、御の乱の時ですら与板衆の感状は直江信綱が出している。晴景の時代、大身の国人領主の被官化に成功した話など聞いたことがない。

府中は礼節を尽くし、謙信は景信の正式な養子として古志に行き、景信を父としたからこそ、謙信が上杉政虎になったとき、父として上杉景信になったと思っている。例えば「諸国衆御太刀之次第」を見れば直太刀の越ノ十郎殿が第一位であり、上田長尾や下田長尾は披露太刀で第7位と第10位でありその他更に下に長尾姓がみえるので、長尾姓(元含む)で越ノ十郎のみ一門、後は長尾姓でも全部国人衆扱いになっている。この太刀披露での古志と上田の差で政景の扱いが論じられることがあるが、養父(一等親)と姉婿(二等親)の差だとて大きいに違いない。越後の席次は感状の数で決まるという。揚北衆の大身が上にいても決して不思議ではないし、御一門扱いの古志以外、つまり長尾の中では上田政景は筆頭である。古志だとて謙信との縁がなければ国人衆の似たような位置にいたのではないか。

この時点で謙信と古志とが一体だからこそ、天文12年でも一体であったと勘違いされ古志が独立した勢力であったことを忘れて論じられている気がするのだがどうだろうか。

大身の国人領主で同盟者であったからこそ、養子として預かり、息子として守護代晴景に養子にやり、謙信の揺るぎない後ろ盾になった。しかもそうすることで、謙信と実家としての古志の間の一体感は維持されるし栃尾城主の権利も謙信は手放していなかったのではないか。だからこそ感謝と尊敬と孝をこめ上杉姓を景信に与え、御一門として扱ったのだと思う。


しかしこれは古志が健全に機能していた場合の考え方で古志が乱れていた場合もあるのではないか。次で考えてみたい。どちらにしろ古志の正式な養子となり、父として上杉姓を与えたという考えは変わらないけれど。

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5 Comments

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初陣 (通りすがり)
2009-11-02 14:44:43
 よく分からないけど、
初陣が元服してすぐってよくありますよね。
例えば武田信玄なんかも13~14歳だし。
甲信越地方の武将(大名筋の子弟を預かる)お寺って、曹洞宗(禅宗)が主なので、教育は基本漢語で行われている。
そこで行われる武将の子弟の必要な教育は、思想は帝王学の朱子学(+仏教)を教わり、そして必須いの文武(武略(兵法か?)+武芸)をも習うのである。そのような意味で、「大名(武将)にとって寺院とは、子弟の武将としての大事な教育機関であった」
だからこそ元服を済ましてすぐの初陣、そしてすぐの活躍も見込めるのである。(ましてや百戦練磨で、上役の守護や関東菅領をも討伐している為景の子である(+祖父・能景も最強))
 一般的には、謙信幼少の頃の越後は大変乱れており、10歳前後の父・為景の葬儀の際には、謙信は甲冑を付けて出席しなければならなかったし、だからこそ、最初に入った栃尾城(?)で、元服したばかりの謙信を国人衆達が攻め入るのである。
黒田城主の謀反の際には、名門衆に養子に入ったような武将達も共謀して反乱を起こすのである。
それらを次々と鎮圧して19歳で越後国を統一し、滅んだ越後上杉の代わりまで果たす謙信(当時、景虎)は最強なのである。
        以上
 すいません。とても詳しいそちら様に対して、ともすれば まだまだ浅い知識の自分が、生意気に持論を展開してしまいました。
失礼があったら申し訳ありません。
 それでは これにて失礼致します。
返信する
軍記もの (rumix)
2009-11-03 22:33:05
元服してすぐの初陣って結構ありますよね。
謙信もそうだと思います。そして煌めくような才能を本庄実仍などに見せつけたのだろうと思っています。ただ軍記ものそのものの規模で戦がおこっていたら、御の乱よろしく越後を二分する戦いになっていたのではないかと思ったのです。そうはなっていないということは反乱の規模もそれなりなのではないか。背景はどうなんだろうと考えてみました。国人衆が次々栃尾を攻めるとしたらそれはどういう意味を持つのだろうと。でまわりの国人衆の面子をみると彼らはちょっかいを出す立場の人たちなのだろうかとか、政治的な立場はとか。所詮推論ですので間違っていることは多々有ると思います。いろいろな意見を教えていただけると自分の狭い考え方を気づかせてもらえるのでとてもありがたいです。またよろしくおねがいします。
返信する
返信 (通りすがり)
2009-11-10 05:28:12
 ご丁寧な御返事有り難うございます。
つたない知識ですが、またお邪魔して勉強やコメントをさせて貰うかもしれません。
その時は、こちらこそよろしくお願いします。
返信する
またお邪魔しました (通りすがり)
2010-10-25 19:19:16
 こんばんは
調べものをしていてこちらに行き着きました。
 一昨年は本当に失礼しました。
自分のコメントを読み返したら恥ずかしくてしようがないです(^^;
 恥ずかしながらそれだけ謙信公に入れ込んでいたんだろうな、と思いました。

管理人さんは一次資料の原文などをそのまま読めるのですね。羨ましい(^^ゞ
 また機会がある時、記事を読ませて貰って良いですか?
管理人さんは文も読み易くて冷静な分析で、為になる記事と思います。

それでは、またの機会に。
お邪魔しました。

追伸 なぜ長尾俊信は、御館の乱の時に北条景虎方に着いた(担ぎ上げた?)のでしょう?
謙信との結びつきが密ならば、景勝方に着くと、素人の自分は思ってしまうのですが…。

駄文、長くなってすみませんでした。
返信する
又お越し頂いてうれしく思います。 (rumix)
2010-10-27 01:16:52
たぶん私の謙信に対する皮肉っぽい言い回しにかちんとされたのかなあと思っていました。照れちゃうんですよ。上杉家好きすぎて。見透かされるような感じがしてことさら斜めから書いてしまうというか。馬鹿みたいですけど。やばいと思って余計なこと付け加えたりして、だから読み返すとほんと恥ずかしいです。

俊信とは景信のことでしょうか。
景信は古志長尾出身、景勝は上田長尾出身です。
謙信は初期の頃は自分の後盾である古志長尾を頼りにしていて、養子先の景信を上杉に格上げし、古志被官であった庄田定賢、謙信の守り役本庄実乃などを奉行に据えていました。しかし領主として成熟してくるに従い奉行衆の顔ぶれも直江、斎藤、柿崎、北条と違う者になって行きました。特にお気に入りだったのは近江から連れてきた河田長親です。景信を上杉にしたことであいた古志長尾の本貫栖吉を彼に与え栖吉衆を彼の家臣にしました。旧古志長尾はある意味本庄実乃の栃尾と分断された形になり、景信の知る古志長尾は無くなってしまった、上杉を継いだ自分はどうすることもできずその失望感は半端なかったと想像できます。そこへライバル上田長尾の子供が謙信の養子としてやってきてあっという間に御中城様になり軍役筆頭になるわけです。ちなみに景信は3位。
謙信が亡くなり景勝が上に立てば上田衆に権力が集まり、更に古志は影が薄くなる。起死回生をねらうには景勝を倒し自分たちが中枢を担うのだと考えたのではないでしょうか。それには担ぎ上げる駒がいる。それが景虎だったということだと思います。
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